男:白黒③♯
翌日、美香と出た店の店長に連絡を取ってみた。また姪と一緒に出させてくれと電話をしたら案の定「当面他の人でスケジュール組んじゃったんだ。悪いね」と大して悪いとも思ってなさそうに断られた。美香にそのことを伝えたら「じゃ、他のお店探して」と一蹴されてしまった。
有名でもない若手のピアニストに「姪と出演させてくれ」なんて頼める先がいくつもあるわけない。取るべき行動は一つなのは分かっている。半日かけて自分の気持ちと折り合いを付ぇた後、松原さんに連絡するためにしぶしぶメールを立ち上げた。松原さんともあの日以来連絡を取っていない。こんなことになるなら先にもっと適当な連絡をいておけば良かった。思えば俺はどこもかしこも放りっぱなしの事案だらけだ。
新規メールを作成して松原さんへ事の経緯と演奏の依頼をする内容を打ち込んだ。少し長文になってしまったにも関わらず返事はすぐに届いた。
次の日、呼び出された俺は松原さんの店に来ていた。
「いいように使われてるんですね」
カウンターで料理の仕込みをしながら松原さんが言った。上等そうな肉が切り分けられて塩をまぶされている。
「馬鹿らしいのは分かってます。今回だけでいいですから。お願いします」
丁寧に角度をつけて頭を下げた俺を見て、松原さんは仕込みの手を止めた。
「柚木君さ。ちゃんと後先考えてる?」
「……一応は」
「ステージに立つってことは子供の遊びでできることじゃないんじゃない」
この前は偶然ステージに上がる機会を貰ったかも知れないけど、今回は明らかに美香が自分の良く出ステージに立とうとしている。沢山の演奏家が毎日の這いつくばるような努力の結果を披露する大切な場所だ。本当は遊び気分の中学生なんかに使わせていい場所じゃない。でも、こんな子供を連れて行かなくてはいけない事態を前いたのも俺だ。
「分かってます。ステージに立てるレベルまで練習させます。一度だけ、お願いします」
「その子が今回だけで大人しくなる、なんて、有り得ないと思わない? これから脅される度に、そうして全部叶えてあげるつもり?」
「そんなつもりは……」
「でも実際、皆に言い振らしちゃうからって言われたら、断れないでしょ」
「今回だけだって約束はしたんです。流石にこれ以上は姪も……」
「そんな保証がどこにあるの。年頃の女の子なんて、加減なんか知らないんだから」
「だってそもそも、姪のほうから誘ってきたんですよ」
「未成年の安い挑発に乗った時点で、柚木君が悪いわ」
その通りすぎて、ぐうの音も出ない。
「それに、次は私が脅しにかかるかも知れないわよ? 私だってあなたとしたもの」
松原さんの目が細まって口角が持ち上がった。
「だって、松原さんとは……その……しましたけど。お互い大人だし、合意だったじゃないですか」
「事実なんて証明できないじゃない。柚木というピアニストに無理矢理襲われたって、この辺りの界隈の人達に噂を流せばいいだけよ」
「勘弁してください」
ただでさえ駆け出しのピアニストにそんな噂がついたらまず仕事は貰えない。
「もちろんそんなことしないわよ。うちの看板にも汚れが付くし。でも、そいういう可能性もあるってこと。失うものがない彼女なんかは特に」
「だとしても。どうすれば」
「とりあえず、うちで彼女のステージを設けてもいいわ。私もその子と話してみたいし」
「すみません、ありがとうございます」
「ねえ柚木君」
「はい」
「その姪っ子ちゃん、血は繋がってないのよね?」
「はい」
「そう……」
「どうしてですか」
「例えば、相手が血の繋がってる人だったら。柚木君はどうした?」
「え……?」
「本当の兄妹だったら」
「なんの話ですか」
「……ただの例え話よ」
軽い笑顔を見せると松原さんはまた仕込みの作業に戻って行った。
折角やるなら形を整えたいという松原さんの意見で、事前に宣伝をすることになった。簡単なポスターを作って店内に貼ってくれるそうだ。出来上がったポスターの画像をメールで貰ったけど、何とも前衛的な絵柄で俺にはよく分からなかった。美香はそれを見てはしゃいでいたから俺がイラストに疎いだけなのかも知れない。
本番までの間松原さんと演目を決めたり美香の歌の練習に付き合っていたお陰で、ピアニストとしての自分の練習時間がほとんど取れなかった。これでまた他の奴との差が開いてしまった。そのことに焦る反面、どこか肩の荷が降下ろせた気でいる自分に気が付いて情けないと反省した。
