第2話 手術の同意書
もともと踊りは好きだったが、なぜフラメンコを選んだのか自分でも分からない。
ただ無性にたしかめてみたかったのだ、手持無沙汰の半生を生きる意味を……。
早くに夫を病気で亡くし、むかし風に言えば女手ひとつで一男一女を育てあげた。
娘は東京で家庭を持ち、仕事を引退したケイコは独身の息子とマンション暮らし。
倹約を重ねて貯めたわずかな預金を大切に守りながら、平穏に暮らしてはいるが、わたしはいつまで生きていていいのだろう……そんな思いがいつもどこかにあった。
社会人としても家庭人としても「ご用済み」の身に長い余生が許されるのか……。
人生100年時代と言われるが、子は親に、本気で長寿を望んでいるのだろうか。
会社員の夫との間に3人の子がいる娘はもちろん、やがて結婚する予定の息子も、自分の営む家庭の員数に、頭から母親を入れていない事実をケイコは認識している。
それは自身を含め生物が繰り返して来た歴史の当たり前として割りきっているが、ときには「ええ~ん」と泣きたくなってしまうときがあるのだ、3歳児のように。💦
🍃
昨年、子どもたちとひと悶着あったのも、親子の気持ちのすれ違いからだった。
内臓に小さな腫瘍が見つかり、手術の同意書に家族の署名捺印を求める病院側を「全責任を患者本人が負います」と強引に説得して子どもたちには知らせなかった。
後日、その事実が発覚したとき、車で駆けつけた娘は母親の無鉄砲を泣いて責め、息子は「友人と旅行に行くと騙すなんて」と、ケイコの偏屈ぶりを口々に批難した。
甘えたくなかったと弁解するケイコの胸の内を覗けば、長寿を歓迎されていないと知ったときの衝撃への
*
周囲に突拍子のなさを呆れられながら、経験はおろか関心すらなかったフラメンコのレッスンにとつぜん通い始めた行動も、そんな気持ちの余波だったかも知れない。
手や靴を打ち鳴らす情熱的な踊りには、ヒターノ(ジプシー)と呼ばれる流浪の民の長く辛い歴史が秘められていると知ったのは、申し訳ないが退会後のことだった。
そんな基本もわきまえず、地方新聞社が営利目的で経営するカルチャーセンターのスタジオで、不愛想な講師や非礼な若い会員に挟まれながら、かたちだけ葡萄摘みの重労働を真似ていたとは滑稽であり、民族舞踊に対して非礼でもあったけれど……。
ただ、たとえ「もどき」だったにせよ、イルミネーションまばゆい空中スタジオで体感した異民族の舞踊は、ケイコの内部に何かを目覚めさせたことはたしかだった。
*
リタイアしてから100円古書専門のケイコには珍しく、ある日、新刊を買った。
純文学が好みだったし、「全審査委員が絶賛!」のキャッチに他愛なく釣られて(唐突なフラメンコもそうだが、こういう軽薄なところがケイコにはある(笑))。
家事も入浴も面倒なことをすべて済ませ、さあてと手ぐすねを引いて読み始めた。
期待に違わず前半はよかった……むしろ予想をはるかに超えてと言うべきだろう。
だが、途中から雲行きが怪しくなって来て、医師から妙な薬を処方されたり、身内には勝手に預金を使われたり、人目のない密室で叩かれたり……惨め過ぎて怯えた。
明るい笑顔で親身に世話をしてくれたり、言われるがままの患者に代わって医師に抗議してくれたりするのはプロの介護スタッフだけという認知症の残酷な現実……。
――そうか、最低限の人間の尊厳を主張したくても、できなくなってしまうのか。
最期の瞬間まで自分らしくいたかったら、絶対に認知症になってはいけないのだ。
その恐怖は妊娠中毒症で浮腫んだ皮膚に押した指跡のように元へもどらなかった。
👩
いま、ケイコは思っている。
いつまでも生きていてごめんね……だれにともなく詫びるような消極的な生き方はやめよう、哀歓交錯した前半生の延長戦としての後半生を威風堂々と歩んでゆこう。
社会や家庭の「ご用済み」の身とはいえ、否、であればこそなおさらケイコの人生はケイコ自身のもの。遠方の子どもに引き取られ、心許せる旧友のひとりとていない異郷から異界へ旅立って行った先輩たちのようなフェードアウトの仕方は、いやだ。
そのためにルーティンの筋トレや執筆で心身を鍛える一方、新たなチャレンジ……ボルダリングとか空手の黒帯への再挑戦「押忍!」🥋(笑)などで細胞の活性化につとめ、次回の入院でも、主治医を説得する圧迫力(笑)を断固保持しておこう。
フラメンコ 💃 上月くるを @kurutan
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