はばたいて見た

@AustenDoft853

第1話


   1

「くっそう。マルンどんめ」

 学校を終えると、ひろはランドセルのまま、家とは違う方向へ駆けた。

 ここは北海道大学の構内だ。緑が広がっていて、ばかでかい公園みたいなところだ。仲良しの剣ちゃんとたまに虫取りに来る。でも今、剣ちゃんはいない。

 六月の午後、広い道には人もまばらだった。息を切らして走る男の子を、自転車に乗った学生が追い越していく。かと思えば、乳母車を押した女の人がきょとんと見たりする。 走り疲れて、ひろは走るのをやめた。ゆっくり歩くと、思い出したくないことがぼわん、ぼわんと浮かんでくる。振り切って追い払おうとしても、しつこく浮かんでくる。

 給食が終わって食器を下げるとき、隣りの席のマキが聞いてきた。

「ねえ。なんであんたの名字、前と違うの」

「知らない」

「知らないって、自分のことでしょ。あんた、幼稚園のとき一緒だったひろくんだよね。三年のクラス替えで一緒になったばっかのときは気づかなかったけど。隣の席になってよく見たら、あのひろくんだって思い出した。もうあたしの方が背も高いし、気づかなかったのも無理ないけどね」

 と言って、アッハッハと笑った。それからまた、好奇心まるだしの目で、

「で、どうして名字変わったの」

 ひろは答えなかった。それきりマキの方は向かず、学校が終わるとすぐに教室を飛び出した。いつも一緒に帰る剣ちゃんがお休みだったから、話を聞いてもらうこともできなかった。ひろのほうでも、幼稚園の頃小さくて可愛い感じだったマキがあんなふうになっているとは思ってもみなかった。背だけじゃなく、無神経さがパワーアップした怪物みたいだ。それでさっきから「マルンどん」と、心の中でののしっていたのである。


 ――ひゃっふは仕事をしてるから、少しくらい遅くなってもかまわない。 

 ひろはお母さんのことを「ひゃっふ」と呼ぶ。友達はみんな「ママ」とか「お母さん」とか、もっと変わったのは「おかん」なんて呼んでいるけど、ひろのお母さんは多分もっと変わっているんだろう。昔から自分のことを「ひゃっふ」と言っていた。それで、自然とひろも「ひゃっふ」と呼ぶようになったのだ。

 じゃあお父さんのことをどう呼ぶかというと、それもまた複雑だ。ひろにはお父さんが二人いる。一人は赤ちゃんの頃からお父さんだった人で、その人のことをひろは「パンくん」と呼ぶ。ひゃっふがそう呼ぶから、ひろもそう呼んでいた。幼稚園に行くようになった頃、聞いてみた。

「どうしてママじゃなく『ひゃっふ』なの」

「何か楽しいことがあるとすぐに『ひゃっほう!』と叫ぶ癖があるので、パンくんと知り合った頃、パンくんが「ひゃっほー」と言うあだ名をつけてくれたんだよ。それが縮まって、『ひゃっふ』」

 ひゃっふはうふふ、と笑った。

「じゃあ、『パンくん』はどうして」

「それはね、焼きたてのパンみたいにあったかい感じがしたからだよ。そして、二人からこんなに可愛いひろが生まれた」

 ひゃっふはそう言うと、ひろを抱き上げて、膝に乗せて抱きしめてくれた。ふんわりあったかかった。

 でも、パンくんは変わってしまったらしい。ひろが小学校に入学した年の五月、パンくんは出て行った。日曜日の朝だった。ひゃっふとひろが町内会のラジオ体操をして戻ってくると、家中、しいんとしていた。

「パンくん、まだ寝てる。毎日夜遅くまでお仕事で疲れてるんだね。そっとしておこう」

 ひゃっふは口に人差し指を当て、ひろの手をとって居間へ入った。

「さあ、美味しいフレンチトーストでも作ろうか」

 やかんを火にかけ、冷蔵庫を開けた。ひろは紙飛行機を飛ばしながら、

「ひゃっふ。テーブルの上にお手紙があるよ」

「ん?」

 ひゃっふが台所から出てきた。

「ひろがくれたお手紙?」

「ううん、僕じゃない」

 ゴミ箱の横に落ちた紙飛行機をつまみながら答えた。ひゃっふは居間のテーブルから封筒を取り上げ、

「あれ、何だろ。わざわざフルネームで宛名と差出人が書いてある。パンくんのイタズラかな」

 封筒から便せんを取り上げると、鼻歌を歌いながら読み始めた。

 初めは楽しい手紙かと思ったのに全然違ったのが、ひろにもわかった。笑って読み始めたけど、だんだんひゃっふの顔が曇って、手紙を持つ指先が震え始めたから。ひゃっふの指先がそんなふうになるのは、初めてだった。ケーキの仕上げにきれいにイチゴを飾っていくとき、ちょっとおすまししたように見える指先。ピアノを弾くとき、踊るように動く、すごく楽しそうな指先。いつもひろの手を包みこんでくれる、あったかくて優しい指先。

 ひゃっふは、声を出して読み始めた。ひろにはわからない難しい言葉がいくつもあった。ひろに聞かせようとしているのか、声を出さないとちゃんとわからないから自分に聞かせようとしているのか、ひろにはよくわからなかった。もしかしたら、ひゃっふ自身にもよくわからないでそうしていたのかもしれない。ひろが覚えているのは、「ひゃっふとひろのことは好きだけど、もっと好きな人ができた」という言葉だけだ。  

 それから、ひゃっふは何日も泣いていた。「ひゃっほう!」と叫ばなくなった。そしてひゃっふとパンくんは去年の春に「りこん」した。ひろの名字はひゃっふが独身の頃のものに変わった。

「あんな人もうパンくんじゃない。ただのパンくずになっちゃった。ひゃっふはもうあの人の名字は嫌だから、結婚する前の名字に戻すよ。ひろもそうしようね」

 ひろは全くひゃっふの言う通りだと思ったので、大きくうなずいた。

 ところが、ひろが新しい名字に慣れきっていないうちに、また変化が訪れた。ひゃっふに新しいボーイフレンドができた。ひゃっふとひろとその人と三人で、ドーナツ屋さんで会った。ニコニコしていて、時々面白いことを言う人だなあと思った。それから三人で動物園とかいろんなところへ行って、すっかり仲良くなった。その人をひゃっふは「しょうすけくん」と呼んだから、ひろもそう呼ぶようになった。秋にひゃっふとしょうすけくんは結婚して、三人は家族になった。ひろの名字はまたまた変わって、しょうすけくんの名字になった。

 一年間で三つの名字が移り変わった、こんな話をマキに長々と話すのは気が引けた。これまでに何回もいろんな人から聞かれて、いい加減うんざりもしていたし。


 歩くうちに、だんだん気持ちが落ち着いてきた。ここに来てよかった。木がいっぱいある。芝生が広がっていて、気分がいい。ひろがよちよち歩きだった頃、パンくんとひゃっふと三人で来たのを、うっすらと覚えている。パンくんに戻って欲しいとはもう思わないけど、だからといって別に、気に入った場所を嫌いにならなくてもいいと自分に言い訳してみる。

 ――蝉、まだ出てこない。

 聞き耳を立ててひろは思う。昔来たとき、ここで蝉の抜け殻を拾ったことを思い出す。そのとき、パンくんが言ったのだ。

「何年も何年も地下で生活してから大人になって、地上に出てくるんだよ」

「とてつもない頑張り屋さんなんだね」

 ひゃっふがそのとき言ったっけ。ひろは小さいながら、とても感心したのを覚えている。僕なら、そんなに真っ暗い地下で待つことなんて、できそうにない。小鳥の声がする。あんなにきれいな声出せるなんて楽しいだろうなと思う。きっとすぐに土をほじくり返して、地上に出てしまうだろうな。地上に出たら、蝶が目の前をかすめて飛んだり、いい匂いの花が咲いていたりする。やっぱり早く出てきてよかったと思うだろうな。

 ひろは思いっきり空気を吸い込んだ。草の匂いが胸いっぱいに入って来る。カラスの声がする。夕方が近づいているのを感じながら、ひろは歩き続けた。

 ――しょうすけくんがご飯作ってる頃だ。心配するといけないから、そろそろ帰ろう。

 ひろは、来た道を戻り始めた。道のはるか向こうから、おじいさんがやって来るのが見えた。カラスの声が聞こえる。ひろは見上げたが、近くの木にはいない。芝生の上にもいない。声はだんだん大きくなるのに、空を見上げても、まわりをいくら見回しても、黒い翼の影も形も見えない。

 ――どこで鳴いているんだろう。

 おじいさんはまっすぐ脇目もふらずにゆっくり歩いて来る。ひろのように見上げてカラスを探すこともしない。こんなに鳴き声が響き渡っているのに、全然気にならないらしい。なんだかおかしい。おじいさんは一定の間隔で口を大きく開けては閉じ、こちらの方角に進んでくる。

 ――口の中がかゆいんだろうか。それとも口の体操でもしているのかな。  

 一メートル位先まで迫ったとき、ひろは真実を理解した。カラスの声はおじいさんの口から出ているのだった。

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 ひろは立ち止まった。ぽかんと口を開け、じっとおじさんを見つめた。おじさんはひろには目もくれず、表情を変えることもなく、ただ進む方向にまっすぐ顔を向けたまま、同じリズムで鳴き声をあげながら歩いていった。

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 まさしくカラスの声そのものなので、ひろより離れたところにいる人には誰も、このおじいさんから甲高い、ちょっと悲しげなカラスの鳴き声が出ているとはわからないだろう。

 ずいぶん長い時間に感じられた。でも、ほんの数秒のことだった。だって、おじいさんはほんの少しも立ち止まりはしなかったのだから。 

 れっきとした、もう一年坊主でも二年坊主でもなくて小学三年生にもなった立派な男の子がここに立っていて、おじいさんの姿をしっかりと目撃しているというのに、気にも止めないとは。おじいさんの後ろ姿を見送りながら、ひろには大きな不満と大きな謎が残った。


 翌日、剣ちゃんは登校してきた。

「食い過ぎて腹こわしちゃったんだよ。俺様としたことが」

 豪快に笑ったので、ひろは、

「剣ちゃんが休むなんて幼稚園以来、初めて。心配したよ」

 ほっとしたついでに、謎のおじいさんのことを話してみた。

「そいつぁ、すごい。ぜったい探検すべきだな」

 予想通りの反応だ。男らしく言い切ってしまうのが、剣ちゃんのいいとこだ。二人は幼稚園からずっと同じクラスで、今までにもいろいろ「探検」してきた。

 なんでトンボは飛べるのかとどちらかが言い出すと、トンボをつかまえて調べる。じたばたしているトンボを抑えて羽をつまんで調べまくる。いろんな角度から見たり触ったりしてみた。強く押さえすぎてトンボの羽がもげてしまったことがある。あわてたけど、もう元には戻らなかった。顔を見合わせてちょっと笑って、飛べなくなったトンボを見ているうちに、二人ともしょんぼりしてしまった。ああいう失敗はもうしたくない。でも楽しい探検もいっぱいある。

「今日は落し物探しの日にしよう」と一方が言い出せば、学校に行くときも帰るときも遊ぶときも地面を見ながらひたすら獲物を探した。ひろが十円を見つけて、剣ちゃんがとうとう何もみつけられなかったとき、剣ちゃんは「チキショー」と地面を蹴って、ものすごく悔しがったっけ。

「今日は知らないおばさんに挨拶しよう」と決めれば、歩きながら出会うおばさんたちに元気よく、「こんにちは!」と二人声を合わせて頭を下げた。不思議そうにうなずくおばさんもいれば、にっこりしてくれるおばさんもいた。なかには、「あれまあ。すっかり見ないうちに大きくなったもんだねー。お母さん元気かい」と、こっちが困ってしまうくらいノリノリで話し始めるおばさんもいた。全然知らない人のはずなのに、次から次によくあんなに話すことがあるものだと不思議だった。

 要するに、なんでもかんでも面白そうなことに首をつっこむのが、二人にとっての「探検」だった。

「いつ見に行く?」

「後ろ向いてしゃべっちゃダメだよ。わかってる? ホームルームの時間なんだからね」

 隣のマキが注意してくる。まるで何も分からない年下の子に教えるみたいに。ほんの数分ほど前にはもっとしおらしい顔を見せて、ひろはちょとはマキを見直したんだったのに。

 朝、教室で顔を合わすなり、マキは少しあらたまって、

「昨日ゴメンネ。お母さんにおこられた。そんなこと、しつこく聞いたらダメだって」

 と、半分照れ笑いを浮かべながらペロリと舌を出したのだ。だから、ひろはまあいいかと、許してやったのだ。

 しかし今、偉そうに割り込んでくるマキには、もうその影も形もない。剣ちゃんはマキを横目でちらりと見て「うるせーって」と言うなりひろのほうへ向きなおり、小声で「あとでな」と言った。

 その後、休み時間が来るたびに、ひろは剣ちゃんに不思議なおじいさんのことを詳しく話した。昨日、帰宅してひゃっふやしょうすけくんに言っても「珍しい人もいるもんだね」くらいで、軽く笑って流された。ひろの熱弁にもなおさら力がこもるというものだった。

 帰る道々、案をねった。

「いつ見に行くかだな」

 剣ちゃんは真剣な顔になる。二人は公園のベンチに腰掛けて、神妙な顔でしばらくじっと考え込んだ。

「今日これから行っか? 家にランドセル置いてから」

 ランドセルには宿題のプリントが入っている。ひろの頭の中にしょうすけくんの顔が浮かぶ。「先に宿題済ませろよ」と、わざとこわそうに言う。昔と違うのは、名字だけじゃない。パンくんが一緒だったときには、パンくんが働いて、ひゃっふが家にいた。でも今はひゃっふが働いて、しょうすけくんが家にいる。ひろは大きく首を降って、しょうすけくんの顔を頭から追い出そうとする。ごめん、と心の中で言う。心の中のしょうすけくんは、すぐにしようがないなあといって、くしゃっと笑う。ちょっと困ったような顔。

「ランドセル置きに行くの時間の無駄だから、このまま行かない?」

 剣ちゃんはまたちょっと考え込んだ。顎の下に右手の握りこぶしを当てて、うーんとうなった。

「そうだなあ。おやつ食ってからがいいけど……。まあ、いいか」

 

 思いつくままに来たけれど、あのおじいさんがちょうど都合よく現れるとは限らない。そう気づいたのは曇った空の下で二人、二十分待ちぼうけを食ってからのことだった。

「来ないじゃんか」

「だね」

 情けない気持ちでひろは答える。薄ら寒い風が吹いて来た。雨が降り出しそうな気配。

「アー、アー、アー」

 ひろは、はっと瞳を輝かせ、目を向けた。本物のカラスがじろりと見返し、芝生から飛び上がった。高い木の枝に止まって「カッカッカッ」と鳴く。

「……ただのカラスか」

「カッカッカッカ。カッカッカッカッ」

「何度もしつこいな。なんだか馬鹿にして笑ってるみてーだな」

 剣ちゃんがカラスを見上げながらつぶやく。教室で先生に当てられて、うまく答えられなかったときみたいな顔だ。

「ほんとにその変なじいさん来るのか」

「……毎日来るとは限らないよね。もしかしたら今日はもう来ないかな」

 ひろの声も、宿題を忘れて先生に言い訳するときのに似てくる。二人は大きくため息をついた。カラスも笑うのに飽きたのか、プイッと飛び上がると、遠い山の方へ去っていった。

「今日はもう帰るか、腹も減ったし」

 剣ちゃんの提案にひろもシュンとしてうなずく。もと来た道を並んで歩き出した。雨がぽつりぽつりと降り出したから、頭に手を当て、駆け出した。


 二週間以上たった。その間に三回行ってみた。会えなかった。「カラスのおじいさん」は、もう二人の間で探検の対象ではなくなりつつあった。

 剣ちゃんと学校から帰る途中で、後ろから呼び止められた。

「ちょっとあんたたち」

 振り向くと、マキがいた。

「先生から言われたこと覚えてる? グループで発表する自由研究のテーマ、ちゃんと話し合っておけって。だからあたし、今日の放課後話し合おうって、さっき声をかけたじゃん。聞いてなかったの」

 見ると、マキの後ろにぞろぞろ三人、立っている。男子が一人、女子が二人。

「知らん、そんなの」

 剣ちゃんが駆け出したので、ひろもあわてて後を走り出した。

「待ちなさいよー」

 マキのキンキンいう叫び声を後に走りに走った。

 気がつくと、あの場所に来ていた。

「やっとまいたか。俺、苦手なんだ。あんなふうにキンキンいう奴。……なんであいつ、あんなになっちゃったんだろうな。幼稚園の頃はもっと扱いやすかったのに」

 そうだね、とうなずこうとしてひろはぎょっとした。マキが剣ちゃんの後ろから現れたから。

「何がキンキンさ」

 ゼイゼイいいながら、前かがみになって汗をぬぐい、呼吸を整えている。他の三人はついて来なかったらしい。もしくは、ついて来られなかったか。二人は口を開けてマキを見ていた。剣ちゃんがポツリと言う。

「ハエみたいにしつこいな」

「なんだって」

 マキがげんこつを振り上げたので、ひろは、剣ちゃんの前にまわって通せんぼした。いくらマキがちょっと大柄だからって、腕力じゃ剣ちゃんの方がずっと上に決まってる。剣ちゃんはケンカが強い。男同士の戦いで負けたことがない。そして、痛い目に合うとマキはますますうるさくなって、面倒なことになるだろう。先生に言いつけられて、ぐちゃぐちゃ。そんなことを考えながら、マキと剣ちゃんの間で、岩のように動けないでいるひろの耳に、

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 聞き覚えのある声が聞こえたかと思うと、まぎれもなくあのおじいさんが、向こうからゆっくり進んで、次第に大きくなってくるのが見えた。

 脇目も振らず、ただまっすぐ前だけ向いて一歩一歩、カラスの鳴き声を上げながら進んでくる。ひろは剣ちゃんに目配せした。剣ちゃんはこれまで「カラスのおじいさん」の話をいつも面白がって聞いてくれたが、半分笑いながらだった。ふざけて冗談を言うことも多かった。もしかしたらそれほど本気じゃなかったのかもしれない。でも、今は全然違う。とてつもないものを目撃しているのがわかったようだ。いつになく真剣な顔で突っ立ったまま、おじいさんがスローモーションのように「アゥアー、アゥアー、アゥアー」と鳴きながら真っ正面まで来て、子供たちには目もくれず、ゆうゆうと脇を通り過ぎていく、その姿をじいっと見ていた。

「……な、何あれ」

 おじいさんがずっと彼方へと去ってから、マキが震える声でつぶやいた。ひろは、マキの両手が後ろから自分の両肩をがっしりとつかんでいるのに気づいた。ひろをついたてがわりに隠れていたらしい。

「お前でもビビることあるんだ、マルンどん」

 剣ちゃんが我に返って、勝ち誇ったように笑った。

「何さ、マルンどんって」

 マキはひろの離れると、プンプンして剣ちゃんに詰め寄った。近頃、その呼び名は剣ちゃんにも定着しつつあった。ひろがつい口をすべらせた「ちぇっマルンどんめ」という言葉を耳ざとく聞きつけ、すっかり気に入ってしまったのだ。

「ねえ何さ、マルンどんって」

 剣ちゃんが適当に笑ってごまかす。ひろは、豆粒のように小さくなったおじいさんの後ろ姿から目が離せない。右の角に曲がって見えなくなる。

「剣ちゃん、追いかけなくていいの」

「そうだった」

 剣ちゃんはおじいさんの行った方向へ走り出した。ひろも全速力で追いかけた。

「待ちなさいよー」

 振り向くと、マキがすごい顔でついてくる。まさにマルンどん。三人が、正確に言うと二人の探検家と一人の追跡者が角まで来たとき、おじいさんの姿は影も形もなくなっていた。

「ちっ。見失ったか」

 剣ちゃんが悔しそうに足先で小石を蹴る。

「カラスになって飛んで行ったんじゃないかな」

 ひろが真面目な顔で言うと、剣ちゃんとマキは顔を見合わせてから、ほとんど同時に吹き出した。ひろはむくれた。

「だって、あの鳴き声はカラスそのものだったよ」

「確かに。お前の言うことも一理あるかもな……」

 剣ちゃんは顎の下に手を当てて、考え込んだ。

「ばっかみたい。人がカラスに変身するなんてあ・り・え・な・い!」

 言ってから、マキは二人の顔を見比べながら高らかに笑った。ひろと剣ちゃんは目を合わせて、自信がなくなってくる。いっぽう、二人があんまり長いこと黙っていたのでマキの笑いも少しずつ勢いを失い、今度はマキのほうが自信を失った。

「……だよね? まさかね」

 剣ちゃんが強気になって、ぴしゃりと言い返した。

「お前にカンケーねえべさ。なんでしつこくついて来るんだ」

 ひろもつられて、ちょっとおどかしてやろうという気になった。大きく息を吸い込むと、お腹の底から低くて重々しい声を出してみた。

「あのおじいさん、不思議だよね。カラスに変身しそうな感じがする。いや、もしかしたらカラスが人間に化けてるって可能性もある」

「そんな重大情報、こいつに教えてやることないって」

 剣ちゃんがすかさず言葉をはさむ。マキは三十秒ばかり口をあんぐり開けていた。

「おい、よだれよだれ」

 剣ちゃんがふざけて注意する。マキはハッとして口元を押さえ、きっとにらみ返した後、くるりと背を向けた。

「ふーんだ」

 家の方向へ駆け出した。


   2

 次の日、先生が朝の挨拶をしている最中なのにもかかわらず、マキがひろに話しかけてきた。

「昨日のあのおじいさん、いったい何なの?」

 ひろはそれにかぶせるように、

「おはようございます!」

 みんなに合わせて大きな声を出した。

 ――ったく。「しゃべるな、しゃべるな」って、いつも自分でうるさく言ってるじゃん。

 無視されても全く動じる気配はなく、マキは続けた。 

「何でカラスみたいな声出してたの? あの人頭変なの? そもそもあんたたちがあのおじいさんを追いかけてたのはどうして? もーう。ずっと聞きたくて今日は朝早くから教室に来てたのに、あんた時間ギリギリで来るんだもん」

 ひろが指先を口に当てて見せても、マキは気にもとめない。精一杯こわい顔を作っても、動じない。一瞬小さな声にはなっても、だんだんまた元の声に戻っていく。高速で動き続けるマキの口をながめながら、この口の奥にはへんてこりんな機械があって、小人が休みなくハンドルを回し、そこから言葉がにょろにょろ出てくるに違いないと思う。ひろはためいきをついた。

「そこっ。おしゃべり止めんかい」

 二人は肩をすくめた。マキは口を両手で押さえ、えへへと笑った。担任の戸堂先生はいつもの赤いジャージ姿で「まったく」とか何とかブツブツ言いながら、すぐに別の話題に移った。この先生のことを剣ちゃんは陰で「トド先生」と名づけた。名前だけでなく、体型もトドに似ている。ひろは「まったく」と言いたいのは自分の方だと思った。トド先生は女に甘い。それに、なんで僕までしかられなきゃならないんだ。だいたい先生ってものは、偉そうで一方的だ。細かい事情なんておかまいなしに決めつけてくる。

 去年担任だった女の先生は生徒の日頃の行いをこまめにメモする人だった。「懇談会のとき、ひゃっふに「お宅のお子さんは授業中ちょっとおしゃべりが多いです。おうちでも注意してくださいね」なんて言ったのだ。あのときも隣にやたらと話しかけてくる奴がいたのに。ひろはうるさくて嫌だったからいつも適当に「うん」とか「いや」とか、適当に短く相手をしていただけだったのに。幸いその子とはクラスが別になったけど、今回はマキとのことでトド先生がそうするのかと思うと、ひろは横目でうらめしそうにマキをにらんだ。 

 休み時間になるとひろは二つ後ろの席にいる剣ちゃんのところにすっ飛んでいき、探検について話し込んだ。なるべく深刻な顔を作り、机の上にかがみこんで、ひそひそしゃべった。秘密の重大事件について男同士話し合い、近寄りがたいムードをかもし出しているつもりだった。

「昨日は惜しかったな、見失っちゃって」 

「……見失わなかったら、ずっとついて行った?」

 剣ちゃんは目を丸くして、

「今さら何言うんだ。するに決まってんじゃんか。じいさんの家までついて言って、何者なのか確かめないと」

「普通の家に入っていったら?」

「普通の家に住んでるひとってことになる」

「ぼろぼろの家に入っていったら?」

「ぼろぼろのに家住んでるひとってことになる」

「すごい家に入っていったら?」

「すごいに家住んでるひとってことになる」

「それから?」

「それからって何だ。それで冒険の目的は達成された」

「……それで探検終わり?」

 聞き返されて剣ちゃんは絶句し、片手を宙に浮かせた不自然な姿勢のまま停止した。それから手を下ろすと、にかっと笑った。

「まあそういうことになるな。俺たちは探偵でもないし。あまり多くは望むまい」

「それじゃつまんないよ!」

 マキが後ろから身を乗り出し、割り込んで来た。ずっと聞いていたらしい。

「ばかだねえ、あんたたち。こんな絶好の研究対象ないじゃない」

「け、研究?」

 ひろは「かかわるまい」という日頃の決意を忘れて思わず聞き返したが、

「何だよ。これが俺たち流の探検なんだ。お前に口を出される筋合いはない」

 剣ちゃんは武士のようにきっぱりと切り捨てた。

「だからばかだって言うの。先生が言ったこと忘れたの? 夏休み明けにグループで発表する研究テーマ、今週中に班ごとにまとめて提出しないと一学期終わるまで毎日、当掃除番やらせるっていうやつ。他の班みいんな提出したよ。残ってるの、あたしらだけ」

 剣ちゃんはひろの顔を見た。

「そんなこと言ってたっけ」

 ひろはうなずいた。

「剣ちゃんはあんまり先生の言うこと聞いてないからな」 

「あんたらが話し合いに参加しないから、まあ、あたしたちだけでそろそろ決めちゃおうかとも言ってたんだけど。なかなか面白いのがなくてさ」

 剣ちゃんは開き直った。ひょっとこみたいに口をとがらし、

「いい、いい。お前らだけで決めて、全然かまわない。それに、万が一掃除当番になったところで、俺トンズラするだけだしぃ。トドごまかすなんて、ちょろいしぃ」

 口笛を吹こうとしたが、かっこいい音は出なかった。スースーと漏れた妙な音を出し、それでも剣ちゃんは強がって見せた。

「トド? 言いーってやんだ。ばか!」

 マキが剣ちゃんの机をバンとたたいた。休み時間終わりのベルがなった。


 というようなわけで、結局はマキに押し切られ、急きょ「カラス仙人研究会」が立ち上げられる運びとなった。いつもは強気な剣ちゃんも、マキが発動した女子お得意の禁じ手「先生に言ってやんだ」攻撃にはさすがに逆らえなかったのだ。

 ひろはその日の放課後、しぶる剣ちゃんと一緒に班の話し合いに参加した。剣ちゃん二人だけの「探検」が他の子もまじえた、特にマキが率いる「研究会」に変わってしまうのはちょっぴり残念だったが、あのおじいさんの謎を知りたいという気持ちも強かった。正直なところ、剣ちゃんとの探検よりも研究会の方がなかみが濃くなりそうな期待もわいてきた。

 剣ちゃんの立場からすると、班の研究に協力しないこと、掃除当番の罰を受けることになったら逃げ出すつもりなこと、「トドごまかすなんてちょろいしぃ」と言ったことがバレるのはたいそう困るらしい。剣ちゃんのお母さんはそんなに怒らないけど、剣ちゃんのお父さんはちょっとこわいのだ。剣ちゃんのお父さんは大好きなボクシングの選手が負けたとき「ちきしょう」と八つ当たりで壁を殴り、その結果、壁にはゲンコツ型の穴が開いたという武勇伝がある。もっとも、手は血だらけのけがをして包帯ぐるぐる巻きになったし、いつもは優しい剣ちゃんのお母さんにものすごくしかられてしょぼくれていたというから、本当にこわいのはお母さんかもしれないけど。

「なんで『カラス仙人』なんだよ、マルンどん」

 剣ちゃんが、ふてくされた顔で聞く。

「ちょっと。あたしはマキ。変な呼び方しないでっ」

 叫んでからふと気を取り直し、マキは口に手を当てコホンと咳をひとつして、すました顔で言った。

「研究テーマっぽい、かっこいいネーミングでしょ。阿多間君が思いついたんだよ。あんたらじゃあ思いつかない」

 剣ちゃんに仕返しをするように、にくたらしい言葉を吐いた。マキのうしろの席の阿多間君は、勉強ができる。ひろの中では頭でっかちな「アタマ博士」というイメージだ。

「いや、ほんとはもっと手頃なテーマがいいんだけどね。毎日の天気を記録してグラフにまとめ過去のデータと照らし合わせて論じる『気候変化に見る温暖化』とか、毎日食べるものを記録してどんなふうに体調が変わったかを照らし合わせて論じる『食が体に与える影響』とかいうふうな」

「そんなのこれまでにも取り上げられてきたテーマだし、面白くないって言ったでしょ。身近にこんなすごい研究テーマがあるのに」

 マキはばさっと切り捨てた。アタマ君は言い返さず、メガネの端をちょっとさわった。アタマ君をはさんで女子がひとりずつ立っている。お下げ髪でおとなしめの子がうなずいておずおずと、

「あたしもあんまり難しいのはちょっと……」

 髪の先を指先でいじりながらつぶやいた。

「だからマキちゃんの言うのでいいっしょや」

 もうひとりの女の子がはーとため息をついて、面倒くさそうに言った。短い髪をしていて、皆の中で一番背が低いが一番太っている。ひろはこの二人の名前を覚えていなかった。

剣ちゃんも同じだったらしく、

「あんたら名前なんだっけ」

 何のためらいもなく、あっけらかんと聞く。マキがありえないと言う表情で、

「……っしゃあーっ。あんたクラスメートの名前も覚えていないのっ。同じクラスになってからもう二ヶ月になるじゃんか。失礼にもほどがあるんじゃないかいっ」

 またもめごとになりそうなのを、

「別にいいから。僕は阿多間智。このお下げの子が音無イナちゃん。こっちが大葉さなえちゃん」

「ふん、そうか。アタマ、イナ、オバサナだな」 

 剣ちゃんは覚えようとするように一人ずつ指差して言った。

「……何であたしだけ変なあだ名?」

「オバサナ」と呼ばれた子が太い声で抗議した。

「さえたネーミングだろう、瞬時に浮かんだ。俺が称号与えるなんてありがたく思え。『カラス仙人』なんてだっさい名前と比べ物にならんべや」

「ちっどこが、えらそーに。あんたらこそ人に名乗らせといて、自分も名乗りなよ」

 マキがやり返した。ひろもこれ以上、無益な戦いを長引かせたくなかったので答えた。

「僕が道賀ひろや、そっちが差三田剣次郎くんだよ」

「さびた剣、サビケンって呼ぼうか」

 後ろの三人を振り返ってマキが提案し、あははと笑う。

「ばっかやろう、俺はそんな名前じゃない。俺様にそんなさえない名前は似合わない。勝手に変なあだ名をつけて呼ぶなんて、失礼にもほどがある!」

 ぶ然とした顔で、剣ちゃんが口をとがらす。

 ――剣ちゃんが言ってもなあ。

 ひろは思った。ちなみに、剣ちゃんはひろのことを単に「ひろ」と呼ぶ。幼稚園で知り合ったばかりの頃は「ひろやちゃん」と呼んでいたが、「ひりょーちゃん」とか「ひりゃーつぁん」とか言い間違えたり何度か舌をかんだりして、途中から「メンドくせーや」と、ごく短く省略されるようになってしまった。でもひろはそう呼ばれるのが嫌ではない。剣ちゃんとぐっと仲良くなれた気がした。

「あんたに言われたくないよ。あたしは、みんな知ってるだろうけど、阿多間くんと一緒に学級委員をしている、佐藤マキだよ」

「……あったりめえの名前だな、つまらん。『マルンどん』のほうがずっとかっこいいだろうが」

 ――まだ剣ちゃんはマルンどんとの戦いを蒸し返そうとしている。もう帰りたいのに。それに、その名前あたりまえじゃないじゃん。「砂糖まきぃ!」て、きつめに命令されるようにも聞こえるよ。

 ひろは、でも、口には出さなかった。そして、マキが片手を上げて剣ちゃんに向き直り、

「なにさ、サビケ…」

 と言いかけるのを打ち消すように大きな声で、

「じゃあ、作戦練ろう。僕たちが知ってることを教えといた方がいいんじゃない?」

 そして、大体のところを話した。説明している間にも剣ちゃんとマキが口をはさんだり言い争いになったりして、余計な時間がかかった。ふと教室の時計を見上げると、話し合いを始めてから二時間も立っている。そのとき突然教室の戸が勢いよく開いた。トド先生だった。

「いつまで残ってるんだ、早く帰れ、帰れ」

 一回めの研究会議は解散になった。別れ際、校門のところで、にこりともせずに阿多間くんが口を開いて、

「今日はこんなに長々話す羽目になったけど、時間がもったいないから、もっと計画的にやらないと」

 一気に言った。あらかじめ言おうと思って、ためていたと思われる。マキや剣ちゃんが言葉をはさむ隙もなかった。そして、口を閉じた瞬間くるりと向きを変え、すっすっと両手両足をテンポよく起動させ、スピーディに去って行った。

「かなり頭に来てたな、アタマの奴」

 言ってから、うっへえと剣ちゃんが言い、腹を抱えて笑った。

「面白くもなんともないっての」

 マキがつめたく言い捨てた。

「それいい、サビケン一刀両断に切り捨てられるって感じだわー」

 ゲヘヘヘ……と笑ったのはオバサナだ。笑い声もオバさんっぽいなあとひろは思う。ひろはもうこの人のことを、この呼び名でしか思い出せない。 

「じゃあ研究のテーマはカラス仙人ってことで先生に提出しとくから。具体的な活動についてはまた話し合おう。みんな考えといて」  

「なんでお前が偉そうにリードするんだよ」

 剣ちゃんが口をとがらす。

「別にリードしてないよ、なんならあんたが進めてくれる? いろんな段取り、みんなのつごう合わせて活動計画立てるとか、ノートに内容まとめるとか、先生へ提出するとかも、全部やってくれる?」

 ちょっとの間考えて、剣ちゃんは「いやいい。やっぱりお前がふさわしい」ときっぱり言いきった。イナがクスッと笑う。剣ちゃんがジロリと見ると、イナはあわてて目をふせた。

 二人だけになって歩く道すがら、剣ちゃんはため息をついてばかりいた。あまりしゃべらなくて、剣ちゃんには珍しい現象だ。ひろは横でため息を数える。分かれ道に近づいてきた頃、ひろは、

「ため息が二十八回。がっかりしてるみたいだね」

 剣ちゃんはいつもの剣ちゃんに似ず、小さい声で、

「メンドくせーよー、あんな奴らと夏休みまで行動ともにしなきゃならないなんて。はあぁ、せっかくの探検台無しにされたぜ」

 ひろは剣ちゃんの背中をぽんぽんとたたく。

「元気だしなよ。掃除当番毎日やるよりマシだよ」

 言いながら、ひろは思う。あのときとは逆だなあ。ひゃっふとパンくんが別れたとき、剣ちゃん僕の肩を何度もたたきながら(ちょっと痛かった)「俺のアンパン半分やるから元気出せ」って言ったっけ。アンパンマンの顔を食べたら元気になるから、剣ちゃんのくれたアンパンでも少しは効果があるかもと思ったけど、実際はどうだったのかな。でも、おいしかった。

 はあぁーと二十九回目のため息をついて剣ちゃんは、いたずらっ子の顔になってひろを見た。

「サボっちゃおうか」

「マルンどんが怒ると、よけい面倒くさいことになりそうだよ」

「だよなー、はあぁー」

 三十回目。


   3

「具体的な活動についてはまた話し合おう」とマルンどんは言ったけれど、実際には話し合いはほとんど行われなかった。というのも、始めようとするたびに剣ちゃんが逃げたり、アタマくんが、

「家庭教師の先生が来る時間だから」

 とかいって、お流れになったからだ。たまにうまくそろっても、剣ちゃんとマルンどんの間にもめごとが起き、無駄な時間を過ごしただけで終わったりした。

「もういいや、適当にあたしがまとめておくから。先生に活動計画を提出してオーケーがもらえたら、みんなに配る」

 マルンどんがそう言ったとき、反対する者は誰もいなかった。みんな、心のどこかで、計画なんてどうでもよくなってきていたに違いない。あとでどんな運命が待っているかを知ったなら、もうすこし真剣に考えたに違いなかったのに。

 一週間後マルンどんがみんなに配った紙には、次のように書かれていた。


 第三班・夏休み研究のテーマ

 「カラス仙人の謎を解く」

 活動計画

 ①跡を追跡する

  (所要日数……三日。三つのグループに分かれ、時間ごとに担当すること)

 ②すみかを見つける

  (所要日数……右の活動中になされる。よってプラス0日)

 ③話しかける → 友達になる。

  (所要日数……一~三日。全員で参加すること)

 ④カラスの鳴き声を習う。

  (所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日) 

 ⑤本当にカラス仙人なのか謎を解く。聞いてダメなら一緒に行動して推理すること。 

  (所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日)  

 ⑥まとめ・考察

  みんなで話し合って研究をまとめる。

  (所要日数……一日)                                                    

 まずアタマくんが発言した。

「これでいくと大体一週間で研究終了ということになるね。それはありがたいけど」

「こんな予定どおりにいくもんか。おまけに『カラスの鳴き声を習う』って、なんだよ。ばっかでねえの」

 案の定、剣ちゃんがかみついた。

「予定通りにいかなかったら、それはそれで研究結果をまとめて提出できるからいいでしょっ」

 それからマルンどんは、ちょっと態度をやわらげて、

「カラスの鳴き声を習うのは、あんなにうまく、本物そっくりに鳴けたら楽しいなーって思ったから」

 肩をすくめてえへっと笑った。かわいくもなんともないと、ひろは思った。アタマくんも剣ちゃんもぞーっとした顔をした。

「……①で三グループに分かれて時間ごとに担当するって?」

 イナがおずおずと聞いた。こちらは、まあかわいいかもしれないとひろは思う。マルンどんもイナに対しては優しい。

「ああそれね。聞くところによるとカラス仙人は午後現れるらしいから、六人のうち二人ずつに分けてそれぞれ、午後一時から二時半、二時半から四時、四時から五時半を担当するってのどう? 現場待機で」

「いいけど、二人ずつってどうやって決めんのさ」

 オバサナの言葉にアタマくんがすばやく反応する。

「席が隣り合った人同士ってことでいいと思うな」

 ――それでいくと、アタマくんの隣はイナだ。

 ひろはアタマくんが一番無難な線をねらったなと思う。イナの顔を見ると、その表情からはいいとも悪いとも読み取れない。あいまいに笑っている。ひろの隣はマルンどんだ。剣ちゃんの隣はオバサナだ。

「異議あり。ダメだそんなの。公平にくじ引きかじゃんけんでいくべ」

 予想どおり剣ちゃんが割って入り、ひろは心の中で大声援を送る。くじ引きということになって、結果、ひろとアタマくん、オバサナとイナ、そして剣ちゃんとマルンどんになった。手を合わせて喜ぶオバサナとイナ。無表情のひろとアタマくん。不満たらたらのマルンどんと剣ちゃん。

「うげえ」

 剣ちゃんは頭を抱えた。マルンどんも負けていない。

「こっちのセリフだよ、失礼にもほどがある」

 また無益なもめごとが、延々と続きそうになった。ひろは「まあまあ」となだめながら、

「でもさ、待機してるうちにおじいさんが来ちゃったらついて行くんだよね。次の組と交代できなくなっちゃわない?」

「そのときは二人のうちひとりが追跡して、もう一人は次の二人が来るまで現地で待ってればいいでしょ」

 マルンどんはきっぱりと自信ありげだが、

「そんなにうまくいくかなあ」

 ひろがつぶやくと、剣ちゃんが重ねるように、

「追跡しているうちに自分の持ち時間が来たら帰っていいんだよな」

 ダメに決まってんじゃーん、という声が口々に上がる。剣ちゃんはこの研究が嫌でたまらないという顔だ。もともとはひろと探検ごっこのつもりだったのに、自由研究テーマになった途端、すっかりやる気を失ってしまった。おまけにじゃんけんでこの展開……。剣ちゃんの気持ちもわかるけど、ひろとしてはやはりあのおじいさんが何者なのか知りたいのだった。「研究会」と名前やかたちが変わっても、謎が解けるのなら、それはそれで面白そうだ。

 協議した結果、時間オーバーしても追跡をしているうちは切り上げて帰ったりしないこと、よけいに研究に費やした時間は、別な日の割り当て分から差し引いて負担を軽くすることなどが新たに決められた。おもにアタマくんの提案によるものだった。こうした理屈っぽい段取りは、あの坊ちゃん刈りの頭からスラスラ出てくるものらしい。

「活動の順番も決まったし、夏休みが始まるのが楽しみだね」

 マルンどんがみんなを見回して活気づく。イナがあいまいにうなずく。オバサナが「まあどうせやんなきゃならないんなら、楽しんでやったほうがいいよね」とガハハと笑う。アタマくんはそれには答えず、

「じゃあ僕、習いごとの時間があるから」

 ノートと筆箱をきちんとしまうと、急いで教室を出て行った。

 帰り道、剣ちゃんが言った。

「なんだか気にくわねーな」

「もうあのおじいさんのこと興味なくなった?」

「んなわけでもねーけど。……そうだ、今からあそこに二人だけで行っちゃう?」

 剣ちゃんがひろの目をのぞきこんだ。

「行ってどうする?」 

「俺たちだけで探検しちゃうんだ。マルンどんやアタマにかき回されないうちに終わらせよーぜ」

「終わらせるって?」

「だから、じいさんの後をつけるんだ」

「それから?」

「だから、家を見つける」

「それから?」

「だから……オシマイ」

 剣ちゃんは自分の顔の前で両手をたたいてパッと広げ、おどけて見せた。いつもなら笑って返すところだが、このときひろは黙って見ていた。剣ちゃんはイヒヒと笑い、なおもひろの顔をのぞき、

「な、どうよ」

「つまんない」

 剣ちゃんがムッとした顔になったので、あわててひろはつけ足した。

「第一、別行動を取ったらまたもめごとになるよ」

 剣ちゃんは腕組みして考える。

「……だよな。よけいメンドくせーことになるか」


 夏休みが始まってからすぐに活動は開始された。「どうせなら早くすませようぜ」という剣ちゃんの強い主張は通った。結果がどうであれ、予定の日数を活動すれば、終わらせられる。そんな気持ちを抱いていた者も少なからずいただろう。

 ひろにしても、おじいさんの謎を解きたい気持ちは山ほどあるけれど、夏休みの大事な時間を研究一色に染められるのは嫌だった。ゲームもやりたいし、剣ちゃんと虫取りして遊びたい。ひゃっふとしょうすけくんにどこかにつれて行ってもらいたいし、パンくんとの月に一度の面会日もあった。そしてなにより、おじいさんがそんなにうまく現れてくれるとも限らない。もし現れたとしてもこのメンバーで果たしてちゃんと追跡できるかわからなかった。特に、イナとオバサナのときに不安がある。イナは頼りないし、オバサナは何に対してもテキトーそうだ。だから何にせよ、淡々と計画にそってこなしてそれでオシマイ、というのもまずくはないと思えた。やるだけやってダメなら諦めもつくというものだ。

 けれども、ひろのそんなもろもろの思わくとは裏はらに、おじいさんは活動初日にドンピシャリと現れたのだった。オバサナとイナが一番最初の組だった。ひろは二番目で、待ち合わせ場所に時間ぎりぎりで着いた。アタマくんはもう来ていて、

「もう引き継ぎすませたから。まだ現れていないよ」

 メモ帳を開いて見せた。先発部隊は「じゃあねー」と去って行った。

 アタマくんとはほとんど話したことがない。ぼーっと立っていた。剣ちゃんと一緒なら、虫を探したりゲームのこととかいろいろおしゃべりをして、あっという間に時間が過ぎていくのだが、アタマくんとだと、何を話していいかわからない。咳をしてみたり、まわりをキョロキョロしてみたり、鼻歌を歌ったりして時間をつぶしたが、それでもまだ退屈だ。だんだん眠くなって来た。立ったままウトウトしかけて、はっと体勢を立て直す。何かしないと眠ってしまいそうだ。なんでもいいから声を出そうとしたそのとき、アタマくんのほうから話しかけてきた。

「こうやって何もしないでじっとしているのもいいもんだなあ……。ほっとするよね」

 ひろは、アタマくんが自分とはかなり違った思考の持ち主だと知った。そのときだった。

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 二人が振り返った向こうから、ゆっくりと歩いてくるおじいさんの姿が見える。

「き、来た」

「あ、あのひとが」

 アタマくんの手から鉛筆が滑り落ちた。地面を転がっていく。ハッとするアタマくん。急いで地面から鉛筆を拾い上げる。腕時計を見、「午後二時四十三分」とメモをした。

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 声が大きくなる。おじいさんはどんどん近づいてくる。

 ひろは初めて、おじいさんの姿かたちをじっくり観察するゆとりができた。薄汚れた灰色のポロシャツ。ズボンは黒くてヒラヒラした薄い生地、靴はところどころ色が抜け、くたびれた感じ。髪の毛は白髪でバサバサだ。顔はどうかというと――確かにくちばしはない。人間だ。表情があれば、けっこう知的に見えるかもしれないおじいさんだ。でもひろたちが見ているのに、目を合わせもせず、空中の一点をぼんやりと見つめて、

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 ひろたちの横を通り過ぎていく。周囲にはほとんど誰もいない。遠くを走っている人とか、自転車に乗っている人とかが見えるけれど、誰もカラスに似た鳴き声、いやカラスそのものの声を出しているおじいさんには気づかないようだ。それとも、あのおじいさんの姿は僕たちにしか見えていないのか?

「つけないと」

 アタマくんがひろの肩をたたいた。こういう事態が発生したらどちらかが尾行し、もうひとりは残って次のメンバーがやってくるのを待つ、ということにはなってはいた。しかし、ひろはこのときになって気づいた。ひろとアタマくんとの間で、この役割分担についての取り決めをしていなかったということに。

「僕がつけるの?」

 アタマくんは大きくうなずいた。

「ひろくんが一番知っているんだから、ひろくんが行くのが最適だ。広い道だし、見失う心配もない。もうすぐ次のグループがやってくるから大丈夫、合流できるよ。僕は今の状況をメモにまとめておいて次の研究員に引き渡す。そして三人一緒にひろくんに追いつく」

「研究員」だなんて言葉を使い、もっともらしい言い方をしてるけど、ほんとはアタマくん尾行するのが恐いんじゃないかな。そう思いながらも、時間的に余裕もなく、あわててひろはおじいさんを追いかけた。なるべく足音を立てないように、気づかれないように。

 どんどん進む。脇道にそれ、緑の小道に入っていく。振り返り、片手を上げて合図すると、遠くで小さくなったアタマくんがうなずき、両手で大きくマルを作る。ひろは尾行を続けた。おじいさんは突き進む。うっそうと木が生い茂るなか、ただ「アゥアー、アゥアー、アゥアー」と繰り返し鳴きながら。ふり向く気配はなかったのでそのぶん気は楽だったが、ついて行けば行くほど不気味な気がしてくる。

 ――このへん、シラカバの木が多いなあ。

 シラカバは、幹に人の顔みたいな模様がたくさんある木だ。ひゃっふたちと一緒に来たときは「オモシローイ」とか笑って見ていたけど、今日はやたらにビミョーなのが目につく。にらんでいるような顔。泣き出しそうな顔。ウンチをがまんしているみたいな顔。そうこうしているうちにも、おじいさんはどんどん進む。他には誰もいなくて、細い道におじいさんと数メートル離れてただ二人。ばさっと音がして、黒い影がひろの頭をかすめて行く。

「ひえっ」

 思わず声が出て口を抑えたが、おじいさんは振り向かない。影はおじいさんの頭にも急接近する。一羽のカラスだった。おじいさんの頭を攻撃するかと思いきや、そのボサボサ頭に着地した。おじいさんがピタッと立ち止まる。カラスは勝ち誇ったように鳴いた。

「アー、アー、アー。アッアッアッアー」

 おじいさんはじっとしていたが、また何事もなかったかのように歩き出した。

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 カラスを頭に乗せたまま、進んでいく。カラスは首をかしげたり、キョロキョロまわりを見回したりしながら、おじいさんの頭にしばらく試乗していたが、やがて飽きたのか、飛びたつと近くの木の枝にとまった。ひろが驚いたことに、おじいさんは初めて人間らしい動きを見せた。木を見上げて、カラスをじっと見つめている。ひたすらじいっと見ている。

 十分が経過した。腕時計を見ると、だいたい三時半。まだひろの持ち時間は三十分近く残っている。こんなことなら、アタマくんにも一緒に来てもらって、今ぐらいの時間になってから待ち合わせ場所にどちらかが戻るという方がよかったと思う。それなら、途中経過も詳しく次の組に伝えられたんだし。というより、僕はもしかしたら、次の組が追いかけて来て合流できるまで、ずっとここに立っていなくちゃならないのかもしれない。でも、もし合流できなかったら? 

 銅像のように動かないおじいさんを見ながら、ひろは絶望的な気分になる。するとだしぬけに、木の上のカラスが「クエーッ」と一声鳴いたかと思うと、山のかなたへ飛び去った。おじいさんは後を追うように、小道を足早に進み始めた。すごい速さになって、ついに走り出した。

「ま、待って!」

 ひろは叫んだ。おじいさんはピタッと止まった。思わず声が出てしまったことに、ひろは我ながら驚いた。さらに、おじいさんが自分の声に反応したことに、もっと驚いた。おじいさんはくるりと向きを変えると、ひろを見すえて近づいてきた。

 ――どうしよう、逃げなきゃ。

「話しかける → 友達になる」と計画表には書いてあったが、もうそれどころではなかった。ひろはおじいさんに背を向け、走り出した。おじいさんは追いかけて来た。懸命に走ったが、思いのほかおじいさんは速く、じきに追いついて、ひろのTシャツの襟首を後ろからぐいとつまんだ。ひろは両手両足をじたばた振り回しながら、

「は、はなしてー。はなしてー」

 叫ぶと、おじいさんは、

「悪ガキ。なんでわしを追いかけてくるんじゃ」

 手を離さずに、ひろの前に回りこんだ。

「に、人間の言葉をしゃべってる!」

 ひろが叫ぶと、おじいさんはぎょろっ見返し、

「あたりまえじゃ、悪ガキ。なぜそんなこと言う」

「だって、だって、いつもカラスの鳴き声を出してるから。『人間じゃないかも』って思っちゃったんだよー」

 破れかぶれでひろは叫んだ。おじいさんははっとしたように、

「いつからわしを見てたんじゃ、悪ガキ」

「『悪ガキ』じゃないよ。ちゃんとした、れっきとした、小学三年生だよー。はなして、はなしてー。いつからって、おじいさんのことなら一ヶ月以上前から見てるよー。だ、第一、おじいさんが人間なら、どうしてカラスの声ばかり出してたんだよーっ」

 さらに手足を振り回すと、ようやくおじいさんは手をはなした。ひろは前につんのめりそうになって、かろうじて耐えた。

「お前は誰じゃ」

「ひ、ひろ」

「ひひろ?」

「いや、ひろです。れっきとした小学三年生です」

 ひろはややあらたまって訂正した。言いながらも、少しずつあとずさりする。離れるにしたがって、少しずつ落ち着いてきた。六歩ばかり離れたところで立ち止まり、

「おじいさんがカラスの声ばっかり出すから不思議で、ついてきた」

 おじいさんは黙って、答えない。よく見ると、目を閉じて、眠っているようにも見える。まさか。でも、ずっとこのまま待っていてもしようがない気がしてきた。頭の片隅で『今は何時かな』と考えた。腕時計をちらりと見る。普段はあんまり使ってない、ミッキーマウスの腕時計。おもちゃ箱の奥から引っ張り出してきたやつだ。ひろの持ち時間を十分も過ぎているのがわかった。

 ――アタマくん、帰っちゃったのかな。ひどい。僕だけこんな目にあって、割りに合わない。

 このままくるりと向きを変え、走って逃げてもいいと思えた。しかしなぜかそう出来ない。足が地面にくっついたように動かない。それに、走り出した途端、おじいさんがかっと目を開けて、「クエー」とかなんとかいいながら、ものすごい形相で追いかけてくるかもしれず。

 いくらひろが考えても、手っ取り早くこのピンチから抜け出す方法は見つけられそうになかった。仕方なく、ひろは、

「お、おじいさんとお友達になりたい」

 しどろもどろで言ってみた。嘘をついてはいない。計画表にはそう書いてあったんだから。ただ、今の気持ちとはほど遠いけど。

 ――次にバトンタッチしたいよう。次、誰だっけ……剣ちゃんだ! 剣ちゃんとマルンどんだ。

 思い出して、少しひろは元気が出た。

 ――剣ちゃんは裏切らない。マルンどんだって、筋は通すほうだ。絶対来てくれる。はやく、早く来てくれよう。

 祈るような気持ちで心の中で叫んだとき、おじいさんは手を振り上げた。

 ――たたかれる。

 そう思ってひろがぎゅっと目をつぶったとき、おじいさんは不意にひらりと飛び上がって、空中で両手をひらひらさせた。両手が黒い翼になってゆく。おじいさんは大きめなカラスに変化した。

「えええー」

 ひろは腰を抜かして地面に尻もちをついた。

「わしに会いたくば、明日この時間に会おうぞ!」

 ひろは腕時計を見た。四時十八分。おじいさんは、いや大ガラスは、山へ向かって飛んでいき、やがて見えなくなった。


   4 

「ちょっと、何やってんのっ」

 ――マルンどんの声がする。

「大丈夫か、おい」

 強く揺り動かされて、ひろは我に返った。剣ちゃんとマキが立っている。後ろにアタマくん。

「二人と合流して追いかけて来たら、ひろくんが立ったままぐうぐう眠ってるんで、驚いた」

「眠ってなんかいない」

「鼻ちょうちん出てたし」

 マルンどんが明らかにありえないことを言う。マンガじゃあるまいし。

「ありえない」

 口に出して言ってから、ひろは自分の身に起こった、本当にありえない出来事を思い出した。

「……というふうなことで、おじいさんはカラスになって飛んでいってしまったんだ」

 真面目に報告したのだが、案の定、三人そろって「ありえない」と決めつけた。

「そんなのあんたが見た夢だよ」

「疲れてるんだな、ひろくん」

 マルンどんとアタマくんの反応はしかたがない。どうせそれだけの奴らだから。にしても、剣ちゃんにまで疑いの眼差しを向けられたのはつらかった。ひろは皆の顔を順に見ながら必死に訴えようとしていたが、ふと腕時計を見てつぶやいた。

「四時十八分」

「なに」

 剣ちゃんが聞き返す。

「四時十八分。『わしに会いたくば明日この時間に会おうぞ!』って言った時間」

 剣ちゃんがじっとひろの目を見た。

「ほんとか」

 今度は他の二人が「ありえない」と言い張った。剣ちゃんはそれを制して向き直り、ひろの両肩に手を置いて、

「夢じゃないのか、本当のことか」

 ひろも真面目に剣ちゃんの目を見返して言った。

「夢なんかじゃない。僕、剣ちゃんに嘘言ったことある?」

 剣ちゃんはそのまま固まったように一分半ばかり黙っていたが、やがて、目を閉じ、腕を組んでうなずいた。

「よし、信じよう」

 マルンどんは怒った顔つきで何か言いかけたが途中でやめて、

「ぶわっはっはっ」

 バカにしたように笑い出した。剣ちゃんがムッとして何か言いかけとき、下を向いてなにやら考え込んでいたアタマくんが顔を上げ、

「いいんじゃないの。明日みんなその時間にここに来れば、嘘か本当かわかるよ。他の二人には僕、連絡とっておくよ」

 ひろはアタマくんがさっさと帰るかと思いきや、案外熱心なのが意外だった。「嘘か本当か」と言われたのは心外だったけど。あの光景を見たひろ自身「ありえない」と思うが、断じて夢なんかではなかった。立ったまま眠ってなんかいない。おじいさんがカラスになって飛んで行くのに驚きすぎて、しばらくの間、ぼんやりしていただけだ。これが、本当に時々立ったまま眠る癖のある人だったら、マルンどんに「鼻ちょうちん出して眠ってた」と言われても返す言葉もないけれど。そんなあれやこれやを説明したくても、ひろにはうまく話せそうもなかった。黙っているうちに、アタマくんはメモ帳をめくりながら、よどみなく続けた。

「『予定通りいかなかったら、それで研究結果をまとめて提出』って話し合ったね。こういう展開も当然予想できたことだよ。明日おじいさんが現れなかったら、研究がうまくいかなかったことをみんなでまとめればいいだけのことだよ」

 マルンどんがふふんと笑って、

「たとえば、『ひろが立ったまま居眠りをして、研究は失敗に終わった』とか?」

 剣ちゃんが「おまえなー」とげんこつを振り上げ、たたくふりをする。もちろんマルンどんは素早く逃げる。アタマくんはメモ帳を閉じ、

「明日おじいさんが現れなくても、少なくとも最初の予定通り一週間は研究を続けよう。……ひろくんを信じるという剣くんの意見に、僕は賛成だよ」

 淡々としめくくった。剣ちゃんが瞳をきらきらさせて「案外おまえいい奴だなー」と笑った。ひろもそう思った。さっき窮地におちいって「どうせそれだけの奴ら」なんて感じたのを、申しわけなく思った。同時に、もし明日おじいさんが来なかったら、本当にみんなに合わせる顔がないとも感じた。

 ――まあなるようになるしかない。

 自分で自分を励ますように大きく深呼吸し、胸を張ってみた。すこし気分が軽くなった。マルンどんはといえば、ふてくされて遠くの空を見つめた。池の方からは、ゲコゲコとカエルの鳴き声がしていた。


 次の日の夕方。オバサナとイナもやって来た。一番早く来たのはひろ。約束の四時十八分にはまだ三十分以上間があったが、心配で、家にじっとしていられなかったのだ。四時にやって来たのは、マルンどん、イナ、オバサナ。女の子は必ず誘い合ってくる。トイレもよくつれだって行くし。そういえば、どうして僕は今日剣ちゃんを誘いに行かなかったんだっけ。

「忘れてた!」

 ひろは思わず声に出した。いつもならこんなとき必ず行動を共にするのに、おじいさんが来るか心配なあまり、誘いに行くのを忘れていた。時間が早かったから、誘っても剣ちゃんは嫌がったかもしれないが。四時十分。アタマくんがやって来た。

「みんな時間を守って偉いね。あとは剣くんだけか」

「大丈夫かい、あいつ。『よし信じる』なんて、カッコつけちゃってからに」

 ひろをじろりと見ながらマキが言う。イナがとりなすように、

「きっと来るよ、大丈夫だよ。ね、サナエちゃん」

 オバサナはバナナを食べていた。うっとりと匂いや感触を楽しみながら味わっている。いきなり同意を求められ、喉つまりしそうになって目を白黒させたが、すぐに食べることに切り替え、もぐもぐかんで飲み込んだ。ふうと一息ついてから、

「うん、大丈夫なんでないかい」

 皆を見回してガッハッハと笑う。バナナの皮をビニール袋に入れるとリュックに入れて、

「ゴミはちゃんと持ち帰らないとねえ」

 次に飴玉の袋を取り出してみんなに「いるかい?」「いるかい?」と言いながら配って回った。

「遠足じゃないんだから」

 マルンどんがあきれ顔で言う。でも、イチゴ味の飴をしっかり選んでポケットに入れた。アタマくんは塩飴、イナはメロン味、ひろはミント味を選んだ。オバサナはバナナで満足したのか、今は飴は食べない。袋をゴムでとめて、リュックにしまおうとした。

「あ、剣ちゃんのぶん」

 ひろが気づいて手を出すと、マルンどんが、

「もう時間過ぎてるよ。あいつほんとに来んの? あんなのに取っといてやることない」

 イライラしながら言う。

「いいよー飴くらい。ほれ」

 オバサナは袋にテキトーに手を突っ込んで、一個ひろによこして来た。黒砂糖飴だ。

「……五分過ぎたな。剣くんもおじいさんも来ないな」

 アタマくんが少し曇った表情になる。ひろも心配になる。

 ――やっぱり迎えに行くべきだった。

 しかし、ひろは剣ちゃんのぶんの飴を預かったことで、剣ちゃんは必ず来るような気にもなっていた。何の根拠もないけど。

「おーい、ごめんごめん」

 さらに十分程して、走って来る姿。

「剣ちゃん!」

 ひろは剣ちゃんに飛びついた。

「遅かったよ、剣ちゃん」

 剣ちゃんは頭をかきながら、

「わりい、寝坊しちまった」

 マルンどんがこわい顔で剣ちゃんをにらむ。

「なに寝坊って。もう夕方じゃん」

「そりゃあ、昼寝の後ってことだよ」

「もう、しようもないな」

 マルンどんが言うが、剣ちゃんはへらへら笑ってどこ吹く風である。

「はい剣ちゃん、オバサナから」

 ひろは剣ちゃんの手に黒砂糖飴を握らせる。

「や、サンキュー」

 剣ちゃんはさっそく口に放り込み、オバサナにも手をふった。にっと笑うオバサナ。剣ちゃんはそれから思い出したように、

「じいさんはまだか。ひろの言ったことは信じるけど、じいさんのほうは……。信用ならねーな」 

「そうだね、ひろくんがおじいさんにだまされったってことも考えられるね」

 アタマくんも同意する。ひろは抗議する。

「そんなことないよ、あのおじいさんに限って、嘘つくなんてこと絶対ない」

 マルンどんがじろりと見る。

「なんで」

「なんでって……」

「なんでそう言い切れるのさ」

「マキちゃん」

 イナがとりなす。

「まーまー、もめてもしようがないよ。もすこし待って、それで来なかったら諦めて、帰るとしようよ」

 オバサナのセリフ。ありがちな展開。でもひろはこのとき、いつもより強く出た。

「あんなに本物のカラスの鳴き声が出せることとか、カラスになって飛んだこととか、うん、それから『わしに会いたくば、明日この時間に会おうぞ!』って言ったときのぎょろっと光った目とか、どれを取っても嘘をつくような、そんないい加減な感じはしなかった。だから頼むから、もっとおじいさんを信じようよ」

 必死になってしゃべりながらも、自分の口から出ている言葉が現実ばなれしていて、ツッコミどころ満載だよと、もうひとりのひろが心の中でささやいていた。でもひろは止めることができず、言いたいことを言ってしまった。いっぽう、みんなのほうは笑いもしないで黙りこんだ。それぞれに何やら考えているようだった。

「まあ信じるとするか」

 剣ちゃんがぽつりと言った。

「あたしも。信じていいよ」

 と、オバサナ。二本目のバナナを取り出し、かぶりつきながら。イナもいつもより大きな声で、

「あたしも」

「……そうだね。とりあえず僕ももう少し信じて待つことにする」 

 アタマくんまでが賛成したので、マルンどんもしぶしぶ、うなずいた。

「まあどうせ待つのなら、信じて待つほうが気持ちいいかな」

 そして皆静かになって、待った。それから、五分待った。マルンどんが、ハーッとため息をつく。十分待った。オバサナが飴を一個口に入れ、みんなにもまた配ろうとする。イナと剣ちゃんはもらい、他のみんなはもういいと言う。二十分待った。

「……おじいさん……時間まちがえたのかも」

 ひろはためらいつつ言った。「おじいさんを信じようよ」とあんなに強く言った手前、帰るきっかけを作る責任みたいなのを感じていた。皆意気消沈しているようで、怒る者もなく、今日のところは帰ることにした。歩き始めたとき、後ろから声が響いた。

「待てぃ」

 おじいさんが立っていた。いつの間に現れたのか。昨日と同じようなくたびれた格好で、にこりともせずに皆をじっと見ている。それからひろを指差して、

「ひろ、お前!」

 眼光鋭くにらんだ。ひろは肩をすくめ、縮み上がる。

「なんでこんなに悪ガキどもがゾロソロいるんだ。わしをだまくらかしたのか? 答え次第ではただではおかんぞ」

 ひろは口を開きかけたが、あわあわして声にならない。剣ちゃんがそばに来て、心配そうにひろとおじいさんをを見比べる。空気が張り詰めた。恐れをなして石化した者たちの視線を感じながら、おじいさんは非常に満足げに、やおら天を仰ぐと雄叫びをあげた。

「馬鹿者ども。アゥアー、アゥアー、アゥアー」  

 だが、石化していたのは六人の全てではなかった。 

「悪ガキとか馬鹿者とか随分言ってくれちゃってー、カラス仙人ってあんた? いつからそこにいたのさぁ。全然気づかなかったわあ」

 オバサナがガハハと笑って、おじいさんにズカズカ近づいたと思うと、思いきり肩をばんとたたいた。そしてポケットをごそごそやって、

「食べる?」

 飴を一個差し出した。今度はおじいさんが石化する番だった。飴を右手の親指と人差し指でつまんで目の高さに持っていき、うさんくさそうに見ている。

「おいしいよ、ほれ」

 オバサナが飴を取り返して、袋を破っておじいさんの口に放り込む。

「おいしいっしょ?」

 オバサナがにっと笑う。おじいさんは「か、からい」と身震いした。オバサナはガッハッハと笑う。おじいさんはそれでも口をすぼめたまま、飴を吐き出すことはなかった。

「……ね、ね? おいしいっしょ? それ、ミントの中でも超からいヤツ。『激辛しょうがミント』っていって、袋の中にも一、二個しか入ってない貴重品なんだ。ラッキーだね。慣れるとおいしいんだよ」

 オバサナが顔をのぞき込む。ひろはポケットに入れた自分の飴を見てみる。「ミント」としか書いていない。ちょっとガッカリ。おじいさんは目を閉じ、なぜか両手を後ろに伸ばして、ゆっくりと上下させ、味わっている。鳥が翼を広げたり閉じたりする動作に似ていなくもない。

「あっはっはー。そうしていると、ほんとにカラスみたいだわー。おじいさん、カラスがよっぽど好きなんだねえ」

 おじいさんは目を閉じたまま、返事をしない。そしてみんなは、オバサナの暴走を止めることが出来ずにただ見守っているばかり。心の中であせり始めたのはひろだけではなかった。ついに沈黙を破って、アタマくんが前に進み出た。

「……あのですね、おじいさん。僕たち、ひろくんの友達なんです。悪ガキじゃありません。その、おじいさんのこと知りたくてついてきただけで……。ひろくんと同じように、おじいさんとお友達になりたかったのであって……。けっして、けっして、あやしい者では、ありません」

 ひろは胸の中で、アタマくんに手を合わせたい気持ちだった。いっぽう、おじいさんは超からいミント味に慣れてきたのか両手を下ろし、じっくり味わうように口の中で飴をごろごろさせ、聞いているのかいないのか、依然として目はつぶったままだ。左右のほっぺたが、かわりばんこにふくらんだりへこんだりする。

「……おじいさんとお話できたらと思ってずっと待っていたんですが、もう夕方になってしまいました」

 おじいさんは初めてうんと言って目を開き、ぎょろりとアタマくんを見た。

「お前はなかなか筋の通った話をするの。名はなんという」

「アタマくんです!」

 ひろは思わず叫んだ。おじいさんはちらっとひろを見たが、すぐにアタマくんに視線を戻し、

「それで? アタマくん」 

 名指しされて少したじろぎながらも、アタマくんが答える。

「そ、それで。親が心配するといけないので、今日はもう帰らないと……。だ、だから、別な日にまた会ってもらえればなあと思うんです。もっと早い時間だと……非常に助かるんですが」

 ひろは『アタマくん、さすがだなー』と思った。見た感じでは、みんな多かれ少なかれ、同じようなことを思っているに違いない。

「では明日、朝日が昇るとき、ここで会おうぞ!」

 おじいさんはあっさりそう答えると飛び上がり、ぷっとオナラをひとつしてから、大きなカラスになって飛んでいった。

「えぇ、ええええーっ」

 全員口を開けたまま、大ガラスが飛び去って行く山の方角を見ていた。


   5

「……本当だったでしょ」

 ひろはみんなの顔を見比べながら言った。

 オバサナは動かない。大きく開けた口からよだれが出、近くの木の幹に寄りかかっている。イナはそんなオバサナにしがみついている。剣ちゃんの顔は驚いたものからだんだん嬉しそうなものに変わっていき、ひろを見て何度も大きくうなずいた。アタマくんはメモ帳に何やらこまごまと書き込んでいる。マルンどんは目を見張ったまま長いこと黙り込んでいたが、やがて、ようやく口を開くと、

「……こんなことあるんだ。本当に『カラス仙人』だったんだ……」

 アタマくんがメモを書くのを終え、メモを読み返しながらつぶやく。

「こうして記録してみても……。まだ、信じられない。人間がカラスになるなんて」

「『信じる』とかなんとか言ってたくせに」

 すかさずマルンどん。こんな状況でも憎まれ口をきくのを忘れない。変なところにひろは感心した。アタマくんは頭をかきながら、

「……確かに言ったよ。でも言葉で言ったことは、頭の中で考えたことだったんだ。『信じる』っていうのは、心でああそうだって納得することなんだ。このふたつは、違う。全然違うってことを今、思い知った」

