第2話

二章

聞けば聞くほど分からなくなることは、聞かずじまいでは余計に邪魔な物音が入ってくるだけだ。

 あの日から一ヶ月以上経つが、夏はまだ吹きっ晒しのトランペットを思わせる木立の中にいるようで、汗とともに疑念が吹き出てくる。事故と事件の狭間で数多の死者を出し、所有者不明のナイフが見つかり、所在不明の頭蓋骨が一つ増えた。日記に綴るべき夏休みの宿題は残されたままだ。焦げ残った遺品からの割り出しに焦っているのは、わたしだけではない。バス転落焼死事故と同時に発見された‘狂気’の存在に原田は執心だが、わたしは遺族のためにも、運転手の殺意の確認も怠るべきではないと、そのときには感じていた。

木ノ内賢二に道連れ危険致死運転の意思がなかったとして、はたして誰がナイフを持っていたのだろう。そして、関係のないツアー客まで死に追いやった‘見えないナイフ’は何処へ消えたのだろうか。

「お邪魔いたします」

 聞き込みの経験が浅いこともあるが、事故の被害者遺族宅を事件性が拭いきれないといった理由で訪れるのはいささか気が引ける。これは弔問という名の尋問に近いかもしれない。悲しみをぶり返す希求などさらさらないが、遺族にしか語れないヒントがどこかに潜んでいるはずだ。

〈どちら様でしょうか?

埼玉県朝霞市和邇町。自衛隊駐屯地のあるこの近辺は、蝉が潜入するにも相応のパスポートらしきは求められるだろう。プライバシーの高いエリアに入り込んだ途端、鼠以外の存在を感じたとしたら防御本能が働くというものだ、お互いに。

わたしは目論見を悟られぬよう深々と頭を下げた。「藤澤と申します」

‘RtoM’と刻印されたリングは、今遺族に手渡せる遺品のすべてである。

暫くして「あっ、刑事さんでしたか。どうぞ、中へ・・・」

ラジオから聞こえた声と顔とが一致した。

新興住宅街に佇む建売の一軒家はポストの色を変えただけで、屋根の角度を反転させながら数珠つながりに横六件が連なる。陽当たりを考慮してか、屋根が西向きになっている家の花壇にはパンジーなど明るめの花が植えられている。

 東から数えて四件目となる静石家は、遺族会の事務局を兼ねているせいか、周りから悔やみと好奇の入り混じった目を未だ向けられている雰囲気が漂い、やはり、わたしのような異人は受け入れ難いものだろう。遺族会代表といえ、一人娘の一父親であることに変わりはないのだから。

 黙ったままのわたしに、静(しず)石(いし)憲(けん)治(じ)から話しかけてくれた。

「もう、事故を解明してほしいんじゃないんです。この世にいないんですよ、あの子は・・・、それに加害者も。運転手も残念ながらいなくなった」

「おっしゃる通りです。娘さんが亡くなったから分かった事件ではありますが」

‘ナイフ’のことは荒川から箝口令(かんこうれい)が出ていたから、違う匂わせ方をしてみた。

「事件って・・・ 事故でしょ、アレは。事故なんてみんな事件みたいなもんですけど。レイムダックのバスで豪華なツアー組んで安くドライバー使って、あとは運頼み。運転手も気の毒ですよ。運を転がすって書くんですから」

 冗談になりえない、子を持つ親の本音だろう。

「娘さんは、運転手とお知り合いだったりしましたでしょうか?」

 父親は少し首を傾げてから「知り合い? うちの娘はバス会社に勤務したことはないけど・・・ 公共の機関もないね」

「輸入食品代理店にお勤めでしたよね」

「ワインが大好きだった。フランスのね。高校のときに思いきって留学させておけばよかったって悔やんでるんですよ。だとしたら、あんな部署にはまわされなかった」

「部署?」

「留学経験のある人間は企画に配属されるんですよ、あの会社では花形のね。でも、美晴はずっと外回りだった。休みの日も出勤して、合間に料理学校にも通ってたんですよ。ゆっくり、ワインを味わう時間があったかどうか.舌と鼻の感覚は誰にも負けなかったのに」

「見る感覚もそうですよね」

「えっ?」

「SNS拝見したんです、娘さんの。葡萄畑の写真、たくさん撮ってらっしゃって。それに綺麗な目をしてるなぁって。仕事に燃えてる人間の目は輝いてますよ」

「あっ、ありがとう。ワインは色味も大切だからね」

「えぇ。あと・・・」

「何か?」

「娘さん、周囲ともめごととかはなかったでしょうか?」

「トラブル?」

「えぇ」

「そんなことはないなぁ。ただ・・・」

「はい」

「恋人と別れたとかで」

「婚約をしていた・・・」

「いや、そんなんじゃなくて自由恋愛でしょう」

「自由恋愛?」

「あっ、失礼、昔言葉でね。自由恋愛ってのは、まぁ見合いとは別のアレですよ。若い人が自然に心惹かれて」

 美晴はグラスを傾けているときに、きっとワインレッドに輝く指輪をうっとり眺めていたのだろう。エンゲージリングでなくとも、それは約束の証に違いはない。

「運命なのかもしれないが、恋はいいとして、死ぬ運命にあったなんて娘は思ってもみなかったでしょう。わたしら親もですが」

「運命は・・・」

 外で自衛隊の演習の轟音と犬の鳴き声が共鳴した。午後の三時を過ぎた頃で、小学生の騒々しい帰宅時間に紛れ、隣から何かが近寄ってくる気配を感じた。あの日、乗客らは木ノ内に何らかの気配を感じていただろうか。

「運命は、い、命を運んでくれる道筋のようなものですよね。その矢先に・・・」

 わたしは言葉を振り絞ったが、父親には届いてなかったかもしれない。

「そう、運命は自分で運ぶものですよ。美晴は、それが分かってる子だった。だから、わたしもある程度は納得しているんです。今は祈るだけです」

 玄関からリビングへと伸びる廊下の先ですすり泣きが響いた。おそらく、母親だろう。廊下の壁面には絵が飾られていたのかもしれない。所々が黒く縁取られているから、取り外したのだろう。

「少し待ってください」父親は奥へ楚々と入っていった。

 すると、わたしの背後で「ちょっとぉ」と呼ぶ声がした。「えっ」と振り返ると、隣人らしきエプロン姿の女が手招いている。

「テレビの人?」

 応えないわたしに「美晴ちゃんね、いい子だったよ。夜は遅いときもあった。でも、いい子だったな。挨拶もできてね」

「いい子・・・」

「可哀想にね。なんにも悪いことしてないのに、ほんと可哀想。あのバスからナイフが出てきたなんて、まったく世の中どうなってんだか」

 女は庭先に左足だけを入れ、キョロキョロと中を伺いながら続けた。おそらく、同じ造りで左右対称なのだろう。

「お父さんね、都はるみの大ファンなの。だから、美晴」

「・・・」

「分かんない? 名前を逆にしたってこと。あっ、いけない、子どもたち帰ってくるよ。このへんは歩道が狭くて、なのにクルマが猛スピードでビュンビュンでしょ。こういうのも取材してもらえないかしら。事故が起こってからじゃ、どうしようもなんないでしょ。みんな下手くそなのよ、運転が」

 女が一瞬にして姿を消すと、静石が戻ってきた。

「これ、持っていきませんか」

 ヴィンテージならではの光沢がわたしの瞳に映った。

「1985年・・・」

「そう、美晴の産まれ年のヴィンテージ」

「こんな大切なもの」

「このワインはもう・・・。わたしがワインなんか教えなきゃ、こんなことにはならなかったんです」

「わたし・・・ ワインに詳しくないわたしがいただくものでは・・・」

「いいんですよ。あなた、何かに気付いてるんでしょ。あのバスで何があったかの真実を。あれは事故だけど、そんな単純なもんじゃない。焼かれたんだ。一人だけ、顔だけを・・・。女の子ですよ。あの方にも親がいるでしょう。高速道路から転げ落ちて、挙句のはてに焼かれるなんて・・・。偶然だとしても、きっと何かある。ナイフが出てきたっていうじゃないですか。もっと何か、色んなものが焼かれてしまった気がするんです。だから、あなたは何かを探してる。それが見つかったときにコレを。わたしは今年の分は何本か予約してある。だから、これはあなたに持っていってほしいんだ。きっと、同い年くらいでしょ。あなたも仕事に燃えてる目をしてる」

 確かに彼女と同じ歳だ。来年は三十路となる。路―― 道と違い一足飛びに目的地には着かない。良きにつけ悪しきにつけ、歳月というものは早送りができない路。それもまた、ワインと同じはてのない旅路である。

「あきらめがつかなくなるから持っていたくないんですよ」

 それもまた本音だろう。

「そうですか」

「あの年のワインは評価が分かれるんですよ。特に・・・。でも、ワインはときが経てば経つほど」

そう言って美晴の父親は泣き崩れた。

あの日、何十台ものカメラやマイクを前にして気丈に振る舞っていた人間の面影はない。もっと、思いの丈をぶつけてほしいとさえ思った。シャトー・マルゴーの格付けラベルが涙で滲んだ。わたしは美晴のリングを父親にそっと手渡した。




♢♢

 自分が暮らしているはずの場所なのに、生きている果実味が発酵しているように思えた。家族と離れて、随分と時間が経った証拠だ。

 新宿区大久保がわたしの塒だが、唯一の家族は帰宅していない。期待していない証拠だろう。帰りの時間は告げているはずなのに、まだ彼は戻っていなかった。

総武線と山手線の交差する場所で、囮に売春婦役を買って出たこともある。家族にどう思われているかは計り知れない。職住接近も善し悪しである。

 九月に入ったというのに、三十度近い日が続くと芽吹きだす果実がある。箱庭のある我が家に植えたパッションフルーツもそうだ。茎から弦へと蟻が伝い、グロテスクな暗紫色した花が咲くと野球のボール大の果実のお出まし。青々とした身が膨れ、やがて萎んで明らかな紫色を帯びると食べ頃になる。水さえやっておけばなんとか育つ家庭菜園と異なり、ワインは手間暇かかり、その熟成度合いに変化をつけるには家族に似た親密性が求められるだろうが、わたしたちの関係は永い時を経ているとして、果たして成熟しているだろうか。

 シャトー・マルゴーをタオルにくるみ、押し入れにそっと忍ばせた。

2LDKの官舎風マンションは住みやすいわけでも住みにくいわけでもない。二人暮らしの一室にはキッチン用品と寝具、一週間ローテーションの衣類が置いてあるだけ。コップや皿は気に入った数種を使い分けている。棚の類は造りつけだから買い直す必要がないうえに、ぽっかりと空いた場所は空間デザインの役目をはたしてくれるから、造花でも挿せば、モデルルームもどきのシンプルな部屋となる。そう例えると聞こえはいいが、生活感がなく、物のないガランドウとした部屋に変わりはない。異動も想定しているから、モノを詰め込むのが面倒なだけなのだ。家庭が身軽(・・)だから、出張で一週間家を空けようが、片付けは一時間足らずで終わる。食べ物が腐りやすくなったり、埃が黴に化ける季節には、ちょうどいいサイズなのだ。

廊下に面した台所の格子窓から焼いたり蒸したりする他人の夕飯の匂いが部屋に侵入してきたから、思わず空腹を覚えた。冷蔵庫には腫れ上がった瞼のようなトマトが二つ鎮座。若いワイン色した野菜を齧りながら家事を済ませ、彼の帰りを待つことにした。口中の酸味が消えそうになったら、連絡してみることにしよう。

美晴が木ノ内のターゲットでないことを祈った。

静石憲治、五十七歳。事故の起きる一ケ月前まで大手電気メーカー勤務のエンジニアであった。子どもは美晴一人。早期退職で得た割増退職金を元手に山形で田舎暮らしを決めていた矢先のできごとだった。リタイヤ後は、米麹からワインができないものか本気で考えていたという。ワイン酵母の焼酎は飲んだことがあるが、‘米のワインの可能性’は聞いたことがない。土地を買い、家を建て、後は夫婦の身体だけを移す段階にきていた静石家。朝霞の建売一軒家は不動産業者に任せ、美晴は都内で独り暮らしをはじめる準備を着々と進めていた。

ただ、夫婦のささやかな夢は今、お蔵入り(・・・・)となった。マスコミが未だ群れる可能性のあるあの家が、静石美晴の帰る場所だからだ。わたしが先に訪れるべきではなかったかもしれないが、いずれ彼女は土に還ってドアーを開けることになる。

