別状、あり

ミーチューブ

第1話

別状、あり

                       砂花富士ヲ

一章

雨が降ったのは、彼らが焼き尽くされた後だった。

ツアーバスの運転手、ナビゲーターを含む乗客二十六名が死亡する事故が発生した。生存者は一名が確認されている。その佐々木(ささき)美穂(みほ)という名の女は荷物のように隣にいた一死体を抱きかかえながら救出された。一心同体に見えたのは、一人だけではなかったかもしれない。九死に一生を得たものの、傷痕ひとつない体とは裏腹に顔面が無惨に焼け爛れていた。目だけはギョロッと見開き、ケロイドは膿の黄と血の赤とで涙の痕跡に似た分割(センター)線(ライン)を歪に伸ばしている。 焼け焦げるように暑い夏が、タイヤ痕ばかりではなく物証も真実も、過去さえ消し去るようにバスを焦がしつくしたのだった。

現場では、転落した後に誰かがガソリンを撒いたかにも見え、澄みきった青空の下でクロック画のようにバスは‘クの字’を描いて仰向けになったまま。捜査の手をつけるにも時間を要することは明白で、執拗にブブンブブンッと旋回するマスコミ各社のドローン撮影機には車体自体が死をも意味する‘し’にも写って見えるだろうか。

 犠牲となった全員の身元確認が急がれた。

「おい、孫返せよ!」

「わたしの息子ぉ、息子がどうしてこんなところで焼かれなきゃならないのよぉ!」

「極刑しかないだろ! 死んだとしても死刑だ!」

 現場の混沌は即ち火葬場のような状態で、しばしの祈りの後、息せき切ったように怒声と怨恨とが織りなす呪詛(じゅそ)が再び降り注いだ。ビショ濡れになった白のブラウスが曝け出すのは下着だけで、根底に潜む澱にも似た人の修羅を色音に代えて透かすことはない。

「いったい、いくら儲けたら気が済むんだ。どいつもこいつも」

「先に金額言ってみろや!」

「こんなときに社長が涼しい北海道に雲隠れしてるなんて人間じゃねぇ!」

 やみ雲に骨を拾おうとする遺族もいたから、先刻まで腕を組んでいた鑑識が慌てて止めに入った。上半身は冷静を装いつつ、気忙しい革靴が擦れ合うと、また別の何かを燻り出そうとする。

「これ、わたしの息子のよ」

「いや、わしのだ」

「お気持ち分かりますが、も、も少し待ってくださいよ」鑑識は目のやり場と手の向きとをアンシンメトリーに動かしている。

「気持ちが分かる・・・って?」スリーピースに身を包む遺族が睨んだ。

「・・・」

「分かるなら誰の責任かはっきりしろよ」

「こんなこと、待ってる時間なんてないぜ」

「いっつも、同じことやないかい! こういう時はいっつも肝心なことが一番最後になるんやから」

 誰がいったい誰なのか区別がつかないどころか、摂氏三十九度超の酷暑とヘドロの臭気がない交ぜになり、手を後ろに組んだ部外者、野次馬の類の手持無沙汰で邪魔な動きに余計な神経まで逆撫でされ、焦げた骨を消化する勢いで吐しゃ物を撒く遺族も出てきたから修羅に拍車がかかる。熱中症と惆悵(ちゅうちょう)とが合併した病をわたしは経験したことがない。

 ここはしばしの我慢ですよ、と目で制したつもりだが、こちらに名刺を差し出してくる者も何人かいたから、意思さえ噤んだ。

バスは何度か転倒してシャッフルされた後で乗客は指定の席にいたわけではなく、事故の原因究明の拠り所が焼き尽くされてしまったのだから、誰が誰の遺族なのかを区別するにも時間を要し、乗客は元居た席から何処かへと弾き飛ばされているのは明白で、こちら側としてもどの遺骨が運転手のものなのかさえ判別がつかない。搭乗者リストは、まだ出番待ちでいい。雨に濡れて文字が滲んでしまわぬよう、袖に隠したままだ。

「これや! バックル見りゃ分かるでぇ」

 一頻り降った雨が止み、スコールに気紛れな太陽が傘をさすと、ギラッと光るものがあった。高熱に耐えた遺品が名もなき遺体のタグとなり、辛うじて本人とのマッチングを試みようとしているのだ。

彼の指すバックルもその一つで、なかには最後まで握りしめていた財布やクレジットカードの破片、イニシャルが刻印された指輪、眼鏡の金縁部、バッテリーの漏電爆発を思わせるモヴァイル・フォーンの残骸が散乱している。表紙だけが焼かれている勝沼ワイナリーのパンフレットの束は、軽いせいか百メートルほど先まで吹き飛ばされていた。中央高速道から吹き下りてくる風がパラパラハラッと虚しくページをめくる。金歯銀歯の類は高齢者の所有かもしれない。そして、喋らぬ(・・・)バスの構成部品の数々。難解なパズルが解明できたとしても、被害者の生身(・・・)でピースを埋めることは、もうできない。

――二〇一五年七月十四日午前十一時半頃。乗客二十四名を乗せたワイナリー・ツアーバスが山梨県勝沼の手前で中央高速道の防音壁を突き破って飛び出し、百メートル下へと転落。フロントガラスが割れ、車体の支柱がひしゃげて天井の一部が床と接触していた。バスは何かに引火して全焼した後に、運転手、ナビゲーター含む二十六名が死亡。圧死後の焼死と推定されている。生存者一名は集中治療を受けている模様。東京から山梨に向かったバスはツアー企画会社の手配書通りに運行し、行程を運転手が変えることもなく、ツアー自体は極めて順調に〈葡萄新地〉付近までは歩を進めていた。中央高速道にスリップ痕はなく、スピードを落とした形跡もない。制限速度を超える百四十キロほどのスピードが出ていたと見られる。手がかりとなる乗客が焼失してしまった今、事故の原因解明は困難を極めることになるだろう― といったニュース速報は鵜呑みにしてはならない場合がある。

運転手の乗車前にまで及ぶ健康状態の確認が急がれた。

「自殺行為じゃんかよ」白のサンバイザーを被り、赤いサングラスをかけた中年の男がつぶやいた。

 まさにその通りだった。東京を出てからおよそ一時間の間― 〈めっちゃ揺れて運転荒ぇ/なんかクスリでもやってんじゃねぇの/やっべ、マジでやっべ― といった運転手に対する負のメッセージは皆目なかった。ナビゲーターと呼ばれる女性ガイドのSNSにも何も残されておらず、乗客の皆は運転手に対してなんの不満も抱いてなかったように現状では思うしかない。バス車内に監視カメラは設置されておらず、ヴォイス・レコーダーと生存者の肉声が事故究明の手掛かりとなるだろう。

「こんな場所で死ぬなんてよぉ」

現場は〈葡萄新地〉という新興ワイナリー群の葡萄畑が広がる山梨県間穿村の一角。勝沼の十キロ程手前に在り、開催が見込まれる東京オリンピックを控え、都心からもアクセスが良好なことから新型ワイナリーとしてにわかに脚光を浴びていた。

「てめぇが死ねばよかったんだよ!」

見送る側と観る側との黒い数珠が不文律な色音を響かせ、泥濘の中で鎮魂に満たない叫びはくぐもり、やり場のない呪詛の重量感はずぶずぶと増すばかり。

自然災害と同様に、今度ばかりは、そう今度ばかりは覚悟しなければと世間は人に言い聞かせるのだが、舌の根も乾かぬうちに事故は起きてしまう。大地がひび割れ、ビル屋根と橋桁とが同時に落ち、レアメタル製のレールがウエディングケーキの生産ラインを嫌って海へ蛇曲しようとも、忘却の許しを請うた途端、戒めから解放された振り出しにすんなりと戻ってしまう。悲惨な事故や事件はそのものではなく、再び起きる蓋然性を許容することこそが凄惨なのだ。

「俺たちは諦めやしねぇよ」

「呪ってやる。しっつけぇぞ!」

「もちろんだ」

「そうよ、真相を突きとめるまで、息子はずっと生きてるんだから。永遠にずっと」

このワイナリー・バスツアーは二泊三日の行程で、勝沼に立ち寄った後、長野に宿泊。地場産ワイン、長野メルローと温泉を堪能し、二日目は途中、岡山のワイン工場を見学し鳥取へと向かう予定であった。一人九万九千円と安価とは言えないツアーであり、バスの仕様も豪華そのもの。横三列全三十席のワイド空間を誇り、シャンパンタワーを設えるスペースもあった。自動ブレーキや多重感知式シートベルトなど最新のセーフティテクノロジーを搭載― とあるものの、事故は結局起きてしまった。




♦♦

 現場近くの民宿に思いついたように宿をとった。十六の頃から家を飛び出すと、よく女一人旅をしたもので、仕事柄もしょっちゅうである。夏休みがはじまったばかりのホテルはどこもかしこも軒並み満館状態。葡萄園ツアーも盛況なため、勝沼周辺のホテル、民宿も予約できなかった。

富士山を背に南アルプス連峰の冷気を肌にあてつつ、葡萄新地の現場から胡桃沢へと下り、八ヶ岳に向いて蔦の絡む十六夜橋を渡ると、こじんまりした、というより森の中で縮こまった雰囲気の宿がある。喧騒から一夜明けて戻ってきた椋鳥たちが異人たるわたしを迎え入れてくれた。昼に食したであろうカレーライスの残り香に混じり、ここにも焦げた匂いが蔓延し、耳殻には遺族らの叫びが充満したままだから、一酸化炭素中毒にやられそう。なにより、ガソリンでも撒いたなら、すぐにでも引火しそうな匂いが鼻孔を執拗に刺しにくる。山深い自然に生きる動物らにとって、わたしそのものが‘事故’として見えているのかもしれない。

燻り出されるように佐々木美穂の顔が浮かんだ。

 三十五歳、専業主婦。夫と、その両親と文京区小石川において四人で暮らしていたという。夫の実(みのる)は大手広告代理店に勤め年収は一千万円前後。タワーマンションに住み、上でも下でもない中流を謳歌し、趣味のワイナリーツアーに出かけた矢先の不運。チケットは夫と二人分ではなく一人掛けシートであった。

