金縛り
ふじとよ
第1話
チリリン。チリリン。
あいつが現われる時は、決まってか細い鈴のような音が鳴る。
午前1時から3時の時間帯。布団の中に身を横たえて、うとうとと緩やかに夢の途上へと向かうそんな中。
そのか細い音とともに、そいつは闇の淵からぬっと現れては俺を夢と現の間へと引きずり込み、一時の合間そこへと留めおくのだ。
生温い空気は急速に冷え込み、寒さに震えるようにして目を開けるとそこにはやはりあいつが、あの女が俺の顔を般若の形相で凝視している。
逆様から俺を見つめる顔は最早人間のものではなく、悪鬼羅刹そのものであった。
目は尖り血走って、皮膚は腐ったのか変色し、鼻は潰れ、唇が裂けて限界まで開かれ、その中にある歯と痩せきった歯肉がよくみえた。
その口からは、絶えず呪言のような怨み節が、血のような、唾液のような、もしくは腐った体液のようなものと共に俺の顔面へと降り注いだが、金縛り真っ只中の俺にそれを拭う手立てはない。
ただただ受け止め、そして睨み返す。それで精一杯である。
この女がこうして現われるようになったのは、5年前くらいだろうか。
俺と関わりがあった一人の女が、泣き叫び何やら喚き立てた後に俺の目の前で死んだ。
事情聴取はされたものの、幸い他にも目撃者がいたし、この女も通院して薬を飲んだりカウンセリングを受けていたとかで、俺が罪に問われる、などという事は一切なかった。
それ以来、この女は何が気に食わないのか鬱陶しくもこうやって俺の前に姿を現すようになったのだ。
女が痺れを切らしたのか、顔面を俺に近づけてきた。
女の長い髪が俺にかかる。醜悪な臭いが鼻を刺す。恐ろしい形相が俺に迫り顔を背けたくなる。
だが金縛りにあっている俺にそれは出来ない。
俺の顔と女の顔が接触するか、しないかという間際。
「んん、ん……」
可愛らしい、寝息とも寝言ともいえない音が響いた。
女の顔が瞬時に寝息の主へと向き、俺の金縛りは解かれる。
俺も視線だけそちらへ向けると、今夜一晩を共にした女が幸せそうな寝顔で俺へと擦り寄ってきたところだった。
生身の女の体温が俺の身体に伝わり、下がった体温を取り戻す。
あいつは俺から興味を無くし、今度は生身の女へとターゲットを移したようで今度は彼女を凝視しはじめたようだ。
これで寝れる。
俺は眠る前に、もう一度だけ隣で眠る女を見た。
先程までの可愛らしい安らかな寝顔から一転して、あいつのターゲットとなった彼女は眉間に皺を寄せ、険しい苦悶に満ちた寝顔となっていた。
俺は安心して、彼女らに背を向けて今度こそ夢の世界へと旅立っていった。
★ ★ ★
怖い夜はもう終わったとばかりに、窓から朝日が差し込み小鳥の鳴き声とともに爽やかな朝の到来を告げていた。
禍々しい気配は当然のことに消え去っており、俺は一度身体を伸ばすと身支度を整えるために眠る彼女を残して部屋を出た。
トイレへいき、顔を入念に洗い、髪を整え、服を着替え、歯も軽く磨いて、と身支度を整えてから彼女の元へと戻った。
彼女は起きていた。
ベッドの上で裸のまま呆然と身を起こしていた彼女は、しかし俺が部屋に入ると生気を取り戻したように笑顔をみせた。
「おはよう亮君!」
そういいながら彼女は恥らうように布団を身体に巻きつける。
「……えへへ、怖い夢みちゃった!」
俺は挨拶を返すと、ベッドに腰掛け着替えの邪魔にならないように視線を逸らして新聞でも読むふりをしながら話を聞く。
「怖い顔した女の人にずーっと追いかけられる夢でさぁ」
「それで?」
「ずーっと追いかけられて私は色んなところを逃げ回るんだけど」
「うん」
「すぐに見つかっちゃうの」
もう嫌になっちゃう!と彼女は勢いよくニットワンピースの襟ぐりから顔を出した。
「あ、亮君も出てきて、私の手を引いて助けてくれるし一緒に逃げてくれるんだけど」
「うん」
「私いつの間にか、その追いかけてくる怖い顔した女の人になっちゃってさ」
「うん、それで?」
「最後は亮君にビルから突き落とされて真っ逆さま!」
怖かったー!と彼女はタイツをやはり勢いよく引き上げると、腰に細目のベルトをまいて着替えは終わったようだ。
今度は髪をいじったり化粧をしたりするようで、彼女は鏡に向かい合う。
「落ちていくのも怖かったし、ビルの上で私を笑ってる亮君も怖かったけど」
鏡越しに彼女と目があう。
「その亮君の後ろに怖い顔した女の人がいて、じっと亮君を睨んでるのも怖かった」
すっと空気が冷えるような感覚。
俺はその感覚に気付かないフリをして、降参というポーズを鏡の中の彼女にとった。
「あーはいはい。夢の中の俺がごめんねー?夢の中だけどー」
「本当に怖かったんだからぁ」
「夢の中の俺がした事のお詫びといっては何だけど、ほら朝ごはん奢るからさ」
それで許してよ!と俺がいうと、彼女の顔がパっと明るくなった。
怖い夢の事など忘れて、何を食べようかどこへ行こうかとそちらに夢中になっている。
そう、さっさと意識の外へと追いやってしまえばいい。
忘れてしまえばいい、あの女の事なんて。
どの朝ごはんにするか、話が移った彼女に適当に相槌を打ちながら、この子はいつまで持つのかなと読みもしない新聞へと俺はまた目を落とした。
光降り注ぐ窓の外には爽やかで平和な朝の光景。
これが俺にとっての日常なのだ。
彼女と二人、朝食に出るまでの間。自分に言い聞かせるように文字の羅列を追い続けた。
時折、小鳥の囀りに混じって微かな鈴の音が聞えたような気もしたが、部屋を出る頃にはそれも気にならなくなっていた。
金縛り ふじとよ @fujitoyo18aka
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