 こんな状況でも論理的だ。ひろには、アタマくんの言うことはわかるようでなんだかよくわからない。

「しかし、全員が同時に催眠術にかけられたってこともあり得る。あのオナラが催眠術に関係あるかもしれない。オナラの音か? オナラのにおいか? 普通に臭かったけど。うん? と、いうことは……」

 アタマくんはこぶしを一つ顎の下に持っていき、歩き出した。ぐるぐる回りながら思考をめぐらし、迷宮に入って行きそうになるのを、剣ちゃんが食い止めた。

「シチメンドウくせーことはいい。とにかくこうなった以上、明日また来ないとな。『朝日が昇るとき』っていつだ?」 

 アタマくんはハッとして、ポケットからスマートフォンを取り出した。ちょっと調べてから、

「……この時期の日の出時刻。朝四時ごろに来れば間に合うと思う」

「げっ、やってらんねー。今度は朝の四時か」 

 剣ちゃんが叫ぶ。他のみんなは口を大きく開けて、ぽかんとしている。

「とにかくしようがない。明日、ここに四時集合ということにしよう。うちで心配するといけないから、もうほんとに帰らないと」

 アタマくんが打ち切ってくれなければ、みんなずっと思考停止状態のアホヅラのまま、長いこと石化していたかもしれない。アタマくんの言葉にホッとして、それぞれ家の方角へ散っていくこととなった。

 ひろと二人きりになると剣ちゃんは、

「にしても、明日そんな早く出てこれるかな」

 珍しく不安げだ。ひろも、

「無理っぽい。起きれるかどうかもわからない。しょうすけくんはともかく、ひゃっふがうるさく聞いてきそうだ」

 ひろは下を向いて黙り込んでしまった。剣ちゃんはひろの顔を見た。それから、おかしな顔をしてひろを笑わせようと、みっつばかり違うバージョンを試みた。まず、眉を八の字に寄せて、困ってしまって泣きそうな、情けない顔。次に、厳しく目を釣り上げ、口の両端を思いっきり下に引き下げた、歌舞伎役者みたいな顔。両手を開いて突っ張っても見せた。おしまいは頬を大きくふくらませて、鼻を指で押した、豚っぽい顔。

 いつもなら笑うところだが、いろんなことがありすぎて疲れてもいたし、これから家に帰って遅くなったことの言い訳をしたり、明日早く家を出ることの説明をしたりしなければならないかと思うと、笑う気になれなかった。剣ちゃんは想い通りの効果が得られずがっかりした様子で、

「大変だなーお互い。うちはかーちゃんはまあいいとしても、とーちゃんがこわくて面倒だ」

「アタマくんに電話して、説明してもらおうか」

 ふと思いついて、ひろは口にしてみる。剣ちゃんはその手があったかという顔をして、

「うん、あいつならうまく説明できるだろう。親も納得するような理屈をこねるのうまそうだしな」

 しかし、ちょっと考えてから、

「でも、いちいちあいつに頼むのもなんかメンドーくせーな」

 確かにアタマくんは忙しそうだ。今日だって、スケジュールが大幅に狂って、家に帰ってから勉強とか習い事のこととか、たくさんやらなければならないはずだ。なのに、あまりそのことで文句も言わなかったっけ。それは今日ひろが発見したアタマくんの意外な一面でもあり、ひろが見直したところでもあった。前よりアタマくんが好きになったかもしれない。剣ちゃんもおんなじようなことを感じているかと思い、ひろは、

「アタマくんに頼み事するの、気の毒かもね」

「いやいや、あんなアタマデッカチ、気の毒なもんか。ちーっとも。ただ、あいつに借りを作って、エラソーな顔されるのが面白くねえんだ」

 あっけらかんと言って、剣ちゃんはあははと笑った。それから、再び考え込んだ。

「で、どうするかだな」

 いつのまにか分かれ道に来て、二人で立ち止まっていた。やがて、剣ちゃんはポンと手を打ち、

「ここはひとつ、アタマふうに説明するしかない」

「アタマふう?」

「アタマの奴を演じると言ってもいい。ちょっと練習しとくべ。ほれ、お前から」

「えーっ。そ、そうだな……」

 ひろは自分がアタマくんの姿格好でここにいると想像してみる。架空のメガネの位置をすちゃっと直し、

「えー、研究チームと話し合った結果、明日の朝、日の出の時間に集まることに決定したんだよ。えー、みんなで決めたことだからー、えー、僕が行かなかったらー、えーその、み、みんなに迷惑がかかるんじゃないかと思うんだよ?」

 ひろは剣ちゃんを見てみる。剣ちゃんは少し考えてからまあいいかという顔をして、ひろの後を続けた。右の人差し指を大きく振りながら、

「えーっと。今日遅く帰ったのも、研究がすごく進んだ成果なんだよ。えっへん。何とカラスのじじい、じゃなかった、カラスのおじいさんがカラスになって飛んでいったんだ。ぷっと屁をこいて」

 ひろが注意する。

「それはまだ言わない方がいいんじゃない。おおごとになりそうだよ」

「ううむ、まず信じてくれないな。説明するのもメンドーだ。それに親が割り込んできたら邪魔になるしな」

 二人でアドバイスし合い、何とか練習を終え、手を振って別れた。


 ひろが家に着くと、六時近くになっていた。

ひゃっふが出てきて、ほっとした顔になる。

「遅かったね」

 それだけならよかったが、

「なんでちゃんと約束した時間に帰ってこなかったの」

 少しとがった声になる。ひろは今日の出来事を話そうとした。でも口を開く前にひゃっふの方から、

「もう。学校の宿題とか、やることあるでしょ。ご飯の時間になっちゃって。すぐ手洗いしておいで。さっさとご飯食べて、お風呂入って、それから今日の分の勉強とか、やることやっちゃわないとね」

 一気にまくし立てるので、言おうと思っていたことが全部吹き飛んで、何も言えなくなった。

「ちゃんと約束守らないとダメだよ。明日はもっと早く帰っておいでよ」

「あ、そのことだけど」

 ひゃっふの目が光る。

「何」

「みんなで決めたんだけど、予定が変わったから、明日は四時までに行かなきゃならない」

「また夕方か、遅くなるんじゃないの?」

「違うよ、今度は朝の四時だよ」

「ハァァァァァー?」

 ものすごい大きな声がひゃっふの口から出た。おたまを持って、しょうすけくんが台所から出てきた。目をぱちくりさせている。しょうすけくんにひゃっふは説明した。

「あきれて物が言えないよねー。学校の研究課題っていうけど、どれほど生活リズムがめちゃくちゃになるんだろう」

 ひろは言葉を探した。うまい言葉が見つかる前に、しょうすけくんが、

「ちょっと早すぎるんじゃないか。朝ごはん、そんなに早く作れないぞ」

 ひろは台所のカウンターにあるバナナを横目で見た。

「あれ食べるからいいよ、何も用意しなくても」

 声を出すと落ち着いてきた。剣ちゃんとの練習を思い出して、アタマくんになったつもりで話し始めた。

「そ、そもそもこの研究はだね、……カ、カラス仙人と仲良くなってカラス仙人の秘密を探るというもので、えーと、みんなで話し合って決めたこと、なんだ。それで、えーとお……カ、カラス仙人の都合でその時間じゃないとダメなんで、仕方がないんだ」

「カラス仙人? なにそれ」

 ひゃっふの追求にひろが口ごもると、しょうすけくんが間を取り持つように、

「……カラスに詳しいおじいさんってとこかな。うん?」

 ひろは下を向き、黙ってうなずいた。

「ひろ、話すときは人の目を見て。それに、はいとかいいえとか、ちゃんと声を出しなさい」

 ひゃっふはぷりぷりしている。いつもはここまで細かくはないのだが、今日はひろの帰宅が遅くてたくさん心配したから、機嫌が悪くなっているのかもしれない。ひろはそんなことを考えてはみたものの、ぷりぷりされると、よけい反発したくなってしまう。こわばった空気が流れた。

「……まあ食おうや。今日はカレーだぞ。冷めちゃうぜ」

 しょうすけくんの言葉で、尋問はお開きとなった。食事が済んで席を立とうとしたとき、ひゃっふが思いついたように、

「そのおじいさん、怪しい人じゃないんだろうね。人さらいとか」

 ひろはカラス仙人の姿を思い浮かべた。ヨレヨレの格好。「アゥアー、アゥアー、アゥアー」と鳴いて、前しか見ないで歩いていた。カラスになって飛んでいった。ぷっとオナラをひとつして。ひろはゲラゲラ笑い出した。

「それは絶対ないと思う、ありえない。僕たち六人もいるし」

 しょうすけくんはひゃっふに、

「ひろの言うことも踏まえて、ここは他の子の親たちに電話するなりして相談してから、どうするか決めたら」

 その言葉が終わらないうちに、電話が鳴った。ひゃっふが出る。

「はい、あら剣ちゃんのお母さん。えっそうなんですか、へえ……。はい……」

 結構長いこと話し込んでいた。剣ちゃんのお母さんはひゃっふよりも年上で、ひゃっふに輪をかけて元気な人だから、ひゃっふも一目置いている。だから、さすがのひゃっふもほとんど一方的に聞いている感じだった。

「はい……。ええ、ええ、そうですね……。はい、ええ、そうしましょう」

 十五分ほどして受話器を置くと、ひゃっふは、 

「剣ちゃんのお宅でも、今回のことでひともんちゃくあったらしい。で、うちも同じような状況だろうからって電話くれたの、親切だねえ。まあ剣ちゃんがそうしてってお母さんに頼んだらしいけど。親子そろって姉御肌というか兄貴肌というか、頼りになるよねえ。やっぱり子供が三人もいると、人の気持ちに敏感になるのかねえ。それに比べるとうちはまだ一人だから……」

 話がどんどんそれていきそうなので、ひろは聞き返した。

「剣ちゃんちでひともんちゃくって?」

「ああそうそう、その話なんだけど。剣ちゃんのお父さんが『そんなわけのわからんことに精出すくらいなら家の手伝いでもしろ』とか怒り出して、親子ゲンカになったんだって。それで、『誰か他の家に電話して聞いてみろ』ってお母さんに言ったんだそう。剣ちゃんが『なら阿多間くんちにかけて』って言うんで剣ちゃんのお母さん、そうしたんだって。いやあ、剣ちゃんのお父さんも頑固だし、剣ちゃんも自己主張強いし、二人の間に立って、お母さんもおろおろしたらしい。大変だねえ。でも結局、両方の言い分聞いて行動に移したんだから、偉いわあ」

「それで、アタマくんのお母さん何て言ったの」

 ひろは親子ゲンカの話とかより、そっちの内容を聞きたかった。

「それがね、阿多間くんが順序立てて説明してくれたし、ノートにまとめた研究テーマや活動計画をお母さんに見せたんだって。ノートには、先生が目を通して書いてくれた「OK。研究成果を楽しみにしています」というコメントとサインもあったって。だから阿多間くんのお母さんは心配しなくても大丈夫じゃないんですかって剣ちゃんのお母さんに太鼓判押してくれたって。阿多間くんってほんと、しっかりしてるねえ。だけど研究ノートって……そんなのあったんだ?」

 ひゃっふはじろりとひろを見る。

「それは代表者が持ってればいいから僕は持ってない。……あれ。代表者はマキのはずだけど」

「阿多間くんはコピーをちゃんと持っていたんだよ。あんたは持ってないの」

 ひろは考えた。

 ――そんなもんあったけ?

 うっすらと記憶の底に、薄っぺらい紙の映像がよみがえる。ずうっと前の放課後、マキが偉そうにみんなに何か配ったことがあった。剣ちゃんが「メンドーくせい」とか言いながらランドセルに押し込んだ。ひろも同じようにして、二入で急ぎ教室を飛び出した。お気に入りの漫画雑誌を買いに行く約束をしていたから。そういえばあのとき、

「ちゃんと読んでおきなよ!」

 後ろの方からマキの声が聞こえたっけ。

 ひろはじいっと見下ろすひゃっふに、

「あ。ちょっと待って」

 ランドセルのところに走っていき、中をゴソゴソ探ってみた。しわくちゃになった紙が底の方から出てきた。多分、剣ちゃんも今日、出すはめになっただろう。

「はい」

 しわを伸ばしながら渡すと、ひゃっふは渋い顔で受け取った。しょうすけくんと並んで読み始める。

「なかなかよくまとまってるな……。カラス好きのおじいさんとの交流なんて、研究テーマとしてもいいんじゃない?」

 一通り目を通して、しょうすけくんがひゃっふに言った。ひゃっふもしぶい顔でうなずきながら、

「なんでもっと早く見せないの。まあ、明日は行ってもいいけど」

 ひろがホッとする間もなく、続けて言った。

「でもそのおじいさんのこと、ちょっと心配だから、明日は私もついていくね」

「ええー」

「他のお宅はどうか知らないけど、私は自分の目で確かめないと安心できない」

「そこまでする?」

 しょうすけくんが聞く。力強くうなずいたひゃっふだったが、ひろは本当かなあと思っていた。ひゃっふは早起きがそんなに得意じゃない。町内会のラジオ体操だって、何べんも失敗してようやく行けるようになったのだ。それだって、時々サボったりする。

 翌朝、ひろは揺り起こされて目が覚めた。

「ひろ、三時半だよ。もう起きた方がいいんじゃないか」

 起こしてくれたのはしょうすけくんだった。

目をこすりながら、ひろは起き上がる。

「ひゃっふは?」

「目覚まし時計が鳴ったけど、すぐに止めてまた寝てしまった。最近仕事が忙しいから疲れてんだな、きっと。今日は俺がついていくよ」

「ええっ、いいよいいよ」

 ひろは必死で手を振る。しょうすけくんはちょっと笑い、

「ついてきてもらったと思われるのが嫌なんだろう? 大丈夫、後ろからこっそりついていくから。そのおじいさんとやらがアブナイ奴じゃないって確かめたら、テキトーに帰るから」

 そこまで言われると、ひろとしてはそれ以上断れなかった。顔を洗って、と言ってもひろの場合パシャパシャっと手で水をすくって顔をぬらすだけだが、歯もごく簡単にみがいて、バナナをかじって玄関へ向かう。しょうすけくんが追いかけてきて、

「これ持ってけ」

 ひろの手の平くらいはありそうなお握りを一個差し出した。

「……おっきい」

「昼までかかったら腹が空くだろう。ちまちま作るより、おっきいの一個にした。中にはお前の好きなシャケが入ってるぞ」

 しょうすけくんが豪快に笑う。

「あ、ありがと……」

 リュックにつめこんだ。幼稚園の頃、いつもひゃっふは卵焼きとかエビフライとか入った可愛いお弁当を作ってくれたなあと、内心思いながら。

 ひゃっふが寝ている部屋のドアがちょっと開いていて、クークー気持ちよさそうに眠っている顔が見えた。そうっと通り過ぎようとしたとき突然声が声が聞こえ、ビクッとして振り向くと、

「……うん、うん、美味しかった。もう食べられない」

 寝言だ。のんきな人だなあとひろはあきれる。昨日、あんなに断固として「自分の目で確かめないと安心できない」って言っていたのに。でも、これがひゃっふのいいところかもしれない。

「もう四時十分前だよ。間に合うのか」

 後ろから、しょうすけくんが小声で言った。窓の外を見るとまだ薄暗い。朝日が登るにはもう少し間がありそうだ。ひろは急いで出発した。健ちゃんの家に寄る暇はない。でも、昨日の今日だから、多分大丈夫だろう。どんどん早足になった。

「急がないと。途中までおぶってやる」

 しょうすけくんが背を向け、しゃがんで見せた。

「い、いいよ。赤ちゃんじゃあるまいし」

「ばか、間に合わなくていいのか」

 しぶしぶひろはおぶさる。ひゃっふとは違う、大きな背中。この感じは遠い昔、しょうすけくんと違う人におぶさったときにも感じたものだ。何だかすっぱい気持ちになる。いっぽう、しょうすけくんはひろのそんな感傷には全く気づくこともなく元気いっぱいに、

「なるべく友達に見られんような近道を通ってやる。しょうすけスペシャルだ」

 ものすごいスピードでダッシュした。狭い路地やら裏道やらを通り過ぎていく。朝の風が頬をなでていく。気持ちいい。そして、とある交差点を渡ったところで降ろされた。

「ここからは一人で行きな。俺は離れて様子を見てる」

 しょうすけくんの指差す方向を見ると、集合場所が道の先に見えた。こちらの方角から来たことがなかったから、見慣れない風景に見えた。大きな木に隠れて見えないが、もしかしたらもう何人か来ているかもしれない。時計を見ると、四時五分前。

「すごい」

 しょうすけくんは得意げに笑った。 

「すごいだろ。ほら走ってけ」

 その言葉でひろは駆け出した。それから、はっと気づいて振り返り、

「あ、ありがと」

 しょうすけくんは照れたようににやっと笑って、いいから早く行けというように、外側に向けた片手をひらひら振ってみせた。


   6  

 みんな来ていた。剣ちゃんさえも。息を切らして近づくと、

「おお、ちょうど四時。よく間に合ったな」

 剣ちゃんが両手を広げて、ひろの肩をばんとたたいた。昨日遅れたことを忘れて、すっかり得意顔だ。

「みんな早起きできたんだね、すごい」

「そりゃあ、昨日あんなの見せられたら来ないわけにいかないっての」

 と、マルンどん。アタマくんがやや心配そうに、

「昨日剣くんのお母さんから電話があったけど、みんなのうちは大丈夫だったのかい」

「あの計画表見せたから」

 イナがにっこりする。つられたように、オバサナもうなずく。でも眠そうだ。よく見ると、半分寝ている。薄い白目になって、こっくりこっくり頭が上下している。イナとマルンどんが両側から支えていた。

「……まだカラス仙人、来ていないんだね」

「ちぇっ。偉そうに『会おうぞ!』なんて言っちゃってさ。いつも遅れてくるのは自分じゃないか」 

 剣ちゃんが口をとがらせて足元の石を蹴り上げる。

「クエー!」

 木の枝の上から声がした。大きな物音がして、おじいさんが落ちてきた。

「痛いだろうが。やっぱり悪ガキだ、乱暴なワラシだ」

 カラス仙人は額の大きなたんこぶをさすりながら、剣ちゃんの顔をにらんだ。動揺するかと思いきや剣ちゃんは、

「ワラシ? ……木の上で何してたんだ、じいさん、またカラスになって俺たちを見張ってたのか。まだ俺たちのこと疑ってんの?」

 なじんでしまったのか、タメ語で食い下がる。カラス仙人は剣ちゃんに返事はせず、体についた土なんかをバンバンと払った。そうかと思うと、やにわにオバサナに近づくと、居眠りをして揺れているその頭を、つんつんと指先でこづいた。カラスがくちばしでつつく動作に似ていなくもない。

「んー、何さ」

 オバサナが目をこすりながら言うと、手を差し出して、

「あれは持ってないのか、あれ」

「あれ」

「あれだ、あれ」

 カラス仙人は口をすぼめて頬をふくらませ、もぐもぐやって見せた。イナがオバサナにそっと耳打ちする。

「飴のことじゃない?」

「ああ。……ほれ」

 オバサナはリュックの中をごそごそやって、飴の袋を取り出した。

「どれがいい?」

「あのからいのだ、あれだ……」

 オバサナは、

「ああ、『激辛しょうがミント』ね。あるかなあ……」

 袋の中をゴソゴソ探す。

「あった!」

 取り出し、カラス仙人に差し出した。カラス仙人は首を振り、受け取らない。

「開けてくれっていうんじゃない?」

 マルンどんが気味悪そうに小声で言う。オバサナは首をかしげたが、言われるままに包装を破って、手のひらに乗せた。カラス仙人は素早く片手ですくい取るなり、口に放り込んだ。

「クェーッ」

 声高らかに空を仰ぐ。ひろはふと気になって、自分が来た道を振り返った。しょうすけくんはもういなかった。みんなと合流できたのを見て安心したのか、それともカラス仙人の姿を見て大丈夫そうだと判断したのか、どっちかだろう。でもこんな様子まで見たら、かなり変人だとあやしんだかもしれない。カラス仙人はうっとりして、飴を味わっている。みんなあきれて見ていた。

 ついにアタマくんがもどかしげに切り出した。

「あのー、おじいさん。『朝日が昇るとき、ここで会おうぞ!』って言われたから僕たち、頑張って来たんですけど……」

「そうそう、あたしたちだって暇ってわけじゃないんですからね。こんなに朝早く、カラス仙人が飴食べて『クエーッ』て鳴くの、見に来たわけじゃないんですからね」

 マルンどんが両手を腰に当て、カラス仙人に詰め寄る。

「カラス仙人ってなんじゃ……?」

「おじいさんのことですってば! カラス仙人ならカラス仙人らしく、もったいぶらないで早くカラス変身する謎を解くなり何なり、期待に応えてくださいっ」

「わ、悪ガキ……」

「違うってーの! あたしたち約束守ってちゃんと来た、いい子たちなんですからねっ」

 カラス仙人はひるんでいるようだ。こわばった表情でマルンどんを見返し、両手を顔の前にかざし、防御の態勢になる。一文字に口を閉めて、目をつぶって何も見えない、聞こえないふりをし始めた。剣ちゃんがひろにささやく。

「いつものあいつに復活してしまった。じいさんに圧倒されていいあんばいに静まってたのが、むしろパワーアップしたようだ……。おそるべし、マルンどん」

 ひろはそれよりも、カラス仙人を怒らせるとマズイ、また飛んで行っちゃうんじゃないかなと心配していた。すると、意外な人物が止めに入った。イナがマキの肩に触れながら、

「まあまあ、マキちゃん。おじいさんが飴を気に入ってよかったじゃない」

 カラス仙人は目を開けた。イナはにっこり笑いかけて、

「おはようございます、おじいさん。昨日はすごかったです。今日はどんなことを見せてくれるんですか? ゆうべはわくわくして、なかなか眠れませんでした」

 いつもはおとなしいイナが親しげに話すのを、ひろはあぜんとして見ていた。カラス仙人も気をよくしたらしい。

「そうだのー」

 顔つきが和らいで、優しい目でイナを見返した。

「めんこいのー」

 それからやにわに腕を組み、どんなことをしてイナを喜ばせてやろうかと真剣に考え始めた。カラス仙人のそんな姿を、ひろは初めて見た。一方、ほめられて戸惑っているイナに、すかさず剣ちゃんが、

「お前、案外やり手だのー。おとなしいだけかと思ってたら、何のなんの。すっげえ策略家じゃんのう」

 カラス仙人の口ぶりを真似ているらしい。

「ばかっ」

 マルンどんが剣ちゃんの頭をポカリとやる。イナは傷ついた顔で下を向いたが、やがて消え入りそうな声で、

「……ちがうもん」

「だよねー」

 オバサナがそばに寄って、イナの背をぽんぽんとたたく。イナは、これまたイナにしては珍しく、なおも続けた。

「……去年死んだおじいちゃんに……ちょっと……似てるんだもん。だから、だから話してみたくなったんだもん」

 みんなシーンとなった。


 青っぽい空気が少しずつ明るみ始めた。もうすぐ朝日が昇るらしかった。突然、カラス仙人が顔を上げた。大きな声で、

「そうじゃ。一緒に飛んでみるというのはどうじゃな。それから山の、カラスの里に案内してやる」

「えええー」

 みんな顔を見合わせた。

「そっそりゃあいいけど。無理じゃねー?」

 一番面白がりそうな剣ちゃんが、ちょっとたじろいだ。 

「おじいさんはともかく、僕たちは普通の人間です。無理だと思います」

 アタマ君が冷静に言い、自分の言葉にうんうんとうなずいている。みんなも顔を見かわし、「だよねー」、「だよなあ」などどうなずき合った。ひろもそうしながら、でもこんなに否定するのも悪いような、カラス仙人にはカラス仙人なりの別の考えもあるのかもしれないと思い始めた。するとそのとき、

「ほっほっほっほー」

 と、カラス仙人が愉快そうに笑ったかと思うと、人差し指を振ってみんなを見回し、「初心者には初心者なりの方法があるんじゃよ。『ワシガオマエデオマエガワシジャ』これを三回言うんじゃ」

 耳を疑い、みんな棒立ちになる。カラス仙人が大地にとどろくような大声で促した。

「ほれ! ワシガオマエデオマエガワシジャ」

「ワ、ワシガオマエデ……」

 ひろが続けると、他のみんなも、

「ワシガオマエデ……」

「声が小さい! ワシガオマエデオマエガワシジャ」

「ワシガオマエデオマエガワシジャ」

「そうそう、それと同時にこうするんじゃ」

 カラス仙人は満足げにみんなを眺め、左右の腕を後ろに大きく広げて、バタバタはばたかせながらその場でぐるぐる回り始めた。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ」

 バカバカしいような気持ちも捨て切れずに見ていると、カラス仙人の両手はだんだん灰色になって……黒くなって……翼になった! 妙なことに、顔は人間で体全体がカラスだった。ひろは自分の両腕を見た。人間の手をしている。

「もっと真剣に!」

 カラス仙人が叫んだので、びくっとして呪文みたいなその言葉を繰り返すことと、ぐるぐる回ることに専念した。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ……」

 もう目が回ってクラクラしてきた。回りの景色もぼやけて見える。まだ早朝の、静まり返った景色の中、カラス仙人と子供たちの呪文がこだまする。ひろが見上げると、近くの大きなポプラの木に、数羽のカラスが止まっている。よく見ると、それぞれ見覚えのある顔がついている。イナ、アタマくん、マルンどん、オバサナ……。そのとき、ふわりと体が浮くのを覚えた。驚いて、空中でかたまりかけた。体が急降下する。

「ほれ、はばたくんじゃっ」

 強い声が、カラス仙人の口から飛び出した。ハッとして、思いっきりはばたいてみる。ひろの体はまた舞い上がって、ポプラの高い枝にとまることができた。

「そうじゃ。できたじゃないか」

 見上げると、さらに高い枝にカラス仙人がとまっていた。地上では、剣ちゃんだけが人間の姿のまま、キョロキョロまわりを見回している。

「こらっ。一番威勢のいい奴がおどおどしてどうする」

 顔だけ人間で体がカラスのカラス仙人が大きな声で叫ぶ。剣ちゃんはこちらを見上げて、ぼうぜんとしている。

「そんな……。そんな……」

 半分泣きそうな顔にも見える。

「どうしたの、剣ちゃん。同じようにやればいいだけだよ」

 ひろも木の枝から、はるか下に小さく見える剣ちゃんに呼びかける。アタマくんも羽づくろいなどしながら、

「剣くん、案外簡単だったよ。もう一息だと思うよ」

「わたしでも出来たんだから大丈夫」

 と、イナ。マルンどんは、

「さっさとしなさいよ! どんくさい」

 カラスになってさらに力がみなぎっているようだ。迫力ある鳴き声でしめくくる。

「アホー、アホー」

 オバサナだけはちょっと心配顔で、

「しょってたリュックとかどこに行ったのかなあ、お菓子入ってるんだけど。あらら、服や靴もない。おーい、あんたその辺見てよ、あるかい?」

 剣ちゃんは普段ならオバサナの言うなりにはならないが、今は素直にまわりを探している。

「見当たらない……」

「それでいいんじゃ。持ち物も服も全てカラスの姿に溶け込んでしまっておるんじゃからの」

「溶け込んでしまってる。同化するということか、なるほど」

 カラス仙人の説明に納得顔でうなずいているのはアタマくんだけだ。なぜかメガネだけはちゃんとついている。ひろも含め、他のみんなはこの衝撃的な変化について行くのが精一杯だ。ひろはしょうすけくんの作ってくれた巨大お握りは僕の体に同化されているのかと思うと、複雑な心境だった。そして、剣ちゃんはというと。

「いつまでそこに突っ立っとるんじゃ。早くやるんじゃ。ワシガオマエデオマエガワシジャ」

 カラス仙人のかけ声に、剣ちゃんは小さく「こわい」とつぶやいた。

「はあ? 何がこわいのさ」

 マルンどんは容赦ない。剣ちゃんは悔しそうな目で見返した。

「高所恐怖症……かな?」

 アタマくんの言葉に剣ちゃんはため息をついた。

「……どうしてもダメだ。家族で遊園地へ行ったときも、俺だけ観覧車で吐いていた」

「剣ちゃん、頑張ってよ!」

 ひろは思わず叫んだ。

「しようがないの、わしらだけで行くとするか」

 カラス仙人はあっさり見切りをつけようとする。

「剣ちゃんが一緒じゃなけりゃ、つまんないよ。みんな出来たんだから、剣ちゃんだって出来るよ!」

 ひろが何度呼びかけても、剣ちゃんは下を向いたままだ。

「……じゃ、行こうか」

 オバサナがボソッと言い、イナも、

「そうだね、あんまり無理させるのも悪いかな……」

 アタマくんはと見れば、翼を上下させて、飛ぶための感覚を調べている様子。ひろはみんなを引きとめようと必死に、

「そんな、みんな冷たいよ。置いてくなんて出来ないよ」

「いいよもう、行こう。カラス仙人、お願いします」

 マルンどんがきっぱりと言った。カラス仙人は大声で、

「よしよし。みんな翼を広げてふんばるんじゃ。よーし、屁をこく前みたいにな」

 みんなそれぞれの場所で、バサバサはばたきながら慣れない体勢をとる。どこかでぷーっとオナラの音がした。やっぱりオナラはカラスになるとき役に立つらしいとひろは思った。思いっきりふんばる。オナラはなかなか出なかった。

「それ、はばたいてみいっ。飛び上がるんじゃ」

 カラス仙人の声にあやつられるように、ほとんど同時に、みんな飛び立つ。ひろは自分の体が空中に浮かんで、何にも触れない状態であることの不思議さを感じた。ブランコをこぎ出したときにお腹のあたりがひんやりするような。

 剣ちゃんを見た。かたくなに下を向いて、だらんと下げた手をそれぞれぎっちり握りしめている。動こうとしない。

 ――剣ちゃん、高いとこが苦手だなんて、知らなかった。

 剣ちゃんの肩が小刻みに震えている。

「こっち見て!」

 ひろよりも先に呼びかけたのは、マルンどんだった。ゆっくり剣ちゃんの頭上を旋回しながら、

「いい加減にしなよ。いつものあんたはどこいったの。悔しくないの、いつもあんたがバカにしているマルンどんにも出来たんだよ! このままじゃあんた、あたしよりダメだってこと、認めることになるんだよ。それでいいの?」

 剣ちゃんがカッとなってこぶしを握りしめ、マキを見上げた。

「ほら、言えないの? 簡単なのに。ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ」

「……」

 剣ちゃんはうつむいたまま、黙っている。


 太陽が昇った。うつむいた剣ちゃんの背中に光が当たる。他のみんなはまた木の枝に止まり、かたずを飲んで見守っている。カラス仙人だけが、とぼけた顔をして上空高くゆるゆると旋回している。時折、鳴き声をあげたりする。

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 剣ちゃんを見下ろすマルンどんの目がきつくなる。

「ほれっ、やってみなさいよ。置いてくよ、ほんとに」

 剣ちゃんは動かない。

「サビケン。よわむし!」

 これは効いたようだ。肩がビクッとしたかと思うと、剣ちゃんはすごい勢いで回り出した。同時に、どなるように大きな声で、

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ……」

 一羽のカラスがぽわんと舞い上がった。

「やった!」

 思わずひろの口から声が出た。顔だけ人間の剣ちゃんの顔をした、新入りのカラスがひろの隣にとまる。

「何だ、変身しちゃうとこわくも何ともないな」

 そううそぶいたかと思うと、涼しい顔で、羽づくろいを始めた。

「おっ。こうやるのか。でもなんだな、この口はくちばしにもなるのか、便利だな」

 確かに便利だ。不思議ながら、ひろもそう感じていた。人間の口のままのように見えるのに、羽づくろいや物をつまもうとすると、ひゅっと伸びて、くちばしのように自由自在に動くのだ。いったいどうなっているんだろう。

「あの呪文で、体の構造が変化してるんだろうね。これも研究対象にしないと。あっでも……。さすがにこの体では、メモを取ることが出来ない」

 アタマくんがやや低めの枝から見上げ、ものすごく困った顔をする。剣ちゃんは口をとがらせたまま、

「しちめんどくせーことはいい。ああだこうだ言う暇があったら、さっさと次の行動に移ろうぜ」

 さっきまでの、かわいそうなくらいおびえていた剣ちゃんは、もうどこにもいない。かわりに、ふてぶてしいまでに堂々とした、カラス人間がそこにいた。

「吐き気はしないのかい」

 マルンどんが水を差す。一瞬、剣ちゃんはビクッとなったが、すぐに、

「吐き気のはの字も出ねーや。こいつがあるからちっともこわくねーや。飛べばいいだけのことだからな」

 両方の翼を力強くバタバタさせて見せた。

「ほんっとに調子いいんだから」

 マルンどんが残念そうに言う。弱虫になった剣ちゃんにあれこれ言えるのを、それなりに楽しんでいたのかもしれない。さっきは剣ちゃんのことを心配して、励ましているように見えたけど。でも、そういう気持ちもゼロだったわけではないとひろは思う。だって、剣ちゃんを見るマルンどんの目が、いくぶん優しく見えるから。他のみんなを見ると、枝に止まってニコニコしている。オバサナなんかは羽を手のように合わせて、拍手をしている。

 ――そういう使い方もできるのか。

「もうかれこれ一時間はたったよ、そろそろ人が見えてきた。僕たち、怪しまれないようにしないと」

 アタマくんが言ったそのとき、小石がはじける音がして、そちらの方角を見ると、全身赤っぽい人が走ってくる。

「やっべえ」

 剣ちゃんが叫ぶのも、もっともだ。だって、みんな顔は人間で、体はカラスというおかしな格好をしているんだから。見たら腰を抜かすだろう。いや、それどころじゃない。大騒ぎになる。テレビとか新聞とかに報道されてしまうかもしれない。

 その人はふうふう言いながら、みんなの下を走っていく。小太りだ。上下、赤いジャージを着ている。どこかで見たような。首からかけたタオルで顔を拭き、見上げた。

「ん?」

 みんなと目が合う。

「トド先生だ!」

 ひろは思わず叫んだ。


   7

「ばかっ聞こえるだろ」

 剣ちゃんに言われて、あわてて翼の先っちょで口を押さえた。トド先生はじいっとひろを見つめていたが、

「器用な格好をするカラスもいたもんだなあ。ハハハ」

 笑って走り去った。アタマくんが、

「気づかなかった……?」

 不思議そうにつぶやく。ひろも、大騒ぎにならずに済んでホッとはしたけれど、何だかすごくモヤモヤするものが胸の中に残った。みんな黙って、小さく遠ざかっていく先生の後ろ姿を見つめていた。

「トドの奴、ジョギングして少しでもやせたいって魂胆か。無駄なのにな」

 剣ちゃんが全然関係ないことを言う。

「トドって戸堂先生のこと? うまいあだ名だなあ」

 アタマくんが笑い、

「……やせたい一心で走ってて、僕たちに気づかなかったのかもね」

 自分を納得させるように言いかけたが、言い終わらないうちに、オバサナが叫んだ。

「そんなわけないっしょ! 顔はあたしらのまんまなんだから。こんなに面白い格好してるのに気づかないなんて、変すぎるよ先生! 失礼にもほどがあるよ。おったまげて、尻もちくらいついたっていいんじゃないの」

「あれま、そんな受け取り方もあるんだ」

 マルンどんがあきれたようにオバサナを見る。

「地上の人間にはわしらはただのカラスにしか見えん。しゃべってる言葉だって、ただの鳴き声にしか聞こえんらしい」

 カラス仙人がこともなげに言った。

「え、どうして」

 ひろは聞き返した。

「知らん。経験上、知ってるだけじゃ」

「……おじいさん、どうしてこんなふうにカラスに変身できるようになったの?」

 イナがおずおず問いかけた。カラス仙人は高い梢の上で、遠くの空を見ていた。やがて、

カラス仙人らしくない知性を帯びた顔つきになり、ゆっくり口を開くと、

「……長い話になるが」

 その途端、剣ちゃんが、

「あっいい、いい。長い話なんて。やめよーぜ、しんきくさい。それより、さっさと動こうぜ」

 割って入ったので、カラス仙人もすぐにもとのとぼけた顔に戻って、

「そうじゃな。飛ぶとするか、カラスの里まで」

 あっという間にばさっと羽音を立てて舞い上がった。剣ちゃんも、

「そうこなくちゃ。カラスの里、カラスの里」 

 と言い、目を輝かせて飛び立った。

 ――せっかく謎が聞けそうだったのに。

 残念だったが、また別の機会があるだろうと思い直し、ひろもあわてて追いかける。空中に飛び上がるとまた、ひゅうっとお腹のあたりが冷たくなる。ちょっとこわい。でも、すごい。自由だ。何もかもが下にある。木の緑、大学の建物、まばらにある人影。さらに行くと、道路を走る自動車、民家、ビル。朝日を浴びて、きらきら輝いている。

「ヒエー、すげえ。すげえ」

 横を見ると、剣ちゃんの目もきらきら輝いている。これが人間だったときには高所恐怖症だったなんて、とても信じられない。スピードを出し過ぎて、先頭のカラス仙人にぶつかりそうになった。

「邪魔するでない」

 カラス仙人が剣ちゃんを思い切りバシッと払いのける。

「いてっ」

 剣ちゃんはカラス仙人のやや後ろにそれた。もっと後ろをマイペースで飛んでいるアタマくんは、

「カラス仙人の技その三十九、力強い羽のストローク」

 頭の中のメモ帳に書き込むように、つぶやく。

「って、いちいち数えてるのかい。アホくせー」

 剣ちゃんは笑い飛ばし、ぐんぐんスピードを上げた。さっきの一撃にもひるむことなく元気に飛んでいく。ひろにはなかなか追いつけない速さだ。カラス仙人に並ぶと、今度は少しは遠慮して飛びながら、何やらカラス仙人に話しかけたり、げらげら笑ったりしている。完全に遊覧飛行を楽しんでいるといった感じ。剣ちゃんの中の、カラスの素質が目覚めたといってもいい。

「……なんのためにこの危険な旅を始めたか分かってんのかな」

 アタマくんが不満げに小さくつぶやきながら後をいく。そういう君はわかっているのかいと聞きたいが、そのゆとりもなく、ひろには声に出して聞くこともできない。そして自分の心に聞いてみても、どうしてこんなことをしているのか、さっぱりわからない。わかるのは、これがものすごくこわくもあり、ものすごくワクワクする体験でもあるということだ。マキとオバサナが、ひろの横に来た。

「道路じゃないから、いくら並んでも平気だね。サビケンもすごい元気になったし、よかったねえ」

 オバサナがのんびり言って、ガハハ……と笑う。マルンどんが何を思ったか、急に速度を速めて剣ちゃんに追いつく。

「さっきの木の枝なんかよりずっと、すごく高いとこ飛んでるんだけど。あんた大丈夫? 高所恐怖症、よみがえったりしないの」

 剣ちゃんが答えるより早くアタマくんが、

「せっかく忘れてるのに思い出させたらマズイんじゃない」

 小声で注意する。

「あら失礼」

 イヒヒとマルンどんが笑う。剣ちゃんが一瞬青ざめ、はばたく速度が落ちかけたとき、

カラス仙人がワハハと笑った。

「高いとこなんか屁の河童じゃ。体がもうおおかたカラスになっとるでのう」

「お、おおかたカラス」

 剣ちゃんがつぶやく。後ろからオバサナがバシンと翼でたたいた。

「ほれっ。落ちそうになるよ。考えてもしょうがないんでないかい。今に集中するのさあ」

 またガハハ……と笑い、追い越して行った。

「それもそうか」

 剣ちゃんはもとの陽気なカラスに戻って、元気にスピードを上げた。ふと見ると、ひろの斜め後ろを、イナがハアハア言いながら飛んでいる。

「大丈夫?」

「うん……。ちょっと、まだ慣れないだけ」

「おーい、みんな。もう少しゆっくり飛んでくれない?」

 ひろは前へ声をかけた。マルンどんとオバサナが振り向き、イナが遅れ気味なのに気づいて、

「ごめん、ごめん」

「うっかりしてたわあ」

 口々に言い戻って来ようとしたとき、それよりも早く、カラス仙人が空中ですばやく方向転換し、イナのそばまでやってきた。イナに翼を差し出し、

「大丈夫かの。ほれ、わしの肩に乗るがいい」

 イナは首を振って、

「ありがとう、おじいさん。でも、もう少し頑張ってみる。自分でちゃんと飛べるようになりたいから」

 イナはにっこり笑って顔の汗をはねのけ、はばたきを続けた。

「けなげじゃのう……。わしに娘がいたら、こんなにめんこい子じゃったかもしらんな。よし、わしが並んでゆっくり飛ぶから、合わせるがよい。サーア。いちに、いちに」

「い、いちに、いちに」

 イナは、カラス仙人のかけ声に合わせ、必死にはばたく。

「よく見るんじゃ。もっと肩の力を抜いて、こうじゃ。いちに、いちに」

「いちに、いちに」 

「うまい! のみこみがいいのう。それ、もっと思いきり。いちに、いちに!」

「いちに、いちに!」

 イナのはばたきはさっきよりもずっと自由な感じになった。カラス仙人と並んで、楽しそうに飛んでいる。

「おーう! そうじゃ。それでいいんじゃ。うまい、うまい」

 カラス仙人の声が明るく響く。マキやオバサナもにこにこしながらイナのまわりを飛び回る。

「えらいよ、イナ。がんばったがんばった」

 オバサナが言うと、マルンどんも、

「よかったわあ。カッカッカッカ……」

 笑ったらカラスの声になった。

「あら嫌だ。恥ずかしい」

 あわてて口を羽でおさえた。

「ちぇっ。じいさんといい、お前らといい、俺に対するときとエライ違いじゃんかよ」

 剣ちゃんがくちばしをとがらすが、誰も気にもとめなかった。


 一行は山に近づき、ふもとの森に差しかかった。カラス仙人がいっとう高い木の枝に降り立ったのに習って、まわりの枝にとまった。

「アゥアー、アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 満足そうにカラス仙人が天高く鳴いた。みんなもなんとなく合わせて鳴く。そのまましばらく、じっとしていた。

「ここがカラスの里?」

 マルンどんが沈黙を破った。カラス仙人は黙って目をつぶっている。

「ねえ、ここがカラスの里なの?」

 カラス仙人はそのままだ。

 ――きっと返事をしたくないんだな。 

 ひろは思う。これまでのこの人は――人と言ってよければ――都合が悪くなるといつもこんなふうに目を閉じて、反応しなくなる。しかし、マルンどんは学習していなかったと見え、

「ねえねえねえったら。なに死んだふりしてんのさ」

 カラス仙人ににじり寄って、くちばしであちこち、つつき始めた。

「いちちち! マルンどんはどう猛な奴じゃのう。女の子はもっとしとやかなほうがええ。イナのようにな」

 イナがはにかんで、くちばしをちょっと羽にうずめた。呼ばれたくない名で呼ばれたマルンどん、つまりマキは猛り狂って、羽をバタバタさせている。

「マキだよ、マキです! 質問には答えられないくせに、変なあだ名はいつの間にか覚えちゃってるし」

「俺様が教えてやったんだよーん」

 剣ちゃんが自慢げにカカカカ……と笑う。笑い方もカラスっぽくなってきた。カラス仙人は一人一人翼の先で示しながら、

「わしの記憶力もなかなかなもんじゃろう。お前がアタマくん、お前がオバサナ、お前がひろ」

 確認するように呼び上げていった。

「あたしは『オオバサナエ』だよ、サナエです!」

「おばさんっぽいサナエ、略してオバサナ。我ながら絶妙なネーミングだよなあ」

 剣ちゃんはあくまで得意げだ。オバサナは剣ちゃんを突き飛ばして、カラス仙人に食いさがる。

「やだよ、そんな変なあだ名。あたしはサナエちゃんとか、サナたんとか呼ばれる方がいい!」

 とてもボリュームのある体格と太い声。カラスになっても存在感は変わらない。その呼び方とのあまりのギャップに、ひろの口から思わず出てしまったのはため息と、

「サナたん……」

 アタマくんと剣ちゃんも顔を見合わせ、妙な顔をしている。カラス仙人はとぼけた顔で、

「覚えやすいほうがいいでのう。マルンどんもオバサナももう決定じゃ。紛らわしいから皆もわしの前ではこの名で通してくれよの」

 二人の女子は思わず「グェー、グェー」と叫びながら羽をバタバタ激しく振って抗議した。カラス仙人は依然としてすっとぼけて、あさっての方角を向いている。ひろが剣ちゃんを見ると、ニヤニヤ笑っている。マルンどんもそれに気づくやいなや、カラス仙人に向かい、

「こいつの名前は?」

 くちばしの先で剣ちゃんを指した。

「……一番長くて覚えづらい名前じゃったな。ええと……カッ、『カッコイイ、カシコイ、スゴーイ、ケンジロウサマ』じゃ」

 首をひねりながらカラス仙人はゆっくり復唱した。ひろが剣ちゃんを振り向くと、目を閉じて、じっとしている。いつの間にカラス仙人の技を身につけたんだろうか。

「笑わせるねえ。クェッ、クェッ、クェッ、クェッ」

 マルンどんがけたたましく笑い出した。もうカラスの鳴き声でも全然恥ずかしくないらしい。オバサナも合わせて笑い始める。

「ガハハハ……クァー、クァー、クァー、カッカッカッカッカッ」

 ひろとアタマくんもつられて笑ってしまった。

「アハハハハ……カカカカカカカーッ」

 イナもクスッと笑う。これはまだ人間らしい恥じらいのある笑い方だった。

「うふふふふ……ク、クアッ? うふふ……クアッ、クアッ……? うふ、クアッ、クアッ、クアッ、クアッ……?」

 剣ちゃんはむっつりしていた。おもむろにマルンどんがカラス仙人に切り出した。

「ねえねえカラス仙人さん。その一番長くて覚えづらい名前と『サビケン』と、どっちがいいでしょうね。さびて使い物にならない剣っていうのが、ポンコツなこいつにぴったりなネーミングだと思うんだけど」

「おおそうか、サビケンがいいのう! 覚えやすいわい」

 マルンどんが「けってーい!」と言い、オバサナと羽のハイタッチをして喜んだ。剣ちゃんがやや低めの枝で口を、いや、くちばしをとがらせていた。ひろは隣にいって、

「大丈夫だよ。これまで通り、僕はちゃんと『剣ちゃん』って呼ぶからね」

 剣ちゃんは肩を落として黙っている。アタマくんもやってきて、剣ちゃんにそっと耳打ちした。

「僕に言わせれば、サビケンの『サビ』は日本古来の侘び寂びの世界に通じる言葉という意味もある。『味わいのあるいい刀』という意味にとったらいいんじゃない」

 剣ちゃんは悪い気はしないらしく、

「そ、そうか……?」

 ひろはここぞとばかりに力強くうなずいた。

「そうだよ、味わい深い価値ある刀だよ。剣ちゃんみたいだ!」

 離れたところからマルンどんとオバサナはけげんそうな顔をして見ている。それでも男の子同士集まって何やらひそひそやっているうち、剣ちゃんが機嫌を直したのは分かったらしい。オバサナの横で、イナが何となく微笑む。剣ちゃんは元気を取り戻して、

「ひろ、俺のことサビケンって呼んでもいいよ。カラス仙人が混乱するといけないし」

「ほんとにいいの」

「いいさ。……何たって俺は、味わい深い奴なんだ。おーい。お前ら、俺サビケンでいいぞー。お前らもマルンどん、オバサナでいいなー」

 言われた二人、というか二羽もしぶしぶながら承知した。剣ちゃん、いやサビケンは、もはやすっかり立ち直ったようだった。立ち直りついでに、

「ひろたちにも面白いあだ名つけてやるか」

ニヤッと笑ったが、カラス仙人は、

「もうこれ以上名前を変えるでない。もう全部決定じゃ」

 それで、このカラス人間の世界では全員の名前が正式に決まったのだった。ひろとしては、若干残念なような、でも変な名前をつけられなくてよかったような、微妙な気分だった。マルンどんはまだ納得いかない様子で、

「あーあ、不公平だなあ」

 と、ぼやいた。オバサナがサビケンをつついて、

「あんた、どうにかしなよ。どーでもいいことで張り切るくせに。もっと頑張んなきゃ駄目だ。残りのみんなにもつけてやんなよ、思いっきりヘンテコなやつ。でなけりゃ、さっさと妙ちきりんなあだ名つけられたあたしたちが浮かばれないっしょや」

「サナエちゃん……」

 イナが心配そうに話しかける。オバサナは、

「あ、イナは変な名前つけなくていいや。だってイナはイナだもんね」

 オバサナがイナをひいきしたところで、またきっとした顔になり、サビケンに念を押した。

「ほれ。残りのあだ名、さっさと考えなよ。あんたの得意技だろうが」

「そっそうか?」

 サビケンは元気づいて、

「カラス仙人のじいさんよ、こんなあだ名はどうだい? えっと……」

 カラス仙人の目が三角になり、グアアーと恐ろしげな声を出した。サビケンはひるんだ。今度はマルンどんとオバサナが両翼をバタバタさせてカラス仙人に、

「グアーーー!」

 と、抗議する。またもめごとになりそうな気配。アタマくんが割って入った。

「いつまでこんなことしてるの? 時間の無駄だよ。これまでは活動計画、順調に進んでいたのに」


   8

「えっそうなの」

 マルンどんの逆立ったひたいの毛がすぅぅーっと寝て定位置におさまっていく。やや正気に戻ったようだ。アタマくんはうなずいて、

「計画表の④までクリアしているんだよ。すごいことだと思わない? いいかい、活動計画を思い出して」

 そう言いながら目を閉じると、自分の頭の中にあるらしい活動計画表を、実際に目の前にあるかのように読み上げ始めた。

「①跡を追跡する。②すみかを見つける。③話しかける → 友達になる。④カラスの鳴き声を習う。ねっ?」

 みんな顔を見合わせた。目が輝き、自然と笑いが浮かんだ。

「やったー」

 羽を広げて、枝の上でぴょんぴょんはねた。カラス仙人もつられて、わけもわからず見よう見まねで「やったー、やったー」と数回はねた。

「ところで、計画表とはなんぞや?」

 カラス仙人が聞いてきたので、皆、ぎくっとなった。

「えーと、えーと」

 ひろが説明しようとすると、マルンどんが、

「学校の夏休みの宿題で、何かを研究して発表しなければならないの。それでカラス仙人のことを調べることにしたってわけ。計画表について言うなら、誰あろう、このあたしが綿密に立てたんですよ、えっへん」

 自慢げにペラペラ話した。

「わしと友達になりたいというのは嘘だったのか」

 カラス仙人の表情がくもる。サビケンがちっと舌を鳴らしてマルンどんをにらんだ。アタマくんはあわてて何か言おうとする。ひろはそれより先に、前へ進み出た。他のメンバーはいざ知らず、自分の気持ちまで誤解されるのは絶対いやだった。

「本当です、本当です。ぼ、僕、も、もうずっと前になるけど、あの、その。あ、歩いているとき、お、おじいさんとすれ違って」

 カラス仙人はすかさず自分を羽で示すと、

「カラス仙人と呼べ」

 と言った。そしてくちばしを力強く横に振って先を促した。案外、この呼び名が気に入っているらしい。必死にしゃべりながらも、ひろの頭のどこかで、そんなどうでもいいことを考えたりした。

「え、えーと。か、カラス仙人とすれ違って、思いました、僕は。その、あの、ど、どうしてカラスの声で鳴くのかな、恥ずかしくないのかな……」

 ここで、カラス仙人はぎろりとひろを横目で見た。

「ご、ごめんなさい、あの、そうじゃなくて。ぼ、僕のこと見えてないのかな、とか、ど、どんな不思議な理由があるのかな、とか、い、いろんなことを。そ、それで、剣ちゃ、違った、サビケンにも教えて……」

「うん、そうだ」

 と、サビケン。続いてアタマくんが、

「それで僕たちもカラス仙人に興味を持ったんです。班ごとに自由研究するので、カラス仙人はそのテーマにぴったりだと思いました。こんなすごい人がいるなんて、研究しないのはもったいないと思いました。本当です。嘘なんかじゃありません」

 うまく補足した。カラス仙人は「すごい人」や「研究しないのはもったいない」という言葉に、やや気をよくしたように見えた。目をつぶり、うなずきながら聞いている。

「そ、それに」

 イナが必死になって声を出した。みんなはびっくりしてイナを見る。

「カラス仙人さん、あたしのおじいちゃんに似てて、あたしはすごく、すごうく懐かしくて、う、嬉しくて。だ、だから……」

 言った本人も思わず口走ったことにびっくりしたみたいで、あわてて口を押さえた。それ以上どうしていいかわからない様子で、黙ってしまった。イナの目に涙の玉がふくらんで、ゆらゆらしている。オバサナがそばに寄って、片方の羽でイナの肩を軽くたたいた。なんだかみんなジーンとなってしまった。

「そうかそうか」

 カラス仙人は顔中笑顔になった。青色のイトトンボがカラス仙人の鼻先をすいっと飛んでいく。下に降りて、川の流れにちょいっちょいっと触れたり離れたりした。

「よし、行くぞ。カラスの里はもう少し先じゃ」

 カラス仙人が言ったかと思うと、空高く舞い上がった。


 森の中に全員を連れていくと、カラス仙人は高い木の枝にとまってみんなを見下ろした。

「ここがカラスの里じゃ」

 みんな拍子抜けした。マルンどんが、

「さっきと変わんないじゃない。木ばっかでカラスなんて一羽もいないじゃん。木、木、木ばっか。これのどこがカラスの里なの」

 カラス仙人はカッカッカッカと笑い、

「ここには寒い季節にならんと一羽も戻ってこん。今は子育て真っ最中の時期じゃから、街の中でそれぞれの巣に住んどるんじゃ。街中は食べるものを探しやすいからの。それに、日中はどっちにしろ、ここにじっとしてはおらん。いろんなとこに食べ物探しに行ってるからのう」

 「食べるもの」という言葉に反応したのか、オバサナが思い出したように、

「お腹が減った。持ってきたおやつ、リュックごと消えちゃったし。なんか食べるもんないの」

 カラス仙人は驚いた顔で、

「腹がすくのか。わしはカラスになってるときは腹がすいたことは一度もないぞ。人間であって人間でない。かといって、鳥かといえば本当の鳥ではない……。いわば、あやかしのもの、といっていいかの。だから、腹が減るなどと言うのは、気のせいに過ぎん。そのうちおさまるじゃろ」

「ええー。すいた、すいた、すいたよう」

 オバサナは羽をバタバタさせて、思いっきり駄々をこねた。ひろは自分のお腹がすいているかどうか考えた。全くお腹がすいている感じはしない。

「僕、全然すいてないんだけど」

 ひろが言うと、

「俺も」

「僕も」

「あたしもすいてない」

「あたしもあんまり……」

 方々から同意の声が上がった。オバサナだけが騒いでいる。

「不思議じゃの」

 カラス仙人は首をひねるが、オバサナは切実だ。必死に羽を振り続けている。サビケンがからかうように言った。

「なら、あのミミズでも食えば。うまいかもよ」

「何言うのさっ。気持ち悪い」

 怒ったオバサナだったが、木の下の地面にはっているミミズを見つめるうちに、顔つきが変わり、舌なめずりしている。

「おいしそーかも」

 みんなはあぜんとしている。それを尻目に、オバサナはふいっと舞いおりると、ミミズをくわえてパクッと食べた。

「おいし~」

 うっとりしている。マルンどんが叫んだ。

「そこまで自分を卑しめていいの」

「おいしいよ。あんたも食べてみれば」

 オバサナは気にもとめずに、地面をあちこちほじくり返し、もっとミミズがいないか探している。マルンどんはどうしようもないなあという顔でオバサナの姿を見ていたが、カラス仙人に目を移すと、

「あんなもの食べて大丈夫なの?」

「あいつは食べ物の好みまでカラス化しているのう。いろんな奴がいるもんじゃ。……ま、多分大丈夫じゃろう」

 ホッホとカラス仙人が笑う。アタマくんが首をかしげて、

「順応性があるということか……。もともとカラスっぽかったということか……これも頭の中の手帳にメモしておこう」

 ひろはアタマくんがちゃんと研究活動を続けていることに感心した。それにしても。

 ―― お腹がすかないのはいいとしても、朝早く集まってから、もうずいぶん時間が経った気がする。

 普通の日常生活からあまりにかけ離れたところに、あまりにかけ離れた姿でいる自分に、背中がぞくっとするような感じがした。もう帰りたいような。マルンどんもそんな気持ちになったのかどうか、

「ちょっと。話は戻るけど」

 すこし真剣な声で言った。

「ここがカラスの里なら、もういいんじゃない。アタマくん、さっき『計画表の④までクリアしている』って言ったけど、次の⑤は何すればいいんだっけ。⑤まで行ったら、あとはみんなでまとめるだけだったと思う。早く終えて帰ろうよ」 

 アタマくんが目を閉じて、頭の中の計画表に目を通し始める。

「えーと。『⑤本当にカラス仙人なのか謎を解く。聞いてダメなら一緒に行動して推理すること』とあったよ、確か」                                                       「そうそう、そうだった」

 言ってから、マルンどんは、カラス仙人も横ににじりより、

「そもそもカラス仙人はカラスなの、人間なの。どっちなの」 

 カラス仙人は目をつぶって黙っている。マルンどんはくちばしを伸ばして、カラス仙人をつついた。

「何するんじゃ」

 カラス仙人は悲鳴をあげて、脇へ飛びのいた。

「もったいぶらないで教えてよ。人間、カラス、どっち?」

 ハラハラしているみんなを尻目に、マルンどんは一歩も引かない。マルンどんとカラス仙人はしばしにらみ合っていたが、とうとうカラス仙人は根負けしたようにため息をついて、

「……きかないおなごよの。もちろん人間じゃ、人間に決まっとるわい! お前らだって、今はカラスの格好してるが、聞かれたらそう答えるじゃろうが。決まっとる、人間じゃ。だから他のカラスのような生活はしないし、実はこのカラスの里だって、木陰からこっそりのぞき見してただけで、住んだこともない」

 みんな、ほとんど同時に、

「えっ」

「……わしとしたことが、ペラペラ白状してしまったわい」

 カラス仙人は言ってしまって気持ちが楽になったからか、もう開き直って「にっひっひっ」と笑った。アタマくんはしらっとした顔で、

「まあいいです。そんなことよりも、カラスになったのはなぜなんですか?」

 直球を放った。『よし、いけーっ』とひろは思った。

「……長い話になるが」

 カラス仙人が言いかけたとき、サビケンが、

「かってりーな。長い話なんて」

 マルンどんがサビケンの頭をつつく。

「ちょっとあんた、どうしてこの話になると邪魔すんの? なんか都合の悪いことでもあんの?」

「ってて。やめろってば」

 かわして逃げながら、サビケンは頭を上に向けてちょっと考えた。

「はて。どうしてだろ? どうしてこの話になると、聞きたくなくなるんだろ? あれえ、変だな。俺にもわかんねーや」

 サビケンが視線をめぐらし、あらぬ方向の空を見上げ、しまいにカッカッと笑った。

「何してるんですか」

 アタマくんにしては珍しく、鋭い口調が響いた。カラス仙人はものすごい眼力で、じいっとサビケンを見ていた。イナがびっくりして、

「どうしてそんなこわい顔しているの」

 みんなの注目を浴び、カラス仙人はバツが悪くなったらしく、怪しい凝視をやめ、苦笑いした。

「集中力が途切れてしまったではないか。まあ、白状ついでに言ってしまうか。こいつなら単純そうだからあやつれるかと思っての。さっきはうまくいったんじゃが」

「な、なんだって」

 サビケンは、はっと我に返った様子で、カラス仙人に抗議しようとする。アタマくんが、

「カラス仙人、あなたは人をあやつれるんですか」

 強い調子で言い、身構えた。メガネの奥の目が光る。

「真面目じゃのう、お前さんは……。ちょっと試しに念じてみただけじゃ。あやつれるかどうかなんて、わしにも分からん。わしのやってることは全部、行き当たりばったりなんじゃ。カラス人間になってからのことは、予想のつかんことばっかりじゃ。自分でどうこうしようなんてたくらんでも始まらん。ただ、やりたいようにやっているだけなんじゃ」

 カラス仙人が困ったように説明した。イナが進み出て言った。

「おじいちゃ……、いえ、カラス仙人さん。もっといろんなこと話してください、秘密にしないで」

 イナにじっと見つめられて、カラス仙人は、

「何から話していいか分からんが……。わしにもよく分からんことがいっぱいあるんでのう。うまく話せる自信がない……」

 ひろはカラス仙人の気弱そうな様子を見て思わず、

「カラス仙人……。ぼ、僕もいつもうまく話せない。だから、あの、うまく話せなくてもいいから、ちゃんと聞くので……教えて。カラス仙人のこと」

 マルンどんも続けて、

「そうそう、友達なんだからちゃんと聞くよ」

 オバサナも、

「話して、話して。オネガーイ」

 そして、おしまいの「オネガーイ」を何度も繰り返した。アタマくんと、それからふくれっ面をしていたサビケンも、さらに残りの面々も和して、「オネガーイ」の大合唱になった。カラス仙人は、ようやく重い口を開き始めた。


   9

 カラス仙人には、息子が一人いた。息子はワタルという名前だった。カラス仙人が結構年を取ってからできた子なので、カラス仙人は自分が先に死んでしまたら奥さんと息子が暮らしていけるよう日頃からお金を貯めるなど、心づもりなどしていた。しかし、ワタルが小学生のとき、カラス仙人より年下の奥さんのほうが病気で死んでしまった。カラス仙人は息子を一人で育てることになった。

「その頃はまだ人間だったんですよね」

 アタマくんが口をはさんだ。

「わしは今も人間じゃ」

 カラス仙人がムッとしたので、

「いや変な意味じゃなくて、その……。カラスに変身するとか、そういう」

「ごめんね、カラス仙人。この人頭がいい分、ちょっと心が抜け落ちてるとこがあるから」

 マルンどんが割って入ったので、アタマくんはそれ以上言おうとはしなかったが、下を向いてしまった。アタマくんなりにダメージを受けたようだ。ひろは、

「アタマくんはちゃんと心、あるよ。あるけど……。うーんと、その、うまく表現できないだけなんじゃないかな。えーと、そう、みんな得意、不得意あるし」

 カラス仙人はひろを見た。

「そうじゃな、みんな得意、不得意あるよの」

 自分を見るその目がいつもより優しい感じがして、ひろは落ち着かない気分になった。

「……うん。どうもまぎらわしいから、今わしが話をしている中では、わしのことは『カラス仙人』ではなく、ただの『ワタルの父』とさせてもらおうか。せっかくいい名をつけてくれたのにすまんが」

 カラス仙人の言葉に、サビケンが、

「おっカラス仙人、じゃなかった、ワタルの父もなんだか丸くなったね。成長してるんじゃねーの」

 軽口を言って、マルンどんにどつかれた。けんかになる前にイナがなだめ、

「気にしないで、お話続けてください」

 つぶらな瞳でお願いした。カラス仙人はニヤついて、うなずく。

 ワタルの父は古本屋さんをしていた。勤めに出ているわけではなかったから、息子の様子をそばで見ることができた。ワタルはもともと人づきあいが得意ではなかったが、母親を亡くしてふさぎこみ、ますます人と会ったり話すのが苦手になっていった。学校でいじめられたり、先生とうまくいかなかったこともあったらしく、とうとう学校へ行かなくなった。父は息子に学校へ行くよう何度も話して聞かせた。でも、ワタルは行かなかった。自分の部屋に閉じこもって、食事のとき以外はほとんど出て来なくなった。先生も何回かやってきたが、会おうとしなかった。先生もしまいに来なくなった。

 ワタルに話しかけても「うん」とか「いや」とか、暗い声で返事をするだけの日が続いた。父親もとうとう諦めた。簡単な勉強は親が教えることにした。ワタルは「学校へ行け」と言われなくなって安心したのか、少しずつ部屋から出て、父と過ごす時間を持つようになった。父は運動のため、時々ワタルを散歩に連れ出した。ワタルも必要があれば、短い言葉で父に話すようにもなった。

 月日が流れ、ワタルも十代半ばになると、父に勉強を教えてもらうより、本から学ぶほうが多くなってきた。父が分からないことを自分で調べて理解し、逆に父に教えることもあった。古本屋の棚から一冊読みたい本を自分の部屋へ持っていき、読み終わると、もとあった場所に戻し、また別の本を持って行く。本と本の隙間に滑り込ませるときには、必ず少し離れて眺め、斜めに傾いたりせずきちんとおさまっているか、几帳面に確認した。納得するような状態になると静かに微笑んでうなずき、次の本を探す。そんなときワタルの瞳が輝いていたのを、父はよく記憶している。

 散歩もいつしか一人で出かけるようになった。早朝とか、夕暮れ近くとか、気が向くとふっといなくなり、一、二時間もすれば戻ってきた。出かけるときには、必ずどんぐり二個と保険証をポケットにしのばせていた。多少のこづかいを入れて財布を持たせようとしても持たないのに、おかしな奴だなあと父はよく笑った。

「思えば、どんぐりはワタルが小さな頃、親子三人で公園を散歩していたときに拾ったものだ。大事にしまってあったのか、机の引き出しの隅にでも転がっていたのかわしには分からん。でも母親を亡くしてから、その二個をお守りのように持ち歩くようになったんだなあ。保険証は、あいつの母親が『何かあったときのためにいつも持ち歩くものよ』と常日頃言っていたからだろう……。も少しましな、生きていく上でたしになるような、ありがたい言葉を残してくれてもよかったんだが」

 カラス仙人はわびしげにちょっと笑った。それから、また話を続けた。

 ワタルが二十歳になった頃のことだった。散歩に出て、いつもより長い時間戻ってこない日があった。やっと帰って来たとき、両手に何か包み込んでいた。父の目の前でそっと開くと、小ぶりのカラスが震えていた。『どうしたんだ、それ』と聞くと、『地面で震えていたから、拾って来た。けがしてる』と言う。『近くに親鳥はいなかったのか』と聞き返すと、『いないようだった』と言う。このままでは死んでしまうと思ってつれてきた、とワタルは説明した。「父さん。飼っていい?」というワタルの必死な表情に、父は『こいつ、こんな顔も出来るんだ』と内心驚きながら、またいっぽうでは、羽から血を流し、目を閉じているひなを見て、ワタルにこの鳥を育てることなど無理だろうと感じながら、答えた。「ちゃんと世話するならいいぞ」と。

 ワタルは古本屋の棚からいろんな本をあさり、鳥を介抱するのに努めた。どこからか虫や木ノ実などを拾って来てはすり鉢でつぶし、スプーンで口に入れてやった。そのうちに、ワタルを見ると、くちばしを大きく開け、赤い口を見せながら盛んに鳴いて餌をせがむようになった。父の予想とは裏腹に、カラスのひなはだんだん元気になっていった。

 息子とカラスはいつも一緒だった。鳥かごは開けっ放しで、餌を食べたり寝るときはかごに入り、遊びたくなると出てきて、ワタルの肩にとまったり、父親のそばに来たりした。ただし、店先には寄ってこなかった。息子に繰り返し教えられて、「オハヨー」「ワタル」「トーサン」などと、少しずつ言葉もしゃべるようになった。

 カラスはいつまでも「カラスの子」と呼ばれた。名前をつけないのかと聞くと、ワタルはにっこり笑って「カラスの子のままでいいんだ」と言った。ワタルの表情はうんと幼い頃のように喜怒哀楽が戻って豊かになっており、いい傾向だと父も感じていたが、このときのワタルの声はとりわけ温かく、心を包み込むように響いた。

 家の中に笑いが戻って来た。カラスの子は成長したが、父やワタルにとってはいつまでも可愛いカラスの子であり、カラスの子にとっても父やワタルだけが自分の家族だった。部屋の中を飛び回ったり、ワタルの肩に乗って散歩に行くぐらいで、ほかのカラスのことにはあまり興味がないようだった。

 昼下がり、父が店番をしていると、ボソボソとカラスの子がしゃべる声がワタルの部屋や居間の方からよく聞こえて来たものだった。

「トーサン、トーサン。ワタル、ワタル、オハヨー。カラスノコ、イイコダネッ……」

 客がけげんな顔をすると父は笑って「うちで飼ってる鳥なんですよ」と言う。客は感心したようにうなずく。立派なインコがいると勘違いしてるんだなと、父は内心おかしく思った。


 それから二年ほど過ぎた、春の夕暮れ時のことだった。その日もワタルは肩にカラスを乗せ、散歩に出た。いつもひとけのない道を選んでゆっくりと歩き、心地よい疲労が感じられる頃、返ってくる。だから、このときも父は夕食の用意をしながら、そろそろ帰ってくる頃だと思っていた。しかし、夜更けになっても帰ってこない。次第に心配になり、外へ探しに行こうとした。まさにそのとき、ガタンと音がして、戸口が開いた。父親は玄関に駆け出した。ワタルだった。

「どうした、心配したぞ。けがしたひなを、また見つけたか」

 安心して軽口が出たが、息子は疲れた顔で軽く首を振った。それから父の顔をじっと見て深く一息つき、微笑んだ。父親は重ねて問いかけた。

「おや、カラスの子が肩にとまってない。どうしたんだ」

 そのとき、電話の音が響いた。父は急いで居間に駆け戻り、受話器を取った。警察からだった。ワタルが交通事故にあったという知らせだった。病院に運ばれたので、すぐ向かうようにという。持参していた保険証から連絡先が判明したと言い、病院名を伝えた。父は一瞬たじろいだが、玄関にワタル自身がいることを思い出し、舌打ちして受話器を置いた。

