男:白黒③♭


 久々に実家に行ってピアノを弾いた。

 美香からメッセージが送られてきたのは昨日の夜。『明日会いにいくね』なんて突拍子もないシンプルなメッセージが届いた。

 美香とはあの日から全く連絡を取っていない。俺はあえて避けてたからだけど、美香が大人しくしているのは不自然だと気になっていた。その場の勢いだけであんな風に扱われたんだ。自分は愛されるべきと信じて疑わないあの姪が何をしてくるか、ここ数日生きた心地がしなかったというのに。まるで何もなかったみたいな態度が逆に不自然だ。

 また同じことにならないように自分の家じゃなくて実家で会うことにした。

少し埃を被った実家のピアノの鍵盤を開けて一音鳴らしてみた。どんなに気がかりなことも鍵盤を押せば余分な感情が指先から行け出して音に乗って響いて行く。

弾き慣れた曲を何度も何度も繰り返していると部屋の外から声がした。


「ゆんにい、居る?」


 返事をする前にもうドアが開いた。美香が部屋の中に踏み込んできた。


「ノックしろって言ってるだろ」

「なんで今日こっちの家なの? ゆんにいの家で良かったのに」俺の話なんて聞いちゃいない。閉じられた天板に勝手に手をついて顎を乗せている。無暗にピアノに指紋を付けるようなことは辞めろと言いたい。


「たまたまこっちのピアノが弾きたかっただけだよ」

「ふうん。なんで?」

「……このピアノの音が聞きたかったから」

「ピアノって音が違うの?」

「当たり前だ。作られた年代とか場所とかでも全然違う」

「ええ? 全部同じに聞こえるけど」美香は黒い天板を指で突いた。

「分からないなら、いい」

「でも私ゆんにいの演奏は好きだよ」

「そりゃどうも」

「ゆんにいは? 私の歌どうだった?」ピアノを挟んだ向こうで美香がご機嫌そうに笑っている。


「なんだよ急に。お客さん喜んでくれてただろ」

「違う。ゆんにいの感想」

「……まあ、良くやったよ。実際。人前であんな堂々としてさ」

「本当? やったあ」


 ステップを踏みながら近づいて来て俺の首にしがみついた。「離れろ」と引きはがそうと

すればするほど余計に巻き付いてくる。中学生女子にしては妙に力強い。女は蛇だって、大昔の誰かの言葉を思い出した。こんな中学生でも、もう『女』になりかけてるのか。


「また今度歌ってあげてもいいよ」

「馬鹿。そんな都合よく依頼なんか来るかよ」

「歌いたいもん。ゆんにいがお願いしてよ。あの店の店長さんにさ」

「そんなことできるか」

「……できないんだ。じゃあ、もう一回私とエッチしてよ」

 するりと美香の腕が俺から離れた。解放されたはずなのに、全然楽になった気がしないの

は気のせいだろうか。

「……するわけないだろ」

「なんで? 私平気だよ」

「そういう問題じゃない」

「ゆんにい、私のこと好きじゃないの?」美香の顔つきが変わってきた。

「何言ってんだよ」

「好きだからああなったんじゃないの。知ってるよ。本当は未成年にあんなことしちゃいけないのに。ゆんにい、我慢できなかったんでしょ」

「悪かった。あれはそんなつもりじゃなかったんだ」

「じゃあ何?」

「ただ……勢いというか」

「好きだからじゃないの……?」だんだん美香の声が震え出した。

「そういう好きじゃない。だって血は繋がってなくても親族だろ俺達」

「駄目! そんなの許さない!」 


 気が付いたら、美香の頬が興奮で赤く染まっていた。少しインコみたいだ。


「本当に悪かった。俺のせいだ」


 美香の腕が振り下ろされて鍵盤を強く叩いた。十音くらいがデタラメに鳴ってとても不快な和音が部屋中に飛び散った。


「ひどい! どうして私のこと好きじゃないの。あんなことして! どうしてくんれんの! ずるいずるいずるいずるい!」そう言って何度も鍵盤を叩いた。その度に耳を塞ぎたくなるような音が放出されていく。


 美香の腕を掴んで無理矢理ピアノから遠ざけた。最後に鳴らされた音の余韻が時間差で消えた。


「辞めろ。ピアノに当たるな」

「ゆんにいの馬鹿!」

「だから、悪かったって」

「そんなの意味ないもん! 謝ったって無駄だもん!」

「じゃあどうするんだよ!」


つい声を荒げてしまった。

美香は一瞬驚いた顔をして、下から俺を睨んだ。


「……もう一回、お店で歌いたい」

「は?」

「じゃないと許さない」

「何言ってんだ。関係ないだろ」

「やだ! 許さない! 絶対!」


 美香は首を激しく振って抵抗を示した。完全に意地になってる。


「……約束しろよ。もう一回歌ったら満足するんだな?」

「……たぶん」

「分かった。相談してみるよ」


 途端に笑顔になった美香はスカートをひらひらさせて小躍りした。


「絶対だよゆんにい。嘘ついたら、あのことママに言っちゃうから」

 なんて意地の悪い奴だ。こんな幼い悪魔が他に居るのか。

「分かったから……もう帰れ」

「うん、ばいばあい。また会いに来るね」


 中学生の見た目をした悪魔は手を振って帰って行った。

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