箱の中の恋人

サトウ・レン

箱の中の恋人

 僕には、恋人がいる。

 だけど、人生で一度も会ったことがない。


「愛している」

 と、きょうも僕たちはふたりきりの世界で、言葉を交わし合う。


 だけど、僕は彼女の顔さえも知らない。


 ひとつの箱がある。


 箱、と聞いて、どんな形やサイズを想像するかは分からないが、その箱は花柄の包装紙に、リボンが巻かれていて、結構な大きさだ。体育座りをしている中肉中背の大人がひとりかふたり入るくらいの。


 一か月前に届いたこの箱が、僕の恋人だ。勘違いのないように言っておくと、この箱自体が恋人だ、なんて話ではない。僕はよく周りから、変わっているね、なんて言われる。妄想の中で生きている人間、とか、そんな感じで。それでも箱をひとに置き換えて、恋愛感情を抱くような、そこまで屈折した趣味は持っていない。


 この箱の中には、誰かがいる。


 誰かは僕にも分からないのだけど、ただひとつだけ確かなのは、

 僕の恋人だ、ということだ。


「好きだよ」

 と、箱の中から声が聞こえる。彼女の声に似ている気がするので、僕はずっと彼女の可能性が高い、と思っていたのだが、実際のところは分からない。確かめたことがないのだから。箱を開けない限り、そこには無数の可能性が広がっている。彼女ではないどころか、もしかしたら男の可能性だってある。箱を開ければ、澄んだ声のおっさんが顔を出すのかもしれない。


 きっかけは、ちょうど一か月前のバレンタインデーだった。


 ひとり暮らしのために借りている学生マンションに帰ると、リビングに大きな箱が置かれていた。誰かが、プレゼントに、と置いていったとしたら、チョコレートだろうか。どう考えても異様な光景だ。たぶんこういう時、常識的な判断としては、まず怯えるべきなのだろう。分かってはいるのだが、僕はバレンタインデーの思いがけないギフトのように思えて、喜んでしまった。


 もしかしたら沙綾さやがこっそり置いていってくれたのかもしれない。


 どうやって僕の部屋に忍び込んだのか、とか、そんなことは分からないけど、ただ実際に僕の知らないうちに、部屋に箱が置かれていたことは事実なのだから、犯人はいるはずだ。ふさわしい人間がいるとしたら、きっと沙綾に違いない。


 美崎沙綾みさきさやは、僕と同じ大学の文学部に通っている。


 人懐っこい雰囲気の彼女と、僕は付き合っていたわけではない。ただ彼女が僕に好意を持っていたことには気付いていた。スキンシップも多くて、僕といる時の彼女は、いつも楽しそうだったから。僕も彼女のことは嫌いじゃなかったので、どうしても付き合って欲しい、って言われたら、まぁ受けてあげてもいいかな、という気持ちはあった。


 彼女が姿を消したのは、バレンタインデーの前日からだ。僕がこの箱と出会うすこし前に、沙綾は誰とも連絡が付かなくなった。偶然にしては、タイミングが良すぎる気がして、だから僕はいまもずっと、この箱は、彼女と密接な関わりがある、と思っていた。


「ねぇ、開けないの?」

「うわっ」


 それが箱の中から聞こえた最初の声だ。その時は箱の中にひとが入っているなんて想像もしていなくて、僕は思わず悲鳴を上げてしまった。


「そんな驚かなくても」

「あの……、きみは?」

「私? あなたの恋人」

「恋人?」

「そう、あれ、疑ってる?」

「まぁそんなこと、いきなり言われても」

「私の姿を見たら、分かるよ。知りたかったら、この箱、開けなよ」

 その声には聞き覚えがあった。沙綾に似ている。


「もしかして、沙綾?」

「なんで、そう思うの?」

「声が似ているから」

「そうか。じゃあ、当たっているかどうか、確かめてみたら?」


 箱に近寄って、僕は赤いリボンの結び目に手を触れた。妄想するのは、そこに沙綾がいることだ。僕にそれなりに釣り合う最良の恋人がいて、ひとつの部屋で一緒に暮らす世界だ。でも僕は、いつもこういう時、後悔する。選択肢を間違える。ちょっと前に、大きな失敗をしたこともあって、その時の僕は普段以上に神経質になっていた。


「本当に、沙綾?」

「だ、か、ら。気になるなら、開けなよ」


 沙綾なら問題ない。別の美しい女性が出てきたとしても、それはそれで嬉しい話だ。箱の中の彼女も、自ら恋人を名乗ってくれているのだから。だけど嫌いなやつが出てきたら、あるいは性格も容姿も醜悪なおっさんが出てきたら、声だけで女性と決め付けるのは早計だ、と思った。