「あいつは現にここにいるのに。なんの間違いやら」

 それから、やれやれと腰を下ろしてワタルが居間に入って来るのを待ったが、いつまで待っても来ない。もう一度玄関へ戻りながら、

「何で入って来ない。変な電話だよ。お前が事故にあったなどとぬかす。お、そうか。お前、保険証どっかで落としたんだろう。それを拾った奴が事故にあったんだ、きっと。全く人騒がせな。おい、どうした」

 苦笑しながら大声で言ったが、玄関に全く人の気配はなく、半分開いた引き戸から薄ら寒い風が吹き込んでいるばかり。 

「ワタル!」

 父は外へ飛び出して、付近を探し回ったが、息子はどこにもいなかった。半時間待っても帰ってこなかった。時間がたつごとに、全身から血が引いていく。では、さっき見たのはなんだったのか。幻? まさかと思いながらも、いてもたってもいられなくなり、タクシーを呼ぶと、先ほど告げられた病院名を言った。

 ワタルは頭に包帯を巻いた痛々しい姿で目を閉じていた。あとから聞いた警察の話では、信号のない横断歩道で、前方不注意運転の車にひかれてしまったそうだ。運転手はまだ若い女で、後日詫びに現れてぼろぼろ泣きながら頭を下げた。

 それから一年たっても、ワタルはずっと意識が戻らぬまま入院していた。父は古本屋をしながら、毎日夕暮れの、決まった時間にワタルに会いにいった。ワタルの肩にとまって一緒に出て行ったカラスの子は、あの日から戻っていない。なついていたので、そのうち戻って来るかと待っていたが、一向に戻っては来なかった。日中は忙しさに紛れて淡々と過ごせたが、夜になるとこらえきれず男泣きに泣いた。妻が死んでも泣かなかったのはワタルがいてくれたから、この子のために俺がくじけてはいけないと気を張り詰めて頑張れたからだったと、今更ながらに気づいた。

 ある夜のことだった。人の声がして、父は目を覚ました。

 ――父さん、父さん。

 ああ、あの陽だまりのような声。ワタルだ。そう思って寝返りを打ち、ハッとして飛び起きた。布団の中で上半身を起こしたまま、目をこすり、声の主を探す。暗闇に、カーテンの隙間から細く月明かりが差し込んでいた。誰の姿も見えなかった。ぼうっとしてそのままの姿勢でいると、 

 ――父さん、僕だよ。ワタルだよ。

 見えないけれども、声がした。思わず、聞き返す。

「し、死んだのか! 死んで会いにきたのか」

 すっとんきょうな声が闇に響き渡った。見えない相手はおかしそうに笑いながら、 

 ――死んでやしないよ。ただ、体が動かないから、こうやって会いに来るしかなかった。

「こうやって会いに来れるのか。なら父さんとまた一緒に暮らせるな! そうかそうか。なに、姿が見えないことなんか気にせん気にせん」

 相手はまた笑いながら、

 ――そんな簡単なようにはいかないよ。こうして来るのはすごく、すごく難しいんだよ……。どうしても伝えたいことがふたつあったんだ。ひとつめは、僕はこうしてちゃんといるんだってことを父さんにわかってほしかった。体が動かなくても、もし息をしなくなったとしても。

「駄目だ、駄目だ。息をしなくなったら死んでしまうではないか! 絶対に死んではいかん。あのままでもいいから、父さんを置いていかんでくれ」

 すがるように必死で言うと、ワタルはまた楽しそうに笑った。

 ――誰だっていつは死ぬんだよ。僕にも、自分がいつ死ぬかは分からないけど。でも死んでもいなくなることはなくて、別なところに行くだけだってことはもう分かった。だから安心して。

「母さんに会ったのか」

 ――事故にあって体から離れたとき、すごく高いところに浮かんでて、すぐ横に母さんがニコニコしていたんでびっくりした。僕死んだのって聞いたら、バカねえまだ駄目よって、背中をポンとはじかれた。そしたら僕の体に戻っちゃったんだ。でもねえ、心と体がうまく連動していない今の状況は、ほとほと困っちゃうよ。

「そうか……」

  ――それはそうと、ふたつめを伝えるね。お願いがあるんだ。僕がぶつかった車を運転していた人のことだけど。

「何だ! 警察から取り調べを受けて罰金処分やら何やら受けたらしいが、飽き足らないか。そりゃあそうだなあ、こんな目にあわされて。泣いて謝ったって許せるものか」

 言いながら、父は病室に何度か訪れた女のことを思い出した。誰か身内の者に付き添われてやって来た。青ざめて、涙を浮かべ、しばらく黙っていたが、身内の者に促され、ようやくのことで詫びの言葉を口にした。応える気になれず黙っていると、「だけどあのとき……」と、何か言い訳を始めようとした。父は即座に立ち上がり、差し出された見舞い品を突きかえし「帰ってくれ」と言った。女は「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も叫んだが、父は聞く耳を持つことなく、病室の外に締め出した。以後、一切接触を断っていた。損害賠償や慰謝料について相手の保険会社から派遣された弁護士とのやりとりはただ淡々と受け入れた。悲しみすら抱えきれないのに、怒りや憎しみの感情でかく乱されるのは、もうたくさんだった。だが今、ワタルを前にして、父の中に激しい怒りの炎がよみがえった。気がつくと、口走っていた。

「仕返しをしてやろうか」

 それを聞くと、ワタルはくっくっと笑った。

――違うって。どうしたの、父さん。らしくもない。だいたい僕がそんなことのために苦労してやってきたと思ってるの? さっきも言ったけど、こうやって来るの、すごく大変だったんだよ。何度も試みて、父さんの夢の壁はこちこちに硬くて、はねつけられてさ。ようやく小さなひびを見つけた。何回も全身でぶつかって、ひびを大きくして、ついに穴を開けて転がり込んだ。まあ、そんな野蛮なことをしても痛くもなんともないのが、この体のいいとこだけど」

 ワタルは茶目っ気たっぷりに笑った。父は一緒に笑っていいものかどうか迷い、泣き笑いみたいになった。ワタルは真剣な目に戻ると、

「ね。違うんだよ。あの事故は、不幸な出来事だったんだ。僕が横断歩道を渡ろうとしたとき、肩に乗っていたあいつ……カラスの子のことだけど、あいつが急に飛び上がって、目の前の車のフロントガラスに貼りついたんだ。そして、ワイパーをかぎ爪でぎっちりとつかんで、羽でガラスを打ちつけ始めた。ものすごい勢いだった。運転席にいた女の人は驚いて、ブレーキにかけていた足を浮かせてしまった。僕も混乱してしまって、動作が鈍った。車が動き始めて、体に衝撃が走った。痛いと思った次の瞬間、僕は信号よりももっと高いところに浮いて、下を見下ろしていた。女の人は動転し、ブレーキを踏もうとしてアクセルを踏んでしまった。路上に転がっていく僕の体からどんどん血が流れて、あたり一面に広がっていくのが見えた。車は電信柱にぶつかって止まった。女の人はやっと車を止めると、中から出てきて、僕に駆け寄った。青ざめて、おろおろしていた。まわりに人だかりができて、救急車の音が遠くから聞こえて来た。

「や、やめろ! もう聞きたくない」

 ワタルの声がちょっと沈黙して、それからいたわるような口調になって、

――ごめん。父親として聞くのはつらい話だよね。もうやめるよ。何が言いたかったかというと、誰のせいでもなかった、しかたがなかったんだ。しいて言えば、あいつがいきなり車のフロントガラスに貼りついたことだけど……。でもそれを言うなら、あいつを育てた僕に責任があるってことにもなる。でも、あんな変な行動をとる奴じゃなかった。ほんとに可愛い奴だった……。だから、あいつにもあいつなりの理由があったんだと思うんだ。あのとき見失っちゃって、あいつの気持ちはもうわからないけど。とにかく、そんなわけで、父さんには、誰も恨む必要はないってことを伝えなきゃと思った。恨むなんて、健康によくないからね。

 ふふっと笑った。

「寝たきりで意識不明のお前に、わしの健康を気づかってもらうとはな」

――それもそうだね。

 ワタルが素直に認めたので、父もかすれた声で笑った。笑顔のワタルが徐々に消え始めた。

「待て! 行くな」

――無理だよ、もうこれ以上。父さんが夢から覚め始めてる。

「また会いに来てくれるか」

 もうワタルの姿は見えなくて、声だけが遠ざかりながら聞こえた。

「……どうかな。さっき開けた穴、もう埋まっちゃったみたい……」


10

「てなわけじゃ」

 そう言うと、カラス仙人は息をついてちょっと黙りこんだ。

「かわいそう……」

 涙ぐむイナを、オバサナとマルンどんがそっと取り囲む。三人そろってシクシク泣き始めた。サビケンが、

「泣くなよ、陰気くせーな。カラス仙人が困ってるだろ」

 とがめるように言うが、そう言う本人も鼻をすすり、声もどこか湿っぽい。ひろもどうしていいか分からずに、カラス仙人を見ていた。カラス仙人は目を閉じて黙っている。

「……大変だったんですね」

 一番大人の反応をしたのはアタマくんだ。

「でもどうして、それがカラス仙人になったこととつながるんですか。話がそれたような気がしますが」

 あくまで冷静なアタマくんだった。

「あんたに人間の感情はないの」

 マルンどんが抗議すると、サビケンが、

「そうだそうだ、たまにはいいこと言うな。マルンどん」

 照れたのかマルンどんはフンッと横を向いたが、その目は心なしか嬉しそうに見えた。

「……ごめんなさい」

 アタマくんがしょげかえる。

「あんたもそうしてれば、かわいげがあるよ」

 ガハハハ……とオバサナが笑う。泣き笑いの顔だ。アタマくんは顔を上げてちらっとオバサナを見た。

「……オバサナはいつも変わらず、おばさんっぽいね」

「あっ、あんたがそういうこという?」

 珍しい組み合わせの口論が始まりそうだったが、カラス仙人は笑いながら、

「こらこら、内輪もめするでない。大丈夫じゃ。これからそれを話そう」

 それから、また話し始めた。


 姿の見えないワタルが訪れたのはその夜だけで、もう来ることはなかった。父が病院に見舞うと、いつも眠っていた。父は枕元で話しかけたり、小声で歌ったりしたが、なんの反応もなかった。

「医者はどうしようもないと言った。もしかしたら目覚めるかもしれないし、死ぬまでこのままかもしれないとも」

 それでも諦めきれずに、枕元で本を読むことにした。眠っているが、あんなに本が好きだったのだから、少しでも幸せな気分になればいいと思った。店の本棚から大切そうにワタルが取り出しては読んでいた本の何冊かを思い出しながら、同じように一冊取り出してはワタルの枕元で少しずつ読み、何日もかかって読み終わる。持ち帰って本棚に戻すと、また次の一冊を取り出した。父には、本を読み聞かせている間だけ、ほんのちょっとワタルの口元がほころぶような気がした。それなりに幸せな時間だと思えた。

 ワタルが読んだ本ばかりを選んでいたが、ある日、父がいつものように本棚の前に立っていると、ふと一冊の本が目に止まった。たくさん並んでいる背表紙の間に『カラスの里の物語』という文字がちかりと光ったような気がした。

「たまたま、あの日から行方知れずになっているカラスの子のことを思い出して、どうしているかなあとなどと考えながら、その本を取り出して見たんじゃ」

 みんな、カラス仙人の話に聞き入っている。もうお昼もとうに済んで、三時のおやつの時間かなとひろは心の隅でふと思う。依然としてお腹は空いていないけれど、なんだか寂しい気がした。家の居間を懐かしく思う。でもみんな、時間のことはすっかり忘れているようだ。ひろは頭を振ってよけいな思いを振り払い、また話に集中した。


 ワタルの父は自分の店に置いている本をほとんど記憶していたが、その本のことは、どんなふうに仕入れたか、全く覚えていなかった。取り出してぱらぱら頁をめくると、童話のようで、里に暮らすカラス一家の楽しい日常が描かれているようだった。今日はこの本を持って行こうという気になり、カバンにすべり込ませた。そのあとは、次々と客が来て、本に目を通しておく暇はなかった。

 ワタルの病室について、

「やあ。今日はいい天気だぞ。来る途中で、アゲハ蝶が飛んでいた」

 ささいな日常のことなど話しかける。それから、カバンをのぞくとあの本が入っていて、「ああそうだ、これこれ」と言いながら開き、読み始めた。

「カラスの親子が都会の電信柱に巣を作って、暮らしていました……」

 読み始めると父は、あれこんな内容だったかなと首をかしげた。山の里でカラスの親子が暮らしている話のように思えたが、いつのまにか街の中の話になっている。思い違いだったなあと思いつつ、頁をめくった。

「カラスの子が巣から飛び立てるようになるまでは、都会で暮らしたほうが食べものに困らないからです。それに、巣の近くには大きな川があって、浅瀬で魚を採ったり、水を飲むにも都合がいいからでした。ほかにも、野原で虫をとったり、街角のゴミ捨て場から人間の置いていった食べ物を持って来たりして、カラスのお父さんとお母さんは一生懸命に子供たちを育てました。カラスの子は全部で六羽いました。『みんな飛べるようになったら、お山の里に行って楽しく暮らそうね』子供たちは『はーい』と声をそろえて、お父さんやお母さんが運んで来てくれるものを、パクパク美味しそうに食べました」

 カラス仙人の話を聞きながら、アタマくんが口をはさむ。

「よく本の文章をすらすら言えますね。記憶術か何かしているんですか?」

「ちょっと、アタマ! また余計なことを」

「よ、よびすて……」

 マルンどんににらまれて、アタマくんは羽の先でメガネをおさえ、防ぎょの姿勢になる。カラス仙人は、

「記憶術? なんじゃそりゃ。うーむ……なんじゃろうかね、こうして目をつぶると、あのとき開いた頁がそっくりそのまま見えるんじゃよ」

「僕と同じですね。僕は訓練してできるようになったんですが、おじいさんはどうやって?」

 アタマくんはどうしても知りたいらしく、マルンどんから阻止されないよう身をかわしつつ、早口で聞き返した。カラス仙人は首をかしげながら、

「……うーん。そういわれれば、以前はこんなことなかったなあ。今、あの本のことを思い出したら、そうなったんじゃ」

「カラス人間になると、記憶のシステムが変わるらしい。脳の働きがよくなるのだろうか」

 そう言いながら、アタマくんは頭の中のメモ帳に書き写したようだった。

 サビケンが、

「あんまり話にちゃちゃ入れんなよ。俺バカだから、こんがらかってわかんなくなっちゃう」

 アタマくんは小声で、

「脳の働きがよくなるかどうかは、人によるらしい」

 と、架空のメモ帳に付け加えた。

「てめえ! ……まあいいや。話、どこまでだっけ?」

 サビケンはアタマくんから目を離し、他のみんなに聞いた。

「ワタルさんに、カラスの本を読んでるとこまで」

 ひろとイナがほとんど同時に言った。顔を見合わせて笑った。

「ビンゴ!」 

 オバサナが大きな声で言い、ガハハ……とより大きな声で笑った。

「ビンゴ? なんじゃそりゃ……」

 言いながらも、カラス仙人はまた元の話に戻っていった。


 ワタルの枕元で、父は本を読み続けた。

「カラスの子たちはだんだん大きくなって、飛べるようになる子も出てきました。一羽、三羽、二羽……。みんな最初はこわごわ巣から飛び出してすぐ戻ってくるのですが、やがて川辺で遊んだり、自分で食べものを探すようになってきて、外にいる時間が長くなっていき、もう戻ってこなくなる子も出て来ました。でも、どうしても飛び出せない子がいました。育つのが他のきょうだいより遅く、体はひとまわり小さなままでした。お父さんやお母さんが目の前で羽をバタバタさせて飛び方を教えても、目をパチクリさせて見ているだけで、どうしても自分から飛び出そうとはしません。カラスの子には、カラスの子なりの気持ちがありました。『外に行くのはどうしてもこわい。飛ぶなんて、なおさら僕には無理だ。お日様の光を反射して、川がキラキラ輝いている。お空が青くて、吸い込まれそうだ。ああ、ここから見ているだけでじゅうぶんに幸せだ』とうとうお父さんは怒って「こんな弱虫にいつまでもかまってられん」と言うなり、出ていってしまいました。先に出て行ったきょうだいたちも、お父さんも、お山の里に行ってしまったのかもしれません。お母さんはおろおろしながら、それでもその子から離れようとはしませんでした。せっせと食べものを運んでは、食べさせてやるのでした」

 父はそこまで読み進んで、ワタルを見た。口元がほころんでいるような気がした。眠ったままでもやっぱり聞いているのかなと思い、少し疲れてきてはいたが、もう少し先まで読むことにした。

「いつものように、お母さんが食べものを探しに行って、カラスの子は巣の中で待っていました。なんだか寂しい気持ちがありました。何日か前までは、きょうだいたちが一緒にいて、狭い巣の中でひしめきあっていたのです。きゅうくつではありましたが、それはそれはにぎやかなものでした。お腹がすいて待っている間も、軽くつつきあったり、ぶつかりっこをしたり、いつも何かしら忙しくしていたので、こんな気持ちがあることも知りませんでした。きょうだいたちが飛ぶようになってからも、待てばやがて戻って来たので、むしろおみやげの虫なんかを楽しみに、のんびりしていることができました。でも今では、きょうだいやお父さんももういないし、頼みの綱のお母さんさえ、戻る気配がないのです。誰もいない巣の中で、クエークエーといくら呼んでも、誰も答えてくれません。お腹がグーと鳴りました。お腹が返事をしてくれたのかな。でも、お腹とおしゃべりするのもつまりません。空を見ても川を見ても、きれいには見えませんでした。カラスの子は思いました。『お父さんやきょうだいたちは今頃、お山のカラスの里で楽しく暮らしているのかなあ。それとも、この街のどこかで、のびのび飛びながら、食べたり、景色を楽しんだりして暮らしているのかなあ。飛んでおいでよって何度も励ましてくれたけど、僕はどうしてもここから出るのがこわかったんだ。うまく飛べる気がしなくて……。以前は楽しかった。あのまま、みんなで一緒にここにいられればよかったのに』 それにしても、お母さんはいつ帰ってくるのでしょう。こんなに帰りが遅かったことはないように思えてきて、カラスの子は落ち着かなくなりました」

 父はちょっと疲れたので、本を膝に置いた。ワタルの顔を見ると、眉の間にシワを寄せて、ハアハアと荒い息をしている。

「ワタル! どうした」

 あわてて呼びかけ、ナースコールのボタンを押した。しかし、数分後に看護師が来たときには、いつもと変わらぬ、静かに眠り続ける姿に戻っていた。それでも、父は眠っているワタルを疲れさせたかと思い、その日は本を持って家に帰った。

 家に戻って簡単な夕食を食べた後、気になって本の続きを読もうとした。ところが急激な眠気に襲われて、ぐっすり寝入ってしまった。気づくと、もう朝だった。寝坊をしてしまった。店を開ける時間が迫っていたのであわてて身支度を済ませ、食事もそこそこにいつもの日課に戻った。その日に限ってなんとなくせわしなく次から次へと用事が入り、結局、本を開いたのは夕方病室で、ワタルの横に座ったときだった。

 息子はうっすら口元に笑みを浮かべているように見えた。

  ――父さん一人で読もうったって、そうはいかないよ。

 そんな言葉が、あの、陽だまりを思わせるような温かみのある声で聞こえてくるような気がした。父は笑って、

「そうかそうか。さあ一緒に読もうな」

 ゆっくりと本を開いて読み始めた。

「お日様が傾いて、夕暮れに近づいて来ました。それでも、お母さんは帰って来ません。カラスの子はひとりごとを言いました。『お母さん……。お母さんまで僕を置いて行ってしまったの?』『僕がいつまでも弱虫で飛ぼうとしないから、僕にあいそをつかしちゃったの?』目に涙が浮かんできます。カラスの子はぶんぶんと首を振りました。『そんなことない、そんなことない。お母さんはいつだって僕の味方だ』目を閉じると、お母さんのいろんな姿が浮かびます。くちばしの先で柔らかく頭をかいてくれるお母さん。飛び方を教えようと根気よく励ましてくれるお母さん。それから、食べものをくわえて戻ってきて、カラスの子の口の中に上手に入れてくれるお母さん。ぱくぱく美味しそうに食べるカラスの子に『遅くなってごめんね。ゆっくりお食べ』と言うお母さん。小さな声で子守唄を歌ってくれるお母さん……。

 ――ああ、どのときのお母さんも大好きだ。はやく、早く、お願いだから早く帰って来て。

 カラスの子が心の中でそう叫んだとき、願いが届いたのか、遠くのビルの陰から、飛んでくるお母さんの姿が見えました。だんだん大きく、近づいてきます。カラスの子は嬉しくて、巣の中で羽をバタバタしました。ふわっと一瞬、体が浮かびました。

びくっとしてはばたきを止めようとすると、お母さんが電信柱にとまって叫びました。

「それでいいのよ! そのまま続けて、ここまでおいで」

 お母さんが声を出すと同時に、くちばしにくわえていたリンゴが一個、地面に落ちていきました。カラスの子は身動きできなくなり、情けない顔をしてこわごわお母さんを見返しました。またお母さんをがっかりさせたかと思うと、そのままお母さんを見続けることができなくなりました。しょんぼりとリンゴに目を落とします。リンゴはころころと転がって、道の角まで来て止まりました。

「……僕だめだ、ごめんなさい」

 お母さんは小さく笑って、

「いいよいいよ、ゆっくり覚えれば。お母さんこそお前の大事な夕ご飯、落としちゃったりして、ごめんよ。早く拾わないとね」

 急いで舞い降りました。そのときです。青緑色の車が角を横切って現れ、すごいスピードで進み、リンゴを拾おうとしているお母さんにぶつかって、通り過ぎて行きました。お母さんの体は高くはねとばされました。

「お母さん!」

 カラスの子は声を限りに叫びました。お母さんの体は大きな川の真ん中へんに落ち、水の勢いに飲まれていきました。カラスの子は思わず巣から飛び出ました。懸命にはばたき、ふらついて、地面に落ちました。体に激しい痛みが走りましたが、夢中ではばたいて、頑張って、ようやく川べりまでたどりつくことができました。でも、もうそのときには、お母さんは川のずっと先に流されてしまっていました。もがいて、浮かんでは沈むお母さん。とうとう力尽きて沈むと、もう浮かび上がることはありませんでした。

「おかあさああん」

 カラスの子の声だけが、長く尾を引いて響き渡りました。何度も何度も呼び続けているうちに、けがの痛みが強くなり、体中が冷えて、震えが止まらなくなりました。ずっとお腹がすいてもいたので、声も出なくなり、何もかもわからなくなりかけたときでした。カサカサと草を踏みながら近づいてくる物音がしたかと思うと、ふわりと温かいものがカラスの子を包みこみ、持ち上げられました。遠のく意識の中で、カラスの声は音を聞きました。

「よしよし」

 ――聞いたことのない音だ。お父さんともお母さんともきょうだいとも違う、でも僕に向かって優しく、温かく伝わってくる。なんだろう、この響きは……?

 

 最後の頁を閉じて、ワタルの父は黙り込んだ。読み進むうちに、変な気がし始めた。思わず、つぶやいた。

「これはまるで、うちで飼っていたカラスの子のことをいっているようじゃないか。そして、カラスの子を拾い上げたのはまるで、まるで……」

 ワタルは静かな吐息を立てて眠っていたが、父が言った瞬間、その眉がぴくっと動いたように見えた。父は目を閉じ、ふっと苦笑いして頭を振った。

「何馬鹿なことを言ってるんだ、わしは」

 よっこいしょと立ち上がると病室を後にした。帰る前に本をカバンに入れたつもりだったが、家に着いてカバンを開くと、入っていなかった。置き忘れたのかと、翌日、病室の小さな机やベッドの下などをのぞき込んでみたが、見当たらなかった。必死で探し回ったが、誰に聞いても見つからない。もう一度家中探してみたが、やはりなかった。うろ覚えの題名で図書館や本屋を探してもみた。しかし、不思議なことに、あの本と同じものを見つけることはできなかった。とうとう探すのを諦めた。


11

 本をなくして数日たったある晩、父は妙な夢を見た。自分は登場しない。透明な空気にでもなって、すべての光景をただ目撃しているかのようだった。

 ワタルが肩にカラスの子を乗せて、散歩に出て行こうとしている。カラスの子は嬉しくて、羽をバタバタさせる。ワタルの頬に風が当たり、ワタルは笑う。

「おー、涼しい涼しい。扇風機の役までやってくれるのか」

 引き戸を開けて、出て行った。カラスの子はもう自由に飛べるようになっていたが、外に出るときはちょっと不安で、ワタルの肩に乗せてもらったまま散歩するのが好きだった。ワタルはなるべく人のいない時間や場所を選んでくれるので、他の人がじろじろ見たり、子供が珍しそうに追いかけて来たりすることもない。ワタルの肩に乗ったまま揺られ、次々に変わる街の風景を楽しみながら、カラスの子は機嫌よく、覚えた言葉をしゃべり始める。

「ワタル、オハヨー。ワタル、オハヨー。ワタル、オハヨー。カラスノコ、イイコダネッ。イイコイイコ。……イイコ? イイコダヨッ。トーサン。トーサン。オハヨー、オハヨー、オハヨー」

 公園へ来たところで、ワタルはポケットからどんぐりを出してポンと空へ放り上げた。カラスの子は飛び上がり、空中でどんぐりをキャッチする。でも食べはしない。これはワタルの宝物だと知っているから。くわえたまま降りてワタルの肩に止まり、どんぐりを差し出す。

「えらいぞ」

 ワタルは受け取りながらカラスの子の頭や顎の下をなでてくれる。どんぐりをポケットに戻すと、もう一方のポケットからビスケットを何枚か出してくれる。カラスの子は羽をバタバタさせて喜び、ぱくぱく食べ始める。とてもおいしい。お腹がいっぱいになると、飛びたくなる。誰もいないときの公園では自由に飛べる。人も、他のカラスも、こわそうな感じがするものは何もないから。肩を離れたって、ワタルはちゃんと見ていてくれるから。カラスの子は思いっきり飛び回る。ぴりっとした空気が体をかすめて流れていく。木や花のいい匂いが体中にしみこむ。高い梢でひと息つき見下ろすと、ワタルが目を細めて見上げていた。

「お前はすごいなー。飛べるんだもんな。いいなあ」

 カラスの子は得意な気持ちになって、また飛び回る。いたずらもする。得意げにひゅうんと急に降りてワタルの頭をかすめる。ワタルが「わっ」と驚いた瞬間急上昇し、高い枝から「ワタル、ワタル。クエーッ」と叫ぶ。ワタルが公園の中を円を描くように走り出す。カラスの子も上空を同じように旋回する。ワタルの笑い声とカラスの子の鳴き声がこだまする。

 やがて疲れてどちらともなく運動はやめて、ワタルはベンチに、カラスの子は木の枝で休む。一羽と一人、しばらく黙って、そこにそうしているだけの時間。家々の灯りが一つ、二つとともり始め、遠くからカラスが鳴き交わす声がしてくる。

「おいで。そろそろ帰ろうか」

 ワタルが呼びかけると、カラスの子は素直に降りて来た。所定の位置のワタルの肩にとまり、くちばしにくわえている赤い実を見せた。ワタルは手に取り、

「ナナカマドか。きれいだね」

 カラスの子の顎の下を、指先でこちょこちょとなでた。ワタルが口に入れてくれた実をぱくんと飲みこむ。枝から取って直接食べるよりもずっと甘くなった気がした。

 夕暮れが進んで、空が真っ赤に染まっていた。カラスの子には、もうすぐ薄暗くなる直前の、お日様の最後の頑張りのように思えた。ワタルが横断歩道を渡りかけたとき、青緑色の車がやって来くるのが見えた。スピードをゆるめて、横断歩道の手前で止まった。その瞬間、カラスの子はその車が、お母さんを殺した車とそっくり同じ形、同じ色をしているのに気づいた。カラスの子の頭の中に、あのときの光景がくっきりとよみがえった。

  ――お母さんがリンゴを拾おうとしたとき、すごい速さで走る車、あの青緑の怪物が、そこの角からやって来た。お母さんにぶつかってはね飛ばしたんだ。それでお母さんは血だらけになって、川に落ちて、流れていったんだ……。あいつだ、あいつがお母さんを!

 気づいたときには、カラスの子は青緑色の車の前面に飛びつき、無我夢中で細長い棒みたいなものにつかまった。

  ――よくもよくも。お母さんを返せーっ。

激しく羽をばたつかせながら、ガラスを何度も打ちつけた。何をしたいのか自分でもわからなかった。ただ、このままこの怪物を取り逃がしてなるものかという気持ちでいっぱいだった。

「やめろっ」

 ワタルがあわてて駆け寄り、カラスの子の体を車から引き離そうとする。カラスの子は抵抗した。変わらず羽を打ちつけながら、必死でワタルに訴えた。こいつだよー。こいつがお母さんを殺したんだよー。この怪物がやったんだ! 

「クァア、クァア、クァア、クァアー」

 カラスの子は絶望的に叫んだ。が、ワタルには伝わらない。ワタルも力一杯、カラスの子を車から引き離そうとしていた。もがいているうちに、カラスの子の目に、怪物の透明で硬い顔の内側から、こわそうに、びっくりしてこちらを見ている人間の姿が見えた。女の人だった。家には女の人はいなかったけれど、見かけたことはある。カラスの子は混乱した。

  ――あれ。この怪物は、人が動かしているのかな。お母さんにぶつかった怪物とこの怪物は、同じじゃないんだろうか。

 カラスの子はあのとき頭の中に焼きついた光景を、もう一度よく見ようとした。ぼんやり、だんだんはっきりと見えて来た。すごいスピードでやってくる青緑色の怪物。あのときも中に人がいたのだっけ? カラスの子はあのとき、上から見ていたので、わからなかった。いたのかもしれない。でも今、目の前にいるこの女の人じゃなかったかもしれない。だって、なんだか気配が違う。あのときあの怪物は荒々しい空気に包まれていた。だけど、この怪物――今では、中に人がいて動かす機械だとわかりつつあった―― これは全然、荒々しくない。むしろ、柔らかく、おびえているような空気が伝わってくる。僕は、僕は、間違ったのだろうか?

 カラスの子が抵抗をやめたのと、ゆっくり車が動き出すのとがほぼ同時だった。カラスの子の体をつかんで車にしがみついていたワタルの体がゆっくり押し出される。女の人があわてた顔をする。車は急発進し、ワタルの体は大きく跳ね飛ばされた。   

「ワタルーっ」

 自分の叫び声で父は目が覚めた。とうてい、ただの夢とは思えない。ワタルが会いに来たときもそうだったが、今回のはあれとはまた違って、まるで目の前で起きている出来事を見ているようだった。ときには、心の中に入り込んだみたいに、カラスの子の気持ちを一緒に味わっている気がした。あんなに詳しく、細かいところまで何者がわしに見せようとするのか、と怪しんだ。

 ワタルが一度会いにきたことといい、あの本のことといい、今見た夢のことといい、もはや偶然とは思えなかった。本に描かれていた世界とこちらの世界がつながり、さらに今見たばかりの夢の世界へと物語が進んだと考えれば、それなりにつじつまが合う。部屋の中は真っ暗で、カーテンの隙間から弱い光さえ差し込んでいないところを見ると、夜明けにもまだ間があるらしい。

 父は飛び起きると、しばらくそのまま考え込んだ。考えたことが、知らず知らずに口から出ていった。

「わしに何をして欲しい……?」

「わしに何かできるんだろうか」

「わしが何かしたら、何かがよくなるのだろうか」

「……そりゃあ、しないよりはしたほうがいいに決まっとる……決まっとる……」

 夜が明け、光が増すごとに、その思いは確信へと強まって行った。

 それから父は、ずっと考え続けた。古本屋の店番をしているときも、家の中のことをしているときも、夕方になって病室を見舞うときも、ワタルの枕元に座っているときも。眠っているときにさえも考え続けた。しかし、自分がどうすればいいのかわからなかった。あれきり不思議な夢を見ることも、ワタルが肉体を離れて会いに来るということも、二度と起きなかった。せめて行方知れずになったあのカラスの子を見つけることができたら、何かいい考えが浮かぶようにも思えて、また思いつくままに足を運んで探してもみたが、ついに見つかることはなかった。そしてさらに月日は流れた。


 ワタルが寝たきりになって三年目の春のことだった。病院のある大学の構内を歩いていると、数羽のカラスが飛ぶのが目に入った。いつもの光景だ。よそもののカラスたち。

  ――あの中にうちのカラスの子がいたためしはない。

 父にはどんな群れの中にあっても、どんなに大きくなっていても、あのカラスの子がいたなら絶対にわかると思う。

  ――あいつだったら、ちょっと首をかしげてわしを見るだろう。わしの顔を見て、わしのことを思い出すだろう。嬉しそうに飛んで来て、肩に乗るだろう。それから昔のように、おしゃべりを始めるだろう。トーサン、トーサン。ワタル、ワタル、オハヨー。カラスノコ、イイコダネッ……。

 思いめぐらしていると、自然と目頭が熱くなる。父は考えるのをやめた。父は店先に座る時間以外、頭の中を真っ白の空洞のようにして、何も考えないで過ごすことが多くなった。悲しい気持ちになるのはもうまっぴらだった。

 病室に着き、ワタルのそばに腰かける。穏やかに目を閉じている。口から食べることができないから、体にチューブがつながれて、点滴で栄養を送られている。父はただ見つめて、一時間ほどそこにいた。何も考えない頭の中に、かすかに聞こえてくる音があった。父は聞こうとも思わず、ただじっとそこにいた。

 帰り道、やはり父は何も考えなかった。いつものように歩いて家路をたどる。暗い夜道を進むごとに、通り過ぎていく車や自転車、立ち話をしている他人の話し声、信号から流れるメロディ、様々の音が現れては消えた。でも、病室にいるときに始まったあのかすかな音はずっと父の頭の中に聞こえ続けていた。 

 何も考えないと決めていたから、気にしないようにしてはいたが、その音は無視できないほどなじみ深いものになっていった。

「音は大きくなりも小さくなりもしなかった。わし以外の誰にも聞こえていないらしいのにも気づいた。長いこと聞くうちに、だんだんはっきり聞こえて来て、ある言葉を言っているんだと分かってきた」

 カラス仙人はそう言ってから、しばらく黙り込んでしまった。みんな、引き込まれて聞いている。誰かがゴクリと唾を飲み込む音がした。風が吹いてきて、木の葉をさらさらいわせて流れていった。

「その言葉って……」

 待ちきれなくなってマルンどんが言った。

「その言葉って……」

 サビケンと、ひろが言った。

「その言葉って……」

 オバサナと、イナが言った。

「まさか……」

 アタマくんが言った。

「それはの」

 みんなを見回してさらにたっぷりと間を置いてから、カラス仙人はおそごかに言った。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ」

「だーっ、それかよ!」

 サビケンが叫び、ずっこけた。アタマくんの表情が曇った。すごく不思議な、素晴らしい言葉がカラス仙人の口から出るのを、今か今かと期待してたんだろうな、とひろは思う。ひろ自身、かなり拍子抜けした。みんなの顔を見ると、多かれ少なかれ、おんなじような気持ちらしい。長い沈黙を破って、アタマくんが気を取り直すように言った。

「いやもしかしたら、深い意味のある言葉かもしれない」

「そうだよ、だって実際カラスに変身できたんだもの」

 イナもカラス仙人の肩を持つように言った。

 するとサビケンが首を振りながら、

「いやいや、俺にはへんちくちんな言葉にしか聞こえん」

 マルンどんも戸惑った様子で、

「悪いけどあたしの中で『ワタルの父さん』って人と、この目の前にいるカラス仙人とが同じ人だとはいまだにピンとこないんだけど……。なんか人格違うくない? 今朝、サビケンの蹴った石にぶつかって木から『クエーッ』て落ちてきたり、飴の包装開けてってオバサナにねだってみたり、どう見ても人間離れしてたよ」

 同意を求めるようにみんなを見回し、それからゆっくりカラス仙人に視線を移して口ごもった。オバサナがカラス仙人の正面の枝に飛び乗って、

「カラス仙人、ほんとのほんとにあったこと言ってる? 嘘ついたりしてない?」

 大胆なツッコミを入れる。カラス仙人が返事をする前にひろは大きな声をあげた。

「そんなことないよ! そこまで疑うなんてひどいと思うな。カラス仙人がワタルさんのことでどんなに悲しい思いをしたか、聞いてて分からなかったの」

 ひろの剣幕に一瞬、みんながたじろいた。と、突然、カラス仙人がけらけらと笑った。

「ありがとよ。まあ信じられない気持ちもわかる。今は人間の思考が戻っているが、この頃は、頭の中もかなりカラスっぽくなってる時間もあるんでの。今朝のわしは、そんな感じじゃった。カラス度が八割位じゃったんじゃなかろうか」

「カラス度が八割……」

 アタマくんがおうむ返しに言うのを気にもとめず、カラス仙人は、

「でも、今話してるのはほんとのことなんじゃ。今のわしは人間度が高いようじゃわい。どれ、続きを話そう」


   12 

 音の正体が言葉であるとわかった日、ワタルの父は夕食の後片付けをしてもう何もすることがなくなると、座って腰を休めた。部屋は静まり返っていた。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ」

 何も考えずにいると、ただその響きだけが一定の間を置いて聞こえてくる。目を閉じた。いつの間にか音に合わせて、自分でも口ずさんでいるのに気づいた。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ……」

 半時間ほどそうしていたろうか、何かの気配を感じて目を向けると、カーテンの向こうに巨大な影があるのが見えた。丸い、ドームのような影にくちばしのようなものがついている。影は音を立てることはなかったが、生き物らしく、かすかに動く。何かを伝えようとしているようにも見えた。やがて、影の思っていることが伝わってきた。

――やっと気づいてくれたんだね。僕だよ、トーサン。僕だよ。

「カラスの子、お前なのか!」

―― うん、そうだよ。父さん、ごめんなさい。僕のせいでワタルがあんなことになっちゃって。

 父は何と返していいか分からなかった。ただ、言葉が勝手に出ていった。

「お前のせいじゃない。不幸な出来事だったのじゃ。わしには、ワタルもお前も可愛いわしの子じゃ」

 影はゆらゆら揺れた。大きく揺れながら、だんだん薄くなっていく。

「ま、待て! 消えるな、お前まで行ってしまうなっ」

 父は窓に駆け寄って、カーテンを開けた。暗闇にぽつんと街灯が灯り、ひと気のない通りがぼうっと浮かび上がっていた。

 その日を境に、父はまた考えることを始めた。ただ考えるのはいつも同じことだった。

―― 自分に出来ることがあるのだろうか。

 ワタルの事故があってから、悲しみや苦しみの果てに、あれこれ考えることをやめて穏やかに毎日を過ごすのが最善と悟ったつもりでいた。亡き妻の仏壇に手を合わせるときも、

店で客に応対するときも、知り合いに出くわして挨拶するときも、あまり考えることもなく淡々と行うようになっていた。ワタルを見舞うときもただそばに腰かけ、静かに見守っていた。ワタルか自分かどちらかが先に死ぬ日までこんなふうに過ごすのも悪くない。いつしかそんな精神状態に落ち着いていた。しかし、ここにきて心境の変化が起こった。

――もしかしたら、もっと何か出来ることがあるのかもしれない。あの呪文は何だ。あの呪文をただ無心で唱えたら、カラスの子とつながった。あいつが今、どこでどうしているか知らん。でも、どこで何をしていようとも、あいつの心がわしの心とつながったのは事実だ。心がつながったということは、その先に、何か道が開ける可能性もあるのではないのか。カーテンの向こうにあいつの大きな影がまた現れてくれたら、是非とも聞いてみたい。だが、現れてくれん。あれっきりだ。かと行って、あいつがわしに謝るためにだけやって来たとは、どうしても思えん。もっと伝えたいことがあったはずだ。では、どうすればいい。わしが自分で探すしかないのか。

 長いことかかって、父は覚悟を決めた。

――いいとも、探そう。何とかしてその道を探そう。わしに出来ること。わしにしか出来ないこと……。おや、こんなことばかり考えているわしは、一体全体、狂ってしまったのだろうか? そうかもしれん。狂っていてもいい。ワタルが寝たきりになって、カラスの子が行ってしまって、もうわしの人生、これ以上悪くなりようもないんだから。

 日常生活を送りながら、頭の中では自動的に考え続けた。考えすぎて堂々めぐりに陥って、しまいに頭の芯がしびれてくる。そうすると、また心を空っぽにしてみる。そして、あの言葉を繰り返した。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ……」

 自分で口ずさむようになると、不思議とあの音は聞こえてこなくなった。まるで音には使命があり、使命を果たしたのでもう消えた、とでもいうふうに。

 秋になった。落ち葉を踏みしめながら、大学の構内を歩く。大学病院へと続く舗道は、もう何千回と歩いたなじみの道だ。夏に独り立ちしたのだろう、やや小ぶりなカラスが道端に佇んでいたりする。一見したところ大人のカラスに近いが、動作がゆっくりで、全体におっとりした感じだ。

 父は、家族だったカラスの子を思い出して、あいつは生きているのだろうかと考える。あんなに大きな影になって現れたところをみると、もう生きておらんのかもしれん。生きているにしろ、死んでしまったにしろ、呪文を繰り返したらあいつが現れたのは間違いない。やはり、これしかあいつにつながるつてはないんじゃ。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ……」

 次の瞬間、父は空を飛んでいた。自分の両手が黒い翼になって、空を切っているのを目にした。先ほど路上で佇んでいたカラスが見上げて、小首を傾げて「アウアー」と一声鳴いた。その声に重なって『どうしたの、おじさん』という意味が伝わってきた。

「どうしたもこうしたも」

 驚きながら叫んだ。自分の声がもはや人間の言葉ではなく、カラスの鳴き声になっているのを耳にして、もっと驚いた。そうしている間にも、意思とは裏腹に両方の黒い翼は力強くはばたき、舞い上がった地点から、ずんずん遠ざかっていく。地上遠くに、自分の影が見える。自分の体に人間らしいところはもはやない。足には鋭い鉤爪が生え、体中黒い羽で覆われている。どう見ても、自分はカラスになってしまった。振り返ると、見上げていたカラスはキョトンとした態勢のまま動こうともしなかった。

――追いかけてきてくれていいものを。急にカラスになってしまって、心細いではないか。しょせん赤の他人、いや赤の他カラスだ。

あいつがいればなあ。

 ぼう然として飛び続け、気づくと山の上空まで来ていた。少し疲れたので木の枝に止まり、休むことにした。

「あんた誰」

 ビクッとして横を向くと、隣の木の枝に、鋭い眼光のおばあさんガラスが睨みつけている。しどろもどろになりながらも、父は答えた。

「わ、わしは人間のはずなんじゃが……なぜかカラスになってしまったんじゃ。どういうことかさっぱり分からん」

 おばあさんガラスはケッケッケと笑って、

「傑作だのー。人間がカラスになることがあるのか」

「わしはどうすればいい? カラスとしてここで生きていくことになるのか」

 おばあさんガラスはキリッとした目になり、吐き捨てるように言った。

「ふざけるんじゃない。ここはわしらカラスの里だよ。若者たちは今は出払ってるが、やがて戻ってくるじゃろう。わしらだけの里なんじゃ。人間なんか住まわせてやるもんか」

「じゃ、じゃ、どうすれば」

 わらにもすがる思いで食い下がった。何しろ意思疎通の出来る相手は、今のところこの意地悪そうなおばあさんガラスしかいないのだ。

「そうじゃの。人間に戻れば?」

 あっさり切り捨てて、おばあさんガラスは飛び去った。追いかけようにも、空中で回転したり、方向転換したりして、年に似合わず機敏な飛びっぷりで森の中に消えてしまった。

 取り残されて、父は考えた。確かにこうしていても、らちがあかん。どうして自分がカラスになったかは分からんが、なったときの状況をつらつら思い出してみるに……。そう、うちにいたカラスの子のことを考えながらあの言葉を唱えていたんじゃった。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ……」

 いくら唱えても、もう何も起こらなかった。夜も更け、気も遠くなってきた。ワタルの顔を思い出した。カラスの子の姿を思い出した。もうどちらにも会えず、このままこうして死んでゆくのか。絶望感に襲われ、意識が遠のいてゆく。

 気づくと、人間に戻ってもとの場所にいた。ほっと胸をなでおろし、大地を踏みしめて家への道を歩いた。


「そんなわけじゃ」

 森の中、ずっとカラス仙人の話を聞いていた一同は、

「えーっっっっ」

 あまりに唐突な終わりについていけず、驚きの声をあげた。サビケンは思わず枝からずり落ち、瞬時に枝にはい上がった。それから何事もなかったように、澄ました顔で皆を見回した。アタマくんが頭の中を整理するように考えていたが、まとまったらしく、口を開いた。

「ええと、僕たちが聞いたのは、カラス仙人、『あなたがどうしてカラスになったのかということでした』……ふむ、これはクリアされているかな。……で、あなたの秘密を教えて欲しいというようなことも聞いたと思うんですが……今のお話が秘密の全てですか」

「そうじゃとも」

 カラス仙人はつらっと答えた。

「腹がすかんか」

 そして、逆に聞いてきた。ひろはさっきオバサナが「お腹がすいたよう」と騒いだときと同じように、自分が全くお腹がすいていないのを感じた。どうしたことだろう。さっきはそれでも、カラスになってここに来てからそんなに時間がたっていなかったし、そんなに変だとも思わなかったが、今はもうここに来てから相当時間がたっているように思える。なのにどうして ――。

 みんな似たり寄ったりの気持ちを抱いているのが、顔を見るとわかった。マキが珍しく不安そうな様子で、

「ねえ。カラス仙人、そういえばさっき『カラスになってるときはお腹がすかない』とか『あやかし』とか言ってたよね。でも、でもさ……こんなに長いことお腹がすかないって、いくらなんでも変じゃない。ねえ、あたしたち……まだちゃんと生きてんの?」

「えええええー」

 オバサナが叫んだ。

「じゃ、じゃあ。ミミズを食べたときのあたしはまだ生きてたけど、もうお腹もすかないあたしは、し、死んでんのーっ」

 みんな不安そうに顔を見合わせた。カラス仙人がカッカッカッカッと大きな声で笑う。

「ほらの。不思議じゃろう。なに、死んでやせんよ。わしの経験からいっても」

「じゃあなんで『腹がすかんか』なんて聞くんだよー」

 サビケンがいらだって言うと、カラス仙人はちょっとあらたまって、

「いいか。秘密の全てを話せなんていうが、今お前らがいる状況を、お前ら自身説明できるか? どうしてカラスの姿になったのか、どうしてお腹がすきもせず、ずっといられるのか」

 アタマくんがうなずいた。

「そういえば、そうですね。何時間もここにいて疲れもしないし、トイレにも行きたくならない。確かに不思議だ。不思議だけど、誰かにその秘密を聞かせてと問われても、僕には分からないし、答えることもできない」

「な? アタマ、お前は理屈を言うと物分かりがよいな。人それぞれじゃ。まあ、ついでに言うと、カラスだからシッコもウンコもしたくなりゃあ、所かまわずしていいんだぞ、誰に恥じることなく」

 きゃっ、いやだあと女の子たちが言う。横目で見て、サビケンがせせら笑い、何か憎まれ口を聞きそうになったので、ひろは羽を振り、目配せしてやめるように伝えた。サビケンはふんと言い、思いとどまった。

「そんなわけで、わしらがカラスになってるときは腹もすかないし、排泄もしたくならんのが分かったろう。つまりは、この間の時間は、あちらの世界では流れていないってことじゃ」

「あちらの世界って、もとの人間の世界ってこと?」

 ひろの問いかけにカラス仙人はうなずいて、

「人間に戻ったら、カラスになって過ごした間の時間は、全く経過していないってことじゃ」

「どういうこと」

 マルンどんが聞き返す。

「どういうことか、わしにも分からん。ただ、こうしてひとしきりカラスとして過ごしてから人間に帰ると、決まってカラスになる直前の時間と場所に戻るんじゃ」

「えっじゃあここに僕たちがいる時間は一体……」

 アタマくんが混乱した頭の中を整理しようと、考えこんだ。ひろは、初めて会ったときからカラス仙人がありのままの姿を見せてきたことを思い返し、この人の言うことはめちゃくちに思えるときもあるけれど、嘘はついていないんじゃないだろうかと思った。だから、口をついて出たのはこんな言葉だった。

「どういうことかは分からないけど、それはそれでいいんじゃない? 夢を見ているとでも思えば」

「おっそれいいな」

 サビケンが賛同してくれた。が、マルンどんは納得いかない様子で、

「ばっかじゃない。なんでも都合の悪いことは夢だったことにするのかい。随分都合がいいよね」

「なにをっ」

 二人の間に険悪な空気が漂い始めたのを、イナが引き取って、

「ね、ね、みんなちょっと疲れてるんだよ。考えるのも話し合うのも、そろそろやめない?」

 その言葉にオバサナも飛びついた。

「そうだねそうだね、もうやめて帰ろうよ。お母さんに会いたーい」

「おっ。オバさんっぽくない、しおらしいこと言うじゃんかよ」

 サビケンは、にひひと笑った。

「オバさんじゃないよ。オバサナだいっ」

 オバサナも負けてない。

「まあもうよい。カラスになった謎はもう分かったじゃろう。これでお前たちの目的は達成されたじゃろうて。おしまいじゃ。帰るとしよう」 

 カラス仙人がおごそかに言った。アタマくんはぽかんとカラス仙人を見返したが、すぐに思い直したように、

「それもそうですね。帰って記録をまとめないと。いろんなことがありすぎて、いくら頭の中にメモしてもおさめきれない」

 きびきびと羽繕いなどし始た、帰る体制に入った。ほとんどみんな、なんとなく従い出した。

「ちょっと待って」

 ひろの口から思わず言葉が出た。カラス仙人始め、みんな、けげんそうな顔をする。

「なんじゃ」

「……でも、それで終わりじゃあ、本当の理由は分からないんじゃないの? カラス仙人がカラスになったこととか、ワタルさんやカラスの子が会いに来たこととか、全部ひっくるめて、何か理由というか、カラス仙人には何かしなきゃならないことがあるんでしょ? でなけりゃ、あんな意味深な現れ方しないんじゃないかなあって思うんだけど……」

 カラス仙人はしばらく黙っていた。それからゆっくり口を開いた。

「理由があるにしろないにしろ、わしの問題じゃ。わしが考えればいいことで、お前らには関係ない。わしなりに考えてるさ、あいつらのためにできることを。もう少しで見つかるかもしれん。そしたら、わし一人でやればいいんじゃ。……まあ、お前らがカラスになってまで一緒に来てくれて、久しぶりに楽しかったわい。わしの長い話も聞いてくれたしの。満足じゃ。さあ、しまいにしよう」

「えっ……」

 返す言葉が見つからず、ひろが口ごもると、

「ちょっと待ってよ」

 やや興奮した様子で、マルンどんが進み出た。

「勝手に満足して終わらせないでよ。カラス仙人の身に起こった、へんてこりんな出来事の数々に意味があるって言うんなら、……それで言うんならさ」

「あたしたちがカラス仙人に会って、カラスになってここに来たことにも、何か意味があるってことにならない? あたしたちにも何かやらなくちゃならないことがあるってことにさあ」

 ひろは、ハッとした。

――そういえば、そもそも僕があの日、カラス仙人に出会ったことからして、何か意味があるのでは。

「うーん確かに」

 アタマくんが考え込んでいる。カラス仙人はどこを見るとでもなく、空間をぼうっと見つめている。何か考えているようにも見える。全く考えていないようにも見える。オバサナもイナも黙っている。サビケンが沈黙を破って、威勢よく羽をバタバタさせた。

「っち。なにめんどくせーこと抜かしてんだよ。いいいからいいから。ほれ、早く帰ろーぜ。そんなに考えたかったら、後からまた考えればいいじゃんかよ」

「おお、そうじゃの。それでいいんじゃないか」

 カラス仙人が弱々しく笑う。誰も反応しなかった。サビケンもやがてはばたきをやめた。みんな漠然と感じ始めていた。もしこのまま帰ってしまったら、もう二度とカラス仙人には会えなくなるのではないかということを。


13 

「……じゃあ、まだ帰らないとするか」

 帰ろうと言っていたのに、真っ先に口を開いたのは、サビケンだった。どうしたらいいか分からず、ひろはみんなの顔を見回す。みんな同じような感情を抱いているように思えた。決めかねて、迷っているような気持ち。考えても答えは出ないけど、何か行動を起こさなくてはいけないような気持ち。

「いやいや、もう充分じゃ」

 カラス仙人は首を振った。

「お前らがここまで来たのは、夏休みの宿題とやらがあったからじゃろう。お前たちにとってはそれが『意味』なんじゃ。これ以上、関わらんでいい。いい子はさっさとおうちへ帰るもんじゃ」

「『いい子』なんて、らしくない言葉使わないでよっ。『悪ガキ』って言いなよ!」

 マルンどんが食い下がる。なんでだろう、目に涙が浮かんでいた。

「もう夏休みの宿題なんてどうでもいい。ワタルさんのために、カラスの子のために、カラス仙人のために、何か出来ることがあるなら、協力したいです」

 イナが大きな声で言った。みんなビックリしてイナを見た。オバサナは感心したようにつくづくイナを見つめながら、

「イナ、思い切ったことを……。よく言った! それでこそ、うちの子だ」

「どこがうちの子なんだよ」

 サビケンがツッコミを入れる。笑いが広がった。カラス仙人だけが笑わない。ひろはカラス仙人の顔をのぞき込む。カラス仙人は下を向いてかたく口を閉じていたが、肩のあたりがゆらゆら揺れ始めたかと思うと、両方の目から涙がぽたぽた落ち始めた。

「か、カラス仙人……?」

 ひろは呼びかけたものの、次の言葉が見当たらなくてまごまごした。マルンどんが勢いよく間に入って、ひろは吹っ飛ばされた。

「大丈夫だよ! あたしたちがついてるから。イナのいう通りだよ。あたしたち、一緒に方法を探すよ」

「そうです、大丈夫です」

 アタマくんも力強くうなずいた。

「大丈夫」

「大丈夫」

 残った者たちも口々に叫んだ。みんなどうかしちゃってるなと頭の片隅で思いながら、ひろも激しく首を縦に振りながら叫んでいた。

「大丈夫。大丈夫」

「お、お前たち……」

 カラス仙人も感極まって、無言のうちに点を仰いだ。それからはばたいて、上空をぐるぐる回り出した。迷っているようにも見えた。サビケンが続いて回り出した。こちらは、何も考えていないふうだった。

 ひろもなんとなくじっとしていられなくなって二人、というか二羽の後を追いかけた。マルンどん、アタマくん、オバサナ、イヨも順に舞い上がり、ぐるぐるぐるぐる回り始めた。やや離れたところの木に止まっている他人(他鳥?)のキツツキが「何やってんの」というような冷めた目でちらりと見、すぐに目をそむけて木の幹を勢いよくつつき始めた。夜行性のフクロウは巣の中でぐうぐう眠っていた。

 感動の乱舞がひとしきり繰り広げられた後、一羽、二羽と疲れた順に木の枝でまた羽を休めた。一番最後まで飛んでいたのは、カラス仙人だった。

「カラス仙人、疲れませんか」

 イナが声をかけると、ハッとした顔をして、

「お? おお、そうだな」

 近くの枝に止まった。まだ考えがまとまらない様子だった。ひろは呼びかけた。

「カラス仙人……?」

 一方、アタマくんはちょっと前からブツブツ言いながら、これまでのことやこれからのことを頭の中で練り始めていた。そして、唐突にカラス仙人の横に止まり、話しかけた。

「ところで、さっきから帰る帰らないの話をしてますが、そもそも人間に戻る方法ってあるんですか? 帰っても、カラスのままだったら困ります。一応、今後のために聞いておいたほうがいいと思うんで聞きます。人間からカラスになるときの呪文は『ワシガオマエデオマエガワシジャ』でしたね、ではカラスから人間に戻るときの呪文は何ですか」

 カラス仙人は即座に答えた。

「ない」

「ええええーっ」

 みんなの声が同時に、合唱のようにきれいに合わさり、響き渡る。

「いつ人間に戻るかよくわからん。いつも気がつくと人間に戻っている」

「……そんなテキトーなんですか。ええと、たとえばこんなのはどうでしょう? なかみを逆さまに唱えて、『オマエガワシデ、ワシガオマエジャ』」

 言ったとたんに、アタマくんが消えた。

「そうか!」

 カラス仙人が大声を出した。

「あいつはすでに人間に戻り、もとの時間のもとの場所におるじゃろう。……そうか、そうか。その呪文じゃったか。あいつもやるのう」

 しきりに感心して、うなずいている。サビケンがカラス仙人に訴えた。

「感心してる場合か。アタマがいなくなって大丈夫か? それにあいつ、本当にもとの時間のもとの場所に戻れてんのか? とんでもないところに飛ばされてるとか、カラスのまま家に戻ったりとか、いやまさか、ほんとにこの地上からきれいさっぱり消えてしまったとか、そんなんじゃねーだろうな」

 ひろは唾を飲み込んだ。ごくんと大きな音がして、みんなに聞こえるかと思ったくらいだ。だが、そんな音を気にかける者はいなかった。目の前で仲間が消えてしまったことがショックで、カラス仙人の楽観的観測をすんなり受け入れられず、誰もが不安になっていた。カラス仙人がすねたように言った。

「ふん、何を抜かす。わしの経験上、大丈夫に決まっとるわい。わしの言うことが信じられんなら、お前らもやってみればいいじゃろう。そうすればすぐにわかる。ほれ、言ってみんかい。さっきアタマの奴が発見した言葉を」

 さっきまでの弱々しく感動的な姿はもうそこにはなく、プンプン怒っている。もしかしたら、さっきのはみんなを仲間に引き入れようとする作戦だったのかと、ひろはちらりと考えた。そして、『いや、疑っては悪い』とすぐに首を振る。カラス仙人はなおも大きな態度で、

「ほれほれ、さっさとやらんかい」

 従う者はいなかった。

「あんなに目の前でこつぜんと消えられると、いくら大丈夫って言われても……。さすがにこわいわ」

 ひとりごとを言うように、マルンどんがつぶやいた。

「ねえ……」

「ねえ……」

 オバサナもイナも、顔を見合わせ口々に同意する。どこかでフクロウの不気味な声が響いた。少なくとも、こちらでは間違いなく夕暮れが近づいている。

 ひろは思い切って尋ねた。

「カラス仙人。変身の大ベテランとして教えて欲しいんだけど……。人間がカラスになるってそもそも、どういうことなの。一体全体、何がどうなってるの」

 カラス仙人は首をめぐらせてから、とぼけたように答えた。

「わしがカラスになったのはここ二ヶ月ばかしのことで、お前らとそう変わらん。だから、数少ない経験上、知り得たことしか言えん。小難しい理屈なんか何にも分からん。変身の回数? 今回で七回目じゃ」

 枝から落ちそうになりながら、サビケンがわめいた。

「げっ。そんな危ない橋を俺らは渡ってしまったのか。無免許運転の車にだまされて乗ってしまったようなもんだぜ!」

「そんなことない」

 イナが抗議した。

「あたしたち、自分から進んでついてきたんじゃない。カラス仙人を悪く言う筋合いはないわ」

「よしよし、お前はめんこいの」

「カッ。また始まった、カラス仙人のイナびいきが」

 サビケンが腹立たしげに言う。ひろはうーんとうなって考えた。

――アタマくんがいればなあ。何かもう少し建設的なことを言ってくれそうなんだけど。

「なんだか、話がそれちゃってると思うよ」

 聞き覚えのある声がした。声のする方に目を向けると、アタマくんカラスが斜め向かいの枝から見下ろしていた。ひろは、

「アタマくん! 戻ってきたんだね」

 みんな、驚きと安堵のため息をついた。カラス仙人だけが平然と、

「ほらの。ちゃんと無事だ。わしの言う通りじゃったろう」 

 みんなを見回し、うそぶいた。 


 みんなアタマくんを取り囲み、あれこれ聞き始めた。聞き出せたのは、次のようなことだった。

 アタマくんはあっという間に、もとの、みんなと一緒にいたあの場所に、人間の姿になって戻っていた。まわりの様子を見ると確かに朝のままで、カラスになってからの時間は過ぎていないようだった。ただ、みんなだけがいなかった。しばらくぼーっと突っ立っていると、赤いジャージの人が遠くから走ってくるのが見えた。トド先生だった。さっきのジョギングの続きで、折り返し戻ってきたらしいとアタマくんは思った。今度は先生も気づき、話しかけてきた。

「おっ、阿多間くん。おはよう。こんなとこで合うなんて。散歩かい」

「お、おはようございます。え、ええ、その……そんなとこです」

「朝は気持ちいいね! 一緒に走ろうか」 

「あ、いえ。……今、その……鳥を見てたんで……」

 木の枝を指さして、しどろもどろで答えた。トド先生は疑うこともなくニコニコして、

「バードウォッチングか。頑張れよ」

 手を振ると、またふうふう言いながら走り去った。アタマくんはせっかく人間の体に戻ったんだし、もうこのまま帰ろうかと一瞬思った。家が恋しくもあり、勉強の予定も気になった。でも数歩歩きかけて、みんなやカラス仙人のことを思い出した。このまま帰ってはいけないかなと、ちょっと思った。しばらく迷ったあげく、みんなのところに戻ろうと決めた。あの呪文、『ワシガオマエデオマエガワシジャ』を唱えると、またカラスになって舞い上がった。やっぱり驚いた。驚きながら、飛び続けた。方角も場所もカラスとしての体が感覚で覚えているらしく、迷うこともなくやってくることができた。

 聞き終わってから、オバサナが感心したように言った。

「偉いねー、見直したよ。あたしだったら、さっさと家へ帰っておいしいもの食べるとこだけど」

「ん? 帰りたけりゃ帰りゃあいいじゃん。オバサナの一人、じゃなかった、一羽ぐらいいなくなったってかまやしない。やる気のある奴だけ残るからいいぜ。ほれ言ってみな、『オマエガワシデワシガオマエジャ』」

 言った途端に、今度はサビケンが消えた。

「っもう。バカだねえ、本当に。自分で消えてら」

 オバサナが目を丸くすると、マルンどんが、

「ほっとこう、にくたらしいことばっか言うからバチが当たったんだ。戻りたかったら、そのうち戻ってくるんじゃないの」

 サビケンがたった今まで止まっていた枝のあたりを見て言った。

「話を元に戻そうよ。……みんなで決めたんだよね。ワタルさんとカラスの子とカラス仙人のために、あたしたちで何か出来ることを見つけようって。みんな、その気持ちに変わりはない?」

 みんな力強くうなずいた。ひろは内心サビケンのことが心配だったが、大丈夫だと自分に言い聞かせて、それ以上考えないようにした。みんなの決意を目の当たりにして、カラス仙人の顔は一瞬ぱっと輝いたが、だんだん困ったような表情になった。

「気持ちは嬉しいんじゃが。お前らを巻き込むのはやっぱりどうも……」

「じゃあ聞かせてくれますか。カラス仙人は何か見つけたんですか、やらなければならないと思えることを。一人でどんなことをしようと思っていたんですか」

 アタマくんが聞いた。カラス仙人が口を開きかけたとき、バサっと音がして、近くの茂みからサビケンが現れた。

「サビケン!」

 みんなが口々に叫ぶと、ニヤッと笑って、

「まいったまいった。超高速で戻されちまうんだもんな。だから俺も、超高速で戻ってきたぜ」 

 茂みに突進したから体中葉っぱまみれになっている。思いっきりぶるんと払いのけたのでまわりに飛び散って、近くにいたひろの頭に大きな葉が一枚乗っかった。

「ほらね、戻ってきたでしょ」

 マルンどんがこともなげに言う。ひろは葉っぱを乗せたまま、

「でもやっぱり心配したんだよ。ちゃんと戻ってきてよかった、剣ちゃん」

 知らず知らず、目に涙が浮かんでくる。

「サビケンでしょ」

 オバサナがつっこむ。つっこみながらも、ほっとしてどこか嬉しそうだ。なごやかな笑いが広がった。みんなそれなりに心配していたんだとひろにはわかる。サビケンはひろの頭から葉っぱをくわえ、遠くへ飛ばした。目が合うと、にかっと笑った。それから、笑顔を残したまま、みんなを見回すと、

「俺としたことが、とんだ失態だったぜ。しかしすごいもんだな、カラスの体っていうのも。どっちの方向へ飛んでったらいいのか体が覚えてるんだな」

 アタマくんはうなずきつつ、

「ほんとだよね。まだこの体に慣れていないけど、人間とは違ったことができたりすると嬉しいです」

 おしまいの方はカラス仙人に言った。

「そうじゃな」

「でも、不思議です。カラスになっている間の時間はあっちの世界ではなかったことになっているのに、あっちからカラスになって飛んでくると、どうしてちゃんと、みんなの時間と合流できるんでしょう」

 みんな頭をめぐらして、うなった。カラス仙人が言った。

「……また話がそれたようじゃな。面倒くさいことは考えんでもいい。そんなもんだと思えばいい。わしはいつもそうしてる。それより早く本題に移ってはどうか」

 ひろはカラス仙人の顔を見つめながら思っていた。

――カラス仙人は話をもとに戻したがっている。なんだかんだ言って結局、カラス仙人は、みんなと一緒に行動したいんじゃないかな。 

「考えても分からんことは考えないってのはいいな。さんせいっ」

 サビケンが言って、羽をばたつかせ、カアアーカアアーと陽気に雄叫びをあげた。

「僕もそれでいいよ。無事に人間に戻れるってことと、こっちでいる時間があっちでは過ぎていないってことが分かったから」

 ひろも言った。カラスになってからの時間がたつにつれ、ひゃっふやしょうすけくんの心配顔が脳裏にちらついて、気になっていたのだ。しょうすけくんが作ってくれた特大のお握りは、今いったいどこに存在しているのだろう。「同化している」なんて言われても、どうもピンとこない。

「あたしも。カラス仙人のいう通りでいいと思うわ」

 イナが言った。オバサナも続けて、

「あたしもいいと思うよ。イナ、自分から物を言えるようになってきたね、偉い偉い」

 マルンどんも片方の翼を上げて、

「うん、あたしも賛成。アタマ、ちょっと頭かたいんじゃないの」

 アタマくんはしょんぼり下を向いた。ひろはアタマくんがちょっとかわいそうになって、「いや頭がかたいというのは違うと思うよ。頭が柔らかいから、いろんなことを考えられるんじゃない?」

「って、お前はどっちの味方だよ!」

 サビケンがいらだったので、ひろはたじたじとなりつつも、

「いや味方とかそういうんじゃなくて。僕もアタマくんと同じように、不思議なことはやっぱり不思議だと思うから」

 アタマくんは嬉しそうにひろを見た。カラス仙人がからからと笑う。

「そうじゃ、いろんな考えがあっていいんじゃ。考えても分からんことは考えない、面倒くさいことは考えんのがわしの主義じゃが、分からんことを面倒くさがらず考え続けるという主義もいい」

「はい。僕、考えるのが好きなんです。考え続けていると、なんかこう、ワクワクします。そうして、考えることが文明の発展につながったわけで」

 アタマくんが目を輝かせて言った。

「ったく、カラス仙人がのせるから調子づいちゃって」

 と、再びサビケン。カラス仙人は感慨深げにぽつんと言った。

「そういえば、ワタルの奴もそんな子供だった。ぼうっと考えているのが好きだった。アタマと違って、仲間には恵まれなかったようじゃが」

 みんなシーンとなった。気がつくと、空一面がオレンジ色に染まりつつあった。アタマくんのメガネにも夕陽が反射して美しい。

「夕焼けかあ。これから夜になるよ。どうする?」 

 サビケンの声にマルンどんが、

「ここで夜っていうのもねえ。やっぱり今日はもう、いったん帰ろうか」

 カラス仙人を見、それからみんなの顔をぐるりと見回した。ひろは同意しかけて、さっきの予感を思い出した。

 ―― 今解散してしまったら、もうカラス仙人も二度と会えなくなる。

 あれは何だったんだろう。ひろはカラス仙人に問いかけた。

「さっき僕、ここでカラス仙人と別れたら、もう二度と会えなくなるんじゃないかって気がしたんだけど……。そんなことないでしょう?」

 マルンどんが、はっとして言った。

「そうだ、あたしもそう感じたんだ。何でそんなふうに感じたんだろう」

「あたしも」

「俺も」

「僕も」

 みんなが口々に叫び、おしまいにイナが、

「みんなおんなじことを感じていたなんて。カラス仙人、これって一体……」

 必死な顔をカラス仙人に向けた。

 カラス仙人はちょっと口ごもり、目を閉じ、黙り込んでしまった。


   14

 みんなが心配そうに見守る中、カラス仙人は突如としてパカッと目と口を大きく開き、羽も大きく広げながら、カアアーカアアーと大声で笑い出した。

「簡単じゃな、お前らをあやつるのは。白状しよう。さっきはお前らがそんなふうに感じるよう念を送ってみたんじゃ。いやはや、このカラスと人間が混ざった状態の体には、並並ならぬ能力があるとみえる。わしにも解明できてはおらんが、まだいろいろ試してみる余地はありそうじゃの」

