第3話

三章

刺された人間の罪悪感は、刺した人間のそれと、どれほどの温度差があるのだろうか。委託した会社と運行実施した会社の罪の振り分けが同等ではないように。

 早川千波が生きていた(・・・・・)証拠を掴むべく、わたしたちは東京にとんぼ返りした。

ヒロと名乗る男は本名江藤(えとう)宙夢(ひろむ)三十七歳―― 宇宙飛行士を目指していた父親が名付けたのだとホームページには記されている。

〈ヒロ・エンタープライズ〉は事故当初と同じ渋谷にあり、業務も以前と何ら変わりはなかった。現状では、あの事故の責任のすべては〈STS〉にある。

大手旅行代理店から旅の企画を依頼され、ざっくりとしたものを立案して伺いを立てた後にバス運行会社へとせっせと振り分けてゆく、いわば旅の仲買人である。そのプロセスで当然のようにディベートが生じ、早川千波からツアーの打診もあったという。大手旅行代理店を挟まなければ、互いに都合がいいことは何につけあるだろう。

「先ほど電話したものですが」

「ヒロさーん、お客様です」

ろくに顔確認もせず、受付の人間から受話器越しに手招きされ、わたしは数歩進んだ。ほどなくして、髪の先端部にだけ軽いパーマをあてた男が出てきた。襟に向けて伸びる後ろ髪の数本を金色に染めている。

「あぁ、あのときの刑事さん」

 江藤はわたしを見てすぐに頷いた。

「お聞きしたいことがありまして」

「では、こちらへ」

 オフィスは何枚かのパテーションで仕切られ、迷路のようになっている。旅行代理店とバス運行会社とでは通されるブースが異なるらしく、わたしたちは秘書室のような場所に連れて行かれた。早川の気配は、そこにはないように感じた。シュール・リーの香りもしなかった。

 山梨からの直行で、ドアーの先にたまっている鈍よりとした午後二時の陽だまりに目がくらみそうになる。

「いやぁ、わたくしどもも残念でなりません。運行会社には常日頃から運転手の健康管理にだけは万全を尽くすよう伝えてあるのですが、いかんせん、それだけではダメなようです」

ヒロは席につくなり、まるで他人事のように喋りはじめた。

「そちらに責任はないと」

「えっ・・・」

「すべては<STS>の責任だと?」

「それはわたくしどもが判断することではないですね。こっちは具体的な指示は出してませんよ。うちの労働条件が過酷というわけでもなく、誰を雇えとか設備や整備費を節約しろと強制したこともない。第一、できない。コレコレこういうバスの旅で出せる予算はコレだけって言うだけなんです。納得してくれる会社さんだけですよ、バスを走らせるのは。それに、アレは済んだことです」

 坂本同様に、どいつもこいつもさっさと幕引きをしたがる生き物だ。済んだと思っていること自体が忌々しく、事故も事件も金と謝辞だけで解決できるなら我々の機関など不要で、もしくは、その類の慣用句は彼らの辞書には存在しなくなっているのだろうか。

「あんなモノも出てきたんだし」

ヒロも誰が刺したのか刺されたのか行方知れずのナイフで、事故の真相を誤魔化そうとしている。

「あんなって?」

「ナイフですよ、ナイフ」

「それも済んだと?」

「済んだもなにも、事件性があるなら我々の管轄外じゃないですか。手引きに、運転手には一人一本ずつナイフを持たせるように、なんて書いてませんから」

「運転手は、恨みを持ってる人間を乗車させてはならないってのも書いてないわよね」

「刑事さん、何を言いたいんですか?」

「あなた、早川さんという方ご存知だよね」業を煮やした原田が目をしょぼしょぼさせながら割って入ってきた。

「早川・・・ えぇ、知ってますよ。葡萄新地の女風雲児ですよね」

「どういったご関係で?」

「お客さんですよ。うちに売り込みをかけてきた」

「売り込みねぇ」

「えぇ、ツアーの企画ですよ。東京から出るワイナリー・ツアーに、葡萄新地を組み込んでほしいって」

「勝沼には寄らないでってことですか?」

「そうです」

「近場で二つのワイナリーなんて寄れないってことだ。で、あのバスも彼女の持ち込み企画だったのかな?」

「いえ、あれは以前から決まっていたもので、旅行代理店から直で発注を受けた企画ですよ」

「その代理店に直接企画を持ち込んだ人の名は?」

「えーっと、聞いたんですが・・・」

「勝亦?」

「うーん、どうだったかな」

「ヒロさん、お電話でーす」と受付の女が顔を出した。

席を外したヒロはしばらくして戻ってきた。何処かに隠れている早川と打ち合わせをしたのかもしれない。

「勝沼の勝亦さんでは?」と再び原田。

「あっ、そうそう。確か、そんな名前でした」

「で、早川さんがこちらに立ち寄ってると葡萄新地のお宅で聞いたのですが」

「えぇ、彼女なら今朝来ましたよ」

「今朝?」

「そうです。少しでもいいから顔を出しておきたいって。彼女、押しが強いもんですからね。あぁいう人には、どうしても負けちゃいますよ」

 見回しても、シュール・リーの女の気配はなかった。

「今はどこに?」

「パリです」

「パリって、どこの?」

「フランスですよ」

「えっ」

「ドゴールにって言ってましたから、今はこの上あたりじゃないですか?」

 ヒロは呑気な顔で天井を見上げて言った。軽めのパーマが発熱球に触れて焦げそうだった。

早川はまたしても途中(・・)下車(・・)したことになる。わたしたちの捜査線から。




❤❤

刺された人間よりも先に、二人目の生存者が今になって現れたことに驚いたのは当の本人だろう。

「二人ともご苦労さん。早川、生きてたんだってな」

荒川が苦虫をかみつぶした顔で言った。

「そして、また消えた」

原田がいつになくシュールな顔容を呈した。何か勘付いているはずなのに、隠し事があるときには同等の仕草をはじめる。薄くなった頭頂部に触れる癖だ。

「一人だけ途中下車してんだよ。SAでバスから降りたものの乗ってなかったんだ」荒川が念を押した。

「途中乗車した早川がってことですよね」

「SAのレストランで見かけた人が何人かいる。しかも一時過ぎにだ」

「転落した後ですよね?」

「そうだ。バスから降りたが、再びは乗ってない」

「それに、搭乗者リストにもない」

「昼飯食って、SAまで迎えに来てもらったんだろうな。もしくはロボットタクシーでも呼んで帰ったのか」

原田は何故被刺体を執拗に探そうとしているのだろうか。被害者遺族を弔うためには、あらゆる状況を鑑みる必要はあるのだが。

「でも、あんな大事故だったのに、なんで連絡とかよこさないんですかね」再び原田が口を開いた。

確かにその通りで、対岸の火事とするには、あまりにも身近な事故である。

「知られたくないことがあるんじゃないのか。途中下車して、そのバスが転落事故起こした。そして、本人はなんの連絡もよこさない。そりゃ、もしもバスで人殺ししてきたら、なかなかなぁ・・・」

荒川が再び煎餅蒲団のような顔を広げた。

「それだと、自首になりますしね」と原田。

「そういうこと。ナイフの持ち主が早川だとしてだな。大胆だよな、人、刺してから何事も無かったかのように降りて、家に帰っていくんだからよ。切り捨て御免とは大胆にもほどがある」

「まるで、わしたが刺しましたっていう証拠、わざわざ残すようなもんですから。それに今はパリに逃亡中ってのも・・・」

「花の都で何しようってんだ」

わたしにも密室殺人でないことは理解できた。一人だけ燃え盛る炎をものともせずに途中下車していった大胆不敵な被疑者がいるのだから、これはむしろ公開殺人の部類である。

「もちろん、早川はまったくの無関係で、転落の拍子に‘ジューシー’が不意に誰かに刺さったって可能性もあるがな」

‘オレはやったぞ。遂にやったぞ’―― 

そうヴォイスレコーダーに残したのは木ノ内運転手であった。ナイフを残し、何処かへと消えた暫定被疑者。それが早川だとして、悠然と帰宅して自社畑のワインを味わいながら何を想ったのだろう。

 だが、果たして、その後でバスが転落して、しかも焼け尽きることが早川に想像できただろうか。もしくは福原の妻を殺害した証拠隠滅のために焼失を意図してトリシモンを仮眠室に忍ばせたのが早川だとしたら・・・。それをやり遂げたとして、動機たる福原への情愛は自社畑を焼くことを凌駕するほどの慟哭だったのだろうか。彼女にも一人息子がいる。資金繰りも順調で、勝沼のブランドイメージに便乗して甲州ワインのニュー・ウェイブの旗揚げをした今、彼女の満たされない感情がわたしには理解できない。

「ちょっと待てよ」と言う荒川に「あっ」とわたしは思わず声を上げた。

「だとしたら、リストと頭蓋骨の数、また合わんくなるだろ」

「そうですよ、部長」

「今度は誰かが勝手に乗ってきたのかな・・・」

早川が空の上で生きているとして、焼死体の頭蓋骨が再び一つ増えたのだった。




❤❤❤

彼女はまだ雲の上だ。葡萄新地の家政婦には原田のところに、本人でも旦那でもいいから連絡を入れるよう伝えてはいる。エールフランスHL7便のアムステルダムへの到着予定時刻は午後十時。トランジットの間に、電話をよこすくらいの余裕はあるはずだ。ナイフを持っていなかったとして。

原田は「病院に行く」と残して消えていった。母親の容態が急変でもしたのだろうか。

夜に、わたしは〈デイ・トリッパー〉でハルさんと落ち合うことになっている。囮捜査のようなものだ。この歳でよくキャバクラに務められるものと案じたが、潜入してしまえばこっちのもので、増えた頭蓋骨の謎が解明するまで、わたしにはやるべきが残っている。

荒川の指示で錦糸町に向かうところだった。

〈タクシー使うよな? 時間無いからロボットのほうがいいだろ、ローボータク!

〈ロボット?

〈急いでんだろ? 急いでんなら乗ってけよ!

