月夜烏

月夜烏

私は彼女に何を求めていたのだろう。

月の夜に舞い踊る彼女はこの世界の誰のものでもなく、ただひたすらに自由であった。


     ○


 私は夜に街を歩くのが好きだった。

 常夜灯が花篝のように光を放ち、ネオンの極彩色が街を彩る。だが少し歩くと、そこはまるで深海のように暗く冷たい空間が広がっていたりする。光と影は隣り合わせ、そんなことを実感させる。この街の夜はただ「暗」の一言では表せない立体的な美しさがある。そんな広大で奥深い夜を泳ぐように歩くのだ。

 中でも掌中の珠としている場所があった。それはとある歩道橋の上だ。そこは街の灯りからちょうど死角となっており、影を潜めるように夜が濃くなっている。歩道橋が建てられたのちに信号が作られたためここを通る人はほとんどおらず、夜の海へ沈潜するにはどこよりも適している。そして、遠くで輝く街の灯りをいつもそこから眺めていた。私の瞳は紅灯の煌めきを反射し輝いている。夜の渚は何処までも続き、私はその中でいつも独りであった。

 この街の夜にも慣れ始めたある日、歩道橋の欄干の上に一羽の烏が留まった。その青みを帯びた黒い羽根はとても美しく、まるで夜に染められているかのようだった。

 烏はこちらをじっと見つめている。私も何故か目が離せなかった。


 「今日はいい夜だね」


 どれほどの時間が経った頃か、私は沈黙を破るようにそう話しかけた。

 「君は夜が好きかい?」

 「僕はこの街の夜がとても好きなんだ。例えば———」


 私は一羽の烏へ夜の美しさについて語った。それはただの気まぐれであったが、誰に語ることのなかった私の「夜」は次々と溢れていく。その言葉は独り言のように夜の静寂へと消えていった。あの烏は私の言葉を聞き、何を思ったのだろうか?

 その後、私は夜の街を闊歩した。光り輝く街へ目を奪われているうちに、先刻の烏は次第に頭から消えていった。ふと視線を空へ向けると、そこには大きな満月がその白い体を玲瓏に輝かせている。私はその光に目を細めながら、再び歩き出す。

 

 不夜城のごとく輝く夜の街に、烏の鳴き声が響いた———。

 

     ○


 この街へ来たのは大学一回生の春、進学とともに上京してきた。あの頃は全てが煌びやかに見えた。街の灯り、人々の往来、車のヘッドライト。街を彩る全ての要素が夜を輝かせ、その美しさに私は心踊らせた。そして自分がこの街の一部であることを殊更示すように、夜の街をよく徘徊していたのだ。

 しかし今ではどうだろうか。あれから何年の月日が経ったのかは定かではない。一年のような気もするし、十年のような気さえする。

 夜に心を躍らせた日々は遠い追憶の中で灰色の映像となり、今ではもうこの街の夜へ想いを馳せることは無く、街の煌めきが私の瞳に映ることも無かった。

 ただ誘蛾灯に群がる蛾のように、夜へと身体を吸い込まれていくだけの日々が続いていた。

 

 満月の美しい夜だった。

 その日も夜へ誘われるかのように歩道橋の上へと来ていた。しばらく街の灯りを虚な目で眺めていたが妙に目に染みたので、目を閉じて街の音に耳を澄ます。

街はまだまだ眠る気配は無く、人々の雑踏や車の流れる音で溢れている。こうしていると、とても落ち着いた。しかし同時に不安も感じるという矛盾した感情が私を襲う。身体が夜へと溶け出し一体化していくような感覚が心地良くもあり、世界から切り離されていくようにも感じるのだ。

 「疲れたな…」

 近頃、眠れぬ夜が続いている。積み重なる劣等感と喪失感に私はとても疲弊していた。為すこと全てが裏目に出てしまい、足掻くことすら億劫になる。手にしてきたはずのものは砂が零れるように掌から消えていった。胸の奥では心が負の感情に濡らされ、苦く度し難い液体がネルドリップで抽出されているかのようだった。重く辛い吐き気が私を蝕んでいく。