 あっけに取られているみんなを見回して、

さらに大笑いした。マルンどんがきっとなり、

「じゃ、じゃあ、さっき、あたしたちの申し出をあんなに弱々しく辞退して感動的な場面を繰り広げたのは」

「断るように見せかせて、実は、あたしらをのせる気満々だったってことかい!」

 オバサナが声を張り上げた。

「おっ。オバサナにしては珍しくさえておるな。その通りじゃ。わし一人では大変なのでお前らに手伝ってもらおうとしたわけじゃ、実のところ。わっはっは」

「もういいっ。帰ろうや、みんな。うっかりだまされるとこだった」

 オバサナはプンプンして飛び立ちかけた。

「待って!」

 イナがオバサナを体ごと押さえた。

「どうした、イナ」

 イナは振り返り、カラス仙人をじっと見た。じいっと見続けた。カラス仙人は初めイナと視線を合わせていたが、イナがいつまでも黙っているので決まり悪そうに、とうとう目をそらした。

「どうした、イナ」

 サビケンが尋ねる。

「さっさと帰ろーや、宿題の自由研究もはかどったんだしさ。カラス仙人にあやつられるのはもうごめんだ」

「剣ちゃん!」

 ひろが呼びかけると、オバサナがちっちと首と片方の羽を横に振って、

「サ・ビ・ケ・ン」

 すかさず、訂正した。ひろは、

「サ、サビケン。言い過ぎだよ。だってさっき、みんなでカラス仙人に『大丈夫』って言った気持ちは本当なんだろう? ワタルさんとカラスの子とカラス仙人のために、何かしたいって気持ちにさ」

「まあそうだわねえ、カラス仙人の態度がどうあれ」

 マルンどんがうなずく。

「いやいや、わしは本当にお前らをあやつってこき使おうとしたんじゃ。ふんっ、ばれてしまったわい。早く帰らんかい」

 しゃべっている間、カラス仙人の目は異様に光っていた。にかりと笑うなり急に舞い上がって、みんなの頭を羽でバサバサたたいたり、頭に蹴りを入れてみたり、身振り手振りで怪しい動きをし始めた。アタマくんはカラス仙人の攻撃を巧みにかわしながら、

「何で急に邪悪なイメージを植えつけようとするんです」

 平然と聞き返した。

「そ、それはわしが邪悪だからじゃ」

 カラス仙人はなおも攻撃的にケッケッケーと大声を立て飛び回り、アタマくんの頭に蹴りを入れた。

「全然痛くない。何でこんなことするんですか」

 アタマくんはなおも動ずることなく聞き返す。

「何で無理やり僕たちを帰らせようとするんですか」

 カラス仙人は絶句してしまった。それから、飛び去って行こうとした。

「追いかけろ!」

 サビケンが叫ぶのと、みんなあわてて飛び立つのと、ほとんど同時だった。森の奥深く、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、みんな臆することなく追いかけて行った。カラス仙人はとうとう疲れて、手近な木の枝で羽を休めた。囲むようにして、みんなも付近の枝にとまる。カラス仙人は、はあはあ肩で息をしながら、

「くそっ。何故だっ……。何故さっさと戻らんのだ」

 うなだれて、つぶやいた。カラス仙人の隣でまるんドンが、

「逃げると追いかけたくなるものでしょう。人の、じゃなかった、カラスの常として。もういいから、観念して教えてよ。カラス仙人、一人で何をしようとしているの」

「何もしようとしてなんかおらん」

 しばらく考えていたアタマくんがポツリと、

「それはもしかしたら」

 イナがかぶせるように叫んだ。

「もしかしたら危険なことで、あたしたちを巻き込みたくないってこと?」

 カラス仙人は言った。

「……危険とか安全とかそんなことじゃない。ただ、このことはわし一人でやるのがいいに決まっとんじゃ。カラスの子に会わねばならんという気持ちがわしの中で大きくなって、我ながら変になっていくようじゃった。気がつくとカラスの鳴き声を出して歩いていたり、しまいにカラスになって飛び回ったりしていたり。そんなザマになったって、カラスの子に会えさえできれば本望じゃった。じゃが」

「じゃが?」

 ひろが聞き返す。

「じゃが、そんなに簡単に見つかりはせんかった。それだけじゃない。カラスになると、最初の頃はすんなり自然に人間に戻れたが、この頃は」

「この頃は?」

 サビケンが聞き返す。

「この頃はなかなか戻れん。長いことカラスのままじゃ。ほれ、お前がわしに飴をくれたことがあったろうが」

 羽の先で指されて、オバサナはキョトンとしたが、記憶をたどるように、

「へ? ああ、あんまり言葉も出なくて、袋の開け方も分からないみたいだった」

 カラス仙人はうなずいた。

「あんときわしは、食いたい食いたいという気持ちが先走って、わしよりはむしろ一羽のカラスになってしまっていたようじゃ。そんなふうに、カラスじみて、人間的思考に戻れんことも増えてきた。一晩、カラスの里にいたこともある。他のカラスには相手にされず、こっそり木の陰にひそんでいただけじゃったがの。実際、アタマが見つけた呪文もさっきわしは小声で言ってみたが、わしには効かんかった。だからお前らは人間に戻ったら、もう二度とカラスになる術は使わないのが無難じゃ」

「俺とアタマはもう二回使っちゃったよ! おまけに『アタマが見つけた呪文もさっきわしは小声で言ってみたが』って、なんだよ。カラス仙人はさっさと一人で帰ろうとしたんかい」

 サビケンがつっこむと、マルンどんが怒った顔になり、

「ちょっと試してみただけでしょ。それにあんた人の話聞いてる? 最初の頃はすんなり戻れたっていったじゃない。二回ぐらいなにさ、屁の河童っしょ!」

 羽をバサバサさせて抗議した。 

「へ、屁の河童……」

 サビケンは背を丸めてつぶやいた。アタマくんは「二回使っちゃった」当事者として引き合いに出され一瞬青ざめたのだったが、二人のやりとりを見て軽く笑えるくらいには立ち直った。

 カラス仙人はうなずいて、

「大丈夫じゃ。まだこのくらいの段階なら戻れなくなることはない」

 それから全てを明かす気持ちになったらしく、静かに話を続けた。

「だがわしは、このままカラスの子を追い続けて、いつか人間には戻れない日が来るかもしれん。それでも、ワタルが目を覚ますためには、カラスの子を見つけるしか方法がないような気がする。何故か分からんが、強くそう感じる。わしは、ワタルの病室に行くたび、ワタルの寝顔を見つめながら話しかけるようになった。『お前はどちらがいいのか』と。このままずっと眠り続けて、わしかワタルかどっちが先に逝くか知れんが、そのように生きていくか。それとも、わずかな可能性にかけてわしはカラスの子を探し、あいつと一緒にワタルを目覚めさせる手立てをつかもうとするのがいいか。もしかしたらもう戻ってこれなくなったとしても、ワタルの人生がまた動き出すのなら、万に一つの可能性に賭けたい気持ちがわしの中には芽生え始めた。しかし、ワタルが穏やかに眠り続けることを望むなら、温度や湿度の管理された病室で、医療に守られながら命の終わりが来るまで穏やかに過ごすことを望むのなら、意に反したことはしたくない。わしはワタルがどちらを選びたいのか、答えを聞きたかった」

 誰かが唾をごくんと飲みこむ音がした。カラス仙人は一息ついてから、話を継いだ。

「わしは何度も問いかけた。問いかけては、ほんのわずかな眉の動き、呼吸の乱れ、そんなものに何らかの反応を見つけようと試みたが、いつもワタルは穏やかに眠ったままで何の変化もなかった。だがある日、わしは家でワタルの部屋を掃除していて、ワタルの机の上にドングリが二個乗っているのに気づいた。ワタルが出かけるときにいつもポケットに入れていたもの、保険証とドングリ二個。保険証があったから事故に会ったとき、身元がすぐにわかり連絡が来た。ドングリはあの日から見当たらなくなっていた。着ていた衣類のポケットにも入っていなかった。車にぶつかった衝撃で、どこかへ吹き飛んだのだろうくらいに思っていた。だが、机の上にちんまりと並んでいるドングリを手に取ってみると、まさしくワタルがいつも持ち歩いていたものだとわかった。遠い昔の幼い日、ワタルは二個のそれぞれに目と口を描いていたのだ。父さんドングリと母さんドングリだよ、と笑いながら。親たちが、ではワタルドングリも拾ってこなければねと言うと、ううん僕はここにいるからいいの、ときっぱり言い張った。油性ペンで描かれた点のような二つの目と両端がゆるく上がる口とが、薄れて、もはやシミのような痕跡になって浮かび上がっていた。わしの目にはとぎれとぎれの点や線がつなぎ合わさって、はっきりと顔に見えた」

「不思議ね、そんなことが」

 イナがため息をついた。サビケンもため息をつきながら、

「俺も不思議だ。カラス仙人は普段はバカっっぽいのに、ワタルさんの話をし始めると、どうして賢いしゃべりかたになるんだろう」

「なんじゃと」

 カラス仙人の目がぎょろりと光ったので、ひろはあわてて間に入った。

「違うよ、普段は僕たちに合わせてくれてるんだよ。本当は賢い人なんだからね。剣ちゃ、じゃなかった、サビケンもふざけるのは止めようよ。大事なところなんだから、話を中断しないで最後まで聞こう。ねっ」

「ふざけてなんかいない。ホントにそう思ったんだ」

「まったく。あんたが一番バカっぽいんだから。黙ってな」

 マルンどんが飛んで来て、サビケンの頭を羽をバサリとたたいてまた元の位置に戻って言った。サビケンが怒って追いかけそうになるのを、またひろとアタマくんが必死で食い止める。オバサナやイナも加わり、なんとかサビケンは落ち着いた。カラス仙人は何事もなかったように、話を再開した。

「で、わしは二つのドングリを手に取って長いこと見つめた。ふと頭に浮かんだのは、わしはカラスの子を探すべきだということだ。ワタルがそれを望んでいると思った。カラスの子を探して見つかるかどうか、見つかったところで何かが変わるかどうかなんて、確信は持てない。それでもワタルが望むなら、どんな危険を払ってでもあいつを見つけてやると心に決めた。あいつが大きな黒い影になって現れたのは、真夜中のことだった。だからわしは、あいつが現れやすいのは日が暮れてからだとにらんだ。カラスになって夜中飛び回っていると、時折あいつに似たカラスの姿を見るようになった。追いかけると、逃げていく。街角で追っかけて、すんでのところで逃したこともある。街路樹にはからっぽの巣があった。あいつはどうもわしに会いたいようでもあり、会いたくないようでもある。探してもらいたいようでもあり、探してもらいたくないようでもある。やはりあいつは何かの鍵を握っていると、わしには思える。ずっと探し続けていたから、もうすぐあいつにたどり着ける気もしている。あいつに会うのはわし一人でいい。あいつもわし以外の者がいたんでは、よけい現れにくくなるだろう。人見知りな奴での」

「で、カラス仙人は僕らに会う前、カラスの子を探すことを決意していたんですね」

 アタマくんが言うと、カラス仙人は静かにうなずいた。ひろは、自分が申し訳ないことをしているような気持ちになった。

「もしかして僕、カラス仙人の邪魔をしていたのかな。おまけにみんなを引き込んでしまってごめんなさい……」

 カラス仙人は笑って、

「そんなことはない。わしはお前らに会って嬉しかったんじゃ。わしも子供の頃に戻って一緒にわいわいやっているような気分になれた。こんなに楽しい気持ちを味わったのは久しぶりじゃ……。思えば、ワタルが寝たきりになってからずっと寂しかったんじゃな、わしは。だから本音を言えば、しばしカラスの子を探すのを中断しても、お前らと遊んでいたかった」 

 イナが泣き出した。イナの肩をオバサナがパタパタたたく。

「じゃあ、僕たちは足手まといでしかないんでしょうか。もう僕たちにできることは何もないんでしょうか」

 アタマくんが沈んだ声で言うと、カラス仙人は誰にも視線を合わせず、

「ないな。……無事に早く帰ってくれたら安心できる。わしもあまり考えもせんで、お前らをこんなふうに巻き込んでしまって、後悔しとる。もうわしに関わったことは全部忘れてほしい。許してくれ」

「許さないよっ」

 マルンどんが即座に叫んだ。

「マルンどん……」

 ひろがなだめようとしたが、マルンどんは振り切って、

「そんなの勝手だよ。第一、あたしたちが苦労して進めてきた研究はどうなるのさっ。全て忘れてっていうなら、宿題として提出できなくなるじゃん」

「げっ。それはまずい」

 サビケンが片方の羽を口に当てて、黒い顔ながら青ざめる。

「一からまた別の研究をし直すなんてありえないぜ」

 カラス仙人は笑いながら、

「どうとでもせい。頭のおかしなじいさんに出会って、それがきっかけになってこんな面白いお話をみんなで作りましたとでも何とでも、まとめてしまえるじゃろうが」

「おっそれはいいな」

 サビケンの機嫌が即座によくなる。

「ダメだよ、そんなの。嘘だし」

 マルンどんがなおも食い下がった。泣きべそをかいている。

――研究のことなんかより、まだカラス仙人と一緒にいたいんだ。

 マルンどんのそんな気持ちがひろだけでなく、サビケン以外のみんなにはわかっているのが、それぞれの表情からうかがえた。いや、もしかしたら、サビケンも気づいてはいるが、湿っぽいのはいやだから、知らん顔しているのかもしれない。ひろは聞いた。

「カラス仙人はカラスの子に会えたらどうするつもりなの」

 カラス仙人は黙っている。もう、何も明かさないつもりらしい。長い沈黙を破ってアタマくんが口を開いた。

「カラス仙人にとてつもない大きな黒い影で会いに来たり、話しかけたり、呪文を伝えたり、尋常ではない行動を取れるところを見ると、僕が思うに、もはやカラスの子はこの世のものではないんじゃないかと……。カラスの子がカラス仙人に会いたいようでもあり、会いたくないというのも、そんなところが原因ではと感じるけれど」

「じゃあカラスの子は死んでしまったということ? 幽霊になって会いにきてるの? 幽霊のカラスの子に会ってどうなるっていうの?」

「そんな矢継ぎ早に言われても」

 マルンどんの攻勢に、アタマくんはたじたじとなっている。オバサナが口を開く。

「考えるの疲れた。もう、やめにしない? とりあえず、あたしたちがいるとカラスの子に会えないっていうんなら、カラス仙人を一人にしてあげようよ」

「じゃ、じゃあ、もう僕たちはお別れってこと? もうカラス仙人と会えなくなるかもしれないってこと? それでいいの?」

 ひろは思わず大きな声を出した。みんな黙り込んだ。

 カラス仙人がおもむろに言った。

「もちろん会えるわい。カラスの子と会ってすべきことをやったら、またお前らに会いに戻ってくる。それに、お前らにひとつ頼みたいことがある。わしは店を閉じて来た。待ってくれるお客さんもいるかもしれんから、シャッターに貼り紙をして欲しいんじゃ。『しばらく休業します 店主』とな」

「カラス仙人……」

 イナがつぶやいた。

「ちゃんとまた会えるならいいです。あたしたち戻って、貼り紙を書いて、お店に貼るから」

「ん?」

 少し考えてから、アタマくんが言った。

「二つ疑問が浮かびました。ひとつめ。カラス仙人のお店がどこにあるか分かりません。ふたつめ。カラスになっている時間は人間の世界では流れていないことになっているはず。とすると、カラス仙人が戻れば閉店自体なかったことになるから、貼り紙の必要はなくなる」

「ん?」

「ん?」

 みんな顔を合わせて考え出した。カラス仙人が大声で、

「考えるのやめんか! もしものためじゃ、貼り紙は。それから、わしの店はお前らと会った場所からそう離れていない。ひときわボロい古本屋じゃから、すぐにわかるじゃろう。そいっ」

 大きく羽を振ると、ゴオオオーッと巨大な掃除機に吸い込まれたようになって次の瞬間、六人は大学構内の道に突っ立っていた。朝日が登ろうとしていた。


15

「どうなってんの。夢だったの」

 オバサナが目をこすっている。顔だけ人間で、体がカラスだった姿ではなく、頭から足先まですべて、正真正銘のオバサナだ。ぼんやりしているひろに、サビケンの声が聞こえてきた。

「んなわけないだろう。カラスになったのも人間に戻ったのもほんとのことだよ。さっき俺が戻ったときとおんなじだ」

 こちらも正真正銘のサビケンだった。すぐにアタマくんも、

「うん、僕もこんな感じだった」

「にしても何だよ、そいって。こんなに簡単に戻せるなら苦労はないじゃん。あのじいさん、やっぱり怪しすぎる。う~む」

 サビケンがうなる。さらに、アタマくんもひろもマルンどんも片手を顎の下に置いて、

「う~~~~~む」

 とうなった。オバサナは、

「あ、そうだ」

 自分がリュックをしょっているのに気づいて中を確認し、

「あった、あった。飴にお弁当にジュース。みんな健在だ」

 一人、喜んだ。イナが涙目でつぶやく。

「じゃ、じゃあ、カラス仙人に戻されちゃったんだ、あたしたち……」

「泣くんじゃない、まだあたしたちにできることはあるよ。時間はたっぷりあるんだし」

 マルンどんがイナの肩をたたく。みんな元の姿に戻っていた。ひろは自分の腕や足を揺り動かしたりして人間に戻った感覚を確かめつつ、

「でもほんとうにカラスに変身する前の、あの時間に戻っているのかな」

 実感がわかずに、半分自分に問いかけるように言った。そのとき、誰かが近づいてくる音がした。はっはっはっはっと息をつき、漂ってくる汗のにおい。赤いジャージ。

「お前ら、早起きだなー」

「トド先生!」

 ひろは思わず叫んだ。

「トド……? 参ったなあ、こりゃ。俺、トドに似てるってか」

 戸堂先生が赤いジャージで、アッハッハと笑う。サビケンもいひひと笑いながら、

「トドそのものっしょ!」

 とツッコミを入れる。笑いが広がった。戸堂先生はキッとした目をサビケンに向けて一応反応して見せたが、すぐに、でっぷりしたお腹を見下ろし、しようもないなあという感じで苦笑いした。

「こうして毎朝ジョギングして、そのうちスタイリッシュになるから見てろよ。そしたらトド返上だ。カモシカ先生とでもしてもらおうかな。なっ。かっこよくなったらお前らもキャーキャー言うぞ」

 言いながら、マルンどん、オバサナ、イナを見てニヤッと笑った。

「言いっこないっしょ。カモシカ先生だなんて。気持ちわるーい」

 オバサナが言い返すと、笑いはさらに大きくなった。トド先生もゲラゲラ笑っている。一緒に笑いながら、ひろはトド先生のことを見直していた。

  ――トド先生は一方的じゃない。僕たちの気持ちをちゃんと分かってくれる。

 先生は両肩にかけていたタオルで汗をぬぐいながら、

「お前ら朝から自由研究か? 偉いなあ。俺がお前らぐらいのときは、夏休みが終わる二、三日前に、あわてて仕上げにかかった気もするぞ」

 言ってからあわてて口をおさえた。

「まずい、こんなこと教師の俺が言うべきじゃないな。校長先生にしかられる。忘れてくれ」

 えへへと笑って、

「期待してるぞ!」

 手を振り、走り去った。見送りながら、オバサナが言った。

「なんだか可愛げがあるんだよね、あの先生」

 まるんドンも、

「口うるさくないし、いいよね。PTAには受けがよくないって聞いたことがあるけど。あたしたちにとっては面白い、いい先生だ」

「女に甘い気もするがなー」

 サビケンがケチをつけようとするが、アタマくんが感心したように言った。

「トド先生というネーミングはいいな。戸堂先生にピッタリだ。僕もこれからそう呼ぶことにしよう」

「ほんと、いい名前だわー。あたしもこれからトド先生って呼ぶことにする。ねっイナ」

 オバサナが楽しそうに宣言し、イナの肩をたたいた。イナはというと、先ほどから下を向いて小さい声でブツブツ言っていたが、はっと顔を上げ、

「あっうん」

「サビケンが名前つけたんだよ。前から僕たち二人の間では、そう呼んでいたんだ」

 ひろが言うと、サビケンは鼻をふくらませ、得意げに何度もうなずいた。アタマくんが、トド先生が去って行った方角を見つめながら言った。

「カラス仙人の言う通りだった……。トド先生は、さっき僕と会ったことを覚えていない。本当に、なかったことになってるんだ」

 しいんとしてしまった。

「これからどうする?」

 マルンどんがみんなを見回す。

「うちに帰りたい」

 オバサナが言った。

「うちに帰って、何か美味しいもの食べたーい。ミミズを食べた後味が今頃になって、気持ち悪くてやってらんないわあ」

「よく言うよ、あんなにうまそうに食っておいて」

 と、サビケン。ひろも家に帰りたかった。こっちの時間ではしょうすけくんに送られてここに来てから一時間も過ぎていないのかもしれないが、あれからあまりにもいろんなことがありすぎて、一年もたったような気がする。

「まずは家へ帰って、また明日、続きを考えようか」

「そうだね」

 アタマくんが同意し、みんなそれぞれの方角へ踏み出した。イナが声を発した。

「待って」

 みんながイナに注目すると、イナは口ごもった。オバサナが聞き返す。

「イナ……? どうした。さっきからちょっと変だよ」

「あのね、あのね。あたし気づいちゃった。あたしたち、もうカラスに変身できないみたい。さっきから何回もあの呪文を唱えてみたけど、ちっともカラスにならない……」

「イナ、どうしちゃったの? なんで一人で呪文唱えたりするの。一人でカラス仙人のところに戻るつもりだったの? 一体全体どうして……」

 マルンどんが心配そうに尋ねる。イナは泣き出しながら、

「だってカラス仙人一人でカラスの子に会いに行ったら、もう二度と戻って来ない気がしたの。でももう駄目。いくら『ワシガオマエデオマエガワシジャ』って言っても……」

「げっ。お前、案外大胆だなー。俺やアタマはうっかりしてやっちゃったけど、お前はわざわざ言うんだ。でも、お前だから変身できなかったのかもしれんぜ」

 と、サビケン。それから、

「じゃあ俺がやってやる」

 みんなあわてて引きとめようとするが、サビケンは大声で叫んだ。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ」

 何も起こらなかった。ひろもやってみた。駄目だった。マルンどんも、オバサナも、アタマくんもやってみた。が、やはりそこにそのまま、人間であり続けた。

「そんなバカなぁ……」

 マルンどんがうなだれた。アタマくんも深刻な顔つきになり、

「……こうしている場合じゃないかもね。さっきまで僕は、いったん家へ帰って休んでから、日を改めてまた活動すればいいくらいに考えていたんだけど。そう簡単には行かないってことだよ」

 ひろは、聞き返した。

「簡単には行かない?」

「うん。僕たちが今人間に戻ったのも、カラス仙人が『そいっ』とか何とか掛け声をかけたからだよね。それってつまり」

「それってつまり……?」

「ひろ、聞き返してばっかり。自分で考えなよ」

 マルンどんが割り込んだ。ひろはムッとして、

「考えてるよ、僕だって。じゃあ言うけど」

 ひろは自説を披露した。

「僕が思うに、それってつまり、これまでカラス仙人に呪文を教えられて、えーと、それを唱えさえすれば変身したり戻ったりできる気になっていたんだけど、そうじゃなかったってことになるよ」

「僕もそう思う。カラス仙人が並々ならぬパワーを送ってくれていたとか。僕とサビケンが他のみんなと同じ時間、同じ地点に戻れたのだって、カラス仙人が助けてくれたからかもしれないと思うんだ。じゃなきゃあ、微妙にずれた戻り方をするんじゃないかな。あの人が力を貸してくれていたんだよ、きっと。あくまで僕らにはそう気づかせないようにして」

「そんな立派な人かなあ。まあそれはそうとしても、いったい何のためにそんな回りくどいことを」

 マルンどんが聞き返した。ひろはすかさず、

「マルンどんだって聞き返してる。自分でちゃんと考えなよ」

 マルンどんはふくれっ面になりながら、

「えーと、えーと。それってつまり……アホみたいに見せながら、あの人はやっぱりすごい人ってことかな。気づかせないようにしたっていうのは……ううん、わかんない。あの人なら『すごいじゃろう』って自慢してきそうだけど」

 それを受けて、サビケンが笑った。

「もしかしたらあのじいさん、自分でやってることもよく分かってねーんじゃない?」

「そうか! 知らず知らずにパワーを発揮していたってことも考えられるよね」

 ひろが言うと、アタマくんも同意して、

「やっぱり何度もカラスになるうちに、人間離れしたパワーが身についてきていたのかもね……。自分でもどんな能力があるか分からないながら、必要があればほとんど直感的に力を使いこなせるようになっていたと。……そしてその分、人間に戻りづらくなってしまったということか」

 アタマくんが感慨深げに言い、数回深くうなずいた。

「あんた、べらべらべらべら自分が話してることに自分で感心してんじゃないよっ。それじゃあ、あたしたちに出来ることはもうないっていうのかい? おとなしいイナがあんなに頑張っているのにさ」

 オバサナが食ってかかる。

「お前、すっかりイナの保護者モードだな」

 サビケンがあきれ顔で言う。

「いや、僕たちが出来ることはまだあるよ」

 ひろは叫んだ。それほど確信はなかったけれど。

「まず、カラス仙人のお店を探そうよ。ここからそう離れていない、ひときわボロい古本屋って言ってたよね。貼り紙をするのはもちろんだけど、そこに行けば何か手がかりが見つかるかもしれない」

「カラス仙人を探す手がかり?」

 イナが聞き返した。泣きやんでいた。

「うん。でも、もしかしたらカラス仙人が戻ってきていて、もう貼り紙する必要もなくなっているかもしれない」

 ひろの答えに、イナの目が輝いた。

「探しに行きましょう、今すぐに」

 その声に元気づいたのか、一人、二人と同じ方向へ歩き始めた。

「しっかし、あのカラス仙人も店の名前ぐらい教えろっちゅーの」

 マルンどんがブツブツ言うと、アタマくんがポケットからスマートフォンを取り出して、

「大丈夫。これで探せばいいよ」

 にこりと笑うと、この付近の古本屋を検索し始めた。それを横目で見ながらオバサナは、

「ちゃんと持ち物、もとどおりになってよかったねえ」

 背中にしょっているリュックを下ろして抱えると、中をゴソゴソやり始めた。あの飴の袋を取り出してみんなに一個ずつ配り、自分の口にも一個入れた。袋には、普通のミント味だけが二個残った。

「それでも、ミント味はミント味だ」

 オバサナは大事そうにしまった。

「食いもんを食べるのは久しぶりに感じるぜ。うめーなー」

 サビケンがぼりぼり音を立ててかじった。口からチョコ味の匂いがぷんぷん漂ってくる。マルンどんが、

「バカだねえ。ちゃんと味わって食べればいいのに」

 こうやるんだと言わんばかりに口の中でアイスクリーム味のを転がして味わって見せる。ひろは、

「ダメだよ、すぐに脱線するのは僕たちの悪い癖だよ。こうしている間にも、カラス仙人の身にどんなことが起こってるか分からないんだから」

「おっ。そんなこと言いながら、しっかり口には飴が入ってるじゃないか。レモン味だな。さわやかーなカンキツ系の匂いがしてるぜ」

 サビケンが笑う。ひろも幾分ムキになって、

「そりゃあ、せっかくオバサナがくれたんだから一応口には入れたさ。そっちこそチョコの匂いプンプンしてるよ」

 今度はイナが割って入る。

「ほら、ひろくんも脱線しかけてる。早く探しに行かないと。アタマくん、見つかりそう?」

 アタマくんはスマートフォンの画面をみんなに見せながら、

「ここから近いところに古本屋は三軒ある。このうちのどれかじゃないかと思う」

「どれどれ。ここから一番近くの、右に曲がったところにあるのが『大学前古書』うん、これは見かけたことがある。立派なつくりのお店だよね。これは違うんじゃない?」

 マルンどんが画面を指差して言った。サビケンがすかさず、

「行ってもみないで省くのか。ラクしようって魂胆、見え見えだぜ」

 マルンどんはかっとなって、

「あんたは何でもケチつけてくるね。事前にリサーチするの当たり前でしょ、このサビケンが!」

「何だと、マルンどんが!」

「ほら、また脱線」

 イナがなだめる。

「これパターン化してない?」

 と、オバサナ。ひろはアタマくんのスマートフォンを指さしながら、

「さらに道を進んで交差点を右に曲がり、ずんずん行くともう一軒あるね。『鳥山堂』か。なんか、カラス仙人っぽい」

 アタマくんがうなずく。

「僕もそう思った。で、三軒目はというと、その店を通り過ぎて道なりに進んで、細い路地がある。路地に入ってちょっと行くと、ほらここ。『どんぐり古書』」

「それも、めちゃくちゃ怪しいじゃん! カラスじいさんの匂いがぷんぷんするぜ。路地っていうあたりも」

 サビケンが叫んだ。

「ほんとだ。取り残しがあるとまずいから、やっぱり一軒ずつ順に回っていこう」

 アタマくんが言い、みんなも同意した。

 大学前古書はビルの一階にあった。ウィンドウから店内をのぞいていると、学生風のお客が一人入って行った。

「この店は明らかに違うな」

「だね。次、行こう」

 珍しくサビケンとマルンどんの意見が一致したが、アタマくんは、

「いや、一応中に入って確認しよう」

 自動ドアから入っていった。イナも続く。他のみんなはちょっと迷って、入口の前で立ちすくんだ。

「自動ドアって、ありえないよね。カラス仙人の店なんだから」

 同意を求めるように、オバサナが言う。

「イナもよくついて行くよ。まあイナは優しいし、それにカラス仙人のことになるとやけに熱心だからねえ」

「グループ研究なんだし、やっぱり僕たちも入ろう」 

 ひろも入っていく。結局、全員ゾロゾロと入って行った。レジのところに先ほど入って行ったお客がいて、店員からおつりを受け取っている。その後ろにアタマくんとイナがいて、店員の手があくのを待っている。お客は子供らが何の用だというようにひろたちにもジロジロ視線を移し、すれ違って出て行った。

「何か?」

 やせたおばさん店員が聞いてきた。事務的だ。アタマくんは多分頭の中で用意してあったのだろう、すらすらと話した。

「お姉さん、ちょっと伺いますが」

 店員の表情がパァッと明るくなる。「おばさん」ではなく「お姉さん」と呼ばれたことがとてもよい効果をうんだようだった。いそいそと、アタマくんの次の言葉を待っている。

「ここの店は、おじいさんが持ち主だったりしますか。僕たち、知人を探しているので知りたいのですが」

 店員は目を丸くして、首を振った。

「いえいえ、あたしが店主ですよ」

「そうですか、ありがとうございました」

 アタマくんは頭を下げて踵を返した。イナも同じようにして向きを変えた。ひろたちは鉢合わせする間もなく、急いで出口へ向かった。後ろから声がした。

「えーと、おじいさんがやってる古本屋っていったらぁ 」

「え」

「おじいさんがやってる古本屋っていったら、『田中書店』じゃないかなぁって思うんだけど」

 アタマくんは立ち止まって、聞き返した。

「あの、『鳥山堂』や『どんぐり古書』は違いますか」

「『どんぐり古書』は店主さんが亡くなって息子夫婦が継いでる。でも、インターネット専用の店になっちゃった。『鳥山堂』は大手のチェーンに店ごと売却されて、改装中」

 その二軒は即時却下となった。

 

16

 六人は北へ向かって歩いていた。さっきの店を出てから八分ばかり過ぎた。アタマくんが紙切れを見る。さっきの店員が描いてくれた地図だ。

「次の信号を右に曲がって二丁歩く、と」

「あのおばさんに情報もらってよかったよ。スマホでも見つけられない情報ってあるんだねえ。アタマくん、でかした」

 オバサナがガハハ……と笑い、照れ笑いしているアタマくんの背中をばんとたたいた。

「痛い」

 アタマくんはすうっとオバサナから離れて、ひろの横に回る。ひろはまわりを見渡し、

「でもなかなか見つからないね。アタマくんがネットで検索かけても出てこなかったとこみると、よっぽど……」

 突然、目の前にボロボロの、傾きかけた木造の古本屋が現れた。「田中書店」の看板もペンキの字が薄れかかっている。

「ダーーー! これかい」

 サビケンが叫んだ。マルンどんが青ざめて、

「今にもつぶれそう……」

「でも、ちゃんと手入れしてあるみたいだよ。ほら、添え木とか打ちつけて、いろいろ補強してある」

 アタマくんが建物の外観にチェックを入れると、ひろも壁を触ってみて、

「うん、そうだね。これなら案外地震とかでもうまい具合にしなったりきしんだりして、つぶれることはないんじゃないかな」 

「やっぱりカラス仙人は、やることはしっかりやるおじいちゃんなのね」

 イナが嬉しそうにつぶやく。

「店に入れないかな」

 サビケンが引き戸をギシギシ動かしてみるが、開かない。ガラス戸の向こうはカーテンが引かれていて、中の様子を見ることもできない。

「裏口に回ってみようよ」

 マルンどんが、ずんずん敷地に入っていく。雑草が伸び放題だ。

「おしっ」

 サビケンも走り出す。

「い、いいのかなあ……」

 ひろは戸惑いながら、ついて行く。みんなも後に続いた。裏口はさらにみすぼらしかった。古びた木製の表札に「田中一郎」と彫られてあった。

「随分普通の名前だねえ、カラス仙人らしくもない」

 オバサナの言葉にアタマくんがもっともらしい顔で、

「まあそんなものだよ、世の中の常として」

 ひろはナンノコッチャと思ったが、黙ったまま、マルンどんが戸口に手をかけるのをみていた。

「開かないねえ……当たり前だけど」

 マルンどんは不意にしゃがみこむと、

「こういうとき、昔の人はたいてい」

 雑草の中を探して、小箱を見つけた。もう使われていないであろう壊れかけた牛乳箱だった。

「あった!」

 蓋を上げて鍵を取り出し、

「牛乳配達してもらうのに使われてたんだろうけど、今や鍵隠しの場所になってたんだねえ」

 得意げにひらひらと見せびらかした。そしておもむろに、鍵穴に差し込もうとした。ひろは青くなって、

「ま、待って。それって、は、犯罪にならない? 第一、ここがカラス仙人の家だって証拠はまだないんだし」

 マルンどんの手が止まる。

「そっか……どうしよう」

 みんな考え始めたそのとき、サビケンがさっとマルンどんの手から鍵を抜き取り、鍵穴に差し込んで回した。青くなっているみんなを尻目に、

「大丈夫だよ。もし違ってたとして、おまわりさんに捕まったら俺が間違ったって言う」

 引き戸を開けた。ぷんとカビ臭いにおいが流れてきた。勢いにのまれ、なんとなくみんな、サビケンについていく。玄関に子供用のスニーカーと女性用の靴が一足ずつ並んでいた。

「だ、誰かいるんじゃない?」

 マルンどんが縮み上がる。サビケンは臆することなく奥に向かって、

「おーい。誰かいますかあ」

 声をはりあげた。静まり返っていた。ひろは生唾をごくりと飲み込んだ。

「誰か死んでたりして」

「ギャーーーッ」

 オバサナの叫び声にみんな飛び上がり、次々玄関から逃げ出そうとした。サビケンがこぶしを振り上げ、

「やめろよ、びっくりするじゃんか」

「だ、だって、ひろが変なこと言うから」

 オバサナはひろを恨めしそうに見た。

「ご、ごめん」

「僕が思うに」

 アタマくんは自分も逃げ出そうとしたことを忘れたかのように落ち着きを取り戻し、片手ですちゃっとメガネの位置を整えた。

「この家がカラス仙人のものだとしたら、この靴はそれぞれワタルさんの子供の頃のと、ワタルさんのお母さんのじゃないかな」

「かもね。もう考えてばかりいても進まない。入っちゃおう」

 マルンどんが覚悟を決めたように言う。ひろはスニーカーを拾い上げてしげしげと見た。

「靴底に『ワタル』って書いてある」

「決まりだね」

 サビケンが言い、みんながうなずく。靴を脱ぎ、全員で中へ入って行った。


 廊下の奥に店があり、手前に居間やトイレがあった。階段をやり過ごして店の方へ行くと、小さなレジと腰かけがあった。店内は狭いが、壁一面とその間にも二列に棚があり、びっしり本がつまっていた。

「古い本の匂いがする」

 ひろがつぶやいた。

「カラス仙人とワタルさんはここで暮らしていたのね」

 イナが感慨深げに言う。

「まだ確定したわけじゃないけど」

 ひろが言うと、オバサナが笑いながら、

「どれだけ用心深いのさ。このボロさは、カラス仙人そのものっしょ」

 サビケンは、小物を触ってみては「ふーん」などとつぶやきながら探検を始めた。マルンどんはレジのまわりをごそごそやっている。

「盗むなよ」

 サビケンに言われて、

「バカヤロウ! そんなことするか。第一、レジには鍵かかってるし」

 言い返しつつも、机の引き出しをのぞきこんで、

「『田中書店』のハンコ見つけた。いろいろあるな。えっと……なんだこれ、書類がある。ちっちゃい字がいっぱい、読むの面倒くさーい。アタマくん、読んで」

 ぽいと手渡す。

「勝手に人の家のもの引っかき回していいのかな」

 アタマくんはちょっとひるんだが、言われるままに読み始めた。

「……病院の入院手続きの紙だ。ワタルさんの名前が書いてある。……あ、部屋番号がわかった!」

「それ持ってて」

 命ずるように言うと、マルンどんはさらに引き出しの中を探し始めた。アタマくんは、

「いくらなんでも、それは」

 と青ざめて、部屋番号とかいろいろメモ帳に書き写す。書き終えると、書類の方は引き出しに戻した。



「引くなー。なんか、探偵のボスにでもなった気分じゃないのか」

 サビケンがケチをつけても、マルンどんは作業に熱中して耳に入らない様子だ。相手にされず、サビケンはプイッと二階に上って行った。ひろもついていこうとしかけたが、

「ハサミ。両面テープ。それに紙。よし、貼り紙作ろう。あたしこう見えて、書くのわりと得意なんだ」

 マルンどんの大きな声に注意を引かれ、その場にとどまった。マルンどんがマーカーで書き始める。力をこめた大きな字だ。

 

 お知らせ

 しばらくお休みします。

               田中書店

 

「これでどうかな」

 ひろは首をかしげた。

「なんだか味もそっけもない気がする」

 うーん、とマルンどんも考える。イナが、

「『ごめんなさい』って最後に入れたらどうかな……。そしたら、せっかく来たお客さんに悪いって言ってた、カラス仙人の気持ちが伝わるかも」

「そうか」

 マルンどんは素直にうなずくと、『ごめんなさい』を書き加えた。オバサナが、

「うん、感じよくなった。イナお手柄だ」

 ニコニコしている。イナは照れて赤くなる。マルンどんは読み上げた。

「読むよ。『お知らせ。しばらくお休みします。ごめんなさい。田中書店』いいかな?」

 アタマくんは黙って考えていたが、

「なんかなあ……。もうちょっとなんか足りない気がするんだよね」

「だよね」

 ひろも同意する。マルンどんがふくれっつらをした。

「文句を言うのは簡単だよ。なら、あんたたちもいいアイディア出しなよ」

 そのとき、ドタドタ音がして、階段からサビケンが降りてきた。

「上の部屋に、こんなものがあった」

 サビケンの手のひらに、ドングリが二個あった。

「ほれ。うっすら目と口が描いた後が残ってる」

 さらにポケットから写真を取り出すと、一枚の写真を取り出した。

「壁に貼ってあった」

「あんた、やばいよ。人のうちのもの勝手に取ってきたりして」

 マルンどんが注意するが、

「あんたがそれ言う?」

 写真に近寄りながらオバサナがつぶやく。マルンどんはたいして気にせず、みんなと同じようにサビケンの持っている写真をのぞきこんだ。

「カラス仙人!」 

 写真には、親子らしき三人の姿が映っていた。運動会の後か、体育帽をかぶって正面を向き、笑っている男の子と、その後ろに父親らしき人とほっそりと優しそうな母親らしき人が、これもやはり笑っている。サビケンは得意そうに、

「だろ」

 アタマくんもつくづくと写真を眺め、

「今よりずっと若いし、はるかに人間らしいけど、確かにカラス仙人だ」

「幸せそうね」

 イナが感慨深げに言う。目がうるんでいる。

「こんな時もあったのに……。お母さんは亡くなって、ワタルさんは眠ったまま入院してて、お父さんはカラスになってしまったなんて」

「子供用の靴と女の人用の靴、玄関にあったじゃん。もう使わないのに、カラス仙人ったら。ああやって置いといたら、ちょっとでも昔の幸せな頃の気分に戻れたのかなあ」

 マルンどんが言うと、

「うっうっうっ」

 オバサナがしゃっくりあげ、ずるっと鼻をすすった。

「わっきたねー。鼻水飲むなよー」

 サビケンがわめき出す。イナがポケットからティッシュを出して、オバサナに渡す。

「大丈夫、完全にカラスになっちゃったわけじゃないわ。きっとまた戻ってくるから」

「それに、ワタルさんだって目を覚ますかもしれない」

 ひろもつけ足した。みんな、うんうんと同意した。マルンどんがポンと手をたたいた。

「そうだ! 貼り紙をしたら、ワタルさんに会いに行かない?」

 結局、貼り紙に対する情熱はアタマくんの中にもひろの中にも、それほど残っていなかった。他のみんなにしても、新たに生まれたミッションの方に、はるかに心を奪われていた。そのようなわけで、裏口から出て鍵をかけ、牛乳箱に鍵を戻し、正面に戻ると、次のような文面の張り紙をして、よしとした。

 

 お知らせ

 しばらくお休みします。

 ごめんなさい。

 再開の日を楽しみに。

               田中書店

 

 最後に付け加えた言葉は、アタマくんがようやく思いついた一言だった。

「まあ、ないよりはいいんじゃないの。前よりも親しげな感じになったし」

 マルンどんの言葉に反対する者はいなかった。そして、そろって大学病院へ向けて歩き出した。日が高くなり、道を行く人や車も増えてきた。

 だんだんみんな無口になっていった。十分ほど進んだあたりで、ひろは口を開いた。

「ちょっと疲れてきたかな。なんかお腹がすいてきた」

「だよねー」

 オバサナも言うと、リュックをばんとたたいて、

「大丈夫。朝、『今日は一日いっぱい自由研究して帰るのは夕方になるかもしれない』って、お弁当持ってきたんだ。みんなもそうじゃないの?」

「おう、俺も持ってきてるぜ。母ちゃんが作ってくれた弁当」 

 サビケンが言えば、アタマくんもポケットの中を探して、

「お昼ご飯は持ってきてないけど、もしかしたらってことでお昼代ぐらいは持ってきたはずなんだけど……」

 ホッとした顔になって財布を取り出して見せた。

「よかった。人間に戻ったらちゃんとこれも戻ってた」

「あたしも。ポーチの中に小銭入れが入ってる。お母さんがパンでも買いなさいってくれたんだ」

 マルンどんが言うと、イナも、

「あたしもサンドイッチ持ってきたの。カラスになったときちょっと心配したけど、今はちゃんとほら、肩かけバッグも戻ったし、なかみもちゃんとある」

 ひろも自分のリュックを確かめた。入ってた。しょうすけくんが作ってくれた、ずっしりと重い、特大のお握り。

「よし、病院に着いたらお昼を取ることにしよう。着くまで、もうひと頑張り」

 マルンどんが言って、みんなも大きくうなずいた。


 歩きながら、マルンどんが言う。

「ひろが初めてカラス仙人……田中一郎さんだっけ、なんかしっくりこないな。まあいいや、これからもカラス仙人て呼ぼう。ひろが初めてカラス仙人に会ったのは、ワタルさんの病院に行く途中だったのかもしれないね」 

 ひろは思い出しながら、

「ええと……。帰ろうとして歩いてたら、向こうからやってきたんだから……。そうか、そうだったんだ」

「謎がまたひとつ解明されたな」

 サビケンが重々しく言った。

「ほんとにあのときは『アゥアー、アゥアー、アゥアー』ばかり言って、人間って感じがしなかったなあ」

 ひろが言うと、アタマくんが、

「ワタルさんのことを考えていたのかもしれないし、カラスの子のことを考えていたかのかもしれない……カラス度がかなり高かったんだろうね」

 思いめぐらしながら、つぶやいた。イナがふと思いついて、

「カラスの子を見つけようとして、カラス語で呼びかけてたのかも」

「カラス語? なんだい、それ」

 サビケンがバカにしたように笑う。イナは赤くなって、下を向いた。ひろは、

「いや、ありえるよ。『アゥアー、アゥアー、アゥアー』がどんな意味か分からないけど、あのときのカラス仙人は、カラスになりきって鳴いていた。……人間の姿だったけど、人間っぽくないっていうか。きっと一生懸命カラスの子を呼んでいたんじゃないかな」

「そうだね」

 マルンどんが大きな声で賛同した。

「じゃあ、あたしたちもそのカラス語で呼びかけようよ」

「えっ……今すぐ?」

 ひるんだのは、ひろだけではなかった。イナとアタマくんも理性に引き止められたのか、とっさに反応できなかった。

「いいぜ、病院に着くまでずっとやろうぜ。もしかしたら木陰からカラスの子が現れるかもしれんしな。そらっ、アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 サビケンの反応は早かった。

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 マルンどんとオバサナも深く息を吸うなり、大きな声で鳴き始めた。あたりに三人の声が反響する。道ゆく人の反応はまちまちだ。目を丸くして見ているおばさんがいると思えば、気味悪そうに前をそむける若者、ギョッとして固まって立ちすくんでいるおじさん。意識はしっかりこちらに向いているのに、見て見ないふりをして、ぎこちなく通り過ぎていく女学生。

「ほれ、あんたたちもやりな」

 オバサナが残りの三人を振り返り、促した。

「こ、これをやるというのは……」

 ひろが絶句すると、アタマくんが続けた。

「これをやるというのは、カラス仙人はよっぽど夢中になっていたに違いない。でなければ、子供の僕でもこんなに恥ずかしいのに、大人がやるなんて。それにしてもあの三人はもうカラスになりきって鳴いている。……なんてすごいんだ」

「なんてすごいの」

 イナも同意する。同じように、立ち止まったまま。ひろは、

「で、でも。ああやって、ただ鳴き続けたってカラスの子に届くのかな。カラス仙人だって会えずにいたのに。それに会えたら、どうするっていうのさ」

 マルンどんがきっとした顔で振り返り、心底軽蔑したように言った。

「そうやってやる前からダメだって決めつけて、どうなんの。やってみなきゃ分からないでしょ。ほれ、迷うくらいなら行動、行動」

 その後、なりきった三人としぶしぶ従う三人は数十メートル歩く道すがら、

「アゥアー、アゥアー、アゥアー」

 繰り返し鳴いてみたが、カラスの子を見つけるという目的からいえば、これはという成果はなかった。いや、一回だけ、木からカラスが降りてきてサビケンの頭を蹴り飛ばしていった。

「いてっ」

 サビケンが叫ぶと同時にカラスは、

「ケケーッ」

 というような、バカにしたような鳴き声を上げて高く飛び上がり、再び急降下すると、またサビケンめがけて飛んできた。サビケンが両手を上げて、

「しっしっ。来るな、来るな」

 必死で追い払うと、マルンどんが、

「ちょっと待って。カラスの子かもしれない。荒っぽいことしないでよ」

 制されてとっさにサビケンが腕を下ろすと、カラスはサビケンの頭をもう一度蹴って

「クアーッ」

 勝ち誇ったような声を出すと、木の上に姿を消した。

「違うよ、あの感じ。全然人懐っこくない。ふつうの野生のカラスなんじゃない?」

 ひろが言うと、サビケンはうらめしそうにマルンどんを見やりながら、

「どっちが荒っぽいんだか」

 頭をさする。アタマくんが、

「早くこの場を離れようよ、これ以上刺激しない方がいいと思う」

 急いで走り出したので、みんなその後を追って駆け出し、大学病院の入り口までノンストップで進んだ。


17

「やっと着いた」

 はあはあ息を吐きながらも、頬を赤くして、嬉しそうにイナが言う。

「さあ、まずは昼飯といこうぜ」

 サビケンに従い、昼飯を持ってきていない者は売店でパンや弁当を買い、持ってきている者はそれぞれのものを持って、待合室で食べることにした。

「随分久しぶりに食べる気がするね」

 お握りにかぶりつきながらひろが言う。

「実際、俺たちどのくらい長いこと食ってなかったんだろ……。にしても、でっけえお握りだな」

「剣ちゃ……サビケンのお弁当、美味しそうだね。おばちゃん、料理うまいもんね」

「昨日の残りだよ、一口やるよ」

 サビケンが箸で大きめのカツをひろの口に入れてくれた。

「ありがと、おいしい」

 ひろはももぐもぐしながらお握りをサビケンに一口かじらせた。

「うめえ」

 売店から買ってきたハンバーガーを食べているアタマくんは思案中らしい。そして黙ったまま食べては牛乳パックのストローを吸い、ごくんと飲み込んでからおもむろに言った。

「……結論から言うと、やはりカラス仙人の言う通り、僕たちはカラスになって非現実な世界にいたようだね。だって実際僕たちは、かなり長い時間起きたままだし、飴をちょっと食べるほかは食事もしないままあっちに飛んで行って、こっちに戻ってからも、そのまま今まで行動してきたんだもの。普通じゃ考えられない」

「結論からなんて、そんなもの誰も求めてなんかいないけど。まあそうだね。不思議なことが目白押しだね。でもまあ乗りかかった舟だから、ちゃんとミッションやり遂げよう」

「よっ。マルンどんは相変わらず頼もしいねえ」

 と、オバサナ。マルンどんは悪い気はしないらしく、えへへと照れ笑いをしながらメロンバンをほおばる。マルンどんが売店から買って来たのは他にアンパンと豆パン、それにいちごみるく味の飲み物だ。ひろは見ているだけで口の中が甘ったるくなりそうだった。その点、イナの膝の上に乗っている容器に入っているサンドイッチは、ジャムのと卵のとが三個ずつ入っていて、ちょうどいい感じがした。

「多いからあげようか」

 ひろが見ているのに気づいてイナが言った。ひろは赤面して大きく手を振り断った。

「いい、いい」

 オバサナが割り込んだ。

「人の好意を無にしてからに。イナ、ならあたしにジャムの一個ちょうだい。かわりに卵焼きと唐揚げあげる」

 ひろはやっぱりもらえばよかったとちょっと後悔した。にわか昼食会はまたたく間にすぎて、いよいよワタルさんの病室へ向かうことになった。


「ええと……こっちのはずだよ」

 アタマくんがポケットからメモを取り出し、病棟や病室番号を見ながら進んでいく。五人はアタマくんに任せ切って、ぞろぞろ後をついていく。曲がりくねった通路をかなり行った後で、アタマくんが突然立ち止まり、口を開いた。

「違う、こっちじゃない。間違ったエレベーターに乗ったらしい」

「だーっ。お前がそんなこと言うなんてー」

 アタマくんのすぐ後ろにいたサビケンが大きなリアクション。

「まあまあ。誰にだって間違いはあるよ。僕たちだって任せきりにしたのはよくなかった」

 ひろがかばうと、サビケンも頭をかいてアタマくんに、

「だな。わりぃわりぃ」

 マルンどんが少しむくれて、

「アタマくんは何でもわかってるような顔するから信じちゃうんだよね……。方向音痴なら最初からそう言えばいいんだよ。人間、謙虚さも大事。どれどれ、あたしに見せな」

 言いながら、メモを覗きこむ。アタマくんはちょっと悔しそうに下を向く。

「かーっ。偉そうな顔してお前がそういうこと言う?」

 サビケンが横やりを入れるがマルンどんは無視を決め込み、部屋を探すことに集中している。ひろもアタマくんに加勢した。

「アタマくんにばかり頼った僕たちも悪かった。ごめん」

 アタマくはちょっと頭を上げた。

「そうだね、ごめんね。一緒に探せばきっと見つかるから」

 イナも言う。オバサナだけでなくひろやサビケンも大いにうなずいた。マルンどんは立ち止まり、振り返った。アタマくんの正面に来て、

「ごめん、言い過ぎた。あたしの悪い癖だ」

 アタマくんの顔に笑顔が戻った。しっかりした協力体制が出来上がったところで、再び探索に入る。アタマくんは二度と同じ間違いをしないようにルートを要所要所でメモっている。さらにに十分ばかり試行錯誤の末、やっと辿り着いた。

「『田中ワタル』って書いてある……。間違いなくここだよね」

 ひろが言うと、オバサナが、

「やー、感慨深いものがあるね。ついに目的地到着か。少し休む?」

 通路にある長椅子を指差した。

「ここに来てそんなこと言うんかい。ビビってんの?」

 サビケンが笑うと、図星だったようでオバサナは案外素直にうん、とうなずいた。

 イナがオバサナによりそって、

「あたしもちょっと……心構えが」

 ひろも内心迷い始めたので、アタマくんとマルンどんの方を向いて、

「僕たち入っていっていいと思う?」

 聞かれた二人も顔を見合わせた。マルンどんがちょっと思案気に、

「看護師さんの詰所前の貼り紙に、今は面会時間だってあったけど……」

「でも僕たち、ワタルさんの家族でも何でもないよね……」

 アタマくんもどうしようかという顔になり、病室前で立ちすくんだ。サビケンも黙っている。

「やっぱりここで休もう。どうしたらいいか考えよう」

 と、オバサナ。イナとマルンどんも両脇に並んだ。アタマくんとサビケンとひろもなんとなく向かい側の壁につっ立った。お掃除のおばさんがやってきて、モップで床を拭き始めるのを、みんな黙って見ていた。

 おばさんは六人に目をとめ、

「面会に来たの? ご親戚の方たち?」

 丸くてふっくらして、あんまんみたいな優しそうな顔だなとひろは思った。みんな口ごもっていると、イナが一息吸い、一歩踏み出した。

「……親戚ではないんですが」

 おばさんはモップを持った手を休めて、うんうんと微笑みながらイナの話を聞いている。他の五人は、いつもはにかみ屋のイナが動いたことに驚いて、ただ見守っているばかりだった。イナはつっかえつっかえ、説明を続けた。

「あの、その、……その部屋にいるワタルさんのお父さんとあたしたちは、お友達なんです。それであたしたち、ワタルさんのお父さんが今日来られないので、かわりにお見舞いに来ようと……。この病室を探して、いろいろ迷ったりして……やっと見つけて……」

 話しながら、イナの目に涙が浮かんでゆらゆらしてきた。それ以上話し続けたら、泣き出してしまいそうだった。おばさんはおろおろし始めた。モップを握りしめて、どうしていいか迷っている。オバサナとマルンどんが、左右からイナを支えた。

「だいじょうぶ、大丈夫」

 イナは少し落ち着いて、おばさんを見上げ、

「ごめんなさい」

 おばさんは大きく首を振り、

「なんも悪くないよ」

 それで、ひろもなんとか勇気がわいて、説明の続きをしようと進み出た。

「それで僕たち、やっとここまで来たんです。でも、どうしたらいいか、急にわかんなくなっちゃって」

 マルンどんが受けて、

「ワタルさんは眠ったままというし……。あたしたち、このまま入っていいのかなあって、迷っているんです。どうすればいいんでしょう?」

 おばさんはうーんと考える。イナは今は静かにことの成り行きを見守っていた。サビケンもひろの横に来て身振り手振りをまじえ、やや早口になりながら、

「あのあの。俺たち、怪しいものじゃありません。れっきとした小学三年生です。れっきとした、ひとかどの人物ばっかなんですよ。いやほんと。信じてください。何と言っても、れっきとした、れっきとした……あれ、これって、歴史と関係ある言葉なのかな?」

 おばさんは今にも笑い出しそうだった。アタマくんがサビケンの前に立った。 

「つまり、親戚ではないけれど、ワタルさんとワタルさんのお父さんのために何かできることを見つけるために、ワタルさんに会いたくて、やって来たんです。本当なんです」

 おばさんはふふっと笑って、

「なんだかよくわかんないけど、あんたたち、いい子たちだね」

 え、とみんなそれぞれ照れまくる。顔を見合わせて笑ったり、下を向いて足元を小刻みに蹴ったりした。

 足音がして、おばさんはふとそちらを見た。

「あら、ひなこちゃん」

 みんなが振り返ると、後ろに若い女の人が立っていた。

「?」

 女の人は、不思議そうな顔で六人とおばさんを見た。おばさんは親しそうな口調で続けた。

「ちょうどよかった。この子たち、ワタルさんのお見舞いに来たんだって。初めてで緊張してるみたい。一緒にどうかな?」

 ひなこさんは六人を前にして、ちょっと戸惑っているように見えた。みんなのほうもおばさんが何を言っているのか理解できず、かたまってしまった。おばさんはモップを片手に、もう一方の手を元気に動かしながら、初めて顔合わせすることになった面々の橋渡しをした。

「この人ね、ワタルさんのお見舞いにほとんど毎日来てるの。ひなこちゃんっていうのよ。ワタルさんの幼なじみでとても優しい人だから、一緒に行くといいよ。ねっいいでしょう。ひなこちゃん」

 ひなこさんはぎこちなく微笑んで、首を縦に振った。

「私でよかったら」

 おばさんはみんなを見て、

「ああよかった。これで私もお掃除に精を出せるよ。じゃあね」

 力強くうなずくと、廊下を拭きながら行ってしまった。残されたみんなは、しばしぼうっとしていた。一番先に我に返ったのはマルンどんだった。ひなこさんに近づいて、

「あの……あたしたち、ワタルさんのお父さんからこれまでのこと聞いて来たんです。今日はどうしても来られない事情があって、代わりにワタルさんのお見舞いに来ました。よろしくお願いします、あたしの名前は佐藤マキです」

 丁寧に自己紹介したが、サビケンが横から入って、

「『マルンどん』でいいです。もりもり強そうな感じが出てるでしょ」

 マルンどんはかっとして、

「こいつは『サビケン』です。サビた刀みたいに役立たずな奴です」

「いやいや、『わび・さび』の世界を知らん奴は困るな」

 サビケンはもっともらしい顔つきで片手を顎の下に置き、斜め上に首をひねって見せた。そして、ひなこさんに向き合うと、

「差三田剣次郎です。でも長すぎるからサビケンでいいです。味わいのある刀みたいな奴なんです、俺は」

 ひなこさんは首をかしげて微笑んだ。ひろも続けて、

「僕、道賀ひろや。ひろです」

 他のみんなも、

「あたし、音無イナ。イナです」

「俺、阿多間智です。アタマくんでいいです」

「あたしは大葉さなえだから……縮めて、オバサナなんて呼ばれてます」

「違う! オバさんっぽいからオバサ……」

 サビケンが余計なことを言おうとするのを後ろから手を回してオバサナが阻止する。口をふさがれてサビケンがフンガーフンガー言うのをひろとアタマくんが救い出し、なんとかその場は納まった。ひなこさんは目を丸くしていたが、やがてにっこりして、

「私は鳥居ひなこと言います。『ひなこ』でいいです。よろしくね」

 サビケンが好奇心丸出しで、

「ワタルさんの彼女なんすか? ワタルさんも隅に置けないな。いつの間にか彼女まで作ってたなんて」

 今度こそサビケンはマルンどんのひじでっぽうを食った。

「いてっ」

 ひなこさんは笑った。

「そんなんじゃないのよ。君たちみたいに子供の頃、ワタルくんと同じクラスだったことがあるだけ。さあ、行きましょう」


18

 ひなこさんの後ろからみんな、しずしずと病室に入っていった。ついて行きながら、ひろの心にふと疑問がわいた。

  ――カラス仙人の話に、ひなこさんの話は出て来なかった……。カラス仙人も知らない世界が、ひなこさんとワタルさんの間にあるのかな。

 病室はそれほど広くなかった。若い男の人が眠っていた。何本かのチューブが体に取りつけられ、器具とつながっていた。ひなこさんの後ろから覗き込むようにして、ひろが言った。

「お父さん似……?」

 通った鼻筋とか、閉じた口元とか、どことなくカラス仙人に似ているような気がした。

穏やかに眠っている。

「そうだね」

 アタマくんが言い、

「看護師さんが髪とかひげそりとかやってくれているの。こうして見ると、今にも目を覚ましそうに見えるでしょう」

 ひなこさんが言う。みんなウンウンとうなずく。ひなこさんは振り返って、

「ワタルさんに会うの初めて?」

 マルンどんが真っ先に答えた。

「そうなんです。カラス仙人のために、あたしたちでできることはないかって」

「カラス仙人?」

 不思議そうに問われて、あわててマルンどんはつけ加えた。

「あ、ワタルくんのお父さんのことです。ほら、どことなくカラスじみてるでしょ。だから、あの、ちょっとしたニックネームなんです」

 ひなこさんはクスッと笑った。

「ワタルくんのおうちでカラスを飼ってたことがあったものね。そう、カラス仙人……」

 イナが驚いたように、

「カラスの子を飼ってたこと、知っているんですか」

 ひなこさんはワタルさんのそばに立って、ワタルさんの顔を静かに眺めながら、

「通りががりに、たまたま見かけたことがあるの。二階の窓が開いていて、鳥かごの中でカラスが日光浴をしているのが見えたわ。そのうち鳥かごから飛び出して、自由に部屋の中を飛び回るのも見えた……。ワタルくんの部屋だったのね。ワタルくんの肩に止まったり、ワタルくんの手から餌をもらったり。本当に、本当に楽しそうで……。気づかれないうちに私、そっと立ち去ったけれど」

「あれ。どうしてワタルさんに声をかけなかったんですか」

 思わずひろは聞いた。とっさにひなこさんは答えられなかった。マルンどんがひろをひじでつつく。顔を見ると、声を出さずに、

「デ・リ・カ・シー」

 と、口を動かした。余計なことを聞くんじゃない、ということらしい。ひなこさんはワタルさんの顔をじっと見ていたが、静かに向き直ると、

「私、お見舞いなんて大したことしてないの。ここに来てもちょっとの間いるだけ。何もしてあげられないし……。それに幼なじみってほどでもない。小学校の一時期、同級生だっただけなの」

 寂しそうに笑い、

「あなたたち、ワタルくんのお父さんのお友達ってことは、ワタルくんにとってもいいお友達になれそうね。どうぞ心ゆくまでお見舞いしてあげてくださいね」

 頭を下げると、六人に場所を譲ろうとした。アタマくんが、

「いえ、僕たちそんな大それた者じゃあ」

 続いてマルンどんも遠慮がちに、

「そう、そうなんです。あたしたち勢いで来てしまったものの、どうすればいいかわからなくなってしまって」

 サビケンが進み出た。

「そうすか、そうすか。ではまず僕がワタルさんと少し話をさせてもらいます」

 そしてワタルさんの耳元に呼びかけた。

「おーい、ワタルさん。お父さんのかわりに会いに来ましたよー。聞こえたらなんか合図してくださーい」

 しかし、ワタルさんの寝顔に変化はなかった。

「あれ、変だな。眉毛を動かすとか、口の端っこだけでいいから上げてみるとか、なんでもいいからやってみてくださいよー。おーい、返事をしてくれよう」

 耳元で話しかけるが、やはり何の反応もない。

「これじゃお見舞いになんないよ、なあ」

 サビケンが苦笑いしてみんなに同意を求める。イナが、

「ワタルさんは眠っているから、返事をするのは無理じゃないかと思う……」

 オバサナが前に出て来た。

「どれ、話しかけてもダメならあたしが」

 リュックからバナナを取り出して、ワタルさんの鼻先に近づけた。

「いい匂いでしょう、ワタルさん。さっき売店で買ったんだよ、あとで食べようと思って」

 しばらくワタルさんにバナナの匂いを嗅がせていたが、ワタルさんに変化はなかった。

「あたしなら眠ってても、美味しそうな匂いがして来たらすぐに目が開くけどなあ」

 みんなを振り返って、残念そうにゲヘヘ、と笑った。みんなもつられてなんとなく笑ったが、やがて病室は静まり返った。

「私はそろそろおいとまするけど、皆さんはどうする?」

 ひなこさんがドアの方へ体を向けて言った。ひろはさっきから気にかかっていたことを口にした。

「小学校で同級生だっただけってさっき聞いたけど……。じゃあどうしてお見舞いに来てるんですか、こんなふうにただ黙って顔を見るためだけのために……」

 ひなこさんは、はっとして振り返り、ひろを見た。すぐには答えなかった。マルンどんがまたひろに寄って来てひじをつつこうとするのをサビケンが先回りして、

「デリカシーないってさ、ひろ」

 ひろはあわてて口を押さえた。ひなこさんは首を横に振り、微笑んで、

「ちっちゃいのに鋭いのね」

「ちっちゃくてもれっきとした小学三年生です」

 むきになって答えた。背が低めなのはちょっと気にしていた。

「そうだったわね、れっきとした小学三年生。それにあと三年もすると、男の子はグッと背が伸びて大人っぽくなるものね。私こそデリカシーなかったわ、ごめんなさい」

 柔らかく微笑んで詫びた。

「お医者様の回診までまだ間があるわ。私の休憩時間もまだ残ってるから、もう少しここにいてお話しましょうか」

 ゆっくりと語り始めた。


「私、ここの病院の事務で働いているの。入院患者さんの書類に、ワタルくんと同じ名前があって、まさかと思って年齢とか見たら私と同じ年で……。気になって病室に近づいたら、たまたまさっきのおばさんが掃除をしている最中で、顔が見えたの。やっぱり昔のワタルくんの面影があった……。私、先生や看護師さんに事情を説明して、時々お見舞いさせてもらうようになったの」

「へえ。ひょっとすると、おねえさんはワタルさんのことが好きだったんですか」

 サビケンがずけずけ聞くのを、表向きはそんなこと聞くなんてという顔をしつつも、内心ひろも知りたかったので、身を乗り出して耳を傾けた。マルンどんも妨害しない。ひなこさんは、

「え……」

 たじろいだが、ちょっと考えてから、

「うーん、好きも嫌いも……。あなたたちくらいのとき、ワタルくんに助けてもらったことがあるだけよ。でもワタルくんはだんだん学校に来なくなったし、私も転校したりして、ずうっと会えなかったし。私、またここに戻ってきてから古本屋さんの前を通ってみたりもしたけど、全然姿が見えなかったし……、ほとんど関わりもなく過ぎて来たの」

「助けられたってどんなことですか」

 今度はアタマくんがストレートに聞いた。

 ひなこさんはたじたじとしながら、

「え、それは」

「答えたくなかったらいいです」

 イナが、イナにしては大きな声で言った。

 みんながびっくりしてイナの顔を見ると、イナは我に返って、顔を赤くしながら、

「言いたくないことって誰にでもあると思うから……」

 ひなこさんはまたふんわりした笑い方をしてから、口を開いた。

「ありがとう。でも大丈夫、答えられると思うわ。もうずいぶん昔のことだし」

 それからひなこさんと六人は三十分ばかり病室にいた。ひなこさんから聞いた話は次のようなものだった。


 ひなこさんとワタルさんが同じクラスになったのは小学三年生のときだった。「わお、俺らとおんなじ!」とサビケンが喜ぶ。ひなこさんは微笑み、話を続けた。

 あるとき、班ごとに組んでグループ発表をすることになった。クラスの五つの班が競って、先生が金賞、銀賞、銅賞を選ぶことになっていた。ひなこさんとワタルさんは同じ班だった。

 みんなで話し合い、研究発表の題名は「どうして鳥は飛べるのか」に決めた。図書室から百科事典を借りて来たり、家から本を持ち寄ったりして、みんなで大きな紙に絵や説明を書いていった。発表の前の日にはすっかり準備も済んで、「最高の出来!」「うちの班が金賞だね」と明るい顔で言い合った。発表は話すのが得意で学級委員もしている子がやることになった。ひなこさんも調べたり書いたりするのに打ち込んで、それぞれの役目を十分やり遂げた嬉しさにワクワクしていた。目が合うとワタルさんも笑っていた。

 翌日、発表するはずの子が休んだ。先生が「風邪で熱が出たそうです」と言い、残ったみんなは誰が発表するかであわてた。結局、じゃんけんで決めることになり、一斉に手を出した。三人がチョキ、二人がパーだった。パーを出したのはワタルさんとひなこさんだった。ワタルさんは何か言いかけたが、誰かが叫んだ。

「決勝だ!」

 押し切られるように、二人はもう一度じゃんけんして、ひなこさんは今度はグーを出した。ワタルさんは再びパーだった。ひなこさんが発表をすることになった。ひなこさんは震えてしまった。順番が回って来て、黒板の前に班の全員が横に並び、真ん中の壇上にはひなこさんが、黒板に貼った大きな紙を見ながら発表していった。ひなこさんは緊張のあまり、震える声でノートを読み上げた。

「鳥の体は軽くて、形も飛びやすくできています。羽の下はこんな形です……」

「声もっと大きく」

「ちゃんと図を棒で示して」

 横に並んでいる班の仲間から小さな声の注意が次々に飛んだ。ひなこさんは手元にあるノートと黒板の紙を見比べながら発表するのに精一杯だったので、一瞬絶句してしまった。どうしていいかわからなくなりかけた。ノートに置いた右手がカタカタ音を立て、左手は棒を持ったまま虚ろに床を指していた。