荒川はいつになく強引であった。その意思を受けたように、青梅街道から滑り込んできたロボタクのドアーがきっちり四時十二分に開いた。少しでも時間がズレたなら、誰かがひかれそうになったかもしれない。

「オマタ・セシマ・シタ」

十二という数字は実に奇妙である。一年の歳月を指し、十二進法の軸となり、陪審員の数として法廷に上る。数のことだが、それ以上か以下でないと、罪も罰も相打ち(チャラ)で終わってしまう。事のはじめに偶数にした理由が分からない。当初、木ノ内とナビゲーターを除いた乗客の死亡人数は二十四だった。

「オキャ・クサン、ドチ・ラマデ?」

「あっ、えーっと、猿江まで」

「リョ・ウカイ・ピー・ポスー」

 わたしは今更ながらタクシー・パイロットが直接喋ることに驚いてしまった。背中に職種が刻印されているわけでもなく、ここ最近は電車かバスにばかり乗っていたから余計にかもしれない。公道でロボットタクシーに乗るのは初めてである。全社会的自動運転システム〈GAMS〉が軌道に乗ったなら、最初はきっとロボタクに戸惑うことだろう。パイロットよりも、乗客がまず従順になることは明らかだ。

木ノ内運転手はわたしにとっての被疑者ではあるが、元は被害者ではなかったか。署で三杯目に啜った眠気覚ましの珈琲が泥のように苦く、そう考えたわけではない。彼は悲惨な過去を助手席に携えながら走り続けてきた。車輪だけ履かされ、後は素性のしれない中央管制塔から指示が出されるブレーキをもたないバスのような人生を。

これまで三組、計六名の遺族宅に慰問と称する聞き込みに入ったが、彼らと木ノ内との確固たる接点はまだ確認できていない。輸入食品代理店勤務の静石美晴と親が土建業で、レストラン経営を任されていた福原弘樹にナイトラブの宗田樹里。合計八枚のワイナリー・バスツアーのチケットが送られていたことは確かだ。加えて十三となる五人と、これまでの被害者との関連が明らかになり、尚木ノ内と接点があればわたしの勝ちで、捜査線から途中下車した早川が福原を刺したと自白したなら原田の勝ちとなる。だが、早川はフランスへと旅立ってしまった。もしも相打ち(チャラ)となるなら十三人目の陪審員が裁けばいい。

〈――えー、クライマックスに入ってからはですね、桐島選手の調子がまったくあがってきませんね。九回まで再三のチャンスを潰している/あれほどシーズンはバカバカ打ってたのにねぇ

タクシーのラジオから野球中継が流れていた。決着がつくまでとことんイニング無制限でやるメジャーリーグと異なり、日本のプロ野球は十二回で打ち切りとなり、引き分けがその試合の結果となる。ポストシーズンのゲームがすべて延長の末の引き分けだとしたら、決着はいかにしてつけられるのだろうか。

「アリガ・トウ・ゴザイマス」

「あっ」

「お客さん、ごめんなさい。今、ロボットタクシーの試乗運転サービス中でして」

 それは前もって分かっていたことだが、助手席で何かに遠慮するように人間が気配を消して乗車していることに驚いてしまった。彼はロボットではないのだ。

「あっ」

「あぁ、どうもどうも。テレビに出ていた美人刑事さんですね」男の妙な微笑がバックミラーに写る。わたしが苦笑いすると、彼は少し後ずさったように見えた。ロボットは無表情のままだ。

「ネットニ・モ・デマ・デシタネ」

「すみません、文節切るのが下手なもんで。運転もわたしがしたほうがまだマシなんですけどね。一応、人間ですから」

「はぁ・・・」

「家まで来るんですよ」

「イクヨ、クルヨ」

「誰がですか?」

「こいつですよ」

「コイツッテダレヤネン。クルヨ、イクヨ」

「ねっ。ちゃんと時間通りに玄関に出てないと、怒られちゃうんですよ、わたしが」

「ダレガイ・カルチュウ・ネン」

「そーれーはおこーる」

「オコルモイカ・ルモオナジ・カンジョウ・ヤンケ・カンジョウワ・カンジョウデ」

「勘定は感情で・・・」

チップのことではないだろう。

「便利は便利なんですけど、わたしら逆にやることが増えてしまったんです」

「ムカ・エニイッタ・トチ・ュウデ・ノッテモオ・リテモ・カネワ・ハラエ」

「俺の給料からひかれてんだろ」

「ビジン・ハ・タダデ・モイイ」

「御世辞、うまいわね」

「ヨクイ・ワレ・マス」

猿江につく頃には、スカイツリーにすっかり色彩が灯っていた。

「マイドオーキニ」

 助手席にいたロボット助手は、会社を解雇されたら誰を恨むのだろうか。




❤❤❤❤

四組目の被害者遺族は、食事を終えたところだったのだろう。微かなカレーの匂いが玄関框に漂った。我が家はカレーライスを作り置きしてあるが、これはできたてホヤホヤの香り。息子の為にと、和風にキーマ、時に中央ヨーロッパ風ヨーグルト入りとレパートリーはあるものの、カレーなんて料理じゃないと父からよく文句をつけられたものだ。我が家の場合は時間なきを言い訳にした‘手抜き手作り料理’と言われても仕様がない。わたしの息子はどのタイプのカレーのときでも焼きそばをセットにしてほしいとせがむ。

 その母親が姿を現すと同時にアルコール臭がエスニカルな匂いと混じった。

「あぁ、あのときの刑事さん・・・ ふーん」

声はなんとなく聞き覚えがあるが、木村(きむら)多香美(たかみ)のことを何処で見たのかは覚えていなかった。あのバスに乗って被害にあった木村(きむら)猛(たける)の母親である。猛はスーパーマーケット勤務とあった。早くに亡くした産婦人科医の夫の保険金で食いつないできたのだという。彼女は今、孤独の時間を生きている。

「この度はご愁傷さまでした」

「そう言われると、あの子のこと思い出しちゃうのよ・・・」

「すみません」

「うーうん、反って嬉しいときもあるのよぉ。嬉しいってのも変だけど、テレビとかパソコンは見ないようにしてるのよぉ。だから、直接、息子のこと聞かれたほうがラクだなぁって。ちょっと、変でしょお」

「い、いえ・・・ そうでしたか」

「でも、こういうのが目に入るとね」母親は鼻先で封書を指した。それは埃を被っており、事故以来ずっと置かれていたことがうかがえる。

「ディーエムですか?」

「えぇ、六月の初めに、あのツアーのチケットが送られてきて。懸賞かなにかで当たったって思ったんだけど、違うって言ってたわ。覚えがないって。でも、詐欺っぽくもないし、行ってみようってことになって。梅雨が明ける頃で、あの子ってワインとっても好きでしょ」

「息子さんはずっと〈スーパー・ゴトク〉に勤務を?」

「いいえ、以前は介護職員でした。優しい子でしょ。皆さんからも慕われてたのよぉ。誕生日には折り紙でつくったカレーライスを施設の方からプレゼントされたりね。ホント、優しい子だったのよぉ」

「場所はどちらだったのですか?」

「府中よぉ。勤務が不規則でしょ、だから、どうしても通えないって。もぉう、アパート借りてあげたの。一人じゃなんにもできないでしょ、男の子って。そりゃ心配だったけど、仕事が仕事でしょ。でも、あの子が独り立ちするには良い機会かなぁって」

「他のお三人とは仲が良かったのでしょうね」

「そうそう、あの子、わたしを誘わずお友達といっちゃうんですもん。みんな同じ会社だったから」

「府中の?」

「そうよぉ、今度の旅行は同窓会みたいなもんだって」

わたしはハッとしてカレーの臭気を吸い込んでしまい、ゲホゲホッと咽(むせ)た。木ノ内はやはり、乗客に対して何らかの殺意を抱いていたのだ。

 思いとは裏腹に、猛の遺品を差し出した。眼鏡のフレームである。彼はレンズを通して、木ノ内の何を見ていたのだろうか。

遺品を見るでも見ないでもなく「刑事さん、お酒って呑みますぅ?」

最近は機会が増えてとは言わず、手で制した。知らぬ間に木村多香美はワイングラスを手にしていた。アルコール依存症となっているのだろう。

「わたしも呑むようになったのよ、ワイン。一滴も飲めなかったのよぉ。これでもね。あの子が行くはずだった鳥取のワイン。とっても、おいしいの。波の音が聞こえるらしいのよぉ。刑事さんもどぅお、一杯」

「勤務中でして」

「そうお、じゃあ、わたしいただくから、ちょっと待ってくださる。あの子と他の子が写ってる写真持ってきますわ」

 キッチンで何杯か浴びたであろう母親が、新たなボトルとともに戻ってきた。シャツをたくし入れたロングスカートはカーテンのようでもあり、風に揺れる度に床と擦れている。

「ワインってホント美味しいわよね。ねぇ、そう思わない」と、わたしにグラスを差し出した。息子の死を受け入れたくないのだ。

「いえ・・・」

 四人が肩を組んで笑っている写真は〈介護施設府中グレープ園〉を背に撮られていた。房のロゴマークと紫色した屋根帽子が印象的である。

 府中の寿町は、木ノ内が住んでいた場所に近い。

「みんな仲よかったわ。バラバラになっちゃったけど、ホント仲良し。困ってる人へのお弁当の配達も、みんなで力合わせてやってたのよぉ」

 わたしは急にサービスエリアでかき込んだラーメンを戻しそうになった。

「む、息子さんは、どんな?」

「あの子は園では手配係。この男の子が配達で、あっ、この娘さんといっしょに外回りかな。で、この女の子は総務だったかしら」

「そうでしたか」

「合理化、合理化ってよく話してたわ。介護って仕事は看るだけじゃダメなんだって。ミルってアレよ、看護師さんのほうね。朝起きてから食べて寝るまで、ぜーんぶの世話をしてやるんだって言ってたわ。そのなかでも食べることがイチバン、とっても大切なんだってぇ」

「えぇ」

「これからって時に・・・。あのバス! ナイフがどうのこうのって、運転手がなんだっていうのよぉ。そんなものが何だか分かったって、あの子は帰ってこない。もう二度とわたしの腕のなかには」

 そう言って母親は埃まみれの廊下で滑るように泣き崩れた。実際に滑ると、散乱したゴミ袋から腐った臭気が拡散した。

「わたしが運転してあげりゃよかったのよ。上手いのよ、わたし。乗ってたんだもん。あんなジジィが運転するなんて書いてないでしょ、どこにも。卑怯よ。どうせなら、みんな死ねばよかったのに。死にゃよかったんだよぉ!」

 ボルドーワインが急流のガロンヌ川のようにチャコール色した廊下を流れてゆく。靴下が痛風患者のように紫色に腫れあがった。

「それでは失礼します」

「刑事さんって、眼鏡しないのかしら」

「し、してません」

「じゃ、カレーでも食べない・・・ いっしょに」

廊下越しのリビングの窓の先には、泣き出しそうな三日月がポッカリ浮かんでいた。わたしも同時に、半分閉められたカーテンの横にポツネンと映っている。遺族の肩越しにいる自分は、いったい何を裁こうとしているのだ。瞳に答えが映るのを恐れ、玄関ドアーの向こうへ姿を隠した。

 木ノ内から贈られたチケットが暫定十二枚となった。陪審員と同数だ。そして木村猛は、あの中毒死と何らかの関わりがある。






オレは荒川に轢き殺されそうになった。一秒遅れなら、このヤマもろとも葬られたかもしれない。

「乗るよな?」

清澄通りから急に、立志交差点手前でユータンして窓越しにそう言った荒川。過失致死は致死でも、それが転落した上での圧死に加えて焼かれたとしたなら、最期の恨み節さえぶつけることなどできないではないか。

八王子の病院から呼び出され、臨海ふ頭に向かうところだった。まだ、早川千波からの連絡はない。

「乗りたいみたいだな!」

「殺す気ですか?」

「コレが解決しなかったらな」

 荒川は柄になく焦っている視線をハンドルに落としたから、黙って助手席に体を滑らせると急発進。

「おっとー」

人のクルマに乗るとつくづく思うことがある。行く先を知らされていないと漂泊の想いに駆られてしまうこと。そして、ハンドルを握った瞬間、人が豹変することだ。

「こんな感じだぜ。あのドライバーのテクニックは」

 笑いながら風とハンドルを切りだした荒川は臨海ふ頭を東京湾に沿って疾走しはじめた。ブレーキが利かなければ、惰性でどこまでいってしまうか計り知れない。ジェームスディーン気取りでチキンレースしてる暇があるわけでもなく、オレは荒川のデスクに飾ってある一枚の写真をふと思い出した。北海道のラベンダー畑をバックにナナハン(750)に跨っている奇妙な微笑だ。機動隊員をしていた頃、ランボルギーニをチェイスして落とした(・・・・)武勇伝を橋倉から聞いたことがある。

