魔境への旅路

舘花 縫

ま‐きょう【魔境】‥ 悪魔のいる所。また、神秘的で恐ろしい場所。人を誘惑する所。(広辞苑より)

「隊長! あそこが目的地ですか?」

 山男のような大柄の男――隊長の後を歩く2人の若い男のうちの片方が、緊張感のある声で言う。

 呼びかけられた隊長はトレッキングポールを動かす手を止めると、ゆっくりと立ち止まった。登山靴を履いた足下から、岩肌の擦れる音が鳴る。

 少しばかりの沈黙の後、隊長は斜め上を見上げ、防寒グローブを装着した手で真っ直ぐとその先を示した。

「隊員たちよ、いかにも。あれが、我々の目指す魔境であるぞ!」


 隊長と2人の隊員たちは、とある場所を目指して長く旅をしていた。

 その目的地こそ「魔境」と呼ばれる地である。魔境の存在が明らかにされてから今日に至るまで、多くの探検家たちが戦いを挑んできた。しかし、その挑戦も虚しく、足を踏み入れたら最後、未だ生還した者はいない。

 名のある探検家である彼ら3人もまた、魔境に挑む旅を続けていた。仲間の探検家たちが魔境の調査に向かうことを聞いた瞬間、3人は覚悟を決めた。

 魔境に挑むと。魔境を制覇する最初の人間になると。


 砂を含んだ向かい風が吹きつけ、ゆるい傾斜のある岩肌を歩く3人の行く手を阻む。だんだんと険しくなってくるその道には、生き物の気配がない。

「隊長!」

 地図を広げる隊員の声に、隊長は振り返って頷く。

「これより、我々は魔境に突入する」

 隊長はぴゅうぴゅうと吹く風に負けじと、声を張りあげた。

「魔境の主よ! 探究の欲にまみれた浅ましい人間である我々が、この地に足を踏み入れること、どうか、お許し願いたい」

 3人は、魔境の入り口に立つ。


 旅は困難を極めた。崖や谷を避けながら、3人はこれまでの叡智を存分に発揮して進む。地図のない山、誰も正解を示せなかった頂へのルート、微笑む神はまだいない。昼下がり、ランチで満たされた腹を撫でながら、刑事ドラマの再放送で微睡んでいるのだろうか。

 しかし彼らの心は折れていない。理由などない、いや、要らないのだろう。ただ、そこに山があるから。そんな常人には理解し難い道理で、彼らはただただ前に進み続ける。


 それから何時間歩き続けただろうか。3人は濃い霧の中にいた。来た道も、行く道も、もう誰にも分からなかった。

「隊長、少し休憩しませんか……?」

 薄い酸素で肩を上下させながら、1人の隊員が言う。

「そうだな。あそこの岩陰で休もう」

 隊長は少し進んだ先――霧で視界がかなり狭いので、今見えている最も遠い場所――を示す。隊員たちが、はい!と短く了解すると、一行はその岩を目指して再び歩き出す。

 大きな土色の岩陰に着いた3人は、半ば崩れるようにその場所に腰を下ろした。疲労で足がパンパンに腫れ、色々な装備を積んだザックを背負う肩からは、悲鳴を越え、救援を求める叫びが聞こえてきそうだ。

 久々の安地で、彼らはしばらくの間、体の隅まで一息吐かせるのに時間を要した。

「頂上、どこにあるんでしょう」

 隊員が水分補給をしながら呟く。

「わからん。霧のせいで、先が全く見えんな」

 隊長の言葉に、別の隊員は落胆の表情を浮かべる。先に探検に出た仲間や、魔境へ出かけ、まだ帰らない人々のことを考えていた。

「やっぱり、魔境は無理だったんだ……」

「諦めるのはまだだ!」

 隊長は、沈んだ表情の隊員の両肩に手をのせ、2人の隊員を交互に見ながら言った。

「ここは魔境。これまでになく厳しい環境なのは当然のことだ。自然は厳しいが、それに真っ向から向き合った者にこそ、最高の景色を見せてくれる。我々は運命を共にすると決めたのだ。もう少しだけ、諦めるのを待ってくれないか?」

 その言葉に、2人の隊員は顔を上げる。そして立ち上がった。


 一行は再び歩き始めた。少しずつ霧が薄くなり、太陽の温度を感じ始めた彼らは燃えていた。頂上がすぐそこまで迫っている。そんな気がしていた。

 高鳴りを抑えきれず、トレッキングポールを握る手に力が入った、その瞬間のこと。

「あれは!」

 3人は声を揃えて叫ぶ。霧が薄くなり、その頂きが目に飛び込んできた。頂上だ!

