淫瞳照魔

衞藤萬里

淫瞳照魔

「……結構なお点前、でした」

「いつまでそのギャグ使うつもり!」

 僕の下で仰向けになっている星野が大笑いする。

 祖母の影響で子どものころからやっている茶道のキャリアは、もう二十年以上だ。でも孫が女性との性交渉の後のジョークにしているなんてことを知ったら、祖母は怒り狂い、夢枕に立って呪いをかけかねない。

 彼女の身体を抱いたまま、横になる。必然的に彼女の身体も密着したままだ。僕らの息は、まだ荒い。

 子どもを産んでから、星野の胸は大きくなっていた。腰やおなかの周りの肉付きもよくなっている。いや、僕だって人のことは云えない、学生時代とくらべて五キロも太り、最近はひそかに腹回りを気にしているのだから。

 久しぶりの彼女との行為は、驚くほどよかった。これほどよかっただろうかと、驚いたほどだった。何て云うか……すべてしっくりくる感じだった。来年結婚予定の彼女とだって、こんな感じはしない。

 星野はクリーム色のローブを適当に羽織りベッドから降りると、備え付けの冷蔵庫の扉を開ける。途中のコンビニで買っておいた缶ビールを開け、口をつける。

「くぅっ! 一発やった後のこの一杯がたまらん!」

「オッサンかお前は、旦那に捨てられるぞ」

「そういうとこまで含めて、旦那はあたしを愛してまぁす」

「その旦那を裏切ってるのは誰だよ」

「それはお互いさま」

 星野はにやっと笑うと、僕の分のビールも持ってまたベッドに飛び乗ってきた。

 僕はテレビをつける。直立二足歩行をする哺乳類のドキュメンタリー番組だった。どうやら今は交尾の場面のようだ。僕らはベッドに転がって、その興味深い生態を鑑賞する。

「ね、どうする、これから?」

 体育座りみたいに膝を立てた星野が、急に問いかけた。ちびちびとビールに口をつけつつ、眼は画面から離れていなかった。太ももと胸元がローブからむきだしになっている。

 彼女の質問の意味はわかる。

「神谷君も結婚するんでしょ? つづける? こういうこと」


* * *


 サークルのOB会までまだずいぶん時間があるが、僕には目的があった。昼どきから少し時間が下がったタイミングで、その店――ハンプティ・ダンプティの前で、後ろから呼び止められたのがすべての始まりだった。

「神谷君?」

「星野?」

 振りかえると、愛嬌のある丸顔にショートカットの背の低い、サークルの同期がいた。

「ひょっとして、ハンプ?」

「そう」

 大学通りから一本横道に入った、学生御用達の軽食も食べることができる喫茶店だ。学食より少しだけリッチな日替わりランチは、バイト代が入った直後の御馳走で、僕も去年まではずいぶんとお世話になった。

 OB会の前に、久しぶりに寄ってみたかった。彼女も、同じだったようだ。僕らは顔を見合わせて笑ってしまった。そしていたずらの共犯のように、ふたりでその日の日替わりを食べ、セルフのコーヒーを飲んだ。

 店を出た彼女は、懐かしいと何度目かの台詞を口にした。たった半年ちょっと前のことだが、僕も同感だ。

 遅い時間だったが、それでもまだずいぶんと間がある。この微妙に空いた時間の扱いに困るなんてこと、社会人になってから経験した覚えがない。学生時代にはしょっちゅうあったのに、不思議だ。時間がひとりにつき一日二十四時間で均一に割り振られているなんて今は信じられないし、どれほど貴重なものか、ようやくわかってきた。

 どうしようかとちらっと彼女を見ると、彼女もどこで時間をつぶそうって風情で、腕時計に眼を落していた。

 星野が顔を上げた。眼が合った。

 そのときに何がおきたのか、説明できない。

 今までサークルの同期だった気のおけないやつの瞳が、別のものに変貌していたように感じた。彼女の瞳の色具合、潤み具合、艶めかしさは、これまで彼女に一度として見たことも感じたこともないものだった。