「何してんの」

 またもや声が聞こえてひなこさんの肩がビクッと動いたとき、列の端にいたワタルさんが横まで来て、ひなこさんの手から棒を静かに抜き取り、黒板の紙にある絵を指し示した。

「こっちは僕がやるから」

 ひなこさんは少しホッとして、また発表を始めた。

「……飛ぶのに大切なのが風切羽です。これは」

 言いかけたとき、またさっきのように声がした。

「だから、声もっと大きく!」

 限界だった。ひなこさんは極度の緊張症だったのだ。気がつくと、生暖かい水が壇上に広がっていた。

「わっ汚い」

「ションベン漏らした!」

 教室がざわめいた。先生は後ろで発表を見ていたのだが、厳しい顔になり、ひなこさんに駆け寄り、

「なんてことを」

 言うが早いか、ひなこさんを押しのけ、まず教室に起きたどよめきを大声で制してからひなこさん以外の生徒に口々にバケツや雑巾を持って来させたり、水を汲んで来させたり、手伝わせたりして壇上の清掃を始めた。ひと段落すると、ぼう然と突っ立ったままのひなこさんの腕をやや乱暴につかんで保健室へ連れていった。

 それからのことは悪夢だった。先生はひなこさんの家に連絡し、迎えに来させた。母親は先生に「うちの子は極度の緊張症だと前から伝えてあったでしょうに。先生にも責任があるんじゃないですか」と強い態度に出たが、家へ帰るとその夜、両親そろって「二度とこんなことがないように」と厳しく言い渡された。自信がない、もう学校へ行きたくないと言っても受け入れてはもらえなかった。

「だからいつも言ってるでしょう、お姉ちゃんを見習いなさい。学校を休んだことなんて一回もない。二つしか年が違わないのにとても頑張り屋だ。いいお手本があるんだから、ひなこにもやってできないことはない」

 ひなこさんにはとても出来のよいお姉さんがいて、何かにつけて比べられて育ったのだった。非常に緊張するとオシッコをもらしてまうという哀しい癖は、もちろんお姉さんにはなかった。

 緊張のあまり粗相をしてしまうのは幼稚園の頃にはよくあった。小学校に入学したての頃は、学校に着くなり失敗してしまうこともあったが、じきにほとんどなくなった。医者がいうように「成長とともに治る」という理由もあったかもしれないが、それなりに試みていることもあった。学校のある日の朝はなるべく水分を取らないようにするとか、緊張しそうになったら深呼吸するとか、親が先生に事情を説明してひなこさんにはなるべく緊張するような役割を割り振らないようにお願いするとか。

 いつもひなこさんは『ダメなあたしを直さなきゃ、直さなきゃ』と思いながら育ってきた。誰もひなこさんに「ひなこはひなこのままでいいんだよ」とは言ってはくれなかった。

「次の日、恥ずかしさと恐ろしさに押しつぶされそうになりながら、ようやく学校へ行くと」

 ひなこさんは目を閉じた。

「……それまで仲のよかった女の子は誰も私のそばには寄って来なかった。前の日台無しになった発表会は別な日に行われたけど、私は先生の特別なはからいで、お客さんみたいにずっと座って見ていた。私たちの班は何の賞もとれなかった。……いじめが始まった。近くを通るとき、鼻をつまんで『くっせえ』という男の子がいると、まわりからクスクス笑う声が聞こえたりした。先生も、『そういう病気なんだからしようがないですね。みんな仲よくしなさい』と言いながらも、あまり深く関わろうとしなかった。だんだん学校にいる時間がつらくなって、ある日の休み時間、誰とも視線を合わせたくなくて、机に突っ伏していたの。そうしたら」

「『大丈夫?』って声がした。ワタルくんだった。ものすごく勇気を振りしぼって来たらしく、左右の手をかたく握りしめていた。一息ついてワタルくんは言った。あのときじゃんけんで僕が負けていたらよかった、いやそれより決勝戦のじゃんけんなんかやめて僕がやるって言えばよかった、そしたらこんなことにならなかった、ごめんって。口ごもりながら、つっかえつっかえ……やっとという感じでおしまいまで言い終わると、黙ってそばに立っていた。全然ワタルくんのせいではないのに、そんな優しい言葉をかけられて、私、なんだか泣きたくなった。ワタルくんの顔を見上げているうちに、気がついたら、目から涙が出て止まらなくなってしまったの」

「ワタルさん、いいやつだね」

 病室に、マルンどんの声が響く。みんな深くうなずいて、ワタルさんの顔を見る。ワタルさんは、ただ平和な顔で眠っている。

「そのあと、どうなったの。いじめはなくなった?」

 ひろの期待とは裏腹に、ひなこさんは寂しげに首を横に振った。その後の展開は、次のようなものだった。


「あっワタルのやつ、ひなこを泣かせたー。止めろよ、またシッコ垂れるぞ!」

 目ざとく見つけた男の子が騒ぎ立てた。 

「ひなこさんをいじめたらダメです!」

 騒ぎを聞きつけた先生が走ってきて、ワタルさんをしかった。ワタルさんは先生の目を見返した。

「ち、ちが……」

 ひなこさんが説明しようとすると、ワタルさんはハッとしたようにひなこさんを見て、

「いい、いい。何も言わなくていい」

 と言うなり、自分の机に戻って教科書やノートを全てランドセルにしまい込むと、教室からすたすたと出て行った。

「待ちなさい!」

 先生が大声で呼び止めたが無駄だった。教室中ざわめいた。そしてその日から、ワタルさんは学校へ来なくなった。ワタルさんの母が病で亡くなったと知らされたのはその一ヶ月後のことだった。ワタルさんは二度と教室へ戻らなかった。

 ひなこさんは両親の勧めで田舎の祖父母の家で暮らすことになり、転校した。祖父母の家は温かく迎えてくれ、転校先の学校ものんびりした雰囲気だったので、ひなこさんは救われる思いがした。友達もでき、極度の緊張癖もだんだんよくなった。粗相をすることもなくなっていった。時折、あのとき優しい言葉をかけてくれたワタルさんのことを思い出し、どうしているかなあと考えることもあったが、手紙を書くこともなかった。

 大人になって実家に戻り、社会人として働くようになってからも、ワタルさんに直接会う機会はなかった。ワタルさんのお父さんがやっている古本屋の前を通り過ぎることは何度かあったけれど、店に入って行く勇気はとうとう出せずじまいだった。カラスと楽しげにしているワタルさんの姿を偶然見届けただけで十分だと思い、わざわざ遠回りをして店の前を歩くこともなくなった。


19

 急に口ごもると、ひなこさんは苦笑いした。

「ああ私なんでこんな恥ずかしいこと、あなたたちに話してしまったのかしら」

 みんなの中に、聞いてしまって悪かったという空気が流れた。みんなの表情からそれを汲み取ったのか、ひなこさんは片手を振り、

「あなたたちが優しい、いい子だからね。それで私、つい、話したくなっちゃったんじゃないかな。って、まるで人ごとみたいだけど」

 今度は明るく笑った。

「ワタルくんのお父さんに君たちみたいな素敵なお友達がいること今日初めて知ったわ。なんだか私まで嬉しい」

 ひなこさんは腕時計を見て、

「あら、もうこんな時間。私の休憩時間は終わりだわ。それに、そろそろお医者さんたちが回診に見える頃だし。そろそろ失礼しないと」

「あっ待って」

 思わず、ひろは声をかけた。ひなこさんはドアのノブに手をかけたまま、振り返った。

「また会えますか」

 ひなこさんはにっこりして、うなずいた。

「私、ほとんど毎日この時間にワタルさんの顔をちょっとのぞきにくるから……。よっぽど忙しくない限りはね」

 ひなこさんが去ってまもなく、廊下で物音がし始めた。マルンどんが、

「お医者さんの回診だ! いつまでもここにいたらまずいんじゃない?」

「だな。ズラかろうぜ」

 サビケンが言うと、マルンどんが気を悪くした様子で、

「ちょっと何、その言い方。まるであたしたちが悪いことしてたみたいじゃない」

「いいから、いいから」

 イナがなだめて、まずその三人がドアから出て行く。アタマくんは振り返って、

「ワタルさん、お邪魔しました。また来ます」

 と頭を下げた。オバサナが、

「言ったって、どうせわからないっしょや」

 笑って言ったけれど、ひろにはアタマくんの気持ちが分かるような気がした。同じように頭を下げた。オバサナも黙って見ていたが、部屋を出る直前ペコッと頭を下げた。ひろは一番後ろについていきながら、もう一度振り返ってワタルさんの寝顔を見た。

「遅い!」

 ひろたちが出てくると、サビケンがにやっと笑い、

「回診、隣の部屋まで来てるぜ。ズラかるのに間一髪、間に合った」

「だから、悪いことしてるんじゃないって。ところであんたたち、何してたの」

 歩きながら、マルンどんが尋ねる。

「いやー、あたしたちワタルさんに挨拶してたんだよ。『お邪魔しました、また来ますってね』そこはちゃんと礼儀を尽くさねば」

 オバサナが得意げに答える。

「あ……。あたしもすればよかった」

 イナが口に手を当てて立ち止まった。マルンどんもはっとした顔になる。

「そうか……。そうだよね……」

 サビケンのほうはといえば、納得いかない顔で、

「お前ら、ばっかじゃねえの? 無駄無駄。何言ってもあの人には聞こえないよ。カンペキな植物人間なんだから」

 マルンどんがぽかっとサビケンの頭をたたいた。

「いて! 何すんだよ」

「全くデリカシーがないね。猿以前だよ、あんたは」

「なにを!」

「やめて、剣ちゃん」

 サビケンが反撃しようとするのを後ろから抱えこみ、ひろが言った。

「無駄じゃないかもしれないよ。ワタルさん、ちゃんと聞こえてたかもしれない……。眠っているワタルさんの目に、涙が浮かんでいたんだ」

 サビケンのみならず、全員がひろの顔を食い入るように見つめた。

「挨拶してから、最後にワタルさんの顔を見たとき、気づいたんだ。静かに眠っているのには変わりなかったけど、つぶっている目を見ていたら、ひとつ涙が浮かんで、そのうちつーって、流れていったんだ」

 みんな、なんともいえない顔をした。


 アタマくんの正確なメモのおかげで、今度は迷うことなく一階の広いホールにたどり着けた。みんな無口になってしまっていたが、玄関を前にしてマルンどんが口を開いた。

「これからどうする?」

「まずはあたし、トイレ行きたいわあ」

 オバサナが言うと、みんな口々に、

「あたしも」

「そう言えば、久しく行ってない」

 男女に分かれてそれぞれのトイレへ走って行った。再び元の場所で合流したとき、せいせいした顔でサビケンが、

「あーすっとした。こんなに長いことションベンしないで平気だったなんて、やっぱ妙だぜ」

 アタマくんは考えながら、

「うーん……。今朝家を出てから今まで、時計の上では半日位しかたってないんだよね。カラスになってる間の時間も入れたらそれどころじゃないけど。ほんとに不思議だ」

「……半日か。もう半月もお前らと一緒にいる気がするぜ」

「うんざり、とか?」

 からかうようにマルンどんが笑う。イナは、

「みんな少し疲れて来たのかな」

「だよねー。夏休みの自由研究にこんな過酷な労働、ないわっ」 

 オバサナが言い、みんなの笑いを誘った。笑いながらも、みんな若干のホームシックめいた気持ちがわいて来ているのを感じずにはいられなかった。

「いったん帰ろうか?」

 マルンどんがみんなの顔を見比べながら言うと、誰からともなく大きくうなずいていた。

「じゃあこれまでのこと、それぞれ考えてきて、それからまた知恵を出し合うってことでどうかな」

 アタマくんの提案に、反対する者は誰もいなかった。マルンどんが続けて、

「じゃあ今日はここで解散ね。明日またここで会おう。ひなこさんはちょっとずらしてお昼休み取ってるみたいだから、十二時半位でどう?」

「げっ。そんなに早くかよ。やる気満々だね。ゆっくり昼飯も食べられないじゃん」

 サビケンが抗議するのを、イナがとりなすように、

「あ……。でもそうしないとひなこさんに会えないなら、少し早めにご飯食べて来たらいいんじゃない? こうしている間にも、カラス仙人、困ったことになっているかもしれないんだし……なるべくなら」

「言うねーお前」

 サビケンが以外そうにイナの顔をつくづくと見る。オバサナが、

「イナだって言うときは言うさ。いいんじゃない、それで。ねっ」

 強くみんなを見回したので、なんとなくそれで決定ということになった。別れ際、アタマくんがメモ帳を見返しながら神妙な顔で言った。

「待って。家へ帰ってからのことだけど。もし親から『今日はどんなことをしたの』って聞かれたらどうしよう。あまりにたくさんのことがありすぎて、何を話していいのか、何を話してはまずいのか、分からなくなりそうだ……。信じてもらえそうもないことやカラス仙人、ワタルさん、ひなこさんの個人情報に関することは、大人たちには言わない方がいいような気がするけど、どうかな」

「個人情報って言えば……あの姉さん、ひなこさんって言ったっけ、あんなきれいな顔してションベ……」

 ポカリとマルンどんにたたかれて、

「いてえ!」

「絶対そういうこと言わないの」

「だな」

 さすがのサビケンも素直にうなずいた。

「じゃあ聞かれたら、何て答えればいいのかな。……カラスが元気に飛んでいるのを見てきた、とか?」

 イナが言うと、オバサナも、

「ミミズを食べるのを見たとか?」

「かーっ。それお前じゃんかよ」

 サビケンのツッコミに、オバサナは開き直って、

「何さっ。あんたも考えなよ」

 サビケンがうんうんうなりながら考え始めたのを尻目に、ひろは昔話をするように、

「カラスに詳しいおじいさんと仲良くなった……こんな出だしでどう?」

 すぐにアタマくんが、

「いいね。おじいさんはカラスの子を拾って育てたことがあるといって、可愛かった様子などを話してくれた」

 イナも明るい声で続けた。

「カラスの子はよくなついて、肩にのったり、人間の言葉を真似ておしゃべりもするようになった。……ほんとうにおりこうで、可愛い鳥だった」

「でも今は逃げてしまい、いないんだけどね」

 オバサナの言葉で皆ガクッとなった。マルンどんはかまわず面白そうに、

「おじいさんは楽しい思い出をそんなふうに私たちに聞かせてくれたので、私たちは嬉しくなった。……おじいさんは古本屋をやっているけど、『お休みにしなくてはならない用ができたから張り紙をしてほしい』って頼んで行ってしまった。それで、私たちだけでお店に行ってみたら」

 サビケンがここぞとばかり、意気込んで加わった。

「店は閉まってた。裏口にも回ってみたけど、開かなかった。困ってしまって、草わらの中を探すと、牛乳瓶を入れる古い箱が見つかった。箱の中に鍵が入っていたんで、その鍵を鍵穴に差し込んで回してみると……ジャーン! 開いたんだなあ、これが」

「サビケンの部分、却下」

 すかさずマルンどんがビシッと言い、サビケン以外の全員、同意した。みんなに説得され、いくらなんでも大人に伝えていい内容ではないということに、サビケンも納得した。

「そこは裏口から入れたと、さらりと言おう。じゃあ、表向きはこんな感じの内容ってことで」

 アタマくんのしめの言葉を持って解散となった。

 ひろと同じ方角へ歩きながら、サビケンがぽつんと呟いた。

「俺たち、どこへ流れていくんだろう」

 サビケンは、顔に似合わぬ詩的なセリフをはき、これまでになく心細げな哀愁をかもし出していた。


「おかえり」

 ドアが開いた。しょうすけくんがエプロン姿で、

「おう。朝早くからご苦労だったな。もうすぐおやつの時間だぞ。ドーナツ作ってたんだ」

 黄色いミトンをつけた片方の手をひらひらさせて笑った。居間から香ばしい、いい匂いがしてくる。

「わーい」

「手洗い、うがいな」

 後ろから声をかけられ、ひろは居間に入りかけたところを戻って、洗面所で手を洗い、ぶくぶくとうがいをした。しょうすけくんはあんまり細かいことは言いたくないらしいのだが、ひゃっふからちゃんとさせてねと言われているのだ。ひゃっふが外で働いて、しょうすけさんが家のことをやっているから、仕方がないのだとひろは思う。

 鏡に目をやると、後ろでしょうすけくんがニコニコして見ている。ひろはハッとして、

「しょうすけくん……」

 と言ってみた。

「おう、何だ」

 まだニコニコしている。

「今朝、……起こしてくれてありがとう」

「おう、何でもないぞ」

「今朝、……待ち合わせ場所まで送ってくれてありがとう」

「おう、どうした。そんなこと何でもないぞ」

「……今朝、おぶってくれてありがとう」

 しょうすけくんは頭をかしげてちょっと黙ったが、すぐに照れ笑いを浮かべ、

「何だよ今日に限って、ありがとうのオンパレードだな。ヘソがこそばゆくなるぜ。ほれほれ、ドーナツ食おうや」

 食卓を見ると、ドーナツが揚げ物用バットにてんこ盛りになっている。しょうすけくんは平皿を二枚持ってきて、ひろと自分の前に置いた。好きなだけ取って食べる方式だ。ひゃっふだったらこうはいかない。最初から二個小皿に入れて持ってくる。それ以上欲しがっても「ご飯が入らなくなるからね」と言われる。

 ひろは一個とって、ぱくんとかみついた。まだほんのりと温かい。外側がカリッとなって、砂糖が優しくまぶしてあって、かむごとに口の中で甘くとろけていった。

「おいしい」

 ひろが言うと、しょうすけくんは嬉しそうにニッと笑い、

「な?」

 自分も取って、むしゃむしゃ食べだした。あっという間に一個食べて、次のをもう食べ始めている。ひろも負けまいと、急いで最初のを食べ終わると二個目に手を出した。二人で夢中になってもぐもぐ食べ、飲み込んだ。しょうすけくんが四個目を、ひろが三個目を食べ終わったとき、たまたま目が合って、なんだかおかしくなり、どちらからともなく声を出してゲラゲラ笑った。

「食い過ぎたかなー。しょっぱいもの食いたくなった。あ、飲み物出してなかったな。出してくるか」

「僕、取ってくる」

 ひろは立ち上がって、冷蔵庫から牛乳と、ついでに昨夜の残り物のポテトサラダが入っている容器を持って来た。

「おっ気がきくじゃんか」

 しょうすけくんは喜んで、コップとスプーンを二個ずつ食器棚から出してくる。ひろが牛乳をつぐと、

「うまいうまい。ありがとよ」

 乾杯し、ごくごく飲んだ。ポテトサラダのほうは、それぞれスプーンを突っ込んですくっては、むしゃむしゃ食べた。ひろは叫んだ。

「うまーい」

「うまいなあ。こんな食い方して、ひゃっふには怒られるかもしらんけどな」

 エヘヘヘヘ、とさっきとは違った笑い方でまた笑い合った。ひろは何もかもしょうすけくんに話してしまいたくなった。

「今日の研究はどうだったい」

 ひろの気持ちを知ってか知らずか、しょうすけくんはのんびりと聞いてきた。ひろはドキッとしたが、そこはひとつ深く息を吸い込んでから、さっきみんなで用意したアタマくん言うところの「表向きはこんな感じの内容」を心の中でたどり始める。

「……面白かったよ」

「へえ、面白かったのか」

「カラスの鳴き声が上手なおじいさんと仲良くなった」

「おうそうか。仲良くなれたのか」

「うん、そうなんだ。おじいさんはカラスの子を育てたことがあるんだって」

 しょうすけくんは目を丸くして、身を乗り出した。

「えっ、そいつぁすごいな」

 ひろは嬉しくなって得意気に、

「すごいんだ。カラスの子はなついて、肩に止まったり、人間の言葉を真似してしゃべるようにもなったんだって」

「ひゃー、ほんとか。俺も見てみたいもんだな」

 しょうすけくんがわくわくした目を向けてきたので、ひろは少し悲しい気持ちになり、

「……駄目なんだ、僕たちも見れなかった。逃げちゃったんだって。今は、もういないんだ」

「……そうだったのか」

 しょうすけくんも心底残念そうな顔になってテーブルに目を落とした。ひろはみんなとの約束を思い出しながら、もっと伝えたい衝動と戦っていた。かわいそうなワタルさんのこと。いなくなったカラスの子を必死で探して、ワタルさんをこの世界に取り戻す手がかりを探しているカラス仙人のこと。お見舞いに来ていたひなこさんのこと。

――全部しゃべってしまいたい。

 テーブルの下で、膝に置いた両手を固く握りしめた。

「どうした? 食い過ぎたか」

 ひろが顔を上げると、しょうすけくんがちょっと心配そうに笑いかけた。

「あのね」

 そのとき、インターホンが鳴った。しょうすけくんが出ると、

「ただいまー」

 まろやかな声が響く。

「ひゃっふだ!」

 ひろは明るく叫び、椅子からはじけ降りる。ひゃっふが帰ってくると、いつも自然とこうなってしまう。しょうすけくんがあははと笑い、ひろの手を取って一緒に玄関へ向かう。

「ああ疲れたー。ひろ、今朝は寝坊して起きれなくてごめんね。しょうすけくん、代わりに行ってくれて本当にありがとう。助かったよ! で、ひろ。自由研究はうまく進んだ? 困ったこと起きなかったの? 『おじいさん怪しい人じゃなかった』ってしょうすけくんから聞いたから、まあ心配はしてなかったけど」

 ひろを見るなり、ひゃっふは一気にしゃべった。ひろははっとしてしょうすけくんの顔を見た。しょうすけくんはニコニコして居間へ戻りながら、

「とぼけたじいさんだな。木からクエーって落ちてきたり、女の子に飴をねだったりしてな」

「怪しいどころか、どうも子供たちにいろいろ言われて、たじたじとなっている感じだったんだってね」

 ひゃっふがおかしさをこらえられないように口に手を当てて、くすくす笑う。

「あれからずっと見ていたの……?」

 ひろがおそるおそる聞くと、しょうすけくんは、

「ずっとって言っても、じいさんがいなくなるぐらいまでだよ。みんなとじいさん何かワイワイしゃべってたろ。でも短い時間でじいさんいなくなっちゃったよね」

「短い時間?」

 ひろは聞き返した。

「だろ? ああそうそう、ひろの担任の先生、あの小太りの。先生が走ってくるのに出くわしたんで、挨拶したんだ。参観日に行ったことあったからな。『やあ、お互い早起きですね』とかなんとかしゃべって。先生が行っちゃってからまたひろたちの方を見たら、もうあのじいさんはいなくて、お前たちだけでなんか話し込んでた。ここまで見届けたんだから、ひゃっふの代わりのスパイ大作戦ももういいかなーと思って帰ってきたんだ」

 ひろの脳裏に、アタマくんがさっき言った言葉がぐるぐる駆けめぐっていた。

『本当に、なかったことになってるんだ』

「どうしたの、ひろ。ぼうっとした顔して。疲れたの?」

「朝早くから午後までずーっと自由研究やってたんだ。そりゃ疲れるだろ。えーっと。帰って来たのが三時ちょっと前。ってことは、朝の四時からだから……わあ、半日近く外にいたんだ。すっげえ。頑張ったなー」

 しょうすけくんが今更ながらに驚きの声を上げた。

 ―― そんなもんじゃない。カラス仙人と山に飛んで行ってからの時間……なかったことになってる時間も入れると、もっと、ずっとずっとだ……。

 ひろは心の中でつぶやいたが、ひゃっふはそんなことには思いもよらないで、

「どんな活動してたの。さぞかし立派な研究ができるんだろうな。楽しみだねえ。ちょっと教えてよ」

 問いたげな目を向けて来た。ひろは下を向いた。

「まだ秘密。まだ完成してないから。完成したら教える」

 自由研究の話題はそれで打ち切りになった。


 その晩、ひろは夢を見た。暗闇の中を歩いている。

 ―― おかしなとこだなあ、誰もいない。

 まわりには何にも見えない。

 ―― ひろくん。

 声が聞こえる。

 ―― 誰?

 ひろはきょろきょろ見回した。

 ―― 僕、ワタルだよ。

 ひろは聞き返した。

 ―― どうしてワタルさんが僕に会いに来たの? 僕のこと知ってるの?

 ―― ずっと君を見ていたんだ。父さんのこと、興味を持って追いかけ始めたろ。あの頃からずっと見ていたんだ。

 ―― えっワタルさん怒ってる? カラス仙人、あ、ワタルさんのお父さんのことだけど、追いかけたりして悪かった? 悪気があったわけじゃないんだ。ご、ごめんなさい!

 ひろはワタルさんに背を向けて、一目散に駆け出した。思わず声が出た。

「うわあー」


 ひろはガバッと起き上がる。子供部屋のベッドの上だ。ドアが開いて、ひゃっふがのぞく。

「どうしたの。こわい夢でも見たの」

 ひろはぼんやりとひゃっふを見て、

「夢か……」

「大丈夫だよ。こわいことなんか何もないから。安心しておやすみ」

 真っ暗だけど、声で微笑んでいるのがわかる。ひゃっふの顔が近づいて、おでこにふわっとひゃっふの唇がふれた。

「ぷ」

 と、ひゃっふの声。小さい頃からほっぺたやおでこにこの「ぷ」をしてもらうと、ひゃっふのいい匂いとあったかさに包まれたみたいで安心する。それからひゃっふは布団の襟のあたりをぽんぽんとたたくと、静かに出て行った。

「夢か……」

 ひろはもう一度つぶやいた。

「大丈夫。夢だ、夢だ……」

 ひろは自分に何度も言い聞かせながら、また眠りに落ちていった。


20

  ――夢だ。夢だ。

 眠りの中でもひろは言っていた。また暗闇を歩いている。

  ――どうして逃げたりするんだい。

 振り向くと、ワタルさんがいる。困りきった様子で、苦笑いしてついてくる。

  ――う、うわ……。

 ひろから叫び声は出なかった。ワタルさんが後ろから、ひろの口を両手で押さえたからだ。強い力ではなかった。優しく、包み込むような温かい手だった。

  ――大丈夫だよ、何にもしない。君と話したいだけなんだ。

 ワタルさんの声が静かに響いてくる。

もがくのをやめると、ワタルさんはひろを自由にしてくれた。そっと見上げると、澄んだ目をした若者が立っていた。

  ――どうして?

  ――どうしてかな。なんだか友達になれそうな気がしたんだ。駄目かな?

 ひろはぶんぶんと首を振った。

  ――もちろん、いいです。僕なんかでよかったら。

 ワタルさんはふっと笑った。

  ――大人っぽい言い方だね。君は、気づかいのできる子なんだね。

  ――そ、そんな。えへへ。

 ひろは赤くなって、子供っぽく笑った。

  ――それでいい。僕は君より年食ってるけど、なかみはそんなに変わらない。僕と話すときは、丁寧な言葉なんか使わなくていいよ。サビケンや、マルンどんや、アタマくんや、オバサナや、イナちゃんと話すのとおんなじようにね。

  ――み、みんなのこと、知っているんですか……。

 ひろは思わず聞き返したが、すぐに首を振り、言い直した。

  ――えーと。みんなのこと知ってるの?

 ワタルさんはクスッと笑った。

  ――ありがとう。友達にしてもらえたって感じがする。……僕はずうっとあの病室で眠っているように見えるけど、世間のことはほとんど見たり聞いたり出来ているんだ。どうしてか分からないけど。あの事故の日、救急車で病院に担ぎ込まれて緊急治療室に運ばれていくあたりから、僕は傷だらけの体から抜け出して、ふわふわ高いところに浮かびながら、下で起こることを眺めていたんだ。自由気ままに空中を移動できるって愉快だよ。鳥みたいにね。そうなってからは、父さんの生活する様子なんかを、ちょくちょく上から眺めていた。洗濯をしたり、食事をする父さん。古本屋の店番をする父さん。僕を見舞う父さん。そうしているうちに、父さんに関わって君が現れた。君が父さんに興味を持ち始めてサビケンに話したり、後をつけたりしたのも知ってるんだ。君たちの自由研究のことも。ああそうだ、トド先生のこともね。

 ワタルさんはトド先生の名前を出すと、思い出し笑いした。

  ――あんな先生に僕も習いたかったな。

  ――え、そう?

 ひろは自分たちの先生がほめられて、なんだか得意な気分になった。ワタルさんは遠くを見るような目をして微笑んだ。すると、まわりの景色がうっすらと水色に染まってきた。

  ――うん。面白くて、あったかいな。偉そうじゃなくて、いい。

 ひろは元気づいて言った。

  ――あ、僕もそう思う。お腹もでっぷりしてていつもおんなじ赤いジャージ着てるけど、面白い先生だよね。

 二人は並んで歩いて行った。いつの間にか真っ暗闇ではなくなって、青くかすんだ景色の中にいた。空が薄い青、彼方の山並みがやや濃い青。近くの家並みや木は暗い青緑色。地面は茶色が混ざったような青。どれもこれも青色だ。ひろはワタルさんの顔を見上げた。

  ――どうしたの。じっと見たりして。

 ワタルさんが目で笑う。

  ――ワタルさんは青くない。僕も青くない?

  ――うん。ちゃんとしたひろくんの色をしているよ。ちょっと茶色がかった黒い髪、元気そうな肌の色、きらきら光る黒い目、だいだい色の口、黄色いパーカー。ジーンズ、白が汚れて土の色っぽくなったスニーカー。

 ひろはくすくす笑いながら、ワタルさんに習って言った。

  ――ワタルさんも、ちゃんと色がついてるよ。さらさらした黒い髪、かっこいい眉毛と目も黒い。日に焼けてない顔、すらっとした体、青と緑の間の……そうだな、きゅうりの内側みたいな薄い緑色をした上着と、茶色のズボン、黒い靴。

 ワタルさんは嬉しそうにひろを見た。

  ――僕が見えるんだね。誰かに自分のこと気づいてもらえるって嬉しいことなんだなあ。久しぶりだよ、こんな感覚。

 水色に薄まっていく景色を歩きながら、ひろは聞いた。

  ――ねえ。これは僕の夢の中なんだよね。どうやって来たの?

  ――どうやってかなあ……。ひろくんが寝るのを上から見ていたら、ひろくんの夢が雲のようにふわーって浮かんで、巨大なおまんじゅうみたいにふくらんだんだ。小さな扉があったから、開けて中へ入った。そうしたら、ひろくんが一人でまっすぐ歩いているのを見つけたから、思いきって話しかけてみたんだよ。……迷惑だった?

 ひろは首を振った。

  ――全然。ワタルさんに会えて嬉しい。さっきはびっくりしただけ。……へえ、でも面白いなあ。僕の夢って大きなおまんじゅうみたいなんだ。扉があって、出入りできるんだ。へえー。ちっとも知らなかった。

 つくづく感心して言うと、ワタルさんはにっと笑った。

  ――誰の夢に入ろうとしても、そうそう入れてもらえるもんじゃないんだ。ひなこちゃんの夢なんか、かたくて四角い建物みたいで、入り口が見つからなくて、全然入れないんだ。

  ――ひなこさんの夢にも入ろうとしたの。

 ワタルさんはひろの顔を見た。

  ――うん、でも無理だった。……僕の話、聞いてくれるかな。結構長くなるかもしれないけど。

  ――大丈夫だよ。夢だから。

  ――それもそうか。

 二人は声を出して笑った。笑い声が空に昇っていくと、まわりの景色が薄い桜色に変わった。

  ――ああ、いい気分だ。友達と一緒にいるって、ぽかぽかする感じがするな。ありがとう。

  ――え、いやそんな。

 ひろは照れて小さく首を振りながら、下を向く。でも嬉しかった。ワタルさんの声が響く。静かな音楽のよう。

  ――ひなこちゃんには伝えたいことがあるんだ。僕のせいで、苦しんでいるから。

  ――苦しんでる? ワタルさんのせいで?

 ひろは目を丸くして、

  ――そんなことないと思う。ひなこさんから話を聞いたもの。ひなこさんは子供の頃、ワタルさんに優しい言葉をかけてもらって嬉しかったみたい。

  ――ああ、あのときのこと。あのとき僕は、逃げだんだ。ひなこちゃんを泣かせたって先生やみんなに誤解されて、でも言い訳するのもまたひなこちゃんの立場をまずくしてしまいそうで、どうしていいか分からなくなって教室を出た。それに何だか、絶望しちゃったんだよ。

  ――ぜつぼう?

 ワタルさんは寂しそうに笑った。

  ――子供ながらにね。他の子に徹底的に残酷になれるクラスメートのみんなに救いのない、底なしの暗闇に落とされたような気分になっちゃったんだ。あのとき、もう僕はあの教室にいるのは無理だと思ったんだ。絶対に学校に行かないと決めた。責任放棄して逃げちゃって、ひなこちゃんには悪かったけど。でももう、学校へ行くように父さんから言われただけで、ブルブル震えて動けなくなった。母さんは病気で入院していたから、毎日お母さんの顔を見に行くのが救いだったけど、その母さんも手術後の容態が思わしくなくて、あっという間に亡くなってしまった。もう僕は本当に自分のことで精一杯で、学校へ戻ってひなこちゃんの味方をしてあげられる力なんて、どこにも残っていなかったんだ。

 今度は苦笑して、

  ――でも、ひなこちゃんが転校して、元気になって本当によかった。

 ひろはうなずいた。

  ――ね。だから、ひなこさんはワタルさんのせいで苦しんでることなんて、何もないんだよ。

 ワタルさんは一瞬黙り、やがて悲しそうな顔になった。

  ――君たちの知らないことがまだあるんだよ。

  ――知らないこと?

 ひろとワタルさんが立ち止まった場所は相変わらず一面かすんだままだが、空気の色がゆっくりと薄いグレーに染まっていった。照り返しで、ワタルさんの顔もくすんだ灰色がかって見えた。ひろはワタルさんがこのまま空気と同じ色になって、消えていくんじゃないかと心配になった。

  ――ワタルさん、おいて行かないで。

 ワタルさんはキョトンとした顔でひろを見た。

  ――大丈夫、ここにいるよ。ひろくんとまだ話したいからね。

  ――話が終わったら行ってしまうの? 僕、ここで一人ぼっちになったらどうすればいいの。

  ――一人ぼっちになんかならないさ。ひろくんは夢から目が覚める。そうしたら、いつも通りのおうちにいて朝が始まるってわけ。

  ――そうか……。ワタルさんは?

  ――僕は、どうかな。自分でもよく分からない。でも消えるわけじゃない、いることはいるんだ。今まで通りだと、またふらふらと空中を漂いながら下を見たり、何も考えることがなくなると体に戻ってじっと休んだり。先のことは僕もよく分からないけど……。まあ、ややこしい話はここまでにして、さっきのことだけど。

  ――さっきの……。ああ、僕たちが知らないことがまだあるって。

  ――うん。これから話すよ。聞いてくれるかい。

 ひろはもちろん、という意味を込めて力強くうなずいた。

  ――事故のあったときのことなんだ。あのときのことを、ひなこちゃんは知ってる。

  ――知ってる? ひなこさんが車を運転していたの? ひなこさんは僕たちに嘘をついていたの?

 ひろは興奮して聞き返した。

  ――そうじゃない。言えなかっただけだと思うよ。落ち着いて最後まで聞いてくれるかい? 質問はそれからにしてくれると助かる。

 ひろは頭をかいてうなずいた。

  ――わかった。ちゃんと最後まで聞くよ。

  ――ありがとう。僕、話すのはあまり得意じゃないからつっかえたり、言い間違えしたりもするけど。

  ――大丈夫。僕もそうなんだ。

 安心したようにワタルさんは微笑んだ。それから、ゆっくり話し始めた。初めはワタルさんの声だったが、聞くうちに、ひろの目の前に物語が広がっていった。そして、空気のように透明になった自分が、話の流れを静かに感じ取っていた。


 車を運転していたのは、ひなこさんの姉の翔子さんだった。翔子さんは成績も学校生活も全て順調に育ち、ひなこさんは幼い頃からいつも両親に比較されていた。けれども、姉妹の仲は悪くなかった。翔子さんはひなこさんがしょんぼりしているとおかしな顔をして笑わせようとしたり、一緒に折り紙をしようと誘った。ひなこさんが失敗をすると親に隠そうとしたり、かばったりした。

 ひなこさんが祖父母のいる田舎に行ってからは、寂しがったのはむしろ翔子さんのほうだった。折に触れては電話したり手紙を書いたりして、窮屈な家の様子を愚痴ったり、他愛のないおしゃべりで姉妹としてのひとときを楽しんだ。

 姉妹は成長し、翔子さんが大学の医学部に入学した春、ひなこさんはお祝いのために一度、実家に戻った。両親はもうひなこさんにあれこれ言うことはなくなっていた。それには、翔子さんの力が大きかった。心理学の本なども読んでいた翔子さんは、環境がどんなに妹の精神的発達に影響したかを繰り返し説明し、厳しくとがめるだけの接し方はお互いのためにならないと、事あるごとに伝え続けていたのだった。

 そのようなわけで、実家は以前より過ごしやすくなってはいたが、ひなこさんとしては、高校を卒業するまではそのまま祖父母の元で暮らす方を望んだ。田舎に帰る間際、翔子さんがいつになく真剣な様子で言った。

「ひなこもあと二年で卒業だね。将来何になりたいの?」

 ひなこさんは首をひねった。

「考えたことなかった。……できれば、お姉ちゃんのそばで働きたいな。でも私、猛勉強も苦手だし、血を見たりするのも得意じゃないからなあ」

「じゃあ、私がいつか病院を開くから、事務とか窓口とか、そこで働く人になるっていうのはどう? ひなこの優しい笑顔は、どんな人も幸せな気分にさせてしまうよ。やりがいのある仕事じゃないかな。考えてみて」

 ひなこさんは嬉しかった。考えれば考えるほど、翔子さんの描いた未来が楽しみに思えた。田舎の高校を卒業して実家へ戻ると、専門学校で勉強した。ひなこさんが専門学校を二年で終えたとき、翔子さんはまだ医学生だった。ひなこさんは祥子さんが通う大学の付属病院で事務の採用試験を受けた。採用が決まったとき、誰よりも喜んでくれたのは祥子さんだった。うっすら目に涙を浮かべて、

「おめでとう、よく頑張ったね。社会人としてはひなこの方が先輩になるんだね」

「ありがとう。嬉しくて信じられない。お姉ちゃんのそば働きたいっていう一心で、無理して頑張った甲斐があった」

 ひなこさんはエヘヘと照れ笑いをし、翔子さんは微笑んで妹の両肩に手を回した。姉妹は抱き合って大泣きした。見守る母も涙ぐみ、父も感無量の顔をしていた。

 事故が起きたのは、ひなこさんが働き出して二年たった春のことだった。翔子さんは大学を卒業し、国家試験にも受かり、研修医としての生活を始めたばかりだった。同じ職場なので、廊下で顔を合わすこともあり、お互いにガッツポーズを交わしたりしたが、翔子さんが過労気味で次第にやつれていくのがひなこさんは気がかりだった。

 翔子さんが当直勤務明けにさらに一日の勤務を終え、車を走らせていたある夕方のことだった。前方の横断歩道で信号が赤に変わった。ブレーキをゆっくり踏みしめる。停車。右側から若者が渡り始める。肩に何か乗っている。黒い鳥のようなシルエット。え、鳥? 翔子さんは目をこする。と同時に、突然、黒い影が弾丸のようにこちらに向かってきた。どんどん迫る。鈍い音と衝撃。鳥はフロントガラスにぶつかったのに痛みを感じもしないのか、そこにへばりついた。鋭い爪でワイパーをぎっちりと捉え、離すまいとしている。黒い翼をいっぱいに広げ、フロントガラスに何度もたたきつける。翔子さんは動揺した頭で考える。何だろう、この邪悪な鳥は。憎しみに満ちた目でこちらを見すえ、キーキーいっている。

「やめろっ」

 若い男の人の声。疲労続きの翔子さんの意識がうっすら揺らぐ。ブレーキに置いた足から力が抜けて、ゆっくり車が動き始める。

「いけない」

 はっとして、翔子さんはブレーキを思い切り踏みしめる。車は猛スピードで発進し、男の人を跳ね飛ばす。誤ってアクセルを踏んだのに気づき、あわてて翔子さんはブレーキに踏みかえる。やっとのことで車を止めて飛び出し、男の人のそばに駆け寄る。血の海、閉じて開かないまぶた……。

「大丈夫ですか」

 声をかけたが、ぐったりしていて意識はない。すぐに、医師としての冷静さが戻った。驚いて飛び出してきた近所の人に、

「救急車呼んで!」

 と大声で叫ぶなり、呼吸状態を確認し、止血を試み、救護に専念した。人だかりの中、パトカーや救急車が駆けつけ、けが人は病院へ、翔子さんは警察へ連れて行かれた。カラスはどこかへ行ってしまった。

 警察の取り調べで「カラスがフロントガラスにくっついて運転を邪魔した」と説明したが事実とは受け入れられず、業務上過失傷害で罰金刑を受けた。目撃者もなく、まだその頃はドライブレコーダーも一般的ではなく、防犯カメラが映像を捉える地点でもなかった。翔子さんの言葉を裏づけるものは何ひとつ存在しなかった。

 翔子さんは事実関係が受け入れられなかったことよりも、自分の不注意で人をはねてしまったこと、被害者が意識を失ったままの植物状態になってしまったことに大きな衝撃を受けた。被害者が自分の勤務先の病院に搬送されていたのを知った。見舞いにも謝罪にも行ったが、父親から冷たく追い返された。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 一緒についてきた妹が支えてくれた。ひなこさんは患者の顔を見たときから、何か考え込んでいるようでもあった。翔子は弱々しく答えた。

「もう私、医者をやっていけそうな気がしない」

「お姉ちゃん……」

 翔子さんはその日を境に、病院を欠勤するようになった。事故により訓戒は受けたが解雇されることはなかったので、勤めようと思えば続けられたのだが、翔子さんにはその気力が失せつつあった。両親もひなこさんも慰めたり励ましたりしたが、翔子さんの心にはなかなか届かなかった。責任感が強いだけに、罪悪感が強すぎた。

 ひなこさんはある日、翔子さんのそばに来て言った。

「あの人、私が小学生のときの同級生だと思うわ。名前が同じだったからもしやと思ったんだけど、顔を見たら、やっぱり面影が……」

 その言葉に、翔子さんは目を大きく見開いて妹を見返した。

「私、毎日、病室に誰もいないときを見計らって、ちょっとだけ顔を見てくるようにしているの。とても穏やかないい寝顔をしてるわ。なんだか、いつか目覚めるような気がする。目覚めたら真っ先にお姉ちゃんに報告するから」

「ありがとう……」

 そこにはひなこさんが今まで見たこともない、心ここにあらずの姉の姿があった。ひなこさんは胸を打たれて、

「ねえお姉ちゃん。お姉ちゃんのせいじゃない。誰だって、突然カラスが目の前に飛びかかって来たら、気が動転してしまうと思うわ。ましてやあの日はお姉ちゃん、激務に追われて、過労気味だったもの。もう自分を責めないで」

 翔子さんは力なく笑った。

「……ありがとう。ひなこだけよ、私の言葉を信じてくれるのは。でもね、日に日に思えてくるの。カラスがどうとかじゃない。とにかく私はあのときブレーキから足を離した。そして、アクセルを力一杯踏みしめてしまった。平静さを失ったからよ。いくらパニックに襲われたからって、いざというとき簡単に平静さを失ってしまうような人間に、人の命が救える? そんな人間に医師をする資格がある?」

「……人間だもの。誰だって間違うことはあるわ」

 力なく答えたひなこさんに、翔子さんは激しく首を振った。

「私の理想とする医師はそうじゃないっ」

 次第に翔子さんは寡黙になり、家に閉じこもるようになった。数ヶ月後、勤めを辞めて、ふらりと海外に行ってしまった。家族の誰も、翔子さんを引き留めることはできなかった。


21

 ひろは唐突に目覚めた。ひゃっふの大きな目が覗き込んでいる。

「わっ」

 ギョッとしてはね起きると、ひゃっふの方も大きくのけぞって、

「こっちもびっくりした。どうした? ゆうべのこわい夢が続いていたの?」

 二人ともパジャマのままである。

「しょうすけくんは」

「起きて、もうご飯作ってくれてるよ」

 ひゃっふは子供部屋の少し開いたドアの向こうに顔を向けて見せた。美味しそうなオムレツの匂いが漂ってくる。

「ああ、ワタルさんはもう行っちゃったんだ……」

 うつむいてつぶやくと、ひゃっふが、

「ん? 何だって」

 と聞いてきたので、ひろはひゃっふの顔を見て、

「いや、えへへ。何でもない」

 ごまかしながら、ベッドから出ていった。


 鉛筆をくわえ、ひろはノートにこれまでのことをまとめてみようとした。ひゃっふはもう仕事に行ったし、しょうすけくんは部屋中掃除機をかけてから買い物に出かけた。

「晩御飯の材料買いに行くけど、ひろも一緒に行って選ぶか? それとも勉強してるか」

 聞かれて、ひろは「勉強する」と答えた。

しょうすけくんと買い物をするのは面白いこともあるけど、今は何だかそれどころではない気がした。

――算数とか国語の勉強しなくても、自由研究のこと考えるのだって、勉強だよね。

 自分で自分に言い訳してみる。しかし書き出そうとすると、あまりにもいろいろなことがあって、わけがわからなくなってしまう。ノートの真っ白な頁に向き合ったままで、一行も書き始めることができない。

――そういえば、マルンどんがまとめてくれた計画表があったっけ。

 机の上から二段目の引き出しをゴソゴソやると、シールや折り紙に混ざって、小さく畳んだ紙切れが出てきた。クシャクシャになっているのをランドセルの底から救出し、しまっておいたのだ。取り出して、もう一度、じっくり読んでみる。


 第三班・夏休み研究のテーマ

 「カラス仙人の謎を解く」

 活動計画

 ①跡を追跡する

  (所要日数……三日。三つのグループに分かれ、時間ごとに担当すること)

 ②すみかを見つける

  (所要日数……右の活動中になされる。よってプラス0日)

 ③話しかける → 友達になる。

  (所要日数……一~三日。全員で参加すること)

 ④カラスの鳴き声を習う。

  (所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日) 

 ⑤本当にカラス仙人なのか謎を解く。聞いてダメなら一緒に行動して推理すること。 

  (所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日)  

 ⑥まとめ・考察

  みんなで話し合って研究をまとめる。

  (所要日数……一日)                 


「……こんなの、軽く超えちゃってるよね」

 思わずため息が出た。

「それどころかはるか彼方に行っちゃってるよ……ほんと。僕たち、どこまでいってしまうんだろう」

 急に不安なような、お腹にぽっかり穴があいてしまったみたいな気持ちがした。カラスになって初めて空に飛び上がったときの感覚にも似ている。ありえない、この先どうなるかわからないというような気持ち。しばらくぼうっとしていた。電話の音がして、ひろはビクッと飛び上がった。出ると、なじみ深い声がした。

「おう、ひろか。一晩寝たら、だいぶ元気が戻ったぜ。ところで今日のことだけど、行く気ある?」

 ひろは絶句した。ようやく息をついて、

「何言ってるの、サビケ……剣ちゃん」

「サビケンでいいぜ」

「サビケン。『行く気ある?』なんて言ってる場合じゃないよ。行かないなんてありえない」

 サビケンは面白そうに、

「おっ頼もしい。ひろがビビってるんじゃないかってちょっと心配してたんだ。やる気満々だな」

「そっちこそ昨日、弱音はいてたじゃん。俺たちどこへ流れていくんだろう、なんてらしくないこと言っちゃって」

「え」

 サビケンはちょっと口ごもった。恥じているのかもしれない。

「……まあな。でもやっぱ、行かないって選択肢はないよな」

 二人は一緒に行くことにした。ひろはしょうすけくんが早めに作ってくれたお昼ご飯を食べると、

「チャーハン美味しかった、ごちそうさま。行ってきまーす」

 とせわしなく玄関を飛び出した。しょうすけくんが大声で、

「行ってこーい」

 と送る声が聞こえた。

 サビケンと一緒に歩きながら、ひろは聞いてみた。

「ねえ。昨日、なんか夢見た?」

「ああ、アンパンをいっぱい食った夢見た。うまかったなー」

「……そっか」

「ん? なんかあった?」

 サビケンがけげんそうにひろの顔をのぞき込む。ひろは下を向いたまま、

「ううん、今はいい。長くなるから。後で話す」

 二人がロビーに着くと、他のみんなはもう来ていた。

「おっ。感心、感心。誰もサボらなかったな」

 サビケンが大きな声で言った。すかさずマルンどんが、

「偉そーに。三分遅れてよくゆーよ」

 言い返したのは、一晩寝て元気を取り戻したらしい。昨日はげっそりした様子だったが、今はさわやかに笑っている。

「みんなよく眠れた?」

 ひろがみんなの顔を見回しながら言うと、

「うん。昨日は勉強をちゃんとやってから寝たけど、よく眠れたよ」

 と、アタマくん。

「あたしは妙にお腹がすいて、おいなりさんを五個と豚汁、夕ご飯の後にはアイスクリームを食べて寝たら、ほんとぐっすり眠れたわー。夢も見ないぐらい眠ったわー」

 オバサナが満ち足りた様子で答えたので、思わずひろはつぶやいた。

「そっか。夢見てないんだ」

「あっ」

 直後、オバサナが大声で叫び、

「思い出した、夢見たよ。六個目のおいなりさんを食べて、ドーナツも山ほど食べた夢だった」

「……ああ、そう」

「あたしは研究発表うまく行って、トド先生にうんとほめられてる夢見た。『マキくん、あんなにまとまりのない奴らを率いてよくぞ立派な発表に仕上げたな』って」

 思い出しながら、マルンどんは得意げに上を向く。

「夢の中まで偉そうだな」

 サビケンは、つっこむ気にも慣れないらしい。

「僕の夢は音もなく何もなく、真っ白だった」

 と、アタマくん。ひろは思わず聞き返す。

「真っ白?」

「うん。おかげで目が覚めたら、疲れが取れてスッキリしてたよ」

「か、かわった夢の見方をするんだね」

 ひろたちのやりとりをそばで見ながらイナはもじもじしていたが、やっと口を開いた。

「あたし、カラスの子の夢見た……」

 ひろは意気込んで尋ねた。

「どんな夢? 実は、僕もワタルさんの夢を見たんだ」

 みんなの注意がイナとひろに集中する。全員ロビーで棒立ちになった。お昼時、ロビーにはたくさんの人が足早に出たり入ったりしていた。立ち話をしている子供達に不審げな目を向ける人もいれば、すれ違いざまぶつかって行く人もいた。

 イナはまわりを見回しながら、

「一言で言い表せそうにない……。長くなるから後でもいい?」

 ひろもうなずいた。

「僕のもすごく長い話になりそうだから、後にしたほうがいいね」

「ええー。今知りたい。ちょっとだけでも教えてよ。ねえ、予告編だけでも」

 オバサナがイナに手を合わせる。イナが困った顔をする。マルンどんとサビケンも黙ってその様子を眺めているところを見ると、ともに好奇心を抑えきれないのかもしれない。アタマくんがきっぱりと言った。

「冷静になろう。二人の夢、何か意味があるかもしれない。大事な話だから、後で落ち着いて、ゆっくり聞くのがいいと思うよ。とりあえず今は、ひなこさんとワタルさんに会いに行った方がいいんじゃない? 時間制限があるんだから」

 みんな納得せざるを得なかった。


 ワタルさんの部屋に行くと、もうひなこさんは来ていた。

「こんにちは」

 にっこり笑いかけてくれた。「こんにちは」と返す声が上がる中、ひろは昨夜の夢を思い出して、すぐに声が出なかった。

「どうした、ひろ。かたまって」

 サビケンが肩先でつつく。ひなこさんも不思議そうな顔をする。ひろはハッとして、

「あ、ごめんなさい。ひなこさん、おはようございます」

「おはようじゃないっての」

 サビケンが笑う。ひなこさんに、

「おかしいんすよ、こいつ。こんな目をしてぼーっとして」

 目と口を半開きにして、ゾンビのような顔を向けて見せた。笑い声が病室に響く。

「そこまでおかしな顔してないと思うけど」

 ひろは抵抗しつつも、ひろはひなこさんが明るく笑っているのを見て少しほっとした。ひなこさんは少し脇へ寄って、みんなにワタルさんの顔が見えるようにした。

「今日もいい寝顔よ」

 アタマくんが枕元に近づいて頭を下げた。

「ワタルさん、こんにちは」

 みんなもそれに習って頭を下げ、つられたように口々に「こんにちは」と言った。静かに閉じた瞼、口。唇の両端がほんのかすかに上がっているようにも見える。

「いい夢でも見てるのかな」

 マルンどんがつぶやく。ひろは昨夜会ったワタルさんの記憶があまりに生々しくて、そんなのんきなものじゃないよと説明したくなった。口を開きかけたが、うまい言葉が見つからない。

「僕たち、ワタルさんの顔を見に来てそれで満足してるわけにはいかないでしょう」

 アタマくんが冷静かつ的確に発言した。ひなこさんはアタマさんを振り返って、

「何か事情があるのね。私に出来ることがあるかどうかわからないけど、聞かせてくれるかしら? 昨日はあまり時間がなくて、おまけに私ばかりしゃべっちゃって悪かったわ」

「そんなこと」

 アタマくんは首を振ってから、説明を始めた。

「僕たち、ワタルさんの目を覚ますためにワタルさんのお父さんが手掛かりを探すのを手伝いたいんです。昨日、ひなこさんのお話を聞いて、ますます僕たちにも何か出来るんじゃないかって気がしてきたんです」

「えっそうなの?」

 すっとんきょうな声でサビケンが叫ぶ。

「なんか俺たちに出来るって、マジ? 俺、ちっともそんな感じしないで来たんだけど。やりかけてはみたものの、どうせ俺たちには無理ってゆーか。どっちかっていうと、やけになって仕方なく来たってゆーか」

 ひろは内心、サビケンの頭の中は一体どうなっているんだろうか、と思ってしまう。さっき「行かないって選択肢はないよな」って言っていたくせに。ひろがじいっとサビケンを見つめていると、サビケンは言い訳のようにごもごも言った。

「……まあ俺も、揺れ動く胸の内があるんだよ」

「知ったことかい」

 マルンどんが乱暴に言い放つと、サビケンを脇へ押しやった。

「こいつの言うことはほっといて。そうなんです、あたしたち手掛かりを探してるんです」

「手掛かり……」

 ひなこさんは首をかしげた。

「お医者様は手を尽くしていて、あとは奇跡的に目覚めるのを待つしかないとおっしゃっていたけれど」

「奇跡!」

 サビケンが叫んだ。

「やっぱり無理なのかなー。ただの植物人間になっちゃってるのかなー」

 マルンどんが再びサビケンをどついた。

「もうっ。そんなことばっか」

 ひろは思わず言った。

「でも、ひなこさんだって。いつかワタルさんが目を覚ますって信じてるから、毎日会いに来てるんでしょう」

 ひなこさんはハッとした様子でひろを見返した。

「そうね……。そうだったわ。私初めはそんな気持ちで来たのだったわ。いつの間にか慣れてしまって、眠っているワタルくんに会いに来るのが日課みたいになっていた。……忘れちゃ駄目ね……ほんとにそうね」

 自分で自分に言い聞かせるようにつぶやいた。ひなこさんはひろの顔を見て、

「ほんとに君は鋭いね」

 ひろは顔を赤くして、もごもご言ったが言葉にならなかった。サビケンが横から入り、

「こいつが鋭いなんて、全然違いますよ。どっちかとゆーと、いつも俺の後からついてくる、おとなしめの、気のいい奴なんで。ひろはただの思いつきで言っただけなんすよ。そんな『鋭い』なんて。ナイフみたいな危ない奴とは違いますから」

 マルンどんがあきれ顔でサビケンに言った。

「ひなこさんはほめてんの。鋭いって、賢いって意味もあるんだからね」

アタマくんも加勢する。

「僕もひなこさんはそんな意味で言ったと思う。それに僕自身、ひろくんを見直したよ。そこまでひなこさんの気持ちを感じることができたなんて。僕、気づかなかった」

「え。そうなの」

 サビケンがひなこさんの顔を見、ひなこさんも感心した様子でうなずく。ひろは顔を赤くして、正直に言ってしまった。

「違うよ。僕、そんなすごいことできたわけじゃない。夢を見たんだ……。ワタルさんが出てきて、ひなこさんのこととか、翔子さんのこととか、映画みたいにすっかり見せてくれたからなんだ」

 みんなの視線がひろに集まった。

「誰それ。しょうこさんって」

 オバサナがすっとんきょうな声を出す。ひなこさんは大きな目をいっそう大きく見開いて、ひろをじっと見つめたまま、動かなくなった。両手を胸元にかたく握りしめていたが、だんだん小刻みに震えて、その震えは手から腕へ、腕から肩へと広がり、ついには全身がブルブル震え出した。

「ひなこさん……大丈夫?」

 ひろが聞くと、今度はひなこさんに視線が集中した。ひなこさんは激しく息をしながら、何かしゃべろうとした。しゃべろうとして声にならず、唇はぱくぱくと虚しく動いた。そしてこのとき、アタマくん一人だけ違うものを見ていた。

「わ、ワタルさんの目が開いてる!」


   22

 アタマくんが叫んだとき、確かにワタルさんの目は開いていた。天井を向いたまま、まっすぐに見開いていた。しかしそれは一瞬のことで、みんなが病人のそばにかけよったときには、これまでと同じように深い眠りにまどろんでいた。

「ワタルさん!」

 口々に呼びかけても、軽くゆすっても、何の反応も見られなかった。みんなの目はアタマくんに向けられたが、当人はぽかんと口を開けているのみである。長い沈黙の後、ひろがつぶやいた。

「気のせいだよ……。アタマくんでも見間違うことはあるよね」

 アタマくんが激しくかぶりを振った。

「そんなわけない、確かに今ワタルさんの目、開いていたんだ。まるでツタンカーメンのお面みたいにパカっと。それで、じいっと天井見てたんだ」

 マルンどんが、やや同情するように、

「アタマくんがそんなにムキになるなんて。疲れてるんだね。いいよ、アタマくんが見えたっていうなら、きっとそうなんだよ。アタマくんの目にはそう見えた。もうわかったから」

 ひなこさんはこの騒ぎのためか、先ほどの動揺から解き放たれたようで、寂しげに微笑んだ。

「そうね。普通に眠っている人でも意識と関係なく目を一時的に開くことってあるそうよ。そんな感じだったのかもしれないわね……」

 そのとき遠くから物音がして、回診が始まった気配がした。ひなこさんは腕時計を見た。

「ああ、もうこんな時間。大変、私仕事に戻らないと」

 みんなに頭を下げて、せわしなく部屋から飛び出していった。 

「そんな、そんな……」

 アタマくんだけが、納得いかない様子で取り乱している。ひろは思い出した。以前、カラス仙人がカラスになって飛んで行ったのを初めて目撃したとき、即信じてくれたのはサビケン、そして信じようと努力してくれたのがアタマくんだったことを。ひろはきっぱりと言った。

「いや、やっぱりアタマくんが見たっていうんだから僕は信じることにする。だって、アタマくんだよ? いつも冷静でしっかりしているアタマくんだよ。アタマくんごめん、見間違ったなんて言って」

 アタマくんはこの言葉がよほど嬉しかったらしく、目に涙をにじませて、

「ありがとう、信じてくれて」

 と言った。サビケンも心を動かされたようで、

「それもそうだ。目をパカっと開けて天井を見ていた。なるほど、これは真実かもしれん」

 言ってから、自分の言葉に納得するようにうんうんとうなずいている。アタマくんは目をこすって、味方が二人できたことで少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。そんな中にも、物音はだんだん近づいてくる。オバサナとイナ、マルンどんは依然として戸惑いの様子を見せていたが、オバサナがこの状況におろおろし始めて、

「お医者さんたち来ちゃうよ、どうしよう。ひなこさん行っちゃったしぃ。なんて言ったらいいの、ワタルさんもしかしたら起きたかもしれませんなんて言うのぉ?」

 みんなを見回す。

「落ち着け」

 サビケンが力強く言った。マルンどんはサビケンを見直した顔で、少しほっとしながら、

「うん。落ち着いて……それからどうすればいい?」

 サビケンは腕を組んで考えた。

「さて、どうしよう」

 マルンどんがかっとゲンコツを振り上げ、サビケンに向かっていったのは言うまでもない。すったもんだをやっているうちに、廊下の物音はどんどん近づいて来る。

「ど、どおしよお~」

 オバサナはワタルさんのベッドと窓とのわずかな隙間に逃げ込み、ベッドの枠に両手でしがみついて無理やり隠れようとした。すると、それまで黙っていたイナが口を開いた。

「大丈夫。あたしたち、このまま出ましょう。ワタルさんが目を開けたとかそういうことは、今は言わないほうがいいような気がするの」

「どうしたの、イナ。いつものあんたじゃないみたい。だめだよー、やけになっちゃ。ほらお医者さんたちの足音がもうそこまで。誰かうまく説明してよう」

 オバサナはあわあわ言いながら、アタマくんに向き直って、

「ほれ、あんた。あんたが一番うまく説明できそうじゃん。任せたよっ」

 ドアのノブがかちりと回る。アタマくんは素早くひろを見た。

「イナちゃんに賛成?」

 即座にひろは、

「賛成」

 ドアが開いて、お医者さんと看護師さんが入ってきた。お医者さんはまだ若くて、親しみやすそうに見えた。

「君たち、お見舞いかい」

「はい。もう顔を見たので帰ります。回診の邪魔をしてすみません」

 アタマくんがはきはきと答え、ワタルさんを振り返った。

「じゃあワタルさん。また来ますね」

 頭を下げ、すっすっと出て行く。みんなも挨拶をしながらあわててついていく。年配の看護師さんが少しきりっとした調子で、

「ここは子供がたくさん来るところでもないので、今度からはもう少し少人数にしてくださいね」

 言い終わると口の両端が下がって、もりもりした頬が縦に伸びた。サビケンがムッとした顔で言い返そうとする。が、それより早くお医者さんが片手を振って、

「まあまあ。この子達のことは聞いていたよ。お掃除のおばさんとか事務のひなこさんから。礼儀正しくて優しい、いい子達だってほめていた。騒ぐこともないようだし、人数が多めなことぐらい大目に見ようよ」

 言ってから、相手に自分の洒落がうまく通じなかったので、苦笑いした。看護師さんは、

「……まあ、先生がそうおっしゃるなら」

 と依然として硬い表情ではあったが、それ以上は言わなかった。みんなお医者さんにペコペコしながら、サビケンまで愛想笑いを浮かべて、そそくさと病室を後にした。

 先頭にアタマくん、続いてひろとサビケン、少し遅れてマルンどん、イナ、オバサナという順で、狭い通路を進んでいった。向こうから来る人とぶつからないように、縦一列になるしかなかった。エレベーターの中も混んでいて、話をするどころではなかった。六人がようやく落ち着けたのは、病院を離れ、地続きになっている大学の広い敷地に出てからのことだった。

「木陰に座って話すっていうのはどう?」

 アタマくんがみんなを振り返った。オバサナはしぶしぶと、

「いいよ。芝生に直接座るよりベンチの方がいいけど」

 とは言うものの、「どっこいしょ」と真っ先に腰を下ろし、肩からリュックをはずした。それから、せんべいの大袋を取り出してバリバリかみ始めた。マルンどんがあっけに取られて、

「お昼食べてこなかったの」

 と聞くと、

「食べて来たよ。でも小腹がすいて来たから」

 言いながら、袋をみんなの前にも差し出して、

「ほれ。食べればいいっしょ」

 せんべいの袋を回した。誰もそれどころでないと思いきや、サビケンが、

「おっ気がきいてんな」

 嬉しそうに一枚を右手に、もう一枚を左手につかんで交互にほおばった。バリバリ、ぼりぼり食べる音が響く。食べる者、食べない者、まちまちだったが、音がおさまるまで全員、なんとなく沈黙していた。ポリ、ごくんという最後の音がした後、再び静けさが戻った。

「ところで」

 アタマくんが切り出す。

「さっきの続きだけど」

 マルンどんがハッとして、

「そうそう。アタマくんが強気に出るからつい言われるままに出て来ちゃったけど、お医者さんに言う義務が一応はあったんじゃないの、ワタルさんが一瞬目を開けたかもしれませんって」

「義務っていうなら、大人のひなこさんに任せておいていいと思うよ。それに僕は、カラスの子の夢を見たイナちゃんや、ワタルさんの夢を見たというひろくんの直感が、すごく大事だと思ったんだ」

「直感?」

 アタマくんはうなずいた。

「多分、それはカラスの子やワタルさんからのメッセージ、あるいは指令みたいなものなんじゃないかと」

「しれー? しれっとおもしれーこというぜ。何いい加減なこと言ってんだよっ。さっきはせっかく俺が肩を持ってあげたのによ。夢ぐらい誰でも見るぜ。たまたまこいつらが見た夢なんかでこんな重大なこと決めていいのか。アタマ、さもえらそーに述べちゃってくれたが、テキトー過ぎるんじゃないか?」 

 サビケンは興奮気味に言い、歯にはさまっていたせんべいの食べかすが口から飛び出した。

「き、汚な」

 向かい側に座っていたマルンどんとイナは飛びのき、危うく難を逃れた。マルンどんは、ひとつ咳払いをしてからサビケンに言った。

「その言葉、あんたには言われたくないだろうね。まあイナとひろの見た夢次第だよ。さあ、どんな夢見たのか教えて」 

 みんなの視線が二人に集まった。どちらから話すか決めかねて、ひろはイナの顔を見た。イナは、

「ひろくんから話してくれる……? さっき、ひなこさんの様子が急におかしくなったでしょう、ひろくんが夢のことを言いかけて、聞きなれない女の人の名前が出てきたとき。すごく気になって……」

「そうだね。いいよね、みんな」

 アタマくんが他のメンバーに聞く。誰も反対する者はいなかった。ひろは昨夜見た夢の話を思い出せる限り話した。ひととおり話し終わったとき、みんなの間からため息がもれた。

「……そうだったのか。ワタルさん、夢に入ってきたのか。こんなにはっきり人の名前が出てきたり、事細かに過去のことが伝えられているのは、もう、ただの夢なんかじゃないね」

 アタマくんがつぶやく。マルンどんも、

「うん。それにしてもひろ、随分話すのがうまくなったね。あたしなんか、まるでその夢を目の前で見ているようだった」

 他からも「ほんと」、「だよね」、「すごいひろくん」など、感嘆の声が上がった。ひろは自の分の力だけでできたことではない気がしたので、ほめられたことは素直に喜べなかった。ひろの困ったような顔を見て、サビケンはどんな助け舟を出していいのか混乱した。あげくに、こんなことを言ってみた。

「でもさ、ひろの頭が勝手に作った夢かもしれないぞ。ひろの話し方がうまいからって、ひろにあんまり責任おっかぶせんなよな。本当のことじゃないかもしれないんだからさ」

 しかし、その声にかぶせるように、

「本当のことよ」

 後ろから声がして、全員ギョッとして振り返った。すぐ近くの木の後ろに、ひなこさんが立っていた。

「ひなこさん!」

 六人同時に叫んだ。ひなこさんはほんの少し笑みを浮かべながら、木陰から出てきた。

「さっきはごめんなさいね。逃げ出しちゃって……。いざとなると弱虫な私が顔を出してしまう。さすがにもうお漏らしはしないけど」

 ほとんどの者が、ひなこさんの冗談にどう反応していいか迷い、ただ黙っていたが、一人だけガハハ……と大声で笑う者がいた。

「おっかしー、こんなにきれいなお姉さんがいきなりジャーっておしっこ漏らしたら。シュールだわー。ありえないわー」

 オバサナが腹の底から楽しそうに笑うので、なんだかつられて笑う声が広がっていった。一人残らず、ひなこさんも。マルンどんが笑いながら尋ねた。

「ひなこさん、お仕事は」

 ひなこさんはやや真面目な顔に戻りつつ、

「急用ができたと言って、午後からお休みにしてもらったの。今日あなたたちを見失ったら、またいつ会えるか不安になってしまって」

「そんなにお休みもらって大丈夫なんですか? 職場で怒られたりしないんですか」

 と、アタマくん。

「大丈夫。これで私、真面目に働いて来たから、消化しなければならないお休みが結構たまってるの」

 にっこりすると、言葉を継いだ。

「で、急いで病室に戻ったらもうあなたたちはいなかった。探して追いかけてきて、やっと見つけたの。よかった。あんなに無責任に抜け出したのも謝りたかったし、ひろくんの夢のお話も気になって」

 一気に言ってしまうと、頭を下げた。

「本当にさっきはごめんなさい。逃げ出すなんてひきょうだったわ」

「ひきょうだなんて」

 思わずひろは叫んだ。

「そんなこと思ってません。ひなこさんが本当にいろいろ辛い目にあってきたことも、お姉さんのことも、全部ワタルさんんが教えてくれたから……あっ」

 ひろは口を手で押さえた。ひなこさんがまた震え出すのではないかと心配になったのだ。ひなこさんは静かに微笑んだ。

「ありがとう……、大丈夫。今、後ろでお話を聞かせてもらったから。さっきはひろくんの口から姉の名前が突然出てきて、本当に驚いたわ。ひろくんがここで皆さんに一生懸命話してくれたので、私も後ろで聞いてすっかり理解できたと思う」

