一 赤い髪の呪詛の姫

 ――春の音色が聴こえる。


 そう錯覚してしまうほど、その光景は、優しい色彩に溢れていた。


 何てことない光景だ。やわらかな緑の丘のてっぺんに立つ1本の樹。天へと伸びやかに広げられた枝には、不思議なことに葉が1枚もなかった。そのかわりに、そこにあるのは――薄紅色の小さな花。


 可憐な花が、葉のかわりに群生し、咲き誇っていた。風が舞う。無数の花びらが宙に翻る。しかし、変わらずその樹木は薄紅色をたっぷりと纏っている。


 その様に、最初は豪奢な衣を連想した。どこかの姫君が纏うような、華やかで、裾がたっぷりと広がった。


 しかし、次に別の衣が思い浮かんだ。祝いの席で、幼い少女が不安げに、でもどこか得意げに纏う、愛らしくもちょっとだけ背伸びした衣を。


 空から舞い降りる花びらは、雪を思わせる。それほどまでに、花の色は淡い。


 風に翻る花びらは、舞手の領巾のように雅やかで、目も心も奪っていく。




「――」




 誰かに呼ばれた気がして、ふと空へと向けていた顔をそちらへとやった。確かに誰もいなかったはずのそこに、黒と赤の衣に身を包んだ男が佇んでいた。


 男は、こちらを見つめていた。口元には笑みが浮かんでいるのが分かる。嫌な感じはしなかった。


「誰……?」


 つぶやき、思わず足を1歩そちらに踏み出した時だった。


「っ!」


 突然風が吹き荒れ、思わず腕で顔を庇い目をつぶった。先ほどまで穏やかに過ぎていた風は、激しさを増していくばかりで一向におさまらない。腕で顔を守りながら、何とか目を開ける。男の正体を確かめなくてはならないと思ったのだ。強い風に追い立てられるように、そんな焦燥感がせり上がってくる。


 しかし、腕と腕の間からようやく目を開けるに至っても、絶えず花びらが視界を奪っていく。男は変わらずそこにいるものの、肝心の目元だけが見えない。ただ、微笑む口元が見えるだけで――……、






 ごおっと一際激しく風の音がした気がして、一気に目が覚めた。少し息が乱れている。今の勢いで起き上がってしまっていたらしい。視界に映るのは、膝にかかった紅色の掛布に朝日の差し込む見慣れたへや


「――どうした、火恋ひれん


 当たり前のように響いた低い美声に、火恋はそちらへと顔を向けた。


「悪い夢でも見たのか」


 問いかける声は、火恋のいる寝台から少し離れた書棚の隣に置いてある籠から聞こえた。……いや、違う。正確には、火恋が両手を広げて作った輪ほどの大きさの籠の、その中からだ。そこに黒っぽい塊があり、金色の双眸がこちらを見ていた。


「悪い夢……では、なかった筈なのだけれど……」


 と言いながら、火恋は肩にかかった癖だらけの髪を後ろに払った。


「ちょっと、終わり方が悪かっただけというか」


「何だそれは」


 と、黒灰色の塊がただでさえ悪い目つきをさらに悪くして言う。決して機嫌が悪いわけではないのだというのは、この長い付き合いで分かっている。何ならこの鋭い目つきをかわいいとさえ思っている。


「今何か失礼なことを考えていただろう」


「そんなことないわ」


 にっこりと笑いかけてみたが、相手はますます眉間の皺を深くした。これがまた愛らしいので、どちらにせよ火恋からすれば万々歳だ。


「きれいな夢だったわ……。樹に桃色の変わった花が咲き乱れていたの。何の花だったか分からないのが残念だったわ」


「桃の花じゃないのか」


「だったら、さすがに分かるわ」


 春の始まりから初夏の直前までの間に花を咲かせる桃の花は、確かに葉を全部落とし枝にほろほろと花を咲かせている。しかし花びらの色はかなり濃く、しかも木そのものもそれほど背が高くはなく枝も幹も細い。何より、枝を覆うほど無限に咲き乱れているわけではない。その控えめさが魅力ではあるが。