 今は東京都八王子市〈仁川医大病院〉へと搬送されている。顔以外傷痕はないものの、手足は数ヶ所骨折しており、瀕死の状態であることに違いはない。

 ドドッスーッンと、遠くで何かが落ちる音が響いた。事故処理クレーンが汲み上げる際に落ちた残骸か、それともバスが転落した際に崖にへばりついていた何かだろう。現場には割れた車窓から数十メートル先に飛び散ったカバンや衣類も何点かあった。人間だけが火と火花に包囲されるように残され、一人をのぞいて焼失してしまったのだ。

「すみません遅くに」

「かまわんでいいずら」小さな声が迎え入れてくれた。

薄暗い廊下の先の小柄な影に手招きされ、わたしは<富士の間>に入った。

午後八時を過ぎた民宿の一室で、焦げた焼き魚に甲州ワインの白が供された。銘柄は煤けたラベルが見えにくくしているが、目を凝らすと〈勝亦葡萄園〉と記されている。日本酒の一升瓶と同等の形状で、グラスは小振りのビール用が出された。この辺りではワインのことを古くから‘ぶどう酒’と呼ぶそう。わたしはあまりアルコールを口にしないが、この味わいはフランス産やイタリアのものとは異なる気がした。言うなれば熟成度の浅い、良く言えば国産ならではの鮮度の高い味わい。一升瓶で供されたことのほうが印象的であったが、デキャンタなら、それはそれで味気なかったろう。胡坐をかいてわたしの手酌を待つ父の姿が透明度の高いワインの向こうに浮かんだ。父はよく酒を呑む男だった。

 六畳間の小さなテレビに映し出される事件の全貌はただ焦げ痕をクローズアップし、その合間合間で女性の透けた下着がスポットを浴びると、女将はわたしのほうをチラリチラリと見やりにくる。目配せで、あんたが・・・あの現場で・・・ と静かに問われたから、同じように少しだけ目を伏せ、えぇと返した。

警視庁の発表は現場と異なる部分もあった。シートベルトをしていた者もおり、トイレに席を立とうとした客、自前のワインで既に酔っていた者もいただろう。なにより佐々木美穂の火傷は全身には及んでいない。

「たいへんずらな」と再びワインが注がれた。

小雨をぬって、注音がトクトクッと響くから、今日の宿泊客はわたし一人なのかもしれない。人の気配さえ最初は感じなかった。

そうこうしている間に再びテレビレポーターの顔がアップとなった。右の頬に貼りつくホクロと人の群れの黒とが相似形を成す。

〈――悲惨です。とにかく悲惨です。わたしのリポート経験上、こんなひどい事故に遭遇したことがございません。転落して焼けてしまった以上、まったく悲惨というしかございません――

コメンテーターを含めた皆が、事故の全責任をあたかも運転手のせいにしている雰囲気がグラスに響いた。ツアーバスを走らせた会社の会見がはじまる頃だが、肝心の社長がつかまらない。逮捕云々ではなく、連絡がつかないのだ。バス会社の運行管理人と弁護士は現場から一時間も離れた甲府の高級ホテルに宿をとっている。

バス運行会社による運転手の定期的健康診断や乗務前の健康状態、ならびに酒気帯びチェック、適性検査などは怠ってはいなかった、とわたしのペーパーには記されている。

彼らは彼らで事後対策に集中すべく、クーラーを利かせた部屋で綿密な打ち合わせをしている頃だろう。

わたしは鯵の干物に悪戦苦闘しながら、ビールグラスで生温いぶどう酒をチビリチビリと汗のしたたる合間をぬって注入した。ゴクリゴックリといくには冷えが甘く、このグラスに注がれるはずのビールのほうが盆地特有のじめじめっとした暑さは凌げるだろう、と顎の角度を急いで変えた。

〈不注意にしては度が過ぎますね―

あっ・・・ レポーターのまとめ所感にではなく、驚いたのは女主人がまだそこにいたからだ。コクリコックリと居眠りでもしそうな姿勢で一升瓶を抱えたまま背を丸めている。丸眼鏡に白のほっかぶりを頭に載せた老女将は、わたしにぶどう酒を供するために、まだここにいるのだろう。わたしの酔いに付け込んで事故のことをとやかく問い正してくる気配は微塵も感じられない。

「あのぉ」

「おかわりずらな」と鼻提灯をぬぐいながら顔をもたげた。

「あっ、いえ。食事済みましたので」

「こりゃ、どうもどうも」膳を持ち上げた老女将は、焦げた魚をただ恨めしそうに見ていた。

 上司への連絡を済ませてから、サブリナパンツを履いてきたことを後悔した。蓼食う虫も好き好きではあるが、なにも女っ気のないわたしを喰う(・・)ことはないだろう。ブヨか蚊の類にやられた脹脛は赤く腫れ、痒くてたまらない。

原田(はらだ)和義(かずよし)は結局、現場に姿を見せなかった。わたしと組んでいると思われるのが嫌なのだろう。何かと机上で済まそうとする男だ。現場を訪れない理由は、クソ暑い最中に北海道で雲隠れしているバス運行会社社長と同等ではないが、彼の思惑は窺い知れない。




♦♦♦

問われても罰せられることのない‘社会不備’を正すための行為は、誰が担うべきだろうか。

三日後。摂氏三十七度を超える山梨は間穿村山中に、人の群れが再び蟻塚をつくっていた。焼け尽くされていない、恐竜の足跡のような葡萄の葉は泡沫の木陰となり、涼ませたい人間を選ぶ。不穏な囁きが、其々の手に持つハンケチを揺らしたから、ようやく本人(・・)が姿を現したことが分かった。

「来たぞ」

「おっせぇよ」

「スーツでお出ましだ」

「ちょっと待てよ、喋るまで喋るな」

「喋るなって、オレにだって言いたいことがあるんだ」

「だから、てめぇがうるさくて聞こえねぇんだよ」

「黙ってられっかよ」

「二人とも静かにしろ」と誰かが窘めた後、異口同音に

「人殺しよ、人殺し!」

「そうだ、こいつがヤッたのも同じだ」

「なんでジジーにムリさせたんだよ」

「高い金払ってんのに、安い運転手使うなんて、てめぇも共犯だ!」

「貴様が主犯だ!」

トルコ風ケバブのような遺族の嗚咽に燻し回されたバス運行会社社長坂本(さかもと)茂雄(しげお)は土下座して「申し訳ございません」

ひたすらに繰り返す。他の言葉は軟禁状態を強いられているかのように繰り返す。「申し訳ございません」

「こんなときに涼しい支店で安全運転の講習やるバカ、どこにいるよ」

 異口同音に何人かの遺族が嘲謔(ちょうぎゃく)寄りの侮蔑を続けた。

「誠に申し訳ございません。二ヶ月前から決まっていたものでして」

バス運行会社〈坂本トラフィック・ソリューション(STS)〉は全国に七つの拠点を持つ。坂本の生まれ故郷である大阪に東京本社、教育施設のある北海道、名古屋、京都、岡山、今ツアーの終着であったはずの鳥取だ。

人件費を極限まで抑え、徹底した時間厳守や付加価値サービスの提供等、旅行代理店にはすこぶる受けが良いのだという。使い勝手が良い点では、予約なしでも泊まれる安民宿と大差ないのだろうが、一泊二食付三千円でぶどう酒飲み放題、女将の手酌セット含む、というわけではない。一円一銭に身を削るあまり、肝心の安全性まで削いでしまっていたのだ。

「ま、誠に申し訳ありません。原因究明がなされていない以上、ぜ、全責任はわたくしにあります」

詫び言の極意は既に弁護士からレクチャーを受けているらしく、肥満体を支える膝も痛み出したからこのほうが都合良い、と坂本は土下座したままジッと罵声を浴びていた。どんな事故も同じことで、解決してくれるのは全て金と時間ではないか、と。そして、自らの形勢を一発逆転してくれるような、いっそのこと、いっそう下世話な事故、事件のニュースが飛び込んできてくれはしないものか、とも。

着膨れしたスーツから汗が一粒二粒したたり落ちる。ポタリポターリ、なまくら坊主の念仏のように地面を打つだけで弔いの旋律とはならない。現場手前一キロほど離れた側道にハイヤーを停め、中で涼みながら動静を見極めていた坂本だが、四十度近い炎天下では身長百七十センチ、体重九十キロを超す坂本でなくとも俯くだけで汗が滴り落ちるだろう。「誠に、誠に申し訳ございません」

わざとらしい鼻水が泥地に窪みをつくると、むせ返すような土の匂いに葡萄の芳香が微かに混ざった。甲州ワインの中でもベリーAという品種は、昔はあまったるくてどぶろくみてぇだったずらけど今はえぇらしい、と昨夜の女将が寝言でつぶやいていたような。秋に果実のアクトレス(女優)たちが、この棚田でフレグランス・コンテストを催すことはないだろう。

 急に携帯電話が鳴った。いつもタイミング悪く連絡をよこす荒川だった。

〈おーい、そっちは暑いか? 暑いよな!

「暑いです」

〈そんなこと分かってる。で、どうした?

「まだ、現場が荒れてて」

〈わかってる、どう荒れてるんだ!

「どうって?」

〈感じたこと言え、おまえの

「報道陣と野次馬だらけで、えーっと、それに臭いです

〈匂うのか?

「匂いますね」

〈どんなだ?

「焼けて腐った匂いです」

〈他には? 他にもあるな!

「とにかく匂います」

〈あいつは? あいつって分かるよな!

「まだです」

〈まだって?