 口が勝手に動いていた。

「……もう少し、時間ある……どう、する?」

 言葉がひどく粘っこく、霞の向こう側から時間差で自分の耳に届くような感覚があった。

 彼女の瞳が一瞬、照度を変えずに妖しく輝いたような気がした。

 未踏の地が視界の端にあるのを知覚しつつ、僕らは眼をふせてそこへ到達しようと試みているような気がした。

「……神谷君、に、任せる、よ……」

 彼女の答えもまた、霞の向こう側から届いたようだった。

 不思議な感覚に衝き動かされていた。

 僕たちは無言で電車に乗り、大学とは違う街で降り、駅の裏手の改札口をぬけ、まだ動きだしていない繁華街を歩いた。色情の門をくぐり部屋を選び、カードでドアを開けるまで、僕たちは一言もしゃべらなかったし、手をつなぐこともなかった。

 後ろで部屋の扉が閉まる音を聞いた。完全に引き返すことができなくなったそのときだけ、彼女はぽつりとつぶやいた。

「……まさか、神谷君と……ね」

 部屋の狭さが、限られた利用目的を象徴していた。

 その後は行為が終わるまで、不可抗力で口からもれるもの以外、僕たちの間に会話はなかった。


 あれから何年たったろう。

 学生時代の星野は、きれいというより親しみやすいといった風情で、異性同性関係なく人気があった。実際、なかなかもてたらしいが、当時は僕にも相手がいたこともあって特に関係を持つことはなかったし、そんな気になることはなかった。

 それが、何のはずみかわからないが、卒業をしてから、誰にも知られることなくこんな関係となってしまった。

 僕たちの関係は本当に、年に一度のOB会の前に示しあわせての、わずかな時間に限られていた。県境をいくつかまたいで、会いに行こうと思えば行けないことはないだろうが、一年に一度以上の何かを求める気にはならなかった。彼女とはそういう付き合いという気がしていた。

 数年後、彼女に婚約をした相手ができてからも、密かに関係はつづいた。僕自身、彼女とは別の相手と付き合っていた。

 よく考えたら、これは不貞とか不倫とか、そういったあまり芳しくない言葉でひとくくりにされてしまうものかもしれない。だけど、少なくとも僕は罪の意識を感じなかったし、彼女もそうだったと思う。

 うまく説明できない。星野とのこの関係を、どんな風にカテゴライズしていいのか、僕にはまったくわからないからだ。

 だがとにかく、僕たちの一年に一度きりのこの行為は、ごく自然なものとして、僕の中にはあった。

 妊娠と出産後の数年、彼女はOB会に参加することはなく関係も途絶えていたが、今年は行くことができそうと、彼女から連絡があった。


* * *


「つづける? こういうこと」

 星野――今はもう別の姓を名乗っているが――からそう問われて、僕は迷った。関係を終わらせるというイメージが持てない。

「つづけるさ、別に悪いことじゃないだろ?」

「いやいや、悪いことだからこれ」

 そう云う彼女も笑っている。じゃあやめるというか、そもそも最初からしなければいいだろうってのが、常識的な考え方だろう。でも正直、彼女とのこの関係、終わらせるのはちょっと惜しい。