雑多な匂いが食器を洗う夕餉の音に変わる頃になって「ただいまー」

「おっかえりぃ」

わたしの家族の帰宅だ。彼は久しぶりに会うと、いつもぶっきらぼうに振舞う。

「トマト、ありがとう」

「置いてあったでしょ」あくまでもクールな顔でわたしを仰ぐ。

「うん、食べたよ」

「だと思った」

「えっ」

「ついてるよ、赤いの」

 わたしは前歯にトマトを挟んだまま喋っていたしい。

 彼はニューヨークメッツの帽子を目深に被り直し、荒川からプレゼントされた赤いファーストミットを携え自分の部屋へスッと消えていった。嬉しくて抱いてほしいはずだから、余計に愛おしく思ったりする。身長百三十五センチの男は小学四年生。やらかし刑事よりよっぽど信頼のおける相棒だ。

 まだ家事が残っていた。やるべきは山ほどあるが、時間がないのは言い訳にさえならない。ダンスでもしながら服を着ればいいし、買い物ついでにジョギングに出れば足腰の鍛錬となる。冬に乾燥肌が気になれば、浴室で息子のシャツの食べこぼしをせっせと落とすことで鮫のエラように罅の入った踵にも潤いが染み渡るというもの。わたしは、この‘ついで家事’によって息子と憩う時間を稼いでいる。おそらく、賢い主婦ならこれ以上のことをやっているのだろうが、今のわたしにはこれが精いっぱいで、尚楽しめている。スクワットでもしながら布団を敷けば、就寝前のストレッチとなる。

ダイニングキッチンと六畳二間。テーブルを置いた和室が、わたしの寝室を兼ねる。眠るときには、息子がのそのそと奥の部屋から出てくることもあるから、来年は一人で床についてもらおうとは考えていた。

「ねぇ、ママ、嘘つきゲームしようよ」案の定、這い出してきた息子。

「いいよ」

しばしの後「ねぇ、寝た?」と尋ねると「うん、寝たよ」

「しゃべってるじゃん」

「寝ながらしゃべってるんだ」

「それは寝てないってことよ」

「しゃべっちゃいけないの?」

「いけなくないけど、寝てたらしゃべれないでしょ」

「ぼく、寝ながらだってしゃべれるよ」と言いつつ、息子は静かに目を閉じた。テレビでアンカーニュースが流れているから、十一時を過ぎた頃だろう。

学校での虐めのことを中々切り出さないこの子の寝顔を見ていると、やりきれなくなってしまう。親が刑事の母子家庭で、キッカケが嘘をついたのつかないのとふっかけられての挙句だ。

原田にも家族があると誰かが話していたような。確か、痴呆か障害のある母親を看ているのだと聞いたことがある。そうだ、同期の増田だ。噂好きの彼女のことだから、あてにはならないが。

エリートであるのに、そうであっても家族は家族。放っておけないという事実に、彼の中にある誠実を夏の余韻残る長月の夕べに浮かべていた。誰しも家族があるのだ。独り身であっても背負っている‘家族らしき’は誰しもあるはずで、人生の重量感の大半は家族に起因するものだろう。生誕、暮らし、血筋、夢の方向性、進学に就職、挫折や希望、栄光と恥辱、それらは一人で成しえるものではない。一人で生きようが生きまいが、家族の存在性に大きく左右されるものだ。去年の誕生日プレゼントに贈った弥次郎兵衛の弁髪人形がフラフラッと揺れた。

 明日は親子三人を失くした遺族を訪ねる予定だ。






新宿発七時ちょうどのバスにオレは飛び乗ることができた。フルーツ狩りの季節を間近に、あの事故を思い出す者も日を追うにつれて減った気がしている。

オレのギリギリの乗車に業を煮やした、鼻を吊り上げて渋顔を向けてくる女がいたから「申し訳ないです」と頭を下げて中へ入った。

胎内の錆びつきを連想させる蛇腹のドアーが背後で軋んだ音を響かせた。中の仕様も古くないとは言いきれない。

何人かの子どもが「まだ、発車しないのぉ」と大声を出したことに対しても、運転手はいたって冷静だった。並びで座る老夫婦が飴でなだめようとしたが、一秒もたず、一秒でも早く何処かへと抜け出したいのか、飴どころでは収拾がつかずに「まだぁまだぁ」絶叫を繰り返す。

運転手は淡々と「間もなく発車しますぅ」

ツアーバスと同様に、決まった路線だけを運行する高速バスのスタイルも様変わりしたものだ。空席があれば、その場で運転手に料金を払って乗車できるバスもあり、高速を降りた後の過疎区間の交通網を埋めるべく生活路線として走るケースもある。トリシモンのような‘危険物’を乗せるよりは、よほど荷が重くはないはず。だが、ツアーバスは基本的に乗客が途中下車、途中乗車できるものではない。

新宿には間もなく〈バスタ〉ができる。集中交通ターミナルが完成すれば便利になるのかもしれないが、タクシー運転手のなかには、誰のための‘わざわざ渋滞’だか、といって愚痴をこぼす者もいた。取り越し苦労に過ぎないが、北へ南へと一ヶ所から間断なく発車する状況にあって、乗るべきバスを間違ってしまうハプニングは生じないだろうか。途中下車できればいいが、高速で気付いたとしたら、思わず声をあげてしまうだろう。

 オレは進行方向左三列目の席に腰を下ろした。運転手の顔色を人知れず伺ったが、マスクをしていたから疲労度や健康状態は不明瞭である。麻利絵もマスクをしたままなら、あの不均衡な歯茎を晒すことはないだろう。

何かの合図を受けてバスは発車した。

 数秒後には親に連れられた男児女児が絶叫し出し、太鼓持ちのようにドライバーの足元に宿りはじめた。

「ちゅーぱーつ!!」

「ちっぱーつ、イェィ!」

親は我が子が元気であることを自慢気に流し目で周囲にアナウンスし、オレはスズメ蜂の襲来を危惧した。喧騒を他所にモヴァイル・フォーンを内ポケットかそこかしこから取り出す者がほとんどで、中には愛しき人の写真を見ている者もいた。静粛にという公共の場所でのマナー・バランスは既に横転していた。

あのナイフをバス(・・)のなかで手にした日から二ヶ月近く経つというのに、このバスにもナイフを見つけた鉄箱と同等の霊気が漂っている気がする。冷めた面持ちで回転係数を高めるホイールが外灯を反射する頃には午後七時十分を過ぎていた。ナットにゆるみがないか、オレは妙に気になった。そうだとしたら夕刻の街を先急ぐ人の群れを歪んで映すことになる。

 運転手は皆に、うっせぇ静かにしやがれ、という代わりに「わたくし、本日皆様を安全快適に目的地までお届けさせていただくパイロット(・・・・・)の梅木と申します」

昨今では運転手のことをそう呼ぶらしい。だとして、オレたちは何と例えられているのだろうか。‘社会の犬’というなら、これほど方々に動き回れと命ぜられる以上、野良犬の類と変わりないのかもしれない。犬並みのスタミナに加えて洞察力まで求められるものの、裁きのハンドルを握って走る‘ソーャル・パイロット’などと呼ばれることはないだろう。

梅木運転士は手慣れたハンドル捌きで西新宿から山梨方面へ、テールランプと睨めっこしながらハンドルを切る。時折、首から吊るしたペンダントに触れながらアクセルペダルを操作していた。

甲州街道に出、暫くして中野付近で数人が乗り降りし、蛇腹が音を起てた。

 オレは荒川から手渡された、乗客の通信履歴を思い出した。半数が眠りにつき、半数は〈運転手、おっさんやな 〈クスリやってねぇこと祈る 〈ここで死んだら葡萄畑が墓場。一生、ワインただ呑みできるけどな― といった言葉が拡散していたが、オレたちは刺される。早くバスを止めろ― といった狂気(・・)はなかった。もちろん、ドライバーの断末魔の叫びをSNSにアップした者はいない。

ふと運転席のほうを見やったが、彼は‘オレは遂にやったぞ!’と言いそうなタイプではなかった。風貌は三十代に満たないかもしれず、生活苦も感じられない。しかしながら、もしも木ノ内がそんなことを叫んで‘自殺行為’に及んだとしたら、麻利絵の言うようにナイフとは別の事件性を帯びる可能性はなきにしもである。

明大前停留所で数人が乗り込んできた。

トリシモンの存在はなかったが、コンビニで買いこんできた肉まんや揚げ物惣菜、煮詰まったおでんの匂いが車内に充満し、ビールのアルコール臭と鬼ごっこをはじめたようだ。同乗したストレスが引火したなら一溜りもない。

「ねぇ、ここはどこなの?」

 飲み食いのチェイスがひと通り済むと、不意にオレの耳を子どもの金切り声が刺しにきた。彼らはいつだってそうだ。オレが拳銃に手をかけるより素早く、飛び道具のような声を張り上げる。

「ねぇ、まだなのぉ! ここはどーごーなのー」

三分おきに親に同じ質問を繰り返し、泣き喚く子どもまで出てきた。

あの福原という三人親子の通信記録には〈新宿は今日も快晴、お日様ギラギラ、もう九時かな? 可愛いすぎる一人息子、スイーツがコンチネンタル食べましたー― とあった。親は親で三十分おきに電話している。のべつ幕無き‘車内喧騒’に嫌気がさして運転手が発狂しての運転ミス・・・。大学生の男四人グループは〈うるさくて眠れねぇよ― といったSNSをアップしていた。〈ワイナリー行ってから飲めよ― といったメッセージを残していたのは誰だったか。

「ねぇ、どーごー。葡萄畑でちっこしていいのー」

 不意に刺しにくる騒音はテロ行為よりも心臓に悪い。運転手を見たが、マスクの上のこめかみがビクッとしただけで運転には今のところ支障はないようだ。

 そう言えば麻利絵にも子どもがいると話していた気がする。父親のいない理由は聞いていないが、朝、身支度をしてから、とか愚痴をこぼしていたことがあったかなぁ、と。同僚の橋倉の話では、目が不自由とかなんとか、とも。

 バスは中央高速高井戸インターに差しかかるところで、急に進路変更したから、オレの腰がエアポケットに入ったように浮いた。

もしも、ここで人を刺すとしたなら、誰にも気づかれずに成し得るものだろうか。エアフランス内の飛行機密室殺人事件を思い出した。チューリッヒに着陸し、その乗客がタラップに踏み出すと同時に倒れたアレである。キャビンアテンダントが自らの奥歯に毒入りワインを仕込んでおいて、毛布をかけるフリをしてターゲットのグラスに注いだトリックだが、しばらくはバッグにナイフを隠し持っていた人間が犯人扱いされた。乱気流に突入するタイミングを見計らい、毒入り奥歯から致死量を注入するとは、まさに命がけのフライトだったろう。声も発せず、眠るように死ねるはずがないと、空港保安官が調査に乗り出して一件落着となっている。

「あのぉ・・・」

一人の女がオレに声をかけてきた。黒のパンツルックだったが、声でいったんは女と判断した。

オレは資料をおもむろに閉じ「はい?」

「ここ・・・」

「あぁ、気付かずにいて失礼」

日除け帽を目深に被り、少し濃いチークを施した女の横顔が、サンセットにさしかかった錯覚をオレに与えた。既にソフトクリームを手にとっただけでは溶けない時間だというのに。

この車両はツアーバスとは異なり、空いたシートに途中乗車ができる。

 女が席に着くと、眠気を誘うような何かの香りがフワッと起った。これは柑橘系の香りかそれとも・・・、甲州種のワインだろうか。ビール臭に邪魔され断定できないが、おそらくシュール・リー製法のワイン。もしくはフランスはロワールのミュスカデだろうか。オレの中で沈殿していた細胞がフッと目を覚ます気がした。うつむきながら女の香りの中身を覗こう(・・・・)としたのだが、何も見えなかった。

高速料金所のバーが下り、運転手がペンダントに触れ、再びアクセルを踏み込むと、ガソリンに混じってアルコールとも人間のものともつかない匂いが夜風に紛れていった。

オレはバス事故の資料を見られたかと思ったが、数分後のその女の寝息で思い過ごしであることが分かった。呼吸にまで耽美な香りが漂っているようで、オレの脳裏から少しだけ麻利絵の推察と車内喧騒が立ち去った。

 中央フリーウェイは午後八時に差しかかる頃、〈新地ぶどうSA〉まで、バスは走行自体順調だったが、ヘッドホンから音漏れがし出した。子どもの金切り声ではなくバスドラムが床上でタップするような低い音だ。ヘビメタかレイブ用のBGMは夜通し響くように身に染みる。こっちはこっちで無理やり焚きつけられるようで体に悪い。

待てよ、これも通信履歴にあったはず。〈ガキの次は大人が煩くしはじめた~ どっちもいい加減にしろ― と。それに〈オレは音楽が聞きたいんじゃねぇ。自分の音で迷惑な音、シャットアウトしてるだけなんだよって運転手に言ってやったんだ。バカ親子には何にも言ってくれなかったけどな〉