「おそらく甲府か八王子かと」

〈もういい、メドついたらさっさと戻ってこいよ

電話を切ってからも、耳に様々な怨念が木霊した。まだ芽になりえていない遺族の恨み節だ。振り返ると、シャツの隙間から顔をのぞかせる保冷剤の類を落とさぬよう、坂本は身震いしながら「管理不行き届きで申し訳ございません」

謝辞を繰り返していた。

バスの運転手が死亡した今、被疑者にもなりうる責任者としては相応の振る舞いかもしれない。この状況下で、国が悪い政治が悪いとすごむ遺族は少数だろうから。

「ふざけんなよ」

「もう逃げられないぞ」

「人殺し!」

怒声に煽られるように何かが落ちてきた。杉の木に引っ掛かっていたであろうバスのタイヤとワイパーだ。もはやゴムの巨岩と化した百キロのタイヤが坂本の目の前を猛スビートで横切り、衝突しそうになった身を器用に反ったものの坂本は石に躓き、保冷剤がスーツから飛び出てしまった。

「危ない!」

 その警告にわたしはすんでで身を翻したから、坂本に馬乗りになるところだった。わたしの耳をかすめるようにワイパーが石を割って地に突き刺さる。遺族の声がなかったら、顔面が半分に削がれていたかもしれない。

「神様はお見通しだよ」

ワインやウイスキーが熟成の過程で目減りすることを‘天使の分け前’というらしいが、ここにさみだれに降ってくるのは転落の際に飛び散った遺品とバスの部品だけだ。‘アルコールの神’の暗示するものとは、いったい何だろうか。

「永遠の夏休みになっちまったじゃないかよぉ」

「返してよ、私の宝を返して!」

冬を忍び、春に芽吹き、夏に備え収穫の季節を迎えることなく、彼らは一粒種ではなく、人として土に還って(・・)いったことになる。

誰を恨めばいいのか。如何に恨みをはらせばいいのか責任の矛先に戸惑い、交通死亡事故の悪夢に苛まれながら、行き場のない無念を被害者遺族は噛みしめる。バスは目的地到着が目的であっても、遺族にはゴールとはなりえない。先立って事件性に想い巡らすのは、せめてもの弔い。不謹慎と揶揄されることもあるが、死が人命の終焉だとして、これが現存者の命を護る者の序章なのだから、邪悪な推察であっても遂行するしかないではないか。

「えっ、なんだって?」

周りが気を削いだ隙に、坂本が土下座を許されたのは謝辞が伝わったからではなかった。マスコミの人間が隣人に聞こえる音量のひそひそ話をはじめた。

「被害者の中に焼けたのがあったってよ」

「あったり前だろ」

「違う、顔だけが焼けてる人だ」

「体は?」

「体は・・・ き、綺麗に残ってるらしい」

 わたしは原田の到着を辛抱強く待った。ボタボタボッと落ちる坂本の冷や汗を聞き逃さずに待った。




事故は白日に起き、事件は夕刻に明白となった。

ここの課の人間は、西日が差す頃になってようやく目をギラつかせる。オレはまだ現場に足を運んでいない。見なくても分かることは、焦って見てしまうとブラックホールに陥る可能性を孕んでいるからだ。

事故から三週間ほどが過ぎている。燃え尽きたものがほとんどだが、生きてきた証を再燃させるような遺品も出はじめた。

一分一秒でも早く‘物’を届ける必要があったのだという。そのバスは観光客とともにいくつかの荷物を運ぶ段取りができていた。運行ついでに空いたスペースを利用して商品を運搬する、まさに便乗ロジスティクス・サービスで、運送会社経由のタスクもあれば直接化粧品メーカーから委託されるケースも。荷物室が客席に先んじて予約で満杯になることもあった。呉越同舟というべきか、人を荷物同様に扱っているというべきか。坂本の会社は〈バス・タブ〉と称して、サブ・ビジネスにも精を出していたのだ。タブはタブレットの略で、バスとの造語である。交代乗務員の仮眠室が荷物に占拠されることもあったという。

「人間様より物を運ぶほうが高くつくなんてな。まったく」

 そんな怒声が一課の西窓に響いたのは午後五時を回った頃。坂本トラフィック・ソリューションの空きスペース運搬サービスは違法であり、過重積載を問われることになるかもしれない。ただ、その類は弁護士か保険屋にでも任せておけばいい。もしくは藤澤(ふじさわ)麻利絵(まりえ)。黙っていればとてつもなく美形だが、妖艶な口元から不揃いに並ぶガチャ歯を見せると急に人懐っこい化け物のように見えたりする。好みじゃないが、今は組むしかない。この手の事故から生ずる事件性はオレたちみたいな蓮っ葉が担うことになるのだから仕様がない。彼女はまだ呑気に、畑に囲まれた民宿でぶどう酒の一升瓶でも抱えている頃だろう。

「なぁ、原田。そんなんじゃ奴さんに先越されるぞ。無事に着いてりゃぁよ、もったいねぇ精神も生きたんだろうけどな」

「押し付けるもんじゃないですよ。その時点で金儲けに走る輩が出てくる。自分で人知れずやってりゃいいんですよ、もったいない活動なんて」

「自慢する時間(・・)さん(・・)がもったいねぇがや」

荒川部長の声がした。バカでかい地声で、振りむいた途端、いつも側に立っている五十五歳の男。この課ではオレの上司にあたる。

「おまえ、まだ気付かんかったのか?」

「そりゃ、最初から気付いてましたよ。一人くらい生存者が出てきてもおかしくないってことくらいは」

「いや、焼け方がおかしいだろ」

「酷いですよ、そりゃ」

「いや、どこがだ?」

「顔だけ・・・のことですか」

「そう、顔だけって。他は焼けてないって。しかも、顔は女の命だぜ」荒川は煎餅布団のような染みだらけの大きな頬を突き出した。

「それ、性差別では?」

「逮捕はされんよ。オレはどうも匂うんだて」

「体のほうがですか?」

「そうだ。それもだ」

「圧死した後で乗客は焼き尽くされた」

「そのなかで一人だけ、一人の女の体だけが焼けなかった。顔だけが焼かれた。そして喋れない状態で生きている」

 いつもは即決即答を良しとするのに、荒川は柄になく逡巡しだした。

 名古屋から嫁入りした佐々木美穂は、同居する夫の両親にイビられていたとの噂もある。夫がたまの慰安にと、バスツアーをプレゼントしたのだろうか。出発前のSNSの通信履歴に〈今度ドライブ行こうよ― とあった。仕事に忙殺されている夫へのメッセージだったのかもしれないが、夫婦水入らずの旅は当分お預けとなった状態だ。

「あっちは、まだ済んでないですよね」

「あぁ、今、鉄箱に入ってるよ」

「オレが行ってきますよ」

「適任だな」

‘鉄箱’とは、この課では事件関連車両を鑑識する車庫を指す。

 オレと麻利絵は機関から目を付けられているから融通は利かせてもらえない。オレには科捜研に忍び込んで物証を持ち出した後、紛失してしまった過去があり、彼女は寝坊で遺体を葬った後で身元捜査に入ろうとした過失があるからだ。オレたちも傍から見れば、国家組織という名の鉄箱にぶちこまれている状態なのかもしれない。

「まだ匂うからな。気ぃつけろよ、中毒。マスク持ってけ」

荒川が皮肉交じりにキーを投げてきた。

「匂う(・・)モノ、他にもあるはずですから要りませんよ」

「ふん、そっちは既に中毒ってことか? 中毒だよな!」

「まぁ・・・」

オレにもようやくチャンスが巡ってきた。名誉挽回の好機が。




♠♠

夏の陽が煮えたぎった後の鍋のように暮れた頃、オレは新宿中央署内にある鉄箱にいた。ここは禁煙だ。ヤニを挟まなくなってから随分と経つ。東側の取調室から階段を下りて地下へ。中二階で螺旋階段続きとなっていて、バスの前方から後方までを見渡せるも中は見えない。屋根は今リフトアップされているが、事故当日は床と挟むようにして乗客を焼いた。麻利絵の報告書にはそうあったが、焼かれたものは他にもあるはずだ。

まさに現場から水揚げされた感のあるバス。状態として、炎天に晒されたキッチンのガスレンジに放置されたままの塩鯖に近い。焦げた臭気にヘドロと魚醬を混ぜた汚物臭が喉元に便器を放り込まれる不快として肺胞でミキシングされ鼻孔へと遡上する。

高速道を疾走し、野を越え川を渡り、飲めや歌えと興じながら日本海側へ行き着くはずのバスの中に入った。道路を走っているわけでないから、蛇行せずに歩けるはずだが、靴底がクャクチャッと音を起てるのは数多の皮膚と血とが燃え爛れた痕を踏みつけているからだろう。

オレは運転手から不意に‘乗車券をお見せください’と詰問されている錯覚を抱いたのだが、天窓から床へ振り注ぐスターダストを道標に奥の席へ。トントントトンと、剝き出しになった鉄製のヘッドレストを交互に杖代わりにして伝いながら後部座席へと歩を進める。それは錆を帯びはじめ、焼け費えた物質精神の類は霊気を帯びるまでに時間を経ていた。

客席のシートベルトも一本一本確認したが、焼け千切れている部分もあり、コンピュータに今なお生存する搭乗者データのシート位置とはとうてい照合できない。火の出処となった仮眠室は、人一人がやっと横になれるスペースだ。

被害者二十七名のうち生存者は一名のみで、彼女は一人の人間を庇うようにして顔だけが焼け爛れた。人工呼吸でも施そうとして、その隙に火の粉を浴びたのだろうか。それとも、しがみつかれたからなのか。全身がバーナーのようになって佐々木美穂の顔を焼いた人間がいたとしたら、腑に落ちない部分が出てくる。‘物証となる被害者’が饒舌になるまで、待たなければならないだろう。

何故事故が生じたのかの理由もそうだが、何故顔だけが焼けていたのか、もしくは故意に焼かれた(・・・・)のか。その可能性があるとしたなら、これは事故を隠れ蓑にした特異事件ではないか。荒川の訝しがる‘燃え方’から、急に坂道にさしかかったバスのような違和感に押されそうになった。

中央高速道の下へ、垂直に落ちながらバック転を繰り返したバスは今、都心の鉄箱でフラットに佇んでいる。

運転手の真後ろの席にいたのは静石美晴で職業欄にはOLと記されている。残されていた指輪によって本人とマッチングしたが、指の骨は後部座席にあった。唯一、シートベルトをしていたカップルは圧死ではなく焼死だろう。搭乗者リストと遺骨との照合が容易だった。進行方向左。ワインのもてなしを兼ねるツアーナビゲーターの後ろの席は空いていた。

出発前、運転手は何を思いながら乗客と搭乗者リストを照合していたのだろうか。

「おい、マスクしろよ!」

 振り返ると、闇の中に男が立っていた。焦げ逝った遺体の亡霊が遺品を探し回っているようにも思え「誰だっ!」

 オレは銃口を向けずに声を発したが、ゾンビに対しては身構えている。

「おまえさんにヤラれた男だっ」

「なんだと?」

 月光を反射した男の目がフロアに映ったから、ようやく調べがついた。

「なんだ、ハルさんか」

下地(しもじ)治夫(はるお)はナビゲーターが座席チェックするような足取りで奥にいるオレにノソノソッと近づいてきた。

小柄な男で、仕事に迷うとガニ股歩きでラボの中をうろうろと旋回しだす癖を持つ。オレが気に入ってるのは正解をもったいぶって後回しにするところ。それに、自信の持てない部分は決して明かさない。自身にさえひた隠すところは疑問だが、困ったときには頼るべき男である。

