三千世界の余白に、三衣氏は紅茶の思い出を綴る
三衣 千月
三千世界の余白に、三衣氏は紅茶の思い出を綴る
――或る秋の日に
三衣氏は京都に赴いた。『そうだ京都、行こう』とCMのフレーズを口にして。いつかの秋の、紅葉が見頃になるシーズンの話である。
氏にとって過去の記憶ではあるが、氏の友人である
その時の三衣氏の目的は美味しい紅茶を飲むことであった。以前から目をつけていた喫茶にいざや行かんと考えていたのだ。氏の紅茶好きには節操がなく、特定の茶葉に限ることなく様々なものを嗜むが、統計的に最もよく飲んでいるのはどうやらアッサムティーであるようだ。家の食器棚にはあらゆる茶葉が取り揃えられている。
茶葉や茶器を揃えるのも良いが、独り暮らしの男性が磨くべきスキルはもっと他にあるのではないかと筆者は思っている。
行くことを予定していた日の前日、生駒氏から電話があった。彼は数年共に仕事をした仲であり、三衣氏のことをみっ君とフランクに呼んでいた。
「みっ君、明日ヒマやろ?」
断定するとは如何なる了見か。俺ほど多忙を極めている男はいない。各方面から引っ張りダコだ。と氏は答えようとしたが、特に誰からも休日を共にしようという誘いは受けていなかったので、すんなりと暇であることを認めた。予定の有無と、暇の有無に関しては何ら関連性がないからである。
しかし、暇ではあるが予定はある。美味い紅茶を飲みたかったのだ。
「生駒よ。人には紅茶を飲まなあかん時と言うものがある」
友の誘いとはいえ、紅茶を飲みに行くと決めてあった予定を崩す訳にはいかない。氏は基本的に頑固であるので、一度決めた事を覆すことを良しとしない男だった。
そして生駒氏と共に行くという選択肢もまたない。彼は以前、「わざわざ、紅茶を飲みに行く為だけに出掛けるのは意味がわからん」と暴言を吐き、その是非について三衣氏と大論争を繰り広げたことがあるからである。
「どこ行くん?一人?」
「京都。一人」
「ほんま⁉ ほな車に乗っけたるから一緒に行こうや」
「おお、ついに紅茶に目覚めたか生駒よ」
「いや、紅茶は付き合わんけども」
「あ、そう」
生駒氏の言う所に寄れば、翌週に会社の同僚と京都・嵐山に紅葉を見に行くらしく、その下見をしておきたいが故に、かつて京都在住であった三衣氏を捕まえて予習用観光ガイド役に連れ出そうとしていたのだった。
案内はナビと情報誌に頼れと冷たくあしらっていた氏であったが、「京都案内を任せられるのはみっ君だけ!」との生駒氏の露骨な褒め言葉に気を良くし最終的には引き受けた。氏は実に扱いやすい性格をしているのである。
ならば喫茶店にも付いてくればいいのにと読者諸賢は思うだろうが、生駒氏は「みっ君と喫茶店でわざわざ語る内容はあらへんなぁ」とからから笑った。三衣氏もまた「生駒はそんなに紅茶好きやないしのう」と携帯越しに頷いた。
したがって、嵐山までのナビおよび案内の後、現地解散という形になった。これが両氏の自然な距離である。お互いに特に気兼ねなどはしていないのだ。
○ ○ ○
そして翌日の日曜日。京都・
まず生駒氏の寝坊による待ち合わせ時間の変更に始まり、次いで三衣氏が道を間違えるハプニングをやらかして嵐山近辺には予定時間を一時間ほど過ぎてたどり着いた。
さらに、紅葉の時期の嵐山は当然のように混雑するのである。名所として知られる嵐山であるので、賢く訪れようとするならば公共機関、特に電車を使うのが望ましい。マイカーで行くものではない。断じて。断じて。
その逆境をあえて征く生駒氏は、翌週の下見も兼ねてどのくらい混むのか、そしてどこに車を停めるべきかを確認しておきたかったようである。
しかし両氏の予想を越えて、嵐山は混んでいた。生駒氏は「うへぇ」と嘆き、三衣氏は自らの見通しが甘かったことを詫びた。どこに停める云々どころではなく、嵐山へ向かう車が数キロの列をなしていたのである。亀の歩みの方がまだ速かった。
「ケンカの元やねぇ。渋滞っちゅうのは」
生駒氏が言う。三衣氏は間髪入れずに答えた。
