第21話 海難0527〈一〉

 横浜赤レンガ倉庫のすぐ隣に位置する、横浜海上防災基地。

 観光地のど真ん中という超好立地に存在するこの施設には、巡視船専用の岸壁やヘリポート、各種訓練施設、指揮所機能を有する事務所棟など、海上保安庁による防災活動の一大拠点としての機能が集約されている。

 そして、第三管区海上保安本部・海洋怪異対策室は、この基地の事務所棟の一角に存在していた。

 5月27日、朝8時半を少し回った頃のこと。

 海上保安官・菊池あきらは、上司である村上かけると共に、情報交換という名の四方山よもやま話を繰り広げていた。

「それじゃあ、妖たちが学ばずとも人間の文字が読めるのは、『文字が持つ記憶』を読み取っているからなんですね」

「おそらくだけど、魔術でいうところの『集合的無意識』から、無自覚のうちに該当する記憶を拾い上げているのだと思うよ」

 明は、アイスティーが入ったマイボトルを片手に思案顔で頷く。

「そうすると、読むだけでなく書けるようになるためには、人間と同様に学んで、練習をする必要があるということですか」

「そういうことになるね。文字が書ける妖があまりいないのは、単に彼らが必要性を感じていないからに過ぎないのさ」

 部下の口からついて出た的確な考察に、村上は小さく笑みを浮かべて頷き返した。

 村上翔は、魔術師である。司法試験より合格率が低いという噂の魔術師検定1級に一発で合格する程の実力の持ち主だが、本人はあくまで謙虚な態度を貫いている。曰く、「俺ごときが魔術師を名乗ったら、本職の魔術師の方々に失礼だよ」とのことであり、普段の職務中に魔術師を名乗ることは滅多に無い。

 楕円型の眼鏡をかけて漆黒の長髪を後ろで縛ったその風貌からは、物静かで控えめな人物という印象を受ける。しかし、彼は海異対の人間としては珍しく人付き合いが得意で他部署への顔が広かった。加えて、組織の裏事情や人間関係にも精通しており、三管区の海異対と他部署との関係が比較的良好であるのは、この村上の働きによるところが大きいと言えた。

(俺、三管区に来て良かったかも)

 かつて、五管区の海異対で上司との軋轢を経験していた明としては、この村上が存在するだけでも十分にありがたいことだと感じている。また、2人いる先輩との関係についても、これまでのところ問題らしい問題は発生していない。今のところ、職場の人間関係については概ね恵まれているという状態である。

「ということは、うちら人間が使ってる呪文やなんかも、集合的無意識の記憶を持っとるいうことになるんどすか」

 明が感慨に浸っていると、その2人の先輩のうちの1人である榊原楓さかきばらかえでが会話に割って入ってきた。

 彼女は、京都の出身である。切れ長の目に細い眉といった純和風な顔立ちに、後ろできっちりとまとめた長い黒髪。化粧っ気はかなり薄いものの、現場への出動を伴うこの職場においては、むしろこのくらいがちょうど良いと言えるだろう。

「ああ、その通りだよ」

 村上が鷹揚に頷いた。自身の名前がローマ字で記名されたマグカップからコーヒーを啜り、楓と明を交互に見ながら話を続ける。

「数百年、時には数千年の昔から伝えられてきた呪文や護符には、数多の人間が思念や霊力を込めて行使し、よすがとしてきた経験が、膨大な記憶として集合的無意識の中に蓄積されている。後世の人間は、それをありがたく利用させてもらっているというわけなんだな」

「なんや、伝統やしきたりは低コストで便利いう話を思い出しますわ」

 楓が村上の話を聴きながら、机の上に並べていた護符のうちの1枚を指で挟んで、ペラペラと前後に振っている。

 魔術師である村上に対し、榊原楓は呪術師を名乗っていた。彼女の実家が神主の家系であるとのことで、神道系の技はもちろんのこと、陰陽道や修験道、密教など、流派を超えた幅広い知識や技術を身につけている。

(俺なんかとは、断然格が違うんだよなあ)

 その知識もさることながら、呪術師を名乗るに値するだけの豊富な実践経験を、楓は持っていた。そこが、明との決定的な違いである。

 本人の話によると、物心つく前から呪術のいろはを教わり始め、12歳の時には既に、たった独りで怪異や妖と対峙して家業をこなしていたという。

 それに対して明は、あくまでも護身のためとして、真言や陀羅尼、マンダラによる退魔法を親戚の寺で教えられていたに過ぎない。もし自分が何かしら名乗るとするなら、せいぜい「法師」辺りが妥当だろうと、明は考えている。