 それにしても、あっちこっちで人は騒ぐようになったものだ。休息を間引くように祭事が増え、ファーストクラスやグリーン車に限らず、スーパーマーケット、歯科クリニックでも放し飼いの肉食動物のように騒ぐ人間が増殖している。静寂の領域であるはずの図書館にいたっては、静読対極にある大声を出すことが情操教育だと宣う人間もいるという。

泡沫の乗車賃分の権利を最大限行使したがるから、注意喚起が逮捕状にならぬことを祈りながら務めに精出す運転手はたまったものではないだろう。事件になりえない‘狂気の被害者’たちにオレは思い馳せた。

木ノ内が私恨による道連れ自殺運転を敢行したというなら、いったい彼らはドライバーの過去に何をしたというのだ。綿密な実効性よりも突発的な現実性が存在したのかもしれない。この乗客たちの不躾を罰するには危険運転しかないと。事件性の導火が衝動的なストレスによる揮発であったと考えるのはいささか過剰ではあるが。

ガソリンと排気ガスの匂いに、オレは微睡みを解かれた。声を上げずに転落していったのは、被害者たちが睡眠薬でも飲まされていた故なのか。否、ブレーキ痕がないわけで、その時間的余裕はない。

〈新地ぶどうSA〉での二十分休憩のアナウンスが車内に響いた。ドアーが開いて屋台の放つ焼き鳥、イカ焼きの匂いが土足で乗り込んでくると、サービスエリアの喧騒が車内にドッと溢れた。

「えぇ、皆さま、これから二十分間の休憩に入ります。八時五十分までにお戻りください。なお、貴重品だけは必ずお持ちください――」

 運転手はマスクをしたままマイクに口をあてている。相当疲れているのか、数多の欠伸でマスクに皺が刻まれていた。

オレも小便をしに外へ出た。富士山は見えるはずもなかったが、何かをつぶやいている気がした。自販機のコーヒーをドリップする間、土産を探し回る者、パニーニのレンジを待つ者、二回目のトイレに転げながら姿を消す者はいたが、ナイフの研ぎ具合を確かめる者はいなかった。ドリアの焼け上がった匂いが休憩時間にブレーキをかける。

 オレはシステム管理の人間との用を手短に済ませ、バスに戻った。

「それでは出発いたします。シートベルトをお締めください」

すると乗客の一人が「あの、運転手さんちょっと待ってくれる。柚子葉がまだなんだけど」

「お客様、おトイレでしょうか」

「そうだと思う。普通に大丈夫。あの子、必ずわたしのところに戻ってくる子だから」

 運転手が点呼をかけたのだが、やはりまだ一人足りない。バードウォッチャーの要領で再び数え直すも、戻っていないよう。オレの隣にいた女は、右七列目くらいの席に移っていた。

「いるいる、あぁいうの。こないだも高速バスでね、点呼したら一人足りなくて発車できないのよ」

「そうそう、わたし、こないだ福島行ったときなんか、隣にいた人がPAの手前のバス停で降りて大騒ぎよ。数が合わない、出発できないってギャーギャー」

二人の女が、母親に聞こえるように話しだしたが、彼女はそ知らぬふりで化粧直しをしながら缶ビールを口に含んだ。

「それに、運転手さんも気付かないんだもの」

「一人じゃダメよね」

「ダメダメ、高速バスは二人いなきゃダメ」

「一人は絶対人間じゃなきゃ」

「一人はロボットでもいいけどね」

 ガッチャンチャン―― 

柚子葉という女児が満面の笑みを溢れ出そうなおでんに湛えながら戻ると、バスは再び動き出した。一時間ほど揺られて勝沼に降り立つと、どこかで嗅いだ匂いが鼻先で揺れた。

オレは途中乗車してきた女が、窓に映るオレをそっと見ていた気がした。






 その二日後に、わたしは福原家を訪ねていた。親子三人でツアーバスに乗車した福原(ふくはら)亜寿沙(あずさ)の実家である。息子寿(ス)位(イー)都(ツ)、夫弘樹(ひろき)とともに同居をはじめたのは二〇一一年九月。ちょうど今と同じくらいの季節だ。夫が証券会社をリストラされ、土建業を営む父親に泣きつくこととなった。特殊なインプラント手術歴で、亜寿沙の遺品であることが照合できた。最も小さな亡骸は乗客のうち唯一児童の息子である。

世田谷の成城に近い祖師谷大蔵の住宅街に歴然と建つ、事務所兼一軒家は早朝に若い衆が騒騒しく集まり、軒先は夕刻には盛り場状態に。キャバクラに出かける前の景気づけにしているのだという。その喧騒の輪の中には一人息子の姿もたびたびと、近隣住民のSNSにアップされていた。確かに、住宅街にしては工事の音や児童の騒ぎまわる声が地に、身に響く。まだ昼の一時だというのに、この公園で群れとなってサッカーに興じる子どもらは学校に通っていないのだろうか。わたしは急に我が子のことが心配になった。不登校や虐めの最大要因は家庭環境にあるのかもしれない、と担任から暗に告げられている。そして路地にひっきりなしに往来するタクシーやトラックの群れ。全社会的自動運転システム〈GAMS〉によって、静かなはずの住宅街に今以上に‘幽霊渋滞’が生じるかもしれない。街の変遷をワインの熟成度と比べるにはいささか無理があるかもしれないが、こう矢継ぎ早に建物が造られてゆくと、味も素っ気もないどころか連綿と築き上げてきた街のブランド感が損なわれるというもの。出張に出ても、どこか都心の名もない町に降り立った気になるのはそのせいだろう。同じような飲食店にコンビニ、ATM、人の群れ。モンタージュ化した街は、隠匿の身を希求する犯罪者にとっては都合がいいはずだ。

 周りの喧騒と同化するように、チャイムも大音量だった。

ドアフォーン越しに「ごめんください」

 まだこういった慰問もどきの聞き込みには慣れていない。けっして家宅捜査ではないことを添えるべく、ほとばしる汗に代え、モニターに向けて憐憫を請うたりもする。

〈はいぃ

「あのぉ、事故のことで」事件のこととは言わなかった。

玄関先で、地べたに座り込む若い衆たちが舐めあげるように好奇の目をわたしの太腿に向ける。親方に話があるなら取り次いでやろうか、といった目付きだ。

濁り気のある声が響いた。〈もう、いいだろ。喋りたいことは喋った。後は遺族会の事務局にでも聞いてくれや。それのほうがニュースにでもなんだろ

「いえ、わたくし新宿中央暑の藤澤です」

〈刑事さん?

「えぇ」

〈女性の?

「えぇ」

しばらくして〈どうぞ 

同時にドアーが開いた。

 家長たる福原晋(しん)次(じ)は身長百八十センチ超。酒太りの太鼓腹に白髪で角刈りだから、余計に日焼けが目立つ。手頸には数珠と金のブレスレットが生きる証のようにぶら下がっている。

わたしの視線を察したのか「そう、この子だよ」

玄関先には仲睦まじき三世代親子の写真が飾られていた。なかでも、寿(ス)位(イー)都(ツ)の写真が目立つ。ほとんどが酒の席で孫と肩を抱き合うツーショット。居酒屋ではたこ焼きを頬張り、串揚げ屋では数十本の串を並べ、焼肉屋ではビールとジュースのジョッキを割れんばかりに交わし合う姿が写っている。会社のPRサイトにも同等の写真がアップされていた。ファインダーの向こうで、両親は何を想っていたのだろうか。寿位都を溺愛していたことに違いはないが、不均衡な幸福感もそこには写りこんでいる。

「このたびはご愁傷様でした」

「まだ骨を戻してもらってないぞ」

わたしは彼女の‘歯’を差し出しながら「しばらくお待ちください」

「まだ死んでないよ、うちの孫はまだ」

福原晋次は埼玉で先代の造園業を受け継いだのを皮切りに、十年ほどして都内へ進出。バブル景気時代にレストランチェーンに手を出したものの、小規模展開故か今も着実な成長を遂げている。その駐車スペースを利用し、都心生活者向け庭いじりの小物販売スペースを増やすなど多角化も順調に推移したようだ。

「たしかに、うちのは元気な子だよ」孫のことを切り出したのは晋次だった。

「元気?」

「いや、落ち着きがないというか、騒がしくてね。確かに、それが運転を邪魔したのかもしれない。こんなことはテレビには話さなかったけどな」

「普段から?」

「あぁ」

「あのぉ、ご家族五人で仲良く食事をされている映像がありましたが」

「仲は良かったね。今じゃ、孫と焼肉で一杯って楽しみもないんだが。あの前の日が、最後の焼肉だった」

 そう言って福原晋次は歯並びの良い口径を剥いた。わたしはそこに自分が映っているようで、視線を背けた。玄関ホールにある、もう一枚の写真に目が釘付けになった。どこか見覚えのあるような。否、視界の淵で香るような人間の写し絵。

「娘さんと運転手の方とは以前からお知り合いでしたでしょうか?」

「いや、そんなことはないと思うが。わしは知らん男だが、殺したのはあいつだ。あの下手糞じぃさんだよ。死んだからいいってもんじゃない。人間、死んだら何の解決もできんだろ」

「そうですが・・・」

「お宅は、あのバスには乗ったのかな?」

「いえ、もう販売してません」

「ツアーじゃない。バスの運転席にだよ」

「の、乗ってません」

「年寄りが大型なんかに乗っちゃいかんよ。最近は高齢者の事故が増えてるっていうじゃないか。ただでさえ危険なことに、色んなもんが拍車をかけてる。危険ってやつは、どんどん同じような危険を巻き込んでくもんだよ。ダメと分かってたら身を引かなきゃ。ダメと分かっててやるんだから困ったもんだ。運転なんて、若い奴らに任せときゃいいんだよ。できないことは引退しなきゃ」

「・・・」

「高いツアーだ。なのに安いバスで安い人間使うなんてな」

「チケットは、弘樹さんがお買い求めに?」

「いや、うちが客からもらったものだ。あの男が、旅行に連れていこうなんて甲斐性はない。みんな、うちの金使ってる」

「三人分ですか?」

「五枚だ」




♢♢

 成城から直接板橋に向かった。この街も同じ匂いがする。ワインに疎いわたしの嗅覚だから、そう思うだけなのかもしれない。板橋区常盤の午後四時も、暮れなずみはじめる世田谷とは同じ日本国。危険から護るべきエリアに違いはない。

二時間後の三家族目。それはカップル(・・・・)の遺族ではある。バスに焼け残った揃いのバックルで照合できたのだが、男物のほうは、そのアパートに今いる男のものではなかった。今どきの関係には、そういうスタイルもあるのだろう。

 宗田(むねた)樹里(じゅり)二十一歳、無職― ツアー同伴者は前職のキャバクラの客、今西であるが、申し込みを入れたのは彼女だった。SNSの写真を見る限りでは目がパッチリとし、睫毛を頭頂まで届く勢いで逆立て、ゴールドの髪以外は日焼けした肌にピンクを基調としたコスチュームを纏っている。

 ドアーを叩く前に子どもの悲鳴に似た呻きが聞こえてきたから、チャイムを忘れて呼びかけていた。

「むねたさん。むーねーたー、さん!」

ボサボサの髪を掻き毟りながらハイエナ同居と思しき男が出てきた。名前は調べがついている。小松聖也(こまつせいや)、二十歳。腰まで届く長髪を後ろで束ね、唇を口ばしのように尖らせた小柄な男だ。

「なんやな、わい、虐待なんかしてへんで。あいつやってそうや。男とワイナリーなんか行きくさってやな。わいにガキ預けてやで、しかし」

「はぁ・・・」

 わたしのことを何者か分かっているのかどうか、判別がつかなかった。

 そのヒモらしき男に別の容疑のことだから安心してよ、と口にするのを抑え、笑顔を繕って続けた。右のもみ上げの先に小豆大のホクロがあるから、正面を向いていてもどこかバランスを逸している印象を受けてしまう。

「あなたのことではなくてですね。確かにあなたもタイヘンだとは思います。愛する人が残していった一粒種をどうしようか熟慮してらっしゃるんですもの。分かりますよ。で、今日お伺いしたのは亡くなった奥さんのことで」

「奧さんやないけどな。あっ、そうか。そうやな。万事一刻も早くや。賠償金のことか。このガ・・・ 子ども食わせてかないかんもんな。それが親の務めっちゅうもんや。坂本社長はんの一時金だけやと全然足りまへんで」

