第22話 海難0527〈二〉

 けたたましいはずのプロペラ音が、ノイズキャンセリング付きのヘッドセットにより僅かな振動へと減衰され、くぐもった音となって鼓膜へと伝わってくる。

 伊豆半島の最南端、石廊崎いろうざきの沖合で座礁したRORO船「あかとき丸」を目指すヘリコプターの機内において、乗組員たちは最後の打ち合わせを行っていた。

 乗組員の内訳は、操縦士と副操縦士、通信士。それから、航空整備士と機動救難士きどうきゅうなんしがそれぞれ2人ずつ。そして、海洋怪異対策室の若手3人という構成になっている。

「――ええ、そうです。デブリーフィングでもお伝えした通り、30分を目安に『あかとき丸』上空に戻ってきてください。皆さんの幽世かくりよへの親和性は低いですが、それでも〈海異〉事案の発生した現場に留まる時間は、極力短くした方が安全ですから」

 ヘッドセットのマイクに向かって、菊池あきらが張りのある声で話しかける。慣れないヘリ内でのヘッドセット越しの会話であるが、この救難の現場において、相手に及び腰と思われるような態度をとるわけにはいかなかった。

「君たちを侮っているわけでは無いが……本当に30分だけでいいのか? 例の一等航海士から話を聞く必要もあるだろう」

 機動救難士の比嘉達哉が、こちらをおもんばかるような表情で訊ねる。

 しかし、明は即座に首を振った。

「おそらく、彼自身からは大した話は聞けないでしょう。それよりも、一刻も早く要救助者2名を現場から引き離すべきです。念の為、基地に戻ったら村上さんか九鬼室長に診てもらってください」

 キッパリとそう答えると、明は確認のために先輩2人を振り返った。

「〈海異〉のことは、うちらにお任せ下さい」

 榊原楓さかきばらかえでが、比嘉に向かって力強く頷く。

「だな。俺たちのことは気にせず、とにかく要救助者を最優先してください」

 伊良部梗子いらべきょうこも同様に、自信に満ちた眼差しで比嘉を見つめ返す。

 若者たちの頼もしい反応に、比嘉は少しだけ頬を緩ませた。

「分かった。その通りにしよう。〈海異〉のことは、専門家である君たちに任せる」

 続けて、こうつけ加える。

「余計なお世話かもしれないが、幽世は非常に危険な場所と聞く。もちろん救助活動も重要だが、まずは君たち自身の生命を大事にしてくれ。私からは以上だ」

 それから、もう1人の機動救難士・伊藤順平が、明るい笑顔を浮かべてこんなことを言ってきた。

「正直、海異対って普段から何やってるのかよく分からねえけどさ。海上保安官としての心構えはしっかりと残ってるみたいで、安心したぜ。気をつけて行ってこいよ」

 その言葉を皮切りに、他の乗組員たちからも次々と、激励の言葉がヘッドセットを通して3人に届けられる。

 予想外の声援の数々に、3人は互いに顔を見合せて微笑むと、乗組員たちに対して口々に礼を述べた。

 海洋怪異対策室は、海上保安庁の中でも極めて異質な存在である。「何をしているのか分からない」と思われるくらいならマシな方で、中には「仕事と称して怪異や妖と戯れている」などと陰口を叩く人間もいるらしい。

 それだけに、他部署の人間から面と向かって激励されると、明としては少々くすぐったい気持ちになってしまう。そして、素直に嬉しいとも感じている。

(この人たちのためにも、失敗は許されない)

 今回の事案には、普通の海上保安官だけでなく、一般人も絡んでいる。ほんの少しの油断が、いとも簡単に二次災害を引き起こすことを、今一度肝に銘じなければならない。

「見えてきたぞ」

 比嘉が、窓の外を指さした。

 同時に、現場海域への到着を知らせる操縦士のアナウンスが、ヘッドセット越しに流れてくる。

「あれが、あかとき丸……」

 眼下に広がる光景を目にした楓が、整った眉をひそめて口元を抑えた。梗子と明は厳しい表情で、白波が立つ大海原をじっと見つめる。

 石廊埼灯台から、南西に約4kmの沖合。そこには、無残にも浅瀬に乗り上げて航行不能となった、RORO船「あかとき丸」の姿があった。

 全長約170m、総トン数1万トンを超えるこの巨大な船には、「Roll Onロールオン, Roll Offロールオフ」の名が表す通り、貨物を載せたトラックやトレーラーが所狭しと積載されているはずである。人的被害は出ていないとはいえ、経済的損失のことを考えると、海運会社や荷主などの各方面において相当な打撃となっているに違いなかった。

