地獄フィッシング

鳥山ふみ

地獄フィッシング

「ほら、俺の言った通りだったろ?」

 タツヤは緊張した声色で、それでも少し得意げに言ってみせた。一方のユキヒトは信じられないといった面持ちで、タツヤの飼い猫・ベルの口に咥えられた異形の生物をしげしげと眺めた。それは一見すると——深い青紫の毒々しい体色を除いては——、かつてユキヒトが鍋料理で食べたズワイガニを思わせた。平たい胴体からは十本を超える長い脚が伸び、体長は三十センチに届きそうなほどだ。ベルの襲撃によって深手を負ったのか、それぞれの脚は弱々しく、しかし複雑に動いて宙を掻いている。

 その巨大な獲物を咥えていることに疲れたのか、あるいは主人へのプレゼントのつもりなのか、ベルは口を開けてそれを地面に落とした。生物は体の(恐らく)裏側を向けてごろんと地面の上に転がり、胴体の中心にポッカリと開いた口らしき穴と、その外縁部にびっしりと生えたヒダのようなものを二人に見せつけた。緩慢な脚の動きとは裏腹に、そのミミズのようなヒダの一本一本が激しく蠢いていた。

 そのグロテスクさにユキヒトは気分が悪くなった。数時間前に食べた給食のシチューの味が胃から込み上げてきたが、それでも生物から目を離すことができない。やがてそれは、命の最後の輝きであるかのように、全ての脚をぎゅうっと力強く空中に向けて伸ばしたかと思うと、今度は胴体のそばで小さく折りたたんで、そのあとはぴくりとも動かなくなった。

「……死んだのか?」

 ユキヒトはようやくタツヤに向かって言った。

「よく見てろよ。こっからがすげえんだから」

 タツヤは興奮気味に返した。ユキヒトが再び生物に目を下ろすと、その体色が見る見るうちに青紫色から灰色へと変化していくところだった。同時に、胴体や脚のいたるところに亀裂が走り、小さなかけらがポロポロと地面の上にこぼれ落ちていく。もはや元の形状が分からないほど全体が崩れたあたりで、今度はかけらの一つ一つが、氷が溶けるかのように縮んでいった。やがて、生物は何の痕跡も残さずに完全に消失した。

 ユキヒトはぽかんと口を開け、二の句を継げないままタツヤの自慢げな顔を見つめた。ベルがタツヤの足下に擦り寄り、褒めてほしそうに主人の顔を見上げた。


 半年ほど前、タツヤは学校からの帰り道でその猫と出会った。すらりとした体に黒く美しい毛並み。タツヤが屈み込んで手を伸ばしても逃げることもしない。顎の下を軽く撫でてやると、猫は目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。タツヤがその場を去っても、猫は家にまで付いてきた。台所にあった煮干しを与えてやると、猫は嬉しそうにそれを食べた。すっかり愛着が湧いたタツヤは、家で飼いたいと両親に懇願した。最初、両親は難色を示していたが、タツヤの熱意に根負けし、外で放しておくことを条件に飼うことを許した。庭に猫用の小屋も備え付けてもらい、タツヤは猫をベルと名付けて可愛がった。

 ある日、ベルの様子を見に庭先に出たタツヤは、ベルが奇妙な生き物を咥えているのを見つけた。それは図鑑で見たことのある三葉虫という太古の生物に似ていた。驚いたタツヤだったが、不思議なことに、その生物はタツヤの見ている前で小さくしぼむようにして消えてしまった。

 それから何度か、タツヤはベルが捕らえてきた謎の生き物たちを目にすることになった。それらは既存の生物に例えるなら、クモやエビやフナムシといった類のものだったが、どれもテレビですら見たことがないほど巨大で、さらには無数の触手やトゲを有しているなど禍々しい外見をしていた。共通しているのは、それらはひとたび息絶えてしまうと、わずかな時間のうちに煙のように消え失せてしまうということだった。このことを両親に話しても信じてもらえず、実物を見せようとしても、間の悪いことに両親は仕事などで家にいないのだった。

 そして今日、同じクラスで仲の良いユキヒトに見せてやろうと、学校帰りに彼を家まで連れてきたのだ。


 興奮覚めやらぬ中、ユキヒトはタツヤに言った。

「驚いたなあ。俺、あんなの初めて見たよ。それに、死んだら消えて無くなるってのも不思議だ」

「そうだろ。あれは新種の生き物に違いないぞ」

「うん。それにしても、あんなもの一体どこから捕まえてくるんだろう?」

「それが分からないんだ。何度かベルを追いかけたことがあるけど、いつも見失っちゃって」

「残念だなあ。生け捕りにできれば、大発見ってことで有名になれるかもしれないのに」

「……見ろよ。ベルがまた狩りに出かけるぞ」

 ユキヒトがベルの方に目をやると、猫はゆっくりと歩いて家の敷地から出て行くところだった。

「追いかけてみようぜ」


 ベルはしっかりとした足取りで二人の前方を進んでゆく。細い裏路地を通り、神社の敷地内を通り、人気ひとけの無い資材置き場の中を通った。

「ベルのやつ、いつもはすぐに見えなくなるのに、今日はずいぶんとゆっくりだ」

「もしかしたら、俺たちを案内しようとしてくれているんじゃないか?」

 その言葉を裏付けるかのように、ベルは目の届くところから消えることがない。ときおり後ろを振り返って、二人が付いてきていることを確認するようなそぶりすら見せた。

 ふと気がつくと、そこは二人が一度も見たことのない町並みだった。古びた民家やアパートが立ち並び、道路には壊れた自転車やごみの袋などが乱雑に放置されている。二人のほかには道を行く人もおらず、あたりには荒んだ空気が漂っていた。