松原さんのお店に来るお客さんは常識のある社会人の男性が多いと聞いて、この前よりもっとシックで大人っぽい曲を選んだ。美香には難しいかと心配だったけど、練習で聞く度に確実に歌いこなしてくるあたりは流石だった。見栄と努力の賜物だ。
二週間ほど練習をして本番の日を迎えた。学校が終ってから美香と実家で待ち合わせをて松原さんの店に向かった。道中美香は軽くスキップしながら歩いている。本番前にその気軽さで居られるのが羨ましい。本番で歌う曲を口ずさんでいる。
「ちゃんと前見ないと危ないぞ」
美香は跳ね気味の足を止めて横から俺を見上げた。
「ゆんにい美香ね、友達に羨ましがられてるんだよ」
「へえ。なんで」
「美香だけ特別だから」
「特別?」
「ゆんにいが『ジャズピアニスト』で、そのお店に遊びに行ってるってだけでも凄いのに今度は自分がステージに立っちゃうんだよ? 特別じゃん」
「……なら失敗して恥かくなよ。お客さんレベル高いぞ」
「へーき、へーき」まるで緊張感のない返事に少し腹が立った。
電車を降りて人の行き交う道を進んだ。店の扉みはこの前と同じように『準備中』の札が掛けられている。それを見て美香が札を指さした。
「準備中ってなってるよ。入れるの?」
「鍵は開いてるから」取手を握ると問題なく扉は開いた。
「なんか関係者ですって感じ」
扉を開けて俺が先を促すの待って美香は中に足を踏み入れた。
「すみませーん……」
「はい」控室の方から松原さんが出てきた。髪も制服もしっかりと整えた、バーテンダーとしての彼女だ。初めに美香に目を向けてから俺を見た。
「柚木さん。今日はどうぞ宜しくお願いします」きちんと足を揃えて軽く頭を下げた。
「宜しくお願いします。無理なお願いをしてすみません」
「いえ。こちらが噂のお嬢さんですか?」穏やかな笑みで応えてくれた。
「ゆんにいの姪で、美香です」隣で松原さんに笑顔を見せた。
「オーナーの松原です。控室にご案内しますね」
松原さんは中学生の美香にも大人としの対応を見せた。前回と同じ控室に通されて本番のスケジュールを共有された。まずは俺だけでステージに立って数曲披露する。その後に美香が出てきて歌うという流れだ。
演奏用の服に着替えて開店の時間を向かえた。予定通り最初に俺がステージに立った。客席は端のほうが少し空いているだけでほぼ満席。五十代前後の男女が思い思いの食事と会話を楽しんでいる。
お客さんはピアノを聞きに来ているわけじゃない。馴染みの店意外はだいたいどこでもそうだけど、俺がステージに登場しても誰も気に留めない。オレンジの薄めのライトで照らされたピアノが黒い巨体を横たえて待ち構えている。
立て続けに数曲を披露し、手前のお客さんがお世辞まじりに拍手をくれた。一息入れたタイミングで、アルバイトらしき若い女性店員がマイクを使ってアナウンスを始めた。手にはメモが握られている。
「本日のピアニスト柚木による演奏をお楽しみいただきました。続きまして柚木とその姪による共演をご披露いただきます。宜しくお願い致します」
その言葉と同時に袖から美香が出てきた。
食事を楽しんでいたお客さん達が一斉に美香に目を向けた。それもそのはずだ。どう見ても夜の大人の店には似合わない十代前半の少女が堂々と歩いて来るんだから。美香はお気に入りだという黄色のワンピースを揺らしながらマイクの前に立った。お客さんは皆、この少女が発する言葉を待っていた。
美香は店内の様子を見てから微かに息を吸った。
「……初めまして。美香です。今日は楽しく歌います。聞いてください」
雨音のような拍手を受けてお辞儀をすると、横目に俺を見た。
鍵盤に手を置いて自分の呼吸を整える。
流れ出したピアノの音に対する美香の反応は速かった。無意識に練習より遅いペースで始めた俺のピアノを聞いて、きちんとリズムを揃えてきた。普段一人での時はその場でリズムを変えるなんて当たり前だったから癖になっていたけど、美香が反応できていなかったら大惨事だった。お客さんは何も知らないままで美香の歌声を聞いている。練習の時と同じように、なんならそれ以上に伸びやかに歌いあげてステージは大成功に終わった。沢山の拍手を受けてお辞儀をする美香は誇らしそうに笑みを浮かべていた。
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