当たらない馬券

結騎 了

#365日ショートショート 030

 チャイムが鳴った。

 男は、ゆっくりと身を起こした。はて、誰だろう。ギャンブル中毒で素寒貧すかんぴんの自分を尋ねてくるなんて、どうせ胡散臭いセールスマンだろう。

 ドアを開けると、案の定、小綺麗なスーツに身を包んだ紳士が立っていた。すでに腰を引いて低姿勢を演じているからこそ、警戒心が増す。なにより、その顔つきだ。まるでひょっとこのお面のようである。得体の知れない珍妙な来客に、「うちはセールスはお断りしています」とドアを閉じようとした。

「よろしいのですか。私がお売りしたいのは、馬券ですよ」

 ぴたっ、と男の手が止まる。馬券だって。こいつ、俺が競馬ジャンキーと知ってのことか。ただし、どうやら俺に博才はない。賭けた馬がことごとく負けるのだ。それも、セールスマンが馬券を売りに来るだなんて、聞いたことがない。しかし……

「話だけでも聞いてやろう」

 俺もたいがい重症だな。馬券と聞いただけで興奮を抑えられない。

 音も立てず玄関に滑り込んだ男は、すっと名刺を差し出した。

「私、面野つらの火男ひおとこと申します」

 なんと、名前もヘンテコである。

「この度、お客様にご案内したいのは、当たらない馬券です。お客様であれば、きっとこの商品の価値に気づいていただけると信じております」

 どういうことだ。俺を馬鹿にしているのか。確かに俺が買った馬券はことごとく当たらない。しかし、外れ馬券をわざわざ買えというのか。

「クズ紙を収集する趣味はないんだ。帰ってくれないか」

 そう切り返すと、ひょっとこ男は胸の内ポケットから数枚の紙片を取り出した。

「まあ、そうおっしゃらずに。まずはこちら、サンプルです。無料で差し上げます。それでは、またのご連絡をお待ちしております」

 状況が呑み込めない男をそのままに、不気味なセールスマンはいつの間にか玄関先から消えていた。一体、なんだったのか。新手の宗教勧誘だろうか。

 溜息をつきながら、手渡された紙片に目をやる。ややっ、これは馬券だぞ。それも今日の午後、数時間後に始まるレースではないか。なぜ、それが今ここにあるのか。いち、にい、さん……。全部で9枚ある。このレースの出走馬はたしか10頭。そのうち9頭の馬、それぞれ単勝の馬券だ。

「まさか、な……」

 疑念は膨らむ一方だったが、数時間後、男は血相を変えてひょっとこ男に連絡を取っていた。名刺に電話番号が載っていたからである。

「はい、面野火男です」

「つ、面野さん。さっきの馬券。あ、あれはなんですか」

「だから申し上げたじゃないですか。当たらない馬券です」

 電話を握る手に力が入る。まさか、そんな。どういうことだろうか。これは超能力か。魔法か。あのレースの1着の馬は、9

「つまりこれは、買った馬券の馬が1着にならないということか」

「お客様のご購入に応じて、その馬は外れになります」

 ひょっとこ男の声は自信満々だ。なにかカラクリの種があるのか。イカサマの類か。いや、重要なのは、目の前で起きたことだ。つまり、あらかじめ9枚の当たらない馬券を買えば、1着の馬を操作できるではないか。簡単なことだ。

「面野さん、今からうちに来られますか。明日のレースの馬券を買いたい。もちろん、買うのは当たらない馬券だ」

 ほどなくして、男は面野から9枚の馬券を買った。それぞれ、最低金額の100円。しめて900円の出費だ。狙っている明日のレースは、先ほどと同じく出走馬が10頭。残りの1頭のを、競馬場で買えばいいのだ。それも、単勝にうんと賭けて。

 翌日。レースが始まった。男の手には、借金をして大金を注ぎ込んだ単勝の馬券。ひいきの馬・ダントツテイオーに全てを賭けたのだ。といっても、ダントツテイオー以外の馬には、あのひょっとこ男から当たらない馬券を買ってある。これで、俺は大金持ちだ。

 しかし、レース終了後、男は真っ赤な顔で面野に電話をかけていた。ダントツテイオーは、3着だったのだ。

「おい、どういうことだ!当たらない馬券を買えば、その馬は必ず1着にならないんじゃなかったのか!」

 つい語気が荒くなる。

「あら、そのようなご理解だったのですか。これは失礼しました。私の説明不足だったかもしれません」

 ひょっとこ男は、飄々ひょうひょうとした口調で続ける。

「私は、、と申し上げました。レース直前、別のお客様がダントツテイオーを含む9枚の馬券を購入されたのです。それも、1枚あたり一万円で。当たらない馬券に、あなたの100倍も投資されました。当然、効力が変わりますから、そちらが優先されたのです。なあに、簡単なことですよ。次はあなたも同じようにすればいいのです。誰がどの馬にいくらを賭けるか予想しあう、いつもあなたがやっていることではありませんか」

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