 夜の空気を肺いっぱいに吸い込み、深呼吸をすると街の音がまるで祭囃子のように身体へ入ってくる。通り過ぎる電車、話し声、車のクラクション、広告宣伝、救急車のサイレン———。全てが耳の遠くで鳴り響いていた。


 スゥーと心地よい風が前髪を揺らしながら通り過ぎた。するとなぜか街の音は突然鳴り止み、「カァ———」という声が響く。烏にしてはとても優しく暖かい声だった。不思議に思い目を開くとそこには烏ではなく、黒のワンピースを身に纏う見知らぬ女性が立っていた。


「ねぇ君、夜は好きかい?」


彼女は凛とした声で歌うようにそう言った。

「は、はい…好き、ですけど…」 

私は突然のことに戸惑いながら答えたが、言葉の端が淀んだ。

彼女は切れ長の美しい瞳をうっすらと細めながら嬌笑を浮かべ、

「それじゃだめだよ」と、耳元で囁いた。

 彼女は2歩、3歩と後ろへ下がると、布を揺らしながら踊るように両手を広げた。その姿がビルの合間から輝く満月と重なり、彼女の濡烏に染まる美しい長髪が夜空に輝く。

そしてまた歌うように話す。


「夜はもっと自由な世界だよ」


 私は呼吸も忘れて彼女に見惚れていた。


「夜をもっと楽しまなきゃ」


 その美しい姿はまるで烏が月光の中で踊っているかのようだった———。


     ○


 その夜、私は彼女と共に街を歩いた。

 「ついてきて、夜を教えてあげる」

 そう言い悠然と歩き始める彼女の後を私は追った。なぜあの時彼女についていったのかは今でもわからない。突然のことで頭が回らなかったのか、ただ疲れていただけか。しかし、彼女が放つ不思議な雰囲気に魅了されていたのは確かだった。

 街の光が綾なす大通りを進んでいく。彼女は歩きながら夜の街の美しさを語った。

 「尽きることのない光が街を夜桜のように輝かせる。蛍光色の灯火はまるで街を彩る心化粧。そして交差する街ゆく人々。彼らは何を思い、この夜を過ごしているのかな」

 路地を曲がり、細く暗い道を進む。

 「ここは光から切り離された海の底のよう。差し込む光は光芒のように尾を引きながら消えていく。身を任せば溶けて消えてしまいそうになる冷たく暗い海なんだ。街を彩る灯りが強ければ強いほど、夜は暗く、そして深くなっていく」

 差し込む月明かりが彼女の顔を白く照らす。

 「光と影はいつも隣合わせだから、この街の煌びやかな光に呼応するように夜もその影を強める。こんな立体的に夜が浮き上がる街はここ以外どこにもない」

 月の光で輝く彼女の瞳は月暈のように満月を映し出していた。

 「だからこの街の夜が好きなんだ」


 私はそれを聞きながら何かが胸の奥で渦巻くのを感じた。それはまるで昔に聴いていた音楽を再び耳にしたときと似たような感覚だった。懐かしくも切ない感情が私を襲う。

 「これは…」

 私は立ち止まり、前を行く彼女を見た。しかしその顔は見えない。

 不思議な感覚に包まれながらも、彼女の後ろを再び歩き始める。

 

 気がつくといつもの歩道橋の元へと戻ってきていた。その夜、彼女と共に歩いた街はまるで別の世界だった。追憶の中の街はその色を取り戻し、モノクロの映像に色が灯る。彼女との夜はまるで百色眼鏡を覗いているように次々とその世界を映していった。私はこの夜の中に何かを忘れてしまっている、そんな気がした。


 「戻ろうか」

 そう言うと彼女は階段へ向かう。後ろに手を組み階段を上る彼女の長い髪がひらひらと揺れている。階段を上り切ったところで彼女はこちらを振り返ると、怪しい笑みを浮かべた。まるで巧妙な悪戯を思いついたかのような、その無邪気で妖艶な表情に私は息を呑んだ。