「おまえ、追えるのか?」

「どのみち刑事ですから」

「逃げ足、でら早いぞ」

「オレも大型はわりと乗ってるほうですよ」

「暴走族追うのとはわけが違うぜ」

丸金デイビット悠斗、二十七歳。このヤマに途中乗車(・・・・)してきた三人目の人間である。沖縄駐留アメリカ人の父親を持ち、京都生まれとあった。容姿端麗で元レーサー。どう転んでもモテる男の顔立ちをしている。

そして、佐々木美穂のラスト・メッセージを受け取った男。

〈今度ドライブに行かない――

「ただな、丸金はその日、テストドライブしてたんだ」

「アリヴァイがあるってわけですね」

「そうだ。お台場サーキットで<GAMS>だ」

「お台場で?」

「あのツアーの前日に〈新宿ニュー・イパンシアホテル〉で会ってる。佐々木美穂はその足でバスに乗り、丸金は講演会に出てる」

「山梨の?」

「いや、お台場でだ。〈GAMS〉の乗り方人間に教えるロボットのお目付け役でだぜ」

「そいつも、早川と同じタイプの人間ですね」

「ナイフってことか?」

「いえ、二人ともバスに知り合いが乗っていたのに騒がない」

「知り合いねぇ・・・」

「そいつは何処に住んでるんですか?」

「名古屋だ。オレの故郷だて」

東京湾を挟んだ川崎の工業地帯で縦横無尽に旋回するクレーンの群れがフロントガラスに迫ると、荒川の声のトルクがうねりを上げて大きくなる。

「ったく、ロボットに人間様がテストされるなんてなぁ」

「こっちも毎日試されてますよ、被害者に。人間が人間を感情剝き出しで裁いていいのかってね」

第四十三倉庫ゾーンを吹っ切ると、荒川の声がさらに大きくなった。妖精の異名を持つスポーツカーはアクセル全開になっていた。

 佐々木美穂はあの日、丸金という男と密通していたのだ。

「どう裁くんだ?」

「物証はありますよ」

「指紋は残ってないけどな。つくるのか? あっ、ハルさんに迷惑かけんなよ」

「つくるわけないでしょ」

「どうだろな」

「あとはアリヴァイ崩しと自白ですよ」

「その気にさせんとな、佐々木も」

スピード感とは裏腹に、オレは海面を歩く錯覚に陥った。

「で、金属ボルトは分かったんか?」

「福原宅に早川の写真があったんですよ」

「なんで、今朝言わんかった」

 えっ、という一瞬の躊躇いの後、荒川はギヤをセカンドに落とし、ドリフトのごとく北北西へ方向転換した。オレを正気に戻すように、歪んだタイヤがきな臭い匂いを放つ。

「藤澤の野郎も、なんも言ってなかったぞ」

「思うところがあるんでしょ」

「パリから電話はまだか?」

「まだです」

「早川と福原、できてたんじゃないか」

「それも自白してもらわないと」

「そっか。あと、ハルさんと高速の人間洗ってみろ」

「バスのですか?」

「いや、七月十四日に中央道走ったすべてのクルマだ」

「パリ祭の日の?」

「そういうこと。オレは行くとこあるでよぉ」

「どこへ?」

「本場のワイン飲みにだよ」

「パリに蕎麦屋なんてありましたっけ」

「花の都だ、なんだってあるさ」

 何かの拍子に急ブレーキがかかった。この車は新宿中央署が遠隔操作しているのかもしれない。

「パトカーに〈GAMS〉積んでたら逃げられてまうよな、ホシに」

「心臓、止まっちゃうじゃないですかぁ」

「毛、生えてんだろ」

「まったく・・・」

「あとな」

「なんです?」

「あいつの親父、刑事だったんだよ」

「誰のですか?」

「藤澤のだ」

「は、初耳ですね」

「親父さんとは天と地の差ほどあるからな」

「刑事らしくないですからね」

「殉死したんだよ」




♣♣

 オレは羽田で荒川を見送り、その足で佐々木の夫を訪ねた。特別仕様のフェアレディZは低床なことをのぞけば、乗り心地は申し分ない。プロのドライバーを追い詰めるとして、あとはオレの技量次第だ。 

佐々木(ささき)実(みのる)は会社にいた。家や病院を訪ねて身構えられても困るから、抜き打ち的に銀座に在るオフィスに向かった。一見無関係と思われる人間にメスを入れるとしたら、オレも木ノ内に執心の麻利絵と同類ではある。夫がドライバー(・・・・)を恨んでいるとして、‘招待状’の発送を食い留めなければならない。もしも受け取り済みであったとしたなら、先回りして彼ら(・・)の動向を見張る必要がある。

 埠頭からさほど離れていないのに、この街には潮気を追い払ったビジネスの匂いがする。マスカラに洋モノのパフューム、時を経たディップにランチの店から歩道になだれ込む揚げ物の匂い。隙を見せて停車したなら、助手席に土足で上がりこんでくるからやっかいだ。

佐々木実は仕事人間であった。美穂と結婚後も変わりなかった。家庭を顧みず、両親の一切の面倒を美穂に任せていた。何よりも孫の誕生を夢見てきた義父母は同居後ほどなくして‘不遇’の嫁をイビリはじめる。最初は、名古屋のお嫁さんもらうなんて、いったい幾らかかったって思ってるのよ。いったい―― といった程度であったのが、不妊治療がままならなくなると、徐々にエスカレートしてゆく。生活費や食費を自らの貯金で賄えと言われたという一文もSNSにあった。舅のレイプ疑惑まで浮上すると、痴呆が進行していくなかでの行為であったとして、美穂には恥辱であったろう。

二〇一一年の夏。佐々木実は名古屋の大手自動車メーカーの広告を請け負うこととなる。東日本大震災後の事案で、クライアントは政府主導で推進している〈GAMS〉型自動車開発の一翼を担う〈出水原モーターズ〉だ。配偶者同伴の新車発表会で美穂と丸金は出会い、親密な関係を持つようになったのだろう。ちょうど、その頃から‘ミッポン’というハンドルネームで佐々木美穂はSNSをはじめている。

オープンカーの幌を開くと、薄黄色の銀杏がオレの瞼を覆い、急に白が欲しくなった。グローブボックスには銀のフラスコが横たわっていた。この〈ムルソー〉の酸味は、まるで口径から鼻孔へと抜ける間にひと芝居打っているよう。二杯目は水分と果実味が分離した感覚に襲われ、これもまた独特の味わいだ。極上の酸味と深淵なる甘味のバランスなら、こいつも負けてはいない。2013年フランス〈フェルナン・アンジェル〉のリースリングだ。他のネゴシアンのワインもそうだが、オレはグラーブは赤よりも白を好む。カシューナッツに加えフルーティーな味わいを醸しながら、不意にもたもたした甘味を払拭してくれる酸味とのバランスも絶妙。デザートワインでありながら辛口としても飲めるタイプで、和食コースの中食酒としての相性も悪くない。

ブブブーッブー

「おい! 急かすなよ。殺人犯逮捕するよりも急ぐことってあんのかよ!」

クラクションがオレを‘爆買外人’と間違えたようで、すぐにクルマを移動させた。銀色のフラスコなどそこにはなく、少し微睡んでいたようだ。昨日からの疲れに、尻がドライバーズ・シートに挟まったまま抜け切れていなかった。泥のように眠るとはこういうことを指すのだろう。まだ、ワインのようにヤマは発酵してはいないのだが。

日が暮れる頃、革靴の乾いたソウルが跫音(きょうおん)しはじめると、街の匂いは急に酸味を帯びはじめる。十分後に佐々木実が足早に出てきた。

「今日はお見舞いじゃないんですね」

「あ、あなたは・・・」

実は驚いたそぶりを見せたが、オレが現われることくらいは何日も前から予想していただろう。

「えぇ」

数秒後には口元が落ち着きを取り戻していた。大学時代は書道に興じていたという。仕立ての良い英国製スーツに、生真面な印象を持った。

「こういうものです」名刺を差し出した。

佐々木実は一瞬、携帯に手をかけようとしたが、それは差し出すのではなく隠すためであったろう。

「あぁ、刑事さん。男の・・・」

オレは恍け顔で「藤澤という者からもお話がいってると思いますが」

「えぇ」佐々木実も曖昧に返してきた。

「ほぼ、遺骨の身元が判明しているんです。一人をのぞいて」

「そうですか。うちのはまだ回復しませんけど」

「お顔以外は?」

「まだですよ」

「筆談はできますか?」

「ひ、筆談・・・。瞬き以外は動かないままですよ」

「うなずくこともできませんか? イエスとかノーで」

「そ、それもまだですね」実は少しおののきながら言った。

銀杏が数個、みゆき通りの並木に落ちた。もう、すっかり秋だ。ハロウィンでドンチャカ騒ぎに興じる頃は収穫の季節だ。

「現場でですね、奥さんのお顔が他の遺体に焼かれるようにしてあったのです」

「聞いてますよ。それこそ偶然でしょ。あんなに激しく横転して、元の席にいたわけじゃない。藤澤さんもそう言ってましたし」

「おっしゃる通りです。ただ、それが本当に偶然であったかどうかを知ってるのは奧さんだけなんです」

 続々とサラリーマンがオフィスビルを後にする。先約のある者は、また異なる匂いを引き摺り、そして纏い直す。タンニンの強いワインレッドがあれば、桜のチップを燻したような趣に、あえて果実味を混ぜたアヒージョの醸香。酸いも甘いもシュール・リーに似た澱を帯びる都会の香り。

「刑事さん、奥さんはいらっしゃいますか?」

「いえ、まだもらってませんが」

「夫婦ってのはね、時間が経つと目と目で会話ができるもんなんです。食事のときやトイレのときも眼差しで分かりますよ。あぁしてほしいとか、こうしてほしいとかもね。食べたいと思ったものをダブッて買ってきてたりする」

「トマトとか?」

「そういうことも、ありましたね。だけど、今は美穂が何を思ってるのかまったく分からない」

 夕刻の喧騒に嫌気がさしたようにヒヨドリが一羽、スポーツカーのボンネットに降り立った。

「実はお聞きしたいことが出てきまして」

「なんでしょう」

「ナイフのことなんですけど、刃が欠けていたのです」

「欠けていた? あのナイフがですか?」

「えぇ。何かを刺したのかもしれません」

「転落した拍子に欠けたのでは?」

「人を刺した拍子かもしれません」

「誰を?」

「それはまだ分かりません。ただ、それを知っているのは奥さんだけのような気がするんです。お顔だけが・・・」

「妻が・・・ 美穂は被害者だよ」

「奥さんは目線で何かおっしゃってませんでしたか?」

「目線って」

「この人をご存知ですか?」

 オレは丸金と早川の写真をズラして見せた。

「いや、わたしはその男(・・・)は知りませんね」

 同時に、幸か不幸か佐々木実の電話が鳴った。

「ちょっと失礼」

 焦げても故障してもなかった。実は丸金と面識があるのだ。

〈――乗り心地はいいと思いますよ。詳細はメールで送っておきますので、じっくりご検討ください

「ちょっと、わたし急ぐもので」

実は取り繕うのではなく、本当に急いでいる目をしていた。ハンドルを握ったときの雄の目付きだ。

「お忙しいところすみません。どちらかへ出張ですか?」

「いや、そう遠くはないですが」

「新幹線なら一駅ですもんね」

「・・・」

「では、奥さんが眼差しで喋れるようになったら、ご連絡ください。携帯電話からでもけっこうですので」

「分かりました」

 銀座から丸の内に向けて連なるビル群はオレのことをただ見下ろすだけで、何も喋ろうとしない。目線を合わしても無言のまま、人の群れをビル風に乗せてテールランプの行き交う晴海通りへと掃き出していた。