このワイナリー・ツアーバスを運転していた木ノ内とは同世代。定年を間近に、仕事に今一度真摯に向き合うベテランとして他の刑事からの信望も厚い。

「ナンダじゃねぇよ、鑑識に尾行されるデカがいるかよ」

「まだ、根に持ってるの? 尾行にしちゃ、シッポ丸出しだぜ」

「あったりめぇだろ。アレはオレも同罪にされたんだっ。共犯者扱いだ」

「悪かったよ、コレで埋め合わせするからさ。何か出てきた?」

「なんだ、まだ気づいてないんか」

「邪魔が入ったからね」

「トリシモンだよ」

「えっ・・・」

「焼いたのはな、トリシモンと人の欲。よーく」

オレはしばし耳を疑った。あのバスが運んでいたのはガソリンよりも安価なニュー・エナジーとして業界から注目を浴びつつある〈トリシモン〉であった。小量をガソリンに混ぜるだけで揮発性が高まり、相乗効果として燃費をよくする化学物質だ。その開発は全社会的自動運転システム《GAMS》とともに、国を挙げて取り組んでいる基幹プロジェクトの一つで、通称ガムはジェネレーティブ・オートマチック・モータリゼーション・スーペリオールシステムの頭文字をとったもの。政府が奨励する化学物質が、このバスに同乗していたのだ。

「中東不安とか払拭したいって思惑もあるんだよな。ガソリン代がこう乱高下しちゃ、ウチのかみさん、またブツブツ言い出すからな。孫の送り迎えに金かかるって。サッカー部なんだから、走っていけってぇの」

下地はエラ呼吸を得意とする生物のような息を吐きながら言った。

「みんな、ラクになりすぎてらぁ。いつだってどこでだって自分様だ」

「このバス会社もだね。乗客は観光先進国の犠牲者だよ」

「外人様お招きして、乗物お乗せしてよぉ、いいとこどりの日本見せて、一部の人間だけが得するようにできてらぁ。自然が美しいだなんだって、そんなもん見るしまもねぇけどな。ブレーキなんて持たずに制限速度オーバーよ」

「錯覚しちゃうんだよ、なんでもできるって」

「なんにもできゃしねぇよ。そんな人間がつくるシステムや機械になにができるってんだ。運転研修もそこそこに、行きだけ指導員ついて、帰りにゃもう客乗っけてるんだってよ。刑事がろくに検証もしねぇで、とっつかまえるのと同じだよ。あの麻利絵ちゃんも新人に毛の生えたような感じだろ」

「えぇ、まぁ」

「ったく、世の中、自動化されて便利なことと不便なことが同時に出てきやがる」

 天窓をカラスが横切ると、濁った汗が体臭と化していた。オレたちはいつの間にかゾンビの化身となっていたようだ。彼ら(・・・)は喋らない。その存在自体が安全神話のアンチテーゼとして、よく響く声で愚痴るのだ。

「なぁ、ハルさん。いいだろ、先に」

オレはおもねる目付きで下地に詰め寄った。

「ちょっと待てよ。おまえさん、いっつもそうだな」

「今回は特別じゃないか」

「特別特別ってな。仏さんになったら、みーんな平等だ。加害者も被害者もいっしょ。ここで、最後の順番を待つんだよ」

「分かったよ。じゃあ、なんか分かったら早めに教えてくれよな」

「あぁ」と下地が言った瞬間、天窓から注ぐ月光に照らされ鈍く光るモノがあった。二人して目を合わせた火花よりも、薄暗く悪臭(わるぐさ)いバスの中でその輝きを放った。

「ナイフだな」

「そうみたいだね。密室殺人かも」

「乗客ありのか?」

「ニュータイプでしょ」

‘密室殺人’の真意は、オレたちに課せられた使命の性質と似ていなくもない。事故検証と並行して事なきを得ずに密やかに殺人たる大事を解決していくのだから、もっと上からの助け船が要る。

「仏さんの身元確認が済むまででコレで遊んでなよ」

下地の満更でもないつくり笑いに「そうするよ」真っ当に応えた。

焼死体のうちの一人が、その前にナイフで刺殺されていたとしたら、顔だけが焼かれて生き残っている佐々木美穂が、なんらかのヒントを握っているはずだ。

「コレ、しばらく二人の秘密ってことで」

「また、それかよ」

「ハルさんだって嫌いじゃないだろ、こういうの」

「アホぅ」

オレからひったくるように、下地はナイフを遺留品袋に入れた。




捜査は揺らぎ、中央線特急あずさ号も強く揺れた。運転手によって其々揺れ(・・)が異なるのはクルマも飛行機も船も皆同じだ。それが殺意に満ちたバスであったなら、尚更だろう。公共交通機関が安全であるという神話は、いつの頃の話だろうか。

『下手くそはクルマなんて乗るなよ』

『この子たちは急ぐ旅じゃなかったのよ』

『安全だ安全だって言っておきながら、儲けばっか優先しやがって』

 そんな遺族の叫びが、普通席に座るわたしに木霊する。収穫後の畑に似た虚脱感を引き摺る身体は、原田の援護を待たずして滞在した山梨を後に都心に向かう電車の中でも揺れていた。もしも、この車体が何者かに横転させられ、焼かれる運命にあるとしたら、生きる事自体が命がけとなる。

運転手木ノ内(きのうち)賢(けん)二(じ)は夏休みをどれくらいとっていたのだろうか。鳥取県出身、東京都府中市在住の独り身。身長百七十八センチ体重五十四キロ。ホームページ内、プロフィールの一言欄には〈タクシーと違って腰を据えて働けるバスを選んだのが転職の理由です。運転手が握っているのはハンドルではなく、お客様の安全です――

〈STS〉では木ノ内の家族の有無はまだ確認できていないという。元々痩身だが、六十五歳の契約社員の頬はやつれ、顔の筋肉が集約されたように目袋が腫れ上がっている。心筋梗塞や病歴はない。飲酒、喫煙趣向もなく、いたって健康体と記されてはいるが、生活苦のようなものは滲み出ている。

同社では、所属する十三人の運転手のうち十人に関して、年一回実施すべき健康診断を受けさせていなかったという。運行管理責任者にかせられる適性診断実施にも不備があるはずだ。バスのギヤがトップに入っていたかどうかも不明だった。シートベルトが木ノ内の頸部で止まっていたのは何かの予兆だろうか。縊死のように見えたのは、わたしだけではないはずだ。走行中の首吊り自殺などできるわけがない。

 御巣鷹の尾根は遥か西方であるが、精霊流しに人の集う八月の数日は、乗り物に体を預けていなくても妙な胸騒ぎがする。

ガタゴトンガタゴトンッとワゴン販売の甲州産カップ・ワインが微かに揺れると、現存の郷愁にそそられた。鑑識が進み、徐々に遺品(・・)の(・)身元(・・)が判明し出したから、甲府署の応援部隊に挨拶を済ませて自署に戻るところだった。鉄箱でヴォイス・レコーダーが回収されている頃だろう。

〈いま電車か? 電車だな! 連絡くれないか

荒川のメールはいつもぶっきらぼうで‘話言葉’に近い。それに相手に質問しておきながら自分勝手な断を下す。

富士山観光に足を延ばす外国人の乗り入れが激しい富士急行線を支線に持つ大月駅を過ぎる頃には葡萄畑は車窓から消え、のどかな田園風景が広がっていた。発酵した人間の匂いや動作は、ワイナリーや葡萄畑と似ていなくもない。瓶詰されるまで奇奇怪怪なストーリーを踏む(・・)うちに確かな時と触れたがっているからだ。

 三鷹から中野辺りを過ぎれば、もはやそこはビル群に封印された人間が発酵を終えて次なる熟成の周期を待っているようで、なみなみと誰かのワイングラスに注がれる美酒醸造の所作に日々追われ、わたしもその類から漏れ滴ることはない。


人の群れをかき分け、クランク駐車する要領で新宿中央署に辿りついた。

「おう、戻ったか? 戻ったみたいだな」という荒川に「あちらさんも戻ってますか?」

「手を合わせてこいよ」

「はい」

いつもの署ではあるが、死体安置所は場所をとらずとも遺骨と遺品とで時空からはみ出しそうに感じた。人は死後四時間くらいから硬直がはじまるが、彼らは圧死された後またたくまに焼失してしまった。何処かしら骨肉の焦げた匂いが漂い、声なき声が冥々と響く。

夏はまだ暑かった。八月だから当然だ。締め切った部屋でむさ苦しい男たちといると、喉の皮膚が中でくっつきカラッカラになる。葡萄畑で天使の分け前に手を伸ばしながら亡くなった静(しず)石(いし)美(み)晴(はる)の顔写真が浮かんだ。木ノ内運転手の次に身元が判明した二人目の被害者である。手がかりは指輪だった。鈍色と化したリングには‘RtoM’と刻まれており、ワイナリー・バスツアーの搭乗者リストから埼玉に住む親へ問い合わせ、確認を済ませたところだった。皮膚が焼けても尚、契りをいっそう強めるかのようにリングは薬指の骨にしっかりとはまったままだった。

二九歳、独身。〈(株)ワールドルチェ・ジャパン〉勤務。アパレルを皮切りにレストランチェーンの事務、中規模商社と転職を経て現職に至る。研修を兼ねてのツアー参加ではあったが、静石の場合は自腹である。その会社では人材育成予算を持ち併せていないのだという。商品陳列の矢面に立ち、対価の受け取り作業スキルさえあればいい拝金社会にあって、専門性や労働意欲のフィット感が求められないとしたら、皆一様の手順で仕事にのぞむしかなくなるだろう。だが、静石は情熱と希望を仕事に反映すべく、ワインの何たるかを究めようとしていたのだ。