 「夜を見せてあげよう」


 そう言い放つと彼女は私の手を取り、一気に引き寄せた。


 ———刹那、私の目に「夜」が押し寄せる。

 常夜灯のように輝く花篝が。ネオンの極彩色が。深海のように深い闇が。そして美しく輝く満月が。

 すべての光景が立体的な夜を作り出し、私の身体を通り過ぎていく。

 それは一瞬のようであり、永遠のようでもあった。

 

 私は一人、歩道橋の上に立ち尽くしていた。

 「———思い出してくれたかな」

 彼女の声で私はようやく我に帰る。

 「これが、君の忘れていた夜の街だよ」

 彼女の指差す方を見ると、そこには夜の街が広がっている。そのあふれんばかりの煌めきは私の瞳を宝石のように輝かせた。

 

 その時彼女は私を見つめて何を思ったのだろうか。

 歩道橋の上からまるで夜に染められたかのような美しい黒羽が一枚落ちていく。

 しかし、夜の街に目を奪われていた私がそれに気づくことはなかった。


     ○


 あの夜以降、私は彼女と共に何度も夜を過ごした。邂逅はいつも歩道橋の上で、私が訪れると必ず彼女はそこにいた。日時は決めていなかったが、私たちが会うのはいつも月の美しい夜だった。

 彼女は最初に決まってこう話しかけてくる。

「今日もいい夜だね」と。

私はその声にどこか安堵を覚えながら「そうですね」と返す。

そこから2人の夜が始まってゆく。


 行くあては無く、ただ彼女が進む道を共に歩いた。夜を泳ぐ彼女は生き生きとしていて、とても楽しそうだった。彼女の美しい顔を覗くと、いつも艶やかな笑顔をその顔に浮かべ、瞳は街の光でキラキラと輝いている。とても美しい光景だった。彼女の映る景色そのものがまるで一つの作品であるかのようで、その天衣無縫な芸術は私をさらに夜へと誘った。


 どれだけの夜を共に過ごした頃だろうか、その日彼女はいつもの歩道橋の上でこんな話を私にした。

「ねぇ、月夜烏って知ってる?」

「月夜烏…?聞いたことないですね」

 過去の記憶を探るが、思い当たるものは無かった。

「月の明るい夜に浮かれて鳴き出す烏のことを言うんだけどね、浮かれて夜遊びに出かける人の例えとしても使われるらしいんだ」


 その言葉を聞いた時、ある情景が脳裏に描かれた。それは月が美しく輝く夜、月の光を浴びる彼女の後ろ姿。彼女が立つのは静淵とした交差点の中心で、街の光はどこにもない。宙へ手を伸ばす摩天楼たちは空虚なその身体に月の光を取り込み、街灯は俯くようにその影を落としていく。月光だけが世界の煌めきをほしいままにしていた。音のない信号機たちが彼女を取り囲み、その中で彼女は月へと手を伸ばす。同時に後方から烏が一羽、その黒い翼を広げ天翔ける。烏はそのまま月の中へと消えていった。黒い羽根が舞い散る中視線を戻すと、そこに彼女の姿は無い———。


「何だか私たちみたいだね」


 彼女の言葉で私は現実へと引き戻され、描かれた世界は黒い羽根で閉ざされた。


「どうしたの?」

「いえ…何でもないです」

 彼女は不思議そうに小首を傾げている。その顔には何処か不安の色が浮かんでいた。

 何か話題を逸らしたいと考えた私はその言葉の意味について聞くことにした。

「自分たちみたいとはどういうことですか?」

「…うん。私たちはいつもこうして夜の街を歩いてきたでしょう?そして私たちが会うのは決まって月の美しい夜」

 彼女は少し思案した後にそう話し始めた。その声には何処か哀愁が帯びている。


「それは笛に寄せられる秋の鹿」


「君は夜に誘われるように、私は月に誘われるように」

 彼女の言葉は冷たい夜へ空虚に響く。

「月に、誘われるように…」

 月へと手を伸ばす彼女の姿が反芻する。目の前の彼女とその姿が重なり、私の胸に黒い靄が立ち込めた。


 彼女はおもむろに手を組んで大きく伸びをした。鈴を振るような声が夜の街に揺蕩う。


「今夜は待宵だね」


 彼女の秋波は凛としてその月を捉えている。

 しかし、その姿は風口の蝋燭のように揺れていた。


     ○


 翌日、私は歩道橋の上に一人立っていた。宵の口に立つ街はまだ薄暗く、西の空にはわずかに黄昏が浮かんでいる。空は雲ひとつない快晴で、烏たちが謳いながら森へと帰っていく。黒く染め上げられていく空のキャンパスには銀湾が輝き始め、それは何とも非日常的な光景であった。次第に世界から光が消えていき、それに呼応して光を強める街の灯りをただじっと眺めていた。その瞳は華燭のごとく輝いている。