 あかとき丸に向けてヘリの高度が徐々に下がっていく中で、明たち3人は最終確認を取り合う。

「船の最上部、『暴露甲板ばくろこうはん』ってところなんだけど。そこに降りたら、すぐに船橋せんきょうに向かうからな」

「菊池君は、ヘリから降りた経験はあったんやっけ」

五管ゴカンにいたとき、訓練で2回ほど。正直、あまり気は進みませんね」

「俺が最初に行くぜ。その方が2人も入り易いだろ」

 多少の緊張は見せつつも、意外にも場馴れした様子で言葉を交わす3人。そんな彼らを、比嘉は戸惑いを感じながら眺めている。

(やはり、俺たちの常識では計り知れない世界だな)

 比嘉は、海異対の制服を身につけた彼らのに目を向けた。

 菊池明と榊原楓は、腰巻式の軽いライフジャケットのみを着用している。伊良部梗子に至っては、そのライフジャケットすら身につけていない。もっとも、伊良部梗子に関しては〈異形〉としての特異体質によりライフジャケット不使用の特別許可が本庁から下りているらしい。

 それでも、「海」という大自然の魔の手から幾度となく人々を救い上げてきた比嘉からすると、彼らの軽装はあまりにも心許なかった。

 比嘉は、離陸直前に実施したデブリーフィングでのやり取りを思い返す。

『本当に、危険は無いのですよね?』

 3人のヘリからの降下方法を聞いた時、比嘉は思わず、同席していた海異対の室長を問い質してしまった。比嘉の「常識」からすると、その方法はあまりにも無謀としか思えなかったのだ。

 しかし、そんな比嘉に対し、菊池明は小さく笑ってこんなことを言ってきた。

『大丈夫ですよ。幽世って、俺たちにとっては馴染み深い世界ですから』

 比嘉は、窓の外に視線を戻した。ヘリはあかとき丸上空に辿り着き、今にもホバリングを開始しようとしている。

「では、手筈通りに」

「ええ、また後ほど」

 梗子は比嘉に向かって頷くと、ヘッドセットを外してドアの前に移動した。楓と明も同様に、ヘッドセットを外して元の場所に戻してから、梗子の背後に片膝をついて待機する。

 明は、耳をつんざくようなプロペラ音に顔をしかめながら、海異対の制帽をかぶり直し、大きく息を吸い込んだ。

 海水にホットミルクを注いだような、幽世特有の甘くてしょっぱい匂いが、鼻腔をくすぐりながら肺の中をあっという間に満たしていく。

(この濃さなら、余裕で入れるな)

 ヘリの高度のことは考えないようにしながら、幽世に入ってからの動きを、繰り返し脳内でシミュレーションする。

 ほどなく、ヘリのホバリングが安定した。ドアの横で待機していた航空整備士が、ヘッドセットのマイクに向かって話しかけながら小さく頷く。そして、ハンドサインを繰り出すと、一気にドアを全開にした。

「ドアよし!」

 直後、梗子が虚空に向かって力強く飛び出した。

 一呼吸分おいてから、楓と明も同時に飛び出す。

 束の間、世界全体が水飴に包まれたような、全ての動きが遅くなったような奇妙な感覚が、ヘリの乗組員たちを支配した。

 そして。

「き、消えた……」

 伊藤が、信じられないという表情でドアの外を凝視した。

 航空整備士たちも驚愕の表情を浮かべていたが、さすがにそこはプロであるため、即座にドアを密閉すると、無事に作業が完了したことを操縦士たちに伝える。

「いやあ、ビックリしました」

 現場海域から一旦離脱するヘリの中で、伊藤が水分補給をしながら比嘉に向かって軽口を叩いた。

「それにしても、あの高度からの降下が可能だなんて、幽世というのも使い方によっては便利なんですね。普通の人間にも使えたら良いのにって」

「伊藤、お前知らないのか」

 比嘉が難しい表情で腕を組みながら、後輩の発言を窘めた。

 その視線の先に広がるのは、風が吹き荒ぶ灰色の空。

「普通の人間が幽世に入ったら、どうなるのかを」

 半ば独り言のように呟くと、目を閉じて先ほどの光景を思い返す。

 命綱も付けずに、生身で虚空に飛び出していった3人の姿が、生々しさをもって比嘉の脳裏によみがえる。

(俺は、俺がするべき事をするだけだ)

