5分で読める物語『アイラ』

あお

第1話

 真紅の瞳。瘦せこけた頬。白銀の髪。か細い手足。

 手提げ袋の中には紫紺の花々が詰められている。

 しんしんと降り積もる雪の中、彼女は擦り切れた杖を片手に歩く。


 カッ、カッ、カッ。


 カッ、カッ、カッ。


 カッ、カッ、ザクッ――


 彼女の足がピタリと止まった。

 雪に刺さった杖を抜き、周囲を探るように地面を叩く。


 ザクッ、ザクッ、カッ。


 ほっと白い息をはき、彼女は再び歩き出す。


 カッ、カッ、カッ。


 カッ、カッ、カッ。


 カッ、カッ、カツン――


「いってぇな」


 彼女の杖がすれ違う男の足に当たった。


「すみません。お怪我はありませんか」


 声に色があるとしたら、彼女は白だ。

 ただ言葉を綺麗に発音するだけの声。不純物など何もない。


「お怪我はありませんか、だぁ? ぶつけてきたのはそっちだろ。慰謝料だ。慰謝料を寄こせ」


 男の声はひどく濁っていた。

 悪意、嘲笑、嫉妬、侮蔑。

 声音一つに込められる感情は無数に存在する。しかし男の声に綺麗な物など何もない。


「そうは言われましても。私はこのように歩くしか外出できませんので」


 眉一つ動かさず彼女は頭を下げる。


「目が見えないんだろ? だったら外出るなよ。迷惑だ。カッカ、カッカうるせぇしよぉ」


 しかし男の苛立ちはその熱を増していくばかりだった。


「すみません。音はなるべく小さくしますので」

「そういう問題じゃねぇんだよ。お前がいたら迷惑だって、言ってん、の!」


 男は勢いよく彼女の持つ杖を蹴り飛ばした。

 それでも彼女の表情は変わらない。

 ザクッと雪の中に杖が刺さると、彼女はおもむろに探し出す。

 恐る恐る両手を伸ばしながら、ゆっくりとその腰を下ろしていく。

 指先に雪が触れたのと同時に、男が舌打ちをした。


「うっざ」


 彼女の背中を思いきり押す。

 前かがみのまま積雪の中へと倒れ伏す。

 顔が雪の中にうずまり次第に息苦しさを感じ始める。

 しかし彼女の両腕に、自身の身体を引き抜く力はなかった。

 懸命に足をバタつかせ、どうにか身体を起こそうとするも積もった雪の重さには敵わない。


「フハッ、フハハハハハ! 面白れぇ! 面白れぇよ目赤の女!」


 男の笑い声がくぐもって聞こえる。

 雪の中まで響くのだから、近くの村、そのさらに向こうの村まで男の声が聞こえていても、おかしくない。

 何事かと野次馬が出てくるだろう。


 ――その中に私を助けてくれる人はいない。私は嫌われている。


 彼女は抵抗するのを止め、雪の中で目をつむる。

 終わりを迎える覚悟はとうの昔にできていた。


 しかし――


 ザッ、ザッ、ザッ!


 ザッ、ザッ、ザッ!


 ザクッ、ザクッ、ザクッ!


 子気味の良い軽やかな音が雪の中に響く。

 その音は次第に彼女の元へと近づき、


「大丈夫か⁉」


 音の主はうずまっていた身体を軽々と引き上げた。


「――っ、はー、はー、はー」


 冷え切った空気が彼女の肺を満たす。窒息寸前の熱を帯びた身体が、肺に集まった冷気によって緩やかにその温度を下げていく。


「よし息はできている」


 頭や首元に貯まった雪を手早く払いのける音の主。

 すでに彼女を虐めていた男は姿を消している。

 彼女の無事を確かめると、音の主は周囲に目をやり腹から野太い声を上げた。


「お前たちは本当に醜い! 見て見ぬふりをして、人が死にそうな時だってお前たちは一歩も動かない! 俺はそんなお前たちが大っ嫌いだ‼」


 すぐそばで彼の叫びを聞いていた彼女は、その場でがくりと膝を落とす。

 初めて自分のために怒ってくれる人に出会った。

 その衝撃は彼女をひどく動揺させた。


 ――どうして。どうしてこんなにも苦しいの。息は吸えるはずなのに、胸が苦しい。


 自分の胸元を押さえるも、締め付けられるような痛みは消えない。

 涙がぽつぽつと雪面を濡らしていく。


 ――悲しくないのに。辛くないのに、泣いているの?