 子どもと同じジャージ姿で、いずれも風神雷神がワンポイントで刺繍されている。

「そうですね、早い分には困らないですよね」

「そうなんよ。あんさんからも強ぉ言うてくれへんかな」

「分かりました。で、宗田さんのことですが、お勤め先は分かりますか?」

「勤め? いかへんいかへん、わしら保護やさかい。あっ、これはちゃーんと申請出してまっせ。なんも悪いことしてへんさかい」

「その前は?」

「手キャバとかなんや色々やってたみたいやけど、夜が多かったかな。うーん、やっぱ夜かなぁ夜」

「手キャバって?」

「婦警はん、ずいぶんおぼこいんやな」そう言って男はジェスチャーを交えた。

「はぁ・・・」

 男はわたしの胸元を見ながら言った。警察機関であることは認識しているようだ。

「キャバクラって知ってますやろ」

「まぁ」

「せやったら、察してくんさいや」

とり直してから「昼間のお仕事は?」

「昼ねぇ」

「うーん、どうやったかな。確か町工場で前の旦那と知りおうた言うてたかな」

「その工場ってどこか分かりますか?」

「わっからんなぁ。そういうの関心ないさかいな。前の男のこと考えてたら、今し、女とつきあえまへんで」

「あなたも随分とモテたでしょうから、前はあったでしょ」

「いやいや、そうでもないで。たしか、あいつは・・・ そうや、ネジとかなんとか・・・。蒲田のネジ工場って」

うーっ

「こら、ドァホ、泣くな。ハリ倒っすぞ」小松は襖の向こうに怒鳴りたてた。

「どうしたんですか?」

「いつものことですわ。あっ、これ虐待やおまへんで。このくらい叱っとかんと、電車とかバスとか人前で皆さんに迷惑かかるさかいな。ダメダメって言うだけで、叱らん親は親やないで。それで子どもが迷惑行為やめるわけおまへんやろ。口だけやと、反ってはやされてると勘違いしてまうんや、今どきのガキは。もっとやってもええんやって。自分の好きなようにやりくさる。せやから、きっちり怒らんとアカン。わし、こいつの父親代わりしてますねん。今は母親兼ねての」

あーっ

急に宗田の実子が割って入ってきた。彼は彼なりに意見を持っているのだろう。その代弁者が血のつながりのない、保証金をハイエナのように狙う間男とは、なんとも物悲しい限りだが、中学卒業後に入社したというネジ工場のことが気になった。あの福原晋次は、共同経営ながら食品関連のビジネスにも手を出していた。

「そ、そのようですね、泣き止むんですもの。他に近頃変わった様子はなかったでしょうか?」

わたしは、そこで佇む子どもに小松が触れたなら即、現行犯で手錠を出す準備はしている。

「変わった?」

「そう、誰かに恨まれてるとか・・・ 恨んでるとか」

「恨み? いや、あいつはえぇ奴やから、そんなんはないと思うけどな。そりゃ、夜のシゴトあがりやさかい、色々はあるわな。男女商売やからな。あっ、恨みいうたらわしやがな。勝手に男と遊びにいきくさってからに。せやけど、恨みか(・)って(・・)バスの事故に遭うなんておかしいやろ」

「いえ、それとは別なもので」

「別ってなんやな?」

「いえ・・・ なにかお仕事上のトラブルとかは?」

「いやぁ、ないな。わいが、びっちりガード、びちびちしてたさかい、ないない」

「ありませんか?」

「ない・・・ いや、あったかな。確か客の忘れ物、どっかにやってしもうたって。なんかのデータとか言うてたかな。血相変えて、店まできてワーギャー大騒ぎや。ミリーがどっかやってしもうたって」

「ミリー?」

「樹里の源氏名や」

「そうでしたか・・・ 男はどんな感じの?」

「ガタイのえぇ、ジジーやな。年甲斐もなく若い女つけまわすなっちゅぅの。大事なもん、店まで持ってくるなっつう」

「で、見つかったんですか?」

「いいや。なんか誰やらのプレゼントの箱に混じって入れてしもうた言うてたかな。ミリーは覚えないって。わいのパンツの中も探しよったわ。ブリーフ派やで、隠せまっかいな」

「どんなものなんでしょう、データって」

「さぁ、知らんなぁ。でも、バレたらタイヘンなことになる言うてたな。まぁ、それよりこの事自体が今西って野郎の嫁さんにバレたら修羅やわな。ダブル不倫や、ダブルの悲劇やで」

恋の相手が亡くなったというのに、そこに居座る‘ゾンビ間男’は五本目のセブンスターを吹かしながら言った。

「お店の名は?」

「なんやったかな。思い出せんな」

「カタカナでは?」

「せや、ひらがなやない、カタカナや。えーっとストリッパーとかなんとか」

「ストリッパー?」

「あっ、クラブ、クラブデイトリッパーや」

「蒲田の?」

「錦糸町や」

「墨田区の?」

「せや。町はな、どこでも同じ。冷えた過去持ってる人間が行き着くとこは決まっとる。そんなことはあんさんらが一番よぉ知っとるやろ。男女商売や。行き着くとこに行き着くわなぁ。十三で親が別れて、母親はソープ。クラブなんかはまだぬるい水や。わしも同じような冷えた過去背負ってるけど、今はこいつとハムがおる」

「あー、へっだー、へっだー、はらー」

 恐らく空腹であろう子どもが、再びグズリはじめた。見た目は健常者に見えるのだがアーとかウーとかしか発しない。大きめの檻にはハムスターが飼われ、水車を模したプラスチックの回し車を飽きもせずに漕いでいる。この部屋の秩序をギリギリの速度で保つ運転士のように漕いでいる。

「うっせぇよ、ガキがよぉ」

 これを虐待というのか躾というのか。刑事の前で堂々とやるのだから、前者とは断じきれない。

 原田は密室殺人の線を模索している。バスの中でそれが‘完遂’できたとして、宗田家の今も密室の前兆に在ると言えないだろうか。ネグレクトや幼児虐待の類は被害者がSOSを出しにくい状況に陥っていること自体が問題で、バスよりも‘密室性’は高い。しかも、動機が怨恨ではなく、単なる身勝手故だとしたら、産まれてきた子どもの、なんとも哀れなこと。神々しき人間の出産行為が、体の良い‘繁殖事業’と擦りかえられては、産み落とされたほうは溜まったものではない。彼らは本来、落とされるのではなく、人間の未来に向けて‘現世の澱’を振り落とす役割を担うべく産まれてきているのだから。

 確かに、わたしが木ノ内を殺人鬼と仮定して追っているのは少しお門違いなのかもしれない。だが、原田がナイフによる密室殺人の線もあるというなら、殺し方は同じではないだろうか。バスの中でしか成しえないこと。バスだからこそ都合が良かったこととはいったい何なのだろうか。

「では、前の職場のことで思い出すことがあったらご連絡ください」

「了解ピーポス! ほな賠償金のことも頼みまっせ、早めに。わしら家族になる予定やさかいな。正式な家族に」

「そういうのは、わたしたちでは」

「なんや、警察もバス会社と同じやないかい。肝心なことはすぐにたらいまわしや。わしら底辺はいちばん最後。いつものことやけどな」

「では・・・」

「どうでもええことばっか、事故の時は先に済ませたがる。なんや、いったいぜんたい国家権力って!」

 玄関ドアーで饐えた匂いを遮断した後、宗田の不遇に胸が痛んだ。

「金のこととホンマのことだけ、いっつも後回しや」






人は喜びよりも人生の大半を苦しみのなかで過ごす生き物なのかもしれない。それが暮らしのなかで熟成した悦びと化せばいいのだが、晩腐病(ばんふびょう)のようにジメッとした過去に苛まれてばかりでは腐った果実の果ての痩せた‘死土’になってしまう。

新興勢力と言われる葡萄新地に慄く勝沼ワイナリーに着いたのは午後四時過ぎ。麻利絵が泊まったという民宿はどうしても見当たらず、現場に手を合わせた際に拾ってきた金属ボルトはポケットにしまったままだ。

その土地のプロポーション― 即ちなだらかな丘陵は言葉にするとくすぐったくなるだけで、関係者でもないオレはただ、そう、ただ指を咥えてワイングラスを美麗な空気に向けて掲げ、天から降ってくる恵の一滴を待つだけだ。もしも、そんな自然の不思議を機械仕掛けで解明しようものなら、人間など足元を掬われ転げ落ちるハメになる。葡萄の蔦で幾重にも編み込まれたベルベット生地のような濃淡緑色の絨毯に果実が豊穣に生り、その分け前に少しだけ縋る。代償に肩を組んで笑い、歌い、そしてまたグラスを打ち鳴らす。収穫の宴など、それだけでよかったのだ。もしも、欲望のままに自然の摂理に背こうものなら、焼け付くような人間の欲がヒリヒリと絡まり、解けなくなってしまうだろう。

 鬱蒼とした葡萄棚田のタペストリーから誰かが近寄ってきた。

「あれ、原田クン・・・」

 オレはビクッとした。それは麻利絵とこの場で偶然居合わせたことよりも、昨日バスで乗り合わせた女と似た香りを彼女自身が纏っていたからだった。銃を向けたら、何と勘違いされただろうか。

「あっ、どうも」

「荒川さんの指示で?」と麻利絵は無表情で言った。被害者遺族宅での弔問に成果はあったのだろうか。

「いえ、自分の意思で」

「そう、現場もやるんだね」

麻利絵は人生の探検隊代表のような目をオレに向けた。

「えぇ、必要ならばね」

「わたしたち組んでるのに、いつも別々ね」

「でも、こうやって合流してるじゃないですか」

「偶然でしょ。探してるものが違うし」

「まぁ、連絡とってないからそうなりますね。でも、事故だろうが事件だろうが、同じバスなんだから、我々のゴールは同じですよ、きっと」

「ゴールねぇ・・・ で、到着したの?」

「まだですが、そちらは?」

「もう少しかな。ヒントはアレしてきたけど」

「アレって?」

「アレってのは・・・ 色々よ」

「まだってことですね」

「色々とね、たくさんありすぎてまだなのよ。遺族会会長の静石さんは気丈に振る舞ってくれたし、福原晉次さんはチケットを五枚持っていた。それに宗田さん家の間男がヒントをくれたの」

「ヒント?」

「ネジ工場よ」

「ネジ? ボルトではなくてネジ」

「そう。ネジ」

「で、その三家族とも木ノ内と接点があったって言うんですね」

「それは・・・ まだよ」

「あなたのほうでナイフを持ってた人間は分かりましたか?」

「それも、ハッキリとは」

「木ノ内が持ってたとして、何故持ってたと?」

「それは刺すためで・・・」

「運転中に?」

「・・・」

「乗客の通信履歴にもありませんよ。運転手が刺しにきたなんて」

「でも」

「遂にやったぁ、とはあったと?」

「まぁ」

「ハンドル握りながら、運転手がナイフでバスジャックしたわけでなし」

「・・・」

 麻利絵は笑みを湛えず、口をあまり開けないから、香りの所在がどこからのものか分からなかった。

シャルドネに似た黄金色のススキが葡萄畑の隣で静かに揺れている。オレは急にサンテミリオンの赤。シャトー・ダッソーの2006年を口径に充たしたくなり「ワイン、呑みにきたんじゃないですよね?」

冗談を言ったつもりなのだが「そんなわけないでしょ」と逆に口をつぐまれてまった。麻利絵の麗しい横顔が太陽のレフを求めている。

それはグランクリュの格付けで、ボルドーのヴィンテージであるのに果実感を残したままの風味も併せ持つ。熟成度の浅い処女性のあるワインは、このヤマと似てなくもない。まだ香りも味わいも融合していないのだ。

勝沼地区のワイナリーは葡萄新地と異なり、その歴史は明治にまで遡る。甲州ブドウの起源はヨーロッパとも言われ、日本固有の品種として千年以上の歴史を持つという。以前は‘水っぽい酒’と揶揄されていた時期もあったような記憶がある。糖度二十パーセントの壁を越え、世界的ブランドとして認知されるようになったのは、ここ数年のことだ。

麻利絵も勝亦の存在を疑いはじめているのかもしれない。

「そっちの‘密室’の捜査は進んでる?」

「えぇ、まぁ」

「わたし、宗田さん家で思ったんだけど、虐待っていうのも密室殺人と共通項があるのかなって」

「虐待と密室殺人の共通項?」

「そう。ネグレクトや教育放棄も密室殺人の類かなぁって」

「まぁ、たしかに家族や教育っていうのは密室の匂いがプンプンしますな。子どもをうつ伏せに寝かしたまま託児所経営の若い女が度々外出して、その隙に死んだアレ。高校時代の元彼と合コンやってたっていうんだから、酷いもんだ」

