第20話 海難0527〈プロローグ〉

 船橋せんきょうの窓ガラスを、大粒の雨が激しく叩いている。もうすぐ夜明けだというのに、辺り一面は墨を流し込んだような真っ暗闇に支配され、同じ航路を行き交うはずの他船の存在は、緑と赤、そして白色の航海灯によってのみ視認することができた。

「うええ……」

「無理すんな、安藤」

 ROROローロー船「あかとき丸」の一等航海士・上原健司は、操舵輪を握って前方を注視しつつ、海図台チャートテーブルにもたれて船酔いに耐えている部下に声をかけてやる。

「ここは良いから、早く吐いてこい」

「すみません、ワッチが始まったばっかりなのに……」

 上原の言葉に、甲板こうはん員・安藤和樹は片手で口を抑えながらヨロヨロと立ち上がると、船橋から一番近い洗面所へと消えていった。

「こればかりは、慣れるしかないからなあ」

 自身は全く船酔いしない体質である上原はボソリと呟くと、左舷さげん前方の一際明るい閃光に目を向ける。

 白い閃光が1回。16秒後に赤い閃光が1回。そしてまた16秒後に白い閃光が1回。この規則正しい白と赤のサイクルは、伊豆半島の最南端に位置する石廊埼いろうざき灯台のみが発するものだった。

(このペースなら、なんとか予定通りの時刻に入港できそうだな)

 順調に伊豆半島沖を通過しつつあることに安堵した上原は、石廊埼灯台の西側の空間に目を移してみる。

(そういえば、フランスの貨客船が座礁したのって、確かあの辺りだったか)

 明治7年に石廊崎の沖合で発生した、フランスの貨客船の遭難事故を題材にした歴史小説を、上原は最近読んだばかりである。

(技術が進歩した分、今の時代の船乗りは恵まれてるよな)

 とはいえ、昨今はこの伊豆半島沖を行き交う船の数が非常に多く、ほんの少しの気の緩みが、船同士の衝突という重大な海難事故を、いとも簡単に誘発してしまうという現状がある。

 最後まで気を抜くまいと、上原はすぐに視線を針路方向に戻そうとした。

(ん?)

 視界の端に何かを捉えたような気がして、再び石廊埼灯台の西側に目を凝らしてみる。

 いつの間にか、紫色の炎が出現していた。

 吹き荒ぶ風雨の中、まるでこちらをいざなうかのように、ゆらゆらと妖しくその身体を揺らめかせている。

「鬼火!?」

 上原は紫色の炎から強引に視線を引き剥がすと、激しく首を振った。それから、制服のポケットから波除なみよけ神社の御守りを取り出すと、じっと見つめながら気持ちを落ち着かせていく。

(いかんいかん。あんなのに引っ張られたら洒落にならんぞ)

 鬼火程度で惑わされるようなことは無いものの、荒天下、しかも夜間の航海というこの状況では、どんなに小さな油断でも命取りになりうる。

 上原は大きく息を吐いて御守りをポケットに戻すと、操舵輪を握り直し、船の針路方向に意識を集中させようとした。

『きて』

「っ!?」

 すぐ耳元で、女の声が囁いた。

 上原は反射的に左耳を抑えながら、思わず左舷方向を振り向いてしまう。

 しまったと思った時には、もう遅かった。

 遠く伊豆半島の海岸沿いで、紫色の鬼火がめらめらと激しく燃え上がっている。

 炎の中に、ぼんやりとした人影が浮かび上がる。

(おかしい)

 石廊崎から「あかとき丸」までは何kmもの距離がある。まるで間近で見ているかのように、炎の中に人影を認識できてしまうのは、どう考えてもおかしい。

 今すぐ目を離すべきだと、本能がけたたましく警鐘を鳴らす。

『きて』

 しかし、上原は目を離せない。

 燃え上がった炎の先が、蛇の舌ように夜闇を舐める幻惑的な光景を、もっと見ていたいと思ってしまう。

 きて。

 きて。

 きて。

 人影が、より一層くっきりと浮かび上がってくる。

 人影は、女だった。

 強く波打つ豊かな髪が、一糸まとわぬ裸体の上で艶めかしく揺れている。

 気がつくと、視界は全て紫色に覆われていた。

 むせかえるような濃厚なミルクと潮の匂いが、むわりと上原を包み込む。

 女が、その口元に妖艶な笑みを浮かべた。

 ゆっくりと手を差し伸べて、蛇のように指をくねらせて上原を手招きする。

 上原は当然のように、操舵輪を左に傾けた。




―― ―― ――

※参考資料:上原が読んだ「歴史小説」について

https://kakuyomu.jp/users/umikoto/news/16817330647882082557

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