「やー、よかったっしょやー」

 オバサナがまたガハハ……と笑う。

「いやー。いつの間にそこに来ていたんだか。ひなこさんもイケズだねー。立ち聞きしてるなんて、女スパイみたいじゃん」

 他に笑う者はいなかった。オバサナの豪快な笑いだけがあたりに響き渡った。圧倒されてただ見る者あり、当惑する者あり。ひなこさんは困ってしまって、下を向いてモジモジした。

「お前、少しは空気を読めよな」

 サビケンがひじでつつく。今回に限っては、マルンどんから「あんたに言われたくはないだろうね」と言われることもなかった。ひなこさんは顔を上げるとオバサナを見て、

「ごめんね。立ち聞きなんて気分いいもんじゃないわよね。今度からこんなときには、堂々と出て来て仲間に入れてもらうようにするわ」

 オバサナは悪びれることなく、

「だよねー。あたしたち、ひなこさんのこと大好きだしい。もう仲間だと思ってるしぃ」

 無邪気にまたガハハ……と笑うのだった。

「ありがとう。私も皆さんのことが大好きよ。仲間にしてもらったから言うんじゃないけど」

 ひなこさんが笑い、今度はみんなも一緒に笑った。ひなこさんの目には涙が浮かんでいた。片手で目元をぬぐいながら、

「さっきも言ったけど、ひろくんが話してくれた姉の話、本当のことなの。ワタルくんが心配して来てくれたなんて……不思議としか言いようがないけど……」

 ひなこさんがその名を口にした途端、みんな重大なことに思い当たった。

「ワタルさんもしかしたら、今頃はっきり目覚めてたりして。戻ろうか?」

 マルンどんが興奮して大きな声になりながら、みんなの顔を見比べた。

「イナちゃんの話をまず聞かないと」

 ひろは思わず叫んだ。アタマくんが言った「使令」という言葉も引っかかってはいたが何よりも、イナの夢に現れたカラスの子の様子を聞いておかなければ、という気が強くしていた。アタマくんも同じだったらしく、

「賛成。どうかな……?」

 ひなこさんも、他のみんなもゆっくりと首を縦に振った。

 イナがおずおずと話し始めた。

「あたし、夢の中でカラスになってた。……暗い空をずうっと飛びながら、どうしてみんなはいないんだろう、ひとりぼっちで飛ぶのは心細いなあって思ってた。そしたらずうっと先に……小さな光が見えて……近づくうちにだんだん大きくなって。ろうそくの火みたいにゆらゆらして……。でも、うんと近づくとそれは火なんかじゃなくて、鳥だということがわかったの。全身黒いんだけど、羽の先がちょっとだけ青白く光って、忙しそうにはばたきながら空中で浮かんでた」

「カラスの子!」

 マルンどんが叫んだ。イナは首を縦に振った。

「うん、でも夢の中の私には、すぐには分からなかった。『あなた誰なの』って聞いてみた。鳥はびっくりしてあたしの顔を見た、くりっとした可愛い目で。普通の飛び方になってあたしの横にやって来て言ったの。『僕、カラスの子って呼ばれていたんだよ』」

 それからは皆、言葉を差しはさむこともなく、ひたすらイナの話に耳を傾けた。午後の光は木陰にいてもちらちら差し込み、ときおり優しい風が吹いてきては木の葉をさらさらいわせた。イナの口から夢の記憶が語られていく。いつしかみんなは、ひろの話を聞いたときと同じように、自分もその夢の中にいるみたいな、不思議な感覚を覚え始めた。


23

 カラスの子が隣に来たとき、いつのまにかイナは人間の姿に戻っていた。

「私の肩で休んでいいわ」

 そう言うと、カラスの子は嬉しそうにイナの左肩に止まった。重くはなかった。ふわりと温かい感じがした。

 ――カラスの子。あれほど何回もカラス仙人から聞かされた特別の鳥。

「ここで何をしているの。カラス仙人も随分探したのよ」

「カラス仙人? ああ、父さんのことか。僕、もう戻れないんだ。死んでしまったから」

「死んでしまった? そんな、どうして」

「あのとき、ワタルが乗せて行かれた白い車、あの、ファンファン大きな音が鳴る車をずっと追いかけた。四角くてばかでかい建物の前で車が止まって、ワタルは建物の中に運ばれて行った。僕もついていこうとしたけど、『なんだ、このカラス』って人間に追い払われて、入れなかった。僕はずっと待っていた。どこへ行く気もしなくて、ずうっと建物の近くを飛び回って……。そのうち雨が降ってきたり、強い風が吹いてきたり、お腹がすきすぎて、でも食べ物を探す気にもなれなくて。疲れてきたから僕、草のしげみで休んだ。それから、だんだん意識が遠のいていったんだ……」

「カラス仙人に会えたらよかったのに」

「ワタルのことで頭が一杯で、生きてるうちに会えなかった……。死んでからどうしても父さんに会いたくなって、父さんのほうでも僕に会いたがってくれてるのが伝わってきて、ちょっとの間だけ、なんとか会えたことがある。ワタルのことを謝ることしかできなかったけど……。本当に、生きてるうちに会えたらよかったな。ああ僕、父さんとワタルと離れて随分になる……」

 カラスの子は沈んだ調子でそう言うと黙り込んだ。イナの肩にカラスの子の足先が冷たく、小さく震えるのが伝わってくる。イナはその上に手を乗せた。カラスの子は、気を持ち直すように顔を上げてイナを見た。

「でも、いいんだ。あのあとふわっと持ち上げられる感じがして、気がつくとお母さんの翼に抱かれていたんだもの」

「可哀想に」

「なんで泣くの? 僕、お母さんに会えて嬉しかったよ。今はもう寂しくないんだよ。だから泣かないでよ」

「うん、うん。ごめんなさい、涙もろくて。あ……カラスの子に会えてるってことは、もしかして、あたしも死んでしまったっていうこと?」

 カラスの子は笑った。

「違うよ。父さん――あ、君たちは『カラス仙人』って呼んでるみたいだけど。僕にとっては、たった一人の人間のお父さんだから――父さんと僕の橋渡しをしてほしくて、君の夢にお邪魔したんだ」

「橋渡し? あたしそんなすごいことできないわ」

「違う違う! 君しか出来ないんだよ」

「どうして」

「父さんはあの六人の中で君に一番心を開いている。そして君も、父さんをとても身近な人のように感じている。絆が強いほど橋渡しできる可能性が高いんだ」

「ああカラス仙人、あたしの優しかったおじいちゃんにどこか似ていて、懐かしい気がして……」

「うん、わかるよ。ワタルと父さんも、僕のお母さんに似ていたもの。あったかい感じが同じだったんだ……」

「カラスの子……。今はお母さんと一緒にいて、幸せなのね。だからそんなに元気そうなのね」

「えへへ……お母さんといろんなとこ飛び回ったりするんだ、海とか山とか。広い世界を飛び回るのはちっともこわくないんだってやっと分かった。今度生まれてくるときは、きょうだいの中で一番早く巣立つカラスになりたいな。お母さんも『偉いね、成長したね』ってほめてくれるんだ」

「すごい。よかった」

 イナがほめるとカラスの子は照れた。

「いやいや、僕のことはいいよ。大事な話があって来たんだもの」

「さっきの……橋渡しって話? カラス仙人は大丈夫なの、今もカラスのまま?」

「うん、まだ大丈夫。でも、もう森の中にはいない。僕を探していろんなとこを飛び回って、今は街に戻っている。羽はボロボロ、目も落ちくぼんでる。僕に会えたら何か変えられると信じてて、僕に会えるまでは何も食べないと決めてる。……何日も食べてないから、すごく心配だ」

「カラスの子、どうして会ってあげないの」

 カラスの子は大きくかぶりを振った。

「会えないんだよ! 会いたくてもそんなに簡単にはいかない。一度会えたのだって、何かの偶然みたい。父さんのそばに行ってもうまく気づいてもらえない。それに、夢に入るっていうのも難しくて、やっとイナちゃんの夢に小さな隙間を見つけて、そっとすべり込むことができたんだ。僕は父さんに是非伝えたいことがある。それをイナちゃんに頼みたいんだ」

「どんなこと」

「このままじゃあ、父さん死んでしまうよ。何か食べないと……。人間に戻る力が戻ってないのなら、何でもいいからカラスの食べ物を食べてって伝えて」

「わかった、すぐ伝えないと」

「待って。もうひとつ。体の方はだんだん回復してきてるのにワタルが目覚めないのは、ワタルの魂が体から抜け出しているからなんだ。ワタルはね、空中を漂って父さんたちを見守りながら、僕のことも探してくれてるんだ。僕のせいであんなことになったのに、カラスの子を助けなければって思ってくれてるんだ。僕にはその姿がよく見えるのに、ワタルからは僕が見えないみたいなんだ。不思議だね、分からないことばかりだ。いくらそばを飛び回っても、『おーい。僕はもう死んだから探す必要はないんだよ』って呼びかけても、気づいてもらえないんだ。僕は途方にくれてしまったよ。僕があんな間違いしなければ、父さんもワタルさんも今頃、前と同じように仲良く暮らしていたはずなのに……。あのとき車を、うん、車なんだね、あれは怪物じゃなくて、あの中に人間がいて動かしてるんだっていうこと、もう知ってるよ。お母さんが教えてくれたし、僕も少し利口になったから。あのとき車を運転していた女の人も、お母さんを死なせた運転手じゃないって分かったよ。女の人は可哀想なことになったらしい。ワタルはそのことでも心を痛めて、父さんに伝えようと頑張ってた。でも、難しいよ。僕も父さんと話せたのは一度だけ。それも、不思議な呪文を父さんが唱えて、偶然できただけなんだ」

「あの呪文は、あなたが教えたのではなかったの」

 カラスの子は首を振った。

「違うよ。あの言葉を父さんが何度も繰り返すのが聞こえてきたんだ。初めはすごく遠くに聞こえた。何を言っているのかよく分からなかった……。でも、だんだん大きく、聞こえるようになった。ああこれは父さんの声だ、父さんも僕に会いたいのかなって思った瞬間、突然、声のする方へ吸い込まれて気がつくと、父さんのいる部屋の窓辺にいたんだ。ああ、懐かしい父さん……! 部屋に入って父さんの肩にとまりたかった。父さんの肩で、おしゃべりしたかった。『トーサン。トーサン。オハヨー』って。でも、硬い壁があるみたいに、入ろうとしてもはね返されるんだ。何度入ろうとしても、どうしても入っていくことができなかった。それで僕は父さんに心の中で話しかけてみたんだ。人間の言葉じゃなくて、僕の気持ちを流し込むような感じで……。父さんは気づいてくれた。だから、僕は父さんに謝った。僕のせいでワタルが車にはねられてしまったことを。まず謝りたかった……でも、ほんのちょっとの間そこにいられただけで、すぐにもとの場所に引き戻されてしまった。もっともっと伝えたいことがあったのに。ありがとうって。ワタルと父さんに育てられて僕は本当に幸せだったって。なのに、ほとんど言えなかった……。しょんぼりしてると、いつの間にかお母さんがそばにいて、羽を広げて包み込んでくれた。『会えてよかった。ちゃんと謝れて偉かったね』って。お母さんに聞いてみたけど、お母さんもあの呪文のことはよく分からないって。でもとにかく、ワタルをこのままにしておけない。これ以上長く体を離れていると、いつか戻れなくなるかもしれないってお母さんが言った。そんなふうになる生き物をたくさん見てきたって……。僕は心配だ、どうしていいかわからない。僕の声はどうしてもワタルに届かないんだ」

 おしまいの方は悲鳴に近かった。イナは思わず断言した。

「わかった。カラス仙人を救うこと。ワタルさんの魂を体に戻すこと」

「難しいけど、やってくれるかな。これから方法を教えるよ」

 うなずく代わりに、イナは力強くはばたいた。空中に浮いていた。『あら私またカラスになっていたんだ』と思った途端、夢から覚めた。


「えっ。なんでそこで目覚めるかなあ。その先だろ、大事なことは」

 サビケンが不満そうに言った。

「ごめんなさい……」

 イナが申し訳なさそうに答える。今度はオバサナがサビケンに、

「あんたこそ、なんでいちいちそういうこと言うかなあ。イナは充分すごい情報をくれたんじゃないか。役に立つ夢のひとつも見なかったくせに」

「お前こそ。変な食いもんの夢ばっか見やがって」 

 ひろは複雑な気分になる。朝方来る途中で、サビケンからアンパンをたくさん食べた夢のことを聞いていたから。でもそれを言うのはやめて、

「僕もよく食べものの夢みるよ。おいしいもの食べた夢から目覚めると、嬉しいような残念なような気がするよね」

「おっそれそれ。今朝も俺なんかアンバンいっぱい食った夢を」

 言いかけて、サビケンはマルンどんやオバサナににらまれた。アタマくんがメガネに軽く手を触れて、

「また脇道にそれたようだよ。ひろくん、イナちゃん、夢の話ありがとう。やっぱり聞いてよかった。カラス仙人を見つける手掛かりを見つけられるかも」

「見つけられるかな」

 ひろは言った。自分でもどうすればいいのかずっと考えていたが、その答えがどうしても見つからなかった。

「見つけなくちゃならないんだよ。あたしたちしか助けられる人いないんだから」

 マルンどんが力を込める。

「でもなあ……」

 サビケンがため息をつくのを、マルンどんはしかりつけるように、

「考えるんだってば!」 

 そして皆、うんうん唸りながら考えた。

「うんうんうんうん」

 サビケンのお尻からプッとオナラが出た。

「やだあ」

「くさーい」

 マルンどんとオバサナがしかめ面をする。

「あの」

 声を挟んだのは、ひなこさんだった。

「ひなこさん! 何かいいアイディア浮かんだ?」

 サビケンが大声で尋ねる。皆の視線がひなこさんに集中する。

「ね、その前に、そもそもみんなは一体どうしてこの件に関わったの? 私には分からないことがまだたくさんあるようだわ」

 皆、ガクッと肩を落とした。ひなこさんの言うことはもっともだった。情報共有することは大切だ。これまでのことを順序立てて、アタマくんが中心になって伝えた。アタマくんはカラス仙人に出会っってからのことを研究テーマとしてノートにまとめていたから、それがかなり役立った。

「……そうだったの。よくわかったわ」

 ひなこさんがこう言ったので、ひろは思わず聞き返した。

「ひなこさん、僕たちの言うことみんな信じてくれるんですか? カラスになったこととか、カラス仙人について山の中のカラスの里に行って来たこととか、カラス仙人の家に忍び込んで、二階のワタルさんの部屋からどんぐりを見つけたことととか……」

「お前とイナの夢の話もな」

 サビケンがつけ足した。みんな、ひなこさんを見た。ひなこさんは真剣なまなざしでみんなを見返し、それから、ひろにゆっくりとうなずいた。

「信じるわ。姉の名前があなたの口から出たとき、心臓が止まるくらい驚いた。ひろくんの見た夢は、そっくりそのまま私にとっての真実だったから……。それに今私を見ているみんなの目、嘘を言っているようにはとても見えないもの」

 ひろは答える言葉が見つからないで、ただ黙ったまま、ひなこさんの気持ちを考えていた。

「よし! じゃあ早速出発しようぜ。……って、どこへ行けばいいんだ」

 サビケンに、アタマくんが返した。

「まずそれを考えないと。これまでのこと、それからひろくんの夢とイナちゃんの夢。全部の情報を分析して、よく考えよう。きっと手がかりが見つかるよ」

 マルンどんも口を開いた。

「夢のことだけど。夢を通じて大切なことが伝えられたとしたら。まず、ひろの夢。この夢のおかげで事故のことが詳しく分かったし、ひなこさんがあたしたちの仲間にもなってくれた。イナの夢は、もうカラスの子が死んでしまったこと、カラス仙人の命が危ないから、一刻も早く助けに行かなければならないってこと。そうだ! 早く助けに行かないと」

「どこへ」

 イナが哀しそうに叫んだ。アタマくんはハッとしてイナに言った。

「イナちゃん。夢の中でカラスになったって言ってたよね。もう一度僕たち、試して見ない……?」

 みんな口々につぶやき出した。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ」

「え、あ、それが例の呪文……」

 ひなこさんも途中からみんなに合わせて唱え出した。

「ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ、ワシガオマエデオマエガワシジャ」

 道ゆく人が変な顔をして通り過ぎてゆく。ひなこさんは顔を赤くし、声も小さくなった。が、他のみんなは平気だった。カラスになってしまえばそれからの時間はいずれこちらの世界ではなかったことになるのだから、気にしなくていい。しかし、いくら唱えても無駄だった。髪の毛の先一本も、カラスに変化はしなかった。最初に根をあげたのはサビケンだった。

「だーっ。やっぱだめだ」

 アタマくんはしばらく前から呪文を唱えるのをやめて考え込んでいた。静かに言った。

「……これだけ気持ちを込めてもだめか。やっぱり、カラス仙人がそばにいて初めて効果がある呪文だったんだね」

「なんでそんな不思議な力があのじいさんに備わったんだろうね。あたしから飴もらって、クェーッとかいって喜んでなめてる、おかしなじいさんにしか見えなかったけど」

 オバサナがつぶやく。

「ワタルさんを思う気持ちじゃないかな」

 イナが言うと、ひなこさんも、

「子を思う親の愛か……。奇跡が起きたのね」

「よし! あたしたちも奇跡を起こそう」

 マルンどんが力強く言った。

「カラスになれないなら、とりあえずカラス仙人のいそうなとこに行ってみよう。イナ、ひろ。夢の中の様子をもう一度思い返して。何かヒントになるようなことないの?」

 二人はそれぞれ必死に思い出そうとした。

 イナが、

「真っ暗な中にカラスの子がいて、カラスの子としゃべった……。話したのはさっき言ったのが全部……。それ以上、ヒントと言っても……。ごめん、何も見つからない」

 と言えば、ひろも、

「うん……。僕もさっきみんなに言ったのが全てだよ。夢の中では大きな画面を見るようにいろんな光景が繰り広げられたけど、あれ以上のことは……。あ、カラスの子が車の前に飛び出した交差点。ワタルさんが事故にあった場所。あそこに行ってみたらどうかな」

「場所、分かる?」

 マルンどんが聞き返すと、ひろは首を振った。

「見覚えのない交差点だった」

「多分、新聞とかで報道されたんじゃないかと思うけど。一年以上前のことだからネットで探してもすぐ見つかるかな」

 アタマくんがスマートフォンを取り出すと、ひなこさんが、

「私、分かる」

 ひなこさんが言った。

「姉から聞いてるから。事故の後、何度か見に行ってもみたし」


   24

 そこは、カラス仙人の古本屋から東の方角にかなり進んだところにある交差点だった。

「ここかあ。俺、来たことないや」

 サビケンが言うと、マルンどんも、

「あたしもあんまり通ったことないと思う。もしかしたらパパの車にのってるとき、通ったかもしれないけど」

 オバサナは、

「あたし、ある。妹の幼稚園がこの近くなんだ」

「ひろくん、夢にこの交差点が見えたの」

 イナが聞くと、ひろは目をじっと凝らしてあたりを見た。 

「うん……。夕方で薄暗かったけど、多分こんな感じだった。割と小さめで、あんまり人が通っていなかった。ひなこさんはここ、何度も見に来たって言ってたね」

「そう。『カラスがフロントガラスにぶつかってきて離れなかった』っていう姉の言葉、警察は信じてくれなかったけど、何か手がかりになるようなものがないか探して歩いたわ。目撃者がいないか聞いて回ったり……でも、見つからなかった。そのうち変な目で見られたり、姉ももういいって言い出したりで、やめてしまった。今はもう姉も遠くに行ってしまったし、私に出来ることはといえば、ワタルくんが目覚めるのを祈って待ち続けること、目覚めたら姉に知らせることぐらいだと思うようになって……」

 ひなこさんの言葉が途切れ、なんとなくみんな、通りを眺めた。午後の昼下がり、数台の車が行きかうぐらいで通りは比較的静かだった。

「そんなに交通量は多くないね。カラス仙人、この辺にいそうな気がする?」

 アタマくんの言葉に、自信を持ってそうだと答えられる者はいなかった。

「ひろ、夢でワタルさんに会ったんだろ。イナ、カラスの子にカラス仙人を助けてって頼まれたんだろ。なんかもっと思い出してくれよ」

「そんなこと言ったって」

「……」

 サビケンにせかされても、出てこないものは出てこないのだった。しばらく立ったまま、みんな何かを待っていた。

 イナがしくしく泣き出した。

「どうしたの」

 オバサナがイナの肩に手をかける。イナは両手で目をおおい、

「だって、こうしている間にもカラス仙人がどんどん弱っていってるかもしれないのに、何にもしてあげられないなんて。ねえ、どうやったら見つけられるんだろう」

 イナにしがみつかれ聞き返されて、オバサナも困ってしまった。

「どうやったらって……ねえ」

 オバサナは今度は首をひろに向ける。ひろはマルンどんを見る。マルンどんも助けを求めたが、その視線はそばにいたサビケンを通過してアタマくんに向けられた。アタマくんはひなこさんを見た。

「みんなで呼んでみましょうか」

 と、ひなこさん。

「呼ぶんですか」

 アタマくんが聞き返す。

「駄目でもともと」

 アタマくんの目がキラリと光った。大きくうなずいて、

「そうですね。駄目でもともと。みんな、それぞれの呼び方でカラス仙人を呼んでみよう」

 まず、サビケンが叫んだ。

「おーい。カラス仙人。出てこいよう」

 つづいて、マルンどんが、

「どこに隠れてるんですかー。もうカラスの子を探してもいないんですよう」

 カラスの声を発したのはオバサナだった。

「アーアーアー、アーアーアー」

 その後、聞き耳を立ててみる。どこにもカラスの姿は現れない。オバサナが不満そうに言う。

「変だなあ。カラスの声なら反応すると思ったんだけどなあ」

 イナは目をつぶって小さな声で繰り返す。

「カラス仙人、カラス仙人、どうか出て来てください……」

 ひろは目も閉じて、ひたすら心の中で呼びかけた。

『カラス仙人、ワタルさんもカラスの子も心配しています。早く戻って来て』

 アタマくんがひろに、

「寝ないで」

 ひろは憤慨して、

「寝てなんかいないよ! 必死で呼びかけてるのに」

「……そうか」

 ニヤリと笑ったその顔が、いつものアタマくんではなかった。まるで―― 。

「カラス仙人!」

 ひろは叫んだ。

「いかにもわしじゃ」

「えっえっ。どうなってるの」

 ひろはアタマくん、というかカラス仙人を名乗るアタマくんの両肩をつかんで、思わず強くゆすぶった。

「い、痛い。何をするんじゃ」

 他のみんなも異変に気づいて二人を取り囲んだ。ひろは手を放しながら、

「ごめん。でもアタマくんがカラス仙人ってどういうこと」

「一瞬、こいつが無防備になった。アタマの頭の中が真っ白になった。それで、入り込めたんじゃ」

「じゃ、じゃあ今、アタマくんはどこにいるの。それにアタマくんに入り込めたってことは、カラス仙人はもう死んじゃったってこと?」

「滅相もない。わしは死んでおらん、カラスの姿のまま、その辺の河原で気絶しとるんじゃ。お前らの呼ぶ声が聞こえてきて、わしの魂がふらふら体を抜け出て、引き寄せられてしまったようじゃ。アタマは眠っているようなもんじゃから、わしが出て行けばすぐ元に戻るじゃろう」

「カラス仙人! 無事でよかった。早く何か食べて。でないと危ないってカラスの子が言っていたの」

 イナが叫んだ。

「カラスの子か。今どこにいる」

「……死んじゃったの。でも、お母さんと一緒にいるって。寂しくないって」

「……そうか。どうりでいくら探しても見つからないわけだ」

 がっかりして肩を落とす。

「そんなにしょげないで。ね、ひろくんがワタルさんの夢を見たの。それにワタルさん、一瞬だけど目を覚ましたの。だからカラス仙人、人間に戻って」

「……そうか! もう思い残すことはない。わしはもうダメじゃ。人間に戻るには体力が必要らしいが、もうその力も残っておらん。かといって、何も食うことができん」

「どうして、なんでもその辺のもの食えばいいじゃんか。カラスなんだから」

「それが無理なんじゃ。何も食えん。喉を通らないんじゃ。わしにも分からん。ああ、もうアタマの体に入ってるのも疲れてきた……。わわわ、急激な力でもとの体の方に引っ張られていく。さ、さらば」

 アタマくんの体がふっと脱力して目を閉じ、そばにいたサビケンに倒れかかった。サビケンに支えられ、やがて目をゆっくり開くと、

「あれ。みんなどうして僕の方を見ているのかな」

「アタマくんに戻った!」

 ひろが叫んだ。

「あーあ」

 マルンどんががっくり肩を落とす。泣きべそをかきながら、

「もう助けられないよう」

 オバサナもつられて目をこすり、イナも下を向いた。ひなこさんが泣いている女の子たちの肩にそっと手をそえる。アタマくんだけが不思議そうに、かつ自分が何かみんなを失望させたのを感じ取り、居心地悪そうに頭をかいた。ひろもぼう然としていたが、サビケンが力強く言った。

「そんなことない! 諦めちゃダメだ」

「ど……どうしたの。急にりりしい声出しちゃって」

 マルンどんがひるんでそう言うと、サビケンは、

「俺に考えがある!」

 と叫ぶなり、川べりへ向かって走り出した。

後を追いながら、みんな口々にしゃべった。

「まさか今度はサビケンにカラス仙人乗り移っちゃたりしてない?」

 オバサナがうさんくさそうにひろにささやく。ひろはちょっと迷いながらも、

「まさか。だいたいカラス仙人あんな感じじゃないよ」

「そっか。じゃあワタルさん……?」

「いいえ、ワタルくんだってああいう話し方しなかったと思うわ」

 ひなこさんも首を振る。

「ひなこさんは子供のころのワタルさんしか知らないのでは」

 イナが聞くと、

「う、うん。でもちょっと違う感じが」

 そんなことを話しながら、川べりに着いた。

「河原は広いけど、どうしてこの場所なの」

 マルンどんが聞く。

「えっなんでかなあ。足が向いたとしか言いようがない」

 サビケンの返答にみんなガックリとした。

「あんなに確信ある様子だったのに」

 アタマくんがブツブツ言いながら、それでも川べりを探し始めた。つられたように、みんなも草をかき分け、カラスが倒れていないか探し始めた。

「ねえひろ。夢の中にここは出てこなかったのか」

 サビケンに聞かれて、ひろは記憶をたどってみる。夢に見た場面のどこかに、この草むらはあっただろうか。目を閉じ探してみるが、見つからない。

「ううん。出てこなかったと思う」

 言ったか言わないかのうちに、ひろの脳裏に鮮やかに一つの場面が浮かび上がった。すっかり忘れていた夢の続きを思い出した。


 あたり一面、暗闇だったのが少しずつ明るくなった。青くかすみがかかったような中で、ひろとワタルさんは向き合っていた。

  ――今のは……。

  ――うん。本当のことだよ。ひなこちゃんと翔子さんに伝えて欲しいんだ。僕が事故にあったのは翔子さんのせいなんかじゃなかったって。責任があると言うのなら、カラスの子を育てた僕にある。

  ――そんな……。

  ――ひろくんが泣きそうな顔してどうする。僕は悲しくもなんともないよ。大丈夫。もうひとつ、大切なことをひろくんに頼みたい。父さんのことが心配なんだ。父さんは僕を目覚めさせるためにカラスになって必死でカラスの子を探してる。でも、そんなことしたって意味はないんだ。僕が目覚めるかどうかは運次第、誰にも分からない……。父さんが『見つけるまでは何も食わん。水も飲まん。人間にも戻れなくてかまわん』って決心して、死に物狂いに探してるの、もう見てられない。死んでしまうんじゃないかって心配なんだ。ね、ここに父さんが転がってるから助けて欲しいんだ。

 ひろは見た。一面に広がる草わら。近くに川が流れている。近くに大きなイチョウの木。

  ――ね。あそこだから。

 ワタルさんは片手をのべて指し示した。イチョウの木の根元に、翼もクチバシも何もかもぼろぼろにくたびれた、年取ったカラスが目を閉じて転がっている。丈の高い草がその体を覆うように、風になびいてはサラサラと揺れている。草に見え隠れするカラスはぐったりしてピクとも動かない。かたく閉じた瞼を見ているうちに、ひろは心がキュッとしめつけられた。大声で叫んだ。

  ――カラス仙人!

 突然、暗闇になった。そばに人の気配がしない。

  ――ワタルさんはどこへ行ったんだろう?

 あたりを見回すが見えない。そこで、ひろは自分も目を閉じていることに気づいた。目を開けようとして、なかなか開けることができない。必死で力を込め、試み、ようやく目を開けることができた。

 すると、ひゃっふの大きな目が覗き込んでいた。

「わっ」

 ギョッとしてはね起きると、ひゃっふの方も大きくのけぞって、

「こっちもびっくりした。どうした? ゆうべのこわい夢が続いていたの?」


 そして、ひろは起きたのだ。なぜか、夢の最後の部分は記憶の中からすっぽり抜け落ちて、今の今まで思い出せなかった。今、それがくっきりと心の中のスクリーンに浮かび上がった。ひろは興奮して叫んだ。

「思い出した、思い出したよ! 僕はカラス仙人がカラスの体のままで、草むらで転がっているのを見たんだ。そばには大きなイチョウの木があった」

「そうか! 行けっ」

 サビケンに促され、ひろは先頭をきって走り出した。迷いはなく、どんどん走っていくと、前の方にイチョウの木が見えてきた。あたりは一面の草。

「あそこだ!」

 ひろが叫び、みんなも夢中で走った。草わらを探すまでもなく、イチョウの木の根元に、すりきれたぼろ雑巾のように、一羽のカラスが転がっていた。

「カラス仙人!」

 みんな口々に叫びながら、取り囲む。カラスはうっすら目を開けた。でも、動く力はどこにも残ってはいなさそうだった。

「本当なの、これが本当にワタルくんのお父さんなの……」

 ひなこさんだけが、いざ目の前にしてみるとなかなか受け入れがたい様子だった。ひなこさんには悪いが、他のみんなはそれどころではなかった。

「どうしたらいいの。早くなんとかしなくちゃ、死んじゃう」

 イナが泣き声を出す。サビケンはしゃがみこみ、ポケットから取り出した物をカラスくちばしに近づけた。ワタルさんの机の上にあったどんぐりだった。

「ほら、これ食えよ」

 カラスは身動きしない。サビケンはどんぐりを持ったまま、待ち続けた。しかし、五分もするとこらえきれなくなって、

「だーっ。ダメか。ここでパクッと食ったら感動ものだったのになあ」

 マルンどんがいぶかしげに、

「なんでどんぐりなの」

 サビケンは頭をかいて答えた。

「ワタルさんの机の上にあったこのどんぐり、何か重要な意味がありそうだって思わなかったか? そういう展開もありかなと。ちょっと機転のきく賢い少年が見つけた物が、問題を一気に解決してしまうっていう」

 マルンどんがあざけるように、

「こんな深刻なときじゃなかったら大笑いしてやるんだけど」

「うまい」

 そのとき、カラスの口から言葉がもれた。

オバサナがカラスのくちばしをこじ開けて、飴を一個入れたところだった。

「この味は、あれ、あれじゃの……」

 カラスはにっと笑ったように見えた。そして、次の瞬間、かき消えた。

「カラス仙人!」

 みんな、びっくり仰天して叫んだ。だが、一番驚いたのはひなこさんだった。

「え、え、え……」

 自分の目で見た光景が信じられない様子で、カラスの消えた草の上をみつめている。その点、他のみんなは結構、こういうことに慣れっこになってしまっている部分もあり、サビケンなどは口をとがらせて、

「ちぇっ。なんでオバサナの飴玉に反応するかよ。どんぐりをパクッと食べて『う、うまい』とか何とか言っちゃってカラス仙人のじいさんが元気になる方がよっぽどドラマチックだろうが……。納得できん」 

「あたしだって激辛しょうがミント探すの、結構苦労したんだよ。ミックス味の袋に入ってないこともあるから、家にあった袋を全部開けて、やっと二個ゲットして大切に持っていたんだから」

 言ってから、オバサナはやや得意そうにゲヒヒ……と笑う。マルンどんが、

「あのね。もうそんなことより、次に行かないと」

「次……?」

 ひなこさんが聞く。まだ、衝撃から立ち直れないでいる様子だ。ひろは、マルンどんに目でうなずき、ひなこさんに、

「カラスが消えたのは、カラスから人間に戻ったからなんです。何でか分からないけど、僕らもそうだったから。早く見つけて助けないと」

 と、説明した。

「ひなこさん、あんまり考えない方がいいと思います。ありえないことばかり起きるから、もう考えないで流れに身をまかせるぐらいの感じでいいですから」

 ひろの言葉だけでは不十分と見たのか、アタマくんが補う。オバサナも、

「そうそう」

 イナも、

「なんとかなります、きっと。これまでもなんとかなって来たし、多分これからもみんなで力を合わせれば」

 ひなこさんも、すっかりやる気になった。

「そうね、頑張りましょう」

「よし! 次はどこへいけばいいんだ? ひろ」

 サビケンが聞いて来た。ひろは、

「へっ?」

「へってなんだよ。夢で見たんだろ。人間になった次はどこへ行けばいいんだよ」

「……僕、そこまで見ていない。カラスが転がっているところまでしか見ていない。人間に戻って消えちゃうなんてちっとも知らなかったよ」

「ちっまぎらわしーぜ」

「ここはまずカラス仙人のうちよ」

 マルンどんが言った先から走り出す。土手を駆け上り、川沿いの道を一列になって駆けていく。マルンどんを抜いて、サビケンが先頭になり、その後をひろ、マルンどん、ひなこさん、アタマくん、イナ、オバサナが必死に走る。

 やっとカラス仙人の家に着いたとき、庭先に立っている人がいた。みんなが近づくと、その人はくるりと振り返った。中年の男の人だ。みんなが近づいていくと、怯えたような目をしてふっと消えた。

「えっえっ」

 これには、先頭にいたサビケンもたじろいだ。みんなも狐につままれた顔をしている。

「誰。今の……」

 と、オバサナが言えば、ひろも、

「幽霊みたいに消えた」

 マルンどんが、

「ただの人間じゃないよね」

 とつぶやくと、イナが返す。

「どこかカラス仙人に似ていた」 

 アタマくんが首をひねりながら、

「昔のカラス仙人とか。そうだ、あの写真のカラス仙人にそっくりだった」

 サビケンがポケットからあの写真を取り出す。みんなでのぞき込み、顔を見合わせ、しばらく言葉を失った。ついに、マルンどんが言った。

「なんで昔のカラス仙人が出てくるの? 意味わかんない」

「もーいい! 考えてもわからないことは考えるのやめよう」

 おしまいにサビケンが叫んだので、みんなも同意した。変なことが起きるたびに、いちいち反応するのもばかばかしい。

「ともかく中へ入ろう」

 勝手知ったるカラス仙人の家、牛乳瓶の箱から鍵を取り出すと、アタマくんが錠を開けた。ドアを開ける前にふと気づいたように振り返り、すぐ後ろにいたひなこさんを見上げ、言い訳するように言った。

「不法侵入を心配されているかもしれませんが、人命救助のためには仕方がないので……」

「勿論よ! 不法侵入なんて言ってる場合じゃないわ」

 想定外の力強い言葉に勇気づけられ、それぞれ迷いなく家の中へ入っていった。

「おーい」

 サビケンが声をかける。人の気配はない。夏だというのに、床が冷たい。家の部分をあらかた見て、古本屋の店舗に進む。床に本が数冊ばらまかれたように散ってあり、そのかたわらに人が倒れていた。

「カラス仙人!」

 まぎれもなく、カラスに変身する前の老人の姿がそこにあった。

  

25

 ひなこさんが駆け寄り、そっと抱きおこす。

「大丈夫ですか」

 うーん、と低い声を発してかすかに動いた。

 マルンどんが、

「よかった。生きてる!」 

 イナが泣きべそをかきながら、

「カラス仙人、カラス仙人……」

「ほれ、激辛ミント味だよ」

 オバサナが飴を取り出して、カラス仙人の口元に持っていく。カラス仙人は鼻をひくひくさせて、

「うーん……」

 ひなこさんの膝の上でぼさばさの白髪頭が右に左に、弱々しく動く。

「反応した!」

 みんなほぼ同時に大きな声を出した。オバサナはなおも飴をその口に押しつける。

「ほれほれ、どうして食べないのさ」

「うーん……」

 カラス仙人は眉間にしわを寄せ、飴から顔をそむけた。

「あれ、なんで」

 それでもオバサナが空いている方の手でカラス仙人の口をこじ開けようとすると、

「いらん!」

 怒ったようにカラス仙人は叫んだ。その剣幕に跳ね飛ばされるようにオバサナは尻もちをつき、飴は床をころころと転がっていった。

「ひ、ひどい」

 さすがのオバサナも涙目になって顔をゆがめた。必死に助けようとしていたのだから、その気持ちもわかるというものだ。

「どんぐり」 

 カラス仙人の口からおもむろに響いたのはそんなリクエストだった。今度はサビケンがのけぞった。

「げっ。このタイミングでかよ」

 カラス仙人は目を閉じたまま、口をパクパクさせて、

「ど、どんぐり。どんぐりが必要じゃ……」

 それから、痙攣したようにピクッと頭が上がり、すぐまたひなこさんの膝の上に落ちた。

「やわい……やわらかい枕じゃ……」

「何言ってんだ、このじいさん」

 サビケンが言うと、イナが、

「そんなこといいから、早くカラス仙人にどんぐりをあげて。早く!」

「あ、ああ。わかった」

 サビケンはどんぐりをカラス仙人の口に近づけた。カラス仙人の目と口がカッと開いたかと思うと、サビケンの指先から一個くわえ取り、勢いよくかみ砕き、飲み込んだ。

「も一個」 

「あ、ああ」

 言われるままに、サビケンはポケットに残っているもう一個のどんぐりを取り出した。それも、カラス仙人はあっという間にたいらげた。

「クエーーーー!」

 一瞬カラス仙人は頭を上げて元気よく叫び、再びぱたっと目を閉じ、頭を落とした。また、意識を失ってしまったようだ。でもさっきまでとは違い、苦しそうな寝顔ではなく、穏やかな吐息も聞こえてきた。


「大丈夫なのかしら、どんぐりなんて食べて……」

 ひなこさんが怪しむが、何でもありの経験を積んできたみんなにはさほど不思議ではなかった。

「多分、カラスのときのカラス仙人と、人間のときのカラス仙人とが、混線してるんじゃないかと推察されます。カラス仙人の様子を見ると、よい状態になったのがうかがえます。それぞれが食べたいものを食べたので、きっと混線の乱れが治って、よい方向へ向かうような気がします」

「お前のとうちゃん医者だったよな。絶対とうちゃんの口調真似てるよな」

 サビケンがツッコミを入れると、

「え、そんなことは。そりゃあ、僕は父が診察する様子をそっと見学させてもらうことはあるけど、それはいつか僕がいい医者になるための心構えを身につけるためであって……別に、そんな」

 アタマくんは顔を赤くして頭をかいたけど、それ以上サビケンが言いつのることはなかった。他のみんなも黙っていた。ひなこさんにいたっては、あまりに日常とかけ離れたことの連続に、今はもう、アタマくんの分かるような分からないような説明にうなずくしかないようだ。

「でも、このまま放っておけないよね。栄養が不足してるに決まってる」

 マルンどんが心配そうに言った。イナが、

「うん、早く救急車を呼びましょう。私のおじいちゃんが倒れたとき、救急車で運ばれて点滴とかされてた」

「じゃあ電話しよう。えーと、この家の電話使ってもいいかな」

 ひろが電話機を探して家の中を探し出すと、ひなこさんが、

「私がかけましょうか」

 オバサナがその言葉に飛びついて、

「よかった、ひなこさんがいてくれて。子供だけだったら、不法侵入した上に勝手に家のもの使ったって問題になりそうだよ」

「そんなこともないと思うけど」

 言いながら、早速ひなこさんは連絡を入れた。

「あの、知り合いと連絡が取れなくて様子を見にきたら倒れているんです。救急車をお願いします」

 カラス仙人を見守りながらみんなジリジリと救急車の到着を待っていたが、程なくサイレンの音がして家の前に止まったのがわかった。

「来た!」

 ひろ、サビケン、マルンどん、アタマくんの順でドスドス玄関に駆け出した。カラス仙人の頭を膝に載せているひなこさんと、イナ、オバサナの二人はそこを離れず、カラス仙人を見守っていた。

 救急隊員にひなこさんは必要な情報を伝えた。それからこの人の息子も現在入院していて、できるなら同じ病院にお願いできないかということもつけ加えた。受けた救急隊員は、

「そうですか。連絡を取ってみます」

 と問い合わせてくれ、ややあってから、

「受けてくれるそうです」

 みんな心底ホッとした。全員が乗るわけにもいかず、ひなこさんが乗ることになった。

「あとは任せて。みんなはひとまずおうちに帰ってちょうだい」

「えっそんな」

 ひろだけでなく、みんなすぐに病院に駆けつける気持ちだったので拍子抜けしたが、

「もう暗くなって来たわ。おうちで心配してるだろうから、早く帰った方がいいわ。あっ私の携帯の番号」

 急いで手帳に書いて破り、アタマくんに渡した。

「代表して君に渡しとくね。何かあったら連絡しあえるように」

 そう言い残すとひなこさんは救急隊員のおじさんに向き直って、

「お願いします」

 と言い、あっという間に救急車は走り去った。アタマくんは渡された紙切れをよっつに折りたたんで、大切そうにポケットに入れた。それから腕時計を見た。

「もう五時を過ぎていたんだな。帰るって言った時間を大幅に過ぎている」

「わあ、やばーい」

 みんな口々に帰り支度を始めたが、ひろは、

「でもカラス仙人、こうしてる間にも死んでしまわないか心配だ」

 と思わず口走る。イナがまた涙目になって、

「そんな……。じゃあやっぱりこのまま帰るわけには」

「だよね」

 オバサナも加勢するが、

「ストップ! あたしたち子供には今これ以上できない。とりあえず帰ってそれぞれ策を練ってから明日にのぞもう。大丈夫。カラス仙人、そんなにやわじゃない。絶対生き延びるから」

 マルンどんが姉御肌を発揮した。

「うんそうだね。しっかり休んで策を練って、明日の朝九時頃ロビーに集合ということでどうかな」

 アタマくんがまとめたので、それに抗議する者もなく、解散となった。

「策を練るって……」

 帰り道を歩きながら、ひろはサビケンにいってみた。

「これ以上、策を練ってどうなるもんでもないような気がする」

「お前には珍しく、弱気だな」

「僕、いつも弱気だよ」

「いや、お前は弱そうに見えて、たいていのことには諦めない図太さがあるぜ。カラス仙人のことだって、お前がみんなを巻き込んでここまで来たんだぜ。すごいことだ」

 サビケンにほめられたことがこそばゆく、ひろは顔を赤くして横を向いた。それから、顔の向きを変えずに、

「そっちこそ、いつも僕を引っ張って面白い冒険をしてくれてすごいよ。それにさ、さっきなんか『諦めちゃダメだ』って、みんなを川べりまで引っ張っていってくれたじゃない。やっぱ剣ちゃん、じゃなかったサビケンはすごいと思ったよ」

「いやあ、それほどでもないけどな」

 サビケンも照れまくってぼりぼり頭をかいて、空を見上げた。

「策を練る、策を練る……」

 つぶやきながら、サビケンは思いついたように、

「それにしても、さっきカラス仙人の家の前に現れて、さっと消えたおっさんはいったい……」

 ひろもハッとして、

「やっぱり昔のカラス仙人……?」

「あのじいさんに似てたしな。なんであんなふうに現れたんだ?」

「それが策を練るヒントになるんじゃないかな」

「うーん……」

 二人で考えながら歩き続けたが、うまい考えにはたどり着かなかった。

「じゃあまた明日ね」

「明日な」


 ひろが帰宅すると、部屋には甘くてこうばしい匂いがしていた。珍しくひゃっふが早く帰っていて、パンケーキを焼いていた。

「わあいい匂い」

「早く手を洗っておいで」

「しょうすけくんは?」

「お友達と飲みに行くんだって。今日はひろと私で、サラダとパンケーキとハンバーグの夕ご飯にしよう。あ、かぼちゃのスープも作ったよ」

「わーい」

 ひろは洗面所で手を洗うと、急いで食卓に戻ってきた。

「しょうすけくんのご飯も美味しいけど、ひゃっふの作ったこういうのも大好き」

「ありがとう」

 ひゃっふは嬉しそうに笑った。二人それぞれ両手を合わせて「いただきまーす」と言った。

「おいしい、おいしい」

 ひろがパンケーキを食べ始めると、ヒャッフはニコニコしながら、

「今日も随分遅くまで頑張ったんだね」

 はっとしてひろは上目づかいでひゃっふの顔を見る。

「ごめん……。時間守らなくて」

 ひゃっふは首を振った。

「五時には間に合わなかったけど、なんとか六時前には帰ってきたから許す。それに、元気にしていて、今日も無事に帰ってきたのが何よりの親孝行だよ」

 そう言って笑うひゃっふにひろは思わず、

「何だかいつもより優しい。どうしたの」

 と、聞いてみる。

「いつも優しいよっ」

 ひゃっふは大きな声で言ってから笑った。

「ただね……さっき日記を読み返してたんだ。パンくんが出てったあと、すごく悲しい時期があったよね。毎日泣いて、泣いて……。ひろにも随分つらい思いをさせたっけ。今は前より生活も楽ではないし、私も働いたりしてるけど、しょうすけくんとひろと三人で笑って暮らせてる。そのことを思うと、ああ何だか一日一日がとても大切で、つまらないことで怒ったり、不平を言ったりするのがもったいないなあって思えてきたんだよ」

「へえ」

「で、今日はどうだったの。カラスについてどんなことが学べたのかな」

「えー、うーんと。カラスの鳴き声がうまいおじいさんが倒れて、救急車で運ばれた」

「ええっ大変じゃない。ついていかなくてよかったの」

「うん、大人の女の人がついて行ってくれたから」

「そっか……。じゃあもう自由研究は終わりだね」

「そんなことないよ。また明日みんなで集まって策を練るんだ」

「策を練る?」

「えっ、うーん……。みんなでおじいさんをお見舞いして、それからこれまでのことを考えてどうすればいいかを話し合うんだ……」

「へー。おじいさん早くよくなるといいね。なんだかよくわからないけど、ひろも言うことがしっかりしてきたね。みんなで自由研究してるからかな」

「えへへ、それほどでもないけど」

 ほめられて嬉しくなったところで、しょうすけくんが帰ってきた。

「おかえりー。割と早かったね」

 ひゃっふが言うと、

「うん。ひゃっふとひろに早く会いたくなったからな」

「またそんな調子のいいこと言ってー」

 ひゃっふがバシンとしょうすけくんの背中をたたく。

「そんなこと言ってー」

 ひろも回り込んで腕をたたく。しょうすけくんは、

「何でたたかれなきゃなんないんだよー」

 と笑いながら、パンケーキをつまみ上げて口に放り込むと「うまい」と言った。それから、

「ひろは自由研究どうだった? うまく進んだのか」

「今聞いてたとこ。おじいさんが倒れちゃったんだって。それでみんなで明日はお見舞いするんだって」

「そうかあ。なんで倒れたんだ? けがか」

 ひろは詳しく言えない不自由さを感じ、もじもじしながら、

「いや、けがじゃない。あんまり食べてなくて倒れたんじゃないかな……」

「えっ。食いもんがないのか」

「ち、違う。食べないって決めたらしいんだ。願いがかなうまで食べないって……」

「断食か」

「断食?」

「昔からお釈迦様とかイエス様とか、偉い人たちもやったらしいがな。でもほどほどにしないと、死んじゃったら何にもならないぜ」

「だよね……」

 ひろはため息をついた。心配が頭をもたげてくる。今頃、カラス仙人はどうしているだろうか。

「そのおじいさんの願いって何?」

 ひゃっふが聞いてきた。ひろは思わずたじろいだが、必死に考えをめぐらせ、

「えっそれはその。今は詳しく言えないけど……うん、息子が病気で入院してるんで治って欲しいってことじゃないかな」

 アタマくんの言い方を思い出しながら説明した。しょうすけくんは大きくうなずいて、

「うまく行くよう祈るしかないな。まあ今は、取り越し苦労しても始まらん。たこ焼きでも食おうぜ」 

 パンケーキの横に、たこ焼きの箱を置いた。ひろは大喜びで手を伸ばした。

「ちょうどしょっぱいものが欲しくなったとこだったんだ。おいしー」

 ひゃっふももぐもぐ食べ出して、

「絶品だわ。どうしたのこれ」

「友達が始めたたこ焼き屋さんのだ。うまいだろ」

「あっ、今日会ってたトムさんか」

「うん。勉の奴、会社辞めて前からやりたかったたこ焼き屋、ついに始める決心がついたんだと。今日はただの飲み会かと思ったら、みんなトムの店まで連れて行かれて、開店前の試食会とあいなった次第だぜ」

「へーすごいね。トムさん仕事辞めたって連絡きて、今日はお友達が集まって、愚痴を聞いたり慰めたりするのかと思ってたら」

「ああ、早い展開に俺も驚いた。親に一流企業行けって言われて育って大学出てから会社勤めしてたんだけど何か違うんだなーってずっと思ってたのが、会社でリストラされてかえって踏ん切りついたみたいなんだな。幸いまだ独り身で、身軽だし」

「独り身でもなくても会社勤めしてない人もいるけどね」

 ひゃっふがニヤリと笑う。しょうすけくんはいつになく神妙な顔になり、両手を合わせ、

「すまん。俺が甲斐性なくて」

「しようがないよ。向き不向きがあるんだもん。しょうすけくんは料理も掃除も家事は抜群にうまいんだから、主夫でいいんだと私は思うよ。私はお菓子を作るのは好きだけど、料理や掃除はそんなに得意じゃないし。会計事務所の所長、資格少しずつ取るの応援してくれてるからこの調子で頑張って、いつか税理士になっちゃったりして。あはは」

「すげーな」

「すごい」

 ひろもよく分からないながら、昔よりひゃっふがいきいきしているのが嬉しくてそう言った。

「とはいえ」

 しょうすけくんが話を続ける。

「ちょっとしばらくトムを手伝うことになりそうだ」

 ひゃっふはびっくりして、

「えっしょうすけくん働くの」

「うん、どうしてもって頼まれちゃってさ。友達の中で手があいてんの俺だけだったから」

 しょうすけくんは頭をかいて、照れたように笑った。

「それでもすごい。外で働く気になったんだ。もう体調こわさないといいね」

「まあ友達のとこだし、パワハラもブラック企業ってこともないだろう。まあ給料は安いだろうが」

「うん。応援するよ。家事も分担してやればいい。私の仕事はパソコン使って家でできることも多いし。所長に相談して時間のやりくり調整してもらえると思う」

「おう、ありがとうな。甲斐性無しの夫ですまんな」

「甲斐性ならしょうすけくんあるよ! 頼もしいし、料理うまいし。それに第一、かあいいっしょー」

「よせやい。八つも年上のおじさんをからかうでない」

 しょうすけくんが大いに照れてどこを見ていいか分からなくなって視線を泳がせた。しまいに天井を向いて、目を閉じてしまった。あれ、カラス仙人みたいと思いながらひろも調子に乗って、後ろからしょうすけくんの背中に飛びつき、

「かあいいっしょー」

 ひゃっふもよってきて、しょうすけくんの脇の下をくすぐった。

「かあいいっしょー」

「かあいいっしょー」」

「やめれ! やめんか」

 やがて三人の大笑いの渦となり、話の展開はひろの自由研究のことからすっかりそれてしまった。そんな中にも、ひろの脳裏を時々カラス仙人やワタルさんの姿がかすめては消えた。その夜、ひろは夢を見なかった。


   26

 翌朝、病院のロビーへ向かう道々、サビケンはいつもと様子が違っていた。なんだか口数が少なく、かといって不機嫌なわけでもない。空を見上げて、

「いい天気だなー」

 と言ったかと思うと、どこからともなく聞こえてくる小鳥の声に、

「かわいい鳴き声だなー」

 などど、らしくもない感想を述べるのだった。ひろは怪しんで、

「どしたの。いつも『うるさい雀だ』って言ってるのに」

 サビケンは気にするふうもなく、

「そっか? 今朝は可愛いって感じるんだ。どうしてかなー」

 と微笑み、さらにまわりを見回し鼻をクンクンさせて、

「あーいい匂い。花っていいもんだな」

 などと悦に入っている。ひろは黙っていた。五分ばかり歩いてから意を決し、口に両手をそえ、少しかがんでサビケンのお腹のあたりに呼びかけてみた。

「……おーい。誰か入ってる? サビケンの中に誰か違う人、入ってる?」

 「誰か違う人」からは何の返答もない。

「何だよ。なに疑ってんだよ。俺は俺だよ。誰も入ってなんかないっ」

 ひろはたじたじとなって、

「ご、ごめん。何だかいつもと違いすぎるから。デリカシーある人みたいで」

「まったく。俺はいつもデリカシーあるじゃんかよ」

「そ、そうか。でもいつもよりなんかこう、ちょっと……」

 ひろが言うと、サビケンも頭を傾げながら、

「まあ、ちょっとはいつもと違うかもな。実は夕べ俺様も夢を見たんで、やっぱりこの俺様も一目置かれていたんだって、気をよくしたのもあるかもしれない」

「ゆ、夢! 今度はサビケンが見たんだ。誰の夢を見たの」

 サビケンはニヤリと笑い、

「えっへっへ。それは後のお楽しみぃ」

 スキップをして進んでいく。ひろは無言でサビケンについていった。

 病院のロビーに着くと、みんなもう既に来ていた。

「おっサボりもせずにちゃんと来ていたな。感心、感心」

「何を偉そーに。あんたと違って時間には正確なんだよ、あたしたち」

 マルンどんが言い返す。きつい口調ではなく、半分笑いながら。サビケンはちょっと口をとがらせ、「ひでえなあ」と同意を求めるようにみんなの顔を見る。みんなも苦笑いしながらサビケンとマルンどんになんとなくうなずく。こんなやり取りがほっとさせてくれる。心配事を抱える仲間同士には、ありがたい気持ちさえわいてくる。

「まるで僕たちすごく長いこと一緒に行動しているみたいだね」

 ひろがポロリと言うと、イナも、

「本当。実際は、夏休みに入ってから数日活動しているだけなのにね」

 みんな少し黙って感慨にふけった。

「いやいや。こんなことしてる場合じゃない」

 一番先に我に返ったのは、アタマくんだった。

「早くカラス仙人に会いに行かないと」

「……無事なんだろうか。死んでたりしないよねえ」

 オバサナが不安げ言う。

「縁起でもないこと言わないで! そんなことあるわけない」

 言い返すマルンどんの声も震える。ひろも会いに行くのがこわいようでもあり、一方では、一刻も早く会いにいかなければという気持ちもある。サビケンがえっへん、と咳をした。

「大丈夫。俺は知っている」

 意味ありげにみんなの顔を見回し、ニンマリとした。

「何を知ってんの? もったいぶらないで早く言いなよ」

 マルンどんにせきたてられて、サビケンは口を開いた。

「さっき、ひろにも言ったんだが、俺様は夢を見たんだ。誰の夢だと思う? カラス仙人の夢だ」

「どんな夢だったの。早く教えて」

 ひろも催促した。みんなが詰め寄ってくるのを手で制しながら、

「わ、わかった。これから話すからそんなに押し寄せないで」

 病院のロビーの中ではたくさん人が行き来していたが、一人の少年が他の子供たちに囲まれてたじたじとなっているのを不思議そうに見る人も何人かいた。いつもと形勢逆転だ、そう思うとひろはおかしくなった。

「お、なんだ。笑ったりして」

 早速、サビケンが見とがめる。ひろは、

「ご、ごめん。笑ってる場合じゃないよね。だから早く話して」

 謝りながらも催促することは忘れなかった。サビケンはうなずき、

「じゃあ話すぜ」

 腕を組み、目を閉じ、それから重々しく言った。

「カラス仙人が、肉まんをパクパク食ってた」

 みんなの目が点になった。二十秒ばかりもたったろうか、マルンどんが口を開く。

「はああああー?」

 サビケンはもう一度、ゆっくりと言った。

「だからぁ。カラス仙人が、肉まんをパクパク食ってた」

「ちょっと、何それ」

 マルンどんがつめよった。

「あたしたち、本当に、真剣に聞いてたんだよ。ふざけるのもいい加減にしなさいっ」

 あまりの剣幕に、サビケンはしりごみしながら、 

「ふざけてなんかいない。ほんとにうまそうにパクパク食ってたんだ。だから俺、カラス仙人は大丈夫だと思った……」

 おしまいの方は消え入りそうな声になっていた。自分でも自信がなくなってきたのかもしれない。ひろはサビケンが気の毒になり、

「うん、きっと大丈夫ってことだよ」

 自分にも言い聞かせるように、力強く言ってみた。ほとんど確信は持てなかったけれど。

「とりあえず、病室へ行ってみようよ」

 アタマくんが言って、みんなその後ろをぞろぞろ歩いた。

「アタマ……。カラス仙人の病室、わかるのか?」

 サビケンが聞く。アタマくんはこともなげに、

「うん。昨日あれから家に着くとすぐ、ひなこさんの携帯にかけて、留守電入れておいた。『アタマです。何かあったらよろしくお願いします』って。朝起きたら、こんなメッセージが入ってたんだ。『ワタルくんのお父さん今、点滴受けて眠ってる。ワタルくんの病室で親子並んで寝てます』って。病室への経路もつけてくれた」

「だーっ。なんで早く見せないんだよ」

「ほんと。そんな大事な情報、なんで早く言わなかったのさ」

 サビケンとオバサナに責められるが、アタマくんはすたすた歩きながら、

「うん……。なんでかなあ」

 本人にもよくわかっていないふうなのだった。

 

 病室の前にひなこさんが立っていた。

「そろそろ来る頃だと思って」

「ひなこさんはあれからずっとついててくれたんですか」

 イナが聞くと、

「ううん。私もいったん帰宅できたの。昨日緊急治療室へ運ばれて処置を受けたんだけど、その後容態も落ち着いて」

 みんなから安堵の息がもれた。

「よかったー」

 ひなこさんは続けた。

「事情を説明して、病室をワタルくんと同じにしてもらうことができたのは運がよかったわ。私、今日はお休みをもらったのでずっとみんなと一緒にいられるからよろしくね。じゃあ、静かに入りましょう」

 言い終わると、ひなこさんはそうっと病室のドアを開けた。

「二人とも眠ってる。当たり前か」

 オバサナがつぶやく。二人とも穏やかな寝顔をしている。マルンどんがひなこさんに聞いた。

「ワタルさんは、あれから一度も目を開けないの?」

 ひなこさんはうなずいた。

「お医者様に聞いてみたわ。昨日、一瞬目を開けたように思いましたがって。そうしたら、やっぱり、無意識状態でも勝手に筋肉が動いて目を開けることはあるんですって。脳波に変化もないし、残念だけど、そういうことじゃないかって」

「そっか……」

 ひろが一番先にため息をついた。続いて、マルンどん。みんなにもため息は広がっていった。一人だけ、ため息をつかなかったのは、アタマくんだった。

「一見、そう見えるだろうが」

 口を開くと、妙に自信ありげに続けて、

「あいつらには簡単にわからないこともあるんじゃ。もっとよおく、深いところを見んとな」

「アタマ、どうした。話し方が変だぞ」

 サビケンが言う。

「もしや」

 ひろは、ベッドの上のカラス仙人を見る。目を閉じて眠ってはいるようなのだが顔をしかめ、口をもごもごさせている。まるで夢でも見ているように。そしてアタマくんはと見ると、それに合わせるように、話しているではないか。

「やっぱり! またアタマくんにカラス仙人、入っちゃったんだね」

 ひろが言うと、アタマくんが答えた。

「こいつはしっかりしているようで時々、頭の中が真っ白になるようじゃの。昨日、すんなり入れたんで、また試してみたんじゃが」

「人の体を借りなきゃならないほど、弱ってるの? ……大丈夫なの」

 イナは心配でならない様子で、アタマくんから眠っているカラス仙人本体へと目を移した。

「お医者様、呼んで来ましょうか」

 ひなこさんも心配そうだ。

「いやいや、今は邪魔が入ると困る。わしのことは心配せんでいい。自分の口でしゃべることはできんらしいがの。どうも、体に力が入らんのじゃよ。それに……体がわしを拒絶するんでの。アタマには悪いが、ちょっとの間、この体を借りて話をしよう」

「アタマ、ふびんな奴。ここまで来て、のけものかい」

 サビケンがつぶやくと、マルンどんがひじでつつく。

「後から話してやるからいいって」

 アタマくんがこの場に居合わせないのは、ひろにも気の毒に思えたが、心の中で詫びながら言った。

「うん、しようがないよ。ねえカラス仙人、ワタルさんが心配して僕の夢に出て来たの、教えたっけ。ワタルさんも必死でカラス仙人を助けようとしていたんだよ」

 カラス仙人(体はアタマくん)が、涙を浮かべながらうなずいた。

「ああ、ああ……。よくわかった。こいつはこんな状態になっても自分のことよりわしや他のもののことを考える奴なんじゃ。わしはなあ、カラスになってワタルを探しながら、ずっと考えたんじゃ。わしはどこで間違ったんじゃろうと。わしはこいつが学校へ行かなくなったとき、非常に動揺した。腹も立った。でも、いつしか、このままでいいかと思うようになった。そして、ずっと穏やかに暮らしてきたんじゃ。あの事故がなければ、今でもそうしていたじゃろう」

 みんな、食い入るようにカラス仙人(体はアタマくん)を見ていた。しばしうつむいて、肩を震わせているその姿に誰も、かける言葉が見つからない。かに思えたが、すっとんきょうな声が響いた。

「でさ、ゆうべ俺の夢にやってきた? 肉まんたくさん食ってたの、やっぱりカラス仙人だよね」

 あっけにとられてみんなの視線がサビケンに集中する。

「こんなときに何言ってんの」

 マルンどんが聞きとがめるが、サビケンはことのほか真剣な面持ちで、

「いや俺の信用にかかわる。ねえ、ゆうべ俺の夢の中でうまそうに何個も肉まん食ってたの、あれカラス仙人だよな」

「知らん」

 カラス仙人(体はアタマくん)は冷たく言い放つと、オバサナの方を見た。

「ああ、あれくれ。あれが食いたくなった。ミント」

 サビケンはガックリして、その場にしゃがみこんでしまった。その横でオバサナがさっと取り出す。

「用意して来たよ。貴重なヤツ」

 待ち遠しげに口を開けて待っている相手を見て、オバサナはプッと吹き出した。

「アタマくんがこんなまぬけ面して口開けてるの、初めて見たわ」

 マルンどんも同意する。

「だよね。いつもきっちり、隙がない感じだもんね」

 つくづくみんなが眺めていると、当の本人は、

「こら早くせんか。顎が疲れるわい」

 と言ったので、オバサナはあわててその口に飴を放り込む。

「うまいぞ」 

 頬をふくらませ、もごもご言わせて味を堪能している。

「えへへ、よかったね」

 オバサナが喜ぶ。イナも、

「食べてくれてよかった」

 何度もうなずくのだった。全員黙って飴玉を口の中で転がしているカラス仙人(体はアタマくん)をしばらく見守っていた。ひろはふと思ったことを言ってみる。

「今食べている飴の栄養はカラス仙人のものになるのかな、それともアタマくんのものになるのかな」

「……よくわからんが、わしが食いたくて食ってるときは、何だか力がわくんじゃ。ミントも、どんぐりもそうじゃ。……あの肉まんもうまかったな、ホカホカしてやわらこうて」

 言ってから、ハッとして口をつぐみ、両手を当てた。サビケンがガバッと起き上がった。目を輝かせて、

「ほらやっぱりだ。皿にてんこ盛りの肉まん並べて、俺が食おうとしたらカラス仙人がやって来て、俺を押しのけてガツガツ食い出したんだよ。今さら恥ずかしがっても駄目だぜ」

「知らん」

 決まり悪そうに、カラス仙人(体はアタマくん)はそっぽを向く。

「ねえ、カラス仙人。さっきのお話の続きを」

 イナが言った。

「おお、お前は相変わらずめんこいのう」

 目を細めて何度もうなずくのだけれど、アタマくんの姿でそう言われてイナは困ったような顔をし、頭をなでようと伸ばされた手をとっさにかわし、少し後ずさりするのだった。

「そうか。お前のことは孫のように感じていたんじゃがのう」

 しょぼんとしたカラス仙人(体はアタマくん)にイナは近づき、あやまった。

「ごめんね。慣れてないだけだけだから、気にしないで。だってアタマくんに頭なでられるなんて思ってもみなかったから」

「そんなことどうでもいいじゃんか。早く話を進めてくれよ」

 サビケンもようやく夢へのこだわりを捨てたらしい。マルンどんも、

「聞きたいこともあるんだから、早く話して。ねえ、ひなこさん」

 同意を求められ、ひなこさんは遠慮がちにうなずいた。続いてオバサナが、

「昨日、変な人が一瞬、カラス仙人の玄関に現れてふっと消えたんだ。あれ誰かわかる?」

 ひろも、

「なら僕にも言わせて。ねえ、あれもしかしたら、今よりも若いときのカラス仙人なの?」

 立て続けに聞かれて、本人は激しく首を振り出した。

「そんなにいっぺんに言うな。分からん、分からーん」

 病室中に響いた。まもなくズンズンと近づいてくる足音がした。ドアがノックされ、もりもりした頬のあの看護師さんがのぞいた。

「もうちょっと静かにしなきゃダメよ、坊やたち」

 と言い、ドアを閉めた。

「誰が坊やじゃ」

 カラス仙人(体はアタマくん)は不快げに言い放つ。

「それにしても、あのふっくらした顔はあの肉まんに似ているな」

 一人、納得顔にうなずく。サビケンはあきれ返って、もう問いつめることもしない。静まり返った病室で誰も彼も動かず、時が止まったようになった。動いているものといえば、眠っている病人それぞれに施された装置だけ。点滴が一滴一滴落ちていく。

「ワタルさん、いつにも増してきれいな寝顔をしてるみたい」

 イナが言う。

「いい夢でも見てるのかな」

 ひろが言う。

「お父さんが隣で寝てるって知ったらどう思うだろう」

 と、マルンどん。

「カラス仙人の方もおとなしく寝てるけど、きれいな寝顔でもないねえ」

 オバサナが言うと、ひなこさんが、

「でも優しそうな顔して寝てるわよ」

 すると、えへんと声がして、  

「そんなこともないがな。わしも息子のそばに来られて嬉しいわい。お前たちには感謝している。本当にありがとうな」

 カラス仙人(体はアタマくん)は一人一人にしんみりと頭を下げ始めた。

「ああ……、そんなことしなくていいから。ねえ、みんな」

 ひろは言いながら、みんなの顔を見回す。

「それよりも話をしてよ。ねえカラス仙人。今、いったいどんな状況なの?」

 カラス仙人(体はアタマくん)はひょこっと頭を上げて、

「ああそうじゃった、そうじゃった。ミントのおかげでエネルギー補給もできたから話すとしよう。そうとも、ひろ。お前が言った通り、玄関にいたのは体から抜け出したわしの姿じゃ。わしはあのとき、家に戻ってうろついていたんじゃ。どうしていいかわからなくてな。わしは思った。わしはどこで間違えたんだ、と。昔わしは長いことかかって、全てを受け入れた。ワタルが家へこもるようになったのを仕方がないと思うようになった、好きな本を読んだり、カラスの子を育てたり、道路がひっそりしている時間に外を散歩したり、それで満足しているワタルを見ているうちにわしはそれでいいんだと思うようになっていったんじゃ。しかし、こうなってみればどうじゃ。わしは死ぬかもしれない。あいつの大事な相棒のカラスの子も死んでしまった。あいつがもしかして目覚めたところで、あいつはひとりぼっちだ。どうやって生きていくんだ。わしは間違っていたのかもしれん。ワタルが学校に行かなくなったばかりの頃はわしも今とは違っておった。わしが力強く励まして外へ出さなくては。そんなふうに考えることもあったんじゃ。それがあのわし、お前らが見た昔のわしじゃ。昨日、河原から離れてふらふらさまよっているうちに、どんどんあの頃の気持ちに引き戻されていった。気がついたらあそこに立っていた。お前らが言うからには、姿も昔に戻っていたんじゃろ。諦める前のわし、無理矢理にでもワタルを学校へ行かせようとしていた頃の、悩み苦しんでいた頃のわしじゃ。わしは思った、ああ、あのときわしは諦めないで、なんとかワタルを学校へ連れ出すべきだったんじゃなかったろうか、と。できるものなら、父親として間違ったところからやり直せないものかと。しょせん、無理な話じゃが……」

「間違えてなんかいないと思います」

 りんと響く声がした。

「……? 誰じゃ、あんたは。さっきから子供らと一緒にいて、当たり前みたいにとけこんでいたから、大して疑問にも思わんじゃったが」

「あ、私……鳥居ひなこと申します。姉の翔子がワタルさんを。……本当に本当に、申し訳ございませんでした」

 ひなこさんはうって変わって、おびえたように何度も頭を下げた。

「ああ、何度か詫びに来たな。わしはあんたらの顔もろくろく見もせんで、いつも邪険に追い払ってた」

 ひろは割って入った。

「カラス仙人。そのことでワタルさんは僕の夢に出て来たんだよ。翔子さんはお医者さんになる夢も何もかも捨てて、外国に行ってしまって、ひなこさんはそのことでも苦しんでるし、ワタルさんのことでも苦しんでるって。ひなこさんは小学生の頃、ワタルさんの同級生だったんだよ。ひなこさんはワタルさんに助けてもらったことを今でも感謝してるけど、ワタルさんのほうは、ひなこさんを最後まで助けてあげられなかったって、ずっと申し訳なく思ってきたようなんだ」

 イナも急いでつけ加えた。

「あたしの夢にはカラスの子が来たの。カラス仙人を助けてって。それからワタルさんもこのままでは体に戻れなくなってしまうって、心配していたわ」

「それに、ひなこさんは、カラス仙人が救急車で運ばれるときずっとつきそってくれたんですよ。ワタルさんと同じ病室になるように頼んでもくれたんですよっ」

 と、マルンどん。カラス仙人(体はアタマくん)は力なく片手をあげ、椅子に身を沈めながら、

「ああ、ああ、またいっぺんにしゃべる。疲れるから、ゆっくり話してくれんか……」

 そう言ってから、ひなこさんに向き直ると、

「いろいろありがとうな。……そして、あんたらには申し訳ないことをした。もうわしにもわかっとる。あの事故は仕方がないことだったと。で、『間違えてない』とはどういう意味じゃ。わしはな、ワタルが外に向かって強く生きていけるような人間に育てられなかったのを親として悔いているんじゃ。狭い世界に閉じこもって、わしがいなくなったらあいつはひとりぼっちじゃ。あいつの意識が戻るのをわしは心底望んでおる。じゃが、もう一方で、こんな気持ちもある。もしあいつが目を覚ましても、あいつは一人で生きていけるのだろうかと。だから、わしはあせった。わしが何かできるうちに、あいつと外の世界をつなぐことができんものかと。いくら思いめぐらしても、いい考えが思いつかなんだ。そして、絶望した。わしは絶対に間違ってはいけないときに、間違ってしまったのじゃと。もう取り返しがつかないんじゃと。……なのに今、あんたは『間違えていない』と言う。そのわけを、よかったら聞かせてくれんか」

 ひなこさんが答えようとした。そのとき、別なところから声が聞こえた。

「僕が話すよ」

 ワタルさんが目を開けて、みんなの方を見ていた。


27   

「えええええーっ」

 みんな、ほぼ同時に叫んだ。廊下に足音がして、例のもりもりほっぺの看護師さんがジロリと顔をのぞかせた。

「な、なんでもないっす」

 あわててサビケンが進み出て、ワタルさんを見えないようにした。他のみんなも同じく、ここで邪魔をされたくない一心で、看護師さんに近づいて、口々に言った。

「ごめんなさい。もう絶対騒ぎません」

「びっくりしただけなんです」

 看護師さんは鋭くにらみ返して、

「びっくり?」

 マルンどんがサビケンを押しのけて前へ回る。

 「そうです、そうです。こ、この人がくしゃみした拍子に、パ、パンツのゴムが切れてパチンって大きな音がしたもんだから」

 人差し指でサビケンを指さす。

「な、なに」

 指さされた当人も自分を指差し、すっとんきょうな声を出すが、それを押しとどめてひろも、

「そ、そうです。でも切れちゃったから、もうこれ以上切れないんで。パンツのゴムが切れても、ズボンはいてるから大丈夫ですし」

 意味不明な言いつくろいを重ねる。オバサナのがっしりした手で口を押さえられているサビケンはふがふが言ってるが、それ以上の言葉は出てこない。おばさん看護師はしようもないという顔でため息をつくと、

「まあいいわ。でも多めに見るのは今回までよ。今度騒いだら、出ていってもらいますからね。ひなこちゃんがついていながら、ほんともう」

 ひなこさんがあわてて、

「本当にごめんなさい。無理を言って、特別にお見舞いさせてもらっているのに。でも、もう二度と大きな声はあげません。それに、時間がきたら、ちゃんと約束を守って出ていきますから」

 深く何度も頭を下げた。みんなも合わせてペコペコお辞儀する。

「ほんとに約束守ってよね」

 念を押して、去って行った。みんな顔を見合わせて、やれやれという感じで小さく笑った。

「あの看護師さん明るくていい人なんだけど、朝、夫婦げんかしたときは機嫌が悪くなるんだって。以前、自分で言ってた。そういうときは気配で察してねって」

 ひなこさんが言い、苦笑する。

「ったく、俺にぬれ衣を着せやがって……」

 サビケンが渋い顔をする。マルンどんとひろが「ごめん」と言うと、案外あっさりと、

「まあ許してやる。パンツのゴムごときで、俺様の偉大さは傷つかない」

 みんな笑った。笑っていないのは、二人だけだった。カラス仙人(体はアタマくん)と、それから。みんな大変なことを思い出して、また大きな声で叫びそうになった。そしてこれまた同時に、あわてて口を抑えた。ワタルさんの方へ駆け寄って、口々にその名を呼んだ。とはいえ、なるべく小さい声で。

「ワタルさん、大丈夫」

「ワタルくん。本当に目覚めたの」

「ワタルさん」

「ワタルさん」

「ワタルさん」

 おしまいに、カラス仙人(体はアタマくん)が、

「おお、ワタル。目覚めたか」

 と言い、深く息をつくと、へなへなとその場にくずおれる。一番近くにいたオバサナがとっさにその体をかかえこんだ。ひなこさん、ひろも手をかして、ゆっくりパイプ椅子に座らせた。

「カラス仙人」

 大声を出しそうになるのを互いに押しとどめ、みんな今度は倒れているカラス仙人(体はアタマくん)を取り囲む。ワタルさんは目は開けているが、じっと天井を見て黙っていた。

「うーん……」

 みんなが見守る中、カラス仙人(体はアタマくん)はゆっくりと目を開いた。

「あれ、僕どうしてここに座ってるのかな」

「お前、アタマなんだ」

 サビケンががっかりした声で言った。

「え、どういうこと。僕が僕であっちゃあ、いけないってこと?」

 アタマくんがピクリと反応するが、誰も返事をする気力がわかない。ひろは寝ている方のカラス仙人を見た。穏やかに目を閉じている。

 ―― じゃあ今、カラス仙人いったいどこにいるんだろう?