「酷いわよね。うちの子も遊び盛りだったって、その母親が弁護してるんだもの。赤ちゃんの遊び時間奪ってまで遊びにいくなんてね」

「誰も見てなきゃ窒息もしますよ。まぁ、世の中が厭になって、それこそ自死したっていう線も残りますが」

「・・・」

「あっ、失礼失礼。あなたの推察に例えたんじゃないですから。最近、もう一つありませんでしたか?」

「あれね、今泉さんが持ってるやつ。赤ちゃんが、もう一人の赤ちゃんを助けようとしてたっていう」

「そう。もしも、その助けた赤ん坊が容疑者扱いされたらたまったもんじゃないですよ。真犯人たる赤ちゃんには動機も物証もないんですから」

「密室の完全犯罪ね」

「まぁ、誰も得はしませんがね」

「保育士や介護士は増えたけど、いい話は聞かないわね」

「下がったのは資格取得のハードルだけじゃないですから」

「給料?」

「それもあるけど、なんだかんだの緩和で気持ちのハードルまで下がりすぎた。なるにしても、ホントにやっていいものかどうか、良い意味の気の迷いってもんが昔はあったじゃないですか。聖職者には」

「それなりの覚悟がないとね」

「何で儲けるかじゃなく、儲かれば何だっていいんですよ」

「働かせる側にも問題ありってことね」

「プラットフォーマーたち、挙げちゃいますか」

下がったハードルをなお下げ、結局は従業員と乗客の安全がさらに低減される。まるで観光推進国という名のフェスティバルの中で、人の欲を焚き付けるだけ焚き付け、酒池肉林の宴を繰り返し、リンボーダンスに興じるように反りかえって生きようとするなら・・・。崖下に転げ落ちたとしても、まさに後の祭りとなる。

「ワインだって、そうですよ。一朝一夕でできるもんじゃない。好きな人間にとっては、ドメーヌやネゴシアンには聖職者でいてもらいたいんですよ」

「わたしたちも、そう思われてるわよ」

「きっとね」

「そう、きっと」

 夏に署の鉄箱に下地といたときと似た感覚に襲われていた。麻利絵も一瞬、ゾンビと化してしまったのかもしれない。

五時を過ぎると葡萄の葉影が広がりはじめた。今年の九月は夏の余韻を引き摺っているとはいえ、肌寒さが袖にざわざわと伝ってくる。

「あのぉ」

 棚田の影から誰かがオレたちを呼ぶ声がした。

「はい」

麻利絵が正気に戻って振りむいた。

「あっ、刑事さん」と麻利絵に男が言った。

「どうも、あの時は」

「本当に来てくださったんですね。いやぁ、大変な事故でした。こっちは風評被害で商売あがったりですよ。ナイフがどうのかこうとかってのが出てきてからは」

「そうでしたか・・・。あっ、こちら原田君です。刑事です」

「どうも」

「こちら勝沼の勝亦さんで甲州ワインの発展に尽力されてる方よ」

「ひと通りは存じてますよ」と言いつつ、オレは急に葡萄の葉で顔を隠したい気になった。男に面が割れてはマズイのではという胸騒ぎ。麻利絵に面識があるなら、オレはまだ覆面(・・)のままでいたほうがいいように感じたのだ。

「今日はお二人で?」

勝亦はどことなく迷惑そうな顔をしていたが、動作はその逆だった。

「少し休んでいきませんか?」とオレたちを促した。

 勝亦は葡萄畑の真ん中にある銅製の丸テーブルに白のクロスをヒャラリとひき、マジシャンの手管でピノ用グラスやボルドー、チューリップ型グラスを次々に並べてゆく。そして、数本のボトルが整然と並べられた。封開けのコルクを嗅げという仕草は、さぁ試飲でもどうぞ。もしくは、こっちの何かを疑うのなら甲州ワインを取り調べればすべて解決ですよ、といったサインだろうか。

 残念ながら、オレには人を裁く資格もソムリエの資格もない。

土色した指先で施されるデキャンタージュは見事で、ゴールド色したシュール・リーがシルクでできた滝のように注がれ、透けて見え隠れする棚田から放たれる空気に触れると、オレと麻利絵を芳醇な香りが包囲する。このヤマとはまた違った香りだ。

ラベルをこちらに向け、歪な指先の凹凸を生かして、時空に渾身の逸品をなぞりながらも一滴残らず、余すことなく注がれる。それは清流がせせらぐようであり、だだっ広い葡萄畑にいながら音の余韻にも酔った。

「シュール・リーですね」

「そうです」

 勝亦はニコリともせず、オレがそうやって応えることを予め知っていた面持ちで別のボトルに手を伸ばした。同じ感覚でデキャンタージュされるも、香りよりも先に舌に乗せたい衝動に駆られ、ゴクリとグラスを傾けた。

「ハラモ、ですね」

昨年、ピアノサークルの知人から奨められた逸品である。

「そうですよ」

このワインには命の味がする。甲州ワインとはこういうものなのかと初めて実感したブランドである。勝亦は少し得意気な顔をのぞかせ、ワゴンのほうをチラッと見やった。

これは悪くない。土の香りが混じった感覚のワインだ。皮肉ではなく、どこか彼らの叫び、ドメーヌたちの呻きのようなザラついた感触。青きパパイヤに柿の渋味をそっと潜ませたソーヴィニョンとはまた異なる、野性味たっぷりのフレーバーを抱きながらもフレッシュの香り起つ、どことない大地の叫びのリフレクトだ。

「コレもおいしい!」麻利絵の感想は、いつもこうだ。

砂糖まみれのアイス珈琲も日本酒も、すべて美味しいの一言で片づけてしまう刑事。新人レポーターを真似てベラベラと喋るよりは相手には都合いいのだろうが。

「ありがとうございます」

「甲州種ぶどうには柑橘系の香りが含まれてるんですってね。葡萄だからフルーティーなんだわ」

勝亦は顔色ひとつ変えなかった。麻利絵のムリクリ(・・・・)の感想には耳を貸さずに再び別のボトルを手にとると、ワイングラスの上辺に何処からともなくウグイスの鳴音が降り立った。

その隙に勝亦が「こういうのも窃盗っていうんですかね?」

「えっ」

勝亦のボトルを置く音が葡萄畑に木霊した。どことなく勝沼とは異なる味わい。おそらく〈葡萄新地〉のネゴシアンのワインだろう。

「新しいワイナリーつくって、わたしら甲州の種や苗木使って、さもありなんって顔で自分とこのをピーアールしてゆく。こういうのは罪ではないんですかね?」

「どうでしょう。動機はアリアリですが、物証はないですからね。飲んでしまえば」

「こちらは、いかがですか」

 勝亦はフンッと鼻を鳴らしてから、チューリップグラスに白を注いだ。

「わたしもシャルドネ使ったほうがミュスカデよりもシュール・リーに近くなると思うんです」と応えた。

「そういう方もいるにはいますね」

「でも、このグラスだとミュスカデに近い」

「えぇ」

「器・・・ということですか」

「そうなりますね。造り手で味も香りも変わってゆく。まぁ、なんだってそうなのかもしれないが。刑事さんたちの裁きもそうでしょ」

「わたしたちはワインを造ることはありません。注がれたものを吟味するだけですよ」

「ここのは相当飲んでおられるようで」

「昔は水っぽいっていう評価だったと聞きましたが」

「ワインも戦争ですよ」勝亦はおちょぼ口を尖らせた。

「戦争・・・」

「日本は本気の戦争がないからすぐに商売で争いたがる。若い連中は特にね。ルールも手続きもあったもんじゃない」

あの事故の際、勝沼のPRパンフレットが焼けないでいた事実がある。割れたフロントガラスから飛び散った紙の束。燃えずに済んだのは奇跡だったのか。そして、勝亦は葡萄新地との格の違いを言いたいのだろうか。だが、それで何の得があるというのだ。容疑をかけられるのを避けるべく買収でもする気なのか、とオレは次のデキャンタージュを待った。

「これも美味しい」

「ありがとうございます」麻利絵はルージュと同じ色の微笑を湛えた。

アメリカ産のテーブルワインだった。錆びたレールの色味でオレはグラスを持つ気さえ失せた。それは人の血の色に近い。

勝亦があのナイフの所有者だとして、誰を刺したのかはまだ判別がつかず、動機も物証さえつかめていない。増えた頭蓋骨をサービスエリアか何処かでバスに乗せたのはあなたですか、とは訊けなかった。

「わたし、グラスや土地ってあまり関係ないと思います。大切ですけど、本当に大切なのは美味しいかどうか。それに誰と飲むかじゃないですか。高いワインでもマズイ人と飲めば美味しくございませんわ」

 あながち間違いではない感想を麻利絵が漏らした。

あのナイフと同等のものがワゴンに置かれていた。オレが口を開く前に「収穫用のものですよ。今年はもう用済みですけどね・・・」

 勝亦は動揺したのか、再び麻利絵に赤桃色のワインを注いだ。一升瓶に詰められたロゼを見るのは初めてだった。

「こっ、これも、きっと美味しいですよ」

ワインの滴とともに、勝亦から汗が滴り落ちる。それを隠すかのように違うボトルに手が伸びた。

「さぁ、これを」

 ハンガリー産の貴腐ワインだった。美味しいの一言で味わうにはもったいない逸品。柔軟に甘く、宴の後のセレナーデ響くデザート酒である。

勝亦には、お開きの合図なのだろう。

 麻利絵はおもむろに「これも葡萄からできてるんですものね」






ヴォイス・レコーダーに残されているのは事故の記録であって、事件の記憶ではないのかもしれない。

十月三十日のわたしは鳥取、米子空港にいた。自らの意思で動く原田と違って荒川の指示である。飛行機のなかで、バスを使わなかったことを少し悔やんだ。焼失した(・・・・)ワイナリー・バスツアーは既に販売中止となっている。仮想ルートを辿ればまた見えてくるものがあるはずだったが、時間に追われていた。事故死の根源でもある切迫感を携えながら生きるのは間違った選択であるはずなのに、人は奇妙な優先順位を己に課している。

 あの日、木ノ内と京都で乗務交代するはずだった運転手を訪ねるところだった。

萩原(はぎわら)健(けん)吾(ご)が現れたのは、砂丘に夜の帳が降りる頃。ラクダの瘤が山の端のように、黄金色の太陽光を反射してサンド・ウォールに伸びる。白黒つかない灰色のライン(停止線)が、あらぬ方角を指した。

「こりゃ、どうもはるばる。キノケンのことなら何でも話しますよ。わしも‘ハギケン’で通ってるから。これから‘旅’じゃけどね」

「旅?」

「乗る日なんだよ」

「そうでしたか」

 萩原は九月一日付で〈STS〉を辞め、転職して再びバスのハンドルを握っている。照れくさそうに社員証を掲げ、わたしも同等の証で応えた。

「こんな遠くまで」

「お待たせしてすみません」

「大型乗れて、地方行ければ旅みたいな仕事じゃけど、キノケンは最後はなんだか無理してたな。もう旅から帰ってこねぇ」

 萩原は少し涙ぐんでいた。

「無理して乗っていたんですね」

「家族もいなきゃ金もない。条件なんて何だっていいわけさ。日々のボッカーンを埋められるなら」

「あの会社は、日常の健康チェックや点呼はちゃんとしていたのですか?」

「そんなの気まぐれよ。形式だけでやったっていう証拠がありゃいいんじゃ。急いでるときはマネージャーがチャチャッて、それで終わり。客乗せて、金が入りゃ、あいつらなんだっていいんじゃ」

きっと、坂本の会社は法定で決められた点呼もろくにしていなかったのだろう。

「過酷なんですね」

「十三日間連続乗務もありゃ、外人客乗っけてシメシメうっししーってやつもおる。時には外人用の土産販売もするんじゃ、車内で。彼らは日本人よりシビアだから、値切ってきたりする。でも、日本の風習がわかんなくって、チップ出してくる金持ちがいればラッキーさな。そればっかりは、こっちのもんじゃて」

 あのワイナリー・ツアーバスの搭乗者リストには外国人カップルの名も連なっていた。フランスにイタリア、それに中国と韓国人もいた。

「それにしても、ナイフがあったなんて物騒じゃね。やっぱり、キノケンはなんにも悪かねぇよ。仲間もみんなそう言ってる。犠牲者だよ、あいつは。外人なんて、みんなナイフ持ってんじゃねぇかな」

「そんなことは・・・」

 確かに木ノ内は〈STS〉の犠牲となってはいたが、他にも木ノ内を道連れ自殺運転に追いやった‘加害者’がいるはずだ。

「この先、もっと増えるよ、物騒なことが。外人多くなって、バスに何持ち込むか分かったもんじゃねぇ。宗教上の理由とか何とかでウサギとか蛙、乗っけてくる輩もいるからかなわんて。自分勝手じゃ、みんな。どの国もいっしょ。ロボットが運転はじめたら、誰が注意するんだって、そんな人間を」

「木ノ内さんには持病とかはあったのですか? 例えば鬱とか」

「ないない、まったくない。キノケンは酒もやらなきゃ博打もやらん。女言うても、嫁さんと娘にべったりで仕事一途じゃ。煙草は前はやってたけど、悪い噂は聞かねぇ。それに、会社なんてな、運転手のマイナス部分しか気になんねぇんじゃ、やつら。パニック障害とか薬物とかなんだっていい。バス会社は徹底して調べつくすんじゃ、事故とかやっちまったら。てめぇの保身のためなら、刑事さんより徹底してるよ。労働環境じゃなく、プライベートに問題ありってことになりゃ、自分の罪にならねぇんだから」