 彼女は今日、必ずここへ来る。

 それは予想や予感では無く、確信であった。


 「コン、コン———」と階段を上る音が聞こえてくる。

 陽は完全に落ちきり、烏の声と羽音が街に響いた。


 振り向くとそこに彼女は立っていた。黒のワンピースを身に纏い、濡烏に染まる長髪は夜に輝く。そしてその美しい顔は凛と澄んでいた。

 私の脳裏にもう一つの確信めいた何かが横切る。私はそれを振り解くように彼女へ話しかけた。


 「今日は、いい夜になりそうですね」


 彼女はその言葉に瞠若し、してやられたというような顔をした。


 「そうだね」


 彼女は顔を綻ばせ、花笑みを浮かべながらそう答える。

 その姿に私の胸は酷く動悸した。


 「行こうか」


 長い髪を翻しながら彼女は歩き始める。


 そして、二人の夜は始まった。


     ○


 その日、私たちは「夜」を泳いだ。

 人々の往来や車のヘッドライトで溢れる大通り。水を打ったように静謐とした住宅街。頬を染めた人々が行き交う紅灯の巷。電車の音が響く海のように暗く冷たい高架下。摩天楼たちが自らの光を競い合うように立ち並ぶオフィス街。古びたブランコが揺れる孤独な公園。淡い光を放ち人々を誘惑するまほろばの坂。消えかけの街頭が並ぶ橋の上。家路を急ぐ人々を送り出す駅前広場。明滅する信号と無人の道路。夜の煌めきを見下ろすビルの屋上。不気味なほどに白々と光る地下歩道。シャッターが立ち並ぶ閑散とした商店街。数多の人々が交錯する横断歩道。全ての光を飲み込みその闇を強める路地裏。煌びやかな灯りが地平線まで続く夜の街。

 そして、月光に照らされ月の霜が降りる歩道橋———。


 「今夜は佳宵だね。」


 私たちは歩道橋の上で二人並んで満月を見上げた。銀湾の煌めきの中一際輝きを放つその大きな満月は、私たちの夜を克明に映し出している。彼女の方を見ると、月の光に照らされ白々と輝く横顔があった。その顔は月を見上げ、微かに微笑んでいる。その光景は私が生涯見てきた何よりも美しかった。そしてこれ以上に美しい光景を見ることは金輪際もう無いだろう。欄干に背を預け、月を見上げたまま彼女は話し始める。


 「初めて会った日も、満月の美しい夜だったね」

 「そうでしたね」

 「あの夜、私は君に夜を思い出させた。そして、それから何度も共に夜を過ごした」


 私は初めて彼女と出会った夜のことを思い返す。月の光の中で踊るように舞う彼女の姿。追憶の彼方から私を迎え入れてくれた街の灯り。彼女に手を引かれ、飛び込むように私へと押し寄せた数々の「夜」。

 一夜の不思議な出会いから再び輝き始めた夜の灯火を掌でそっと包み込む。二度と消えることが無いように。


 「今日もいい夜だね」


 彼女はいつものように、その美しい顔に嬌笑を浮かべながらそう語りかける。


 「そうですね」


 いつもと変わらない挨拶を交わす。

 その時、何故かこれが最後になるという予感がした。


 「今夜は可惜夜だね。尽きることのない永久の夜がどこまでも続いていて、その渚を君と共に歩いていたい。そしてそれは永遠無窮の夜となるんだ」


 再び、私の脳裏に何かが走る。


 「けれど、どんな美しい夜にも必ず終わりが来る。例え今宵がどれだけ惜しくても。」


 その確信は一つの短い文字となって私の頭を埋め尽くした。


 彼女が、消えてしまう———。


 「夜は吸い込まれていくように街の中へとその姿を隠す。そして黎明の光が世界を包み込む。彼は誰時に立たされた君は私の顔が見えなくなるかもしれない。だけど、私は君と過ごしたこの夜の中に必ずいる。だから安心して欲しい」