白日を反転したように、その街は午後六時を過ぎると一気に夜と化した。微明の存在はなく、クラブやら夜の店のネオンが錦糸町に煌々と灯されてゆく。

ストームの影響で遅れが生じたらしいが、早川千波はパリに着く頃。連絡を待っている間にやるべきは山ほどある。これも‘ついで’の処方箋というもの。夜の蝶たちの控室は発酵後の葡萄に泥を混ぜたような匂いがプンプンした。これは原田の言うシュール・リーとは異なる臭気だろう。

「あっ、この子、新人のハズキちゃん。いろいろ教えてあげてね。この人はお店のナビゲーターでライムちゃん。月の滴って書いてライムって読むのよ」

蛇の目付きで女言葉を多用するマネージャーが事務所を後にした。くねくねっとした身体つきで、賄飯を山盛りで食うのにちっとも太らないタイプの男だ。 

わたしは宗田家を訪ねた日から十日間、新宿の系列店で講習を受けてきた。その折にライムとは知り合っている。彼女は彼女でリーダー研修を受けに来ていた。懐に飛び込むには良い機会である。

「まさか、ここに配属されるなんてね」

「そうですねー、ライムさんがいるなんてビックリビビンバですよねー」と両手で額を打っておどけてみた。

「この店ね、新宿よりしつっこい客いるから気ぃつけたほうがいいよ」

「免疫はありますよー」

「えっ?」

「前にこの町で働いたことあって、ダマされたりしちゃったりしてますからー」とモヴァイル・フォーンの合成写真を見せた。

「あぁ、この人ね。福原さんっていったかな。前はよく来てたなぁ。ガタイのいい人で、お財布もいつも膨れてたよ。アッチといっしょにね。あんたも、それに引っ掛かったな」

ライムは人の不幸が好物なチーターの目付きを呈した。

「そ、そうなんですよー」

「あんな大きなガタイだから、騒いでるとすぐバレちゃうのにね。よっく触られたなぁ、わたしも」

ライムが自分の太腿を目で指した。網目の粗いガーターから今にも腸詰めされた肉が飛び出そうだ。

「女の子に触るとね、マネージャーが目ぇつり上げてチラチラ睨むんよ」

「いちばん触られてたのって、やっぱライムさん? でしょー」

「まっさかー、タイプじゃないしー」

「じゃ、ジュリ? たしか宗田ぁ・・・」

「へーぇ、宗田ってんだ。ミリーのことでしょ。本名まで知らないけど。電話で誰かと話してるとき、‘ジュリ’はねぇってよく言ってたから、下の名はそうなのかも」

「で、ミリーを指名してたと」

「そうね、福さんが多かったかな。ミリーはいつも五番以内に入ってて、パパの指名なきゃ生活できなぁい、って言ってたから。でも、彼女のオッパイ、触ってるの見たことなかったなぁ。デカイのにね、あの子。なんか、ひと通り騒いだあとはいっつも神妙な顔して二人で呑んでたわね」

 木ノ内から福原家に贈られた‘招待状’は五枚。晋次宛てであったが、実際にツアーに行ったのは親子三人だった。同様のチケットは宗田宛てに二枚。先日、間男の小松に確認済みだ。宗田はネジ工場に勤めていた頃、夜はこの店で働き、乳癌末期の母親の治療費に充てていたという。そして、ここで福原晋次と出会った。小松はデータを紛失したと話していた。その秘匿のUSBで二人はつながっていたのだ。

「ちょっとぉ、あんたたちぃ」とマネージャーが急かしに戻ってきた。夜の花咲かせよ、の合図だ。

「じゃあ、頑張っていってきまーす」

「待ってよ、ハズキちゃん」

マネージャーに呼び止められ「なんでしょう?」

「あなた、あんまり笑わないほうがいいわよ」

「皺・・・ でしょうか?」

「いいーえぇ、美人は歯茎見せないほうがしまって見えるから」

 この‘潜入正体’は、まだバレていないようだ。

「いらっしゃいませー」ホールで羽を拡げた蝶たちが色つきの声を振りまき、蜜に誘われるように客がなだれこんでくる。

――ハズキさん、三番テーブルご指名入りまっすぅ

下地治夫は時間通りにやってきた。ラボにいるときよりも、どことなくウキウキしている感じがした。

「いらっしゃいませぇ」

「まさか、麻利絵ちゃんがねぇ」その声は下地である。ケーキの他にも土産があるだろうか。

「仕事よ、おーしーごーとー」

「いやいや、意外に似合ってるなぁって。覆面にしちゃ、なりきってる感ありありだよ」

 下地はわたしの欧米風の簪からスリットまで視線を滑らせた。

「なになに、ハルさんだって、よく行くの、こういうとこ」

「まぁ、仕事よぉ、仕事。相棒は?」

「ご指名の女がフランスだから」

「そうだったな。名無しの女がまた消えたんだもんな。あいつが客のほうがよかったんじゃないの、麻利絵ちゃん」

「わたし、ハズキよ」見透かされた気がして、ディーエムの話にすり替えた。

「木ノ内、バスの乗客のお宅に直々に送ってたのよ」

「なにを?」

「ディーエムよ」

「ディーエム?」

「そう、顧客リストから割り出してツアーの営業してたの。それって、ドライバーのノルマなんですって。坂本トラフィック・ソリューションでは、そのポイントで昇給できるシステムがあるのよ。一定以上の成績上げればだけど」

「ボーナスが欲しかっただけじゃないのか?」

「身銭きってるの。彼がワイナリーツアーのお金出してるの、自分で。だから、殺人リスト作って誘いだしたんじゃないかなって」

「死のドライブへの招待状ってことかい」

 わりと、下地の思考が飛びつくような発想であった。

「でもなぁ、単なるノルマじゃないのか。クリアできなかったら自分で被るっていうシステム。居酒屋の忘年会とかも、数が合わないと予約の連絡受けた従業員が給料から天引きされるんだってよ、近頃は。コンビニだと豆まきのシーズンは恵方巻きだ、クリスマスはチキンの予約だって高校生のバイトにノルマ出すんだぜ。うちのせがれの会社もノルマノルマで、達成できないでサービス残業ばっかしてやがる」

「そんな、ろくすっぽ給料もらってない人がしないわよ。月給が十万そこそこで、ツアー代に一人十万。十二人で百二十万も払うかな」

「麻利絵ちゃん。いや、ハズキちゃんの推察だと恨みをはらすってのは随分と高くつくやな」

「まぁ、そうなるわね。過労とか労働条件もあったが故の運転ミスだって言ってるけど、ヴォイス・レコーダーに‘オレは遂にやった’って宣言してるわけだし、これで二つ目の物証が出てきたことになるでしょ。やっぱり、死に際の人が断末魔にそんなこと言わないわよ。確固たる殺意があったのよ」

「殺意・・・確固たるって、それこそ自爆テロじゃないか」

 ヴォイス・レコーダーと同僚の萩原に乗務交代を事前に申し出た計画性、そしてディーエムがある。後は十二枚のチケットを持っていた人間の相関図が分かれば、被害者への弔いとなる。

「やっぱり、ハズキちゃんは乗客にも非があるって言うんだね」

「まぁ」

「でもな、みんな亡くなった今な、運転手に全責任を負わせるのってどうなんだ・・・。今さらってのも変だけど、殺しでもないわけで。それに手術歴のある人間は乗ってなかったんだよ、あのバスには」

「えっ?」

「誰も手術はしてない。プレートを入れるような大手術はな」

「早川さんも?」

「そうだよ」

わたしはバーボンソーダを満たしたグラスを握りつぶしそうになった。

「ホントは、そっちを追ってほしいんだけど。おじさんとしては・・・」

「だったら、刺殺事件じゃないなら、余計に木ノ内を追いつめないと」

「浮かばれないよな・・・ 名無しの遺骨が」

――ハズキさん、六番テーブルご指名でっすー

 そこにはライムと官僚気取りの男がいた。国家権力を名刺でひけらかすタイプの人間

だ。二階堂と名乗る男が洗面に立った後「あいつ、イヤなやつ」ライムが耳打ちした。

そしてアイスペールにトングを突き刺した。

「ねぇ、思い出したよ」

「何を?」

「福さんじゃなくって、ミリーのお気に入りは他にもいたの」

「別の人?」

「うん。福さんと同年代だけど、どこか・・・」

「暗い?」

「明るくはなかったかなぁ。だって、バスの話ばっかりするんだもの」






死人に口なしだが、生存者の口はいっそう硬かった。

 佐々木美穂という女は美形ではないが、色白でコケティッシュな雰囲気が男受けしていたらしい―― まだ特別病棟にいるからマスコミの受け売りではあるのだが、以前の写真を見る限りでは確かにそうだ。夫、佐々木実とは職場結婚とあった。熟年期に入るなかで、夫婦の生きるべき道標は何を指していたのだろうか。佐々木美穂には家庭の憂さをどこかで晴らしたいというか怨念めいた性欲があったのかもしれない。性由来としてではなく、間接的返報としての浮気は許されざるべきだろうか。

幸せな家庭というものをオレは味わったことがない。掛け値のない女からのプレゼントも、階段下で嗅ぎ付ける夕飯の匂いも運動会や学業で褒められたりしたこともなく、ここまできた。凍えるような寒い気持ちになった日に、誰かに抱きしめられた記憶さえない。

犯罪者を落とし(・・・・)たことの褒章は、人ではなく国家から手渡されるものだ。佐々木実が美穂を丸金デイビットに寝取られた喪失感も分からんではないが、それを諌(いさ)めるのは素人の持つ刃(やいば)ではないだろう。

麻利絵のいない日の現場で、オレを最初に駆り立てたのは佐々木美穂の携帯電話だけが消えて無かったことだ。他の被害者の携帯はもろとも焼け尽くされており、ケロイドからDNAを採取することが困難なことと同等に、通信履歴を回復するには時間を要した。だが、佐々木美穂のモヴァイル・フォーンだけが、その欠片さえ未だ見つかっていない事実。過重漏電によって葡萄畑で昇天したわけでもメーカーの人間が慌てて持ち去ったわけでもない。誰かが拾って意図的に持ち帰ったのだ。

佐々木実は、まさか妻が顔中心に焼けただれる災難に会うとは努々思ってもみなかっただろう。証拠隠滅そのものも、また物証となってしまうことに彼は気づいていない。もう一つ、体に蔓延った物的証拠はオレの手元にある。今になって、早い段階で佐々木美穂の体液採取をしておいたのは正しい判断であったと思う。

 佐々木美穂が‘遺骨’を抱いたまま、一人生き残ったのは偶然ではない気がしてならない。麻利絵の思考を借りるわけではないが、運転手に殺意があったとして、増えた頭蓋骨の持ち主は、佐々木美穂に対してなんらかの殺意を向けていたのではないだろうか。そして麻利絵の所感というより、オレはこれまで自然にアドヴァイスを受けてきたといえるだろう。本人が物証なのよ、と麻利絵はよく口にする。ヴォイス・レコーダーの自白に、計画性がうかがえる乗務交代の事前申し出、送り付けられたDMが物証というなら、美穂の体に残っていた、夫とは異なる男の精液もまた何らかのメッセージを発する物証となるからだ。