「でも、その伝統という型に囚われることなく、自由な発想の元で自身の霊力を行使する術者も、ごくたまに存在するんだけどね。あの九鬼室長みたいにさ」

 そう言って、村上は一番窓際のデスクに目を向けた。肝心の本人は「朝練」からまだ戻ってきておらず、一時的に不在である。

 村上は再びマグカップを持ち上げながら、こう付け加えた。

「2人には言うまでもないだろうけど、自分で術を創作してそれを行使するって、かなりの素質と霊力が無いと難しいんだよ。あの人がどれだけ化け物じみた存在か、よく分かるだろう?」

「ええ、それは思います」

「つくづく、すごいお人ですわ」

 明と楓が、それぞれ素直な感想を口にした。

 そして明は、朝霧まりかのことを思い浮かべる。

(これは、ますます知られるわけにはいかないな)

 先月、まりかとカナの2人と共に犬吠埼灯台を訪れたときのこと。自分の手足を動かすのと同じくらいの自然さで霊力の波を操っていたまりかは、本来それが非常に高レベルな技術であるということを、全く自覚していなかったのだ。

 明は、帰りの電車でその事を伝えた際の心底驚いたまりかの顔を、数週間経った今でも生々しく思い出すことができる。

『えっ、これってそんなに凄いことだったの? 霊力を活かした仕事をしてる人達はみんな、これくらいできるものだと思ってたんだけど……』

 それから明は、彼女が養子であるという事実を思い起こす。まりか自身は、母親が風の乙女シルフィードであることを他人に知られるのは、特段困らないと言っていた。流石に言いふらされると困惑するが、明が海異対の誰かに聞かれて答える程度なら、何も問題は無いと。

 しかし、明はこの事実も隠し通すのが無難であると考えている。霊力の強弱は、必ずしも遺伝と関係するわけではない。それでも一般的な話として、まりかのことが知れ渡った時に、その出生を詮索しようとする人間が現れないとも限らないのだ。

 明としては、まりかと、まりかを取り巻く世界の平穏を乱すような可能性は、全て潰しておくつもりである。

「……あの、何か?」

 話が終わり、パソコンに向かってメールをチェックしようとした明は、村上が自分を見つめていることに気がついた。楓は既に、元の作業に戻っている。

「……」

「村上さん?」

 再度の明の問いかけに、村上が口を開こうとした時だった。

「おっはよーっす!」

 溌剌とした挨拶と同時に、もう1人の先輩である伊良部梗子いらべきょうこがその姿を現した。

「あれ、室長は?」

「今、警備救難部の人に呼ばれてますよ」

「警救に?」

 村上は何事も無かったかのように、梗子と言葉を交わす。よく分からないながらも、明はホッと胸を撫で下ろした。

「ほんま、毎朝飽きもせずようやっとるわあ」

 詰襟の首元を緩めて腕まくりをした梗子の着こなしを見て、楓が呆れたように肩をすくめる。

「こういうのはな、毎日やんなきゃ、あっという間に勘が鈍っちまうんだよ」

「せやけど、梗子は好きでやっとるんやろ」

「そりゃ、その通りだな!」

 楓の指摘を、梗子は快活に笑いながらあっさりと認める。その眩しい笑顔の中で、小さく鋭い2本の牙がキラリと光った。

 伊良部梗子は、妖の血が混じった〈異形〉である。祖母以外の親族は全て人間であるとのことで、妖としての外見的特徴はそれほど強く出ているわけではない。

 くっきりとした顔立ちに、光の加減で青く見えることもある黒褐色のショートヘア。頬骨や首筋、肘や手の甲、くるぶしなどの皮膚の一部が青色と黒褐色をした爬虫類の鱗となっている他は、あまり普通の人間との違いは感じられない。

 ただし、彼女が身に纏う海異対の制服は、〈異形〉としての特異体質に合わせて作られた特注品だった。膝上までのワンピースのような形状をしており、もちろんスラックスは履いていない。また、「邪魔になるから」という理由で普段は一切マントを着用せず、足元についても、式典の時以外は軽くて丈夫なスニーカーを愛用していた。

「でもよ、最近は正直マンネリなんだよな。いくら室長の体術が変幻自在だからって、2年以上も一緒に朝練やってると、さすがに癖とか分かっちまうからさ」

 そして、大袈裟に嘆息して、こう続ける。

「あーあ。俺と稽古してくれるような強者ツワモノが、都合良く近くに住んでたりしねえかなあ」

「梗子の相手が務まるような武術の使い手なんて、そうそうおらんやろ」

 すぐ横で軽口を叩き合う先輩2人から、明はそうっと顔を背ける。

(朝霧が杖道やってることも、バレないようにしないとだな)

