第4話

ラスト・ツアー

ナイフは致命傷となるものだが、加害者にとってもそれは致命傷(・・・)となる。

このバスは生きて帰ってくるための乗り物だ。フランス皇帝ナポレオンは、フラスコにシャンベルタンの赤を入れて戦場に赴いた。オレが携えているのは麻利絵と一丁の拳銃だけ。喉が乾いたなら途中下車すればいい。そこには、このヤマを潤してくれる何かがあるはずだから。

 午前九時十分に新宿発の路線バスに乗った。あの日と同じ時刻だ。居並んで座る余裕はなく、オレは後方へ。藤澤麻利絵は左前列二番目のシート。木ノ内と見立てたドライバーをくまなく調べようとしてか、彼女はゆっくり腰を下ろした。

クルマに乗るとつくづく思うことがある。ハンドルを握った瞬間、人が豹変することだ。今回は行く先が決まっているから、何処かへとさらわれる心配は今のところない。このツアーの終着は丸金デイビットとの対峙、そして同乗遺体の過去との対面である。

あの日、木ノ内は一枚、二枚、三枚・・・と、食中毒死案件の被疑者とを照合しながら、ツアーバスへと乗客を何食わぬ顔で迎え入れたのだろう。‘シートベルトをお締めください’のセリフはヴォイス・レコーダーには残されていなかった。もしも乗客が企みに気付いてキャンセルしたならまだしも、発車したなら後の祭り。その先で焼失される運命のハンドルを握っていたのは、木ノ内ではないのだから。

パイロットの異名を持つドライバーはすこぶる滑らかにステアリングを操作している。鼻下まで相似で伸びるほどの面長で、推定六十歳。中野を過ぎたところで渋滞にはまったものの苛立つ表情一つ見せず、バックミラーとフロントにバランスよく気を配り、両耳をそばだて、誰かから追い立てられているようでも誰かを追っている気配もない。制帽に隠れた白髪はきちんと剪定され、ベテラン故か慌てる素振りもない。アクセルペダルの操作も、こちらが難解なツアー(・・・・・・)に出たことを気遣ってくれているようにすこぶる滑らかで、ドリンク用ホールカップの口当てがスッポリ壊れていたとしても、運転ミスによって零れ落ちることはないだろう。その動作は、むしろロボットかとも見間違えたほどで、安全運転の第一関門はクリアできている。

一般道のどのあたりで早川千波は途中乗車したのだろうか、とオレは車窓から歩道を見下ろした。吹き溜まりとなっていた風が止むと、木の葉がハラリハラリと地に落ちる。

<誰だ、こんなところから乗り込んできやがって―― といった苦言は乗客のSNSにはアップされておらず、今さらながら早川は乗車などしていなかったのではと疑ってしまう。

音もなく、大型バスが再び動き出した。

麻利絵は身動き一つせず、ずっとドライバー越しの行く先を見据えている。

あの日の乗客の中で、一人だけ視点の定まらない女がいた。今も現世で息を潜める佐々木美穂である。彼女は前夜、新宿のホテルで丸金と密通している。そこで請け負ったのは精液だけではないはずだ。

<葡萄新地>の早川千波自身が増えた頭蓋骨の正体でないことが判明した今、彼女が途中乗車する際にバラバラにされた遺体を乗せたのだろうか。そうだとして、金属ボルトの持ち主が解明できないと、このヤマの車輪はゴールに到達できない。




中央フリーウェイは府中を過ぎる頃、木ノ内の家族が暮らしていた場所に差しかかっていた。わたしはその上を悠然とバスに乗って動いている。西風、車線変更に石っころ、そして後続車の煽り。乗客の咳払いが続くとバスは大きく揺れ、わたしの気持ちも揺れはじめた。

木ノ内が住んでいた府中のアパートを二度目に訪れた際、大家は「キノケンだって被害者なのに、バス会社の人なんて一人もきやしない。女刑事さんがきてくれたって、これであの人も浮かばれるよ。身寄りの人が来たのは一度きり。三人くらいね。二回目来る人は家族でも親戚でもない業者の人だけよ」以前と比べ饒舌になっていた。

そこには、もうラジオもセロテープで貼られた写真も無い。

「奧さんもいい人でね。ホント良い人だった。あの宅配のアレあるでしょ、アレ。宛て名。あそこにね、いちいち様って書くのよ。刑事さんなら、刑事様様って、そのくらい腰の低い人だったの。アンナちゃんも、ほんと良い娘でね」

昨晩、原田が我が家を訪れた。息子は父親の幻影を浮かべたのか、今朝はいつになく不機嫌だった。

「肩かゆいよ」それは息子のかまってほしい合図。

「足かけばごまかせるよ」これは、‘ついで’の処方箋だが、今朝は効果がなかった。

生きる以上、やるべきは山ほどある。朝五時半に起き、子どもの弁当を作り、時々事件の均衡を考え、洗濯と掃除を同時に済ませて時折り、着ていく服のバランスと事件のことを再び考える。合間に鼻をかませ、パンツを腰まで引っ張り上げ、制服添着、天に向かって母子共敬礼! 天気が平穏ならこちらもまだ平静でいられるのだが、焦っているときほど嵐の襲来だ。冬なら雪、六月なら雨でもろともダダダダッとなだれ込み、我が家には容赦ない。動機だ、物証だも吹き飛んでしまうほど。そして子どものグズリと駄々こね。それは、わたしを焦らせる敵の銃口にさえ思え、現状に集中できない動機はいったい何なのだろうか、とあぐねたりもする。刑事とて、一体の人間だ。

 わたしは時計を見ながら誤魔化す。世間的な家族愛とやらの理想像との乖離を。この状態で、他人の人生の真相や遭遇したことのない犯罪と膝つき合わせ、全貌を完璧に暴くことなどできるというのか。ふと立ち止まり、心地よいグラスに唇を留めて、自らの過去をより良い未来に向けて熟成させたいと願うのは、人として至極自然なことだろう。

だが、息子の虐めのことはしばらく考えないことにしている。このヤマが収穫の季節を迎えるまで、気に掛ける余裕もない。

バスが府中を過ぎると、木ノ内が助手席で微笑む幻影に苛まれた。

既に死のドライブへの招待状は発送済みで、運転は〈GAMS〉にでも任せて高見の見物でも決め込むとするか、といった微笑を湛えている。‘オレは遂にやった’――というラスト・ヴォイスは深い皺には刻まれておらず、しごく穏やかに我々の動静を見張っているよう。