「俺、お前の旦那に慰謝料請求されても、おかしくないからなぁ」

「あたしも離婚だわ、いい弁護士探しとかなきゃ」

「考えたら、ろくなことしてねぇな俺たち」

「最初は神谷君が誘ったんじゃない」

「ほいほい、ついてくんなよ」

 星野がももをつねる。

「ああいうのを、魔が差したって云うんだね」

「あれ、絶対、星野の方から誘ってたからな」

「また、あたしのせいにする」

 今度は僕の横腹にパンチする。

「さぁ、困った」

「別に困らないだろう?」

「あたしも子どもがもう少し大きくなったら、OB会も簡単に来ることもできないと思うんだよね」

 星野が膝にあごをのせて、不満そうに云った。あぁそうか、そんなことも考えなきゃならない年齢なんだなと思った。

「確かに。俺も将来のことなんてわからんしなぁ。結婚したら制約も出るだろうし、仕事の関係もあるからな……じゃ、自然消滅って形でいく?」

「無責任、考えなし、神谷君って昔っからそうだよね」

 口をとがらせる星野。適当に云ったはいいけど、僕にもそんなつもりはない。

 そのとき、ベッドの枕元のスマホが彼女を呼びだした。

「うわっ、お母さんだ。どうしよう」

「出ろよ」

 テレビを消せと、星野の眼が云っていた。僕はテレビも有線もオフにする。彼女はスマホを耳にあてる。

「お母さん? うん、今友だちといっしょ……あ~もう、いいじゃない、久しぶりなんだよ、何年も出歩いてなかったんだから、そんなに云わなくっても……」

 星野がぺろっと舌を出した。

「ごめんごめん、わかってるって、ちゃんとするから。だからへっ君、よろしくね――え?」

 ちらりと僕を見る。その瞳の色合いに、不意に僕は戸惑った。

「あ、いいよ、代わって」

 星野は髪をかき上げながら、平然と答えた。

「あ、へっ君? うんうん、お母さん、明日帰るから。ごめんね、ばぁばの云うこときいて、いい子しててね」

 笑いながら、うん、うんと何度もうなずいている。スマホからもれる子どもの声が、たどたどしいのがわかる。話はなかなか終わらない。

 僕の戸惑いは、消えなかった。それどころか、どんどん胸の中で広がっていく。子ども――確かまだ三歳って云っていた――と電話で話す星野の表情、瞳に宿る光は、僕が今まで見たことのない彼女だった。

 僕は座っている彼女の後ろに回り、脚と腕を彼女の身体にからめた。

 星野がにらむ。口だけで「こらぁ」と云う。そのくせ、子どもとの会話は途切らせない。

 襟足に数本、ほんの数本だったが、白くなった毛を見つけた。襟足をなでる。彼女の身体が僕の内側でびくりとした。何度も仕掛けるが、彼女は見事に耐えた。

 長い電話を終え、星野がほうっと長い息を吐く。そして猛然と振りかえり、僕を押し倒し、腹の上に馬乗りになった。

「こらっ!」

 口調はきつかったが、本気で怒っていないのがわかる。

「神谷君! やばかった、今のはマジでやばかったからね!」

「気にするのか?」

「当たり前でしょ。こんなふしだらなこと、へっ君に知られたら、あたし生きていけない」

 むくれた星野がぼそりと云う。

 ――ね、どうする、これから?

 不意にさっきの星野の台詞が、耳の奥でよみがえった。

 同期としての彼女。

 年に一回、こうして関係を持つ彼女。

 普段は別の者に抱かれている彼女。

 決して僕のものではなく、別にそのようなことも望むこともない彼女。

 そして、子どもと話す星野。それは僕が今まで一度として見たことのないものだった。

 ――つづける? こういうこと。

 また、さっきの星野の台詞。

 僕の上に馬乗りになっている彼女を、僕はあらためて凝視した。前がはだけたままのローブからのぞく胸の谷間、へそ、すべすべしたお腹。それが見慣れないもののように感じた。

 僕の戸惑いを、星野は勘違いしたようだった。

「まだ時間、あるよ」

 にいっと笑いながら、誘いかけるようにそう云った。

 見下ろす彼女の淫靡な瞳。

 さっきまで子どもと話をしていた女のものではなかった。女には、そんなことが可能なのか? ぞっとするほど、底の知れない不気味さを初めて彼女に感じた。

 何かの手違いのように、こんな関係になってしまった僕ら。でも僕はこれをちょっとした秘密の遊びぐらいにしか捉えていなかった。

 だけど、今、母だった星野の瞳を見てしまった。

 あれはすでにゲームが終わったことの証しだ。あるいは、彼女はもう別のゲームのプレイヤーだった。花火は終わって、ここはもう帰途だった。

 あんなものは見たくなかった。

 そのくせその瞳は、今、男を誘いこむものになっていた。

 星野の指が、僕の裸の胸をなでる。

 ――つづける? こういうこと。

 さっきの星野の問いかけが、よみがえったが、どうしたらいいのか答えなんか出せそうにない。

 星野の唇が近づいてくる。

 そして彼女の瞳が。

 年に一回だけの行為を誘う淫らな瞳が。

 淫靡さをまるで感じさせない母としての瞳が。

 いろいろな星野が混ざりあった瞳に、金縛りにあったように動けない。

 ぞわぞわと快楽が背中を這いあがってきて、身体の中のどこかに灯がついた。その灯は、身体の内側をあぶっていくことになるだろう。

 急にこの関係が、ひどく冒涜的なことのように思えた。抱えていたものの重量に、初めて気がついたような気分だった。そのくせ抵抗しがたい欲情は去らない。 

 ――つづける? こういうこと。

 彼女の台詞が、僕をかき乱す。彼女の瞳が、僕の意思を呑みこんでいく。

 抵抗することもできずに、僕はきっとまた、みっともなく、だらしなく流されていき、答えは出せないままだろう。


(了)

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