確かに高齢で安く雇えるならば、運行管理責任者は、その運転手は視力が弱く、体力的に無理があったかもしれないと暴露しても‘死亡事故の当事者になる可能性含む’とは吐露しないだろう。

「あの日は京都で交代する予定だったんですよね?」

「そう。だけど、こっちに急用ができちまってのぉ」

「急用?」

「父方の兄弟亡くなって、線香上げにゃいかんと。じゃけど、会社に言やぁ、すぐにリストラの対象よ。風邪で休んだってダメ。休むって口にした途端にクビじゃ。労働基準なんて、あってないようなもんだ。親兄弟の死に目にも合わせてくれん」

「そうでしたか」

「ただ、その日はキノケンの奴、オレが変わってやるよって前から言ってたもんだから。叔父が亡くなる前からだよ。不思議じゃあ思うて。でも、渡りに船って言うんかね。あいつは少しくれてね」

「お金を?」

「あぁ、相場で交代したら五千円くらいってのはあるんじゃ」

「渡したと」

「そしたら二千円でいいって」

「なぜ?」

「あいつは欲がないんだよ。三千円は香典だって。キノケンのように欲の少ないドライバーは稀じゃ」

「・・・」

「無理して東京から鳥取までピンで走らせようとしたわしも罪じゃ。あんたも、そう思うちょるんじゃろ」

「いえ・・・」

木ノ内は以前から‘道連れ自殺運転’を計画していたのかもしれない。

「被害者のなかで、木ノ内さんと知り合いの方はいましたでしょうか?」

 わたしは搭乗者リストを萩原が今持っている同じ形式のリストに重ねて差し出した。萩原は目をしょぼしょぼさせながら視線を落とした。今の会社で、視力検査を受けているのだろうか心配になった。

「いややいや、知らんなぁ。キノケン以外の被害者は見たことねぇ。運転手が途中で知り合い乗っけるってのはたまにあるけどな」

「途中で? ツアーなのにですか」

「あぁ。違反なんじゃけど、まぁ、いい小遣い稼ぎになるんじゃ。でも、そのくらいやれな、わしら生きてけんよ。ロボットに餌は要らんが、人間は食ってかんと。知り合い乗っけても雀の涙。ビール代さな。でも、その一杯があるから続けられるんじゃ」

萩原は喉を鳴らしながら言った。

もしや、一人分増えた頭蓋骨は何処かでツアーバスに途中乗車してきた‘名もなき乗客’のものなのかもしれない。風に舞ったパウダーのような砂がわたしの頬を打った。

「どうしたん、刑事さん?」

「なにがですか?」

「お砂、ついちょうよ」

「あっ、すみません。あと、誰かに恨みを持ってたりとかは?」

「恨み? それも聞いたことねぇな。わしら貧乏人は社会には恨み持ってても人間にはねぇや。逆に言えば、全員を恨んでることになっちまうけぇ」

「全員?」

「そう。もう誰彼恨むってこともねぇ歳だ。まぁ、障害の娘がおって、なんでも食中毒で殺された言うてたかのぉ。四年前のことけのぉ。震災以来、色んなことが起きよる。わしの女房もふさぎっぱなしじゃ」

「四年前・・・」

「あぁ、サーちゃん、着替え忘れんて。今夜は鹿児島じゃけ頼むよ。オレもばっちり寝てから行くけぇ」

「ハーイ」ナビゲーターと思しき女は欠伸混じりに応えた。

 障害? そう言えば、木ノ内のアパートには娘の写真があった。

今年六十五歳となる萩原は中学を卒業してすぐに就職した鳥取のタクシー会社で、木ノ内と同期であった。その後、先に家族を持った木ノ内は上京する。都心で、よりよい条件のタクシー会社に転職するためだ。男三十五歳。稼ぎ云々もあったが、障害を持つ一人娘にとって、最良の治療を東京で受けさせたかったのだろう。その後は財界の著名人を乗せる専属運転手となったものの、バブル崩壊とともに運送会社に転職する。荷物の積み下ろしはもちろん、空いた時間を有効活用すべく、倉庫会社に頼み込んで仕分け作業を副業としていた木ノ内。なにより娘の治療費に給与のほとんどを注いだ。

資料と同様の語りをしてくれた萩原は「まぁ、運転はうまかったよ」と継いだ。

ツアーバスにしても、木ノ内は三回四回の営業運転どころではない。昨日今日ハンドルを握ったわけでもなく、会社への不満が起因と原田は言うが、木ノ内の場合はやはり違う気がする。事故を故意に起こす、‘事故で人を殺す’ことは素人ドライバーが容易に遂行できるものではない。彼はその道のプロフェッショナルなのだ。

「最初の会社が同じで、今の会社はわしが紹介したんじゃ。この歳で雇ってくれるとこは少ねぇ」

「えぇ・・・」

「オレはバスにガタがきてたって思うな。キノケンはミスなんてしねぇよ。無事故記録で何度も表彰だってされてるんだ。そこんとこ、もちっとつっついてくんねぇかな」

「分かりました」

「これ、元気な頃のな」

元同僚は社員旅行の日の写真を見せてくれた。乗車する際には孫から贈られた交通安全御守りとともにセカンドバックに入れて持ち歩いているのだという。

「こいつは酒は飲まねぇんだよ。金はほうぼうから借りてたみたいだけど」

 木ノ内は運転免許証明写真とは異なる晴れやかな顔をしている。場所は熱海とあった。浴衣の裾をはだけて、酒も飲まないのに胸と頬を赤らめ、‘ちゃんちき’の拍子が伝わってくるよう。

運転席の窓越しにサーちゃんが美術館を案内している。わたしが座っている助手席を先刻まで温めていたナビゲーターだ。

萩原の視界に今まさに被ろうとする伸びた眉毛が気になった。

「バスは狂気にだってなるよ」萩原は運転席で伸びをしながら言った。

「今日、出番でしたね」

「あぁ。刑事さん、他に何か?」

「神門(みかど)ワイナリーにはどういけば?」

「それなら乗せてやるよ。キノケンが住んでた築木町、うちに近いけぇ。わしもこれから二時間寝て出発じゃ」

「じゃあ、遠慮なく」

 ハギケンは眠くてたまらないといった顔でバスを降り、大欠伸をつきながら、わたしを軽自動車へと促した。






ナイフの接点より先に、増えた頭蓋骨の正体に驚いたのはオレたちではなく、当の本人だったろう。

〈新地ぶどうSA〉の監視カメラに、その女は写っていた。だが、集合場所である西新宿バス停留所の監視カメラに姿はなく、搭乗者リストにも、その名はなかった。

「ハルさんが?」

「あぁ、ついさっきな。こないだ、おまえがサービスエリアから持ち帰ってきた例のアレだ」

「遂に出てきましたか?」

「出てきちまったな。刺した刺されたのナイフ、脇に置いといてもだ。増えた頭蓋骨の持ち主が現われた以上、こりゃ事件性を無視するわけにはいかんがや」

「どうやって途中乗車したんでしょうか?」

「キャンセルが出たのかもしれんな。それも今、調べさせてる。密室だと思ってたか?」

「いえ、その線もあるとは思ってました。藤澤さんが・・・」

「えっ?」

「いえ、密室は・・・ バスが走ってる途中になんて無いですよ。公開殺人もね」

「SAで運転手と佐々木美穂をのぞいて、みんながバスを降りた。ナビゲーターも降りてる。その人(・・・)も含めてな。休憩時間内に何かがあったってことだよな」

「誰かが殺されたとして、どうやってバスに乗るんですか?」

「じゃぁなんだ、運転手が佐々木を刺して、みんなを待ってたっていうのか」

「いえ、佐々木は生きてるし、傷痕はないですよ。だとして、逆は?」

「誰がそこから転落現場まで運転するんだ」

「ですね。その時間のはヴォイス・レコーダーにも何も残ってなかったですし」

 荒川がいつも以上にエラを左右に広げると、下地が中に入ってきた。

「なにはともあれ、刺された人間がいると仮定してですよね」

「ほら、ほうだわ」と荒川が身を乗り出した。

「リストにはないですよ、その早川って女」

「これ」

下地が差し出したのは一枚の写真だった。

 早川(はやかわ)千波(ちなみ)―― 二〇一一年の収穫時期に葡萄新地<早川ワイナリー>に嫁入りした二十九歳。鳥取県出身とあった。確か、築木町は木ノ内の故郷からそう遠くはない。容姿は、強いて言えば佐々木と似ているような気がした。身長百五十一センチ体重四十キロ。ショートヘアーで、高くはない座り心地の悪い鼻。

「早川って、この辺りじゃ有名人らしいぜ」

「これだけ派手にやってれば・・・」

荒川は別の資料に目を通しはじめた。

早川のブログに‘学ぶは真似る’が信条とあった。各種ワインコンクールの受賞歴は目を見張るものがある。優勝、優勝、セミファイナル、優勝・・・と、作り手というより伝え手としての技量に長けていることに間違いはない。加えて、葡萄珍種の開発やフランスをはじめとしたヨーロッパ各地への視察旅行記など、そのアグレッシブはワインに興味のない者にとっても恐れ入るポートフォリオだろう。

だが、これもまた勝亦が嫉妬を抱くものではない。第一、彼女が真似るとしても、それはひいては甲州全体のブランドイメージの向上に連なるものなのだから。

「なかなかの美人だな」

 荒川はいつもそんな感じのことを言う。加害者であっても被害者であってもだ。彼なりの弔い方なのだろうが、続けて言った「美人の香りがする」とは汲み取りにくいものである。

「香りって、写真から?」オレは写真を揺らしてみた。

「まぁ、ビール持ってりゃビールの香りするし、九州でグラス傾けてりゃ、芋焼酎の香りすんだろ。あの、なんだっけ、ハルさん、アレ?」

「フワッとした?」

「そう、フワッとしたアレだ!」

 オレは荒川には濁したのだが、写真からそこはかとなくフワリと匂ってくるものがあった。だが、どこで嗅いだものかは思い出せなかった。

「これ、洗ってくれよ。藤澤といっしょに行ってもかまわん。あと、その勝亦って男だな。勝沼の」

煎餅布団に似た顔がいっそう四方に広がった。荒川に何か企みがある証拠だ。

「部長、あの人、まだ鳥取なんじゃ」

「もうすぐ戻ってくるよ」

「土産くらいあるんでしょうね」

「白うさぎのか?」

「まさか」

「巻き添え自殺のだな」

「途中乗車した女のは、やっぱないですかね」

「分からんぞ」と下地が挟んだ。「麻利絵ちゃん、鼻は意外と利くんじゃねぇかな」

「分かりますよ。追ってるものが違う。それにしてもオレとあの人、なんで組んでるのに、いつも別々なんですか?」

「オレの手柄にしたいからだ」荒川は自慢気に言った。

「えっ」

「冗談だて。いっしょにいたいのか?」

「いたいって?」

「道はなぁ、‘どのみち’って言葉あんだろ。一つなんだよ。別個で捜査しようが真実一路。刑事の通る道は一本だ。おまえらは違うやり方でも、走ってる道は同じってこと。いつかはいっしょになるんだよ」

声が急に聞こえなくなったから、荒川がオレから相当離れていったのが分かった。下地も続いて出て行った。

 早川は相当なやり手なのだろう。甲州ワインを‘盗もうとした女’は言い過ぎであり、彼女のストラテジーは法に触れるものではなく、恨みを買うものでもない。事実、早川の手腕で葡萄新地発信ではあるが、勝沼のブランドイメージを損なうことなく、むしろ相乗効果が生じている。

あの葡萄畑で勝亦は、新参者には流儀ってのが分かってない、とこぼしてはいた。勝亦が彼女に殺意を持つには充分とは言えず、何か他に彼らには関係性があるのだろうか。どこかで見覚えのある顔が、そう囁いている気がした。






ハギケンと会った翌日。あの日、バスが到着するはずの砂丘には嵐が吹き荒んでいた。葡萄は昼夜の寒暖差が激しいほど育つというが、はたしてこの砂漠広地に紫色した果実は生るのだろうか。鳥取砂丘から五キロほど西方に、そのワイナリーは在る。

「甲州種使うちょるんよ」

 ハッとして振り返ると、そこには果樹園の男が西日を浴びて立っていた。どおりで太陽を間近に感じるはずだ。砂地に陰が混ざると、葡萄新地の民宿の女将を男にしたような雰囲気が漂った。