「ねえ、何のこと……」

 アタマくんがもう一度聞き返した。そのとき、病室に聞きなれない声が響いた。

「いや、いいんだよ。アタマくんはアタマくんのままで」

 ワタルさんがしゃべっていた。みんな声も出ず、ワタルさんの方に向き直った。ワタルさんは言葉を継いだ。

「アタマくん、ごめんね。父が君の体を借りていたんだ……。今、出ていったから安心して。すっかり感覚が戻るまでそこでゆっくり休んでいてくれるかい」

「は、はい」

 まだアタマくんは頭がぼうっとしているのか、ワタルさんがこれまで意識不明だった人とは思えないくらいによどみなく話すのをさして不思議に思うこともないらしく、素直にうなずいた。ひなこさんがもう目をうるませて、語りかけた。

「ワタルくん、ああ……。本当に目覚めたのね」

 ワタルさんの目が、懐かしそうにひなこさんの方へ動いた。

「ひなこちゃん、大きくなったね……。いつもお見舞いに来てくれていたね。ありがとう」

「知っていたのね」

「うん、ふわふわ上を漂いながら、見てたんだ……。お姉さんには気の毒なことしてしまった」

「姉こそワタルくんをこんなふうにしてしまって……」

「カラスの子のせいだ。そして、カラスの子がやったことは育ての親の、僕の責任だ」

 二人の目が合った。サビケンが咳をする。

「ちょっと、ちょっとお二人さん。いいムードになるのはいいけど、俺らがいること忘れないでよ」

「あ……」

 ひなこさんは恥ずかしげに下を向き、ワタルさんは照れたように笑った。白い歯がのぞき、温かい笑顔だった。

「ワタルさん、具合大丈夫ですか。目が覚めたこと、お医者さんにすぐ言わなきゃいけない? 僕たちその前に急いで話さなきゃいけないことがあるんだけど」

「父さんのことだね。……もちろん、今話すことにしよう。それに目覚めたっていっても、本格的なものじゃない。そもそも口もこわばらずに、突然こんなにすらすら話せるのもおかしいだろう? お医者さんたちには今は知らせない方がいいんだ。ちょっと神秘的な力を借りてるものだから……」

「神秘的な力?」

「うん、まあ本格的な覚醒とは違うんだ。だから、部分的にしか動かせない。目とか口とか……。これから時間をかけて、ゆっくり目覚めていくことになるんだろうけど」

「難しいことは考えてもわからないからいいわ。話を元に戻しましょうよ、ワタルさん。カラス仙人の、あ、ワタルさんのお父さんの質問に答えてくれますか」

 マルンどんがテキパキと質問した。ワタルさんは小さく笑った。

「『カラス仙人』でいいよ、知ってるから。面白い名前だね。父さんも気に入ってるみたいだ」

「でしょう。あたしがアタマくんと相談していろいろ考えたんですよ。センスいいでしょう」

 得意げに話し始めたので、サビケンが、

「また脱線する。自慢できると見るや、すぐこれだ。早く話を元に戻そうぜ」

 名指しされたアタマくんも、

「そうだね。それに僕はそんなに名前つけるのに貢献してるとは思わないし……。まだ何が何だか分からないとこあるけど、想像しながら話を聞くことにするよ」 

 そう言ったので、マルンどんもおとなしくワタルさんの話を聞く気になったらしい。静まった病室に、ワタルさんの声が流れていく。

「父さんがアタマくんの体を借りて話している間、全部僕には聞こえていた。はじめのうちは体から離れた状態で、少し高いところに浮かびながらって感じだったけど、途中から耳を通して聞こえてくる感覚に変わってきた。気がついたらこの動きにくい体の中にいて、ベッドに横たわりながら聞いていたんだ。父さんは言った。絶対に間違ってはいけないときに間違ってしまった、もう取り返しがつかないと。でも、僕はそうは思わない。父さんが間違っていたとは思わない。なぜなら」

「なぜなら?」

 ひろは思わず前に身を乗り出した。

「なぜなら、僕にはこれから世界が広がっていくと思うから。これまでのことは全部、そこへつながるための準備期間だったと思うから。僕はもう、閉ざされた場所で生きていこうとは思わない。うまく体が動かせるようになったら、まず君たちに会いにいくよ。父さんが心配したようにはならない」

「僕たちに会う」

 アタマくんがおうむ返しに言った。だんだん意識がはっきりしてきたようだ。

「それってつまり、ワタルさんは外に出て、人とかかわって生きていこうということですか」

 ワタルさんは体が動かしづらいのか、顔は上向いたまま、澄んだ目だけをアタマくんの方に移した。

「そう。体から離れてみんなのことを見ているうちに、人にかかわるのも悪くないって思えてきたんだ」

 それからふうっとため息をついて、

「この体、こわばってうまく動かせない。でも話すのだけ出来るのが幸いだ。やっぱり助けてもらっているんだな……」

 口元がうっすら微笑んだ。

「誰かが助けてくれてるって、それはさっき言った『神秘的な力』……? 神様のことかな」

 ひろが聞き返すと、ふふっと笑って、

「かもね。僕がこんなふうになってから、ほとほと困ってしまうたび、何かに導かれるように道が開けてきたんだ。父さんに一度だけ会いに行けたときも、ひろくんの夢に入り込めたときも、そんな感じだった。それから今、こうしてみんなと一緒にいられるのもそうなんじゃないかって思うんだよ。神様なのかな、カラスの子かな、それとも……」

 小さく笑う。みんなも誘われて少し笑顔になった。

「話を元に戻すけど、僕はさ、小学生のあの頃、人間ってものに絶望したんだと思う。もう他人に会うのが恐ろしいくらいにね。あのときは、どうして学校に行けなくなったのか、自分でもよくわからなかったけど。学校へ行こうとしても、どうしても体が動かなかった。父さんにも悪いし、焦る気持ちはあったんだ。でもどうしても駄目で、そのうちどんどん月日が流れて……」

 ふうっと息をついた。

「疲れたの?」

 ひなこさんが聞く。ワタルさんは少しの間黙っていたが、やっとというふうに、

「あれ、何だかうまく話せなく……なってきた……。何だか眠い……。あれ、どう……した……の……かな……」

 そして、目を閉じてしまった。

「ワタルくん!」

 ひなこさんが駆け寄るが、もうワタルさんはすやすや眠っていた。

「続き、聞けなくなっちゃったね」

 ひろが残念そうに言う。マルンどんがひなこさんの方を向いて、

「ねえひなこさんも、間違っていないって言いましたよね。ワタルさんが言おうとしていたことと同じですか?」

 ひなこさんはちょっと戸惑ったようだったが、静かに口を開くと、

「そうね……。同じとは限らないけど……話してもいい?」

 柔らかく微笑むと、みんなを見た。みんなはしっかりうなずいて、ひなこさんの言葉を待った。病室の外で遠く人の行きかう音がする。ひなこさんは話を継いだ。

「私が感じていたのは、ワタルくんはお父さんのおかげでじゅうぶん傷ついた心をいやすことができたんだということ。他人がこわくなってもう外へ気持ちが向かなくなったのを、お父さんは受け止めてくれた。すっかり傷がいえるまで見守っていてくれた。だからワタルさんは自分の好きなように本を読んだり、誰もいない時間に散歩したり、カラスの子を救い上げて育てたりできたんだわ。そうして事故にあってしまったけど、その後も、思いがけない素敵な展開が待っていたんだもの」

「素敵な展開?」

 マルンどんが聞き返す。ひなこさんはにっこり微笑んだ。

「あなたたちのことよ。こんなにも一生懸命になってくれた。ワタルくんは、もしかしたら人ってそんなにこわくないかもって思えるようになったんじゃないかしら。……世の中にはたくさんの人がいるからそのなかには、こわい人もいるかもしれないけど、そればかりじゃない。もっと信じられる人もいるんじゃないかって……。案外近くにも、案外たくさん」

 オバサナがゲヘヘ……と笑う。照れまくり、頭をかき体をくねらせながら、

「そんなあ。あたしたち、ただの子供だよ」

 そんなオバサナをサビケンがつつく。

「そりゃあお前はただの子供だよ、おばさんくさいのを除けばな。でもみんながみんな、ただの子供ってわけじゃない。俺なんか、ちょっとした、その、なんだな。ワビとサビがわかる、いっぱしの人間っていうか」

「何また訳のわかんないこと言ってんのさ」

 マルンどんはサビケンを押しのけ、ちょっと真面目な顔になって、

「ひなこさん、それだったら……。あたしたち、しっちゃかめっちゃかやってばかりだったけど、無駄じゃなかったってこと……?」

「もちろん」

 ひなこさんはさらに微笑んだ。

「そっか……。実はあたし、迷惑かけたりしてるんじゃないかって思ってたんだけど。カラス仙人のことだって、あたしたちが追いかけたりしなければ、カラス仙人が思いつめられてあんなに危ない行動に出なかったんじゃないかって、少しずつ後悔し始めてたんだ」

「お前、そんなに繊細だったっけか。心臓がもう毛むくじゃらって感じだけどな」

「あんたに言われたくない、バカヤロウ」

 言いながらも、マルンどんは心底安心した様子で、目がうるんでいる。イナがよりそって、マルンどんの背にそっと手をそえた。

「わかる。あたしも責任感じ始めてた……。だってカラス仙人、死にそうだったんだもの。本当に、どうしようかって」

 その声も震えていた。ひなこさんは大きくうなずいて、

「お医者様の話では、容態も落ち着いてあとは回復を待つだけと言うことだったわ。でも、本当に不思議。カラスになっていたことだとか、体から抜け出たり、アタマくんの体に乗り移ったり……。勿論、こんなこと、お医者様には言えないけど」

 病室に静けさが戻った。やがて廊下に物音が響いて、回診の一団が近づいてきたのが分かった。

「そろそろ出ようか」

 ひろが言った。


「気持ちいー」

 病院前の明るい光の中に出て、オバサナが思いっきり伸びをした。噴水のしぶきがキラキラ輝いている。ひなこさんはアタマくんの顔をのぞき見みながら、

「大丈夫……? 調子は戻ったかしら」

 アタマくんはちょっとまぶしそうに目を細めて、

「……はい。大丈夫そうです。カラス仙人が僕の体に入っていたという間のことも、なんとなく記憶の中に残ってるみたいです。ぼんやり思い出せます」

「お前、ぼんやりするからカラス仙人に簡単に体乗っ取られるんだよ。しっかりせい」

 サビケンがバンとアタマくんの背をたたく。

ひなこさんはクスッと笑って、

「ぼうっとするのも、心が落ち着いたりいいアイディアが浮かんだり、いいことがいっぱいあるらしいわよ。瞑想だっけ」

「そうなんです。だから僕、一日に何度もぼうっとすることに決めてるんです」

 アタマくんが嬉しそうに言った。ひろはいつも冷静なアタマくんが、ひなこさんと話すときにはこれまで見たことがないような笑顔になるのに気づいた。

「あああー、これからあの親子、どうなるのかなあ」

 オバサナも大きく伸びをして言った。

「二人とも目覚めたら、これからどんどんよくなる気がする。元気に退院したら親子で古本屋さんをするようになって、あたしたちもしょっちゅう遊びにいくし、ワタルさんも人がこわくなくなるからお友達もできるし」

 イナが続ける。マルンどんも、

「恋人もできるんじゃない。それから結婚」

 ハッとしてひなこさんを見る。みんなの目がひなこさんに集中した。

「えっな、なに……」

 かなりうろたえて、ひなこさんは言葉に詰まった。オバサナがゲヘヘ……と笑って、

「ひなこさんとワタルさんお似合いだよ。ひなこさんは優しくてきれいだし、ワタルさんもさっき目を開けてみたらあんまりかっこよくて、あたしビックリした。それに子供の頃ひなこさんをかばってくれたなんて。もしかしたらあの頃からワタルさん、ひなこさんのこと好きだったのかも」

 そう一気に言うと、またゲヘヘ……と体をくねらせて笑った。アタマくんが、

「なに君が照れてるのさ。ワタルさんはあのときひなこさんを最後までちゃんと守れなかったんだよ。ひなこさんだって選ぶ権利があるんだからね。第一、親子して意識不明で入院しちゃって、入院費とかどうするの。大変なこと抱えてるのに、変な憶測しないほうがいいと思うよ」

 アタマくんらしからぬトゲのある発言にみんなちょっと引いた。オバサナもややたじたじとなり、

「随分ワタルさんに厳しいね。一体どうしちゃったの」


28

「あ、入院費のことはね」

 ひなこさんがあわてて口を開いた。

「ワタルくんのお父さんがまとまったお金を病院に預けてあるのよ。通常では考えられないくらいの、かなりのまとまった額のお金を。だから多分、みんなが心配しなくて大丈夫……」

「そうなんだ……。自分にもしものことがあったらとか、なんか予感があったのかなあ」

 と、マルンどん。

「アタマ、ちょっと言いすぎたな」

 サビケンに言われて、アタマくんは下を向いて黙りこむ。気まずい沈黙を破りたくて、ひろは口を開いた。思いつくままに、

「誰でもうまく行かないときや失敗することはあるよ。失敗は次にいかせばいいって、いつもしょうすけくんが言ってる。ワタルさんだって、失敗があったからあんないい人になれたんじゃないの? それにさ、今オバサナが憶測言ったってこととか、アタマくんが厳しいこと言ったってことだって、ちょっとした失敗だって考えれば、次にいかせばいいだけのことなんじゃないの。そ、そうだ。成長のチャンスだと思えば」

 マルンどんがポンと手を打ち、

「あんた、案外いいこと言うね」

 と言ったかと思うと、

「……で、しょうすけくんって誰」

 ズケズケと聞いてきた。サビケンがいつになくデリカシーをきかせてフォローする。

「あ、こいつの親父。こいつすげえんだ、親父が二人もいるんだぜ。いいだろう」

 一瞬みんな黙り込んだが、ひろはさばさばとした口調で、

「僕のお母さん、離婚して再婚したんだ。お父さんが出ていってしばらく泣いてたけど、だんだん元気を取り戻して、それからしょうすけくんに出会って再婚したんだ。だから今はハッピーさ。ま、時々親子げんかをしたり、気まずいこともあるけどね。別れたお父さんも反省したのか養育費も払ってるし、月に一度の面会日には僕を遊びにつれていってもくれる」

 サビケンのおかげか、こだわらずにつけ加えることが出来た。

「そっかー。ならいいかあ」

 マルンどんが納得したように言った。それ以上追求する者は誰もいなかった。ひなこさんが両手を開いて胸いっぱいに息を吸い込む。

「噴水、気持ちいいわね」

「ほんと。……ひなこさん、さっきはあたし変なこと言って気を悪くした? ごめんね」

 オバサナが珍しく遠慮がちに言った。ひなこさんは優しく首を振って、

「そんなことないわよ。私、ワタルくんのように嘘のない人好きだもの。選ぶ権利があるとしたら……ワタルくんの方こそ私みたいなダメ人間、まっぴらだと思うけどね」

 いたずらっぽくクスリと笑った。

「ダメ人間なんて、そんなことないに決まってます」

 即座にアタマくんが言った。

「ウヒヒヒヒ……」

 サビケンが含み笑いをする。横目でアタマくんの顔をジロジロ見ながら、

「そうか。アタマの気持ちはよくわかった。いやー、俺は驚いたよ。お前にもそんな気持ちが存在するなんてな」

 アタマくんの背中を何回か軽くたたいた。

「な、なんのこと」

 アタマくんがムキになって言い返すと、

「ちょっと。やめなよ、サビケン。どうしてあんたはいつもみんなの和を乱すようなことばっか言うのさ」

 マルンどんが止めにかかる。

「何のことだよ。俺は和を乱したりなんてしていない。俺様はワビ、サビのわかる男なんだからな」

「何言ってんのさ。アタマくんがひなこさんのことを好きだからって、からかう筋合いはあんたにないっ」

 あまりにズバリと言い切ったので、サビケン以外のみんなもしんとした。

「気まずい……気まずいなあ」

 思わずひろはつぶやいた。イナとオバサナは顔を見合わせる。オバサナは手を振りながら、

「まあまあマルンどんも落ち着いて。そんな、仲間割れするようなことじゃないっしょ」

 マルンどんは黙ってサビケンとにらみあっている。イナは気まずい空気に耐えきれず、下を向いてしまった。アタマくんはぼんやり口を開けて宙を見ている。メガネに手をかけて態勢を立て直す気力もないらしい。沈黙を破って明るく笑ったのは、ひなこさんだった。

「私はみんなのことが大好きよ。アタマくんもサビケンくんもマルンどんちゃんも。オバサナちゃんもイナちゃんも、ひろくんもね。仲良くしましょうよ。時間がもったいない。私ね、みんなと一緒にいてつくづく思ったの。こんな仲間がいてくれたら、小学生の頃ワタルくんも私ももっとのびのびと楽しく過ごせたんじゃないかって。違う学校生活を送れて、違う大人になって、違う未来になっていたのじゃないかって。でも、今からでも遅くない。これからいくらでも未来は変えられるっていう気持ちになれた」

「す、すごい」

 ひろは思わず言った。

「ひなこさん、どうしてそんなに前向きなの。偉すぎる」

 ひなこさんはまたクスッと笑った。

「君たちのおかげよ。みんなが頑張ってる姿を見て、勇気をもらえたの。みんなには本当に感謝してる。私、今晩、姉に連絡とってワタルくんが目覚め始めたこと伝えるわ。ワタルくんのお父さんのことも。それから、カラスの子のこと、君たちのことも全部ね」

「信じてくれるかな」

 ひろが言うと、マルンどんが、

「ひなこさんはお姉さんの一番の味方なんだから。ひなこさんの言うことならきっと信じてくれるよ」

「話長くなりそう。電話代かかるねー」

 オバサナが言うと、

「っち。シラけるなー。せっかく感動してたのによ」

 と、サビケン。

「大丈夫よ。今はインターネットを使ったテレビ電話があるから」

 ひなこさんが言うと、アタマくんも、

「スカイプとか、無料でいくらでも話せるんだよ」

 と追加説明する。ひろやマルンどんも、うんうんと大きくうなずく。イナとサビケンはそうなんだという顔をした。オバサナはまだよくわからないらしく、

「スカンポ。あの山菜たまにばあちゃんが送ってくるけど、あんまり好きじゃない」

 言った途端、みんなの中から笑いがはじけた。オバサナもよくわからないながらつられて笑い、気まずい空気は流れ去った。

「これからどうする?」

 サビケンが言うと、マルンどんが、

「回診終わったんじゃない? もう一度会いに行こうか」

「疲れないかな」

 イナが心配そうに言う。

「どうせ寝てるんだから、疲れっこないさあ」

 オバサナがガハハ……と笑うが、

「でもあたし、ちょっとお腹がすいちゃったかな」

「リュックにいろいろ入ってんじゃないの」

「それがさあ、カラス仙人のことが心配で急いで出てきたから」

 ひなこさんが両手を広げ、

「そうね、私たちも栄養補給しないと。病院の中の食堂でよければおごったげる。私もお腹がすいてきたところだったの。行きましょう」

 言うと同時に、歩き出した。

「え、そんな。いいのかな」

 遠慮すると思いきやオバサナはいそいそと、すっかり乗り気だ。みんなもついていった。


 お昼時間をとうに過ぎて、食堂はすいていた。カツ丼を食べながら、サビケンが言った。

「うめえ。けっこういけますね」

 ひなこさんはニコニコしてサンドイッチとコーヒーを取っている。

「でしょう。そんなに悪くはないわよね」

「ご馳走になっていて、どこまでも失礼な奴ですみません」

 マルンどんが頭をさげる。それから、オムライスをひとさじすくい取って口に入れた。

「おいし~~。卵がとろける」

「偉そうに。俺の母ちゃんでもないのに」

 サビケンはぶつくさ言いながらも、それほど腹は立てていない模様である。よほごカツ丼が美味しいんだろうとひろは思った。ひろが食べているのはカレーライスだ。「だいたいどこで食べてもカレーライスでハズレと感じたことはない。頼むのに迷ったときは、カレーを頼むといい」と、面会日に外食するときパンくんが時々言う。確かに今食べているカレーライスも美味しい。具は少なめだけど、甘みも辛さもちょうどよく、きっとたくさんのお客さんが美味しく食べる味なんだろうと思う。おいもをかんで飲み込みながら、不意に、しょうすけくんが作ってくれるカレーライスの味を思い出した。煮込みすぎて、おいもが溶けかかってしまうこともあるし、お皿からあふれそうなほどルーがかかっていることもある。だけど、あのカレーも抜群に美味しいな、と思う。

「ところで、僕たちの本来の目的はどうなったんだろう。自由研究のことだけど」

 アタマくんが唐突に言う。

「本来の目的? お前の目的はその五目めんをさっさと食うことじゃね」

 さっとサビケンが切り返すと、オバサナはゲヘヘ……と笑う。

「わっきったねー。お前の口からラーメンの汁がこっちまで飛んで来たじゃねーか」

 あわてて自分の丼をオバサナと反対の方向へ避難させる。忙しいサビケンである。

「ごめんごめん、でもアタマくんがあまりにもくそ真面目だからおかしくてさ」

 イナが親子丼の箸を止めて、

「ごめん、アタマくん。あたしも自由研究のことは忘れてない。でも、でも今は……。カラス仙人とワタルさんのことが心配で、そっちを優先したい」

 みんなもうんうんとうなずく。オバサナはイナを見て、嬉しそうだ。アタマくんは黙って頭をかいた。ひなこさんは微笑んで、

「自由研究が最初だったんですものね。そうしてこんな展開に……。それにしてもあなたたちはいい子ね。いい仲間たちね」

「いやーそんなあ」

 オバサナがまたゲヘヘ……と笑う。ひろはカレーライスを食べ終え、コップの水を一口ごくんと飲み込んでから、

「自由研究としてはもうやることがないくらい進んだと、僕は思う。あまりにも現実離れしすぎてるから、どこまで書いて提出するかが問題だけど。まあ途中からは、みんなで物語作りに挑戦しましたってことにしてもいいし。……どっちにしても、カラス仙人とワタルさんのことが優先でいいよね、みんな」

 見回すと、全員がうなずいた。ややあって、サビケンがぽつりと言った。

「いつの間にひろ、お前、そんなにしっかりしたんだよ。成長したなあ」

 目を細めて嬉しそうに眺め、悦に入っている。

「何年寄りくさいこと言ってんのさ。孫の成長見守るじいさんみたい」

 マルンどんにちゃちゃを入れられて、サビケンがすぐ切り返す。

「お前こそ口うるさいババアみたい」

「なんだって」

「まあまあ。そんなことはどうでもいいから、早く食べて病室に戻ろうよ」

 ひろが言って、まだ食べ終えていないマルンどん、イナ、オバサナがピッチをあげた。

「ひなこさん、ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」

 食堂の出口でアタマくんが頭を下げると、みんなも同じように口々にお礼を言い、お辞儀した。

「そんな、照れちゃう。でもお口に合ってよかったわ。さあ行きましょう」

 ひなこさんは顔を赤らめて、さっさと歩き出した。

「カラス仙人、昨日はとても具合が悪そうに見えたけど、本当に大丈夫なんでしょうか」

 イナがひなこさんに聞く。ひなこさんはうなずいて、

「お医者様のお話では脱水と飢えが原因だったそうよ。点滴でゆっくり水分と栄養を補給してるから、そのうちよくなるでしょうって」

「ワタルさんは目を覚ますかな」

 ひろが重ねて聞くと、ひなこさんは考え考え、

「それはお医者様より私たちの方が分かってることかも。だって私たち、本人から話を聞けたんだもの。さっきのワタルくんの言葉からすると……」

「もうすぐ目を覚ますってこと?」

 マルンどんが大きな声で言った。廊下をすれ違うお年寄りが、ちょっとけげんそうな顔で見て通り過ぎる。

「お前、声でけーんだよ」

 サビケンに注意され、マルンどんは言い返さなかった。エレベーターの前に立ち止まって、ひなこさんがやや声をひそめて、

「多分、私はそうなるんじゃないかなって思ってる。みんなはどう思う?」

「僕も目を覚ますって思います。さっきは不思議な力を借りてるって言ってたけど……」

 ひろの言葉をオバサナが訂正し、

「違う、違う。『神秘的な力』」 

「そう、その神秘的な力が助けてくれていたとしても、でも、ワタルさん本人の力でだんだん目がさめるんじゃないかって気がするんです……」

 ひろが続けると、マルンどんも、

「だよね。あたしもそんなふうに思える。だって、ワタルさんは体を離れてから自分でもいろんな努力をしてみんなに伝えようとしてたんじゃない。その姿に、きっと神様も手助けしたってところじゃないかな」

「神様?……神様信じんの、お前」

 サビケンがニヤリと笑う。からかう隙を狙っているようにすら見える。

「うるさい」

「もうやめな、夫婦げんかは」

 オバサナが言い、二人の矛先はオバサナに向かった。

「何気持ちの悪いこというの、やめてよ」

「全く何考えてんだ、オバサナにもほどがある」

 そして顔を見合わせて、ねえ、なあとうなずき合った。

「仲いいように見えるけど」

 アタマくんがぼそりと言った。

「えっ」

「なんだと」

 ひろはこれ以上騒ぎを大きくしたくなかったので、あわてて割って入った。

「いやあ、僕たちみんな仲間じゃない? 仲良くて当たりまえっていうか」

「うん、そう。仲いいのはみんな同じだよ。ねえひなこさん?」

 イナも助け舟を出した。ひなこさんも大きくうなずいて、

「そう。だから私、あなたたちみたいな同級生がいるクラスに憧れるな。……さあ、病室に近づいてきたわ」

 ドアを開けた瞬間、感動的な場面が見られると誰もが心のどこかで期待していた。しかし、さっきと変わらない光景があるだけだった。カラス仙人もワタルさんも隣り合ったベッドでそれぞれ眠っている。点滴やもろもろの管を取りつけられたまま。 

「なあんだ」

 サビケンがため息をつく。

「感動の再会シーンが見られると思ったのに」

「まさか、そこまで」

 と言いつつ、ひろも、

「でもうっすらとでも目を覚ましていてくれるかと思ったな、僕も」

 マルンどんも続けて、

「ついその勢いでそんなふうに思っちゃったよね。でも、生きててくれてるだけありがたいことなのかも」

「そう思う」

 イナが言うと、オバサナも、

「だよねー」

「本当にそうよ。あせらなくても大丈夫、きっと二人とも目覚めてくれる。そして今のことだって、いつか思い出話になる日が来るわ」

 ひなこさんが力強くうなずく。

「……そう思いたい気持ちは分かります。でも、その自信はどこから来るんですか」

 アタマくんがひなこさんを見上げる。ひなこさんはちょっと返答に困ってアタマくんを見返し、

「自信じゃなくて、信じたいと思うの。信じて待てば、かなう気がするから」

 その顔には悲しげな表情もまざっていた。

「どうしたの、アタマくん。いつものアタマくんらしくないね」

 ひろが声をかけると、アタマくんはうなだれてしばらく黙っていたが、やがてボソボソと、いつも冷静な口調と違ってくたびれた様子で話した。

「……僕は疲れたのかもしれない。知らない間にカラス仙人に体を乗っ取られたりもしたようだし……。自由研究で家の勉強も随分ほったらかしになってる……。そろそろ研究をまとめてしまわないとって焦ってしまう気持ちも、心のどこかにあるかもしれない、勝手かもしれないけど……」

「おお勝手だぞ。勉強なんかどうでもいい」

 サビケンがいきり立って言うのを、ひなこさんが押しとどめて、

「まあまあ……。あなたたち随分頑張って来たものね。ここのことは私に任せて、少し休むのもいいんじゃないかしら。何か変化があったら知らせるから」

 ひろはカラス仙人を見た。静かに眠っている。ワタルさんを見た。穏やかな寝顔だ。

「……そうしようか」

 マルンどんがみんなに声をかけた。

「なんか中途半端な感じ」

 オバサナがつぶやく。

「でも疲れてる人もいることだし」

「疲れたなら疲れた人だけ休めばいいんじゃないの。ここでやめるなんて、あたしはいやだな」

 マルンどんが言うと、

「あたしも」

 イナが遠慮がちながら、気持ちをこめて言った。

「心配なんだもん。もう少し安心できるまで見ていたい」

「気持ちは分かるけど」

 ひろは考え考え、言った。

「でも、僕たちがいつまでもここにいたら迷惑をかけるよ。ひなこさんにも病院にも……。ここはひとつ、ひなこさんに代表して見ててもらうってことでいいんじゃない? それに、僕たち解散するわけじゃない。いつも待機してるってことで」

「うん、そうだな」

 サビケンが即座に賛成した。

「じゃあひなこさんは全権大使ってところですね」

 アタマくんが言う。ひなこさんはクスッと笑って、

「そんなたいそうな者じゃないけどね。お留守番ってとこかしら。明日からまた勤務に戻るけど、この二人のことはずっと気をつけるようにしてるから」

「ありがとうございます」

 マルンどんが元気よく言い、みんなもそれに続いて口々にお礼を言った。

「もう少し残るから」と言うひなこさんに手を振って、病室を出る。玄関を出ると、それぞれの方角へ歩き始めた。建物の正面にかかっている時計は午後三時をちょっと回ったところだった。

「まだ帰るには早いんじゃねーの」

 サビケンが見上げて、みんなに声をかけた。アタマくんが振り返り、

「自由研究まとめてしまう?」

「お前、そればっか」

 サビケンが口をとがらすと、マルンどんが、

「でもそれも大事なことだよ。やれるうちにやっとかないと、また忙しくなるかもしれないし」

「それもそうだね」

 ひろが言うと、イナとオバサナも同意した。

みんなで大学構内の芝生に輪になって腰を下ろし、案を練ることにした。


29

「えーと。これまでの経緯を計画表と照らし合わせてみると」

 アタマくんがリュックからノートを取り出し、開げて見せた。そこに書かれている項目をマルンどんが順に指さし、

「ほぼ完成してるじゃん」


 活動計画

 ①跡を追跡する

  (所要日数……三日。三グループに分かれ、時間ごとに担当すること)

 ②すみかを見つける

  (所要日数……右の活動中になされる。よってプラス0日)

 ③話しかける → 友達になる。

  (所要日数……一~三日。全員で参加すること)

 ④カラスの鳴き声を習う。

  (所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日) 

 ⑤本当にカラス仙人なのか謎を解く。聞いてダメなら一緒に行動して推理すること。 

  (所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日) 

 ⑥まとめ・考察

  みんなで話し合って研究をまとめる。

  (所要日数……一日)           


「確かに、⑤まで行ったよね。もうそのずっと先まで行っちゃった感があるけど……。まとめってどうする? それにありのままを書いてもみんな信じてくれないんじゃないかな」

 ひろが考え込むと、

「そりゃあそうだよ。⑤からはみんなでお話を作りましたってことで適当に物語風にアレンジするか、それとも大人が納得しそうな話を作ってきれいにまとめるか」

 と、マルンどん。

「嘘つくのか」

 サビケンが抗議する。

「じゃあどうすんのよ」

「ありのままを書いたらどうかな」

 イナがつぶやく。

「えっ……」

 みんなに動揺が広がる。

「あんた、意外と大胆だねえ。まずいっしょ、それは」

 オバサナが止めにかかる。

「第一、誰も信じてくれないよ」

 イナは静かに首を振って言った。

「あたしにはもう、信じてもらえるかどうかなんてどうでもいいように思えるの。あたしたちが一緒に行動してどう感じたかとか、どう思ったかとか、どんなふうに動いてうまくいかなかったかとか、何とか切り抜けられたかとか、そういういろんなことをありのままに記録しておかなければって感じるの。大切なことがいくつもあったような気がする。だから、忘れてしまわないうちに」

 一気に言ってから、イナは自分の発言に自分でも驚いたらしく、ちょっと下を向いて黙った。それから顔を上げて、

「……あたし、間違ってるかなあ」

 と、いつもの気弱なイナに戻ってオバサナの顔を見た。オバサナは優しい笑顔で首を振った。

「ううん、いいよ。いいこと言うなって感心して聞いてたんだ。イナ、成長したね。あたしゃあ嬉しい」

「っかー、毎度そればっか。お前はかあちゃんか」

 サビケンが言うが、否定しているわけでもない。みんな同じ気持ちに傾いて行った。

「忘れてしまわないうちに記録するっていうのには賛成。だってあたしたち、ものすごいこと経験したんだもの。書かないなんてもったいない」

 マルンどんが言うと、

「うん。僕も賛成。いろいろ考えたり思ったりしたこと、忘れてしまいたくない」

 ひろも言う。サビケンがうなずきながら、

「だよなー。問題は、ありのままを書いてトドの奴がふざけんなーって言わないかってことだよ」

 みんな顔を見合わせて、

「言うかな」

「言わないんじゃない」

「言ったってこわくはないけど」

 結局、うーんと考え込んだ。しばらくしてからアタマくんが、

「とりあえず、まとめるだけやってみようか。そして出来上がったものを見て、もう一度検討するというのはどうかな」

「うん。ここからはヤバイって部分は提出しないでおくって手もあるな」

 サビケンが言うと、マルンどんが、

「その部分はどうするの。捨てちゃうの」

「だめ」

 イナが叫んだ。

「そんなのだめ」

 ひろが手を上げ、

「その部分はみんなのノートにそれぞれしまっておく。みんなの秘密ってことでどう?」

「いいね」

 アタマくんの目が輝いた。

「みんなの秘密の宝物だ」


 それから、数回集まった。分担してまとめたものを照らし合わせたり、意見が食い違うところは話し合ったり、結構時間がかかった。芝生の上で話し合うのが気に入ったので、天気のいい日に木陰で輪になって集会は行われた。

「ねえねえ。わかりやすく発表するために、大きな紙にまとめたのを黒板にはるようにって、先生言ってたよね。どんなふうにしようか」

 マルンどんが言うと、アタマくんがペンを片手に振りながら、

「今回の計画表を書いたものが一枚、活動の内容にそった絵を何枚かつけるっていうのはどうかな」

 話し合いの結果、表を書くのはアタマくん、絵のほうは六枚、一人ずつ分担を決めて描くことにした。

「肝心なのはまとめだね。まず、みんなそれぞれの分をまとめて清書してくる、と。そして、集めてひとつにまとめるのか。結構大変だねー」

 マルンどんが言うと、アタマくんが、

「僕みんなが書いたの預かって、まとめてきてもいいけど。お母さんが同人誌とかやってて、穴を開けてひもで閉じるとか手伝ったことあるから」

「サンキュー」

 サビケンがさっさとその船に乗る。オバサナは首をかしげて、

「でもさあ、勉強時間がどうとか言ってたじゃん。そんなこと引き受けたらまた時間を食うんじゃないの」

 アタマくんはもじもじして、

「あのときはちょっとどうかしてたんだ。今は勉強時間よりこっちの方が大事だと思ってる。……あのときはちょっと疲れてたんだ」

「それにひなこさんがワタルさんのことばかり言うから、ちょっと焼けたんだよね」

 オバサナがわかるわかる、と妙に共感する感じでうなずく。直球で言われてしまって、アタマくんとしては言い返すすべがなかった。

「オバサナはそういう気持ちになったことがあるの」

 ひろが聞くと、当人はいつになく顔を赤らめて、

「えっえっえー、どうかな。うん。ちょっとあるよ」

「えっそんな人いるの。だあれ」

 イナが聞くと、他の面々も好奇心まるだしで、

「ほんとかい」

「だれだれ」

 などと尋ねたのだったが、オバサナはもじもじしたのち、

「あのさー、『大好きサナエちゃん』って漫画あるじゃん。あれ、気に入ってるんだ。主人公、あたしと同じ名前だしね。ゲヘヘ……。で、サナエちゃんはまことくんが大好きなのに、まことくんがなかなか気づかなくて、別な子ばっか好きになるんだよね。だから、あたしもその気持ちわかるなーって思うんだよ。その二人が両思いになるって可能性はさあ、ゲヘヘヘヘ……。あるにはあるんだけど」

 話し出すと止まらない。

「もういいよ」

 サビケンがはーっと息をついて、

「時間の無駄だった。さっさとやることやっちまおーぜ」

「え、何でさあ」

 不満げなオバサナをそのままに、みんな作業に没頭していった。


 数日後のことだった。芝生に寝っ転がってサビケンが「あー」と大きな声で叫んだ。

「もうすぐ完成だなー」

 マルンどんは、女の子三人で敷物に座っていたが、

「なんか寂しい気もするね。終わりが来るかと思うと」

 イナは鉛筆を頬に当て、ノートに書かれた自由研究のチェックをしていたが、その手を休めて、

「だけど、あの二人が目覚めるまでは、あたしたちの秘密のミッションは終わっていないから」

「秘密のミッションかあ」

 ひろは顔を上げる。向かい側で膝を抱え、やはり自分のノートを開いていた。アタマくんはその横で、持参の携帯用チェアーに腰掛け、考えていたが、

「ひなこさんからまだ『目覚めた』って連絡はないけど……。これが完成したら、またお見舞いに行きたいね」

「いいね。顔見たいよ、やっぱ。あの看護師のおばはんに遠慮してばっかじゃやってけん」

 サビケンも待ってました、とばかりに元気づく。


 また別の日。雨が降っていたので、マルンどんが住んでいるマンションの集会室に集まっていた。利用する人はほとんどいないので、室内で活動するのにちょうどよかった。

「よし。表と絵の割り当てもしたし、みんな清書してきた分もそろった。アタマくんにまとめてもらったら、完成だね」

 満足げにマルンどんが言う。みんな顔を見合わせ、

「やったー」

「すごい力作になった。トド先生びっくりするね」

 口々に喜び合う。窓の外を見ると、日が沈みかけていた。ひろは壁の時計を見上げた。

「わあ、もう五時だ。帰らないと」

「やっべえ。母ちゃんに怒られる」

 サビケンが飛び上がった。

「あんたがマザコンなんておかしいね」

 マルンどんが笑う。

「なっ何」

 サビケンが腕を振り上げて言い返そうとするのをひろが引き止めて、

「まあまあ。みんな帰ろう」

 イナが思いつめたように、

「……お見舞い、いつにしましょう」

「だね」

 と、オバサナ。マルンどんが、

「そうだったそうだった、大事なこと。そろそろいいんじゃない? 明日、病院のロビーで待ち合わせて病院へ直行するっとことでどう」

 アタマくんはスマートフォンを取り出し、ひなこさんにメッセージを送った。すぐに返信が来て、アタマくんは読み上げた。

「『眠っているけど喜ぶでしょう』だって」

 すると、イナが思いつめたように、

「ねえ、完成した自由研究、明日病室でやってみるっていうのはどうかしら」

 みんな、キョトンとした顔をした。

「ひなこさんにも見せてあげたいし、それに、カラス仙人とワタルさんは眠ったままだけど、聞かせてあげたい気がするの……」

「いいね。リハーサルか」

 ひろが賛成すると、みんなも口々に同意した。それで、翌日午後一時の約束をして、解散となった。

 サビケンと並んで帰り道を歩きながら、ひろはつぶやいた。

「夏休み、もう半分以上過ぎちゃったね」

 サビケンもうなずいて、

「いつもの夏休みと全然違うな。それにしてもカラス仙人、いつなったら目を覚ますんだろう。それにワタルさんも本当に起きる日が来るんだろうか」

 うーん、とひろは考え込んだ。

「ひろ。前みたいに夢とかで何かわかるってことはないのか」

「それがもう、全然ないんだよ」

 ひろは情けなさそうに言った。

「イナちゃんも同じみたい。だからさっき、あんなに悲しそうな顔で、必死であんなことを言ったのかもしれないね」

「そっかあ。頼みの綱だったのにな」

 サビケンもため息をつく。普段の威勢のいい調子はない。が、ややあって思い直すように、

「まあもうその必要がないくらい、あの二人の目覚めも近いってことかもしれないな」

 元気よくひろの肩をたたいた。手を振って別れた。

 家に着くと、ひゃっふはもう帰っていた。夕食の準備をしていた。焼き魚の香ばしそうな匂いが漂ってきている。

「しょうすけくんは?」

「トムさんのたこ焼き屋さん、今日も忙しいらしい」

「そっかー」

「自由研究は進んだかーい」

 洗面所で手を洗っていると、ひゃっふの声が聞こえた。

「うん。あとはそれぞれ分担したところを清書するだけ」

「みんな随分一生懸命に取り組んでいるんだね。すごいねえ」

「すごくもないけど」

 ちょっと照れて、ひろは自分の部屋に向かった。背中からひゃっふの声が追いかけてくる。

「おーい、ひろ坊。ちょっとは休んで、こっちへ来ない?」

 ひろはカバン道具を部屋に置くと、台所に行った。ひゃっふが静かに鍋を洗っていた。ひろはまわりこんでひゃっふを見上げる。

「どしたの? 寂しいの」

 えへへ、とひゃっふが笑った。

「なんだかひろ、この頃急にしっかりしてきて大人びて。置いてきぼり食ってしまいそうで母としてはちょっとね……」

 ひろをぎゅっと抱きしめて、はがいじめにした。

「かわいい、かわいい、かわいい」

「わーっ。やめて、やめて」

 騒いで逃れようとしながらも、ひろはしまいには嬉しくなってひゃっふにしがみついて、「ひゃっふー」

 と甘えるのだった。そして心のどこかで、こんなふうにできなかったワタルさんやひなこさんの子供時代が思い起こされた。その夜もひろは夢を見なかった。


   30

 待ち合わせ場所に行くと、みんなもう集まっていた。アタマくんが厚紙の表紙と裏表紙をつけて閉じたものを紙袋に入れて持ってきていた。黒板に貼る大きな紙も皆それぞれ持参した。

「発表に合わせて、順にうまく貼れればいいんだけど。一応、両面テープ持ってきた」

 アタマくんが言うと、サビケンが、

「俺に任せな」

 サビケンはみんなから丸めた紙の束を回収していった。大変そうなので、ひろも手伝って分担して持った。

「自由研究の発表するのに、あの二人が眠ったままなのは、やっぱ、つらいものがあるよね……」

 アタマくんがポツリとこぼす。ひろも同じような気分だったので、何も言えなかった。沈黙が降りてきたが、やがて、マルンどんが顔を上げて、

「こんなとこでしょんぼりしても始まらないよ。元気出してお見舞い行こうよ」

 明るく言ったので、オバサナも、

「そうだね。あたしはお昼にお汁粉を三杯も食べてきたからエネルギー満タンだ。気合い入れて行こう」

「げっ汁粉。昼飯がわりに汁粉なんて気持ちわりー」

 と、サビケン。イナがうふふと笑って、

「人それぞれ。さあ行きましょう」

 明るく歩き出したので、みんなそれに続いた。かさばる紙の束を抱えながら、サビケンは自分の肩でひろの肩をつつき、

「あいつも言うようになったな。めそめそしてるただの弱虫だったのに。随分変わったもんだ」

 イナの方に顎をしゃくって、感心したように言った。ひろもうなずいて、

「ただの弱虫だったとも思わないけど、確かに変わったよね。みんな少しずつ変わったような気がする。剣ちゃ……サビケンも」

「おっ俺?」

 サビケンは目を丸くして、意外そうに聞き返す。

「どこが」

 ひろは首をかしげて考えをめぐらせながら、

「そうだなあ。前から頼もしかったけど、もっと頼もしくなったっていうか……。みんなががっくり来ているときに笑わせてくれたり、元気になるようなことを言ってくれたり。うん。バージョンアップしたって感じだよ」

「そうか!」

 サビケンは瞳を輝かせた。

「お前も変わったよ。前はどっちかっていうとおとなしめだったけど、今は」

「今は?」

 気づくと横にマルンどんがいて、好奇心丸出しに話を聞いていた。サビケンはややひるんで、

「い、今は。やっぱりおとなしいけど、おとなしい中にもなんか」

「なんか?」

「な、なんか……威厳があるってゆーか」

 マルンどんがけらけら笑う。

「あいまいだなー。そんな言い方」

 ひろは肩を落として、

「やっぱり僕は変わってなんかいないよね」

 すると、マルンどんがぐいと身を乗り出して、

「そんなことない。しっかりして来た。あたしが言うんだから間違いない。ねえ」

 後ろを振り返って、他のみんなを見た。みんな、うんうんと力強くうなずいている。

「ありがとう。そういうマルンどんも変わったよ」

「えっあたし……? どう変わったかな」

「よりずうずうしく、より図太くなった」

 すかさずサビケンが言うと、ひろはあわててかぶせるように、

「やめなよ、ふざけてばっか。マルンどんは前よりずいぶん優しくなったし、聞く耳を持つようになったと思う」

「そうそう。よく成長したもんだよ」

 オバサナが力強く同意する。イナも、

「それに前より面白くなった」

「え、面白い? どこが」

「確かにサビケンとのやり取りが、漫才みたいで面白いよね」

 アタマくんも同意する。

「やだなあ。あんなのと一緒にされたら」

 マルンどんは口をとがらすが、目は嬉しそうに笑っている。

「そういうあんたたちだって、変わったよ」

「イナは芯が強くなったし、アタマくんは前よりとっつきやすくなった。オバサナは」

「うん、あたしは?」

 マルンどんは首をかしげた。

「うーんと、オバサナは」

「オバサナは……前から食い意地が張っていたが、より食い意地が張ってミミズまで食えるようになった」

 と、サビケン。

「ええ……。あたしが変わったってそんなとこ? でも今はあたし、ミミズなんて気持ち悪くて食べられないけど。カラスになったあのときは、なんであんなに美味しそうに見えたのか分からない」

「実際、うまかったんだろ? うまそうに食ってたぜ」

 なおも言うサビケンに、さすがのオバサナもたじたじとなり、足の歩みが遅くなる。イナが助け舟を出した。

「やめて、サビケン。いつも面白い話で笑わせてくれるけど、これはそういう話題じゃないと思うの。そんなふうに言われたら悲しい気分になるわ。さなえちゃ……、オバサナ。ねえ、オバサナにもいいとこ一杯あるよ。みんなに飴をくれたり気配りしてくれるけど、それだけじゃない。困ったり、つらいときでも大きな声で笑って、元気づけてくれたじゃない」

「ああ、あのガハハ……ってやつ」

 サビケンが言うと、

「あれ、オバサナだって無理して、頑張ってやってるときもあったはず」

「え、ただ能天気に笑ってたんじゃないのか」

 サビケンに続いてマルンどんも、

「そうなの?」

「僕はそうじゃないかって思ってたよ。時々、オバサナが笑いながらも、顔が引きつってることがあった」

 アタマくんが淡々と言う。ひろは思わず、

「アタマくんはよくみんなを観察していたんだね」

「それは一応、自由研究だから」

「え! 俺らも研究対象かい」

 そんなことを話しているうちに、病室の前に着いた。ドアをノックすると、

「どうぞ」

 中からひなこさんの声がした。

「いらっしゃい」

 静かに微笑んで、みんなを招き入れた。カラス仙人もワタルさんも眠っている。

「ひなこさん、疲れませんか」

 アタマくんが聞くと、ひなこさんはひそやかな声で、

「ううん、大丈夫。私ももう普通の生活に戻って、ここには仕事の合間に来るようにしているの。今も休憩時間だけど、まだ残ってるわ」

 そして、ベッドに寝ている二人を見ながら、

「お医者様の話では、急に容態が変わるってこともないだろうと」

「そっか……」

「そんなにがっかりした声出すなよ、ひろ。これだけすやすや平和に眠っているんだから喜ばなきゃ。一時はすごく苦しそうだったんだから」

 サビケンに慰められて、

「それもそうか」

 ひろはうなずく。そしてやっぱりサビケンも以前のサビケンとは違っているなあと感じた。それはひろだけではなかったようで、

「いいこと言うじゃん、サビケン。じゃあ早速、あたしたちの研究成果披露といこうか。みんな、準備はどう?」

 マルンどんが言った。みんなに異存はなかった。ひなこさんは手を合わせて感慨深げに言った。

「いよいよね。アタマくんから予告を聞いて、楽しみにしていたのよ」

 

 まずアタマくんが口を開く。

「ええと……第三班・夏休み研究のテーマは『カラス仙人の謎を解く』です。活動計画は六つの段階を追って行いました。ちょうど六人いるので一人一つずつまとめました。じゃあまず一段階目の『①跡を追跡する』について、道賀ひろやくんに発表してもらいます」

 アタマくんがひもで綴じたものをひろに渡す。厚紙の表紙に「第三班自由研究・『カラス仙人の謎を解く』」とマーカーで書いてあり、下にメンバー六人の名前も記されていた。

「カッコよく製本してくれたんだね」

 マルンどんがアタマくんに言うと、ひなこさんも、

「ちょっとした論文みたい」

 ほめられてアタマくんはまんざらでもなさそうに頭をかいた。受け取ったひろはそれどころではなかった。本番ではないのになぜか心臓がバクバク鼓動を早めていく。震える手で頁をめくる。自分で清書したところが目に飛び込んできた。みんな真剣な目でこちらを見ている。カラス仙人とワタルさんに目をやると、何事もなかったように、すやすやと眠っている。ひとつ深く息をつくと、読み始めた。

「六月のことでした。僕は、北海道大学の構内を散歩中に『アゥアー、アゥアー、アゥアー』と、カラスそっくりに鳴きながら歩くおじいさんを目撃しました。びっくりして、次の日、サビケ……、差三田君に教えました。初めのうちは二人で不思議がっているだけでしたが、第三班のみんなに話したら興味を持ってくれて、自由研究のテーマにしようということになりました。おじいさんのことを『カラス仙人』と呼ぶことにしました。三つのグループに分かれて時間を決めました。そして、おじいさんを追跡することにしました」

 読んでいる途中で、アタマくんが目配せして、サビケンが大きな紙を壁に貼りつけにかかった。アタマくんが書いた活動計画表だ。巻いてあった模造紙を広げて壁に貼るのはなかなか難しかった。紙を押さえたり両面テープを切って渡したり、女の子たちも手伝った。

「よし」

 貼り終えて、サビケンはぱんと手を打つ。ひろは活動計画表に振り向き、

「まず最初に、こんな計画をたてました」

 ゆっくりと読み上げていった。


 第三班・夏休み研究のテーマ

 「カラス仙人の謎を解く」

 活動計画

 ①跡を追跡する

  (所要日数……三日。三つのグループに分かれ、時間ごとに担当すること)

 ②すみかを見つける

  (所要日数……右の活動中になされる。よってプラス0日)

 ③話しかける → 友達になる。

  (所要日数……一~三日。全員で参加すること)

 ④カラスの鳴き声を習う。

  (所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日) 

 ⑤本当にカラス仙人なのか謎を解く。聞いてダメなら一緒に行動して推理すること。 

  (所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日)  

 ⑥まとめ・考察

  みんなで話し合って研究をまとめる。

  (所要日数……一日)                


 ひろは一息ついて、みんなを見た。真剣に聞いている。ひなこさんは感心した様子で、うんうんとうなずいてくれた。

「まず①の『跡を追跡する』です。七月二十六日、月曜日。第二グループは僕と阿多間智君でしたが、カラス仙人が現れたので気づかれないように僕がついて行きました。阿多間君は次のグループに報告して合流するため、その場に残りました。カラス仙人に途中で気づかれて逆に追いかけられてたときは、本当に恐かったです。Tシャツの襟を掴まれて『悪ガキ。なんでわしを追いかけてくるんじゃ』としかられてしまいました」

 クスクス笑う声が病室に広がった。あの時のことを思えば笑うどころではないのに、と思いながらもひろは続けた。

「僕は必死で『おじいさんとお友達になりたい』と言いました。カラス仙人は『わしに会いたくば、明日この時間に会おうぞ!』と言って、ぷっとオナラをしてから、大きなカラスになって飛んで行ってしまいました」

 ここで、サビケンはまた大きな紙を計画表の隣に貼りつけた。補助する子たちもさっきより慣れたのか、手際よく貼っていく。絵には、人間からカラスに変わっていく様子が四コマ漫画として描かれており、おしまいのコマには大きなオナラをして飛んでいくカラスと、それを見送る男の子の姿があった。ひろが描いてきたものだ。 

「けっさく。ひろのあのアホっぽい顔」

「じいさんのオナラも爆発みたい」

 大きな笑い声が起こり、ひろは絵のよさで笑いを取れているのか、それとも絵が下手すぎて笑われているのか、判断に迷った。ひなこさんも涙を拭きながら笑っている。まあどっちにしても、笑いを取れているならいいかと思い直し、発表を続けた。

「その後、阿多間君と第三グループの差三田剣次郎君、佐藤マキさんが駆けつけて合流できました。僕の言うことを信じてもらえないと思いましたが、結局みんな信じてくれました。翌日、他のメンバーも合わせて約束の時間、午後四時十八分にその場所に集まることになりました。僕の発表はここまでです」

 ひろは自分の担当する頁を開いたまま、みんなを見回した。

ひなこさんは目を見張って、

「とてもわかりやすいわ」

 と言っている。ひなこさんのような大人が信じてくれることに、ひろはあらためて感動した。アタマくんの声が病室に響く。 

「では次の発表は佐藤マキさんです」

 ひろはマルンどんにつづりを渡した。マルンどんはえへんとひとつ咳をしてから、読み上げ始めた。

「じゃあ、②『すみかを見つける』にいきます。次の日、七月二十七日、火曜日。みんなで集まって待っていると、カラス仙人が現れました。ひろくんだけじゃなく私たちもいるので、初めは怒りました。でも、アタマくんが「お友達になりたいんです」と言うと機嫌が治って、許してくれました。それから、オバサナが飴玉をあげたのも、よかったようです。超辛いミント味の飴を『か、からい……』とか言いましたが、だんだん気に入ったようで、それからはオバサナに会うと『あれくれ、あれ』と言うようになりました」

「ちょっと……」

 オバサナが口を挟む。

「あだ名出まくりじゃない? いいのかなあ……」

「いい、いい。面白いからそのままで」

 サビケンが珍しくマルンどんの肩を持った。マルンどんはまたひとつコホンと咳をして、

「悪いねー。なんかこの呼び方に慣れちゃって、言いやすいんだよ」

「いいんじゃない。トド先生も気にしないと思うよ」

 ひろが言うと、アタマくんも言った。

「表紙の名前のところにカッコをつけて、わかりやすくそれぞれのあだ名を書いておけばいいと思うよ。そして、教室で発表するときにも説明すれば問題ないかと」

「わかった。じゃあ後で書いといてね」

 マルンどんはあっさり言いのけると、発表を続けた。

「夕方だったのでもっと早い時間に会いたいというと『では明日、朝日が昇るとき、ここで会おうぞ!』と言うなり、カラス仙人はプッとオナラをしてカラスになってとんでいってしまいました。みんなビックリしましたが、やっぱりひろくんの行ったことは本当だったんだと思いました。次の日、七月二十八日、水曜日。みんなで早起きをして集まりました。そうしたらカラス仙人はなかなか現れなくて、サビケンが石をけとばすと、木の上からカラス仙人が落ちてきました。頭に石が当たったのでカラス仙人はちょっと怒っていました。でも、オバサナから好物の飴をもらったり話したりしているうちにだんだん機嫌がなおってきて、カラスになる呪文を教えてくれました。『「ワシガオマエデオマエガワシジャ』というのを繰り返すのです」

 ひなこさんがびっくりして、

「えっ、今それを言っても大丈夫?」

 マルンどんはにっと笑い、

「大丈夫、後からわかったことですが、呪文はあくまで形式で、本当はカラス仙人の力が大きく働いていたのです」

「もちろん僕たちの方でも一生懸命カラスになろうとする気持ちがないと、駄目だと思いますが」

 アタマくんが補足する。ひなこさんは胸をなでおろして、

「そう。そうだったわね。知ってるはずだったのに、突然その呪文を聞くとつい、こわくなってしまって」

 ひなこさんの恥ずかしそうな顔を見て、サビケンがひろに小声で、

「あの人ちょっと天然っぽいな」

 アタマくんが耳ざとく聞きつけ、メガネのふちに手をかけて、

「違う、心がきれいなんだよ」

 ウヒヒ……とサビケンが意味ありげに笑う。マルンどんが「静かに」と制し、発表を続けた。

「……それでみんなでその呪文を一生懸命唱えました。最初、あまり一生懸命じゃなかったのは差三田剣次郎君でしたが」

「げっ。なんでいきなりフルネーム」

 サビケンが言うが、マルンどんは物ともせずつ、続けた。

「どうもカラスになる自信がないようでした。でもみんなの励ましで、そのサビケンもとうとうカラスになることが出来ました。途中でトド先生がやってきましたが、わたしたちだということには気づきませんでした」

 ここでサビケンが、マルンどんが描いた絵を、ひろの絵の上に貼っていく。今度はひろが両面テープを切って渡したり、紙を押さえて手伝った。

「トド先生のぽかんとした顔、そっくりだねー」

 オバサナが言うと、イナも、

「木の枝に止まってるみんなもよく描けてるわ」

 体はカラスだが、それぞれにみんなの顔がのっている。ひなこさんやアタマくんもうなずいている。絵の具を使って、色彩豊かに仕上げている。ひろは、さすがに絵が得意なマルンどんだなあと感心もし、ちょっと悔しくもあった。マルンどんはウフッと嬉しそうな声を出してから、また続けた。

「飛ぶのは最初はこわかったけど、すぐになれました。空を自由にはばたいて進んでいくのは、とても気持ちよかったです。そして、カラス仙人に、カラスの里まで連れていってもらいました。といっても、着いてみたらただの山の中で、他のカラスたちは街に出ていて私たちしかカラスはいませんでした。そこで、カラス仙人は私たちにいろんな話をしてくれました」

「その前に、オバサナがミミズを食べた話が抜けてるぜ」

 サビケンが言うと、オバサナが抗議する前に、マルンどんが、

「それ研究に関係ないから」

 すぱっと切り捨てた。

「以上であたしの発表はおしまいです。次は、誰だっけ」


31   

 進行役のアタマくんが、壁に貼られた計画表を指し示す。

「この後、計画では③から⑤まで、こんなふうになっていました」


 ③話しかける → 友達になる。

  (所要日数……一~三日。全員で参加すること)

 ④カラスの鳴き声を習う。

  (所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日) 

 ⑤本当にカラス仙人なのか謎を解く。聞いてダメなら一緒に行動して推理すること。

(所要日数……③の活動中になされる。よってプラス0日)                                                              

「でも、実際に活動して行くと、やることが入り組んだり、ごっちゃになったり、順番通りにはいかなかったり、計画通りにできないことが出てきました。むしろ、出来事に引っ張られて、それに合わせて活動しなくてはならなかったというか……。そこで、みんなで話し合ってこの部分を次のように変えました」

 アタマくんが持っていた紙をサビケンに渡す。サビケンはうなずいて、計画表の③から⑤の部分をおおうようにそれを貼りつけた。アタマくんが読み上げる。そこにはこんなふうに書かれてあった。


 ③カラス仙人と話し、友達になる。鳴き声を習ったり、カラス仙人の謎を聞き出す。

  カラス仙人の話を聞く。協力できることがあれば、協力する。


 そしてこの③は長いので三つに分けて、一人ずつ順にまとめて発表するということにしました。それからそっちの部分は」と言いながら、


 ⑥まとめ・考察

  みんなで話し合って研究をまとめる。

  (所要日数……一日)  


 と書かれた部分の「⑥」にマーカーで二重線を引き、横に「④」と書いた。そして、みんなに向き直ると、

「では、まず③のひとつめを、音無イナさんにお願いします」

 マルンどんがつづりをイナに渡す。うなずいて受け取ると、イナは一歩前に進み出て、

「ここすごく難しかったんだけど、みんなと相談しながらまとめました。カラス仙人から聞いたお話です」

 みんなうなずいた。ひなこさんも黙って見守っている。親子はただ眠っている。イナが読み始めた。

「カラス仙人は、古本屋さんをしていたそうです。奥さんは早くに亡くなり、ワタルさんという息子さんがいました。息子さんは小学生の頃から外に出るのがこわくなり、ずっと家の中で暮らしていました。でも、本を読んだり、けがをしたカラスの子を育てたりして仲良く暮らしていたのです」

 ここで、アタマくんとサビケンがイナの描いてきた絵を先ほどの絵の上に貼りつける。

カラス仙人とワタルさんが楽しそうにご飯を食べている。ワタルさんの肩にはカラスの子が乗って、これまた楽しげに、ワタルさんの手からご飯をもらって食べている。

「幸せそうな絵だね」

 アタマくんが言うと、ひろも、

「きっと、こんなふうに暮らしていたんだね」

他のみんなもしばらく黙って、絵を見つめた。再びイナが口を開いた。

「けれども、ワタルさんは今、意識不明で入院しています。三年前、可愛がっていたカラスの子を肩に乗せて散歩をしている途中で、交通事故にあってしまったのです」

 ひなこさんがはっと息をのみ、ワタルさんに目を移す。それからカラス仙人を見、またイナに視線を戻した。病室にイナの細い声が流れていく。

「それからずっと、カラス仙人は日中はお店のお仕事をして、夕方お店を閉じるとワタルさんのお見舞いに行くようになりました。カラス仙人の願いは、ワタルさんが目を覚ましてくれることでした。そのことばかり考えて暮らしていたら、カラス仙人に不思議なことが起こるようになりました」

 声がかすれた。オバサナがリュックから水筒を取り出し、キャップに注いで差し出した。

「ほれ、飲みな。ただの水だけど」

 マルンどんも、

「喉乾くよね。ゆっくりでいいんだから。ねえみんな」

 みんな、こくんと首を振る。イナは水を一息に飲んで、

「ありがとう」

 オバサナにキャップを返すと、また読み始めた。

「ワタルさんが夢に入って来て、姿は見えないけれど『事故は運転してた人のせいじゃない。恨まないで』と話しかけたり、お店にあった本の中身がまるでカラスの子のお話のようだったり。夢でカラスの子が事故を引き起こした場面を見たり、ある晩には、カーテン越しにカラスの子の大きな影が写って「父さん、ごめんね」と言ったり……。カラス仙人はだんだん、毎日お見舞いするだけではなく、ほかに何かやらなくてはいけないことがあるのではないか、と思うようになりました。……ここまでが、あたしの発表です」 

 イナは頬を紅潮させて、ふうっと息をついた。オバサナが二杯めの水を渡す。

「ありがとう」

 イナは嬉しそうに受け取って、ごくごく飲んだ。ひなこさんが微笑んだ。

「あなたたち、本当にいい仲間ね。ワタルさんのお父さん……カラス仙人さんが、あなた達に心を開いたわけがよく分かるわ」

 オバサナは一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに照れて、

「そんなあ、ゲヘヘ……」

 と笑った。みんなもひなこさんにほめられて、自然と笑顔が広がった。ひろが見ると、カラス仙人もワタルさんも心なしか、さっきよりももっと穏やかな寝顔をしているように見えた。アタマくんがメモ帳をチェックして言った。

「ええと次は③のふたつめ。大葉さなえさん、どうぞ」

「あっ。あたしか」

 オバサナはあわてて水筒をリュックにしまい、つづりをイナから受け取った。

「え、えーと。カラス仙人の話を聞いているうちに、ずいぶん時間がたったように思いました。でもみんなトイレに行きたくもならないし、あまりお腹もすきません」

 ここでサビケンがゲヘヘ、とわざとらしく笑って見せた。マルンどんがサビケンをひじでつつき、オバサナには「気にしないで」というふうに目配せした。オバサナはうなずいてからサビケンに、