 彼女は自分が怖くなった。

 初めて自分ことが分からなくなったからだ。


「誰も教えてくれなかったのか。それは〝嬉しい〟って言うんだ」


 暖かく包容力のある声。彼の声音は穏やかな春陽を感じさせる橙色。


「どうして分かるの? 私にだって分からないのに」


 問われた彼は得意げになって答える。


「俺は鼻がいいからな。人の感情だって嗅ぎ分けられるのさ」


 まるで動物のようだと彼女は思った。

 しかし引き上げられた時に感じた彼の大きさは、おおよそ成人男性ほどで二足歩行だったと記憶している。


「君は一旦家に帰った方がいい。身体を温めてしっかり休むんだ」


 優しく告げられた彼の言葉に、彼女は首を振った。


「帰るべきだ。君の匂いはとても脆い。頑張ることを許されていない身体だろう」


 それでも彼女は首を振る。


「どうしてだ。そこまでして行かなきゃいけない所でもあるのか」

「……違う」


 顔を上げた彼女の姿を見て、彼は思わずたじろいだ。雪の上に座り込む彼女の様は、昔食べた兎の姿にそっくりだった。


「杖が、ないから」

「杖……?」


 無意識に聞き返してから、目の前の生き物が兎ではなく、盲目の人間だったと思い出す。


「そうか、目が見えないんだったな。…………分かった。俺が送ってやる。手貸せ」


 差し出された白い手を優しく握り、彼女の身体を引っ張りあげる。


「お前、名前は」


 彼女は数年ぶりに自分の名前を口にする。


「アイラ」

「あイら……アイラ……よし、覚えた。それじゃあ帰ろう、アイラ」


 二人は手を取って雪道を歩き出した。

 ふとアイラが振り返り、遠くに見える森の方向を眺めていた。

 人が通れないほど深く積もった雪の上には、獣の足跡が付いている。

 その足跡は彼女がいたすぐそばでぱたりと消えていた。


***


 アイラの家は人里離れた丘の上にあった。

 雪の季節が過ぎると丘一面にハナツメクサが咲き誇る。

 それを手探りで摘んでは束にして、遠く離れた街へ売りに行くことで彼女は生計を立てていた。今日もストックしてあった花束を街に売りに行く途中だったので、手提げ袋の中には紫紺のハナツメクサが詰まっている。