 宙に浮いたようなオレたちは、三鷹料金所付近に差しかかっていた。あの日のような眠気はもよおさなかった。

この近くだろうか。暗然たる仁川医大病院で佐々木美穂が目だけをギョロッとさせ、オレたちの動向を見張っているのは。佐々木の通信履歴のはてにある男が、オレには最初から臭っていた。だが、そいつが関係する女の数は何人に及ぶかしれないと断じたのは麻利絵だ。今は小さな金属ボルトとプレートを手掛かりに動いている。刺したか刺されたのか判別のつかないナイフとの接点が頼りだ。

そして‘トリシモン’の存在。誰が何の目的で、ガソリンよりも揮発性が高く安価な次世代エネルギーをツアーバスに乗せたのか、それもまだ結審はついていない。

新宿西口バス停留所の監視カメラには全員が二泊三日分の重たいバッグを詰め込む様を写していた。佐々木が自白、もしくは‘密告’できるようにでもなれば解決の糸口となるのだが、昨日時点で容態は相も変わらずで、呼吸はしているものの喋ることはできない。明日どうなるか分からない状態で、いつ証言してくれるというのだ。

もしも木ノ内が車内にトリシモンを忍び込ませていたとしたら、彼は返報以上の殺人鬼性を帯びていたことになる。バスの転落、イコール全員が圧死するとは限らない。証拠隠滅、もしくは割腹自殺の介錯人よろしくトリシモンを発火させ、一人残らず焼き尽くそうと考えたのだとしたら、食中毒死に関係のない乗客はたまったものではない。


〈新地ぶどうSA〉の駐車枠内に、バスは静かに身を収めた。乗客には休憩時間開始の合図だ。二十分の間にできることは限られている。

「会わせたい人がいるんですよ」

疲弊しきった顔でバスを降りる麻利絵を待ち合わせ場所へと促した。

「途中下車してまで?」

「えぇ」

あの日、早川千波はSAでバスを途中下車している。彼女にとって水代わりのワインで体を潤し、バス事故のことを知りながら何食わぬ顔で帰宅。麻利絵と同様に子どもの世話をし、事件後も何の音沙汰もなくSNSに自社ワイナリーの日がなをアップしていた。荒川の言う通り、大胆不敵この上ない。

ナイフを所持していたのは千波ではなく、アリヴァイもある。問い正すことは残されてはいないのだが、バス乗客の放つものではない、何か他の霊気や陰湿な殺気は感じなかったのだろうか。事故にも事件とも無関係だったとして‘当事者’である以上は感じたことだけでも話してほしかったのだが、彼女には護るべきワイナリーがあり、必要以上の口は開けないだろう。

その男はしばらくして、管理オフィスから出てきた。旅に心走らせる者を歓迎する目付きではなかった。

「あぁ、あのときはどうも」統括本部長の蒲田は、これ以上根掘り葉掘り訊かれるのは御免だという目をしている。

「こちらこそ。途中乗車したのが誰だか分かって助かりましたよ」オレもぶっきらぼうに応えた。

「でも・・・」

「まぁ、今は大変ですが、この次に旅に出るときはここでゆっくり休ませてもらいますよ、ビールでも飲みながらね」

「この人は映ってませんでしたよ」蒲田はオレの手にしている丸金デイビット悠斗の宣材写真を食い入るように見て言った。

「そうでしたか、ありがとうございます。また何かあったら、そのときにはお願いします」

「残りはまとめて送っておきましたから・・・よい旅を」レストランの配膳係に一言二言投げながら奥へと消えていった。

SAの監視カメラにも丸金は映っていなかった。だとしたら、どうやって遺体を運んだというのだ。ワープしたにせよ、彼は肉感的には人間である。

麻利絵が真剣な眼差しで「丸金ってトランクに隠れてたんじゃないの?」

「アリヴァイがあるじゃないですか。東京でロボット安全運転講演会に出てたって」

「じゃ、あのバスとは何も関係なかったりして・・・」

「・・・」

佐々木は、知らぬ間に丸金のアリヴァイ幇助をしていたのだろうか。もしくは、別の誰かと組んでいたのかもしれない。荷物室に遺体を入れたバッグを運べるのは、本人と・・・「もしかして、キノケンが遺体を入れたのかな」

 再び麻利絵が木ノ内に目を向けた。

ルルルル

 タイミングよく電話が鳴った。

〈出てきたぞ、捜索願

下地の声がサービスエリアの客にまでアナウンスしているように聞こえた。乳飲み子が驚いて、母親の胸にしがみついたほどだ。

「捜索願?」

〈そうだ。モデルさんだよ!

「ねぇ、そろそろ時間だよ」

麻利絵が割って入ってきた。

「ハルさん、もう出るから送っといて」

澄み渡った空に富士の峰が悠然と映る。東京の煤けたビルの屋上から仰ぐ霊峰とはひと味もふた味も違う趣だ。

錆びた蛇腹が背中でバシャバシャッと閉じると、オレのモヴァイルが開いた。

とても大きな事故だったという。レースクイーンが犠牲になった事故。幸い死亡事故には至らなかったが、ピットインを誤った丸金が工藤瑠衣(くどうるい)という女の一生を台無しにした。そのときに、右腕に金属プレートを入れる手術を施されたのだという。

〈傷が残っちまったから、もう露出したモデルとかの仕事はできなかったんだろうな。でも、顔は綺麗だから地方のコマーシャルには出てたみたいだよ――

 下地の所見が綴られていた。

 そのプロポーションは申し分ないものだった。ワインボトルのようにメリハリのあるボデイを有しながら、傷ひとつつけば商品価値が皆無になる。それが、モデルの世界なのだろう。

グラフィックやイベント、シーエムのオーディションで方々めぐっていた女友達が捜索願を出していた。ルームシェアしている彼女の名は風見絵里。工藤とは小学校からの幼馴染だ。

十キロ以上車を走らせなければコンビニに出くわさないような岐阜の田舎町から女優になることを夢見、都会に出てきた二人。名古屋は東京進出の中継点として捉えていたようだ。夢半ばで縁も所縁もない山梨の葡萄畑で見るも無残に葬られるとは努々思わなかっただろう。東京で女優のオーディションに落ち、帰名する際に工藤が丸金と新宿のニュー・イパンシアホテルで会ったのが七月十三日。あの事故が起きてしまう前夜である。