 梗子の実力や武術への熱意を考えると、単なる手合わせに留まらず、指導をするなどと言い出す可能性すらあるのだ。

 間違っても、大切な友人まりかを稽古という名の戦闘バトルに巻き込むわけにはいかない。

 明はそう強く決心すると、気持ちを切り替えて再びパソコンの画面に向き合った。

「さてと。確か、健康診断の案内メールが来てた気が」

「菊池さあんっ!」

 情けない叫び声が上がると同時に、背後からぶつからんばかりの勢いで抱きつかれる。

 明はウンザリして舌打ちをすると、振り向きもせずにこう言い放った。

「断る」

「まだ何も言ってないじゃないですか!」

 泣きそうな声で叫びながら、ユサユサと明の身体を前後に揺さぶってくる。

 このまま無視を貫こうかとも考えた明だったが、周囲の視線が痛いため、もう少しだけ会話を続けてやることにした。

「どうせ、締切間近の仕事を手伝えとか言うつもりだろ」

「ど、どうして分かるんですか!?」

「そんなことより、さっさと離れろ」

「す、すみません!」

 声の主が慌てて明の背中から離れる。

 明はオフィスチェアを少しだけ回転させると、いかにも鬱陶しそうな態度を見せて、声の主を睨みつけた。

 童顔に黒縁の眼鏡をかけ、普通の海上保安官の制服を着た、明の唯一の後輩。左胸に付けた青色の名札には、「渡辺隼人はやと」と白色で印字されている。

「で、何?」

 机に片肘をつき、あくまでも冷淡に問う。

 そんな明の態度をものともせず、渡辺隼人はパッと顔を輝かせると、勢い込んで話し始めた。

「えっとですね、消耗品庫の整理をした上で、補充する消耗品のリストを作成して夕方までに提出しないといけないんですけど」

「自分でどうにかしろ」

「菊池さん!」

 強制的に話を打ち切ろうとするも、今度はガッシリと肩を掴まれて無理やり振り向かされてしまう。

 渡辺が、涙目になって明の顔を覗き込む。

「このままだと、ライラちゃんのライブに行けなくなっちゃうんです! 後生ですから!」 

「自業自得だろ」

 にべもなくそう言い放つと、視線を明後日の方向に逸らして、おとなしく渡辺を引き下がらせる方法を考え始めた。

 海洋怪異対策室の庶務担当である渡辺隼人は、明より2つ年下の23歳。小柄な体格も相まって、一見すると純朴で人の良さそうな印象を受けるが、勤務時間中の彼の態度を一言で表すと「ウザい」以外の何物でもない。

 仕事は締切直前まで溜め込むのが基本で、暇さえあれば情報交換という名の無駄話をするために、コーヒー片手に明のデスクに突撃してくる。大抵は明に素っ気ない態度をとられて引き下がる結果となるのだが、持ち前の楽天的気質によるものなのか、今のところは心が折れるような兆しが全く見られない。

 それから、彼はいわゆるドルオタだった。明は以前、彼が熱を上げている「白石ライラ」という名のアイドルについて、小1時間ほど熱烈に語られたことがある。しかし、この手の話題に全く興味の無い明としては、彼女が雪女の血を引いているという情報以外は全て、聞いたそばから綺麗さっぱり忘れて去ってしまっていた。

 明は、渡辺隼人のデスクの横、窓に背を向ける形で配置されたデスクに座る人物を、そっと盗み見る。

 そこでは、海洋怪異対策室の予算担当であり、渡辺隼人の直属の上司でもある一之瀬はるが、電卓を片手に書類に何やら書き込んでいた。少しくたびれたスーツ姿に金縁の眼鏡をかけ、仏頂面で眉間に皺を寄せて数字と睨めっこするその姿からは、どこぞの商店の番頭さんといった風情が漂っている。

 寡黙で無愛想、そしてめったに笑わないという、いかにも取っ付き難そうな性格をしているが、村上によると「とても奥さん想いの人」であるらしい。それから、「名前のせいで子供の頃から女に間違われてきた」と、酒の席でボヤいていたことがあるという。

 ちなみに、一之瀬春と渡辺隼人は2人とも、怪異や妖を感知することができない。見るのはもちろん、気配を感じるようなことも全く無いという。これは何も偶然ではなく、「公正を期すため」という役所にありがちな謎ルールにより、海異対の予算担当と庶務担当には、霊力の少ない普通の海上保安官を配置することになっているからだった。