大学卒業後に就職した、わたしの妹の職場も酷かった。労働契約書も入社承諾書もなく、ワンコインランチおごりの代替となるミスのなすりつけなどは日常茶飯で、何より上司が社長の意見に数分ごとに左右される無能ぶりに涙さえ出なかったという。誰を雇っても同じような職場で、自分の吸いたい空気だけを肺胞へ誘うのは容易ではない。モータリゼーションが進化しようと、とかく自分の想いはオートマティックには叶えられないもの。もしも静石がしゃんとした企業で研修を受けていたとしたなら、こんな惨事に巻き込まれなかったかもしれないと思うとゾッとする。

‘R’がイニシャルの人間は搭乗者リストには無かったが、遺族会代表となった静石の父親が美晴の恋人、坂口隆太からのプレゼントであることを確認した。

「おい、藤澤、とっくに講習期間過ぎてんだぞ。現場はそんなもの待ってくれないだろ。くれんやな。結果出せよ。匂い、持ち帰ってきたんだろうな、ニーオーイ」

「匂い・・・」

「皮肉(・・)だろ? 骨しか残ってないなんてな。皮肉だよな!」

荒川は少しだけ顔を出して、行きつけの蕎麦屋へ消えていった。地声の大きな男が視界に入っていないことで分かった。まだ何もヒントらしきは得ていないのだろう。

右列のシートは原田が照合の見当をつけている。搭乗者リストでは、進行方向左の最前列にはナビゲーターが座り、勝沼を過ぎてから乗客のワインサーブにあたる予定であった。その後ろは空席で、二人掛けとなる三列目には佐々木美穂が一人座っていた。続いて独身の宗田樹里(むねたじゅり)のシート。同伴者と揃いのイタリア〈モンテカ〉社製バックルで判明した被害者であり、唯一シートベルトをしていたが故に早々に身元が判明したこともまた皮肉である。連れの男の名は今西。三角関係の一角を成すであろう、関西弁でまくしたてていた男の姿が浮かんだ。

「お待たせしてー」

「待ってないですけど」

「そうだと思ってましたよ」

再び洗面から戻った原田と二人きりになった。

「また、ややこしくなる」

 原田はそうは思っていないはずだ。顔だけが焼かれて尚、ただ一人生き残った被害者の存在など彼の十八番ではないか。それが彼自身の動機付けとなれば、遺留品から物証をでっちあげて事件を捜索する前に創作(・・)する(・・)かもしれず、全容解明の邪魔にならぬよう彼の動向にも留意しなければならない。

「そうなの?」

「そりゃそうですよ」と含みを持たせながら続ける。そういう男だ、原田という刑事は。インテリの割に見当違いの所感を持っていたりする。

「まぁ、単なる運転手の居眠り運転で、焼けたことだけがやっかいなアレってことですよ。何も残ってないんだから」

原田はシラッとした顔で言った。

「残ってるじゃない。彼女のカラダ(・・・)」

「今は喋れない顔もね」

原田の思惑がうかがい知れず「運転手のヴォイス・レコーダーに残っていた最後の言葉、聞いた?」

「レコーダー?」

「そう、‘オレはやったぞ。遂にやったぞ’って」

「パニくってたんじゃないですか」

「あれは自白よ」

「自白?」

「それまで何の声も発してないのよ。しかも二回続けて言ってるの。高速の防音壁にぶつかる前に乗客に危ないって呼びかけもしてないしブレーキ痕もない。バスが転落して燃えはじめたときに初めて放った言葉が‘やったぞ’って、ある? 死ぬ前ってあー、とか、うーとか言わないかな。家族への別れのメッセージとか」

「人は断末魔に意味のないこと叫ぶのでは?」

「意味のないことなんてないわよ。こういうのは被害者より、むしろ加害者がこの無意味に思えることにビクつくものよ」

 そう言ってから、改めて真の加害者が誰なのだろうかあぐねた。

「運転手が乗客を‘殺した’と?」

「まぁ、そういう線もなきにしもで・・・」

「物証は?」

「それは・・・ それは今ハルさんが調べてるから、まだよ」

 原田はヤレヤレといった目をわたしに向け、薄くなった頭頂部を円を描くように掻きながら言った。筋肉質ではあるが、身長百七十五、体重六十キロ弱は痩身の部類に入るだろう。カルデラのような皮膚から煙が出そう。

「動機は?」

「動機は・・・ 動機も物証もヴォイス・レコーダーよ。そう、乗客に恨みがあった。だから、‘危険運転自殺’で道連れにした」

「動機があるとして、転落した後でバスが燃えて、佐々木さんの体だけが焼かれていなかったことと関連はありますか?」

「それは・・・」

「オレは、そうは思わんですな」

 原田は自らの推察を断言する際、イギリス人探偵のような体裁を繕う。確信を持った時点で語尾に‘ですな’をつける癖。東大を出てエリートコースまっしぐらの彼が、わたしと組まされた理由は分からないが、相当なやらかし(・・・・)野郎らしい。冤罪だろうがなんだろうが、物証まででっちあげる強硬派との噂もある。黙っていれば事が運ぶものの、余計な部位にまで手を出すのは持てる者の強みであり、キャリア組の弱みでもあるのだろう。

「ヴォイス・レコーダーは事故でも事件であっても、どちらの物証にもなる。だから最大の物証なのよ」

 原田が少し驚いた表情を見せたのは、荒川が置いていったメモ書きに移した視線で分かった。わたしには、その内容が読み取れなかった。

「ドライバーの殺意ねぇ・・・」ささっと自らの袂に引き寄せた。

「そうよ、だから物証はレコーダー。そこに残された肉声なの」

「皮肉でもないけど、彼はただ死にたいと思ってただけでは? ブレーキ痕がないわけだし、劣悪な労働環境や将来への不安で、もうどうでもいいやって。勝手にしやがれってヤツじゃないですか。フランス映画の。会社への当てつけにもなるわけだし。これぞ、リアルな自殺行為ではないですかな。人を殺してから自殺ということもあるにはあるが、運転手は一人でハンドルを握っていたわけですから」

「殺しが先って? そんなことないでしょ。それに、自殺ったって他殺と同じようなものよ。相手だけじゃなく、既に自分のことを他人扱いしていたとしたら」

そう言い、わたしは情感に流されそうになった自分を顧みた。まずは物証固めが近道であるはずなのに。

「最初っからドライバーが死ぬつもりだったって、乗客はたまったもんじゃないですな」

「そうよ、たまったもんじゃないわよ」

この男はどこまで沈着なのか。それとも、わたしに出し抜かれたくないのか。もしくは何か別のものを嗅ぎつけているのか。いずれにせよ、運転手が殺人鬼であることは認めたくないらしい。

「さぁさ、二人ともさっさとエンジンかけろ。かかってるな。かかってるよな? 出発だぞ出発!」

わたしの側を葱臭が横切ったから、再び聞き込みに出ることにした。地声の大きな部長が戻ってきた証拠だ。わたしより一日早く帰京した坂本の会社へ出かける準備は、既にできている。




♦♦

 その会社はまだ慌ただしい空気に包まれていた。週刊誌の記者やらテレビ系マスコミ、野次馬が濛々と群がり、なかには遺族らしき人たちがモヴァイル・フォーンで誰かとの通信を頻繁にしている。

 東京はイーストエリア。ここはモノレールが新橋から続く豊洲で、場外市場が移転する予定となっている土地の、開発途中の空きスペースに坂本トラフィック・ソリューション〈STS〉は間借りするように在る。四方をバスの駐車スペースで固めたプレハブ仕立ての会社の椅子はてんでバラバラで、会議用テーブルを社長デスクにしている。会社の外面は地味であるが、愛人が二人もいるなら、遊びは派手と言ってもいいだろう。

中古車販売から業務転換し、バブル景気の波に乗っていっ時は年商五十億を数えるまでに成長した〈STS〉。スタートは三台であったのが、今は二十台のツアーバスを保有している。ドライバーを雇い、みっちり教育、研修を重ね、走れるようになったら仕事をとりにゆく。仕事が取れたらバスを買い増しするといったスキームがいつしか真逆となり、坂本のやるべきは、ツアーの面白味、即ち金の旨味に便乗することこそがプライオリティとなっていった。仕事をとってから、バスや運転手の適当なキャスティングに腐心するようになってしまったのだ。

 その道でずっと生きてきたのだから、古いバスに独りよがりな雇用形態をかけ合わせれば、結果がどうなるかくらい見通せたはずで、前に行くスピードと堕ちるそれとが同じなことを知りながら尚光明をゴールとするなら、責任の所在の矛先くらいは設定済みだろう。

「えっ? 刑事さん・・・」

「藤澤と申します」

 わたしはスルリと中へ通された。バスに非常用に備えられているカップ麺のゴミがあちこちに散らばり、そのうちの数個から起つゆで汁の臭気と安コロンとが混じり、風呂に入っていない男たちの体臭がわたしの鼻孔付近で急ブレーキをかける。

「どうも」と頭を下げる坂本は少しやつれた気もしたが、冷房はしっかりと設定温度が低く保たれ、長テーブル左右の小型扇風機が悲鳴を上げるように音を起てながら坂本を涼ませている。遺族への電話対応ではなく、保険会社との綿密な打ち合わせに追われているようだった。ブーフーブーフーという鼻息でペラのツアー企画書がハラリとわたしの前に舞い落ちた。

「大変ですね」

それを拾い上げながら嫌味ではなく言った。

「えぇ、大変ですよ。これじゃ遺族対応もできない」と坂本は疎らに皮脂の浮いた頭を掻き、その指先を確認した。

「ごもっとも」

坂本は小声で「このマスコミどもって、逮捕できないんですかね」

「えっ・・・」

「人権侵害・・・ 不法侵入とかで」

「はぁ・・・」

「警察の方なら分かるんですよ。真実をちゃんと調べてくれるから。でも、ヤツらは当てずっぽうばかりだ。あることないことね」

目付きをきょろきょろと変える度、坂本から汗が滴り落ちる。その当てずっぽうの先っぽがわたしと原田であることは自供しなかった。

「まだ事故の全貌解明にはいたってませんからね」

「全貌って・・・ あれは運転手の居眠りであって、うちは法令にのっとって乗せてますから、責任はアレですよ。無理な勤務体制じゃない。休ませるときはちゃんと休ませてるし。もう書類はそちらにいってるでしょ。それに、なにもかも焼けてしまったんですから」