 乗客らの着席で揺れるバスは、都心の喧騒を置き去りに西へ、西へとスピードを上げて走り出した。




 バスを勝沼で再び途中下車して、わたしたちは勝亦を訪ねた。ワイナリーは以前にも増して盛況を呈し、風評被害など何処吹く風で多くの観光客でごった返している。二十四名のツアー客も、ここで‘命の洗濯’をする予定ではあった。

「おや、藤澤さん。どうですか、捜査は進んでますか?」

「そっちはまだですけど。お酒のほうが・・・」

「あぁ、こっちってこと。シュール・リーならコレ。あのとき、お出しできなかったのが残念で。用意はしてたんだけどね」

 最初に訪れた際、勝亦がシュール・リーをわたしたちに試飲させなかった理由がようやく理解できた。

原田がわざとらしく咳払いしながら「それはそれは・・・」

「あっ、原田さんもいかがですか。あなたはワインに一家言お持ちだ。どうか、ご意見頂戴したいものです」

「いえ、今は勤務中なもので」

「ほぉう、では、これからが真の捜査ということですな。いっ時でも疑いの目を向けられた者としては早急に解決してほしいものだよ」

勝亦は真顔だった。

「最近は種なし葡萄とかが流行ってるらしいが、そんなんで子孫のこせねぇずら。それをなんだ、風雲児かニューウェイブだかが、人の種だ苗木使って甲州語りだす。あっ、失礼。また愚痴になってしまったね」

「でも、それをさせようとしているのはあなたでは?」

「えっ・・・」

「それこそ、戦争をふっかけてるんじゃないですか、若い人たちに」

「なんだってぇ」

「すみません、すみません。今日はそっちの話ではなく、一つだけ聞いておきたいことがありまして」麻利絵が恐縮しながら割って入ってきた。

 勝亦はデキャンタージュの手を止め「ん?」

「この人をご存知ですか?」

 麻利絵は自らのモヴァィルを差し出した。

「あぁ、知ってるよ」

一瞬の間があったが、確かにそう言った。

「去年のワイン祭りのポスターのモデルになった娘じゃないかな。撮影で岐阜から来たって言ってたな。広告屋さんに頼んでるから個人的なことは知らないが、三人いて、そのうちの一人だよ。ノッポでね、よく覚えてる。たわわな・・・、たわわな目の大きい娘だから、お、覚えてるんだよ」

葡萄のように豊饒なバストをしたとでも言いたかったのだろう。

「ルイという名の?」

「そうだったかな。そのモデルさんがなにか?」

「勝亦さんは、お土産とか渡しましたでしょうか」

「シャインマスカットの詰め合わせと赤白一升瓶ワインを一人ずつ持たせてやったよ」

「他には・・・」

「うーん、売店で何か買っていったかもしれないね」

「ナイフとか?」

「ナイフ?」

「はい」

「帳簿を見れば分かるんだが。おーい、ヤス」

 そう言って勝亦は事務所に姿を消した。

早川千波が途中乗車した頭蓋骨の正体であった時点では、勝亦俊樹がナイフの所持者だと仮定した。甲州ワインの新興勢力に対するやっかみが推定動機であるが、早川は生きていた。当初、荒川は、フランスにいるっていう女は早川じゃなくて、別人なんじゃねぇのか、と戯言を吐いていたが、その姿は成田の監視カメラにはっきりと写っており、国際電話も二度あった。そして勝亦にはソムリエを招いての講演会に出席していたアリヴァイがある。

「何故、彼女がここに?」と訝しがる原田に、わたしは鼻を指して応えた。

「それも女の・・・」

「まっ、山梨と鳥取の二者択一ですけどね」

 勝亦が戻ってきて「たしかに一本、売れてたずら。それがあのモデルさんかどうかは分からねぇが・・・ たくさん人がくるんでね」

「ありがとうございます」と言って立ち去ろうとする際、原田が「名古屋でも甲州ワインはお目にかかれますか?」

「もちろん。もう、全国でやってるから。うちのブランドが飲めるバーもいくつかあるから、行ってみてよ。分かるようにしておくから」

「助かります」

「収穫時期にまた寄ればいい」

「ぜひ」

「そのときには、またうちらしいワインを用意しておくから。あっ・・・」

「他に心当たりでも?」

「そういえば、あの娘だけ自腹で、シュール・リーも買っていったよ」




振り返っても見えないものは、きっと見なくていいものだ。自分が付け火したものでない限りは。

 丸金に会う前に、知っておきたいことがあるという麻利絵に促され、坂本を社長に据えるという新たな会社に足を向けた。それも愛知県に在る。

――狭いニッポンそんなに急いでどこへ行く? 狭い日本、ドロンと〈GAMS〉で速く行こう!――

 奇妙なスローガンを玄関先に堂々と掲げていた。献花ではなく、胡蝶蘭で埋め尽くされ、さながらコンサルタント会社の趣。もちろん、オレたちに手向けの花などない。あるとしたら、ディーエムのことを訊いた後の感想だ。

 シチョクチョクチョシチョクチョクチョ、とドアーの向こうから箸の持ち方まで伝わってくる耳障りな響きがした。ノックは強めにしたほうがよさそうだ。もしくは蹴破って入っていくべきか。

「社長、お客様です」

オレたちを中に招いたのは謝罪会見会場の脇で待機していた体育会系の男だった。筋骨隆々で耳が水餃子に似た形をしている。ペーパーを記憶していて、センテンス毎のクライマックスに先回りしてニヤニヤしていた薄気味悪い顔容は、場所が変われど忘れられそうにない。影として隠していた男を坂本は今、腹心として位置付けているのだろう。次に事故が起こったら、この男が会見場の矢面に立たされることは明らかだ。

応接室の中央には運行管理マネージャー吉野が相も変わらず白けた顔で立っている。

部屋の造りは豊洲の頃にも増して無機質だが、また異なる無機質感に包まれていた。少数精鋭にして、ひと儲けする魂胆が見え見えだ。バスの存在しないバス会社は、なんとも不思議な感じがする。

「あっ、どうもどうも藤澤さん」

アロハシャツを羽織った坂本は松花堂弁当の‘上’を食べていた。蓋をひっくり返さず、そのままズラしてテーブルに置いている。こいつも麻利絵のことを〈刑事〉と呼ばないタイプだ。

「また、パイロットのことでしょうか?」

「パイロット・・・ 飛行機の?」麻利絵は前歯を剥いて微笑んだ。

「いえいえ、うちではドライバーのことをパイロットって呼んでます。まぁ、ここんとこレギュレーションも厳しくなったんで、変わったってところ色々と新しくしてます。まとめて心機一転ってところですよ」