(一之瀬さん、厳しいようで意外と放任主義だからな。渡辺もその辺を分かっててギリギリを攻めてるみたいだし)

 明は渡辺に視線を戻すと、一転して仏のような笑みを浮かべてこう言い放った。

「明日になっても終わってなかったら、手伝ってやるよ」

「そ、そんなあ!」

 渡辺が絶望の表情を浮かべた。相変わらず大袈裟だなと、明はそのまま生暖かい視線を注いでやる。

「おはよう」

 まるでコントのようなやり取りを繰り広げていた2人だったが、部屋の出入口から響いた野太い声によって、あえなく中断することとなった。

「……おはようございます」

 明が、表情を少し固くしながらも挨拶を返した。他の室員たちも、パラパラと挨拶を返す。

「お、おはようございます」

 渡辺は、あからさまに萎縮しながらモゴモゴと挨拶を返すと、そそくさと自分のデスクに戻っていった。怖がっているにしろ、もう少しくらい隠すべきではないかと明は思う。

(まあ、室長が威圧感を出し過ぎてるのも問題な気はするけどな)

 明は、何故か出入口に突っ立ったままのその人物を、頭からつま先までさり気なく眺め渡してみる。

 この海異対の平均身長は、決して低くはない。明の身長が170cmで、榊原楓と村上翔はそれよりも数センチ高い。それでも海異対の室長と比べると、この3人も断然小柄な部類となってしまう。

 海洋怪異対策室室長、九鬼龍蔵くきりゅうぞう。190cmという高身長に加え、寄る年波など微塵も感じさせない筋骨隆々としたその体躯は、その場に存在するだけで周囲の人間を圧倒する。また、生命力に満ちたその身体からは、およそ人間のものとは思えぬくらいの潤沢かつ良質な霊力が惜しげもなく放出されており、霊力が強い人間ほど、この男に惹き付けられずにはいられなかった。

 もっとも、岩石のように厳ついその顔には常に険しい表情が浮かんでおり、他部署の人間はもちろんのこと、同じ海異対の人間にとっても親しみやすい存在とは言えない。正直なところ、明は九鬼に対してかなりの苦手意識を持っていた。

「出動要請だ」

 九鬼が、なんの前置きもなく本題を切り出した。そこで一旦、言葉を切る。

 じっと話の続きを待つ部下たちを順番に眺め、最後に明に目を落した。

「今朝、石廊崎いろうざき沖でROROローロー船の座礁事故が起きたことは、知ってるな」

「は、はい。確か、海保うちのヘリが吊り上げ救助にあたっているところだったと思いますが」

 明は視線の圧にたじろぎつつも、今朝のニュースで把握していた情報を口にする。航海科の出身ということもあり、海難事故のニュースには人一倍敏感である。そして、この石廊崎沖の事故に関しては、確かに妙な引っ掛かりを覚えていたのだ。

 明の返答に九鬼は小さく頷くと、今度は村上に視線を移した。

「少し前に、2名を除いた全乗組員の救助が完了した。残った2名の内訳は、船長と、事故当時に航海当直ワッチに入っていた一等航海士。その航海士に問題があるらしい」

 九鬼が、出動要請が出されるに至った経緯を説明し始めた。村上や明たちはもちろんのこと、出動要員には含まれない一之瀬や渡辺も、作業の手を止めて真剣な表情で聞き入っている。