 坂本は、何を訊いても埃は出ないぞ、といった目を剥いた。貯金のたんまりあるトドがセイウチに餌を分配するように目を剥いた。

「全部ではないですよ。証拠がないとでも?」と腰に手をあて訊いた。

「証拠って?」

「ヴォイス・レコーダーがあるでしょ」

「あっ・・・」

坂本は死に際に運転手が会社への恨み辛みを吐露していたら、どうなるものかと危惧したのかもしれない。

「木ノ内さん、色々と証言してくれてるのよ、レコーダーに」

「な、なんて?」

「まだ、ハッキリとはね・・・」わたしは濁すことにした。

「・・・」

 もしも、‘オレは遂にやったぞ’――というラスト・ヴォイスを坂本が聞いたとしたら、どう受け取るだろうか。

「いずれにせよ、うちは協会の運行規約守ってますから、運転手がなっ、なに言おうが、関係ないですよ。映像がないわけだし」

「それが遺書のような言葉だとしても関係がないと?」

「関係あるとしたら、保険屋さんに関係あることでしょうね」

 わたしの頭にあるマイクロフォンには、しっかりとこの言葉が録音されたはずだ。

「なにか?」

福島出身の運行管理人が音もなく姿を現した。謝罪会見会場にもいた吉野という男は顔色一つ変えず「資料で足りないところがあれば言ってくださいね。すぐに対応させていただきますから」

わたしは「そちらが出してくれたものに関しては充分ですよ」と応えた。

坂本がヘッドハンティングした吉野は、まだ泳がせておくつもりだ。弁護士資格を持つ男は仕立ての良いスーツを防護服のように纏い、顔の全パーツを中心に寄せて余所見顔のしかめっ面を呈した。喋り出す度に右の頬を少し吊り上げる癖を持つ。既に次の請負先企業が決まっているという。同じバス運行会社だ。わたしには先に被害者遺族に会う必要があり、それからでも吉野を断崖(・・)に立たせるには充分な時間が残っている。まだ、このツアーははじまったばかりなのだから。

「それは、けっこうなことです」吉野は頬の角度を変え、金メッキの剥がれ切っていない天秤と向日葵の記章をこすった。

坂本の会社を攻めなかったら運転手が浮かばれない。攻めた挙句、保証金だけで事故が清算されたとしたら遺族が浮かばれないジレンマのなかで、わたしは木ノ内に何の裁きを与えようとしているのだろうか。

「これ以上、どうすればいいんですか?」

 坂本がうんざりだという顔をわたしに向けた途端、バタンと入口のドアーが開いた。社員が群衆の歯止めを抑えきれなかったらしい。坂本は椅子から飛び起きて、とってつけたように土下座した。このルーティンは、まだ‘軟禁状態’にあるようだ。

「誠に申し訳ありませんでした」

大声が小さな会社に響いた。きっと、あの日も叱責するように木ノ内ら運転手を朝礼とともに送り出したのだろう。

山梨の現場と同じく、周りが気を削いだ隙に土下座を許されたのは謝辞が伝わったからではなかった。再び数人がなだれこむように中へ入り、記者らしき男が叫んだ。「バ、バスの中に凶器があったんだってよ!」

「狂気って、そりゃパニックだったってことくらいわたしにも分かりますよ」と聞き直った坂本に皆はおののいた。

「違う、そっちじゃない凶器だ。ナイフが落ちてたんだよ!」

「ナ、ナイフが・・・」と漏らした後、坂本が少し笑った気がした。

 カタカタカタッと音を起てる壊れかけの小型扇風機の羽が今にも外れ、わたしを刺しにきそうだった。




♦♦♦

スリップ痕は高速道路には残されていなかったが、転落焼失現場には確かな足跡が残っているはずだ。

現場百回とはよく言ったもので、野火と荼毘とが入り混じった〈葡萄新地〉には、なぜか勝沼の人間も来ていた。あの事故当日にも現場に姿を見せていた男だ。そして焼き尽きなかったパンフレットにも写っていた男。勝沼地区の世話役を兼ねる〈勝亦ワイナリー〉代表勝亦(かつまた)俊樹(としき)である。

花を携えていない、とり巻きの三人も資料で見た顔ぶれだった。バスツアーの最初の観光スポットは勝沼ワイナリーであって、工場見学や特別試飲会も用意されていた。彼らはバスに恨みはないのだろうが、新興勢力たる葡萄新地に対してのやっかみはあったかもしれない。なにせ、伊勢志摩サミット晩餐会での提供が確実視され、今や国産ワインの世界的地位を押し上げた老舗ワイナリー群だ。その追い風にただ乗り(・・・・)するかのように‘良いとこどり’されたのでは恨み節の一つも吐きたい気持ちも分からなくはない。ただ、彼らがこのバス事故、もしくは事件と関わりがあるかどうか。搭乗者リストに、彼らの名はない。

「酷い畑だ」勝亦から口を開いた。

 瞼に頬、顎にかけて顔のすべてのパーツが緩んでいるものの、眼光鋭い七十一歳。発声も矍鑠(かくしゃく)としていて、口を開く度にワインの香りが起つ。赤か白かでいえば赤だ。

「酷いですね」とだけ応じた。

「前からだけどね。事故はもっと酷い」

「むしろ惨いのでは」

「そう、ナイフが出てきたってことは、そういうことずら」

 勝亦も既にナイフのことを知っていた。

「事件でもなんでもないんですよ、ただナイフが出てきただけであって・・・」

「だが、刺した人間がいるかもしれない。刺された人間がいたらの話だけど、証拠が焼けちまった。バスも飛行機と同じで、手荷物検査しないといけない時代になったもんだ」

「勝亦さん、そんな事件じゃないんですよ。これは事故。単なる事故。だから、わたしはここにいるんです」

 そう言って目を反らしたわたしを見透かすように勝亦は「今度、わたしのワイナリーにも遊びにきてくださいよ。新酒をごちそうしますから」

イエスかノーかの判子しか持ち合わせのない男の目をしていた。

 一人の男がポケットにやおら手をかけた。マッチを擦るとグランドゼロとなった畑に紫煙がゆっくりとくゆる。同化するはずの葡萄は、そこには生っていない。すると、修繕の済んでいない中央高速道の高架上から、また何かが降ってきた。紙の類だが、車から誰かが落とした塵なのかもしれない。

「危ないね」と冷静に漏らす勝亦に「ここらは、よくモノが降ってくるんですね?」

続いて花束。そして、バラバラになったバスの構成部品が雨粒のように野火となった地を無造作に叩いた。




♦♦♦♦

山梨からの帰途で、私は途中下車した。

府中刑務所近くにある木ノ内ドライバーのアパートは昼間でも陽当たりが悪かった。カーテンは既に外されているのに部屋の中は暗く、卓袱台が置かれていたであろう場所だけがくすんだ畳の蒼を残している。

「刑事さん、わたしも腰が悪いんで早くしてよね。疲れちゃって、しょうがないわよ。こういうのって疲れるでしょ、毎日のことじゃないからね」

大家が足音も起てずに玄関先に立っていた。

「あっ、すぐ済みますので」

家具という家具は大家によって既に処分され、押入れには覚せい剤や脱法ハーブ、ゲーム機器の類もなかった。古びたトランジスタラジオには一枚の写真がセロテープで貼られている。それにはまだ慢性的な腰痛を患う大家も手をつけられないのだろう。妻と娘。木ノ内は家族らしきとは死に別れ、独りで生きていたという。振り返ると大家の姿はなく、何故かラジオが周波数をキャッチした。健康食品シーエムの後、遺族会代表・静(しず)石(いし)憲(けん)治(じ)のメッセージが四畳半の居間に流れる。奥の六畳間には妻と娘が生活していたのだろう。

事故後五日を経てマスコミ各社に配信された父親の会見メッセージが背中に刺さる。

〈――美晴は本当に明るく、雨の日も雲った日にも周囲を明るく照らしてくれる自慢の娘でした。美晴は突然の事故によって短い人生を終えることになりましたが、多くの友人や会社の方からお悔やみをいただき、この二十九年間を充実して過ごせたことが分かりました。今回の事故には憤りを禁じ得ませんが、多くの報道、皆様の所見から、今の日本が抱える、偏った労働哲学や過度の利益追求、安全軽視など、社会問題によって生じた歪の連なりによって発生したように思えてなりません。今回の事故については、警察機関によって原因と責任の徹底追及がなされ、また、行政による旅行業者の各種問題の毅然とした洗い出しや、徹底した改善が行われることを強く切望します。すぐによくなるものではないかもしれませんが、今すぐに始めなければ、到底間に合いません。明日また同じような目にあう被害者が出てきてしまいます。突然の事故が必然となってはならないのです。

きょうも多くの方がバスツアーに出かけていることでしょう。どうか優先順位を間違えないでください。安全はマスト項目であり、費用削減はウォント項目であることを冷静に考えてほしいと思います。今回の事故につながったツアーに関して、私は娘を信用しきって内容をほとんど確認せずに参加させてしまいました。あとの祭りにはなりますが、『ツアーがどんな内容なのか』、『ちゃんとシートベルトを締めろよ』とかの声がけをすべきであったと悔いております。親兄弟、おじいちゃん、おばあちゃんとして、子どもたちに何が大切なのかを気付けるようなお声がけをしてほしいと思います。

お節介ではなく、これは遺族だけが発信できる社会メッセージです。今、子を持つ人間が相手の立場に立って物事を考えられるかどうかの分岐点にあると思います。七月十四日は、私たち家族やほかの遺族にとっては命日になりますが、報道関係者や旅行業者などにおかれましては、このような事故が二度と起こらないよう、毎年、何らかの発信、行動をなす‘心掛けの日’にしていただければ、今回の事故の犠牲者がみなさんの心の中に生き続け、安全に対する心のたがが緩むことを防ぐ一助になるのではないかと思っております〉―

 遺族会会長となった彼もまた、わたしと同様に、遺族でありながら事故、事件の両面から、時に客観的にさまざまな推察を強いられる運命にある。娘のことだけを考えて悲しみに明け暮れる暇はないのかもしれない。その分、わたしに課せられた責務は小さくはない。

トゥルルルル――  

また、タイミングを逸した荒川の電話だった。大家が箒を持って立っていたから、わたしは逃げるように本通りに出た。

〈どこだ? 現場か? 現場だな!