だが、今は暫定被疑者たる早川千波と、佐々木美穂とは接点がない。二人の共通項は、あのバスの乗客で、生存者であるということだけだ。

 ラボに入ると、下地は椅子の背を向けてふんぞり返っていた。

「おまえ、またやらかしてくれたな」

「ハルさん、ご機嫌ナナメじゃん。キャバクラに行くなんてさ。藤澤さんの酌は気に入らなかったのかな・・・」

「バカ野郎、酌はシャクでも解釈だろうがよ」

「えっ?」

「とぼけんなよ。佐々木さんから盗った(・・・)ろ」

「なにを?」

「彼女(・・)の(・)操(・)だよ」

「ハルさんも随分ロマンチックなこと言うじゃんか」

 ラボの未決分保存庫〈ELOV〉にオレは佐々木から採取した体液を忍ばせていた。

「からかうんじゃねぇよ。今度、ミスったらオレもクビだぞ」

「だって、唯一、焼けてない物証だよ。でっちあげたわけじゃない。現場に残されてた(・・・・・)ものだぜ。ハルさんなら何とかしてくれるって」

「そいつで、誰に罪着せようってんだ。佐々木の夫か、それとも途中下車した女か? それじゃ・・・」

「いや、ドライバーだよ」

「ドライバーって、まさか・・・。おまえさんも麻利絵ちゃんと同じように木ノ内がナイフ持ってたって考えだしたのか」

「いや。もう一人のドライバーだ」

「もう一人?」

「そう。腕の良い、事故を避けるタイプのね」

ルルル と電話が鳴った。

「おまえさんにだ」

「オレ?」

 電話をとったがすぐに切れてしまった。もしくは切られてしまったのかもしれない。






 人の寿命の限界は百二十五歳だという。食品事故で命を断たれたとしたら、健康食品会社主催〈百才枠オリンピック〉のエントリーシートさえ出せないではないか。

東京都大田区蒲田三野町四丁目。下地によると、辺りはまだ異質な空気に包まれていたという。

宗田樹里の勤めていたネジ工場〈佐久間ファクトリンク〉は介護施設向けケータリングサービスをサブ・ビジネスとして推進していた。福原晋次が会長となっているレストランチェーンとの共同事業である。折しものシルバービジネスの追い風に乗って売り上げは順調に伸び、個人宅への配膳需要の掘り起こしをかけていた矢先の事故だった。一人の少女が、〈佐久間介護フェローフード〉が試験的に販売していた在宅介護者向け弁当にあたり(・・・)、食中毒死したのだ。製造から四年も過ぎた冷凍の豚カツとレバーが要因とされている。被害者は木ノ内賢二の一人娘、安奈(あんな)だ。鳥取県立の中学入学と同時に筋ジストロフィーを患い、高校を卒業する頃には車椅子生活を余儀なくされる。病魔に蝕まれるなかで、唯一の光明は運転免許取得であった。

「最初に乗せるのは父さんだよ」

「俺か? こわいなぁ」

「大丈夫。父さん、運転のプロじゃん。アドヴァイスしてよね」

朱色した中古の身障者用ビークルが納入された日。木ノ内安奈の遺体はキーを握りしめたままの姿で発見された。業務上過失致死傷容疑で書類送検された関係者四名は嫌疑不十分で不起訴処分となっている。その中には木村猛も含まれていた。

福原弘樹はレストラン側の窓口であった。静石美晴は弘樹の店にワインのセールスをしていたにすぎず、食中毒死とは直接的な関係はない。

蒲田のネジ工場に勤めていた宗田樹里は同僚のロッカーから財布をせしめた疑いでリストラされた後、クラブ〈デイ・トリッパー〉で福原晋次と再会。やがて愛人となり、店舗ナンバー・ワンの座にのし上がる。その見返りに、宗田は会社の秘匿データを福原から隠し持つよう言われた。賞味期限を過ぎた冷凍惣菜を用いた弁当配布リストのデータを、である。

介護施設の職員として、身障者向け宅配弁当サービスのデリバリー部門を担っていた四人の男女も食品偽装に絡んでいた。

猛の母、木村多香美は今なおバスツアーの案内書を持っている。木ノ内が自腹で郵送した‘一通の意思’、即ち死のドライブへの招待状が皮肉にも燃え尽きた一人息子の遺品の一部となってしまったのだ。もしも木ノ内に、何故彼らにも、と尋ねたなら、それは彼らに受け取る義務があったから、とでも答えるだろうか。

木ノ内賢二はデイ・トリッパーに足繁く通ううちに、宗田樹里から食品偽装による食中毒死の真相を訊きだすに至ったのだ。

キャバクラのコスチュームを脱ぐのも忘れ、泥のように床に就いたわたしに教えてくれたのはハルさんだ。あんなに陽気に酔っていたのに、仕事はキッチリとこなす六十五歳。キノケンとは同年代だ。メールの最後に〈どのみちは、その路に繋がるから――〉とあった。真意は不明朗だが、木ノ内に確かな殺意があったと、ハルさんも踏んだのだと思う。被疑者死亡の殺意ある道連れ事故。それを裁くのは誰だ。いったい誰に委ねればいいというのだ。






 その乗物がガタガタンッと止まったから、オレは身構えた。乗客が口々に騒ぎ出す。

「助けて! 危ない! 危ない! 早くしろ!」

トラフィック・コンフューズかもしれない。車体はガクッガックンと四十五度に傾き、オレのシャツに誰かの鮮血が滴り落ちてくる。あの日のバスの衝撃はこの程度のものではなかったろうが、自分が事故に直面していることに変わりはない。

一夜明けて麻利絵と新橋で合流し、モノレールで豊洲に向かうところだった。トランジット途中の早川からの連絡は途絶えたままだ。記録では国際電話とあったが、彼女かどうかの確信はもてない。第一、彼女の声を聞いたことがなかった。

これはテロか、もしくは運転手が発狂したからか、いずれにせよ非常事態であることに違いはない。まだ転落も焼失もしていないから、任務を全うするしかなく、麻利絵を探したが、どこかに転がっていったようだ。

「大丈夫ですか!」

「・・・」

それとも、バス案件の真犯人の挑戦状なのか。刑事は見ているようで、実はホシからずっと見られている存在だ。往々にして遠い場所からなのだが。

振り返ると、三席空いたところに麻利絵がいた。シャツの袖についていた血が、今度は彼女の唇にルージュを引いた。佐々木実のことはまだ言いだせそうになく、麻利絵からがちゃ歯を剥いて喋りはじめた。風に揺られるゆりかもめに身を任せ、オレは平静を保って聞いた。

「落ち着いてよ」

「もちろん。キノケンの目星はついたと」

「えぇ、陪審員の数も揃ったから」

「数・・・」

「彼の送ったチケットは十二枚・・・」

 ガタタタンッと再び角度が急になったから、オレたちの体はほぼ逆さまとなり、東京湾へと落ちそうで、麻利絵の臼歯(きゅうし)も落ちそうだ。

「陪審員って・・・。架空の数で裁くつもりですか」

「裁く? 食中毒で亡くなったのよ、キノケンの娘。障害者向けケータリングで。裁いてなんかない。これは報いよ。正当な報い」

「いや、バス事故の被害者を裁こうとしてるんだよ、あなたは!」

木ノ内は既に家族を逸していた。麻利絵が新橋で話していたことが本当なら凄惨な別離(・・・・・・)である。失くすというより毟りとられた感がある。

「わ、わたしは・・・」

このモノレールの運転士はロボットだ。〈GAMS〉型であり、もしも彼らが近い将来意思を持ったとしたなら、この事故をどう処理するだろうか、と麻利絵の瞳を覗いた。そうだとして、責任の所在はどこに漂着するのか、と。

「な、なによ」

恨みを人間に持つことなどSFの世界の話かもしれないが、歪んだモータリゼーションによる秩序欠損の代償を払うのはロボットではなく結局は人間であるのは確かなこと。柔軟な意思(・・・・・)まで付与してしまったことも含めて。

食品事故が無くならない世にあって、食材をロボットが吟味し、恣意的に腐った食物を人間の胃袋に運ぶ意思を持ったとしたら・・・。製造ラインの脱線はモノレールのそれと同等であり、元に戻すには時間を要するのは明らか。安全神話という名の奇々怪々のレールは、これまでとは異なる幻想を運ぶことになるだろう。そして麻利絵は、悲惨なバス事故の責任の所在を誰かに押し付けたいのだ。ヴォィス・レコーダーに‘殺意の宣誓’があれ、死のドライブへの招待状があれ、裁くべき相手はもうこの世にはいない。

ようやく、仕立ての良い制服を纏う金属製のパイロット(・・・・・・・・・)がレールの先を直視したままアナウンスをはじめた。

「エー、ミナサマオチツイテクダサイ」

 身動きがとれず、意識を失っている乗客は応えようがなく、何人かがモヴァイル・フォーンをせっせといじりだした。

「助けて! 早くぅ、海に落ちちゃうじゃないの!」

声を出して助けを求める者も出てきたのだが「ジカンガキマシタ・ワタシコレカラランチキュウケイニハイリマスノデ・カカリヲヨンデマイリマス・キョウワサラダチュウシンニシマス」

「ふざっけんじゃねぇよ!」

「早く出してよ! 爆発したらどうすんのよ」

乗客らの動揺につられ、ゆりかもめはへし折られたキリンの首のように角度を変えた。先刻までタワービル群を映していた一部の車窓が海面を向きはじめたから‘御担当人間様’の到着を待たず、オレは乗客の安全を確かめることにした。見渡すと皆は意外に冷静で、ひっくり返りながらもモヴァイルを器用に操作しているから地声を張り上げた。

「皆さん、警察です。心配しないで。これは無人走行システムのテスト中に発生した・・・・ ちょっとした疑似訓練なんです。全然普通、全然普通のことなんです」

 麻利絵がいつか話していたことがある。人間の起こす事故や事件はそのものではなく、何らかの裁きで清算した後で再び起こる蓋然性など気にも留めず、すっかり忘れてしまうことこそが凄惨なのだと。殺し、事故、震災対策・・・ 結果がありありとしていて、一度ならずも何度も耳に、目にしてきたはずなのに、いざ起こってしまうと、人は目の当たりにしながらも対岸の火事程度で済ませてしまう、とも。

自助精神を養っていなければ、そのときの教訓がまったく活かせないではないか。

ドゥトトゥトッ グヴゥーン

上空にSoSに応じた救助ヘリ、海上に保安庁のボート部隊がようやく姿を見せたからオレは安堵したのだが、海がグッと視界に迫り、肝を冷やした。右手は荷棚の手摺に、もう一方は海面に足が届きそうな麻利絵の細い腕をしっかりと掴んでいる。

顎を上げて喋る麻利絵から手術痕のある乗客の存在を知らされた。

「やっぱり福原だったのよ。手術してたのは、福原弘樹」

「えっ、でも一人もいないって言ってたじゃないですか、ハルさん。プレートで腕を固定してる乗客なんて」

「旧姓のチェックが抜けてたのよ。女性客のほうは済んでたけど」

「婿入りしたんだ」

「そう。橋田弘樹がね。結婚したら名前変わるわけよ。どちらかのね」

 オレは麻利絵の顔を覗き、どちらの性にしているのか上から窺ったのだが、麻利絵は他のヒントをくれた。

「ハルさんもミスるときがあるんだなぁ」

「でも、ナイフで刺されたとして、それは致死じゃなかったかもしれないでしょ。焼け死んだんだし。それに何処で刺すんだろって。サービスエリアで刺してから乗せられたのかな。早川が再び乗車する姿はなかったんだし。第一、奥さんと子どもがいっしょで、そんなことってできるかな」