「いや。混んでもええやろ。逆に混んだ方がええこともある」
氏はカバンの中からチョコレートを取り出し、生駒氏の口に放り込んだ。イライラには糖分がよい。生駒氏を気遣う紳士の中の紳士であると氏は自画自賛したが単純に自分もチョコを食べたいだけだった。
「渋滞、なくてもええと思うけどなあ。こう、ちまちま車動かすのが結構ストレスなんよこれが」
「大いに同意する。それはそれとして、人は窮地において本性が見えるもんやと思うわ」
「そんなもんかねえ」
人と人との付き合いは、まず表面的な部分から始まる。その後、さまざまな面を見せ合いながら関係というものは深まっていくのだ。
互いのことをよく知った仲であると思っていても、不意に新たな一面が見えることもある。それはとても得難いことなのだから、渋滞という特殊な環境はむしろ良い機会だと見ることもできるだろう。
そうとも。追い込まれた時に出せる力を、世では実力と呼ぶのだ。そう、氏は弁舌述べ立てた。
「新しい一面ねえ。あ、さっきチョコくれたやん? タケノコの方が好きやわ」
「生駒よ。不用意な発言は軋轢を生むぞ」
「おっと、みっ君はキノコ派やったか」
「今度、山盛りダース単位で送り付けて改宗させてやろう」
「いや逆効果やろそれ絶対」
気づけば車は渋滞を抜け、ようやく駐車場に車を置くことが出来た。なるほど確かに渋滞はイライラする事が多いかもしれない。しかし会話の絶好のチャンスでもあるだろう。渋滞そのものは善でも悪でもない。それをどう捉えるかが問題なのであり、三衣氏の言葉通り「混んでもいい」と思えるかどうかが大切なのである。
○ ○ ○
ようやく駐車場に車を停めた両氏は早速観光を始めるかと思いきや、いきなり露店で豆腐肉まんを買って食べた。そして
嵐山公園はいくつかの地区に分かれており、川の中州にあたる
紅葉を楽しむにあたっては中之島地区を跨ぐ
世界遺産である
しかし、三衣氏はあえてこれらの場所を案内しなかった。一人静かに平安の世界に没頭するならまだしも、何が楽しくて男二人でしみじみと歴史に感じ入らねばならんのか。そんなしっぽりとした関係はゴメンこうむる、と強い意思を生駒氏に示した。
生駒氏もまた、「こちらこそ願い下げじゃい」と一つ鼻を鳴らし、食べ終わった天ぷら串の棒をひょいっとゴミ箱に投げ入れた。
三衣氏のお勧めは嵐山公園・亀山地区であると言う。渓谷の眺めが楽しめる展望台まで、およそ十分程度の散歩道があり、そこに至るまでにも色鮮やかな紅葉の中を歩くことが出来る。陽に透かした赤や黄の葉はまるでそれ自体が光を放っているかのような輝きを見せ、とても美しい景色だと言う。
ただし、晴れていれば、である。
この日は曇りであった。公園内を歩いている内に小雨さえ降り出したほどである。
――だがして、深秋の雨と言うものはしんと冷たく、どこか澄んでいるように感じられるものではないか。ゆえに色調豊かな紅葉の鮮やかさとの、静と動の対比が生まれる。これを見逃す手はあるまいぞ。
そう三衣氏は言った。
「言い訳はそんだけか、雨男」
生駒氏の言葉は秋雨よりも冷たかった。
三衣氏は雨男である。休日限定でよく雨を降らせるので、妖怪・雨雲招きとまで友人にいわしめたほどである。高校の修学旅行を全日程雨にした際には、仲間内から尻を蹴られたこともある。
「悪いとは思ってないけどスマンな。ほれ、あそこの売店で甘酒でも奢ったる」
「横のみたらし団子もついでに頼むわ」
生駒氏は売店を見つめて答えた。
一通り公園を散策し終えて駐車場まで戻ってきた両氏はなんとなく土産物屋を覗いてみた。八つ橋を試食していると売り子のお姉さんが怒涛の勢いで今の売れ筋や新商品、八つ橋の種類やそれぞれの賞味期限などを語り上げてくれた。その淀みない説明に、三衣氏はプロの姿を見たと言う。その勢いに押されて、つい6個入りの八つ橋を買ってしまった。
「生駒よ。八つ橋食わんか?」
「八つ橋? 誰に渡すでも無いのに何で
「プロへの礼儀ゆえに、とでも言うとくわ」
「ふうん。くれるなら貰うけど」