「バス、やめる予定だったのでは?」

「いやぁ、安全なサービス・コンテンツの提供こそがわたしたちの弔いですから。だから、まったく新しいことをやろうと思ってるんです」

「新しいって?」

「またぁ、そんなことくらい調べてから来てるんでしょ、ふーじーさーわーけーいーじ」

当然調べはついている。今日の要件はそんなことではない。

「早川さんって人は、ここにきましたか? 開店記念に」

「早川・・・ 誰ですか?」

「葡萄新地の早川千波よ。あの日のバスに途中乗車した女」

「途中乗車? ツアーだから途中乗車なんてできないはずですよ」

 無駄な問いではあった。坂本がまっとうに応じるはずがなく、応えたとしても、今は何の役にも立たない。バスに乗車していない殺人犯を追っている今は。

弁当に残されたヒジキやサラダ、ドレッシングがたわわな蒸気と交わり、坂本の体臭を通して饐えた匂いが起っている。

「木ノ内さんのことで・・・」

「それは散々お話ししたはずですが」

何処からともなく猫の鳴く声がした。犬のようにも聞こえたが、坂本は国家機関をものともしない顔つきを呈した。

「ネットとかテレビ、週刊誌で拾ったほうが早いですよ、ネタなんて。聞き込みもタイヘンでしょうから。刑事さんも時間との勝負でしょ」

〈GAMS〉の技術開発は時間との勝負と言うが、時を経る過程で得られる豊穣の感慨を道路の側溝に捨ててはいないだろうか。

「わたしたちは時間とは勝負しない。時間の性質(たち)は調べるけどね」麻利絵は少しドスを利かせたが、相手が怯むことはなかった。

「性質ねぇ・・・ どうせマスコミは事故を起こした会社が廃業してすぐに新しい会社起こしたっていうけど、もう遺族への保証も決まってますし・・・」

「ディーエム、つくらせてたでしょ」

「ディーエム?」

「ノルマでよ。安い給料でこきつかって、そのうえ運転手に営業やらせるなんて休む暇ないじゃないの」

「それを今、どうしろっていうんです。調べはついてるんだ、そんなことのは。夏にも荒川って刑事がきたんだよ」

「えっ?」

「国が会社の仕組み決めて、こっちは相応の給料払って、それが最低ラインでもちゃんと払って。空いた時間に営業させる。いや、彼らの為にさせてるんだ。それで一時金やボーナス出るんだから文句なんかないでしょ。どの会社だって同じでしょ。勤務時間内に遊ばれて会社のパソコンとか備品使われたんじゃ、こっちがやってけないよ。警察だって、そうでしょ。空いてる時間、何やってるかわかったもんじゃない。こないだも不倫してた刑事がラブホで銃、暴発させたっていうじゃないか。職権乱用だよ。うちら、ちゃんと職権ってヤツをちゃーんと適用してんだから、社員に手伝ってもらうのは当然でしょ。一生懸命金儲けして何が悪いんだ。それを奨励してるのはお国だろ。あんたたちのボスだろ。そっちのほうが職権乱用だ。なのに怠け者どもは過敏になってブラックだぁ過重労働だぁって、すぐに責任の矛先をこっちに向けたがる。そんなこと言ってる馬鹿たちも同じようなことしてるのになぁ。中国とか韓国経由で」

「あなたたちは、その基準を超えてるから世間から非難されるのよ」

「それより、あなたこそ木ノ内がわざと事故を起こしたっていうなら、こっちには何の責任もないんだよ。むしろ被害者だ。冤罪事故だよ。冤罪だ! それこそ、あの日にかえって捜査してもらわないと。ちゃんとした刑事さんにね。刑事たちにだ」

「バカ野郎、てめぇら人間より荷物なんか優先しやがって、過剰積載でいくらでもしょっぴけんだぞ」

オレは思わず口走ってしまった。

松華堂弁当が乗ったテーブルはひっくり返さなかった。金だけで蛆虫の孵化を試みる坂本の金玉を蹴り上げたい気分だった。だが、坂本の言葉にも一理はある。そうだと思えることがよけいに悔しかった。

「トリシモンだって、政治が決めたことなんだぜ。いつだってそうだ。大事なことは後回しじゃないか。中国のバスはもう無人だ。また負けるのかよ」

 ムジナたちは同じ穴に戻ってゆくとして、オレは刑事を辞めたらどこに行き着くのだろうか。




日本主催のオリンピックに向けてか、名古屋の街も東京同様に開発がせっせと進められている。どこもかしこもとり憑かれたように建設ラッシュだ。人生のポールポジションを盗るのに皆必死に見えてしまう。

全社会的自動運転システム〈GAMS〉標準装備のゼネコン・マシーンたちが颯爽と姿を現すと、誰しも期待を抱いてしまうものだろうか。住宅街に土足で上がり込み、ガチャガチャと騒音を撒き散らしながらビルの骨組みをロボットの顎付き一つで縦一列に整列させる。悪い部分だけを担う、汚れたアームを振り翳し続けるショベルカーが事故責任を負うことはなく、バタークリームを器用にスポンジケーキに塗りたてるように構築してゆく様は、近未来の土木スキーム。やがてプラットフォーマー達の塒と化すスマート・ビル群が地図を塗り替えようとしている。

残された血肉の介在する情感の所作は、やはり人間でしか成しえないもの。それが初めてのドライブデートの前にフェンダーミラーに映る自分の笑顔チェックというなら、キノケンは妻と肩を抱く姿をうっとりと想い、ローンを組んだままの中古シボレーのイグニッションに触れず、旅に出かける予定だったことさえ忘れてしまうかもしれない。

 不思議なことに、丸金デイビットのオフィスの前に佐々木実がボソッと立っている。またもや、原田に出し抜かれてしまった。

「あの人って・・・ 佐々木さんの」

「いかにも」

「いるの?」

「電話に出た女は不在だと言ってましたけど」

「本当かな」

「佐々木実もそれを確かめに来てるんですよ」

「わたしたちと同じ?」

「彼の場合は自白じゃ、済まさないでしょうけど」

「逆に、自白させないようにしたいと」

風は冷たく町も薄ら寒く、実の心はもっと冷え込んでいるだろう。

「随分と仕事熱心ですね」原田が何食わぬ声で彼の肩を叩いた。

 実はビクッと体を起こしてから、気丈に振る舞おうとした。

「クライアントは広告屋さんにケチをつけやすいものですよ、なにかとね。わたしたちも交通安全ポスター作ったって、国民全員が納得いくようなのはなかなかねぇ。事故がゼロになるようなものは誰にも作れませんよ」