「もしくは福原がSAで自殺しようとした躊躇い傷?」

「どうだろ・・・ いずれにせよ早川さんの国際電話、待つしかないわね」

「到着遅れのパリからの自白ってことですか。この海の果ての」

「そういうこと」

 ヘリが近づくと「もう離してもいいよ」

「何を話す(・・)んですか?」

「邪魔になるから下で待とうよ」麻利絵が掴んでいたオレの左腕からスルリと抜けて、海にポチャッと落ちた。

オレもつられるように、彼女から生じた波紋に身を投じた。

「秋に泳ぐのってはじめて。で、佐々木さんの夫はどうだったの?」

 麻利絵はいったん潜ってから浮上し、髪をかき分けて額を露わにしてプヒーッと、クジラのように口から潮を吹いた。

「美穂とレーサー、いやテスト・ドライバーがデキテたんですよ」

「それって、なんで分かったの?」

「な、なんですか・・・」

「レーサーのこと」

「き、聞き込みですよ」

「そんなこと無駄だって言ってたじゃない」

「む、無駄じゃない場合もある」

「まだ喋れないでしょ」

「く、口ではね」

「じゃ、どこで喋ったっていうのよ」

「・・・」

 オレの肺活は限界にきていた。都営の団地群が水平線の位置で浮かぶと、沈むのは時間の問題だった。同時に、西へ、西へと流されてゆくのだが、モノレールに乗っていたなら、目的地に到着するには時間がかかったろう。あの日、東京にいた丸金はもしや何かを使ってワープでもしたのだろうか。

「ふ、藤澤さん」

「なに?」

「た、助けて」

「助けてるじゃない。わたしだって、そっちのも同時に追ってるわよ」

「違う、今のオレを」

「キミを?  金槌なのキミ」

「い、いや、調子が悪いんですよ」

今にも足がつりそうで、悠然とした顔で横切ってゆく鴨の親子を羨んだ。

「刑事が泳げないなんて」

「こんなのテストには出ないですよ」

ブクブクッとオレは沈んでいく気がした。むしろ海底に引き摺り込まれる感覚だ。麻利絵は再び潮を口から吹き出した。






真実は嘘の真裏に在るものなのか、それとも表裏一体の現実なのか。白と黒は交ざるとグレーなだけで、混合させないのが刑事の役目ではある。

身体を乾かす間もなく、中央本線あずさ号に飛び乗った。わたしに疑いの目を向けられている木ノ内も、陪審員たる乗客も、それこそ濡れ衣(・・・)を着せられている気分なのかもしれない。早川千波ではなく、夫の一輝から一報が入った。坂本を後回しにして、夫の真意を確かめるべく葡萄新地に向かうところ。木ノ内の過去ではなく、早川家の今を追っている自分がいる。

午前十一時。葡萄畑には既に人だかりができていた。昨年ほどでないにしろ、フルーツ狩りもワイナリー見学も盛況を見せている。園の受付には、あの家政婦がいたが、ニコリともせず観光客に整理券を配布していた。

「あっ、どうも藤澤さん。昨日は不在で失礼しました」千波の夫の声が響いた。

「奥様から連絡はありましたか?」

 首を横に振る早川(はやかわ)一輝(かずき)、三十二歳。この園の三代目であるが、実質的運営権は千波が握っている。ロゼではなく、醸造後の‘赤と白のブレンディング・ワイン’の開発に取り組んでいるのだと千波のブログには記されていた。

「いえ、まだなんです」

「こちらもなんですけどね。あの事件のことは?」

「事件・・・」

「いえ、バス事故のこと」

 早川一輝は縁側の先に広がる葡萄畑を見渡してから「悲惨でした」

「乗客も」

「えぇ」

「畑も・・・」

「そうですが。人が、人があんな死に方をするなんて変ですよ。変って、何か自分が言ってることこそダメなんですけど。なんとも言い尽くせません。ワイナリーツアーに出かけて転落して圧死したうえに燃え尽きるなんて。運転手がそりゃ悪いんでしょうけど、最近の日本はどうも変な・・・。あっ、いや、いつも千波に怒られるんですよ。変とか分からないって言って物事片づけるなって。でも、わたしには今回の事故はどうにも言い尽くしがたいところがある。自分の畑の近くだし、それに・・・」

「奥様が乗っていた」

「えっ? 千波がですか?」

「はい」

「千波はあの日、東京にはいなかったはずですよ。勝沼に用があるとは言ってましたが」

「勝沼に?」

「はい」

「連絡とかはあったんですか」

「いえ、なかったです。なにせ、千波は鉄砲玉みたいな女で、一度出るとどこにいくのか分からないんですよ。今、やんなくてどうすんの、誰がやるのって。‘好機が万機’ってのが口癖で」

 一輝は嘘をついているのかもしれない。あの日、千波はSAの監視カメラに写っていた。声も香りもなかったが、確かに写っていたのだから。

「・・・そうでしたか」

「実家って住みにくいわけじゃないのに、時々無性に寂しくなることがあるんですよ。なんでだろう。東京の大学行かせてもらって、こっちに戻って好きなワインやって、東京で知り合った嫁さんもらって。家に入ってもらって子どももできて・・・」

「確かにお忙しそうで」

「すみません、連絡つかなくて」

「いえいえ、このシュール・リーのように、澱のない人生なんて深みや旨味もないんじ

ゃないかしら」わたしは原田の受け売りで応えた。

階段箪笥には、千波の手腕が窺い知れる各賞ワインボトルが飾られている。早川邸は

和モダンな設えを前面に出しているものの、アワード用の大島紬が飾られており、さながら呉服屋の趣さえ漂う。

「山梨のテロワール、以前はそれほど評価されてなかったんですよ。やっぱり、本場はフランス産だろうって」

一輝はかわすように言った。どことなく、戦争を語っていた勝亦の目付きに似ている気がした。

「日本の気候って多湿でしょ。だから余計な水分を含んでしまうんです」

「水っぽいと・・・・」

「えぇ、水分を減らして糖度を高めたり、色づく前に間引いたり、苗木の間隔を縮めたりして努力してきたんです」

「先人の知恵、今花開き、ですね」

「いつか国産が良いって世界から言われるようになるって。そう信じてやってきて、それでわたしたちも幸せになれているんですけど、今度は生産が追いつかなくなって、家族で触れ合う時間も追いつかない。収穫を終えて畑で大の字になって笑うってこともなくなった。みんなオートマティックで、どこの何の種使ったのか分からないときがあるんですよ。もちろん、うちは偽装なんてしませんけど。祖父が勝沼でやってた頃はひと房ひと房手にとって夢を数えたもんですよ」

整然と並べられた甲州ブランドのボトルが傘付ランプの灯りに揺れると、光の度合いで香り起つように思えた。

「時間との勝負なんですね」

「今度は勝沼で二毛作なんて案も出てきてるんですよ」

「二毛作?」

「そう、新種の春ワインですよ」

「春のボジョレーって、それも千波さんが?」

「いえ、勝亦という勝沼の世話役が音頭とってやってるんですが、うちのも一枚噛むとかなんとかで。苗木を使ったっていうアレがあるんですかね。今度は千波を広告塔みたくしてやろうって。新地を含めたオール甲州で」

「だからパリに」

「そうです。ハク(・・)をつけたいんですよ」

「なかなか連絡がつかないわけですね」

「すみません」

「いえいえ、お仕事ですから」

「言い訳ですが、最近は休む間もなくて。収穫時期やお祭りともなると大変なんですよ。寝る暇も子どもの面倒を見る時間もなくなるんです。これでいいのかなって。葡萄も子育ても、本来は時間をかけてやるべきなのに」

 フルーツ狩りの喧騒を盾に「この人、ご存知ですか?」写真を取り出した。あえて福原晋次のほうを見せた。

「あぁ、福原さん」

 早川一輝が少し顔を曇らせた気がした。

「うちのお客様ですよ。レストランチェーン大手の。うちのワインを好意にしてくれてるんです。この会長ではなく、レストランのほうは若社長ですね、担当してたのは。採決は会長が出すから対応が遅いって、いつも千波は嘆いてましたけど。でも、うちの売り上げの二割占めてますから、ありがたいにはありがたいことですよ」

「はーやーく、おやつー」

 薄暗い板張り廊下の奥から子どもの声がした。家政婦はまだ畑に駆り出されているようだ。小学男児がパッと姿を見せた。

「ひと房だぞ」

「イヤだよー、デラウェアなんて」

「あっ、ごめんなさい。お忙しいときに」

「いえいえ、千波がいないとご機嫌斜めになるんですよ、いつも」

部屋の隅にあるテレビでは著名なグルメレポーターがろくに味わいもせず、口径に食物を入れた瞬間、満面の笑みで美味しい美味しいを繰り返す。料理人が振る舞っているのは〈ミート・カルボナーラ〉だ。消音にしてあるから、そのレポーターの真意が読める気がした。

「あーあっ」

味覚とは一体なんなのか考えてしまう時がある。感覚でワインに生きる人々は、随分勝手な評価を受けてきたのだろう。五感のうちの味覚は表現、評価のしにくいフィールだからこそ容易ではないはず。加工された食品が腐ってるかどうかなど、ひと口では判別しにくいものであるのだし。

ここにシュール・リーの女の匂いはない。わたしに出されているのも番茶だ。

「これ、いかがですか?」

「えっ」

 湯呑の隣にワイングラスをさっと置き、一輝はわたしにデキャンタージュしてくれた。シャツを用いての色味もそこそこに、一頻り嗅いでから口に含むと、旨味成分の詰まった甘い酢の味がした。

「これも美味しい。甲州ですね」

「いえ、イタリアのです」

「あっ、シュール・リーの?」

「いえいえ、スアヴィアといってガルガーネガ種を使ってます」

「ど、どおりで」

「でも、これも美味しいですよね」と一輝が小さく微笑んだ。

一輝の体系は少しふっくらとしていて頭髪は五分刈りに近い。ソムリエというよりも‘畑の男’の雰囲気が漂っている。

「そっ、そうですよねぇ」と応じた。

「わたしも今度、ソムリエのコンテストに出てみようと思っているんですよ。千波を習って。そうすれば、あいつの手間も省けるだろうし。また、いっしょに・・・」

刑事にコンクールがあるとして、わたしのヤマははたして警視総監賞に価するだろうか。刑事が被害者を加害者に見立て、隠密に味見しながら(・・・・・・)捜査した気になり、その解決のはての勲章たるや己の胸中にあれば良し、といった安っぽい矜持こそ茶番ではないか。

 わたしは一輝が千波を庇っている気がしてならなかった。






 バスの中でもサービスエリアでもなく、別の場所で殺害された遺体がバスに同乗した可能性が出てきた。早川千波の次に途中乗車してきた人間の非情が、オレを惑わせる。そのことを冥界で事故の被害者らは同情するだろうか。

 麻利絵のいう被疑者らしきが死んだ後では、怒りのやり場がないのは分かる。だとして‘同乗遺体’の加害者の存在を解明すれば、少しは弔いとなるかもしれない。彼らへ、そして彼らの遺族に向けての返報として。