紅葉の中を走る嵯峨野トロッコにも乗らず、嵐山の竹林も眺めずではあったが、三衣氏は一通りのガイドを終えた。時刻は午後三時過ぎ。紅茶を飲みにいく余裕は充分にあると氏は考えた。
「みっ君が行く店ってどの辺りや?」
「平安神宮の近く。哲学の道からちょっと外れたとこ」
「ほな途中まで乗っていけぃ。
「そら助かる。ってか、清水までの道が分からんだけか」
「ど阿呆! みっ君の為に決まってるやないかッ! さあ、乗れ! さぁ!」
「図星か」
ぺりぺりと八つ橋の包みを空け、一つ口に放り込みながら、三衣氏は生駒氏の愛車、日産のマーチに乗り込んだ。
○ ○ ○
その証拠に、京都に修学旅行に来ていたであろうどこかの学校のバスも嵐山からしばらくの内は生駒氏の愛車、日産のマーチと同じ進路を取っていた。
バス、バス、マーチ、バス、バス、バスと間に挟みこまれてしまった生駒氏は非常に肩身の狭い思いであったという。車間距離も狭く、バスの威圧感も凄まじかったので、三衣氏も隣の生駒氏を真似て肩を竦めていた。
平安神宮の近くで生駒氏と別れを告げ、三衣氏はひとつ伸びをしてから白川通りに向けて歩き出した。生駒氏はそのまま東大路を南下していった。両氏の休日は終了し、三衣氏の休日と生駒氏の休日がそれぞれ始まったのである。
〇 〇 〇
ティーハウス・アッサム。
生駒氏と別れた後、三衣氏が目指していた店の名である。時刻は午後4時、店の閉店は午後7時である。ゆったりとくつろぐためにも、5時半には店に辿りつきたいと考えていた。
雨はすでにあがっており、少し肌寒い風が吹いてはいたが気持ちのよい夕方であった。勝手知ったるとまではいかないが、この辺りの地理に疎い訳でもない。氏はかつて京都を
そしておそらくではあるが、この似非京都人っぷりが全ての元凶だったのではないだろうか。氏は観光客であろう女性に捕まった。その女性は眼鏡をかけており、癖っ毛であった。女性は氏に問う。
「すみません、
「ああ、えっとね、あの交差点見えます? あれを左に曲がって、次の信号を右に……」
そう説明しながら氏がちらりと相手を見ると、彼女はメモに氏の台詞を「左、次右」と書き留めていた。氏は直感した。「これは迷う」と。そして反射的に声をかけたのだ。
「案内しますよ」
「いいんですか?」
「ええ、十分もかかりませんから」
メモから顔を上げた彼女と目が合う。
迷子を見捨てて飲む紅茶が美味かろうはずもない。それに、眼鏡で癖っ毛の女性が困っていると、三衣氏は無条件で助けてしまうのである。なぜそうなってしまうのか明確な説明がなされるべきだと思うが、氏は「自分でも分からん。と、いうコトにしておいてよろしいか」と責務を放棄している。
彼女は岐阜から観光にきており、前日には
「近くにお住まいなんですか?」
「ええ。少し向こうに歩いた所に」
「良かったぁ。地元の方だと思ったんですよ」
ああ、岐阜子さんは間違っている。そして三衣氏も大いに間違っている。しかれど、正しいことが全て正解だとは限らないものである。自分が上手く京都人を演じれば、岐阜子さんも妙に混乱することはないであろう。そう思ったのだ。岐阜から京都に来て、奈良の人間に道を尋ねる。これはどう考えてもちぐはぐである。混乱の元である。
たかだか十分程度の道案内であるので、三衣氏に出来ることと言えば、桜が咲けば神宮近くの水路には花見の為に舟が浮かぶとか、京都の冬は尻が冷えるだとか、至極どうでも良い観光案内をすることだけであった。
岐阜子さんの目的地、熊野神社は
なぜわざわざ熊野神社を選んだのだろうか。三衣氏は岐阜子さんの選択に興味を持った。なので、目的地が見えてきた辺りで聞いてみた。
「熊野神社には、お参りですか?」
「あ、違うんです。えっと、ここへ行きたくて」
そう言って彼女は鞄から二枚の地図を取り出した。
最初からそちらの地図を見せてくれてもよかったのではないだろうか岐阜子さん。地図を受け取ると、それはホームページをプリントアウトした略地図であった。なるほど確かに二枚の地図にはどちらも熊野神社が目印と言わんばかりに記されている。