「作るのはわしらじゃけど」

「・・・」

「あんた関東の人じゃろ」

「えぇ、まぁ」

「よく、甲州ワインと間違えられるんじゃ。確かに種は同じじゃがな。でも、ここらぁは日本海に近いけぇ。味が違うんじゃ」

「はぁ」

「飲みたいんじゃろ」

「いえ・・・ あぁ、ハイ」

 間髪入れずに男はグラスの三分の一程度のところまで赤ワインを注いでくれた。

「聞こえちょう?」

そう言って男は耳に手をあてた。

「えっ? なにもまだ」

「山梨の人は樽に音楽聞かせる言うて。こっちのは海じゃ。波の音でおいしゅうなる。鳥取のワインは、だからうまいんじゃ」

 わたしはグラスを必要以上に揺らしてしまい、注がれたワインが飛び出そうになった。密香が潮と混ざる。原田なら、この芳香をどう例えるだろう。波の音までネゴシアンしたワインの風味を。

 原田は勝亦を訝しがっているのだろうが、増えた頭蓋骨の正体も、ナイフの矛先もまだ解明されてはいない。今は、勝亦のアリヴァイが先決である。萩原は、木ノ内からあらかじめ七月十四日の乗務を引き継いでほしいとの申し入れがあったと言った。計画的な‘道連れ自殺運転’の可能性がいっそう高まった。

原田とは組んでいるのに、わたしたちは別々に動いている。荒川の指示に今は従うしかなく、この砂丘の町で不毛な競争意識を持っても意味がない。彼は彼でナイフの矛先を追えばいい。こちらは木ノ内と乗客の接点の有無を確かめるまでだ。

「どうじゃな?」

ガサツな感じのする男の体裁とは裏腹に、エレガントな香りが起った。空気に触れると、また異なる醸香。まるで産まれたての赤ん坊が顔やお尻の匂いを世間に向けて発信しているよう。それが精いっぱいの感想だが、童話の登場人物のような名のワインを口にして「ピノって薬っぽいですね。でも美味しい」

「なんや、色は見んのかいな、東京の人は」男は不満気に言った。

「色を?」

「ほら、それ」とわたしのブラウスの袖を指した。少し、ワインの滴がポツポツッと点いている。

「その白いのなら、ちゃんと色味できるけぇ」

 わたしはグラスを右手で掲げ、ワインを透かし見た。すると「あっ」

何かがわたしの腕を刺した。ワインではなくナイフだ。

男は喧しく講釈を披露しはじめたが、途中で耳に入らなくなってしまった。

わたしの腕にはボルトもプレートも入っていないが、刺された人間には金属ボルトが入っていたのだ。しかも左利き。そして何者かに刺されそうになった際、左腕で心臓を庇ったのかもしれない。あの欠けたナイフの矛先は金属プレートをボルトで固定していた人間ではないだろうか。

「ほいでのぉ、鳥取が選ばれたんじゃ」

 男の口舌が終わったことを荒ぶる日本海の波音が教えてくれた。




♢♢

父は、生きていたなら、この仕事をどう思うだろうか。ただでさえ様々な災難に人は遭遇するのに、刑事の場合、災難どころか命を落とす可能性は事故と比しても高くなる。だが、父は呑気な顔で、身内の人間が少なくとも強いからいいんじゃないか。あくまでも比較だけどな。自分を守るのは結局は自分自身なんだからよぉ、と話していたことを記憶している。バス会社は、運転手の安全を如何に守ればいいのか。もしもこの先、〈GAMS〉をバスにも導入するとして、いったいどうやって。

豊洲にいる坂本と会うまで時間があったから、わたしは近くのスーパーマーケットで暇をつぶすことにした。木ノ内の悲惨な生活環境を彼は知ったらどう思うだろうか。

リキュール・コーナーに足を向けると、見たような姿がそこにあった。

目をしょぼしょぼさせてから見開くと、なんと介護用品売り場で原田が買い物かごを下げているではないか。坂本の会社近くにいることもそうだが、オムツを買っていることに殊更驚いた。子ども用ではなかった。そして彼もまた、長いまつ毛の元にある細い目を丸くした。

組んでいるのに、偶然に会うとはどういうことだ。今日は非番ではなかったか。

「藤澤さん、どういうことですか?」

 近寄りながら、原田は見られてはマズイといった表情を一瞬呈した。

「どういうことって?」

「こんなところで」

「だって、坂本のとこに行くから」

「そうでしたか」

「キミこそ、なんでココに?」

「近くですから」

「近くって、この近く?」

「そうですよ」

「だったら、キミが坂本を調べてくれればいいのに」

「彼に事件性が出てくれば、どのみち行くことにはなりますけどね。でも、何故ここのスーパーに?」

暇つぶしとは言わず「ワインよ」と応えた。

「ほう・・・ ようやくそちらにも目がいきましたか。シュール・リーのことも調べてくれてるわけですね」

「まっ・・・ まぁ、そうよ。シュールよ。現実だもの」

「いや、シュールってのは英語じゃなくフランス語で(シュフ)。SURを指すんですよ」

「主婦?」

原田の解説をおぼろげに耳に入れた。

「いや、上って意味なんですよ。だから、ワインの澱のことで」

「あーん、そっちのね」

 わたしは見透かされた気がして鳥取の話にすり替えた。

「彼、愛する家族失ってるのよ。娘さんも奥さんも亡くなってた。悲惨よ。娘さんは障害持ってたの」

「気の毒ですね」

「あと、彼は運転のプロよ」

「特殊なってことですか」

「いいえ、学校を出てからずっとドライバー職だったの。マスコミは高齢とか過労とか、労働条件もあったが故の運転ミスだってまだ言ってるけど、彼はプロよ」

「プロならなおさら・・・」

「それに、七月十四日の運転、一人でやるって事前に萩原に申し出てるのよ。ツアーの途中で乗務交代するはずだった人に」

「それは計画性があったってことですか?」

「そう。準備してたのよ。ヴォイス・レコーダーに‘オレは遂にやった’って入ってるわけだし、これで二つ目の物証が出てきた。やっぱり、死に際の人が断末魔にそんなこと言わないわよ。最初から確固たる殺意があったのよ」

「殺しのプロ・・・ 確固たるって、それこそ自爆テロじゃないですか」

 わたしにはヴォイス・レコーダーと萩原の証言がある。あとは木ノ内と乗客の接点が分かれば、木ノ内が故意に事故を起こしたことになる。今は亡き殺人鬼の顕在化だ。

「やっぱり、藤澤さんは乗客にも非があるって言うんですね」

「そう。わたしたちは事故を公平推察する必要があるけど、むりやり相打ち(チャラ)にすることはないのよ」

「そうだとしたら、木ノ内と彼らの接点を早く調べないと。現段階では輸入商社に造園業。もう一人はキャバクラでしたっけ?」

「分かってるわよ」

「色んな情報が腐らないうちにね」

 嫌味を言われた気になり「傍観者も罪人よ」と返した。

「傍観者も罪人? 生きてるだけで皆、人は容疑者になってしまう時代ってことですな」

「でも、生きてくれてるだけで人の役に立ってる人もいるのよ。そこにいてくれるだけで嬉しい人がね」

 わたしは銃ではなく、原田の左手にぶら下がる介護用おむつをチラッと見た。

「刑事なのにセンチメンタルですな」

「何言ってんのよ、キミだって側にいるだけで嬉しい人がいるでしょ」

「いないですよ。オレは一人で生きてる」

「強がんなくったっていいよ」

「別にオレは・・・。で、お土産はそれだけ?」

「お土産って、白ウサギのお饅頭とか?」

「食べものじゃなくって」

「あっ、ワインね。ちょっと座らない」

 わたしたちはイートインコーナーに腰掛けた。隣接するリキュール・ショップで催されていたのは各国ワインの試飲会。五百円を払い、プラスチック製グラスを手に取った。

「これって、どこのワインか分かる?」

「ボルドー系ですね」

「これは?」

「これは、どうかなぁ・・・ ちょっと失礼」

 彼は黒のシャツを着ていたから、介護用オムツを入れた白い買い物袋をテーブルに置いて色味をはじめた。回りは唖然としていたが、いたって真剣な眼差し。

「少し嗅いでも?」

「どうぞ」

「封開けは薬品ぽいからピノでしょ。それに透かすと濁ってない」

「これは?」

「うーん、ヌーボーかな。色が青みがかってる」

「これはどう?」

「コレ? コレはもったいないですよ。ワンコイン試飲じゃ飲めません、普通は。ヴィンテージですから」

当たっていた。

「これは?」とガーネット色のワインを指した。

「バローロの赤かな。濁った茶色だから種はネッビオーロ。品の良いカベルネって感じですよ、味は」

「こ、これはどぉ?」

「これこそ甲州ですよ。グリ色をしている」

「グリ?」

「灰色ですよ。甲州の種はおおよそ紫がかったピンク色してるんです」

「白にしかみえないけど」

「まぁ、スーパーの中ですから」

「じゃあ」―――

いとも簡単に色味だけでワインの銘柄を当てていく原田がニヤリと笑う。店内のワインを一気に飲み干す勢いだ。もしくは、この男が一連の‘葡萄案件’に関わっているのではと疑いを持ったほどだ。

「で、これなんのためにやってるか分かる?」

「うっ」

 原田は、わたしを再び見透かしたような顔を向けた。

「オレは手術したことなんてないですよ」

「で・・・」

「全員の手術歴を調べればいいんだ!」

 原田はグラスを握りつぶしそうな勢いで立ち上がった。気前よくふるまうリキュール・ショップの試飲スタッフが驚いて原田のほうを振り返ると、女性客のプラカップからワインが溢れた。

「分かったんだね。ナイフの矛先が人間だってこと」

「ワインは色味も大切ですから」

「で、途中乗車した頭蓋骨の正体は分かったの?」

「それは、署で」

「了解ピーポス」

「オレも乗客に否があるって仮説たててみることにしましたよ。じゃ、帰ってすぐ行きます」

「忙しくなるから、やっておくこと大変ね」

原田は踵を返すと同時にグラスを返し「お互いにですな」

九時半を回ったところで、店員が眼光鋭くチェックしながら商品に閉店間際の値引きシールをつけだしたから思わず首を引っ張られたのだが、わたしにはまだ‘検品’が残っている。坂本がたたもうとしている会社の色味(・・)チェックだ。




♢♢♢

〈TOYOSUクン〉と呼ばれる白熊キャラクターに扮した着ぐるみがわたしをスーパーマーケットの出口付近で見送ってたくれた。温暖化の影響で森では餌がいっこうに獲れなくなり、魚介がたっぷり流通するであろう豊洲に移住した設定のコンセプチュアルなマスコットなのだという。

そこから歩いて二十分ほどのところに坂本の会社はある。事故当時と比べてマスコミは随分と減ったが、コーヒーの空き缶を灰皿代わりに数人がたむろしていた。

駐車場には磯の香が薄っすら漂い、キナ臭いガソリンの匂い消しの役割をはたしている。あの転落焼失バスは床下シャーシ部に錆の付着が見られて腐食による劣化が酷く、強度が著しく低下しており、明らかに仕様は危険な状態であった。それでありながら、坂本は相場価格の千四百万円で購入したという。バスの状態を知っていたとしても知らなかったとしても、いずれにせよプロのやるべきではない。経年劣化には時間だけではなく人の欲と狂気が潜んでいるからだ。

 入口のドアーは、わたしの訪問を勘付いたように開いていた。

「あっ、どうも」

椅子に腰かけてひと休みしている坂本がほほ笑んだ。

「どうも」

「なにか? まだ」

「あのバスが危険だってことは知らなかったんですか?」

「運転手がですか?」

「バス自体がよ」

「えぇ、まったく」

「おたくにバスを売った会社にも聞いてるのよ。古いのが高く売れたって、笑ってましたよ」

「そうでしたか。何事ももったいない精神が大切ですから」

「なんにも調べずに‘言い値’で買ったのですか?」

「そうですよ」

どこかで塵取りの落ちる音がしたが、坂本は汗の一滴も落とさずに応えた。秋だというのにクーラーが点いている。

「安いバスは危険ですからね」

「仮にも中古車販売、車に関係ある会社を経営していたんですよね。以前から」

坂本は待ってましたという表情を松花堂弁当の脇に置いたカップラーメンの中に隠した。こういったことは一回で済ませたいのだろう。保険会社との折り合いがつきそうで、全社会的自動運転システム〈GAMS〉型バスの運行プロジェクトに向けて何事もなかったかのように再稼働の準備を進めている今、もはや転落焼死事故の事件性など御荷物(・・・)となりかねない。そう思っているのだ、坂本という男は。