 長いこと追い求めていたそれを目前にし、彼らは言葉を失っていた。今までどれほどの人間がこの地を目指し、果ててきたのか。馳せた思いに、目頭が熱くなる。

 旅路を思いながら大地を踏みしめ、隊長と2人の隊員は頂上の前に立った。あと一歩踏み出せば、この旅を終えることができるのだ。隊長を真ん中に3人は手を取り、横一列に並ぶ。その頃には霧はもうすっかり晴れていて、ただ果てしなく広がる雲海を望むことができた。間違いなく、人生最高の景色だった。

 喜びの声を上げながら、彼らは同時に一歩踏み出した。

 しかし彼らが次に目にしたのは、頂きの絶景ではなく、猛スピードで降下していく世界であった。



* * *



「ふぁ~あ」

 時刻はまもなく午後16時。いつのまにか寝てしまっていたようだ。犯人が殺人現場から慌てて逃げるシーンまでは記憶していたサスペンスドラマが、気づけばエンドロールを流している。

「あれ、こんな寝ちゃったか。もう一日終わっちゃうじゃん、やば。今日何もしてないわ~」

 魔境の主は、ソファで変な姿勢のまま眠っていたせいか、鬱血して痺れた左腕が感覚を取り戻すまで待った後、テレビを消し、ぺたぺたとフローリングを歩く。

 冷蔵庫を開け、手前に入っていたペットボトルのお茶(緑茶・濃いめ)を取り出すと、窓の外を眺めながら口に含んだ。そこで、気がついた。

「あれ、誰か来てた? 3人も?」

 慌てて、食べ終えたままテーブルに放置していたカップラーメン(みそ味・大盛り・残ったスープは冷め切っている)の容器を流しに置くと、バタバタと部屋を後にした。



* * *



 3人が目を覚ましたとき、そこにはぬくぬくした暖かい世界が広がっていた。

「隊長、ここは? 僕たちは死んだのですか……?」

 問いかけられた隊長も、そこがどこなのか検討も付かず、答えることができなかった。

 床にはふかふかしたものが敷かれており、そこでしばらく眠っていたからか、体の疲れはなく、節々の痛みも取れている。辺り一面、ふかふかしたものが広がっており、頭上高くには昼下がりの微睡みにぴったりな、優しい明かりが灯っている。

 隊長は自分たちが置かれた状況について考えを巡らせていたが、なんだかぽかぽかしていて気持ちがよく、次第にどうでもよくなってきた。

 誘惑に負け、再び寝転がる。

「あー、最高。きもち~」

「今すぐ寝れるな~」

「もう起き上がれない~」


 そこにようやくやって来た、魔境の主。

 主は、すでに夢の中へ出かけている3人の姿を見つけると駆け寄り、すごく肌触りのよいタオルケットを、順番にそっとかけてあげた。3人はすやすやと寝息をかき、とても穏やかな表情で眠っている。


 主はその場を離れると、少し歩き、広場のようになっている場所に向かった。

 広場にも一面ふかふかマットレスが敷かれており、そこにはかつて探検家として「魔境」に挑んだ猛者たちが、あらぬ姿でごろごろと転がっていた。いびきをかいて眠っている者もいれば、読書やネットサーフィン、ソシャゲ、動画鑑賞に夢中になっている者もいる。

 主は広場に着くと、掛け布団を蹴飛ばしてしまった者にはきちんとかけ直し、枕が迷子になってしまった者には定位置に戻したりと、彼らの様子を見て回った。

 全員に共通して言えることといえば、みな、極上マットレスの上で転がり、タオルケットやら毛布やらをかぶり、ぬくぬくと、幸せそうにおふとんを堪能していることだ。

 それともう一点。

 彼らは間違いなく、もう「魔境」の虜である。


 夢か現か、タオルケットの中で丸くなり、隊長は呟く。

「あ~これは魔境だわ~」

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