揺れる

城島まひる

本文

揺れる。私が揺れている。

白い天井から伸びた縄。その先で私は首を括っている。明日は晴れるかな。心の曇りは晴れるかな。

私はアパートの一室で首を吊った私を見ている。

揺れる。私が揺れている。

でも私は床に座っていて、私が見ている私は幻覚でしかない。私の心が晴れることを願って、私は首を吊る。

揺れる。揺れている。


 *


朝、目覚ましが鳴る。月曜日の朝。土曜日は家事に潰され、日曜日は仕事の疲れを癒やすため、ほぼ一日寝ている。リフレッシュが完了するのは大体日曜日の夜九時頃。ストレス無く過ごせる時間は2時間しかない。

だから月曜日の朝。目覚ましによって起こされた朝は憂鬱だ。だから私は目覚ましを無視して、家を出る時間ギリギリまで布団で眠る。

家を出る五分前に起きて、会社の作業着に着替え、家を出る。

「いってきます」

誰からの返事もない。当たり前だ一人暮らしなのだから。ドアを閉める際にふと室内に目を向ける。暖かい筈の日の光がアパートの室内を冷たく照らしていた。

徒歩で駅で向かう。楽しそうに通学路を歩く小学生たちを横目に、私は駅に向かう。昔は挨拶をしてくれた小学生たちも、最近は私の顔見るなり頬を引き攣られ、その幼い無垢な表情の代わりに恐怖の表情を浮べていた。言われなくとも分かっている。髪も、肌も、表情も酷いあり様だ。

鏡は見ない。日に日に酷くなっていく自分を見たくなくて。最初こそどうにかしようと髪を整え、肌にクリームを塗っていた。しかし表情だけはいつまで経っても暗いまま。いつか私は病的な気質を放つ存在と化していた。

駅に着くと改札を通る前に、朝ご飯と昼ご飯を駅のコンビニで買う。私の作業着を見た店員に、営業スマイルで「いってらっしゃ~い」と言われ、会社に向かう重い足取りが少し軽くなる。

改札を通りホームに降りると、ちょうど電車がホームに入ってくる。私はその電車に乗り、一駅次の駅で降りる。そこからバスに乗り、会社の前で降りる。出勤時間まで三十分ほどあるため、会社の多目的ホールで駅のコンビニで買った朝食をとる。


 *


出勤時間の五分前に多目的ホールを出て、事務所に入り自分の席につく。私の目の前に席には、既に上司が座っており、パソコンの画面とにらめっこしている。

私はこの上司が嫌いだった。しかし同時にこの部署内で、最も好いている人物とも言えた。他の社員とは違い、その上司はしょっちゅう私の背後に回り、仕事の進捗を覗いてくる。その度あーでもない、こうでもないと言われ、嫌になる。しかし上司の言う通りにやれば、少なくとも他の社員から突かれることが無い為、指示に従うが一番安定だ。それに私は素人同然。上司はベテランなのだから。素人が口を出すべきじゃないだろう。

そして私の右手にはやはりベテランの上司。あまり理系に関心がない私には、彼の話は他の国の言語に聞こえる。頭が理解しようとしない。そんな感覚に陥る。

さらに左手には私の方をチラチラと数分おきに見てくる上司。何を言うわけでになく、ただチラチラと見てくるののだから、視認性ストレスが溜まる一方である。

事務所での私の席位置はベテランの上司に囲まれ、理解に苦しむ何かを永遠と言われる。そんな環境だ。

何もやる気が起きない。発言する気にもならない。何を言ってるんだという顔をされ、こんなこともわからないのかと否定され続ければ、誰でも気に病むだろう。

トイレに行った際は用を済ませ、スマートフォンで時間を潰す。一度席を離れてしまうと、どうしても戻る足取りが重くなる。私は短編の小説やツブッターの短い漫画を見て時間を潰す。

やっとの思い午前中を乗り切ると、昼休みに入る。私は朝と同等、多目的ホールで昼食をとり、事務所の自席に戻るとイヤホンをし本を読む。

昼食をとった後、上司たちの殆どは仮眠を取っているため、話し掛けられることもない。会社にいる時間の中で、唯一安心できる時間だ。


 *


午後の業務を終え、帰路に着く。行きとは逆にバスに乗り、電車に乗る。駅を出て歩いて家路に着くと足音を聞き、雑談していたおばさんたちが訝しげにこちらを見てくる。何見てんだよと怒鳴りたくなる気持ちを抑え、家路を歩き続ける。性に合わない労働をして帰ってきたのに、何故あんな目線を向けられなくてならないのか。無性に腹が立ち、行き場のない怒りが込み上げてくる。

アパートの鍵を開け、部屋に入ると真っ暗な闇に覆われる。右手で電気のスイッチを入れ、人工的な白い光が室内に溢れる。

壁に飾られたイタリア人画家、サンドロ・ボッティチェッリの『プリマヴェーラ』の贋作や、グスタフ・クリムトが制作した『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』が、帰ってきた家主を見て、声には出さずともホッと息を吐いたような気がした。これら絵画の価値を理解している人間は少ない。そしてその数少ない人間の中であることを、私自身誇りに思っている。

絵画を数分眺めた後、私はいまだに首を吊っている私を避けて、荷物を降ろし作業着から部屋着に着替えた。

その後は簡易的な夕飯を済ませ、シャワーを浴び、明日の業務を整理してから床につく。睡眠時間は五時間あるかないか。正直足りないが致し方ない。

私が床につくと、縄のきしむ音が聞こえてくる。夜で活動している人も少ない故に、小さな音がよく響く。私はイヤホンをして森や小川の環境音を流すと、やっと眠りにつくことができた。


 *


その日は目覚ましが鳴る前に起きることができた。皮肉だ。目覚ましをセットしていない日に限り、目が覚めてしまうとは。今日は火曜日、出勤日だ。

しかし私は到底出勤する気になどなれなかった。ここ三年間ずっと体が重く、舌を軽く噛まなければ起きれない。体が神経が言うことを聞かない。そんな日々を過ぎしてきた。

だからだろうか。限界だった。いや限界という感覚すらとおの昔に超えている。私は昨日、珍しく早く上がった。普段であれば二十時に退社しているが、昨日は十五時に会社を出て、駅のコンビニのATMでお金をおろし、そのままホームセンターに行った。ホームセンターのレジで店員に訝しげに睨まれたが、その視線にも慣れていた私は軽く流した。

ホームセンターで買ったのはネジ止め式のフック、螺子、インパクトドライバー、長めの縄、幼児用の椅子だ。

私はいつもの出勤日同様、朝食をとらず家で作業していた。ホームセンターで買ったもので、シンプルな装置を造る。装置と言うには簡素すぎるか。私は自嘲気味に笑い、縄を首に通す。後は幼児用の椅子をければ良いだけ。これで最後。そう思うとやはり最後に一目見ようと、絵画の方へ目を向けた。何故だろう、いつも美しいと思っていた絵画たちが、どこか暗く沈んで見えた。

あぁ...君たちだけは私を案じてくれているのか...

私は最後に一つの真実に気づいたのだろう。そして幼児用の椅子を蹴った。


 *


揺れる。揺れる。私たちは揺れている。

白い天井から伸びた二本の縄。その先で首を括っている。今日も晴れなかったよ。心の曇りは晴れなかったよ。

揺れる。揺れる。私たちは揺れている。

私たちはアパートの一室で首を吊った。

私と幻覚の私。二人で死ねば怖くないね。

揺れる。揺れる。私たちは揺れている。



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