 比嘉はすぐに目を開けた。そして、来るべき救助活動に備えて、各装備品の最終チェックを開始する。

 ヘッドセットからは、何も聞こえない。誰しもが無言のまま、各々の職務に集中しようとしている。

 幽世と現世うつしよを彷徨う彼らの帰還を、願いながら。




「よっと」

 あかとき丸の暴露甲板上に、梗子が軽やかに降り立った。続いて、楓と明が、意思の力で落下速度を緩めながら慎重に着地する。

「ふう、なんとか成功」

 明は、自由落下によるヘリからの降下が無事成功したことに胸を撫で下ろした。高所恐怖症とまではいかないものの、高い場所がそこまで得意なわけではない。

「菊池君、気い抜いたらあかん」

「すみません」

 楓から注意された明は、すぐに気を引き締めて周囲を見渡した。

 風ひとつない世界で、白波を立ててうねり続ける幽世の海。頭上には、現世よりも分厚い灰色の雲が重くのしかかり、ただでさえ濃厚な幽世の匂いが、ますます濃さを増しているように感じられる。

「いませんね」

「せやな、今はおらへんみたいや」

「それじゃあ、さっさと要救助者のところに行くぞ」

 梗子が、暴露甲板の隅にある階段を指さした。3人は引き続き周囲を警戒しつつ、要救助者が待機しているはずの船橋を目指して歩き出す。

「それにしてもよ。船体が断裂せず、しかもこれだけ安定しているのは奇跡的だな」

「ですね。しかも、航路を外れてから座礁するまでの間、他の船と衝突しなかったというのも驚きですよ」

 ぐるりと甲板上を見渡しながら、梗子と明が今回の事故についての所感を述べ合う。

 座礁事故において、船体が真っ二つに折れたり、横倒しの状態になったりするのは特に珍しいことではない。それが、あかとき丸の場合は、船体が前後にやや大きく傾いているだけで横方向には数度ほどしか傾いていなかった。しかも、船体が断裂する兆しも今のところは見られず、他の船を巻き添えにもしていない。見方によっては、不幸中の幸いであると言えなくもなかった。

「よし、着いたぞ」

 ほどなくして、3人は船橋の出入口に辿り着いた。

 先頭を歩いていた梗子が、ドアノブに手をかける。

「開けると同時に、戻るぞ」

 ひと声かけてから、ゆっくりとドアノブを回す。

 直後、溢れんばかりの音と風が3人を取り巻き、曇り空から薄い陽光が差した。

 現世に戻ったのだ。

「海上保安庁です!」

 梗子が、船橋内に向かって声を張り上げた。

 すると、椅子に座って俯いていた男性がこちらを見た。何本か皺が刻まれたその顔には、深い心労の色が見て取れる。

「……海洋怪異対策室か。聞いたことはあったが、実際に見るのは初めてだな」

「船長の新田さんですね。早速ですが、状況を聞かせてもらえますか」

 楓が挨拶もそこそこに、要救助者の1人である新田に説明を求めた。自船が座礁するという大惨事に見舞われた人物に対して、本来ならもっと情のある接し方をしたいところではある。しかし、いつ事態が急変するか分からない以上、無駄なやり取りは極力排さなければならない。

「見ての通りだ」

 楓の事務的な問いかけに対し、新田が力のこもらない声で答えた。

「霊力が多少強い乗組員が色々と試してみてはくれたが、どうにもならんかった」

 新田の視線が、船橋の中央に向けられる。

 その視線の先にいるのは、もう1人の要救助者であり、座礁事故を引き起こした張本人である、一等航海士の上原健司。

「あれが上原さんですね。ずっと、あのままなのですか」

 明が、制服のポケットから数珠を取り出しながら前に進み出る。

「ああ。操舵輪のそばから離そうとすると、めちゃくちゃな暴れ方をするんだ。もう聞いているかもしれんが――」

 新田の口から語られたのは、明たちも既に聞いていた事故発生の経緯だった。

 船酔いで航海当直ワッチを抜けていた安藤という甲板員が船橋に戻ったときには、既に船は航路を大きく外れていたという。

 当然、安藤は上原を止めようと、ありとあらゆる手を尽くした。しかし、何かに魅入られたようにひたすら前方を見つめるだけの上原には、安藤の言葉は一切届かない。

 上原の手を操舵輪から引き剥がすこともできず、もはや座礁は避けられないと観念した安藤は、せめて被害の軽減だけでも図ろうと、全力で機関を後進にかけたという。

「――上原は、理知的な男だ。海の恐ろしさもよく分かっている。確かに、多少は物の怪の類が見えるとか言っていたが、それだって本人なりに日頃から対策をとっていたはずだ」

 明は新田の話に耳を傾けつつ、上原を正気に戻す方法について考える。

(少し深い暗示がかかってるみたいだけど、大袈裟なことはしなくても十分に解除できそうだな)