「俺、こんなとこ初めてだよ。どこなんだ? ここは……」

 ユキヒトが不安を隠さずに言った。タツヤも同様に不安を抱いていたものの、自分がベルを追うように言い出した手前、弱音を吐くわけにもいかなかった。

「さあ……。俺もよく分からないけど、交番とかで道を聞けば大丈夫だよ。それに、ここまで来たんだから、最後まで確かめたほうがいい」


 一匹と二人は住宅地を抜け、いつしか雑木林の中に入り込んでいた。

「なんだか、空が暗くなってきてないか?」

 ユキヒトが言った。二人は時計を持っていなかったが、学校が終わった時間からすると、おそらくまだ夕方の五時にもなっていないはずだ。九月の中旬であることを考えれば、日没までにはまだ時間がある。しかし、頭上の木々の間から差し込む光は、ユキヒトの言葉通りに急速に弱まってきていた。「曇ってきたのかな」と、タツヤは答えた。

 進むにつれて次第に木々の数も増え、もはやうっそうとした森林のような様相を呈してきていた。二人は枝や葉をかき分けながらベルを追った。いつの間に、こんなに深い森に入り込んだのだろう? そもそも、家から歩いて来られる距離にこんな森があっただろうか? そんな疑問が何度も二人の頭によぎったが、もう引き返すわけにはいかなかった。何かの手柄を持ち帰らなければ、この不気味な冒険に釣り合わない。そんな感覚に陥っていた。


 あたりの闇はいよいよ深くなっていき、もはや目を凝らさねば足元もおぼつかないほどだ。ふと見ると、前方の木々の間から白くぼんやりとした光が漏れ出ている。ベルはその光の中へ飛び込んでいった。二人もその後に続いた。

 そこは、これまでとうって変わって開けた空間になっていた。巨大な枯れ木があたりを取り囲むように立ち並んでいて、まるで森の中にできた広場のようだ。地面は灰褐色の砂に覆われており、この空間の淡い光はどうやらその砂から発せられているようだった。

「なんだよ、ここ……」

 タツヤがそう呟いて後ろを振り返ると、いま来たはずの道がなくなっている。いつの間にか、木の枝がびっしりと折り重なるようにして道を塞いでいたのだ。頭上を見上げても、ただの闇が広がっているばかり。まるで悪夢の中に迷い込んでしまったかのようだった。

「おい、あれ!」

 ユキヒトが指差したほうをタツヤが見ると、砂の上を何かがカサカサと動いていた。それは、かつてベルが捕らえてきたあの巨大なフナムシのような生き物だった。よくよく周囲を見回してみると、似たような生き物があちこちで這い回っている。「この場所だったんだ」とタツヤはひとりごちた。奇妙なことに、ベルは広場の中央にちょこんと鎮座したままこちらを見つめているばかりで、周囲の生物には何の興味も示していないようだった。

 突如、枯れ木の背後の暗闇から、二つの巨大な人影が姿を現した。タツヤとユキヒトは目を見張った。それらの背丈は、クラスで一番に背が高いユキヒトの二倍を優に超えていた。それらが二人の数メートル手前で立ち止まったとき、地面からの光に照らし出されて、その風貌が明らかになった。真っ黒な毛で覆われた人間の体に、獣の頭が乗っかっている。一体はサルのようで、もう一体はヤギのようだった。背中には巨大なコウモリの羽のようなものも見えた。

 恐るべき光景を目の前にして、タツヤの脳は既に現実逃避を始めていた。

 ——いったい何だろう、これは? 何かの絵で見たことがあるような気がする。あれは社会の授業だったか? それとも美術? そう、確か地獄に住む悪魔を描いた宗教画だ。そうだ、こいつらの姿は悪魔そのものだ……。

 隣のユキヒトのほうに目をやると、彼は顔をくしゃくしゃに歪ませて、涙を流しながら悪魔たちを見つめていた。彼の歯がカチカチと鳴る音がタツヤの耳まで届いた。

 サル頭がヤギ頭に向かって言った。

「ほら、俺の言った通りだったろ?」

 それは紛れもなく彼らにとっての言語であったのだが、タツヤとユキヒトにとっては、まるで壊れかけの家電製品が発する振動音のように不快な音でしかなく、理解できるはずもなかった。

「まさか本当に釣れるなんてなあ。しかも、二匹もだ。お前の猫も捨てたもんじゃないな」

 ヤギ頭はそう答えると、指先の鉤爪をぎらりと光らせながらベルの方を指した。ベルは自分の手柄をアピールするかのように、にゃおんと鳴き声をあげた。

「半年も待ったかいがあっただろう。やはり、釣りは待つことが肝心だ」

「あまり大物じゃないのが残念だが……」

「なんにせよ、生身の人間は久々だ。じっくり味わうとしようじゃないか」

 次の瞬間、悪魔たちは二人に飛びかかっていた。

 ベルと呼ばれていた猫は、枯れ木の枝の上の収まりの良い場所で丸まって、この後に本来の主人から貰えるであろうおこぼれのことを考えながら、目の前の凄惨な光景をのんびりと眺めていた。

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