「今度はいつはじめるんですか?」

「まだ決まってませんよ」

「また、バスを?」

「いえ、今度は違うものを」

「タクシーとか?」

「いいえ」

「どんな?」

「まだ、決まってないんでね」

「また、人を雇って?」

「いえ、もう人は懲り懲りだ」

「人間を使う性分ではないと?」

「そうかもしれません」

「あの人の家族のこと、ご存知?」

「あの人って・・・」

「木ノ内さんのことよ」

「いえ」

「娘さんと奥さん、亡くしてるのよ」

「それが何か?」

「遺族不明とか言ってたじゃないの」

「それが事実ですから」

「事実って・・・ あの人はプロ。運転のプロなのよ!」

「だから、こっちも、それで困ってるんじゃないですか。お客様の安全を第一に、ドライバーも安心できるベテランを雇っていたんですよ」

「社長、お電話です」

 また、吉野という運行管理マネージャーがヌッと出てきた。彼は、以前にも別のバス運行会社で実際に起きた事故の処理担当をしていた。〈STS〉を去ったものの、同業他社からは引く手あまたで、今は食品メーカーで管理マネージャーをしているのだという。この事故のほとぼりが冷めるまでの腰かけだろう。次の坂本の会社でも、参謀役を務めることは明らかだ。事故の責任をすべてドライバーに押しつけるような途中乗車のハイエナとして、再びタッグを組むのだ。

「彼はプロだった。だから、坂本さんは彼を信頼していた。素人を乗せたわけではないんですよ。わたし部外者なので、言えるのはここまでですが」






人が、バスの中で刺された確率が高くなった。

託児所に預けた赤ん坊を一人にすることで起きた密室殺人のような事故。子どもが公共交通機関の車内を走り回り、乗客の喧騒に煽られ、運転手の気が触れた末に起きてしまった事故。それらは主因ではないにせよ、あらゆる事件の一因となる蓋然性を孕むことは否定しえない。

取調室のドアーが開いた。顔ではなく、麻利絵だと認識したのは匂いによってである。勝沼の葡萄畑のものではなく、煤けた匂いがした。

「おかえりなさい」

「た、ただいま」

神妙な顔つきで麻利絵は答えた。

「どうでしたか」

「あいかわらずよ、坂本は。我関せずって。マネージャーの吉野も・・・」

「そうでしたか」

オレは早川の写真を差し出し「で、コレ」

「ゔあーっ、こ、この人知ってる!」麻利絵はガチャ歯を見せながら大きな目をいっそう丸くした。

「えっ」

オレは思わず棚田の先の崖から落ちてしまいそうになった。

「知り合い? 鳥取だ!」

「ううん、福原さん家の玄関先にいた(・・)人」

「玄関?」

「写真盾にあったの」

「この人、増えた頭蓋骨の本人ですよ」

「えっ!」麻利絵は椅子の背を反って、おののいた。

「この早川さんって人、SAの監視カメラに写ってたんです。でも、ツアーの搭乗者リストにはないんですよ」

「途中から乗ったのよ。ツアーバスって途中で知り合いを乗せることもあるんですって。小遣い稼ぎで。コレもお土産だけど、鳥取の運転手が話してた」

「あっ!」

オレは早川が搭乗者リストにない理由が分かった気がした。

「どうしたの? 葡萄が落ちたような顔して」

「途中で乗ったんですよね?」

「そう。もちろん、違反だけどね」

「会社に見つかったらタイヘンだ」

「まぁね」

「クビにする際の理由になるからいいってのはある」

「定員オーバーでもオーバーブッキングでも平気で運行実施する坂本だけど、どこからともなく乗ってきた人の分の乗車賃は請求するでしょ。金勘定だけはしっかりしてるんだから。それも秘密裡にやってたとしたら、もしや彼女も木ノ内のターゲットだったのかな」

「それは、まだ別で考えたほうがいいですよ」と諭しながらも、もしや木ノ内も一枚、ナイフと関係があるのではとあぐねてしまったりする。

「そっ」

「いずれにしても、早川のこと洗う必要がありますね」

「というと?」

「彼女の家族が警察にもバス会社にも届けを出してないんですよ」

「えーっ」

「早川が福原を刺したのかも」

「根拠は?」

 麻利絵の問いに「ここ」と、オレは自らの鼻を指さした。

「直感って、キミらしくないじゃないの」

「そうでもないですよ」

 ジューシーという名のナイフは山梨と鳥取で販売されていたものだった。早川千波は何処かで途中乗車し、サービスエリアで事件に絡んだのかもしれない。刺殺された人間も事故に遭い、焼失してしまった今、刺された人間が誰なのかを知る必要があり、その手掛かりは手術歴である。

「刺されたのって、彼女かもしれないじゃない」

「たしかに・・・」

あの日の葡萄畑の香りと鳥取から帰ってきた麻利絵。そしてシュール・リーの女の香りがオレの中で一筋の香(ライ)線(ン)となったのだった。

「藤澤さん、オレといっしょにツアーに行きませんか?」

「ツアー?」

「そう」

「バス?」

「いえ、クルマで」

「どこへ?」

「シュール・リーの女のところですよ」




♤♤

一連の狂気が朝靄に席を譲る頃には、署の時計は午前五時を回っていた。十一月といっても、街が白みはじめる時間帯だ。オレの母親は介護会社に委託してあるから急場もなんとかなるのだが、麻利絵の息子は今日もまた誰かに預けられているのだろう。刑事の子どもは不意に、日常生活から途中下車することがある。

「やっぱり。バスには殺意が同乗してたのよ」

 そう言い残して化粧室に消えた麻利絵をオレはじっと待った。

麻利絵は、玄関先のもう一枚の写真を見逃さなかった。被害者遺族を被疑者と見立て、家宅捜査できないが故に‘玄関先の物証’を見逃さなかったことは評価に値する。それを下すのはオレではないのだが。

 麻利絵の言うところの‘接点’は、早川と福原にも当てはまらないわけではない。夫の福原弘樹は義父のレストランチェーンの仕入れ担当をしており、早川葡萄園のワインを起用していた。二人に関係があったとして、痴情のもつれで刺しに来たことも考えられる。シュール・リーの女、即ち早川千波は搭乗者リストになかったものの、甲州ルートを走ることの多い木ノ内賢二と知り合いで、ツアーバスに途中乗車したまでは結びがつく。だが、はたして福原亜寿沙に、わたしこの人とできてんの、わたしにくれないなら殺すわ―― と刺殺してサービスエリアで途中下車・・・ だが、早川は二十七番目の頭蓋骨の持ち主として既に焼死している。

乗客の手術歴に、金属ボルト、もしくは金属プレートで固定した証が出てくればいいのだが、それはまだ確定しておらず、欠けたナイフの矛先であるボルトで穴埋めされた当人の骨もまだ出てきてはいない。

「お待たせ」

麻利絵が戻ってきた。髪はボサボサでメイクも落ちかけていたが、笑わないから、薄明りの中でいつもと異なる美麗を放っている。

「なに?」

「いえ」

「そっちのほうこそ大丈夫なの?」

「まぁ、普通には」

早朝五時半。渋滞が起きる頃だから電車かどうか迷ったのだが車にした。渋滞は覚悟だった。それはそれで麻利絵の横顔を眺め、事件性を孕んだ事故と対峙する時間が増えるというもの。

 首都高は既に目詰まり状態にあり、三鷹料金所付近は工事中だという。

「結局、渋滞を解消するのは人間よ。知力と思いやりのあるニーンゲーン」

 福原と早川の接点を問い正そうとしたのだが、麻利絵から話しはじめた。

「人間ねぇ」

「こないだロボットタクシーのテスト・カーに乗ったの」

「乗り心地は?」

「笑っちゃった」

「笑う?」

「関西弁モードでまくしたててくるの」

「へぇ。そのうち渋滞が生じたら、どかんかいやぁってクラクション鳴らすんでしょうね、内臓してるやつで」

「かもね。ロボットが意志もったらタイヘンよ」

「逮捕しきれませんな」

「息子がね、よく‘人間マンごっこ’するのよ」

「人間マン?」

「そう、キャストはみんなロボットで、失敗すると、おまえ人間かよ! って、つっこみ入れてから逮捕するんですって」

「‘ロボットはつらいよ’シリーズができますね」

「漫画もね」

 オレはどことなく麻利絵の息子が虐めの対象となっている気がして話題を変えた。

「ロボットが犯罪起こしても問われるのは人間ですよ。それに、物証が残る。人間は血肉が焼けたら証拠は消えるけど、金属ボルトを入れた人間の手術歴を探せば、刺殺事件の光明になりますよね。だとしたら、ロボットはデータが完全に残るわけで、言い逃れはできない」

「言い逃れできなくても、すぐにどっかへ逃げちゃうわよ。撃ったって倒れるわけでないし」

「追うほうもロボットのお出ましということですな」

「リアルな‘刑事(でか)ロボ’よ」

「そいつと組むしかなくなるんですね」

三鷹料金所は予報通り混雑を極めた。昨日からほとんど寝ていない。ドライバーたちのいくつかの眠気覚まし処方箋を浮かべながらハンドルを握った。歯医者にはまた行けなかった。

「ガムとミカン、どっち食べる?」

「あっ、ミカンで」

 麻利絵は丁寧に皮を剥き、コンソールに乗せてくれた。ガムを噛んでガチャ歯を剥くのではと少し心配だった。

「こんなに混んでちゃ、体が二つあっても足りないわね。運転代わろうか」

「いえ、大丈夫ですよ。寝ててください」

「ドライバーの意思を勘付いて操作してくれる〈GAMS〉型ヴィークルも発表間近ですってよ」

「に、人間の心理を読んで?」

「そう。あのバスも、それ積んでたら事故も事件も起こんなかったのに」

「そんな時代が来たら来たで、違うタイプの事件や事故がすぐに起きますよ」

 オレは用心しながら事故現場を過ぎ去った。後ろ髪を引かれたが、SAには寄らずに葡萄新地にようやく着いた。

早川邸は、勝亦の邸宅とはまた趣が異なる。プールはなかったものの、そこはかとないエスタブリッシュ特有の艶っ気がある。コルクの形をしたチャイムを押した。

早川(はやかわ)一輝(かずき)ではなく、家政婦が出てきた。

「おはようございます」

「はい・・・」

 家政婦はオレたちを見透かしたように「今お御留守にしてますけど」

「旦那さまは夕方には帰ってまいります。おぼっちゃんを迎えにいってからとおっしゃってましたけど」

「早川さんはあの日、家にいらっしゃいましたか?」

「あの日とは?」

「七月十四日です」

「あの事故の日・・・ ですか」

「えぇ」

「お家におられましたよ」

「ずっと?」

「さぁ、わたしは午後から来たものですから」

「何時頃?」

「四時ですね。おぼっちゃんのお迎えを兼ねて」

「じゃあ、午前中に早川さんがいたことは分からないんですね」

「えぇ」

「あの事故のことってご存知ですよね?」

「わたしがですか?」

「あなたです」

「もちろん、知ってますよ」

 電話が静かに鳴った。土間の先にリビングがあるようだ。不思議とワインの香りはしなかった。

「少々お待ちください」

庭先の、木製テーブルに無造作に置かれたワイングラスに目を引かれた。ピノ用の大きな流線型にエッジの利いた三角錐。なかにはイタリアの蒸留酒グラッパ用グラスも鎮座している。夜通し、ここで何が行われていたか予想がつかなかった。酒宴以上に、愉悦に浸れる何かがあったのだろうか。

 足音をバタバタとさせた家政婦が、用事が増えると忙しいから早く済ましてくれ、といった面持ちで戻ってきた。

「お忙しいでしょうから、ここに連絡するよう伝えていただけますか」

オレは名刺を差し出した。

「今日はずっと勝沼で打ち合わせで、お電話はつながらないと思います。わたしがかけても、お仕事中はお出になりません。奥様なら、ご連絡できますが、いかがいたしましょう」

えっ

 オレは再び中央高速から転落しそうになった。麻利絵は口を開いてモゴモゴと、「いっ、いぎでるっ・・・」

「すみません。そうしてください」

「今、奥様が・・・ 生きてるって言ったわよね」

麻利絵が歯茎と目を剥きだしにした。

「生きてるって・・・。失礼な」

家政婦は不穏な顔を引き摺ってリビングへ戻り、電話をかけているようだった。実際にかけているかどうかは判別がつかない。

一分が一時間にも感じた。

しばらくして「あのぉ、出ませんけど。もう運転中だと思います」

「さっきの電話は?」

「奥様です。サービスエリアからでした」

「もう一度、かけてみてくれませんか」

「同じだと思います。いくら忙しくても運転中は絶対に電話には出ませんから。事故が起こってからでは困りますでしょ、警察の方も」

「い、今どちらへ向かってる途中なんですか?」

「東京ということでした」

「東京のどこへ?」

「旅行の企画会社とか」

「名前は?」

「ヒロなんとか」

「あそこよ。坂本んとこに仕事ふってた旅行の企画会社」


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