「ク、クライアントなんて、もう、わたしには。美穂と、妻と世界一美しいクルマのポスターを作るのが夢だったのに・・・」

涙ぐむ実をわたしたちは近くの喫茶店へと促した。

大理石のテーブルの上を無人トラックが行き交うように、店内にも騒音が響いている。佐々木実はバツが悪そうだった。

「刑事さん、恋人とドライブとかは行きますか?」

原田は小倉トーストを口でモゴモゴさせながら「いえ、今は・・・」

「奧さんとは?」

「それは、今はまだ」

「昔の人はね、電話の連絡がないと、すごく怒ったもんですよ。今はそこらじゅうに自動監視システムやGPSがあるから、心配はいらないんでしょうけど。それに、みんな意思を直に伝えなくなってしまった。なんだって機械を通してだ。伝えたいことが、いつまでたってもちっとも伝わらない」

 佐々木はテーブルを叩いて、そこに涙を滑らせた。もしも、トラックが突っ込んできたなら、スリップ事故は免れないだろう。

「電話がこないと本気で怒ったもんです。それは嫉妬とかじゃなくて、やっぱり事故が心配なんですよ。今は連絡がなくても、ネットとかで分かるでしょ。昔は連絡ないこと、イコール事故。便りがないのはなんとかってのは、もっと昔の話ですけどね」

「佐々木さん、あなたがこんなところにいるのは心外です。ひとつ、やっていただきたいことがあるんですよ。世の中の為に」

「えっ」

「あなたなら、お分かりですよね」

「原田さん、あなたは人を救うタイプの刑事ですか? それとも社会を救うタイプの・・・」

「終わってみないと分かりませんよ。ワインと同じです。それより、奥さんの携帯電話取りに帰ってもらえませんか。東京へ」




もしも、この世に言葉が無かったとして‘犯罪’は起こりうるだろうか。無意味な物語の螺旋が悪事と凶悪犯を結び付けているとしたら、わたしはまずその人間の喉を切り裂いてやりたい。逮捕状をつきつけるとは、そういう気分なのだ。

 佐々木実が報復を諦めて帰京したかどうかは不明朗だが、名古屋駅方面に少し歩いてみる―― そう残した彼を信じようと思う。

 丸金は不在だった。

 工藤瑠衣が手術をしたという地下鉄東山線〈一社駅〉近くに在る病院を訪ねるところだった。

「丸金にはフィアンセがいるのよ」

「らしいですね」

「工藤さん、令嬢の台頭で食いつないでた地方CMも干されたって。あんまりよ・・・」

「知多モーターズの力はエグイですからね」

「ちょいちょいマスコミに出ておけば、自分のポートフォリオでもひけらかして後は親の権力でなんとでもなるわけでしょ」

「丸金は、工藤瑠衣が邪魔になったんですね」

「そうだとしても、お荷物みたいに扱うなんて・・・」


クリニックの医院長がせかせかとした足取りで出てきた。

写真を手に「たしかに、この子ですね」

「そうですか」

「モデルだというので、ちょっとばかし高くつくけどいいかなと言うと、うなずいたもんですから」

二川という名の医師はわたしたちを弁護士か何かと勘違いしたのかもしれない。筋肉痛を相談しようものなら、即CT検査を迫ってきそうな雰囲気を漂わせている。工藤の太腿の皮膚の一部を顔に移植し、金属プレート右腕に埋め込んだのがこの医師だ。彼もプロだが、モデルのプロデューサーはさらに上を行くプロフェッショナルだった。商品価値を瞬時に見極め、露出の多い仕事が次々にキャンセルされてゆく。もしくは、自分の娘に仕事をよこせと、出水原モーターズの息がかかったのかもしれない。

「彼女はオペに満足してましたか?」

「もちろん。当院の技術を結集した作品ですから」

「作品って・・・」原田は傷痕一つない顔を冷たい床に滑らせた。

「終わってから産婦人科も紹介してあげましたよ」

工藤は勝てないレーサーの‘個人スポンサー’だった。飯を食わせ、他の女と遊ぶ小遣いを渡し、丸金以上に大いなる夢を抱いていただろう。

〈フェニックスビード・ウェイ〉におけるピットイン火災事故は四年前のこと。後続の車が丸金の乗るマシーンのフロントノーズと接触し、トリシモンに引火。煽りを受けた工藤は燃え盛る炎に包まれながら恋人に手を差し伸べたが、丸金は再びコースに出ようとして彼女をはねた。顔が負ったのは飛び散ったカーボン破片による刺し傷だけだった。そして肺中火傷。管を通して膿を取り出し三日三晩もんどり打った挙句、九死に一生を得たという。意識が戻った頃、丸金は工藤の家から既に荷物を引き払っていた。佐々木美穂と異なり、心に刻んだ傷のほうが深かったのだ。




テスト・ドライバーは自分自身の適性を見極め(試験)ることはできるのだろうか。丸金という男はワインを好んでいた。

 名古屋の繁華街、栄に在るバー〈パニエ〉はオレたちには相応しくない呑み屋かもしれない。勝沼の勝亦の紹介とはいえ、そこにはどうにもまた彼の思惑が潜んでいるような気がしてならなかった。

「ようこそ、カップル様の記念日と社長から聞いておりますが」

 白と黒の鯨幕に似たコスチュームを纏ったバーテンダーが柄に象牙をあしらったオープナーを手持無沙汰にしながら言った。そのソムリエナイフは‘ジューシー’よりもはるか小柄だが、淀んだ光を内包している。

「そうだとしたらなにより」満更でもなかったが、麻利絵は辺りをキョロキョロ伺っている。オレたちは隅の席へ通された。

「最初、オレのこと疑ってたでしょ」

「何を?」

「鉄箱にナイフ、仕込んだって」

「頭蓋骨はそうじゃないと思ってたけどね」

「ずいぶん信頼ないんですね」

「そうでもないわよ。でなきゃ、こんなとこに来ないでしょ」麻利絵はナプキンを膝に浮かしながら言った。

照明は適度にルクスを落とし、ジャズィーなサックスとピアノが椅子の隙間を縫って流れている。予約で満杯のバスと異なり、席と同数の客数には満たず、オレたちは相応を喋ることはできた。