「あたしの笑い方を真似してくれてありがとう。でも、ちょっと違うな……。そんな浅い発声じゃないんだ。こうだよ。ゲヘヘヘヘ……。もっとお腹の底から笑うんだよ。ほれ、やってみな。ゲヘヘヘヘ……」

 度肝を抜かれて、思わずサビケンはおうむ返しに、

「ゲ、ゲハハハ」

「違うよ! ゲヘヘヘヘ」

「ゲハへへへへ」

 オバサナは優越感まじりにサビケンを見、

「まあいいや。ところであたしの絵も貼ってよ」

 催促されてサビケンは、

「なんだよ。急に強くなっちゃって……。調子狂うわ」

 ひろに手伝ってもらって、絵を貼った。お世辞にも上手とはいえない絵だった。全体が灰色がかっていて、そこに木が何本かあり、枝にはカラスが止まっている。カラスは全部で七羽いたが、何故かみんな後ろ姿である。頭にはぽよんと数本毛が立っている。遠くに山が見える。

「なんで全員、あっち向きなの」

 アタマくんが聞く。

「ムードあっていいっしょ? ゲヘヘ……。ほんとのこと言うと、顔描くのが面倒くさかったから。ま、いいんでないかい。そんなこと」

 さらりと言うと、オバサナは発表を続けた。

「カラス仙人によると、カラスになっている間の時間は、人間の世界では流れていないらしいということでした。『じゃあ夢を見ているみたいなものだろう』とひろくんが言いました。マルンどんは『なんでも都合よく夢にするのはおかしい』と言いました。サビケンはひろくんをかばって、マルンどんとケンカをしそうになりました。イナは『みんな疲れてきたようだ』と言い、あたしも『もう帰りたくなった』と言いました。カラス仙人も帰れと言うし、そろって帰ることになりかけました。でも、みんなの中から本当にこれで帰っていいのかと言うムードが出てきました。その後、アタマくんが呪文を逆に言いました。『オマエガワシデ、ワシガオマエジャ』そしたら、人間に戻って元の場所の元の時間に行ってしまいました。残っているあたしたちには、アタマくんが消えてしまったように見えました」

 ひなこさんは驚き、

「だ、大丈夫? 今、オバサナちゃんが言った呪文は発動しないかしら」

 すかさず、アタマくんが答える。

「大丈夫です。もともと人間だし。それにあの呪文は唱えるだけでは効かないって確証済みです」

「そう、そうだったわね。私ったらまた、ごめんなさい……」

 ひなこさんは顔を赤らめている。みんなに笑いが広がる。でも、嫌な笑いではない。オバサナは、

「慣れないうちは何度聞いてもびっくりするよね。ゲヘヘ……。で、アタマくんはすぐにまた、呪文を唱えてカラス姿で戻って来ました。それからサビケンも同じことをして、戻って来ました。なんやかんやあって、カラス仙人がいきなり『そいっ』と掛け声をかけると、なんと、無理やりあたしたちは人間に戻されてしまいました。はい、次」

 アタマくんがメモを見て、

「③のみっつめです。ええとサビケ……差三田剣次郎君、お願いします」

 サビケンは、オバサナからつづりを受け取りながらも、

「オバサナ、すごい省略の仕方だな。アタマや俺が人間に帰って、あわててカラスになってまた戻ってくるとき、俺たち本人にとっては結構ハラハラドキドキの大冒険が展開されたってのに」

「そんなの知るかい」

 オバサナは軽く流して、またゲヘヘヘ、と笑った。サビケンはガクッと肩を落とし、

「まあいいや。うん、そう。なんやかんやあって、カラス仙人は俺、じゃなかった、僕たちに頼みごとをしました。カラス仙人のやっている古本屋をしばらく留守にするので、張り紙をしてくれというものでした。それで僕たちはカラス仙人の古本屋を探して、マルンどんの入れ知恵で牛乳箱の中から鍵を見つけて家へ入って行きました」

「何、入れ知恵って。悪いことみたいじゃない」

 と、すかさず抗議するマルンどん。

「悪いか悪くないかって言ったら、どっちかというと悪いだろうが」

 サビケンは防御の姿勢で早口で返すと、マルンどんが言い返さないうちに、また読み進めた。

「ここでの戦利品はカラス仙人が家族で撮った昔の写真一枚と、どんぐり二個。それはこのサビケン、差三田剣次郎が見事にゲットしました」

 その声に得意げな響きがあった。

「あんたの方が悪いことしてんじゃん」

 マルンどんにまた突っ込まれるが、サビケンは聞こえないふりをしてさらに続けた。

「こんな張り紙をしました。


 お知らせ

 しばらくお休みします。

 ごめんなさい。

 再開の日を楽しみに。

               田中書店


 サビケンが読み上げ始めたのであわててアタマくんが、次の絵を貼る作業に取りかかった。ひろが紙を押さえ、マルンどんがテープを切る手伝いをした。貼られた絵を見ると、

大部分に「お知らせ」の張り紙が描かれ、その下の方に、後ろ向きの六つの頭が並んでいる。張り紙を見ている姿らしい。オバサナが言った。

「随分楽してんねー。張り紙と、後ろ向きの黒いボールみたいな頭が六つだけ」

「お前に、言う資格ないね」

 言い返して、サビケンは発表を続けようとするが、マルンどんが、

「それにしても『お知らせ』、きったない字。もう少し丁寧に書けないもんかねえ」

 ひろが助け舟を出す。

「サビケンらしくていいよ。元気で大きくて。ねえ、ひなこさん」

 ひなこさんはにっこりとうなずく。サビケンは笑って、

「な、俺様はなんたって、ワビ・サビの世界の男だからな」

 それから、発表に戻った。

「張り紙を貼ってから、ワタルさんの病院へ行くことになりました。途中で、カラスの鳴き声を一杯しました。でも、カラスの子には会えませんでした。腹がすいたので、病院のロビーでお昼を食べました。カラスになったときに消えてしまった弁当なんかが、人間に戻るとちゃんともとに戻っていたのは、嬉しかった。うまかった。食べ終わって、いろいろ迷ったりもしたけど、ようやく病室へたどり着きました。着いたはいいけど、今度は病室に入っていいかどうかわからなくなって、困ってしまいました。そしたら、掃除のおばちゃんが助けてくれて、ひなこさんという人に一緒に行ってもらえばいいよと言いました。それで、ひなこさんについていきました」

「え、私」

 ひなこさんは自分を指差して、驚いた顔をした。

「私も登場するの……」


「ワタルさんはぐーすか眠ってました。ワタルさんに話しかけても反応がないので、ひなこさんから話を聞くことにしました。ひなこさんはワタルさんと同じクラスで、いじめら

れてるときにワタルさんから助けてもらったことがあるそうです。たまたまワタルさんが入院している病院で事務のお仕事をしていて、ワタルさんが事故にあったことを知ったそうです。でも、そのとき、そこまで話さなかったけど本当は、ひなこさんのお姉さんが運転する車がワタルさんをはねたんです。だから、ひなこさんは毎日ワタルさんのお見舞いに来ていたって後から教えてもらいました」

「そんなことまで言っていいの」

 ひろが聞く。ひなこさんは首を振って、

「いいのよ」

 サビケンはうなずいて、

「その夜、ひろとイナが不思議な夢を見たそうです。ひろの夢ではワタルさんが、イナの夢ではカラスの子が出て来て、……要するにカラス仙人を早く助けないと大変なことになるってことでした。はー、長かった。続きは、アタマに頼む」

 アタマくんは頭をかいた。

「あ、思い出した……。昨夜、みんなから渡されたまとめをつづりながらサビケンの部分を読んでみて、ここはどうしようかなあ、みんなで相談しなきゃと思ったんだ。サビケンが担当したところ、途中までなんだよね。僕は最後にくる「④まとめ・考察」の担当だし、勝手にこの続きを書くのもどうかと思って。一応、まだ書き込めるように何も書いていない頁を何枚かはさんでとじておいたんだ」

 言われた本人は口をとがらせて、

「あんまりいろんなことがありすぎて、まとめきれなかったんだよ。あれだけでも苦労して、ひろやアタマに手直ししてもらって、やっとの事でまとめたんだからな。あとはアタマがうまくまとめてくれよ。俺にはもう無理だ」

「ちょっと! 随分がっかりさせてくれるね、サビケン。この部分は俺に任せろって自信たっぷりだったじゃん。それをなにさ、『諦めちゃダメだ』って川べりまで走ったときのあんたと別人みたい。あのとき、少しあんたを見直したのに」

 マルンどんが大きな声を出した。病室だったのを思い出して、途中から少し声のトーンを落としながら。ひろも思わず、

「剣ちゃ、サビケン。あのときほんとにかっこよかったよ。だからみんなもサビケンにあのときのこと発表して欲しいんじゃないかな」

「そうよ。あのときみんながっかりして止めようとしていた。サビケンがあんなふうに言ってくれなかったら、カラス仙人を助けることも出来なかったかもしれないわ」

 と、イナ。ひなこさんはクスッと笑った。

「照れてるのよね。ワビもサビもある男としては」

 サビケンは頭をぼりぼりかいた。

「そんな……わけでもないけど」

「じゃあみんなで続きをまとめていくってのはどう? 続きを」

 ひろが言うと、

「仕方ないね、確かにここは長くなりそうだ」

 と、アタマくん。

「順番にまとめていこう。誰か書き取ってくれる?」

 マルンどんが言うと、ひなこさんが手を上げた。

「私にも手伝わせて」

「いいんですか」

 まぶしそうにアタマくんがひなこさんを見る。

「もちろん。私も自由研究に陰ながら参加できたら、こんな嬉しいことないわ。やらせてくれる?」

 にっこり微笑まれて、アタマくんは赤くなりながらも、満面笑みでみんなに、

「いいよね」

 と、同意を求めた。みんな、ニヘラニヘラしてそんなアタマくんにうなずき返す。アタマくんはメガネの位置ををすちゃっと直し、つづりとペンをひなこさんに渡した。

「じゃあお願いします」


32

 発表は再開された。ひろが声をあげた。メモを見ながら、

「じゃあ僕から。えーと、あの長い一日の次の日だから、七月二十九日、木曜日だね。僕の夢とイナちゃんの夢をヒントにカラス仙人を助けにいこうとしましたが、どこにいるかわかりませんでした。アタマくんがぼうっとしたすきに、カラス仙人が乗り移って『わしはカラスの姿のまま河原で気絶しとる』と言いました。場所を聞き出す前に、カラス仙人はアタマくんから抜け出てしまいました。みんな、がっかりしました」

 アタマくんはここでちょっと不服そうに異議を唱えた。

「がっかり……? 僕がいない方がいいって聞こえるけど」

 ひろは大急ぎで首を振った。

「違うよ」

 発表用に口調をあらためて、

「違います。がっかりしたのは、カラス仙人を見つける方法がもうないと思ったからです。

でもサビケンが『そんなことない! 諦めちゃダメだ』『俺に考えがある!』って叫びました」

「よせやい」

 サビケンは照れて壁の方を向いてしまった。両手を壁につけて、指先で壁をつんつん突ついたりしている。

「あれま」

 オバサナが、

「案外、可愛いとこあるね」

 かまわず、ひろは続けた。

「川べりまで走っていくと、なんと僕にもびっくりすることが。夢の記憶がよみがえったのです。大きなイチョウの木のそばにカラス仙人がいるシーンが頭に浮かびました。そこでイチョウの木を探すと、いました! カラスの姿のままのカラス仙人がボロボロになっていました」

「ようし、じゃあ、あたしが続きをやるね」

 オバサナが続けて、

「ボロボロのカラスはぐったりしていましたが、あたしがカラス仙人の大好きな味の飴を取り出して食べさせました。そしたらなんと、『この味はミント味……』とか言って嬉しそうに笑って……食べたかと思うと……き、消えてしまった」

 オバサナが黙ってしまった。ひろは、

「どしたの」

 オバサナは涙ぐんだ。

「あたしが苦労して取っておいた激辛しょうがミント、食べてくれた。なのに急に、消えてしまった。あのときの気持ち思い出すと……うう……」

 サビケンが首をかしげる。

「あのときって、お前、あのとき、ゲヒヒとかゲハハとか得意そうに笑ってたじゃん。そんなビミョーな心もちだったようには見えなかったぜ」

「人には、表に出してない心もあるんだよ」

 と、マルンどん。

「いいよ。続き、あたしに言わせて。カラス仙人を探して、カラス仙人の家まで行きました。そうしたら、玄関のところに男の人が立っていて、その人はなんだかカラス仙人がもっと若い頃の姿のように見えました。あたしたちを見るとこわそうに感じたのか、ふいっと消えてしましました」

「消えてばっかり。絶対誰も信じてくれないよね」

 アタマくんがつぶやく。ひなこさんはペンを持つ手を休めて、

「それを考えるのは後にして、今は、発表のリハーサルを続けましょう。ともかく、私は信じてるから」

 ひろは眠っている二人を見た。カラス仙人はさっきと同じく眠っている。でも、ほんの少し口が開いているようにも見える。ワタルさんも、うっすら目が開いているようにも見える。

「ねえ、なんかちょっと様子が違わない? カラス仙人とワタルさん」

 ひろの言葉にみんなの視線が動く。

「どこが。何にも変わってないじゃん」

 先ほどの涙から早くも立ち直っていたオバサナが、ずばっと言いのける。

「うん、あんまり変化は感じられない。ひろくんはどこが変わったと思うの?」

 アタマくんに聞かれて、ひろはもう一度じっくりと二人を見比べた。さっきと同じ様子にも感じられた。

「気のせいかな。ごめん。マルンどん、続きを頼むよ」

 マルンどんはうんとうなずき、考えながら、

「カラス仙人の家へ入ると、カラス仙人その人が倒れているではありませんか。ひなこさんが抱きおこして、膝に頭を乗せてあげました。すると、今後は『どんぐりが必要じゃ』と言うのです。サビケンがポケットから取り出して、食べさせました。カラス仙人は『クエー!』と叫び、また気絶してしまいました。救急車を呼びました。ひなこさんにつきそってもらい、あたし達はいったん家へ帰りました」

 ここでマルンどんはふうっと息をついて、

「もうそろそろ次、誰か変わってくれる?」

 イナがおずおずと片手を上げ、

「じゃあ次はあたしがやるね」

「頼むね、イナ」

 と、マルンどん。イナはそれにうなず返し、

「ええと……。翌日、七月三十日、金曜日。病院へ行くとひなこさんがつきそっていて、カラス仙人とワタルさんが同じ病室で寝ていました。ひなこさんが事情を説明して、そのように取り計らってもらえたのは、幸運でした」

 ここで、アタマくんが言った。

「その光景を絵にしたらいいね。カラス仙人とワタルさんとひなこさんがいる絵。実は僕、絵を描いてないんだ。『まとめ・考察』でどんな絵を描いていいかわからなくて……。うん、それを絵にするよ」

「っち。お前、サボってたんじゃないかー」

 サビケンに言われて、アタマくんは、

「違うよ。何度も描きかけて、悩んでたんだよ。みんなが並んで立ってる絵とか、カラス仙人を大きくアップにした絵とか。でも、なかなか上手くいかなくて……」

 ひなこさんが笑って、

「悩んだ分、きっといい絵になると思うわ。楽しみね。さあイナちゃん、続きを」

 促されて、イナは続けた。

「点滴を受けてカラス仙人は苦しそうな様子もなく眠っていました。でもあたしたちは、カラス仙人と話せないことにがっかりしました。すると、そのうちに、アタマくんがおかしな様子になって、『……じゃが』、『とな……』とか別人のような口調で話し始めました。何と、カラス仙人がアタマくんの中に入り込んでしまったのです。カラス仙人は自分の体が思うように動かないので、ちょっとアタマくんの体を借りて話しているのだと言いました」

「そうだったのか。にしても、僕の了解も得ないで、ひどい」

 アタマくんが不服そうにこぼした。ひなこさんが微笑んで、

「カラス仙人に悪気はなかったのよ。きっとアタマくんの心がきれいで真っ白だったから、入りやすかったんじゃない?」

 そう言うと、アタマくんはまんざらでもないらしく、

「え……。そうなんですか?」

 と納得した顔になった。イナはそれを見届けると、

「それからカラス仙人はいろいろ話しました。つらそうに、自分が間違っていたのではないかと言いました。昔ワタルさんが学校へ行かなくなったときに、諦めないで何としても連れ出すべきだったんじゃないかと。もし自分が死んだら、ワタルさんはひとりぼっちになってしまう。いつかワタルさんが目を覚ましても、ひとりぼっちでは生きていけないんじゃないか、そんなことを……」

 ここでイナはふうっと息をついて、言葉につまった。うまい言葉が見つからないようだった。沈黙の後、

「間違えていないと思います、とひなこさんが言いました」

 サビケンが声を上げた。おお、という歓声がどこからともなく聞こえた。

「みんな、ひなこさんが次に何を言うのか、そればっか、考えてました。そしたら、驚いたことに、ずっと眠っていたままだったワタルさんの目がぱかっと開いて『僕が話すよ』と言ったんです。みんなびっくり仰天、腰を抜かしそうになっちゃった。あはは。でも、アタマくんに入ってたカラス仙人が今度は出ていっちゃったんです。『おお、ワタル。目覚めたか』なんて言って……。へなへな倒れて、アタマに戻ってしまいました、残念」

 ここでアタマくんが不満げな表情をサビケンに向けた。サビケンは口に手を当て、

「ごめん。だから、そう言うことじゃなくて」

 しきりに頭を下げたので、アタマくんも気を取り直した様子だった。ひろは声を上げた。

「だから、親子の対面は惜しいところで実現しませんでしたが 」

 ここでひろは言葉を切って、少し考え込んだ。眠っているワタルさんの顔を見、カラス仙人の顔を見た。二人とも穏やかに目を閉じている。心の中でワタルさんに手伝って、と頼んだ。

「ワタルさんは目をぱっちり開けて、話すのもすらすらと、まるで健康そのものの人のように見えました。いったいどういうことなんだろうと驚いていると『神秘的な力を借りている』と言いました。だから目が覚めたからといって、すぐにお医者さんたちを呼んでこなくてもいいんだって……。それから、ワタルさんは、こんなことも言いました。『父さんが間違っていたとは思わない。これから世界が広がっていくと思うから。これまでのことは全部そこへつながるための準備期間だった』って。そして、本当に目が覚めたら、僕たちに会いにいくと。そんなことを言っているうちに、だんだんろれつが回らなくなってきて、あっという間にスヤスヤ眠ってしまいました」

「続きは僕がやるね」

 アタマくんが言い、マルンどんがうなずいた。

「あれからずっと起きないところを見ると、やっぱり神秘的な力が助けてくれたから、あんなふうに目を開けて話すことができたんだろうと思います。それからひなこさんにも聞いてみました。カラス仙人に『間違っていなかった』といったわけを。ひなこさんは言いました。ワタルさんは、お父さんのおかげでじゅうぶん傷ついた心をいやすことができたんだと。他の人がこわくなってもう外へ気持ちが向かなくなったのを、お父さんは受け止めてくれた。すっかり傷がいえるまで見守っていてくれた。だからワタルさんは自分の好きなように本を読んだり、誰もいない時間に散歩したり、カラスの子を救い上げて育てたり。事故にあってしまったけど、それから思いがけない素敵な展開が待っていたと。それは僕たちに会えたことだと言ってくれました……ですよね」

 アタマくんはひなこさんを見た。ひなこさんは大きく微笑んで、うなずいた。アタマくんは、

「じゃあこれで③はおしまい。予定より随分長くなっちゃった。ひなこさん、書くの大変だったでしょう」

 ひなこさんは穏やかに首を振って、つづりをアタマくんに渡した。

「白い頁が何枚も残してあったから、なんとか書けたわ。走り書きで、汚くて読みづらかったらごめんなさいね」

「そんなことない、ありがとうございます」

 受け取ると、アタマくんは頁をめくりながら嬉しそうに言った。病室には午後の西日が差し込み、窓辺のワタルさんの顔にもまぶしいほどに当たっていた。ひなこさんが気づいて、カーテンを引く。

 アタマくんが、

「じゃあ続けて、④のまとめに入ります。まとめるにあたっては、みんなでたっぷり話し合いました」

 言いながら、みんなを見回した。照れ笑いをする者、真面目にうなずく者、様々な反応の中、

「僕たちがカラス仙人を追いかけて、カラス仙人と友達になって、カラスになることを教えてもらいました。僕たちは飛んだり、カラスの里に行ったり、面白い経験をしました。カラス仙人のつらい経験も一緒に味わったような気もしました。あれから随分日にちがたちました。今僕たちは、カラス仙人とワタルさんが目覚めるのを信じて、待っています。待ちながら、この研究報告を終えたいと思います」

 誰からともなく、控えめな拍手が上がり、次第に和して、少しずつ大きくなった。廊下につかつかと歩み寄る音がしたので、皆肩をすぼめて拍手をやめた。ドアの外で立ち止まる音がして、ちょっとの間そのままだったが、やがて歩き出して遠ざかって行くのがわかった。

「あのこわい看護師さんだったのかもね」

 マルンどんがペロリと舌を出した。ひなこさんが笑って、腕時計を見る。

「ああもうこんな時間。私の休憩時間も終わりだわ。みんなもそろそろ帰る?」

「そうですね。一緒に出ましょう」

 アタマくんが笑顔で答えて、みんなもぞろぞろ戸口に向かった。

「うーん」

 後ろの方から低い声がした。サビケンが振り向きもせずに、

「どうした、オバサナ。腹でも痛いのか」

 オバサナはサビケンのすぐ近くにいて、即座に、

「何さ、あたしじゃないよ。あたし、あんなに声、ぶっとくないよ」

 皆が振り返ると、ワタルさんもカラス仙人も静かに目を閉じている。

「誰の声だったのかな」

 ひろがつぶやく。誰も反応しない。

 長い沈黙の後、サビケンが両手をポンとたたいて、

「屁だよ。眠ってる二人のうちの、どっちかが屁をこいたに違いない」

 みんなキョトンと顔を見合わせる。それから、ひなこさんがプッと吹き出した。

「やあだ」

 他の女の子たちもクスクス笑う。全員に笑いが広がって、なごやかにドアと出て行った。その後ろ姿を、じいっと見つめる二つの目があった。ワタルが見ていた。


33

 ワタルはゆっくり隣のベッドに目を向ける。父が眠っている。ぐっすりと。起きる気配はない。子供達が自由研究の発表をやっている声が、眠っている意識の中に少しずつしみ込んでくるようだった。ぼやけていた景色が、次第に鮮明に見えてくる。体はこわばっていて、うまく動かせない。でも、これまでとは何かが違う気がする。ワタルは身動きできない体のままで、今までのことを静かに思い出す。


 事故にあってからしばらくの間、自分は体を離れてどっちつかずの存在として過ごしていた。自分の意識でそうしたのではないと思う。早くあちら側に行って、母に再会したいと願ったこともある。かと思えば、父が自分の回復を信じて暮らすのを見て、そちら側へ戻らなければと感じたこともある。しかし、どちらの方向にも進めなかった。あせる気持ちもなかった。ただ成り行きに任せ、あるときは何も考えずに宙に漂い、あるときは父の行動について回り、あるときはカラスの子を探し、あるときは美しい夕焼けを、星を、花を眺めて過ごした。自分はおそらくずっと、地上の肉体が年月を経て生き絶えるそのときが来るまで、このようにしていくのだろうと思い始めていた。

 それがこのところ、にわかにあわただしさを感じるようになった。強い力に引っ張られるように、自分も動かざるを得なかった。父がこの自分を救おうと決心したのを知った。父の行動を追いかけ、子供達が加わり、大きな動きになって行くのを見るようになった。誰かの夢の中に忍び込み、夢を見ている本人に会いに行ったりもした。夢に入り込むのは最初は難しかった。それが、いつのことか、

「こっちよ、こっち」

 という声がして、闇に無数に浮かんでいるいくつもの夢の中に、ほんの少し穴が空いていたり、隙間があって入り込めそうなものがあるのに気づいた。ワタルが引き寄せられた夢は、ワタルの父のものであったり、子供たちの中でもワタルが話せそうな相手のものだったりした。ワタルが初めて父の夢に入り込み、短い時間で離れたとき、近くに懐かしい誰かがいるのを感じた。

「母さんなの」

 返事はなかったし、姿も見えなかったが、相手がにっこりと微笑むのを感じた。

「ねえ。母さんなんだろ。いるんなら、姿を見せてよ」

 しばらく間があって、ようやく相手は答えた。

「そうよ、ワタル。でもあなたと私は全く同じ次元の空間にいるわけじゃないから、あなたに私の姿は見えないの」

「やっぱり母さんなんだ。母さんから僕は見えるの?」

 相手がうなずくのが感じられた。ワタルは声のする方へ向かって両手を差し伸べながら、「母さん、どんなに会いたかったか。もう元気なの。どこも苦しくないの。母さんが病気になって入院してから、僕、毎日会いに行ったでしょう。晴れた日の昼下がり、窓から差し込む太陽の光を浴びて、外の景色をよく眺めていたね。黙って、一緒に、ずっと……。でも僕はあのとき、本当はいろんなことを話したかった。悩みも聞いて欲しかった。相談したかった。だけど、母さんの病気が悪くなると困ると思って我慢していたんだ。いつか治って退院した来たら、いっぱい話を聞いてもらおうと思ってた。それなのに、母さんは死んでしまった……」

「ごめんね、ワタル。私も離れたくなかった。でも生きているものには皆、死ぬ時期がそれぞれ定められているのよ。それでも、私はあなたと父さんのそばにずっといたのよ。いつも見守ってきたの」

「僕が学校へ行けなくなってあんな生き方をしているときにも? 他の人のようにスムーズに生きられなくなって、迷路に迷い込んだような生活を続けている間も、見守っていたというの」

「迷うことも、人生にとっては大切な経験だと知ったわ。私がいなくなってからも、あなたと父さんは支え合って生きてきたわね。あなたは学校へ行かなくなったけれど、それは一つの選択に過ぎないわ。肉体を離れてこちらの世界に来てみれば、本当に大切なものは何か、よくわかる……。ワタル、私はあなたがちゃんと考えて成長して来たことを誇りに思っているのよ」

「誇り……。笑わせないでよ。僕は過酷な人間関係に耐えきれなくて、逃げたんだよ。誰にも会いたくなかった。人が元気に活動している時間にそうできない自分がやりきれなくて、昼間は寝ていて夜だけ起きていたこともあった。ずっと閉じこもって生きていたんだよ」

「……時には閉じこもることも必要よ。あなたはその年月、いろいろなことを考えたでしょう。たくさんの本を読んだでしょう。心は自由に駆けめぐり、世界中のあらゆるところに行ったでしょう。冒険もしたでしょう。時と空間をへだて、様々な人に出会い、学んだでしょう。そして、実際に、少しずつまた外へ出る気持ちが芽生え出すと、ひとけのない時間を選んで外を歩くようになった。そうして、カラスの子を見つけた」

「カラスの子のこと、知っているの」

「知っているわ。カラスの子は今、もうこちらの世界に来て、お母さんカラスと一緒にいるわ」

「死んでしまったの」

「肉体を離れても魂は生きているのよ。私がこうしていることが、何よりの証拠でしょう」

「それはそうだけど。やっぱり会えないのは寂しい。母さんにもカラスの子にも会いたいよ。姿を見て声を聞いて、手で触れたいよ。そばにいたいよ」

 母はしばらく黙っていた。ワタルは、

「ねえ、まだそこにいるの。なんとか言ってよ」

「……いるわよ」

 母は笑って、

「カラスの子はなかなかあなたに会うのが難しいようだけど、あの子とワタルはとても似たところがあるわね。だから出会ったのかもしれないわ。どちらも、外の世界をすごくこわがっていた。どちらも母親を亡くしていた」

「うん」

「そして、いつも誰かに会えることを願っていた」

「誰か?」

「そうじゃないの?」

 ワタルは考え込んだ。

「ううん……分からない。僕は誰かに会いたいと、ずっと思っていたのかな。自分でもよく分からない」

 見えない母がくすりと笑うのを感じた。

「どこかに誰かがいて、ワタルのそばにいてじっとワタルの気持ちを分かってくれるような……そんな存在が欲しかったのではないの」

 ワタルはハッとした。

「うん、そうか。僕はカラスの子をみつけたとき、会いたかったものに会えた気がしたんだ。それは、僕の中にそういう気持ちがあったからなのかな」

「カラスの子にとっても同じだったと思うわ」

「そうなの」

 母がうなずくのを感じた。

「なぜか私にも分からないけど、あなたたちは無意識の世界で呼び合っていたように思えるわ」

 ワタルはしばらく黙っていたが、やがて口を開くと自分に言い聞かせるように、

「カラスの子は死んでしまったんだね」

「そちらの世界ではそう言うわね。こちらの世界では生まれたと言うけど」

「生まれた? なんか明るいね。僕もそっちで生まれたい」

「……時期が来たら、いつかあなたもこちらの世界に来るでしょう。それまではそちらの世界で命をまっとうしなければね」

「どうして。どっちでも同じだよ」

「違うわ。今自分がいる場所が、あなたが生きるべき場所なの。あなたにしかできない、あなたなりの生き方をする場所なのよ」

「誰が決めたの」

「あなたよ。あなたがその世界で生まれる前に、こちらの世界から旅立つ前に、かたく心に決めた生き方なのよ」

 ワタルは信じられなかった。

「僕はそんなこと決めた覚えがないよ。僕の気持ちは、何の心配も悩み事もなく幸せに暮らしたかったいうこと、それだけだよ。小さいうちに母さんが死んでしまったり、学校で孤立してしまって人生に絶望したり、父さんに心配をかけて、でもどうしても他の同世代の多くの人のように社会に出てうまくやっていくことができなくて、苦しんで苦しんで毎日を過ごしてきた。そんな生き方を僕が決めて生まれてきたというの。母さんは何もわかっちゃいない。母さんも生きていて、僕もクラスのみんなと仲良くできて、父さんも僕の成長を喜んでくれて、今は僕が社会でバリバリ働いていて、そんな人生だったらどんなによかっただろうと、今でも思うよ。そんな人生を歩んでいる人たちを、うらまやしく思うよ。ねえ、そんなのおかしいよ。母さんはどれほど残酷なことを言っているかわかってるの。さっさと僕と父さんを残して逝っちゃったくせに」

 一気に言ってしまってから、母が何の言葉も返してこないのが気になってきた。

「母さん。まだ、そこにいるよね」

 返事がない。ワタルは両手を前に差し伸べて叫んだ。

「母さん、母さあん! まだ行かないで。ごめん、言い過ぎた。本当は、母さんが残酷なんて思ってない。母さんが逝きたくて行ったわけじゃないってことも分かってるんだ」

 ワタルの目から涙がこぼれ落ちた。

「……残酷なことを言ったのは……僕の方だ。ごめん。許してくれなくていいよ。ひどいこと言ってしまった」

 泣きむせんでいると、そっと頬に手を添えられた感触があった。温かいぬくもり。

「……大丈夫よ。母さんもあなたのこと、残酷だなんて思っていない。久しぶりに会えて、甘えてみたくなったのね」

「母さん!」

 大きな腕にすっぽりと包み込まれ、抱きしめられる感覚があった。ワタルは小さな子供に戻って大泣きに泣いた。

 気がつくと、ワタルは一人で歩いていた。もう泣いてはいなかった。心は澄み、波ひとつない湖面のように穏やかだった。長い道のりを黙々と歩いている自分を、あまり不思議にも思わなかった。母はもうどこかへ行った。まわりの景色は薄ぼんやりと、遠くに樹木や花、建物、川などが通り過ぎてゆく。

「ワタル、ワタル」

 不意に声がして、肩にふわりと温もりが伝わってくる。

「カラスの子! やっと会えたね」

 母のときと同じように、やはり姿は見えないが、肩に止まった小さな重みと、鳥のくちばしが柔らかく自分の頬を二度つつくのを感じた。

「お前、死んじゃったんだってな」

「そっちの世界ではそう言うね。でも僕、今お母さんと暮らしてるんだ。だから寂しくないよ」

「そうか。それにしてもお前、人間の会話ができるようになったのか、すごいな」

 肩で鳥が小首を振る気配がした。

「違うよ。僕が思ったことがそのままワタルに伝わってるんだよ。ワタルが思ったことも、おんなじように僕に伝わってくる。そっちとこっちの間の、ぼんやりしたこの場所だと、こういうことが出来るみたいなんだ」

「そうなのか。でも、僕はお前が死んで寂しいよ。助けてやれなくてごめんな。あのあと、大変だったろう」

 カラスの子は少し黙っていた。ぽたんと冷たいものが肩に落ちた。

「泣いてるのか」

「……大丈夫だよ。ワタルはずっと僕の友達だよ。それは変わらない。僕がどこにいても、いなくなるわけじゃないから。僕こそあんなことして、ワタルに迷惑をかけてごめんね。やっと会えて嬉しい。早く謝りたかったんだ」

「大丈夫。怒ってないよ」

 ワタルは微笑む。カラスの子がワタルの肩に止まったまま、ぱたぱたとはばたく音がした。

「ああ僕、ワタルが大好きだ」

「僕もお前が大好きだ」

 ワタルはカラスの子に微笑みかけた。見えないが、相手も微笑み返してくれているのが分かった。ふと思い出して、言ってみる。

「母さんが言ったんだ。生まれる前に心に決めた生き方があるって。カラスの子、お前は信じられるかい」

 カラスの子は即座に答えた。

「もちろん。こっちに来て全部わかったよ。僕とワタルが出会ったのも、もともと約束していたことだったんだ」

「約束……? 母さんが何かそんなことを言っていたような。お前と僕は似たところがあって、呼び合っていたから出会ったんだって」

「うん。そんなとこ。今、やっとまた会えているのも、その約束によるんだ」

「そんなとこって、もっと詳しく教えてくれよ」

「ごめん、もうそろそろ限界だよ。僕にはもうここにいるのは難しくなって来たみたい。でも、もう大丈夫だね。僕たち、自分なりの翼をそれぞれ、手に入れたから」

「カラスの子!」

「これからは……もっと……」

 カラスの子の声が遠のいていく。ワタルの肩に置かれていた重みがが消える。

「カラスの子!」

 ワタルはまたひとりぼっちになった。

「翼……?」

 そうつぶやきながら、また空中を漂っていく。すると、地上近くに、父がカラスになったまま、あちこちさまよう姿が見えた。食べることも眠ることもやめて、ひたすら取りつかれたように飛び回っている。ワタルは「もうやめて」と伝えたかった。父が自ら危険な状況に突き進んでいくのを止めたかった。なのに、何もできない。

「こっちよ、こっち」

 ふいに母の声がしてぐいと腕をつかまれ、半透明の大きな球体に出くわした。よく見ると小さな穴があって、そこから入り込むと、そこは「ひろ」という子の夢の中だった。あのとき、ひろに話した。上手に伝えられたかどうかわからないが、ひろは受け止めて、動いてくれた。それから他の仲間たちと力を合わせて、父を見つけてくれた。ひなこちゃんが、父を僕の隣に連れてきてくれた……。


 これまでのことを思い返し、ようやく今、自分が体の中にかっちりとおさまったのを感じる。先ほどから、ひろたちが順番に研究発表をする声が聞こえていた。最初はよく聞こえなかったが、だんだんとはっきり聞こえてくるようになって、それが父親と自分に関することだというのが理解できた。

 彼らが出て行き、ドアが閉められて、病室は静まり返った。隣のベッドから、静かな吐息が聞こえてくる。声をかけてみたいが、口がうまく動かない。心の中で懸命に呼びかける。

――父さん、父さん。

 全く起きる気配はない。

――父さん、父さん。

 ワタルはかつて父が懸命に枕元で自分の名を呼び、自分が目を覚ますのを祈るように待ちわびた姿を思い出さずにはいられない。時に父は椅子に掛け、左右の太ももの上で両手を強く握りしめ、長いことじっとしていた。こぶしは震え、上にポタポタと涙が落ちた。また、あるときには、赤ん坊に話しかけるみたいに優しい声で、「ワタルよ、ワタルよ」と呼びかけた。父のそんな姿を、ワタルは空中高くふわふわ浮きながら見下ろしていたものだった。

廊下に物音がして、午後の回診が始まったのが分かる。どちらの患者も意識不明ということは承知の上で一応きまりなのか、ノックしてから扉が開いた。一番先に足を踏み入れた看護師が、まずワタルの方に近づく。ワタルは大きく目を見開いたまま、じっと看護師を見つめた。看護師は、腰を抜かさばんばかりに驚き、

「せんせい、せんせ……。大変です、田中ワタルさん起きています。起きています!」

 医師が駆け寄ってワタルをのぞきこんだ。

ワタルはまばたきもせず、強い目線で見返した。

「き、きみ。本当に起きているのか。ただの反射で目が開いているだけじゃないのか。本当に……」

 ワタルは口を開こうとしたが、長いこと使っていない筋肉は思い通りに動いてくれない。ようやくのことで、首をわずかに、縦に動かした。

「すごい。本当にこんなことが」

 興奮している医師の後ろで、もう一人の看護師が叫んだ。

「大変です! こちらの患者さん、田中一郎さん。息をしていませんっ」


34

 夏休みが終わって、自由研究をどうするかについてはみんなで話し合っていた。だから、トド先生が「次の班」と指名して、第三班の面々がぞろぞろと教壇の前に並んだとき、みんなの気持ちは落ち着いたものだった。

「何を研究してくれたのかな」

 今日も赤いジャージのトド先生は、毎日のジョギングの成果もむなしく、はち切れんばかりの大きなお腹をしている。ジョギングはサボらなくても、食欲がその効果を打ち消してしまうほど旺盛なのかもしれない。給食のときも、すぐに食べ終わるところを見ると、職員室でしょっちゅうおやつでも食べているのかもしれない。サビケンが、黒板に大きな模造紙を貼るための作業に入る。ひろも手伝った。まず最初に、進行役のアタマくんのちょっと甲高い、それでも落ち着いた声が教室に響いた。

「そもそも、僕たちがカラス仙人に興味を持ったのは……」

 病室でリハーサルをしたのとほぼ同じに、交代で発表をしていった。違っていたのは、おしまいの方で貼られた絵だった。アタマくんが描いたもので、病室に二つベッドが並び、それぞれにおじいさんと若者が眠っている。そばには優しく見守る若い女性が立っている。窓からは陽が差し込み、温かく三人を包んでいるようだ。この絵を見ながら、アタマくんは発表をしめくくった。

「今僕たちは、カラス仙人とワタルさんが目覚めるのを待っています。待ちながら、この研究報告を終えたいと思います」

 教室からは拍手ひとつなく、クラスメートのほとんどは目を丸くしていた。トド先生も、すぐにはコメントが出てこないようで、戸惑いの表情を見せていた。そのうち、後ろの席から声が上がった。

「嘘だい! いい加減なことばっか」

 それが火をつけたのか、他の席からも次々に声が出た。

「ありえない。人間がカラスになるなんて」

「そんなでっち上げが自由研究なんておかしいよ」

 トド先生は「まあまあ」と教室の騒ぎをなだめておいてから、教壇の前に立つみんなの方に向き直って、

「ええと、これは一体なんだ? お前たちの作ったお話か。それとも」

「本当に、正真正銘、あたしたちが体験したことです」

 マルンどんがきっぱりと、胸を張って言い切った。

「なんだよ、それー」

 また、教室中大騒ぎになりかけた。教壇にいる他のみんなは、困惑の色を隠せない。

「……なーんてね」

 マルンどんはペロリと舌を出して見せた。全員がずっこけた。ひろが助け舟を出した。

「僕たち、おじいさんの後をつけていくうちに、おじいさんと仲良くなりました。それから、おじいさんと一緒に『カラス仙人物語』を作ったんです」

 トド先生が、

「みんなで物語を作ったんだな。立派な自由研究じゃないか」

 教壇にいた六人はうなずいた。約束してあったのだ。もし、この発表を信じてもらえるようなら、本当のこととして通す。でも、クラスメートたちにとって信じるのが難しいようだったら、「『カラス仙人物語』というお話を作ったということにしよう」と。

「はい、はーい」

 と、手を上げて、須藤くんがまだ不満げに、

「物語を作るっていうのも研究なんですかあ。研究っていったら、調べて確かめることとか、何か行動して、その経過を観察することじゃないかと思うんですけどお」

 須藤くんは、いつもちょっとのところでアタマくんにテストの点で負けてしまう。それが悔しくて、ここぞとばかりに逆襲に出ているのかもしれないと、ひろは思った。トド先生は、

「須藤たちの班がやった『毎日の天気と北道スーパーマーケットの人出記録』もなかなかのもんだったが、今の発表の『カラス仙人』も面白かったぞ。なあ、みんな」

「須藤の奴、ちまちました研究しやがって。発表のまとめは『雨の日にはお客の数は晴れた日の八割程度で、減っているのが確かめられました』じゃないか。ばっかじゃねーの。わざわざ調べてみなくても、わかりきったことじゃんか」

 サビケンが声をひそめてひろにつぶやく。本人はひそめているつもりだが、怒っているのでところどころ声が大きくなってしまう。ひろはみんなに聞かれないように、

「ゴホン、ゴホン」

 と、大きめな咳をした。

 今度はマルンどんがはっきりした口調で、

「あたしたち、カラス仙人……おじいさんのことを物語の中の人物と同じようにそのニックネームで呼ぶようになっていましたが……カラス仙人と一緒に過ごしたり、お話を聞いたりするうちに、カラス仙人を主人公にした物語がどんどん浮かんできました。一人が途中まで作ると、続きは他の誰がというふうにして、それをノートにまとまると、長いお話になっていました。それで、これを夏休みの自由研究として出すことに決めたんです」

 続けてイナが、

「カラス仙人の息子さんは本当に入院しているんです。事故にあって、意識が戻らなくなったのも、本当です。カラス仙人は悲しそうでした。体が弱って、倒れてしまいました。あたしたちは、何とかカラス仙人を力づけてあげたくて、このお話を一生懸命にまとめました。病院に入院したときに、病室でこの発表のリハーサルをしました」

 いつもおとなしいイナが大きな声で発言したのに教室中のみんなは驚いていた。トド先生も目を丸くしている。

「カラス仙人は意識もなくて……でも、多分、聞いてくれていたんでしょう……。あ、あたしたちが帰ってから亡くなってしまったんですが……」

 えーっと教室中に大きなどよめきが起こった。

「さっき、目覚めるのを待つとかなんとか言ってたじゃんかよ!」

 須藤くんが抗議する。アタマくんが冷静に答える。

「みんなで話し合って、発表はあそこまでと決めたんです。希望が持てる終わりかただから」

「何だよー。死ぬなんて、ひどいよ」

 意外にも、須藤くんは心底がっかりしている様子だ。教室もざわめいて、カラス仙人の死を惜しむ空気が流れた。イナはすっかり涙声になって、言葉が出てこなくなった。ひろがどよめきに負けなくらい大きな声で、

「カラス仙人はかすかに微笑んでいたって、病院の人が言っていました。僕たちはお葬式まで会うことができませんでした。幸い、息子さんが目覚めました。ゆっくりと回復しているようです。でも、まだお葬式に出られるほどではなかったので、お葬式は親戚の人たちだけで開かれました。僕たちもひなこさんについていきました。息子さんは物語と同じ、ワタルさんという名前です。モデルだから当たりまえですが」

「今、ワタルさんはどうしているんだ?」 

 トド先生が聞いてきた。

「ワタルさんはずっと寝ていたから体が動きづらくなった。だから、リハビリとかをやって頑張ってるんだ」

「頑張ってるんです、でしょう」

 サビケンにマルンどんが訂正を入れる。それから先生の方に向き直って、

「随分よくなったんです。車椅子を押してもらって病院の中を動いたり、話すこともゆっくりなら少しずつできるようになったって、ひなこさんが」

 トド先生は確かめるように、

「ひなこさんも想像上の人物じゃなくて、ちゃんといるんだ」

「そりゃあそうでしょうよ。ひなこさんがいなかったら、あたしたちの研究だってちゃんと完成させられたかどうか。誰も信じてくれっこないってやめたくなる気持ちを、ひなこさんが信じてくれたから、思いとどまることができたんだよ」

 そこまで言ってから、ハッとなって口に両手を当てた。でもその意味を知っているのは、研究をまとめたみんなだけだ、とひろは心の中でつぶやいた。トド先生は目をパチクリさせて、

「そうか」

 と言った。


 「そろそろ面会に来てもらってもよさそうよ」

 ひなこさんから連絡があった。あれから二ヶ月がたっていた。みんな、この連絡を待ちわびていた。病院側から「待った」がかかっていたのだ。みんなそろって、土曜日の午後に会いに行くことにした。秋晴れの、気持ちのいい日だった。

「久しぶりだね。こうしてみんなで出かけるの」

 先頭を歩いているマルンどんが振り返って言った。

「だね」

 オバサナがぽりぽり何かを食べながら、答えた。一番後ろを、イナと並んで歩いていた。

サビケンが振り返って、

「お前、また何か食ってんのか」

「ピーナッツチョコだよ。おいしいよ。食べる?」

 オバサナが袋を差し出すと、

「お、食う食う」

 サビケンは早速手を伸ばして袋に突っ込み、がばっとつかむと口に全部放り込んだ。

「うめえうめえ。サンキュー」

「ったく」

 マルンどんはちょっとあきれ、イナは苦笑い。ひろはサビケンに「お前も食えよ」と言われ、オバサナも袋を見ながらほれ、と差し出すので、

「あ、ありがと」

 一粒取って口に入れた。かじると、香ばしくて甘い味が口の中に広がった。そして、みんなオバサナからピーナッツチョコをもらってもぐもぐ食べながら進んで行く。イナがクスッと笑う。

「こうしていると、思い出すね。カラス仙人が『あの、辛いの』とか言って、激辛しょうがミントのキャンディを美味しそうに頬張っていたの」

「ほんと。傑作だったなあ。初めは目を白黒させていたのに、だんだん気に入っちゃって」

 アタマくんも楽しそうに同意した。

「僕たちも激辛しょうがミント食べたくなったけど、いつもカラス仙人のためにとっておいたんだよね」

 ひろが言うと、

「あの年になるまであの味の飴を食べたことがないのかなあ……。ほんとにずれたじいさんだった」

 サビケンも言う。

「誰がずれとんじゃ」

 後ろから声がして、サビケンの頭がこずかれた。

「いってえ。わーなんだ、なんだ」

 サビケンが両手を振り回して騒ぎ出す。大ぶりなカラスがサビケンの頭を両足で蹴った後、頭にしっかと乗り、ぶ然として動かない。

「カラス仙人!」

 ひろが叫んだ。みんなもまたか、という顔でカラスを見ている。

「もう驚かんのか」

 カラスがクエーッと大きな声を上げ、羽をバタバタさせる。サビケンの髪が舞い上がって、面白い顔になる。

「やめてくれ」

 サビケンが抗議するも、取り合わず、

「つまらんのう。葬式の帰りにお前らの前に現れたときは、びっくり仰天して、愉快じゃったが」

 ふくれっ面をするカラスなのだった。

「あれくれ、あれ」

 くちばしを大きく開けるのでオバサナが、

「はいはい」

 と、カラスの口に例の飴を放り込む。

「ハーーー。スッキリするわい」

 と、一息つく。イナが感慨深げに言った。

「あのときは、みんな悲しくて、しょんぼりして、泣きながら歩いていたっけ。そうしたら……」

 サビケンが口をとがらせて、

「クエーって、俺の頭を蹴り飛ばしたんだよな、このじいさん。それから『わしじゃ、わしじゃ』って大笑いしたんんだ。みんな、尻もちついちゃった。……にしても、なんでいつも俺の頭ばっか蹴るんだよ」

「それは、お前の頭が蹴りやすい形をしているからじゃ」

「蹴りやすい?」

 サビケンが抗議しかけるが、

「ワビもサビもある頭でのう」

 しらっと言われて、もう返す言葉もない。カラス仙人は、サビケンの頭に乗ったまま、

「お前たちどこへ行くんじゃ」

 と聞いてきたので、アタマくんが答える。

「ワタルさんのお見舞いに行くんです。ひなこさんが今日あたりどうかって言ってくれたので」

「そうか、そうか。じゃあ、わしも行くぞい」

「なんだか、ますますおかしなしゃべり方になってきたね。でも、カラスが病院に入るのは、さすがにまずいんじゃないかなあ」

 マルンどんが言うと、カラス仙人は小首をかしげて、

「せっかくカラスとして降臨したのに、そのありがたみがわかっとらんようじゃの。あのとき、ワタルが覚醒してわしの方を見たとき、わしは体からひょお~っと抜け出て、病室の上の方から見下ろしていたんじゃ。医者や看護師が血相を変えてバタバタ騒ぎ出したときは、もうわしの体は息もしておらんかったしの。わしもようやく連れ合いのところに行けると喜んでおったくらいじゃ。じゃが、ポンと背中を押された。『まだ、駄目です』という声がした。高くて細い声で、連れ合いのようでもあり、カラスの子のようでもあった。そして、この体の中にいたというわけじゃ」

 そして、片方の羽で自分の胸をぽんとたたいて、

「これはどこぞのカラスのものか、それともわし専用に与えられたものなのか、よくわからんが」

 もうその話は十回以上聞かされて、みんな耳にタコができていたのだが、さすがにイナは優しく、

「よくわからなくても、カラス仙人がこうして戻ってきてくれて、あたしたち本当に嬉しいです」

 と言った。カラス仙人は目を細めて、

「おお、お前はいつもめんこいのう」

 後ろから、こほんこほんと咳払いをする声がして、みんなが振り向くと、

「やあ」

 なんと、そこにトド先生がいた。

「やあ。そのカラス、差三田くんに随分なついてるみたいだね」

 カラス仙人はトド先生を見ると、もう話すことはしないで、いかにもカラス然とした風情で、黙ってサビケンの肩にとまっている。

「なんで先生が」

 真っ先に聞いたのは、マルンどんだった。

「お前たちの研究がすごく面白かったから、何か進展があったら教えてくれって阿多間くんに頼んでたんだよ。なあ?」

 先生に話を振られて、アタマくんは、

「あ、みんなに言うの忘れてた。今朝出がけに、PTAの用事で先生と母が電話で話してたんだけど、そのうち先生が僕に代わってと言ったらしくて、受話器を渡された。先生から『どうだ、何か進展はあったか』って聞かれたから、これからお見舞いに行くんですって言ったんだった。でも、まさか先生が現れるとは……」

 と、意外そうな顔で言った。

 ちょうど信号が赤に変わって、交差点で立ち止まった直後のことだった。

「お前、肝心なこと、忘れんなよ」

 サビケンが抗議すると、トド先生は押しとどめて、頼むように、

「まあまあ。今日は先生としてじゃなく、仲間としてついて行かせてくれよ」

 みんな顔を見合わせた。

「仲間?」

「あ、信号が変わった」

 先生は道路を渡り始めた。みんなも後をついて行く。しかし、先生がお見舞いに同行することについては、判断に迷って誰も答えない。トド先生は道路を渡りきって数歩進むと立ち止まり、みんなの顔を見て観念したように、

「……言おうか言うまいか、ずっと迷っていたんだが……。実をいうと、僕もワタルくんたちのこと、全く知らないわけじゃないんだ」

「ええええええーっ」

「先生、ワタルさんのこと、知ってるの?」

 大声で聞いたのはオバサナだった。トド先生は頭をかきながら、

「子どもの頃、この辺に住んでいたんだ。僕が小学六年生のとき、学校の行事で、班ごとに新入生の登下校につきそう役目をやったことがある。そのとき、ワタルくんもいた。たった一ヶ月ほどだったけど、ワタルくんは古本屋さんの子どもだったから、よく覚えている。迎えに行くと、ニコニコして僕の手をつなぎ返してくれた。たまに、面白い本の話とかしたりして」

「そうか! あのときの。お前さんは、うちの常連でもあったな」

 カラス仙人がためらうことなく、人間の言葉でトド先生に話しかけた。みんなギョッとした。ひろは思わず、

「せ、先生。これは、このカラスがしゃべっているのは、あの……」

 なんとか言いつくろおうとするが、トド先生は平然と笑って、

「大丈夫。さっきから後ろで見て、このカラスがただ者ではないことは知っていたよ。第一、僕はあの研究発表は本当のことだと信じている」

 ひろが答えるより早く、イナが先生のそばに駆け寄って、

「せんせい。信じてくれてたんですね」

 涙目である。見ると、マルンどんもオバサナも、アタマくんも、あろうことかサビケンまで、感極まったような顔で先生を見上げている。トド先生は照れたように笑うと、カラス仙人に向きなおって会釈をした。

「おじさん。小学生の頃はよく漫画を立ち読みに行って、お世話になりました。中学生になって部活やら塾やらで行けなくなってしまったけど、懐かしいなあ。……そうか、やっぱりおじさんがカラス仙人なんですね。亡くなったって聞いて悲しかったけど、こうしてカラスとして降臨したのを知って、嬉しいです」

「先生、カラス相手に随分礼儀正しいね」

 オバサナがゲヘヘ……と笑う。みんなも笑う。カラス仙人だけが、

「わしはこの中で一番目上なんじゃ! 礼儀を尽くされて当たり前じゃろうが」

 一人、いや、一羽、偉そうにしていた。


35

「カラス仙人がトド先生と……。あ、戸堂先生と、知り合いだったなんて」

 ひろは感慨深く、つぶやいた。

「ワタルさんが学校へ行かなくなったことは、先生はご存知だったんですか」

 アタマくんが聞く。さすがアタマくんは目のつけどころが違う、それに聴き方もすごい、とひろは思った。「ご存知」なんて言葉を使いこなせる子どもは、このメンバーの中には他にいそうもない。

 トド先生の表情が曇った。

「いや。その頃はもう僕は中学生だったし、中学校は小学校と逆方向にあったしなあ。そのうち、親が郊外に家を建てて、引っ越しちゃったから。母校で教育実習をさせてもらい、その流れでここで働くようになった。新米教師の仕事にも生活にもようやく慣れた頃、ふと古本屋さんやワタルくんのことを思い出して田中書店に行ってみた。でも、ワタルくんの姿はなくて、おじさんに聞いても言葉をにごしてあんまりはっきりしたことはわからなかった。僕の中でも、ああこれ以上聞いたらおじさんは困るな、すごく困った顔をしているなって感じたから、それ以上聞かなかった。何か事情があって、遠くで暮らしているのかなって思うようになった。田中書店にはそれっきり行かなかった。お前らの研究発表を聞いて、驚いたんだ。これはもしかしたら……ってな。こうして、ワタルくんのことが詳しく分かって、つくづく思うんだ。もし知っていたら、声をかけるとか、話を聞くとか、何かできたのかもなあって。随分長いこと知らなくて、申し訳なく思う」

「そうだったのか……」

 ひろが言うと、マルンどんが、

「まあ先生が申し訳なく思うことないと思うよ。過去のことはしかたがないよ。今、先生はあたしたちのこと信じてくれて、こうしてワタルさんのお見舞いにも一緒に行こうとしてくれてるんだもの」

「そうじゃそうじゃ」

 カラス仙人がクエーッと雄たけびをあげた。

トド先生は嬉しそうに笑った。

「僕もお見舞いに行くのに、お許しが出たみたいだね」

「満場一致で」

 アタマくんが答えた。みんな、うなずいた。病院が見えてきた。

「わしはここで休むとするわい」

 カラス仙人がサビケンの肩から飛び立ち、紅葉し始めた木の枝に止まった。

「一緒に入れないなんて残念だわ」

 イナが見上げてため息をつく。

「なんの。気楽なもんじゃ」

 カラス仙人は「クァー、カカカカッ」と鳴いた。みんなでうなずき、病院の中へ入った。

「先生、あたしたちのこと、信じてくれてたんだね」

 通路を歩きながら、あらためてオバサナが言う。

「やっぱ先生は、いい先生だよ」

 そして、ガハハハハ……と笑う。

「お前、何様なんだよ」

 さすがのサビケンも目を丸くしてつぶやく。トド先生はほめられて気をよくしたのか、たくさんしゃべった。

「お前らの発表を聞いてからだんだん気になってきて、学校の記録を探したが、随分昔のことだからか、何も見つからなかった。田中書店にもまた行ってみた。シャッターが降りていて、玄関に回っても留守だった。それで、メモに僕の名前と電話番号を書いて郵便受けに入れて帰ったんだ。『ご無沙汰しています。戸堂尽士です。携帯の番号を書きますのでよかったら連絡ください』ってね。でも、何日たっても返事はなかった。近所の人に聞いてみた。店主は亡くなったと言われた。そうか、やっぱりあのおじさんがカラス仙人だったのかと思った。すごく後悔した。新聞の死亡広告もろくに目を通していなかったことも。そして、ワタルくんのことを全然知らないで過ごした年月のことも。日に日に、ワタルくんに会いたいという気持ちが強くなった」

「僕らがいく今日が、いいタイミングだったってわけですね」

 アタマくんがトド先生に言った。トド先生は一瞬立ち止まり、嬉しそうに見返した。そして、また歩き出した。

「そういえば、トド先生の名前『ツクシ』なんだね。フルネームで、とどうつくし。『トド、美し』かあ」

 前をずんずん歩いてゆく赤いジャージの巨体を眺めながら、ひろが小声でいうと、サビケンは、うひひひひ、と笑った。なになに、とマルンどんに聞かれてサビケンが教えると、マルンどんもぷっと吹き出し、オバサナ、イナ、アタマくんに伝えた。笑いは伝染して、みんなでげらげら笑いながらついていった。先頭のトド先生が振り返って、けげんそうな顔をしたが、間も無く病室に着いたので、そのまま前に向き直って入っていった。


 ワタルさんは病室にいなかった。お掃除のおばさんが通りかかって、

「久しぶりだねえ。ひなこちゃんにつきそわれてさっき出て行ったよ。リハビリじゃないかな」

 ニコニコして教えてくれる。トド先生が、一歩前へ進み出て、

「お世話になってます。この子達の教師です」

 頭を下げたので、おばさんは目をパチクリさせ、恐縮していた。

「お前ら、いろんなとこに友達を作ったんだな」

 トド先生が感心したように言うので、みんな照れ笑いしながらリハビリテーション室へ向かった。

「それにしても、こんな日が来るなんて、すごいことだなあ。人間の回復力というのは、素晴らしいものだ」

 アタマくんは感に耐えないという顔をして、横を歩いていたひろに言った。

「ほんとだね。カラス仙人があんなふうになるなんて思いもしなかったけど……」

 みんなは少しシュンとした。やはり、カラス仙人には人間の姿のままで元気になって欲しかったという気持ちは同じなのだった。

 リハビリ室に入ると、歩行訓練をしている人、マットの上に横になりストレッチの指導を受けている人、マッサージをしてもらっている人がいた。ワタルさんはいなかった。

「ワタルさんがいない」

 ひろがいうと、歩行訓練の補助をしていたスタッフが患者さんから目を離さずに言った。

「田中ワタルさんなら、病院の中庭にいますよ。外気に触れてもらってます」

 言い終わると、また訓練補助に専念した。

「はい、いいですよ。その調子。ゆっくり、ゆっくり……」

 小柄なおばあさんは真剣な面持ちで、手はしっかりバーにつかまり、慎重に足を交互に出していく。ぼんやりその光景を見ながら、

「ありがとうございました」

 トド先生が言い、みんなも頭を下げた。中庭へ向かう。

「ワタルさん、まだ歩いたりはできないってひなこさんが言ってたけど」

 と、アタマくん。先生がそれに答えて、

「外の空気に触れるのもリハビリなんだろうな。着実に回復してきてるんだろう」

 驚きと嬉しさの混じった吐息。自然と早歩きになっていく。病院の中庭に近づくと、ワタルさんとひなこさんがいた。車椅子を押しながら、ひなこさんが何か話しかけている。

駆け出していこうとするひろやサビケンを押しとどめて、トド先生がみんなに目配せした。

「急に押しかけて驚かせたらマズイ。ひと段落するまで、少し黙って見ていよう」

 小さな声で言ったので、みんなもうなずいた。ワタルさんは座ったままごくゆっくりと、左右の足をかわりばんこに持ち上げる練習をしていた。ワタルさんの真剣な顔。ひなこさんはそばでじっと見守る。ワタルさんがひなこさんを見て、何か言う。ひなこさんが微笑んで、うなずく。誰がどう見ても、二人はベストカップルに見えた。皆が息をひそめている中、トド先生が大きな声を出した。

「ワタルくん! 久しぶりだね。元気になってよかった」

 涙を流しながら、大声で駆け寄ったのだった。ワタルさんとひなこさんはびっくりして、自分たちを見守る数人もの乱入者がいることに気づいた。

「ぶちこわしだ……自分であんなこと言ってたくせに」

 アタマくんが残念そうにもらした。サビケンも、こうつぶやかずにはいられなかった。

「せっかくお前も近頃、やっと応援モードになったっていうのにな」

 次の瞬間、

「ほんに。ツクシくんもいいとこで邪魔してからに」

 カラス仙人が、すぐそばのカツラの木から舞い降り、サビケンの頭にとまった。

「わっ来てたのか」

「ワタルたちが外に出て来たんで、見ていたんじゃ。なかなかよく頑張っているようじゃ」

 ワタルさんは、カラス仙人からトド先生に目を戻すと、

「父から……つい、さっき、聞いたん、です。ツクシさんと、みんなが、お見、舞いに、来て、くれたって……」

 一語一語区切って、ゆっくり話す。まだ、話す方はスムーズには出てこないらしいが、とびきりの笑顔だ。ひなこさんが、

「すれ違いになるといけないから、そのままここでリハビリ続けていたんです」

 みんなとトド先生に会釈する。ワタルさんもぎこちなく頭を下げてから、一語一語確認するように、

「……ツクシさんが、みんなの、先生だったと、父から、聞いて、ビックリ、しました」

「リアルワタルさん、自力でしゃべってる。すごい」

 マルンどんが興奮気味に言った。ワタルさんは優しい目でみんなを見回し、

「みんなに、会えて、嬉しい。ありが、とう。いつか、もっと、動けるように、なったら、僕も、みんなに、会いに、行く」

 と、言った。そして、トド先生に、

「ツクシさん。僕を、覚てた、なんて。一年生のとき、頼もしいお兄さん、でした。僕にとって、学校での、数少ない、いい、思い出です」

「いやあ、ただ学校の決めた行事でやっただけだよ。でも、ワタルくんと面白い本の話とかするの楽しかったな。『かいけつゾロリ』とか『ドラえもん』とか」

 そばでニコニコ聞いていたひなこさんが、

「『エルマーの冒険』もありましたね」

 トド先生はひなこさんを見て、

「君は」

「鳥居ひなこです。覚えていらっしゃらないかもしれませんが。一度、緊張のあまり、学校に着くなりおしっこを漏らしてしまったことがあります。あのときはご迷惑をおかけしました」

 悪びれることなく、笑顔で言った。トド先生は頭をかいて、

「ああ、そんなことがあったっけ。ごめん、忘れてた。子供だったから、ちゃんとできたか自信ないな」

 ひなこさんは微笑んで、トド先生を見た。

「ツクシさんはかがんで、泣き出した私の頭をなでて言いました。『大丈夫、こんなの何でもない。僕もちっちゃい頃、よくタレたもんだよ』それからバケツと雑巾を持ってきて、テキパキと後片付けしてくれました」

 ワタルさんが続けて、

「僕、六年生っていうのは偉いもんだと、あのとき、思いました……」

 ひなこさんも遠い昔を懐かしむように、

「ツクシさんが保健室まで連れていってくれたんです。おかげであのときはたいして大ごとにもならないで、学校生活にも少しずつ慣れていくことができました……」

「そうだったのか。……でも、僕だけじゃないんじゃないかなあ。他の六年生も一緒にやってくれてたんじゃないかと思うよ。僕はどっちかってゆーと。ぼんやりのほほんとした坊主だったから」

 しきりに照れてトド先生が言う。サビケンはにひひと笑って、

「せんせ、思い出の中で美化されててよかったね」

「ほんとだなあ」

 わはははは、とトド先生が笑ったので、他の子供たちも笑った。ワタルさんが「そんなことな……」と言いかけ、ちょっとよろけた。ひなこさんはすかさず手で支え、車椅子に座っているワタルさんの体勢を整えた。

「そろそろ疲れたんじゃないか? 病室へ戻ろうか」

 トド先生が言うと、ワタルさんはにっこり見上げて、

「空が気持ちいい……。よければ、もう少し、このままここで」

「そうじゃの。その方がわしもありがたい」

 カラス仙人がサビケンの頭から飛び上がると、ワタルさんの肩にふわりと止まった。

「それにしても、あのツクシ少年もこの子たちの教師とは、立派になったもんじゃ」

 感慨深げに言うと、天を仰いでクエーッとひときわ高い声で鳴いた。

「いやそんな……。立派だなんて」

「そうそう。立派なのはお腹だけだよ。まだ嫁さんもいないし」

 サビケンがずけずけ言ったが、トド先生は怒るでもなく苦笑して、

「いやあ。この腹をなんとかしないとなあ。運動してるのに、ちっとも引っ込まないんだ」

 笑いはみんなに広がって、笑い声は柔らかな風に運ばれ、紅葉したカツラの甘い香を含んで遠くまで流れていった。


 ふと思い出したように、アタマくんが先生に聞いた。

「先生、僕たちの自由研究、どうして本当のことだって思ってくれたんですか」

 トド先生は首をかしげて、腕を組んだ。

「うーん。どうしてかなあ。大人の自分としては、お前らの作った物語だと思ってる。でも、心の中のどこかで全部本当だっていう自分がいる……」

 マルンどんが近づいて、

「それは先生の子供の部分?」

「うーん。子供の部分というのとも、ちょっと違うかな……。直感的に信じているというか」

「僕たちがカラスになって飛んだことや、ワタルさんやカラスの子が夢の中で会いに来たりしたこと、本当に信じてくれるんですか」

 ひろは意気込んで訪ねた。

「僕たちは親に言っても信じてもらえそうにないから、聞かれても『お話を作った』って答えていたんです」

 トド先生はニヤリと笑った。

「お前らの父さん母さんも、信じてくれてるところはあるかもしれんぞ」

「どのくらい」

 サビケンが聞いた。

「それはみんな、それぞれによるな」

 それから、ワタルさんとひなこさんは病室へ、トド先生とみんなは帰路へついた。カラス仙人はいつのまにか、どこかへ飛び立った。また気ままに戻ってくるのだと誰もが思っていた。しかし、カラス仙人はその日を境に、二度と現れることはなかった。


 春がめぐって、桜が咲く頃、ワタルさんは歩けるようになった。やがて退院し、長い準備期間をへて「田中書店」を復活させた。みんなは時々、店をのぞいてみる。ワタルさんは次第に話し言葉もスムーズに出てくるようになり、店主としてもしっかりした顔になって来たようだ。一人で店番をしていることがほとんどだが、ひなこさんが休みの日には、楽しそうに働く二人の姿が見られることもある。

 ひなこさんの話では、祥子さんが戻ってくることは当分なさそうだ。でも、ひなこさんから伝え聞いた内容を受けて、以前のような明るい祥子さんに戻りつつあるそうだ。貧しい国で子供達を助ける仕事に生きがいを見つけて頑張っているという。 


 クラスがえもあったし、みんながそろって会うこともなくなった。でも、廊下ですれ違うときには、仲間にしか分からない視線をかわせる気がした。

 ひろとサビケンは別々の組になっても、学校から帰るときには、早く終わった方がもう一方の教室の前で待ち、相変わらず一緒に歩いて帰る。今日の学校帰りも、ひろは言わずにはいられない。

「カラス仙人、ほんとにどうして戻ってこなくなっちゃったんだろう」

「だから何度も言ってるように、奥さんのとこに行きたくなったか、それともどこぞのカラスに『俺の体返せ』ってすごまれて返したんじゃねーの」

「……うん、そうだね。……ほんとに、もう会えないのかな」

 これまたいつものひろの言葉に、サビケンはため息をつく。それからいつものように、二人、黙々と歩く。

 そのとき、後ろから駆けてくる音がして、ひろとサビケンは思いっきり背中をどつかれた。

「何しょんぼりしてんのさ。ほれ、こうしてはばたいてみい!」

 マルンどんが白い歯を見せて大きく笑う。両手を上下に振って見せた。空気は冷たく、マルンどんの笑った口から白い息がふわ、ふわと空中に浮かび出る。初雪ももうすぐだ。

「ほらほら!」

 なぜか二人は圧倒されて、つられるように大笑いし、これまたつられるように両手を伸ばして上下に振った。

 後ろから、オバサナとイナが息を切らして走ってきた。

「なに面白そうなことしてんの」

 オバサナがゲヘヘヘヘ……と笑う。

「ほれ。いちに、いちに」

 マルンどんが笑顔で誘う。新たな二人も笑いながら両手を上下に振り始める。横断歩道を渡って、アタマくんもやってきた。

「偶然、このメンバーがそろうとは。カラス仙人の引き合わせかな」

「いいから、いいから。お前も一緒にやろうぜっ」

 サビケンに有無を言わさず引き入れられ、アタマくんも苦笑しながら両手を伸ばす。まんざらでもなさそうだ。

 六つの影法師が白い息をいくつも吐きながら、元気に駆けていく。夕焼けが広がる土手を駆け上がり、両手を大きくはばたかせて、川沿いの道を進んでいく。六人そろってというのでもなかった。それぞれの長さで、それぞれの速さで、それぞれのかたちで。(了)                 




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