「いや、やめとく」

「なんで?」

「その箱は開けない限り、つねに最高の、理想の恋人が中にいる可能性が残るわけだ。それを放棄するのは、もったいない」

「変わったひとだね」

「よく言われる」


 これが箱の中の恋人の出会いだった。


 だから僕はいまだに彼女の本当の姿を知らない。彼女、と呼んでいるが、彼、の可能性もある。そして一か月が経った。しゃべる箱と過ごした時間は、きっと一般的な考えからすれば、あまりにも歪なものだろう。だが無数に広がった可能性から、一番理想的な心像を描けば、それはもっとも楽しい同棲生活となる。そういう想像はむかしから得意だった。


「きょうはホワイトデーだね」


 耳心地の良い声で、彼女が言った。箱の中にいる彼女が、どうやって時間を確認しているのかは分からない。もしかしたらスマホを携帯しているのかもしれないが、使用しているのなら、充電はどうしているのか、という問題に突き当たる。時計は普通に持っているのかもしれない。そんな疑問も最初の頃はあったけれど、そもそもその箱の中で、おそらく何も飲まず食わず生きていることを考えると、些末な不思議はどうでもよくなってくる。


「今回は、誰からも貰ってないからなぁ」

 僕がつぶやくと、

「嘘」

 と彼女が怒ったように言う。


「なんで?」

「だって私が、バレンタインの贈り物だよ。嬉しいでしょ」

「とはいえ、差出人も不明だし。そう言うなら、教えてよ」

「知りたいの? 中を開けて、私にお返しをくれてもいいんだよ」

「あぁ、いいや。知りたくない。それに開けない」


 ときおり彼女は、箱を開けるように、僕を誘う。箱の中の彼女について深く知ってしまったら、きっと後悔するだけだ。


「ねぇ、さっきから気になってるんだけど、聞いてもいい? ……なんかいつもと声が違わない?」


 ばれたか。


 彼女から僕の顔は見えていないだろうけれど、いまほおは赤く腫れあがり、口内が切れて、うまくしゃべれない状態になっているのだ。なんでもないよ、と嘘をついてみるが、もちろん彼女は僕の言葉なんて信じていないだろう。だけど、彼女は詳しく話を聞こうとはしなかった。


『お前、沙綾がどこに行ったか知ってるだろ』


 そう言ったのは、沙綾のストーカーだ。確か大西とかいう名前だ。自分が沙綾の恋人だと、かたくなに信じている人間で、近付かないよう、僕が手助けをしたこともあった。僕たちと同じ大学のひとつ上の先輩で、口より先に手が出る野蛮な奴だ。


『何のことですか?』

『隠すんじゃない。色々聞いて回ったら、沙綾が最後に会った男って、お前らしいじゃないか?』

『僕が最後に会ったかどうかまでは分かりませんが、まぁ確かに彼女が学校に来なくなった前日の夜に、僕と彼女が会っていたのは事実ですね』


 だって僕たちは恋人同士ではなかったけれど、友達以上恋人未満の関係だったのは間違いないし、彼女は僕が好きで好きで仕方なかったわけだから、僕たちが一緒にいたから、っておかしいことはひとつもない。内心ではそう思っていたけれど、口には出さなかった。口を出したら最後、彼は手を出してくる、と想像できたからだ。


 だけど言ってしまえば良かった、といまでは思っている。


 彼に殴られたからだ。

 そして胸ぐらを掴まれた。


『どう考えたって、お前が怪しいじゃねぇか』


 下品な輩だ。本当に。


「どうしたの?」

 彼女の声が聞こえて、僕ははっと我に返る。


「あぁ、いや。どうでもいい奴のこと、考えてたんだ。ちょっと着替えてくる」


 僕はどうでもいい記憶を頭から追い払うことにした。手に丸めて持っていた上着を床に落とし、シャツはすこし付いた血が邪魔だから、着替えることにする。


 クローゼットを開けた瞬間、

 違和感があった。

 あるはずのものが、ない。


「どこに、やった?」

 僕は背後にいる箱に声を掛ける。


「どうしたの?」

 その声は、笑っている。すこし僕を馬鹿にしたような。僕の一番嫌いな、あの女の声にそっくりだ。


「あの女を、どこにやった」

「あの女? あぁ沙綾のこと?」

「その名前で呼ぶな。あいつは沙綾じゃない」



『気持ちの悪いこと言うの、やめてよ。何が、付き合ってあげてもいい、よ。馬鹿にしてるの。私にはもう彼氏もいるし。ストーカーみたいに、もう付き纏わないで。もしまたこんなことしたら警察に行くから』