 麻利絵の手のぬくもりを残したまま、オレは水揚げされた魚のような身体を操作し、仁川医大病院へ向かうところだった。風の影響か、京王線特急は途中途中で大きく揺れた。早川からの連絡は、まだ無い。

 当初は被害者であるのに、オレたちから疑いの目を向けられている佐々木美穂は顔面に大火傷を負い、この特別病棟に入ったままだ。復調した際の、彼女の肉声を耳元に浮かべてみたりする。オレは、このヤマ全体をストンと落としてくれるような自白が欲しいのだ。

コツンッと一歩踏み出すと「あっ、刑事さぁん」馴染みとなってしまった看護士が大声で話しかけてきた。オレが人さし指を唇に当てるのを見「大丈夫、誰にも言ってませんからぁ」

佐々木実には黙っていてくれているのだろうが、彼は長期休暇届を会社に出している。

「じゃ、後で・・・」

「うん」

搭乗者リストにその頭蓋骨の正体は記されていなかった。どこかでバスに乗せられたのだから当然ではある。それに、ナイフを手にしていたのは木ノ内でも早川でもないのかもしれない。どこか別の場所で人を殺害し、バスに乗せた後で証拠が焼失したとして、ワイングラスでも傾けながら微笑む人間がいるのだ。それが佐々木美穂と関わりのある丸金だとして、佐々木美穂は刺されてはいない。何より、刺した動機は何なのか。そして、どうやってバスに途中乗車できたのか。料金所の監視カメラには、丸金デイビット祐輔の姿も‘同乗遺体’の姿もなかった。フランスにいる早川と、佐々木と関係のある名古屋在住のテスト・ドライバー。刺された相手が誰なのか特定できないまま、オレはどちらを追えばいいというのだ。

佐々木実の気配はなく、暗然とした病室で再び無言の訊問がはじまった。

「奥さん、体調はいかがですか」

「・・・」

「どこか痒いところはありませんか?」

 どことなく佐々木美穂がビクッとした気配を感じた。視線は少し下を指したようでもあったが、声は発しなかった。

消えたモヴァイル・フォーンを口火に、佐々木美穂のまたぐらを掻きだしているうちに彼女の眼差しが教えてくれたことが他にもある。

――確かに新宿のホテルには泊まったわ。でも、違う。夫じゃない、彼はそんなこと。じゃ、誰がこんな惨いことを。見て、わたしのこの顔。きっと天罰が下ったのよ。親に産んでもらって、時間に刻み込まれたこの顔。あの人は優しい人。なのに、なぜ・・・。舅にイビられた腹いせになんて―― 

そう彼女は逡巡しているのかもしれない。犠牲になるのは一人。わたし一人でよかったはずなのに大勢の人を巻き込むなんて、と。そう、もう一人、増えたのね。その人、わたし知らないわ。いえ、香りは覚えてるかもしれない。でも、化粧なんてどれも同じよ。フレッシュな香りがした。シュール・リーの香りかもしれないわ、とも。

反対尋問に似た眼が、瞼によって閉じられた。

真っ白な病室の、さらに深淵に潜む包帯に巻き込まれた瞳の奥で佐々木美穂はあの日のバスにまだ乗車しているのだ。ツアー客も運転手さえいない、たった一人のバスの乗客として。






季節外れの雪の予報はまたもや外れた。ウェザー・ロボットが的中を続けたら、気象予報士の働き口は減るかもしれない。雨でもなく、天使の分け前(・・・・・・)が降ってきたのは午後二時過ぎ。早川邸を出、現場に足を運んですぐのことだった。

「被害者の中に死人がいたんだってよ」

「当たり前だろ! 一人以外全員だぜ」

「他殺体だよ」

「えっ・・・」

「バスが転落する前に殺されてた可能性のある死人だ!」

葡萄新地の事故現場で金属ボルトとプレートが見つかったのだ。それは機械やロボットが身に付けるものではなく、生身の人間が自らを庇うもの。そして、バスの中で発見されたナイフの矛先である。ハルさんから、‘蝶番’が一致したとの連絡があった。

勝亦の姿はなかったが、彼にはアリヴァィがある。あの日は会合があったのだという。著名ソムリエ、レイブラント大池を招いてのワイン・イベントはSNSにもアップされており、複数の証言もある。

七月十四日の事故当日よりも野次馬の数が多いように感じた。‘同乗刺殺体の存在’を知ったのは署でも荒川直でもなく、またしても‘現場’だった。リークしたのは原田だろう。だが、何故だ。ホシに知られたら逃げられてしまうではないか。

「やっぱナイフだよ。ナーイーフ」

「こりゃ事件だ」

「事故で死んだ人が浮かばれないよ」

 まだ彼らが目にすべきでない写真をそっと取り出した。事がオートマティックに、欲望という名のロード(道)を転げるように疾走する男が写っている。彼に抱いた第一印象だが、数秒後にそれを差し替えるだけの魅力を内包しているようにも感じた。流線型のスポーツカーのようなボディからたなびく髪にツンッと反り立つフロントノーズ。優し気を湛える眼差しが人生のタンクに満ち、女なら誰もが一度は惹かれるかもしれない。殊更鑑賞にたえうるヒップラインだとか経済力があるからといった理由付けなど不要で、ハーフ特有の青い目は事を写す前に、その深淵(ピット)に女たちを引き摺り込む。丸金デイビットは、ワインに似た‘香る色気’を持ち合わせた男だ。レーサーという肩書がテスト・ドライバーにとって替わったとしても、その魅力に変わりはなく、むしろ落日の刻印を押された後のほうが男としての荒々しさを女たちは赤裸々に共有できたのかもしれない。関係のある女は佐々木美穂一人ではないはずで、数人に及ぶだろう。

「名無しの死体だよ、名無しの!」

「そいつも焼けちまったんだろ!」

大声の荒川が側にいなくても、その事実はわたしにも響く。‘名無しの頭蓋骨が’がワイナリー・ツアーバスに途中乗車していたのだから。






署に戻ると「電話だぞ」

 早川からの二度目の国際電話かと思った。

「もしもし?」

〈パリだ! まだだよな、オマエ、こないよな?

「ぶ、部長?」

〈ご不満か? 不満だよな!

「いえ、女からの電話を待ってるもので」

〈藤澤か?

「早川ですよ。千波です」

〈電話、一度きたんだよな

「えぇ」

〈じゃあ、先にオマエたち二人で名古屋行くか? 行くよなっ。オレの母ちゃんじゃなくてホシに会いに行け!

「名古屋・・・ ドライバーですね」

〈いや、女だ。丸金と関係のあった女全員に会うんだ。今度はちゃんとオペ歴調べろよ

「わかりました、部長は?」

〈オレはこれからロワールだ。ムカデ飲みに行く

「それ、ミュスカデでしょ」

〈なんだっていいさ。白でも黒でもワインはワイン。容疑者もどっちかなんだぜ

「もしも早川に会えたなら聞いてくださいよ」

〈福原をジュテームしてたってか?

「まぁ、そんなとこです。下世話なラブストーリーとワイン、マリアージュするのもいいもんですよ」

〈フンっ

 荒川の電話が切れると、下地が喋りだした。

「佐々木の夫だって言い出しにくいことだったろうよ。そうだったろうさ。妻が不貞の身のまま、マスコミの餌食になるのは耐えられなかったんだよ。だから、現場からモヴァイル・フォーン拾って持って帰ってきちまったのさ。今も押入れのどこかにあるかもしれんな」

「ですね、焼けたまま」

「もしかしたらよぉ、その旦那さんって、真実を探るために走り出してるかもよ」

「実がですか?」下地も気付いたのだろうが、オレは濁した。

「そういうこと。だって、命が危ないんだぜ。嫁さん死んだら、よってたかって面白可笑しく書くだろうよ、マスコミさんは。だったら先に・・・」

「先に?」

「オレたちと同じことよ。世間様に騒がれる前に、自分でやろう(・・・)としてんだよ」

「何を・・・」

「道は一つしかねぇ」

「どのみち、裁きを?」

「我らに、だ」

瀕死の妻を庇うべく、自ら殺人犯を追い詰めようと奔走をはじめた佐々木実。オレたちには彼を護る義務がある。一件のバス事故で殺人犯が二人も生じたのでは、こっちの能力が疑われるというものだ。

ルルル ルルルルル ルルル ル

ラボの電話がなった。下地の目配せを受けるまでもなく、オレは受話器をとった。






人はいつ嘘を覚える生き物なのだろう。自らを護ろうと思った時か。それとも愛する人を救おうとした時か。

 この日は息子の誕生日で、毎年の恒例として〈動物園ピクニック〉を約束している。手作り弁当持参だ。年に一度くらい聖職を忘れてもいい日だと思っているが、そういうわけにもいかない。同僚の増田に夕方まで付き添ってもらい、その後バトンをと目論んだものの彼女のタイムリミットに間に合いそうになく、原田に迎えにいってもらうことにした。またもや情報共有を怠った相棒へのあてつけでもある。今朝は助けたのだから、それくらいの代償がないと組んでいる意味がない。

普段は家族と約束は交わさない。守れない約束はしない主義であり、家族の約束が国家保安の契に優先したのでは、反って家族に申し訳が立たない。未来型モータリゼーションの最大公約が効率化よりも安全であることと同等である。

〈なーんだ・・・

 原田は息を切らして電話に出た。

「なんだって何よ」

〈失礼、早川と思ったもので。今朝は助かりましたよ。メルシー・ボク!

「わたしもたまには役に立つでしょ」

〈たまにじゃないですよ。被害者に非があるって仮定したり、ナイフの矛先を教えてくれたのもあなたです

「そうでしょ。で、ボルトもプレートも出てきたこと知ってたんでしょ」

〈ま、まぁ・・・

「・・・その代わり一つお願いがあるの。遅れそうだから動物園に行ってくれないかな。ちょっとした情報あるから。キノケンじゃないドライバーのことで」

〈・・・わかりました

あずさに乗るのは、これで何度目だろう。斜め前の席で日帰り出張サラリーマンの持つワンカップ・ワインが揺れている。

 早川一輝は本当に知らなかったのだろうか。千波があの日のバスに途中乗車し、〈新地ぶどうSA〉で途中下車していたことを。そして福原弘樹と関係があったこと。さらにはナイフを隠し持っていたかもしれないことも含めて、はたして知らないだけで済ませられるものだろうか。千波がフランスへ飛んでいることは事実なのだろうが、それとて替え玉が利かないわけでもない。人は何かと隠す(・・)生き物(・・・)だ。佐々木実も、妻が浮気していることを耐え忍び、黙っていたのだし。

「あっ、ママ」

「あの人はどこ?」

 そこには息子しかいなかった。妙な寒気が走ったが、原田は時間通りに動物園に来てバトンを受け取り、今はトイレに走っていったのだという。小学生を一人、こんなところで置き去りにして、獣の餌食になったとしても平気なのだ、あの男は。