「俺が買うよ。この花はとても綺麗だ」


 帰路の途中でその話を聞いていた彼は、家に着くなりポケットから小銭を取り出した。


「そう。私にはこの花が綺麗なのか分からない」


 ――何が〝綺麗〟なのかも分からない。


「分からない方が、見えない方が幸せだ」


 しかし彼は、アイラの『分からない』を肯定した。


「何を言っているの……?」


 彼女は眉間にしわを寄せ、問い返す。


「幸せというのは無知であることだ。盲目で鼻が悪く、耳もよく聞こえない。それが一番幸せに近い生き方だ」


 彼の声音は変わらない。けれど声のする方向が数段低くなったことにアイラは気づいた。


「どうして屈んでいるの? そこに何かあるの?」


 尋ねることでしか周りを把握できない。そんな自分はやはり不幸だと彼女は心の内でつぶやく。


「あ、ああ。花びらが落ちていてね。それを拾っているんだ」


 噓だと彼女は直感した。けれどそれを確かめる方法をアイラは持ち合わせていない。


 ――やっぱり不幸じゃない。


「それじゃあ俺はこれで。今度は花を買いに来る」


 どこか逃げるように彼は立ち去った。

 花を買いにくる、という言葉もアイラは噓だと思い込んでいた。



 しかし彼は再びアイラの前に姿を現すのだった。

「俺の母親が気に入った。あの袋分くれ」


「本当に来たのね」


 まだ雪の季節は続いている。




「いつもの頼む。今度妹の誕生日なんだ」


「そう。おめでとう」


 雪解け水が丘の上から人里に向かって流れていた。




「いつものを。そろそろ花が咲くか?」


「そうね。もう少し暖かくなったら」


 背の低い緑の葉が、土から顔を出している。




「摘んできた。お金はここに置いておく」


「あなたが摘んだのなら、それはあなたのものよ。お金はいらないわ」


 辺り一帯、綺麗な紫紺の花々で埋め尽くされていた。




「なぜか俺が摘んだ花はすぐ枯れた。アイラの花をくれ」


「街の人もそう言うわ。それだけが取り柄だって」


 しとやかな雨が丘に咲く花を濡らしている。




「辺りの花はどうした。全部摘んだのか」


「いいえ。きっと村の誰かが嫌がらせをしたのでしょう」


 美しく彩られていた丘は、何者かによって掘り起こされていた。




「…………」


「どうして黙っているの」


 彼の爪には鮮血が滴っている。




「………………アイラ」


「街の花屋が店を閉じていたわ。店主が何者かに殺されたって」


 彼の身体には無数の切り傷があった。




「……………………今日で最後かもしれない」


「そう。私もそう長くはないわ。溜めていた花も底をつきそう」


 再び雪の季節がやって来た。辺りは一面銀世界だ。




 アイラは彼が訪れるこの一年を幸せだと感じていた。

 目が見えない方が幸せだという彼の言葉はまだ分からない。

 けれど、目が見えなくとも幸せになれると、アイラはこの一年を通して知ることができた。


 ――誰かと話すのは楽しいこと。


 ――誰かを待ち望むのは嬉しいこと。


 ――誰かを見送ることは少しだけ寂しいこと。


 そんな〝感情〟を知ったアイラは、唯一彼に抱く自身の気持ちにだけ気づけていなかった。


 ――最後の花は彼に贈りましょう。


 丘を荒らされ、もう二度とハナツメクサが咲くことはない。

 残った最後の花束を彼に渡す。

 どうして、と頭によぎった疑問にかぶりを振る。


 ――私がそうしたいのだから、そうするの。それでいいじゃない。


 そんな時だった。



 パーンッ!



 炸裂音が近くの人里から鳴った。

 音の正体が何かをアイラは知らなかったが、彼女はその音を物騒だと感じた。


「人喰い狼が出たぞー‼」


「街の花屋を襲った狼だ! 殺せー‼」


 人の叫び声がすぐそばで聞こえる。

 アイラは思わず外に出た。

 杖を持たないまま飛び出した彼女は、雪に足を取られ丘の上から転がり落ちてしまう。

 誰かが転がる彼女の身体を受け止めた。


「すぐに戻れ、アイラ」


 彼女の名前を知っているのはこの世でたった一人だけ。


「さっきの音は何? どうして皆怒っているの?」


 アイラはいつものように、彼に問いかけた。


 しかし聞こえてくるのは「ハァ……ハァ……」という苦しそうな吐息だけ。


「どうしたの? どこか痛むの?」


 上体を起こし、彼の身体に触れるアイラ。

 指先から伝わる感触に彼女は息をのむ。


「あなた……人間じゃない……?」


 フサフサとした銀色の毛並みを優しく撫でる。

 その途中、ドロッと粘り気のある暖かい液体に触れた。

 液体の匂いを嗅ぐ。


 ――血の匂いだ。


 先ほどの炸裂音。

 〝狼〟と連呼する人々の叫び。

 言葉を返さない彼。


「あぁ……あぁ……」


 アイラがおえつをもらす。

 彼の吐息はいつしか唸り声へと変わっていた。


「おかしい。おかしいの。私は目が見えないはずなのに、今のあなたが分かってしまう」


 涙を流しながら、アイラは彼の身体を撫で続けた。


「あなたが辛そうに顔をしかめるその姿が、見えてしまうの。あぁ、見えるというのはこんなにも辛いことなのね。あなたの言う通りだったわ」


 ふと、彼がアイラの涙を舐める。

 その意味を彼女は受け取り、泣くのをやめた。


「そうね。きっとこれは私への罰。私が身のほど知らずに〝幸せ〟だと思ってしまったから。盲目で鼻が悪く、耳もよく聞こえない。そんな〝何も知らない私〟が一番幸せだったのね」



 雪の季節が終わり、暖かな花の季節を迎えた。

 丘の周りに紫紺の花は咲いていない。

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5分で読める物語『アイラ』 あお @aoaomidori

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