「こちらで?」

「まさしく」

2010年のグラーブスだった。解き放たれるタンニンの自己主張が特徴の圧倒的なボルドー感のある逸品。前後に何も口にせず、そのものを味わいたいワインだ。早川評では〈世の中のすべてのワイン辞書に‘素敵’という形容詞しか残されていない気がした。それが第一印象。もしも最初に2010年に出会っていなかったとしたら‘酸っぱい洋酒’で終わっていたかもしれない。それほどまでに酸味を旨味の主役へとステージアップさせる醸造技術が、このシャトーにはある――

「甲州でないものをとおっしゃっていたので」

「まさしく」と繰り返した。スクリューにギジギジと刺され、抜き取られたコルクが肴でいいくらいだ。

麻利絵はろくに味わいもせず「これも美味しい」

「それだけですか?」

「早川さんがチャレンジしてるコンテストって、あの目隠ししてワインの銘柄当てるやつでしょ」

「まぁ、そんなところです」

「それなら、キミもいけるんじゃないの。色だけでぜーんぶ分かるんだもの」

「いやいや。筆記試験もあれば、デカンタージュやプレゼンのテストもあるから、一朝一夕でなれるもんじゃないですよ。あの男のサーブなんてアウトですよ」

「そういうもんなんだ」

「料理とマリアージュしてのインスピレーションもあるし」

「インスピ・・・ 直感ね」

「そこだけは刑事の得意分野ではありますが」

「あっ、思い出した。これって丸金のSNSにもあったワインでしょ」

「見たんですね」

「まぁ」

「では、ご用がございましたら」

「あっ」麻利絵の顔が一瞬曇り、テーブルの影のように隠れていたバーテンダーが離れると「高いワインよ。そんな男に土産で買ってあげたナイフで刺されるなんて、思いもよらなかったでしょぅね」

「もしくは刺されてなんてなかったとしたら、どうしますか?」

「刺殺じゃないってこと?」

「彼女のほうが恨みをはらそうと考えていたのかもしれない」

「殺されるのを悟って狂言自殺したってこと?」麻利絵が薄明りの中で目を開いた。

「ナイフは彼女のものなんだし、そういうことも無きにしもで」

「自分で自分を傷つけて、それを印にしてくれって思ったのかもしれないわね」

「相手は、それに応えられるようなロマンチストじゃないですよ」

オレはガーネット色をした、人の血にも似た赤を麻利絵に注いだ。

「知多モーターズ令嬢へのあてつけで自殺するフリをした。そこで騒ぎを起こせば、もう一度自分の元に戻ってくれるんじゃないかって考えたのかもしれないわね」

「自分の右腕で左腕に入ってるプレートを砕くくらいの勢いで刺したと?」

「それが致命傷じゃなく、泣き崩れてるときにナイフを拾い上げて殺したとしたら・・・」

「丸金はまさしく殺人鬼ですな」

「しかも、その罪を別の愛人に被せようとしたんだから」

「暴走マーダーだ」

「ハルさんの推察通り、〈GAMS〉型のクルマに乗せて中央高速道経由でサービスエリアにまでバラバラにした遺体を運んだのよね。バスタブで切断した後で・・・」

「そうかもしれません」

「え? 確かじゃないってこと・・・」

「佐々木美穂が遺体とサービスエリアで‘落ち合って’バスに乗せたとも考えられるし、それはオトリで、発車前にバスに乗せたことも考えられる。客のトランクルームじゃなく、反対側は‘バスタブ’の荷物しか入れられない構造になっていて、そこを開けられるのは運転手とナビゲーターだけなんです」

「まさか、ナビゲーターも疑ってるの?」

「そういうわけでもないですが、佐々木が喋れない今、工藤さんの遺体をバスに乗せたのが誰なのかハッキリとはしないんです」

「燃え尽きた他の乗客が幇助したケースも考えられるってこと?」

「うーん」

「いずれにせよ増えた頭蓋骨は丸金のアリヴァイにはなってしまう・・・」

サックスが去ると、グラスはオレたちの声とブラームスで満ちた。

「アリヴァイを遠隔操作と幇助で作れても、その後でバスが崖下に落ちて焼死するなんて考えてもみなかったでしようね、丸金は」

「理想的な事故ですからね」

「丸金は、美穂が自分を奪い合って工藤さんを殺したと思わせたかったのかな」

「時間差で二人に会ってカタをつけるなんて、あいつはドライバーなんかじゃない。欲望のサーキットをぐるぐる旋回する変態サイコ野郎だ」

 バーテンダーが先刻までそこに立っていたことは、皿に乗った肉の焦げた匂いで分かった。ラムチョップを食す気は失せていた。勝亦が東海、関西地区に売り出そうとしている甲州ブランドも味気が感じられず、一気に飲み干した。

 空いたグラスに注がれたのは出水原愛梨(でみはらあいり)という女の幻想と実像の‘ブレンディング・ワイン’だった。二十一歳、モデル兼実業家の一人娘。実父たる知多モーターズ会長出水原豪(ごう)介(すけ)は一代で財を築き上げてIT業界、家電メーカーとコングロマリットし、全社会的自動運転システム〈GAMS〉型ヴィークルの開発にいち早く着手した。それに伴うインフラ事業や国家的プロジェクト‘トリシモン’の輸入にも積極的で、まさにAIとニュー・エナジーを両輪として飛躍を遂げていた矢先、このヤマは彼にとって‘脱輪’のようなものでもあるだろうか。

「飼い犬に噛まれたんだね」麻利絵がローズマリー添えラムチョップにようやく手をつけた。

「かすり傷程度にしか思ってないとしたら恐ろしいですけど。藤澤さん、以前、持てる者の強みと弱みがどうのかって話してませんでしたっけ」

「何事もほどほどにってことよ。持ってない人には、それなりのギフトが降ってくるんだし。富と名声、それに美貌、あとは何が欲しいんだろ」

「全部ですよ」

「そんな・・・」

「持ってる人間はすべて欲しがる生き物なんです」

「キミも?」

「オレは何にも持ってませんよ」

 徐々に客が増え、ボトルのクビレに沿って刃をあてたソムリエナイフによって、あちこちでキャップシールが剥がされてゆく。テロワールやネゴシアンの正体を自白させるようにギキュギッ、と。

口直しに「元レーサーをテスト・ドライバーとして婿に迎えるまではいいけど、まさか火種になるとは思ってもみなかったでしょうね」

「女癖の悪いのは調査済みだったんだろうけど、強欲オヤジも愛娘のいうことならなんでも聞くってことなんだわ」

「だけど、殺しとなると話は別だ」

「もう逃げる準備はしてるみたいよ」

「車で?」

「車より速いクルマよ」

「ほぉ」

「キミの腕の見せ所よ。そうなると、また上からの邪魔が入るけどね」

「荒川部長はオッケーでしょ」

「あの人がよくっても、もっと上の・・・」

景気づけに供されたのは2014年ニュージーランド産〈フラミンガム〉だった。辛口だが、最終コーナーでフワッとした甘味が鼻孔に漂うダブルフィーリングワインだ。そろそろ退散していい時間だろう。