「そうですけど」

〈なんだ、怒ってるのか? 怒ってるな!

「そうでもないですよ」

〈ナイフは原田が追う。それよりもな・・・ 頭蓋骨と搭乗者の数が合わないんだ。二十六じゃなく七あるんだ。にーじゅーうーなーな、な!

「えっ」

〈一人分多いんだ。分かるか? 分かるよな! 遺骨のパズルは別として、増えた頭蓋骨は誰の目にも一人分ってことだ

「リスト漏れじゃないんですか?」

〈そんなことはない。金勘定だけはしっかりやる連中だ

「佐々木さんはのぞいてですよね?」

〈もちろんだ

「・・・」

〈ハルさんに間違いはねぇはずだ

「原田クンにまたそそのかされたんじゃないですか?」

〈ベテランは二度轍踏まねぇよ。まぁ、詳しいことは後でな。

 犠牲者が一名増えた。戻って、原田と会うのが不安になった。




屍は多くを語るが、ナイフの刺さった屍はいっそう饒舌になる。

「妙なのが出てきたんだってなぁ?」

遠くからワープして近づく荒川の地声のほうが妙味はあるが、オレは素直に応えた。「出てきましたね」

下地は既に荒川に報告済みらしい。モシモを察して、オレと秘密裡にやるのを避けたいのだろう。

「殺しか?」

「それはまだです。今、分かってるのは凶器らしきが焼けなかったってことですよね。あの事故と同時に殺しがあったのかもしれないですし、バスが転落する前かもしれません。それとも、もっと前かも。いずれにせよ、遺骨が増えてしまった今、なんらかの事件性が絡んでるってことは確かですよね」

「それも悲惨だ。悲惨だよな。コイツは台所で使うのとはわけが違う。殺意を持った人間の持つナイフだ。所有者も傷痕も焼かれたんじゃ、どうしようもないけどな。まぁ、その辺はおまえさんとハルさんの十八番だろ」

「持ってた奴は生きてるかもしれませんよ」

「生きてると思うのか?」荒川はそう言って資料を差し出した。

「こ、これは・・・」

ナイフは果樹園でよく使われることから〈ジューシー〉の異名を持ち、刃渡り二十センチ。柄の部分が象牙でできており、生産は中東のエジンバラとあった。あの〈トリシモン〉の産出量が世界の三割を占める国から輸入された刃(やいば)である。

葡萄の収穫時期に使用されることが多く、R―27系は山梨と鳥取で販売された記録データがある。だが、山梨の人間も鳥取の人間も搭乗者リストには無い。すべて東京と神奈川、埼玉在住だ。

「でも、このナイフ持って乗り込んで来たら、それこそレコーダーに残ってるだろ。バスジャックだぁ! ってさ」

「ですね」

「奴さんは何だって?」

「ハルさんですか?」

「いや、藤澤だ」

「あの人には言ってませんけど」

「ほぉう、冷たいじゃないか。チームなのに」

「チームなんて・・・ 補助ですよ。部長だって、言ってないでしょ」

「まぁ、そうだが」

「言っても分かんないでしょ。あの人、運転手が殺人鬼だって思い込んでるんですから。鬼は他にいるのに」

「その線は消えたのか?」

「いえ、まだですが。それならそれで物証がないと」

「証言はあるんだろ、ヴォイス・レコーダーの。自供と言えなくもないやな」

「部長、レコーダーですよ」

「立派な証言じゃないのか。本音ぶちまけたラスト・メッセージだぜ。誰の邪魔も入らんわけだし、刑事に自白強要されるでもない。オレは遂にやったぞーって。オレだって、ここのしがらみから解放されて人生しまう(・・・)ときに叫んでみたいもんだて」

 どうやら麻利絵も荒川に報告済みらしい。

「でな、これ」

荒川は妙に声を絞って言った。突き付けられたのは、刃の欠けたナイフだった。あのナイフと同じタイプだろう。

「なんですか?」

「ガイシャ(・・・・)のいない刺殺ってのもおかしいだろ」

そこには被検のプラスチック模型もあったから、ゾッとした。あの鉄箱で、オレはナイフが欠けていることを見逃していたのだ。

「一致するのは何だろな」

荒川がナイフの模型とその‘蝶番’とをカチャカチャし出した。

「やはり、刺された人間がいたのかもしれないですね」

「刺した人間もな。骨の‘マワリ’は消えちまったけど、可能性はゼロじゃない。すんでに避けて、バスのどっかを刺したのかもしれんが」

「もしくは、どこかで刺してから・・・」

「転落したときに欠けたのかもしれんしな」

「人を刺したときのものだとしたら?」

「なんだって可能性はあるさ。でもな、人を刺したとしてこんなに欠けんだろ。なにか、矛先は硬いものだよ」

「このナイフ、どっちで買ったんでしょうね」

「どっちだろうな、山梨か鳥取か」

「どっちもフルーツ王国ですからね」




♠♠

ナイフの存在はマスコミに既にリークされていた。遅かれ早かれではあるものの、大衆のインスタント所感は猛スピードで拡散している。運転手とナビゲーターの痴情のもつれにはじまり、女一人で豪華ツアーに乗り込んできた静石への言われようのない侮蔑、佐々木美穂のモンタージュ写真まであった。

〈ディベートン〉なるSNSサイトには〈旅行代理店の社員がバスの運転手すりゃいいんだよ・区役所の人間がゴミ集めするのといっしょなの?/バイト代くれんならオレが運転してやるよ・てめぇよりロボットのほうがマシ。マジでマシ/ジジーはみんな引退しろ。若者に仕事譲れよ・餓鬼がまた騒いで運転の邪魔したんだろ。こないだの地下鉄事故と同じ・マジ女ジ〉―

現場にも自白にも興味のない刑事の群れのようにも見えた。運転手が殺人鬼だという麻利絵の推察がまともに思えたりもする。

―〈シートベルトしてなきゃ焼かれずにすんだのによぉ

バスの定員をはるかに超える‘声の狂気’が満ちるなかで、佐々木美穂の暗号めいたブログが気になった。ハンドル名‘ミッポン’が吐露する文面のほとんどは舅、姑への悪口雑言であったが、ここにも〈今度ドライブに行こうよ― という一行が在る。特殊な‘ウィ/oui’マークがついており、フランスのサイト運営会社を経由しているようだ。携帯電話をのぞかれるのを恐れ、不倫関係者が逢引にSNSを使うのはよくある話ではある。


モヴァイルを閉じると、オレは病院の前に立っていた。

 ネット住人ではなく、この病室で息を潜め生きているのは佐々木美穂本人だ。彼女がナイフを持っていたかどうかは定かではないが、刺された痕は無かった。綺麗なまま残った体は手足を骨折してはいるものの、この世から消えたわけではない。

唯一の生存者に、おまえナイフを持っていただろう、と濡れ衣を着せるのは酷であるが、彼女もラスト・メッセージを残している。麻利絵風に言うなら彼女(・・)自身(・・)が物証となる可能性もなきにしもだ。さらに気がかりなのは、彼女のモヴァイル・フォーンだけが現場に残っていなかったこと。発火の恐れの強い海外社製タイプのモヴァイルでもなく、その欠片さえない。燃え尽きたのではなく消えたのだ。焼かれた証拠をさらに隠滅しようとしていたのは、彼女と関係のあった人間の仕業だろうか。だが、他の乗客は皆、死んでいる。

佐々木美穂が山梨でナイフを購入し、東京に戻って姑を刺してからワイナリー・ツアーバスに乗り込んだとは思えず、第一、義父母ともまだ存命だ。

顔だけが丸焦げになって特別病棟に入ったままの生存者。口の開けない生存者を喋らせるには、どうしたものだろう。少なくとも筆談ができたとしたら捜査もスピードを上げるのだが、今は待つしかない。

八王子市寿町三丁目。暗闇と同化するように佇む〈仁川医大病院〉の午前三時は、真夏の夜の暖気と微かな冷気の混ざる暁までの奇妙な時間帯。ひと息ついているようにも見える患者の塒で、あの日、佐々木の身体に伸ばした手の感触が甦ってきた。




♠♠♠

 二人同時だと見えないこともあるが、二人同時でしか見えないこともある。往々にして恋人や家族のケースだろう。タンデムで動く刑事にそれがあてはまるかどうか甚だ疑問がついてまわるものだ。

 同僚と落ち合ったのは八王子からの帰りで、世田谷公園近くのカフェだった。相手が所用があるというのでそこにしたのだが、新宿中央署から離れて頭を冷やしたいオレには何処でもよかった。

三宿の交差点から少し入ったところにある〈Bカフェ〉は渋谷に近く、池尻からも歩いて数分の距離。狭小ブティックが林立する目黒川沿いを散歩ついでに足を運ぶファッションに傾注した若者や外国人の姿も目立つ。摂氏三十九度の炎天下で、小学低学年の男児が悲鳴に近い絶叫を何度も織り交ぜながら親か社会に酷暑の不満を大声でぶちまけた際、驚いたスズメ蜂に刺されたことを母親が発狂しながら公園管理人をどやす様を横目に、同僚と静かに席に着いた。

「お客様、お二人でございますね」

「見ての通り」

「では、こちらへ」

世の中、何かに怯える前に怒りを露わにするようになったものだが、おそらく麻利絵も怒っている。オレがナイフの存在を言わないでいたことを。何度も砂糖をかき混ぜる仕草で分かった。一杯の珈琲にスティックシュガーを五本も使う人間はそう多くはない。しかもアイスコーヒーにだ。ヤニを挟まなくなってから、どうにも珈琲が不味くなった気がしてならない。セットにせず、ショートケーキを水で流しこむことにした。

大げさにストローを裂く音がテーブルに響く。まぁ、事故を起こしたバス会社にいながらにして、しかもマスコミを通してバスに残されたナイフの存在を知ったのだから怒りの矛先がオレに向けられても仕方がないのだが。