「誰なの、あの人」

「パートナーよ。原田君。だから、迎えにきてくれたの」

「だから、って?」

「えっ?」

「特別なパートナーだからきたんでしょ。特別じゃなきゃ、女だっていいはずだよ。そんなことくらい調べがつきますぞな」

 息子は時々、そんな語調で生意気を言ったりする。

「相棒よ。見て、餌あげる人がいて掃除してる人がいるでしょ。その関係がパートナーなの」

「ママは、どっちぞな?」

「うーん、掃除かな」

 スナメリがサッカーボールとさんざんじゃれ合った後、五人の飼育員に羽交い絞めにされながら母乳検査を受けている。

 木ノ内が殺人鬼であったかどうかよりも、丸金が狂気のドライバーだと推察された今、先刻まで息子を癒していた動物を目の前に、急に物悲しくなった。

身障者向け弁当宅配サービスを拠り所としながら、賞味期限をとっくに過ぎた惣菜入り弁当にあたって呻きもがいた木ノ内杏奈(あんな)。長く筋ジストロフィーを患った安奈。彼女の苦しみは体現できるものではないが、三年後の娘の命日に精神疾患を患いながら自死した木ノ内知(ち)寿(ず)の無念は推し量ることができる。知寿は、木ノ内と知り合う前にバスガイドをしていた。

貧困と絶望のはてにハンドルを握り、あてどないバスを何度も走らせてきた木ノ内賢二は、遂にその日を迎えることとなった。娘の仇を討つべく食品偽装の関係者を洗い出し、呑めない酒を呑み、慣れない営業をかける―― 死のドライブへの招待状は序章に過ぎなかったのだ。

 馬車馬のように働き、ギリギリ食べていける暮らしのなかで障害を持つ娘の口に動物用以下の食べ物がケータリング・カーでオートマティックに運ばれてくるのだから、防ぎようがなかったのかもしれない。衣食住安定して尚、餌はたらふく安全食を直々に。気紛れに外の空気を吸ってロックスターのごとくオーディエンスの注目を一手に浴びる、この動物たちのほうが獣らしくないと言えなくもない。

木ノ内の生きることの味わいは、バスの道連れ自殺運転で恨みをはらすことにしか宿らなかったのだろうか。

「ねぇ、ママ。股の下から見てみてよ」

「えっ、こう?」

 わたしは息子に倣ってやってみた。白のスカートを履いていたから自分のパンティも見え、黒のティーバックを選んだのを後悔した。海から上がった後すぐデパートにかけこんだから、妥当を選んでいる余裕がなかった。

「カバの反対はなに?」

「バカ・・・」

「あったりー」

「これは」

「うぞ?」

 視線の先には像の親子が仲睦まじく、人から与えられた餌をもしゃもしゃ食べている。

「うん、ボク、嘘なんてついてないよ。人のもの盗むわけないじゃん」

「給食に虫入れるなんてやりすぎよ。お腹こわしたら、どうすんのよ」

「腹なんて痛くないよ」と、息子はニューヨークメッツの帽子を被り直した。「腹筋してるから」

しばらくして原田が戻ってきた。もしくは、既にそこにいたのかもしれない。

「あっ、藤澤さん。すみません、一人にしちゃって」

「いいわよ、ありがとう」

「おい、キャッチボールやろうぜ。持ってきたんだろ、グラブ」

「一つしかないよ」

「素手で充分だ」

二人はわたしの側から離れていった。

「投げてこいよ。オレが座るから」

「いいよ、キャッチャーやる」

「なんだ、ピッチャーじゃないのか?」

「キャッチャーだよ。ボク、普通にキャッチャー」

「サウスポーだろ」

「メジャーでも初ぞな」

わたしは、福原家にあった夥しい酒宴の席での祖父と孫との写真に加えて葡萄畑で佇む早川の笑顔、そして親子がキャッチボールしている写真を思い出した。

息子が原田のボールをキャッチし、返球体制に入った。

そうだ! あの親子、二人とも左利きだ。もしも刺しに来られたとしたら、どちらの腕で心臓を庇うだろうか。

「もっと速いボール投げてよ」息子が原田をけしかける。

「今のは変化球だ」

冬の日の陽だまりのなかで息子が声を出している。最近は友だちと遊びに出ることもない。子どもらしい笑顔を久しぶりに見た気がした。

「捕れるんなら投げてもいいぜ」

「普通に捕れるぞな」

福原の夫は左利きである。ナイフで刺された痕の残る金属プレートは右腕を手術したときのもの。もしも急に刺しにこられたら、本能として利き腕を出すのではないだろうか。もちろん、右腕を出す可能性も大いにあるが、刺されたのは福原ではない気がする。やはり、刺されたのは‘同乗遺体’。右利きで名無しの乗客だろう。

わたしは下地に連絡すべく、息子と原田にそのまま遊んでいるよう促した。

「ファーストミットが消えたんだ」

「ミット?」

「うん、左利きの子の」

「ふむ」

「だから、僕が容疑者なんだよ」

「チームに左利きは何人いる?」

「あと一人いるよ」

「ピッチャーだな」

「うん。その子なのかなぁ、盗ったの?」

「いや、その子じゃない」

「左利きのキャッチャーで一番困るのは誰だ?」

「セカンドとかショート?」

「盗塁されやすいから困るけど、違うな」

「サード?」

「いや」

「わかった! 全員だ」

「そうだ。自分のチームを見渡せるのはキャッチャーだけなんだ。落ちついて見渡せるのはな。だから、みんなキミに見られてると思って疑っただけなのさ。ホントは味方でもないし敵でもないんだ。親の入れ知恵だよ。何故、疑ってると思う?」

「刑事の子だからかな」

「かもな。でも、バカ息子よりデカ息子のほうがマシだろ。で、物証はないんだよな」

「ないよ。で、なんなの、デカ息子って」

「それは親子関係のことだ。刑事の母親ならデカママさ。オレの母親は施設でそう言われてる」

「施設?」

「あぁ、女の花園さ」

「刑事の恋人は?」

「デカラブってとこだな。で、左利きの人間に動機はあるけど、キミにはないんだよな」

「うん」

「じゃあ、真犯人をつかまえるしかないな」

「どうやって?」

「全員と個別にキャッチボールすれば、どいつが犯人か分かる。投げ方で性格がバレバレになるってもんだ。あとはお母さんにに聞きなよ」

「ママよりあなたのほうが鋭いんでしょ。そう言ってた」

「じゃ、飯でも食いながら戦略練るか。こっちにも話したいことあるからな。それまで、一人で推理だ・・」

 二人の話はついたのだろうか。

風の囁きと星の瞬きに促され、夜のしじまに身を預けた。慰問もわたしにとっては尋問擬きではあるが、刑事のすべき聞き込みとは、時空との対話に委ねてしかるべき場合もある。

「ママたち、いっしょに帰ろ」

この子がもし、この世からいなくなったとしたら、わたしがその敵を討つとしたら、はたして虐めてきた相手を血祭りにあげるだろうか。銃口は向けないとして言葉の刃を翳すことさえ職権乱用となってしまうから、それはできそうにない。リストをつくり、一人ひとりに招待状を送りつけ、埠頭かどこかに誘き寄せる。氷柱に毒薬を染みこませ、自分もろとも名もない軒下でロンググッバイ・・・。それでは、まるでキノケンと同じではないか。

 原田はなだめるような視線をわたしに投げてきた。

「で、とっておきの情報ってなんですか?」

「丸金の女は一人二人じゃないってこと」

「根拠は?」

「モテそうだから。女の勘よ・・・」

「外見だけで判断を?」

「そうよ。見た目がワインのように豊かに香ってる」

「・・・」

 原田が黙っていなくても、その音は大きく響いたろう。国際電話だった。

「もしもし、早川さんですね。あのバスのこと聞きたいと思いまして」

〈時間が・・・ これからコンクールなんですよ、テイスティングの。うちのワイナリーの未来がかかってるんです。あんなことがあった後ですから

「分かります。では、手短に。新たに被害者が出てきたのは、いつ、お知りになったんですか?」

〈飛行機の中です

「パリ祭の日、あのバスに途中乗車しましたよね」

〈えぇ、運転手さんとは顔見知りで、乗せてもらったんです。もちろん料金は支払いました。色をつけてね

「キノケンとお知り合いだったんですね」

〈キノケン?

「木ノ内運転手のことですよ」

〈え、えぇ、その人ですわ

「あなた、九月の半ばに新宿からバスに乗りませんでしたか?」

〈いいえ

「もう一つだけ聞いてもいいですか?」

・・・

 国際電話が切れた。わたしたちは雌ライオンの雄叫びに包まれていた。早川は原田のラスト・ヴォイスが読めていたのかもしれない。






一つの家族のようになって麻利絵の住む官舎に戻る頃には、午後九時を過ぎていた。オレから宿題を言い渡された子どもはすっかり寝付き、夢のなかで冤罪の演題を解いている頃だろう。そして、虐め問題一つ解決してやれない男が、あのバスに何らかの解答を出さなければならない時期がきている。

麻利絵は残り物のカレーに、八宝菜のあんをかけたパスタを振る舞ってくれた。「ついで料理よ」と笑うが、味は上手くも不味くもなかった。どこから仕入れたのか不明なシャブリも供された。辛味が増していて、おそらく開封してからしばらく冷蔵庫に放置したままだったのだろう。子どもの手前、「これも美味しいですね」というしかなかった。彼女の口癖だ。

「早川は何も言わなかった・・・」

「そう」

「彼女と福原の関係はナイフとは関わりがなくて、このヤマの矛先は同乗遺体と丸金ディビットですよ」

「そうね。でも、なんで同乗遺体のことリークしたのよ」

「オレはしてないですよ。荒川部長じゃないですか」

「嘘」

「・・・」

「大騒ぎになるじゃない。ナイフどころじゃないって」

「誰かを救いたいんじゃないですか?」

「誰を?」

「さぁ、それは部長にしか分からないですよ」

 麻利絵はとぼとぼとシャブリを注いでくれた。おおよその察しはついているのだろう。

「ある意味、木ノ内は気の毒ですね」

「そうね。家族があんな死に方するなんて、恨まれても仕方ないわ。もちろん、報復なんて、もっと深い罪だけど」

「罪を罪でチャラにすべきではないですよ」

 オレが酌をしようとすると、麻利絵は手で制した。シャブリのボトルの底が見えそうになっていた。

「それにしても強引だね。まさか病院に忍び込んで佐々木さんの・・・」

「仕事ですから」

それは母親の介護をするのと同じ要領であった。母とて女。生理が止まったわけではなく、月に一度、オレは母の体から血液ともオリモノともつかぬ液体をかきだしており、まったく慣れていなかったわけではない。

スコールが地を打った日。意識のない佐々木美穂の性器に手を入れるには躊躇いがあったが、バスが焼失した後では他に術がなかった。

「佐々木美穂さん、浮気してたの?」

「丸金とね」

「佐々木さんと同乗遺体の接点はなんだろう」

「接点はなくてもセックスがあったとしたら、どうしますか?」オレは小声で言った。

「セックス?」

「一人の男を媒介にした接点ですよ」

「三角関係ってこと?」

「それ以上かも。さっき、ヒントくれたじゃないですか。丸金が乗ってる(・・・・)女は一人や二人どころじゃないって」

「でも、どうやってバスに乗ってきたかってことよね。丸金は東京にいたんだし」

「ワープしたんですよ」

「ワープ?」

「今、ハルさんに高速調べてもらってます」

彼女たちの接点はパイロットにある。しかも、‘名無しの同乗遺体’は唯一の生存者、佐々木美穂と愛する男とのベッドタイムをシェアしていたのだ。

丸金は痴情のもつれから殺害し、アリヴァイ工作のためにあのバスに同乗させたのかもしれない。

「でも、あの日はいっしょにいなかったのよね」

「いえ、いたんですよ。死のドライブ(・・・・)に出るまではいっしょにね」






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