「ここで獲れた葡萄使ってるのかな?」

急に、麻利絵と名古屋にいる現実に戻された。

「オレが追うしかないですな」

「運転、自信あるの?」

「やってみないと分からない。ワインと同じですよ」




♧♧

男は死をも恐れぬ—- そんな本物のレーサーではなかった。丸金ディビットはあのピットインの火災事故以降はスポンサーがつかなくなっていた。勝っている間はチヤホヤされるが、履いているタイヤに釘でも(・・・)刺されば代わりなどいくでもいる世界。その点ではモデルと共通しているところがある。F1グランプリシリーズの夢叶わず、毎年中位のF3でレーサー生命が終わった。夢を女に押し売りするだけの男となったのだった。

 途中下車した道端でサムアッブし、ギヤをセコンドに入れたまま日本有数の自動車メーカーの懐に飛び込むには、よほどの覚悟が必要だったろう。

「ねぇ、味噌カツでも食べてく?」

「いや、天むすにしときましょう。胃がもたれるから」

「慎重ね」

「まぁ、ここまで来ましたからね。木ノ内って、名古屋とかにもバス走らせたりしてたんですかね」

 久屋大通から名古屋方面へ。和菓子店の角を西に折れると、再び工事中を告げるゼネコンのスローガンとフラッグが十一月の薄ら寒い風にはためいている。丸金は成り上がりサーキットを疾走する際、空気抵抗を最大限に減らすには工藤をはじめとした女たちをコーナーコーナーでふるい落とすしか術がなかったのかもしれない。‘焼失’まで図った理由は計り知れないものだが。

「き、木ノ内と丸金が共謀してたとでも?」麻利絵は目と歯を同時に剥いた。

「どうでしょう・・・」

「接点なんてないわよ。もちろん、セックスだってあるわけないんだし」

「だけど、あのバスが焼けなければ、鳥取までゴールしたとして、遺体をバラバラにしたのが誰なのか分かるじゃないですか」

「たしかに、そうだけど」

「遠隔操作でトリシモンを着火することができたのかも」

「まさか・・・」






夢を見た。

自転車に乗る夢だ。わたしは乗り物の中で世界一安全だと思っていたが、最近ではそうでもないらしい。電動自転車の事故が年々増えている。人間の乗るべき理想的な乗り物とは、いったい何なのだろう。揺りかごに乗り、父の背に乗り、ときに上手い話しに乗せられ、やがて人生のレールにどっぷり居座ることとなる。シーズンシートを一生分確保できている人間はいいが、あぶれた人間は何処の席を温めるというのだ。わたしたちが今乗っているのは、行方をくらました丸金デイビット悠斗を追う‘スーパー・カー’なのかもしれない。

その控室には汗臭いヘルメットがいくつも転がっていた。レーサーが被るインナーの目出し帽はクラッシュ時の火傷を避けるため、そしてシールドは追手の視線を避けるためのものだろう。

「新車ですね?」ありったけの笑顔を取り繕い、新人レポーターのフリで惚けてみたが、歳が歳である。

「当然だろ、テストカーだぜ」彼は意にも介さなかった。

「燃えるものは乗せてませんよね? 危険だから」

「心とか?」

「それは単体ではスパークしないと思いますよ」

カッタンタンッ

不意に不気味な音がした。丸金が起ちあがったから、ピットにいるメカニックからのセットアップ完了の合図であることが分かった。

「広告の人かな?」

「そんなところです」

「だったら、広報通してくれないかな」

「失礼しました」と、わたしは車専門広告会社の偽名刺を差し出した。

「あんたも業界の人間なら分かるだろ。知多モーターズのテストだぜ。ちゃんとした人間、通してくれよ」

丸金はわたしの足元を見て言った。擦り減った踵に剥き出しの歯茎でも映ったのかもしれない。

「レーサーとドライバーの違いって何だと思いますか?」

「プロに徹するかどうかでしょ」彼は不気味に微笑んだ。

「レーサーは自分の命を懸ける。ドライバーは他人の命を賭けるとでも?」

「カケル? いや、ドライバーだって命がけだよ。目的地に着くまではね」

「分かりました。では、詳しいお話はのちほど」

丸金は警察の人間に対しても同様の態度をとっただろう。もしくは、わたしがそれだと気付いているのかもしれない。

「じゃ」

どこかで爆音が轟いた。ハイオクガソリンがトリシモンでなかったとしても、時速三百キロ近いスピードを醸すレーシングマシーンは疾走する棺桶にもなりうる。バスの速度はその三分の一に過ぎないが、高速道の防音壁に向かってハンドルが切られたとしたら、乗客らはモータリゼーションのスリルを感じるまでもなく、持ってもいないハンドルを握りしめただろう。




♡♡

サンバのリズムに合わせてレースクイーンらが腰を振る。スポンサー名がデカデカと貼られたアンブレラを携える彼女らをさすスタッフの傘まで開くと、熱気と狂気の交差するファンファーレがサーキットに欲望という名のカタルシスを寸分の隙無く敷き詰めてゆく。わたしたちの機関にスポンサーはつかない。原田が背負っている国旗は黒と白のアンサンブルだ。

「分かったか? 分かったんだよな!」

 急にきし麺の匂いがしたから荒川がそこにいることに気付いた。彼の声はイヤマフをも貫く音量だ。

「彼のことですから」

 車を発明した人間がこんな日が来ることを予想できなかったように、わたしは原田の動向を勘違いしていた。鉄箱にナイフ、そしてラボに頭蓋骨を忍ばせるには及ばなかったことを。

「ウエット、今日は履かんほうがええがや」

「えっ、ティッシュですか?」

「鼻紙じゃにゃあて。タイヤのこと。そのまま逃げる気だて、奴さんは」

 山から猛スピードで駆け下りてきた霧が、一人のレーサーをベールに包んだ。否、今はテストトライバーだ。路面が月の雫で満ちるのは時間の問題。レース本番前の余興とはいえ、この悪天候の中を走るには相応の緊張を要するだろう。サーキットには原田のような魔物が棲んでいるのだから。