 その言葉は、まるで奥付を眺めているように切なく悲しい気持ちを私に刻んだ。終止符が今にも打たれてしまいそうな感覚が酷く私を焦らせる。

 彼女はそんな私の心を見透かすように、その明眸を青く炯らせていた。


 「貴女は———」


 私が口を開いた瞬間、歩道橋の上に大量の「夜」が雪崩れ込んできた。溢れんばかりの闇は私の目の前を横切っていく。そしてそれは東の空から次々と迫り、私と彼女の間に漆黒の壁を築いていく。


 それは烏の大群であった。


 「———!!」


 私の声は大量の鳴き声と羽音に掻き消され、彼女には届かない。彼女の身体は築き上げられていく黒壁に覆われていき、次第に見えなくなっていく。


 「待ってくれ、私はまだ君に伝えていないことがたくさんあるんだ。初めて君を見た時に感じたこと、私に夜を思い出させてくれた感謝の言葉、君と過ごした数多の夜の思い出、夜の煌めきの中で一番に輝く君の美しさ、そして君への想いを———!」

 

 私は荒れ狂う暴夜の中、強引に体を前へと押し出し手を伸ばすが、彼女には届かない。

 彼女の身体は夜に覆われ、その顔は今にも消えてしまいそうだった。


 「私に夜を教えてくれて、ありがとう」


 飛び交う音の嵐が刹那の間消え去り、彼女の凛とした声がだけが私の耳へ鮮明に響く。


 「素敵な夜だった———」


 夜は彼女を覆い、その姿を飲み込んだ。そして西の空へと飛び去り、やがて消えていった。


 そこにもう彼女はいなかった。それは微睡の中で見る夢のように一瞬で、儚い出来事であった。辺りは時雨のように濡烏に染まった黒羽が舞っている。

 顔を上げるとそこにはもう月の姿は無い。


 黒い時雨が、私の頬を濡らした。


     ○


 満月の美しい夜だった。


 目を閉じ耳を澄ますと街の音が身体の中へと入り込み、身体が夜へと溶け出す感覚に私は安堵していた。

 あの一夜からどれだけ時が過ぎたのかは定かではない。一瞬のような気もするし、永遠のような気さえする。彼女と共に過ごした夜の数々は私の追憶の中で今も鮮明に反芻され、街の煌めきは私の瞳を宝石のように輝かせた。

 私はこの街の夜へと想いを永遠に馳せ続けるだろう。彼女がいるこの街の夜を。


 私は彼女に何を求めていたのだろう。

 月の夜に舞い踊る彼女はこの世界の誰のものでもなく、ただひたすらに自由であった。

 

 その答えは今もわからない。脳裏に浮かび上がるのはいつも彼女の嬌笑のみである。しかし、私と彼女の間に生まれた確かなものがある。それは「夜」だ。私たちが作り上げた明るく、暖かく、深く、冷たく、暗い、立体的な夜たちは、私と彼女の間に確かに存在するのだ。それであれば答えもきっと「夜」の中にあるだろう。


 目を開くとそこにはビルの合間から輝く満月が私を照らしていた。


 「今日もいい夜ですね」

 

 私は独り呟き、再び目を閉じる。

 スゥーと心地よい風が前髪を揺らしながら通り過ぎた。するとなぜか街の音は突然鳴り止み、「カァ———」という声が響く。


 私はその声に大きく目を見開いた。しかし目の前に彼女の姿は無い。


 その瞬間、私の後ろから烏が一羽その美しい翼を翻しながら飛び去っていく。


 鈴の音のような美しい声を夜の街へと響かせながら、佳宵の空を一羽の烏が舞い踊る。


 夜に染められたような黒い羽根が一枚、目の前の宙を舞う。


 ヒラリ、ヒラリと———。

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月夜烏 @hikaru_512

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