 明は、右手首を一瞥した。

 赤い光を反射する、フルメタルのGショック。龍神・蘇芳から授けられた宝具の仮の姿であるが、自分でも呆れるくらい普通の腕時計として扱ってしまっているのが現状である。

(それに、今回は人目もあるし。また別の機会に、本来の刀として使ってやろう)

 明は視線を上原に戻すと、もう少し近くから観察するために足を踏み出そうとした。

「待て。まず俺が行く」

 その明を、梗子が引き止めた。

「今回はうちがやるから、菊池君は新田さんを護ってあげてや」

 続いて楓が、明に対して別の役割につくよう指示を出す。

「あ、あの」

 明は食い下がろうとした。実力も経験も劣るとはいえ、先輩2人に任せきりにするわけにもいかない。

 しかし、そんな健気な態度を見せる後輩に対し、楓はあくまで厳しく問いかける。

「そないなら、うちに菊池君の考えを聞かせてや。その内容によっては、任せたってもええよ」

「っ!」

 明はすぐに、この問いの意味に気がついた。

 現時点で解決方法が定まっていないようでは、遅すぎるのだと。

「……すみません。よろしくお願いします」

 明は素直に引き下がった。

 新田のそばに付きながら、自身の至らなさを痛感する。

(この際だから、榊原さんの技術を盗んでみよう)

 普段は各々が単独で仕事をこなすことが多いため、先輩や上司の仕事ぶりを間近で観察する機会は案外少ない。決して大きな声では言えないが、経験が浅い明にとって、今回の事案が貴重な経験となることも確かなのだ。

(いよいよだな)

 そうこうするうちに、梗子が上原の正面で立ち止まった。

 上原はピクリとも動かない。

 梗子が、背後で待機している楓と目配せを交わす。

 そして、手始めに上原の名前を呼ぼうとした。

「うえは」

「GRAAAAAAAAAAA!!」

 獣の咆哮が船橋に響いた。

 虚ろだったはずの上原が、凄まじい形相で目を剥いて立ち上がり、今にも梗子に飛びかからんとする。

 梗子の青く光る黒褐色の髪を鷲掴みにしようと、上原の両手が迫る。

 ところが。

「!?」

 上原の手が空を切った。

 梗子は顔色ひとつ変えずに上原の背後に回り込むと、するりと腕を回して羽交い締めにしてしまう。

「GUAAAAAAAAAAAA!!」

 当然、上原は暴れた。白目を剥き、口の端から涎を垂らして咆哮を上げ続けるその姿からは、理性の欠片も感じられない。

 そして、そんな上原を、梗子は難なく抑え込んでいる。

(伊良部さんがいくら〈異形〉だからって、力強すぎだろ)

 明は数珠を掲げて新田を庇いつつ、全身全霊で暴れまくる成人男性を制する梗子の実力に軽く絶句する。生まれつきの頑強さに加え、幼少時から武術で鍛え抜いてきたという強靭な肉体を持つ彼女の筋力パワーは、並の成人男性を遥かに凌駕していた。

「楓」

 梗子が、楓に向かって頷いた。

 こうした状況に慣れているのか、楓は眉ひとつ動かさずに上原に近づくと、両手でそっと上原の頬を挟み込む。

 楓の視線から何かを感じ取ったのか、上原の顔が引き攣り、暴れ方が少し鈍くなった。

 上原を見つめる楓の瞳が、ふと遠くなる。

 明はその横顔に、この世ならざるモノの幻影が写ったような、そんな奇妙な感覚を抱く。

「――」

 楓の、薄桃色の唇が開かれた。

 鈴の音のように清らかな響きを持ったことばが、するすると紡ぎ出されていく。

「『神の御息みいきは我が息 我が息は神の御息なり

  御息を以て吹けば 穢れは在らじ 残らじ

  阿那あな清々すがすがし 阿那清々し』」

 言い終えると、唇をふんわりと尖らせて、上原の眉間に向けて強く息を吹きかけた。

(そうか、息吹法か!)