「木ノ内がナイフを持っていたとでも考えてるんですか?」とぼけて口を開いた。

「さぁ・・・」

「ドライバーは運転中に刺せないですよ。それに、なにか硬い(・・)ものを刺して欠けてるんです」

「そっ」

麻利絵はオレが見透かして言ったことに対しても怒っているようだ。

「服装チェックは万全よ、あそこのバス会社は。携帯電話だって乗車前に預かるのよ、私用に使われちゃ困るって。通信履歴も管理されてるのよ、なにかあったときのために。昨日は何時間寝たか、酒は飲むのか飲まないのか、煙草は? 博打は? 女は? 乗車前に、ナイフは持ってるか? なんて質問はしないんでしょうけど。とにかく、旅行代理店やツアーの企画会社に出す報告書だけは万全なのよ。坂本、事故を他人事のように話すんだもの。チェックシートだけ見せて、会社に落ち度はまったくないって。それに、ナイフが見つかった今、坂本、自分の罪が軽くなるとでも思ってるんじゃないかな。事故をまったく関係のない事件とすり替えようとして」

 やはり、麻利絵は怒っている。

「そりゃ、人権侵害だ。携帯電話を取り上げるなんて。それであげ(・・)ちゃいますか?」

 社畜のように従業員を扱っていたのは捜査せずとも分かることだ。あの坂本の目付きで大凡の察しがつく。

「管理でがんじからめにする半面、バスの清掃やメカニックのチェックは全部、運転手任せなんでしょうね、きっと」

「よく御存じで」

「そんな社員をこきつかう会社は、どの業種もやってることは同じですよ。調べなくても察しがつく。あなたが運転手が殺人鬼というなら、そこで持っていないとしても、バスのどこかにナイフくらい隠してはおけますけど・・・」

木ノ内を含めた〈STS〉所属運転手の平均年齢六十歳超。無断で冠婚葬祭に出ようものなら即刻解雇で、逆に繁忙期に辞めると言い出した場合、葬式なら一日くらい忌引きしても普通に大丈夫だ、などと言い出す始末だという。繋がっているのは今日明日限定の線香花火のような主従関係と長時間労働の対価、東京・京都間走行一万二千六百円の賃金だけなのだろう。木ノ内が私恨を内包しているとして、それは乗客にではなく会社に対してであり、‘裏返しの社会’に対してであろう。拝金主義企業の代名詞のような〈STS〉への恨み辛みは自殺行為でしか成しえなかったのかもしれない。ただ、それと刺殺事件とは別の話だ。同じバスだが、履いてる(・・・・)車輪(・・)が違うはずだ。

「でしょ。木ノ内は誰を刺したんだろう」

 譲歩した分、麻利絵の表情が幾分か和らぎ「いったい誰だろ」

「それは、まだですよ。ナイフが出てきただけで、刺したか刺されたかも分かっていない。第一、傷痕が焼けて消えてるんだから」

「プロの使うナイフなんでしょ?」

「ナイフがプロ仕様風なだけであって、プロかどうかは使用者が分かって初めてそうなるんですよ」

「でも、キミは木ノ内運転手が持ち主じゃない。別で、殺しがあったって思ってるんだよね」

 麻利絵は六本目のスティック砂糖をつまみながら言った。オレは歯がズキズキとしだした。しばらく医者にもかかってない。

「あなたがドライバーがクサイと思っている以上にはね」

「だけど、知人同士で乗り合わせて、ワイナリー行く途中で急に本当は恨んでます。笑顔で、わたし、あんた殺します、ブスッて・・・ バスの中で、高速走ってる時にしないでしょ。目撃者がたくさんいるんだし。物音一つたてないで人、殺せるかな? それに無言で死ねる? ヴォイス・レコーダーに残っていたのは運転手の声だけよ」

「遂にやったぁって?」

「そう」

「それが、密室殺人の難解なところですな。荷棚からチョボチョボと毒が垂れてくるわけでなし」

「えっ、密室殺人なの?」麻利絵の声が急に裏返った。

「まぁ、藤澤さんの推察も密室的な殺人の線からきてるものなんでしょうけど。誰かを刺したのは運転手じゃないってことだけは確かですな。握ってたのはナイフじゃなく、ハンドルなんですから」

 嫌味を言ったつもりではなかったが、麻利絵は少しふくれた表情で二の句を継いだ。「だったら、あなたも現場に行くべきでしょ。‘名無しの物証’は喋ってくれないんだから。ワイナリー行けば、色んなものが見えてくるわよ」

「民宿の焦げた魚とマリアージュした一升瓶のぶどう酒とかですか? まぁ、その時が来たら行きますよ」

「なに言ってんのよ。静石美晴さんは運転席に一番近い席だった。だけど、横転の勢いで一番後ろの席まで飛ばされた。そこにリングと骨があって、トイレの縁にナイフが挟まっていた。まさか、彼女が・・・」

「彼女じゃないですよ」

「根拠は?」

「それがすぐに分かりゃ、オレたち明日から別の人間と組むことになりますよ」

 麻利絵は再び怒りの表情を見せたが、オレは平静を装った。この事件が解決するまで、スズメ蜂に刺されるのは勘弁被りたい。

 午後二時を過ぎると、降り注ぐ陽射しがテーブルを避けるようにフロアでタップダンスを踊りはじめた。洒落たカフェでオレたちはナイフで刺した、刺されたの所見を交わしている。金髪に染めた学生アルヴァイトがランチタイム過ぎてんだから、もう一杯くらい飲み物でもオーダーしろよ、といった目を向けてきた。

「やっぱり、木ノ内がナイフ持ってたのかな・・・」

麻利絵がスティックを元の場所に終いながらつぶやいた。

木ノ内・・・ 運転手がまさか。いずれにせよ、矛先が何故欠けたのかを知る必要がある。麻利絵は、まだそのことは知らない。荒川が知らせるなとオレに言ったということは、同時捜査として、麻利絵の主張する木ノ内の‘道連れ自殺運転’を完全否定してはいないということなのだろうか。そして麻利絵は、あのナイフになんの期待を抱くというのだ。

 店を出て、ベンチに腰かけた。

「リストのことは聞いた?」

「えぇ、さっき」

「なんだ、それはキミにも知らせるんだね」

「頭蓋骨が増えたんですよ、一人分」

「二十六が二十七にね」

「そうです」

「佐々木さんを入れずに?」

「そう」

「わたし、ハルさんの勘違いじゃないかなって思うの。あなたたち、そういうの得意でしょ」と前歯を嫌味っぽく剥いた。

「どういうことですか。今回は慎重ですよ。これからラボですけど、いっしょに行きますか?」

「遠慮しとく。行くところあるから。そっち、ちゃんと確認しておいてよね」

「何処へ?」

「遺族のところよ」

「まさか・・・」

「遺品を返しにいかなきゃ」

「それって聞き込みでしょ」

「・・・」

公園にようやく救急車が到着したようだ。スズメ蜂に刺されてぐったりとした男児は白目を剥いて近くの病院へと搬送されていった。

 オレたちは聞かれてはマズイ話を少し騒がしい声で喋っていたのかもしれない。




♠♠♠♠

鑑識では焼け残った骨と遺品との照合作業に四苦八苦しているが、乗客の数が増えたことは確かであった。骨の組み合わせがどうあれ、頭蓋骨を二つ持つ人間はこの世に存在しない。オレが下地に指令するわけでなく、彼の鑑識に狂いはないはずだ。遺族へ遺品を戻すことが優先されて然るべきなのだが、オレはナイフを持っていた人間よりも、ナイフを向けられた人間の所在を早急に知りたい衝動に駆られた。その素性が分かれば必然、推定刺殺犯の動機が分かるからだ。物証とは、そういうものだ。

八月三十一日もまだ暑かった。暑いことに変わりないのなら、オレは自分の宿題を早く済ませたい。

「なぁ、ハルさん先にさ・・・」

「ダメダメ、おまえさんは、あとあと」

下地は便所から出てきたばかりの濡れた手をオレのスーツの袖で拭きながら言った。

「だって、いっしょにナイフ見つけたじゃないか。ハルさんだって主観的に事件を知りたいってことあるだろ」

「主観的?」

「そう」

「ねぇな」

「ったく、頑固だな」

「オレを頑固にしたのはおまえさんだろ」

「動く密室殺人なんだぜ」

「動いてようが止まっていようが、刺した人間もよぉ、刺された人間がいたとしてもだな、その仏さんの遺骨、遺品がどれか、まだあってないんだぜ。ナイフがただ、そこにあったってだけじゃないのか。殺しは殺しだとして、順番は順番だ。まだ待てよ」

「順番・・・」

 オレはそれを聞いてハッとした。刺された順番? やはり、持っていただけではなく、意思のあるナイフだったのか。もしや、順番として刺された後で乗せられたとしたら。

オレは頭を元に戻して「タイヘンなことが起きたんだぜ、バスの中で」

「バスルームなら分かるけどな」シャンプーハットに似た髪をかきながら言った。

「ハルさん、冗談言ってる場合じゃないよ。ルームじゃない。動くバスなんだから」

「だとして、人間よりも状況考えてみなよ。外からドローン飛ばしてブスッて刺すのかい。いずれ、そういう輩も出てくるけど、今回のは違う」

「実況見聞、ここでやるつもり?」

「得意だろ、物証は・・・ みなし物証(・・・・・)はあるんだからよ」

「一人増えたってのは本当だよね」

「そうさ。でも、そっちも、まだ待てよ」

 食い下がろうとすると、下地は三名の遺骨と遺品が照合できたシートをオレの腹にあてた。母親らしきが小さな骨を抱いている側にプラチナカードの類が残されていたシミュレーションデータだった。

「死に際で抱いてたんだよな、しっかりと」

「もう死んでたかもだけど、抱いてた・・・」

「焼かれ死ぬのを悟ってな」

「分かったよ、ハルさん。待つよ」

「種まいたからってすぐ分かるもんじゃねぇ。ワインと同じだよ、鑑識ってのは。時間かからぁ、順番決める時間がな」

「ハルさんって、ワイン飲むんだっけ」

「なんだよ、ここは禁酒だぜ。オレは焼酎よ」

「マリアージュもラクだね」

「そう。古女房の愚痴が肴だ」

「オレ、一人で行ってくるよ」

「うしろの正面には気をつけるんだな」

 下地治夫は再び‘ヒトゲノムのマトリクス’と向き合いだした。

オレはナイフが何処から無賃(・・)乗車(・・)したのか、そして頭蓋骨が何故増えたのか。その‘順番’を洗うことにした。ナイフの矛先には、いずれ行き着くだろう。新宿発〈葡萄新地〉方面のバスは、まだ一本残っているはずだ。


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