「ああ、八つ橋ですか」
「はい、友達へのお土産に」
正直な所、三衣氏は「わざわざ本店まで行かずとも良いのではなかろうか」と考えた。八つ橋は押しも押されぬ京都の銘菓。駅でも新幹線内でも買えるのである。岐阜子さんのように迷ってまで行くとなると、何か相当の理由があるのではないかと思ってしまうのも当然だろう。
その疑問、不審が顔に出ていたに違いない。氏は単純な男であるので隠し事はすぐに顔に出るのだ。岐阜子さんは慌てて「近くに来とって、せっかくやらぁて」と早口で喋った。
後に、三衣氏はこう語っている。「軟弱者だの、助兵衛だのアレコレ言われるのを承知で述べる。いや、述べざるを得ない。彼女が咄嗟に言った素の一言はタイヘン可愛かった」と。
彼女に地図を返し、依頼の目的地である熊野神社にたどり着いた所で、氏の案内は終了である。岐阜子さんは地図を構えて道を確認し、「よし」と呟いてから氏に礼を述べ、氏もそれに応える。
「あのっ」立ち去ろうとする岐阜子さんを氏が呼び止めた。普段であればあっさりと見送る三衣氏であるが、声をかけずにはいられなかった。呼び止めるべきだと、そう思ったのである。
不思議そうな顔をして振り返る彼女に、氏は言葉を続けた。
「そっちじゃ、ないです……よ?」
地図をくるくる回しながら道を眺め、目印である神社を指差し確認し、そのままあらぬ方向へ歩き出す眼鏡でクセ毛の女性の姿は、氏の心の急所をしかと撃ちぬいた。
愕然とするものがある。何事にも平常心であるべしとの考えを貫く三衣氏も、思わず驚きの声を上げそうになった。おそるべし岐阜子さん。氏があと十歳ほど若く、学生の頃であったならば、その天然っぷりにコロッと惚れていたであろう。
熊野神社まで案内したのだから役目は果たしたと思われるのだが、惚れた腫れたは別として、氏は眼鏡で癖っ毛の女性を無条件に助ける性質を持っている。故に、「こっちですよ」と道を指差してそのまま店の前まで案内をした。
岐阜子さんは「すみません」と顔を赤くして小さくなっていた。頼れる京都の案内人を演じきったと三衣氏は言うが、氏の顔も心なしか赤くなっていたように思う。「それは秋風が冷たかったためであるぞ! 断じて、断じて!!」と氏は述べている。
○ ○ ○
岐阜子さんは三衣氏に質問をした。
西尾八つ橋本店で出してもらった温かい茶を啜りながらの出来事である。
「たくさんあります。どれがいいと思います?」
氏は昼過ぎに嵐山の土産物屋でお姉さんに聞いたことを、さも自分の知識であるとばかりにかいつまんで話した。岐阜子さんはころころ笑った。
「さすがですねえ」
「よく聞かれますからね」
氏はどこまでも嘘吐きである。
いくつか試食もしながら、岐阜子さんは二箱、八つ橋を買っていた。氏もなんとなくばら売りされているものを数個買った。
次に訪れた聖護院八つ橋の本店は、いつ見ても重厚な感じがする店であった。老舗の雰囲気というか、京都の歴史をずっしりと背負っているような、実に京都らしい店構えである。
ここでも岐阜子さんは二箱、八つ橋を買った。計四箱。土産にしては多くないだろうかと思ったが、家族や身近な人へと考えれば案外そんなものかも知れない。
店を出ると、辺りは暗さを増していた。街灯の明かりがやけにきらきらしている。さて、何と声をかけたものか。
これにて完全に
「舞妓さんの絵が入ったん、限定品とかですかね?」
「舞妓さん? あー……、
「ああ! それです! どっちの店にも無かったから」
それは当然無いだろうと三衣氏は納得する。『夕子』は
一口に八つ橋と言っても、それを取り扱うブランドはいくつかある。特に有名なものが、聖護院、西尾、井筒の三つのブランドなのである。
「少し歩きますけど、案内しましょう」
三衣氏はそう提案するしか道はなかったと言う。目の前で眼鏡で癖っ毛の女性が困っている。それを解決する方法を、自分は知っている。
井筒八つ橋の本店は