「それで、誰を行かせるんですか?」

 九鬼が口を閉じると、すかさず村上が質問をした。いつの間にかオフィスチェアから立ち上がり、探るような目で九鬼を見据えている。

 九鬼は、そんな村上の視線を軽く受け流すと、表情を変えることなくそれを告げた。

「伊良部と榊原、それから菊池。3人で協力して対応に当たれ」

 村上が目を見開いた。とっさに口を開こうとして、しかし思い留まって口を閉じる。

「現場にはヘリで向かう。15分後にデブリーフィングだ。それまでに各自準備を終えるように」

 互いに顔を見合わせる若手3人に対して、有無を言わせぬ口調で指示を出す。

 九鬼は最後に、梗子の顔をじっと見つめた。

「伊良部」

「っ!」

 梗子が、素早く立ち上がった。直前まで浮かんでいた戸惑いの表情は消え去り、代わりに溢れんばかりの熱意と強い意志を込めて、九鬼を真正面から見つめ返す。

「お任せ下さい!」

 胸を拳で叩きながら、威勢よく宣言して見せた。

「了解しました」

「……了解です」

 梗子の言葉に後押しされるように、楓と明も席を立ち、それぞれの準備に向かった。

「デブリーフィングには、俺も立ち会う。それまでは警救にいる」

「待ってください」

 そのまま部屋を去ろうとした九鬼を、村上が呼び止めた。

 九鬼が、村上に向き直った。九鬼が出す威圧感などものともせず、村上はあくまで自然体で九鬼と向かい合っている。

「船体は安定している。あの3人なら、何ら問題無く解決できると考えている」

 その思考を読み取ったかのように、九鬼が機先を制して考えを述べた。村上は内心で溜め息をつきながら、すかさず反論を展開する。

「要救助者が残っているんですよ。万が一にでも、二次災害が起きたら一体どうするんですか。海難の現場がどれほど危険か、あんただってよく分かっているはずだ」

「村上」

 九鬼が、窓の外を見た。村上はその横顔に、異論を受け付けぬ強固な意思を感じ取る。

「ここ数年の海の異変を、お前も感じているはずだ。若手3人には、なるべく早く経験を積ませる必要がある。多少のリスクを犯してでもな」

「そうですか」

 村上はそれ以上、反論しなかった。

 九鬼は、村上に一瞥をくれると、今度こそ部屋を出ていった。

(警救の連中が聞いたら、激怒しそうだな)

 村上は軽く頭をかきながら、今度は隠すことなく溜め息をついた。

(せめて、もう少しくらい丁寧に説明してやってもいいだろうに)

 それなりに九鬼との付き合いが長く、彼の過去を知りもする村上としては、彼があれほどまでに人を寄せつけない態度を取る理由は理解している。とはいえ、管理職である以上は、部下に接する時くらいは態度を軟化させてほしいとも常々感じていた。

「どうせ、言ったところで聞かないんだろうけどよ」

 村上はボソリと呟くと、デスクに戻って引き出しから小箱を取り出し、作業用のテーブルに移動する。

 小箱から滑らかな素材のクロスを取り出してテーブルに広げていると、渡辺が興味津々な様子で近づいてきた。

「あれ、もしかしてタロットですか? 村上さん、占いもされるんですね」

 村上が手にしたカードの束を見て、渡辺が意外そうな顔をする。

「まあな。俺が占うと当たり過ぎるから、滅多にやらないんだけど」

 気さくに答えながら、チラリと一之瀬の様子を伺う。

 一之瀬が少しだけこちらを見て、すぐにパソコンに目を戻した。今のところは、渡辺の勤務態度を咎めるつもりは無いらしい。

 渡辺の指導については基本的に一之瀬に一任しているため、村上としても特に何も言わないことにする。

「もしかして、菊池さんたちのことを占うんですか」

「ああ。悪い結果が出たら、俺が3人の代わりに行く。すまんが、少し離れててくれ」

「は、はい!」

 渡辺が自分から距離をとったことを確認すると、村上は椅子に座って意識を落ち着かせて、丁寧にカードをシャッフルし始めた。

 混ぜて、まとめて、3つに切って、またひとつにまとめる。

 村上は目を閉じると、カードの山を両手で包み込み、霊的次元と自己との繋がりを意識した。

『ワガヒゴスルコラノ キッキョウカフクヲ シメシタマエ』

 手のひらが熱くなり、カードの山に霊力が注ぎ込まれる。

 村上はゆっくりと瞼を開くと、カードの山を素早く扇状に広げて、無心のままに1枚を選び取った。

 大アルカナと小アルカナを合わせた計78枚のカードを使用した、ワン・オラクル。村上が用いる唯一の手法である。

「……んん?」

 選び取ったカードを見た村上が、眉をひそめた。

 そろそろと渡辺が近づいてきて、ひょいと村上の手元を覗き込む。

「これって、ワンドのエースですね。小アルカナの」

 雲から突き出た手が、葉を生やした枝を握る不思議な図案を見て、渡辺が顎に手を当てて眉根を寄せる。

「カードの意味は、確か」

「新たな始まり」

 図案を見て直感的に浮かんだ言葉を、村上がそのまま口にする。

 その言葉に、渡辺が安心したように息を吐いた。

「それじゃあ、悪いことにはならないってことですね!」

 村上は答えなかった。

 無言のまま、先ほどの九鬼の視線を追うように、窓の外に目を向ける。

 雨足は弱まり、鈍く立ち込めていた曇天の隙間から、一条の光が今にも差し込もうとしている。

 まるで、新たなる運命にいざなおうとでもするかのように。

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