砂も嵐も殴り倒すことができないから、オレはまだ刑事を続けている。感情が芽生えはじめたロボットも、そんな気分なのかもしれない。

麻利絵と組んでいると、トリシモンなどに依拠しない産まれたての気力に出会えたりする。そして、彼女は被害者遺族のやり場のない怒りを何処に向けるのだろうか。運転手が生存しない今、裁きの微かな可能性が被害者となった源の加害者にあるとして、それはこの世から消えた時点で加害者でなくなってしまう。被疑者不在では、事故は事件性の無い事故で終わってしまいかねない。八百万の神を心棒する日本に一心の祈りという慣習があれば、どれほど救われる人間が増えるだろうか。

被害者遺族たちの在るべき未来を胸に刻み続けなければならない責務に後押しされ、知多半島に在るサーキットに出た。

舞踏会の権化をバルコニー席から見渡せるのはオレたちの特権だろう。天井桟敷と違って投げ銭は不要だ。むしろ、快活な事件解決へのアプローズがほしい。味にも香りにもならないエクスタシーこそが、運命の同乗者に課せられる運賃。いくらにも換金できないが、金に換えていいものでもない。下地は以前、〈最後の順番〉を待て、と言った。遂にその時がきた。

 フラッグが波打ち、うねりを上げるエンジンと雷鳴とが重なる。

全長十五.二キロ。コーナー総数九十九。KAMIKAZEの異名を持つサーキットのヘアピンに差しかかったところで、麻利絵がウインクを代用に、飛ばせと煽ってきた。芝生が緑色した津波のように迫りくる。彼女の天命に乗るしかない、とその水分のような、それでいて流線型のボディに身を預けた。アクセルとブレーキを右足だけで同時に踏み込んでしまったのかもしれない。隙をついて丸金がインから差し込んできたから、あろうことか全身が一瞬緩んでしまった。最終ラップでスピンアウトするわけにはいかない。クラッシュのほうがまだマシだ、と再びアクセルを探った。コンマ一秒が二時間にも感じたほどだ。今さらサスペンション変更も、スリックタイヤに履き替えるわけにもいかず、一心不乱にホシを追った。フェイントだったことに気付いてから即、丸金がプロフェッショナルであることを思い知らされた。そう、やはり木ノ内もプロのドライバーだったのだ。

毎日が目的地であるかのように生きるなら、刑事とレーサーは同類かもしれない。

丸金がオレの車体にアタックを仕掛け、速度を緩めてから再び猛スピードで迫ってきた。シールド越しの視線がミラーに映る。オレを轢き殺す気だ。

「マリエ! くるな、とまれ」

「危ない!」

「やめろ、撃ったことないだろ」

「ある!」

「ないだろ!」

「ない!」

ヴォバーンッ サーキットに銃声が鳴り響いた。

レーサーの欲望に敢然と立ちはだかったのは、またしても麻利絵だった。




 あの日の熱気が、めくるめく五月のそよ風に変わっていた。葡萄の房が小さな、ごくごく小さな形となって現れる季節の到来だ。

「東京でワイナリーって?」

原田はサラッと「また勝股のトラップですよ」

「多様化の時代だものね」

「都合の良い拡散主義じゃないですか」

 原田に話していないことがある。今年は日当たりが良かったせいなのか。日常にかまけて水やりをサボったはてに反って強くなったのか。葡萄の種さえ捨てるのに惜しむ貧乏性が奏功して、市販のピオーネを息子が食べた際に種をペペッと吐き出していたプランターに実が成ったことは、やはり話せそうにはない。

「おっ、お揃いか!」

荒川の声がするから、わたしたちはきっと目を覚ましているのだろう。

「浮気するなら、携帯なんてもったらアウトだて。逢引するにも、伝書鳩でも飛ばさにゃ。丸金のやつ、佐々木と関係あったから、彼女と組んだのかもしれんな。直接、聞いてみんと分からんけど」

「あの日、無人の〈GAMS〉型ビークルで中央高速を走っていたのは一台だけだったんですね」

「そういうこと。運転席も助手席も、乗ってたのはお人形さん(・・・・・)だ」

「だから、ワープできたんですね」

「狂気と」

「そして凶器も」

荒川はフランス帰りの時差ボケを覚ますかのように、大きなエラを左右に広げた。そして、チェッカーズフラッグが不規則に揺れた。




 収穫時期はとうに過ぎていたが、それは‘瓶詰めされたワイナリーごと’開花したようで、息もできぬくらいの豊穣感に、一瞬にして手玉に取られてしまった。ヴィンテージワインの場合、抜栓後は蔦で編み込んだパニエにでも入れておくべきだろう。澄んだ状態で味わいたいなら斜めにして-- が常道である。だが、古酒に帯びる澱をも一体として味わいたいのなら話は別だ。粉々になったコルクの破片もまたヴィンテージならではの‘恵味’なのだから、といった感慨もなく麻利絵はシャトー・マルゴーを一気に飲み干した。

「美味しい!」

 それは荒川のプレゼントだった。麻利絵の息子のファーストミットに似た色味だ。

 

もう七年も前の話になる。現に悲惨な事故も事件も立て続けに起こり、自然災害もチャイナ・ウイルスへの対応も捜査と同じで後手後手の感は否めない。そして現下の惨事を誰が予想しえただろうか。


「原田、また上の空だな」

「そりゃ、そうでしょ。近くにいたアメフトの学生が怯えるのを差しおいて、包丁振り回してる前科六犯のレイプ野郎を一発でのしたんだから」

SOSは巷に溢れているのに、人はそれに耳を貸す代わりに新たなる危険に身を宿したがる。麻理絵の言うように、傍観者は即ち罪人となっているのかもしれない。見て見ぬフリは奇々怪々な事件の温床となるのだから。

「鍛えてたからね」

「その腕っぷしって、何年モノですか?」

「ワインに例えるってこと?」

パタンッ

「タ、タイヘンだ!」

 麻利絵の武勇伝を煽るように下地がドアーを蹴破る勢いで入ってきた。慌てふためく顔を目の当たりにしたのは初めてだ。

「さ、佐々木がっ」

「美穂が?」

「そう」

「あ、ICUの」

「どうしたのよ」

「危ないのか? 危ないんだな!」

荒川がエラをいっそう張って身を乗り出した。

「い、命に別条はない」

「しゃべれるようになったの?」

「いや・・・ 新しい命が、お腹に」

人は忘却の許しを請うた途端、戒めから解放された振り出しにすんなり戻ってしまう生き物だ。事故や事件はそのものではなく、再び起きる蓋然性を許容することこそが凄惨だというのに。(了)

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