 その見事な手技に、明は瞬きも忘れて見入っている。

 まるで狭霧さぎりを吹き払うがごとく、楓の清浄な霊力が、上原の脳内を濃く覆っていた暗示の毒霧を見事に吹き飛ばしていく。

 上原の動きが止まった。

 楓が頬から両手を離し、梗子は少しだけ拘束を緩める。

「うう……」

 上原の瞼が小さく震えた。虚ろだった瞳に、理性の光が戻ろうとしている。

 ぼうっとした顔で自分を見つめる上原の姿に、楓は小さく安堵の表情を浮かべた。




 3人の予想通り、怪異に関する上原の記憶は、ほとんど当てにならなかった。

「女……女が、俺を手招きしたんだ」

 楓や明の聞き取りに対し、うなだれた状態で呻くように答える上原。船橋の床に座り込む彼の傍らには、船長である新田が付き添っている。

(許せない)

 その痛ましい姿に、明は憤りを感じて拳を強く握り込んだ。

 責任感が強い人物なのだろう。例え事故の原因がどうしようもない不可抗力だったとしても、自分のせいだと思わずにはいられないのだ。ましてや彼は、一等航海士。その責任の重大さは、航海科の出身である明には痛いほどよく理解できる。

 だからこそ、上原を惑わしたという怪異に対しては、どうしても怒りを禁じえなかった。

(見つけたら、どういうつもりだったのか聞き出してやる)

 そこへ、ヘリコプターのプロペラ音が船橋内に響いてきた。先ほど、明たちを送り届けた機体が戻ってきたのだ。

「救助のヘリです。もう少しだけ頑張ってください」

 明は、上原と新田にライフジャケットを着用するように指示を出すと、2人に対して今後の流れを簡単に説明する。

 しばらくして、3人の人間が船橋に入ってきた。機動救難士の比嘉と伊藤、それから、2人を迎えるために暴露甲板で待機していた梗子である。

「自力で歩けますか」

「ああ、平気だ……すまない」

「とにかくご無事でよかった。我々が来たからには、もう大丈夫です」

 比嘉はすかさず上原に駆け寄ってその身体を支えると、ここが海難の現場であるなどとは微塵も感じさせない気さくな態度で、要救助者2名と軽く言葉を交わしていく。

「こんな修羅場で、ほんま大した方々や」

 暴露甲板へ向かう最後尾で、楓が心からの称賛を口にする。生命の危険すら伴う救助活動の中、要救助者の身の安全の確保に留まらず、極限状態で強ばった心を解きほぐすことまで考えているのだ。経験に裏打ちされた自信と余裕があってこそできることなのだろう。

(やっぱり、本物プロにはかなわねえな)

 ハーネスを装着した上原と伊藤の2人がワイヤーで吊り上げられていく様子を見守りながら、明は彼らに対して素直に尊敬の念を抱く。

 潮風が吹きつける中、機体を一箇所に保持する操縦士。吊り上げ救助に欠かせないワイヤーを精密に操作する航空整備士。そして、遭難した船や荒れ狂う海から要救助者を救い上げる機動救難士。どの役割も、厳しい訓練と何千時間にも及ぶ勉学の積み重ねの上に成り立っている。とてもではないが、自分には到底務まらないと明は思う。

 やがて、上原に続いて新田がヘリに収容されると、あとは比嘉が残るのみとなった。

 プロペラ音が耳をつんざく中、比嘉が3人に向かい合い、一瞬だけ気遣わしげな表情を浮かべる。そして、結局は最低限の連絡事項のみを口にした。

「3時間後に迎えに来る! くれぐれも気をつけるように!」

 プロペラの大轟音に負けないよう、極限まで声を張り上げる。そして上空に向かって合図を出すと、するするとワイヤーで吊り上げられていった。

「ふう。これでひと安心だな」

 遠ざかっていくヘリを眺めながら、梗子がホッと息をつく。

「同じ海上保安官ならまだしも、一般人が絡むと緊張の度合いが全然違いますよね」

 暴露甲板の手すりに寄りかかって脱力しながら、明が梗子に同調した。

「梗子はええとして、菊地君は普段からもっと緊張した方がええんとちゃうの」

「そんなに、してないように見えますか」

 楓の指摘に、明は思わず腕時計に触れた。冷ややかな宝具の感触が、運命の出会いを果たしたあの日の記憶を鮮烈に呼び起こす。

「比嘉さんも言うとったやろ。まずは自分の生命を大事にせなあかんて」

「おい、俺は良いってどういう意味だよ」

 一般人の身の安全を確保するという重大な責務から解放された今、3人はしばしの間、肩の力を抜いて軽口を叩き合う。

 この石廊崎の天候は、確実に回復しつつある。ただでさえ弱々しかった小雨は完全に止まり、叩きつける勢いで吹いていた海風も、制服のマントを穏やかにはためかせる程度にまで落ち着いてきている。

 しかし、は確実に、3人の姿を捉えていた。

 仄暗い海面の向こう側、渦巻くうしおの陰に身を潜めて、今か今かとその時を待ち続けている。


 新たなる運命の襲来まで、あともう少し。




―― ―― ――

※参考資料:海保の吊り上げ救助について

https://kakuyomu.jp/users/umikoto/news/16817330648148853851

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