ちらりと時計を見れば既に六時前であったので、どのみちティーハウスは間に合わない。「京都人たるもの、気さくに案内すべし」むんと決意し、八つ橋案内ツアーを再開したのである。
「本当によかったんですか?」
「ええ、散歩してただけですからね」
歩きながらの岐阜子さんの問いに答える氏の似非京都人っぷりも堂に入ったものになってきた。
ちなみに、岐阜子さんが『夕子』を求めるのは、友人への土産にする為であった。その友人の名がまさしく夕子と言うらしい。洒落っ気と行動力が同居した岐阜子さんはなかなかに面白い人であるなと氏は感じた。
もちろん、氏は観光案内をすることを忘れなかった。夕暮れの川沿いを女性と二人、無言でまったり歩くなど、そんな空気に三衣氏が素面で耐えられる訳がないのである。
三条大橋の辺りで岐阜子さんが「わあっ」と弾んだ声をあげた。鴨川対岸を指差して氏に言う。
「本当に並んで座るんですね」
「鴨川等間隔の法則と言うのです。京都七不思議の一つですよ」
京都・鴨川の川原は、仲睦まじい男女が並んで座ることで有名である。測ったように等間隔に並ぶ所から、平安の太古より上記のように名付けられ、京都に住まう学生たちの中でも主に独り身の者を中心にその法則の証明が試みられてきたが、未だ成功した者はいない。
ちなみに、あとの六つの不思議を氏は知らない。要するに出任せである。岐阜子さんは興味深そうに河川敷に座る男女を眺め、その横顔を氏は眺めていた。
井筒八つ橋祇園本店。岐阜子さんはここに来てようやく目当ての八つ橋を手に入れた。ここに着くまでの道中、聖護院、西尾、井筒と、八つ橋のブランドの違いを説明すると、彼女はぷつぷつ文句を言った。
「不親切ですよう」
「ごもっともです」
駅などにある土産物のコーナーにはまとめて並んでいるので余計にそう思うのだろう。氏もそう思っている。しかし、本店でしか購入できぬ商品もあるので、これがまた小憎いのである。
岐阜子さんは京阪電車で大阪まで行き、翌日は兵庫をぶらぶらすると言った。最終的には山口まで行くのだと言う。飽きたら途中で引き返すとも言っていた。その言葉に「それは良い旅です」と氏は笑った。旅の作法をよく知っているなと感心したのである。
京阪祇園四条の駅で岐阜子さんと三衣氏は別れの挨拶をした。自販機で温かい紅茶を二本買い、片方を彼女に渡す。
「いい人に会えて良かったです」
「おおきに。またおいでや」
意識してアクセントをつけてそう言葉を発する。それと共に氏は先ほど買ったばら売りの八つ橋を「餞別に」と添えて渡した。満面の笑みで手を振って改札の向こうへ歩いていく岐阜子さんを見送り、姿が見えなくなったところで氏は軽くガッツポーズをした。
終わりよければ全て良し。三衣氏は自らの京都っぷりを激しく自画自賛した。氏が自画自賛の名手であることは広く知られているが、これは誰も氏を賞賛してくれないからに他ならない。「うむ。うむ。我ながら上手いこと運べたのではないか。いやあ、楽しかった」古都・京都を演じきった氏はご満悦であった。
氏と岐阜子さんは旅の捉え方、旅の楽しみ方が似ていたのだろう。旅という非日常の中で、人に出会い、街に出会う。そんな豊かな旅の一助になれたのならば、幸いである。三衣氏もたまには人の役に立つらしい。
唯一の問題点は、氏が本物の京都人ではなかったという点である。
もしも、どこかのブログや紀行文で「京都で地元の人が八つ橋案内してくれた!」等の文を見たならば、それは三衣氏の事であるかも知れなかったが、氏は特段、それを探したりするようなことはしなかった。
自販機で買ったストレートティーを一口飲み「うむ。たいへん美味い」と呟く。愉快な気分で鴨川を渡り、氏は煌びやかな街中へと足を向けた。
三衣氏は京都で美味しい紅茶を味わうことが出来た。これはつまり、そんな話である。
三千世界の余白に、三衣氏は紅茶の思い出を綴る 三衣 千月 @mitsui_10goodman
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