 冷たい、あんな冷たいまなざしをした女が、沙綾のはずがない。絶対に認めない。僕はただ聞いただけだ。バレンタインのチョコ用意してるんだろ、って。それなのにいきなり、ストーカーだとか、警察に行く、だとか。変なこと言い出して。きっとあの瞬間、沙綾は別人と入れ替わったんだ。そうに決まっている。僕が殺したのは、沙綾じゃない。確かに僕は行方不明になる前日の夜に、沙綾と会ったが、僕が殺したのはまったく見知らぬ他人だ。沙綾じゃない沙綾じゃない沙綾じゃない沙綾じゃない沙綾じゃない沙綾じゃない。


「どこにやった。あの女を」

「知りたい?」

「まだ人殺しにはなりたくないからな」

「もうなっているじゃない」

「世間にばれて、はじめて人殺しと呼ばれるようになるんだ」

「勝手な理屈だ」

 くすくす、と笑う声が、ひどく耳ざわりだ。


 箱に近寄った僕が箱を蹴りつけると、意外なほどに頑丈で、痛んだのは僕の足のほうだった。


「お前は僕の恋人なんだろ。なんで、こんなことするんだ」

「隠し事を知りたくなるのは、恋人の性みたいなものよ」

「お前は何者なんだ」

「さぁ? 知りたいなら、開けてみれば。あなたの大好きな沙綾かもしれないよ」


 僕はリボンを外し、そして包装紙を破いた。箱は真っ白だ。汚れひとつない白さが、また僕をいらだたせる。


「くそっ」

「どうしたの? 怖い?」


 僕はその言葉を無視することにした。


「開けてやる」

「ほらほら。はやくはやく」

 と彼女が、僕を急かす。


 ふたを外すと、声がなくなった。覗き込むと、そこには誰もいない。沙綾がいるわけでもないし、誰か別の女性が入っているわけでも、見ず知らずのおっさんが入っているわけでもない。だけど血のにおいがする。いや、そんな臭気がするように感じるだけで、本当にしているのかは分からない。


 あれっ、箱が見当たらない。真っ暗だ。僕はそもそもどこにいた。

 箱に入っていた女は、結局誰だったんだろう。


 いや違う。


 箱。

 男。

 箱

 女。

 箱。

 死体。

 箱。


 あぁ、そうか僕は、もう。



   ※※※



「体調はどうですか? 大西さん」


「だいぶ良くなりました。最初は死も覚悟しましたが」


「ストレスも掛かるでしょうから、もっと容態が良くなったあとに、話をお聞きしたいのは、山々なんですが……」


「いえ大丈夫です、刑事さん。それで、あの、別の刑事さんから聞いたんですけど、沙綾の死体が見つかった、って。それもストーカーの男とふたりで、箱の中に入って死んでいたって」


「はい。事実です。あなたは恋人の美崎沙綾さんが行方不明になってから、彼女の行方をずっと探していたんですよね。あなたのお話を伺った者から教えてもらいました。その話ですこし気になるところがありまして。もう一度、確認を、と思いまして」


「僕自身も事件の話を聞いて、自分の知っていることとの違いに混乱しています」


「もう時間も経っていて、そこまで正確な死亡推定時刻が分かるわけではありませんが、ふたりが亡くなったのは、バレンタインデー前後。沙綾さんを、加害者の男性が刺し、その後、彼自身も命を絶った、というのが事件の流れです。そして箱に入ったふたりの遺体は箱の中に入り、ふたがされ、包装紙とリボンが巻かれた状態で、加害者宅のリビングで見つかりました。箱に密閉されていなければ、異臭騒ぎなどで、もっとはやく見つかっていたんじゃないか、とも思います。すくなくともホワイトデーまで長引くことはなかったような気がしますね。約一か月、ふたりは遺体のまま、箱の中に放置されていた、ということになります」


「でも、僕もそれが不思議で。僕は会っているんです。確かに。名前は知りませんが、あの男は同じ大学で、沙綾のストーカーをしていたことも知っていました。顔も覚えていたんで、キャンパスであいつを見掛けた時、僕からあの男に話しかけにいきました。ホワイトデーの日に」


「どんな話をしたんですか?」


「問い詰めました。口喧嘩になりました。会話にもならない、本当にただの口論、という感じでしたね。嘘でもないし、もしかしたらこんなことがあって記憶がおかしくなっている可能性もあります……、だけど……」


「あなたを刺した通り魔は、まだ見つかっていません」


「通り魔じゃありません。僕はあの男に刺されたんです」


「ふぅむ」


「信じてもらえないですか?」


「あ、いえ。疑うわけではないのですが、警察はつねに目の前に起こった現実と対峙していかなければならないので。……でも今回はあまりにも不思議なことが多すぎるので。彼らが箱に入ったあと、ふたをして、包装紙を巻いたりした人間が誰かも分かりませんし、そもそも何のために、あんな大きな箱がリビングに置かれていたのかも、まったく」

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