 少し憤慨して言ってみるが、知らんぷりされた。彼――この子犬のような見た目の狼には、花鳥風月といった風情が分からないのである。


「立派な樹木だったの。ものすごく背が高くて、幹も太くて。桃の花よりも薄くて淡い色の花が枝を覆い隠すように咲いていて……花びらの形も違った気がするわ」


 今まで見たことのない、穏やかで雅やかで、でも荘厳な光景だった。うっとりと目を閉じて、夢での光景を思い返す。しかし狼の興味はそちらには皆無であった。


「それで、悪い終わり方というのは」


 火恋は狼を軽く睨んだ。


「少しは浸らせてくれてもいいと思うわ、シロ」


 ――シロ。それがこの黒灰狼の名前である。黒灰狼の。


「夢見は馬鹿にできないだろう」


 確かにそうだけど。むくれつつも、シロの言い分は正論なのでぐうの音も出ない。


 この碧陵国へきりょうこくでは、夢見は未来の吉兆を占うものとされたり、神の御渡りなのだと言われたりする。はたまた――……、


「――火恋?」


 聞き慣れた渋い低音に、火恋は我に返る。顔を上げると、シロが寝台のそばにまで来てこちらを見上げていた。ピンと立った三角の耳。金色の三白眼。もふっとした黒灰色の毛に、両前脚がちょこんと並んでいて……、


「……シロそのままじっとしていて」


「断る」


 じりっとにじり寄りかけた火恋に、シロが即座にその場を後にした。あっという間に、寝床の籠の中へと戻っていく。あまりの冷たさに、あぁっと火恋は思わず声を上げた。


「ちょっと! 何で動くのよ!」


「お前がろくでもことを考えているのが分かったからだ」


「絵描きに来てもらってその似姿を描いてもらってその後私が触りまくりたいだけだったのに」


「それが嫌だと言っている」


 何刻かかるんだ、とシロは白い目である。


「シロはもっと自分のかわいさを自覚するべきだわ」


「そんなことをほざいているのはお前だけだ」


「みんなが分かっていないだけよ」


 熱をこめて言ってみるが、シロはつーんとそっぽを向いてしまった。そういうところは猫みたいな狼である。


「それより、今日は天虎てんこに用があるんじゃなかったのか」


「……あっ、そうだったわ!」


 ため息混じりのシロの指摘に、火恋は慌てて寝台から飛び降りた。寝間着の裾が、ふわりと広がる。この国の女性が着る裳は、寝間着であれ普段着であれ、花びらのように裾が広がっている。火恋はそれが大好きなのであった。


「行儀が悪いぞ」


 案の定、シロが注意してくる。こういうところがお父さんみたいだ。


「いいじゃない。今は私のへやで、私とシロしかいないんだから」


「普段の行いが物を言うんだぞ」


 まずい、説教じみてきた。風雅なものへの情緒は欠片もない癖に、どういうわけかこの狼は礼儀作法にはうるさいのである。説教が長くなる前にと、火恋は慌てて話題を変えた。


「天虎兄様に会うの、いつぶりになるのかしらね」


「半年ぶりだと、昨夜お前が言っていただろう」


「そうだったかしら」


 目を逸らしながらとぼけた時、戸の外から「火恋様」と女性の声がした。


「お目覚めでしょうか」


 この家の侍女だろう。それが分かったから、火恋は答えた。


「……えぇ、起きているわ」


 シロと話していた時よりも、その音色は幾分か低くなった。シロはそんな火恋に息を吐き、何も言わずに籠に戻り丸まった。それを見届け寝台に腰かけたところで、「入っていいわ」と素っ気なく許可する。「失礼致します」という声。戸が静かに開けられた。


「おはようございます。火恋様」


 水の入った器を両手で持った侍女が、その場で簡略化された礼を取った。火恋は微笑むこともなく、ただ「えぇ」と応じる。


「お加減はいかがでしょうか」


「……何ともないわ」


 髪を払いながら、目を合わせることなく答えた。侍女の方も目を合わせることはなく、ただ「かしこまりました」と言うだけである。


「洗面器はいつものところに置いておいて」


「はい。お召し替えのお手伝いは如何なさいましょうか」


「……必要ないわ。もう下がって」


 ――手伝う気もない癖に。そう思いながら抑揚なく命じると、侍女は愛想笑いも浮かべずに「かしこまりました」とまた事務的な礼を取る。


「では、また後で朝食を持って参ります」


 そう言い残して、侍女は去って行った。


 戸が閉まり、足音が完全に消えるのを聞き届けてから、火恋ははぁ、と息を吐き出した。


「私がどう答えるかなんて分かり切っている癖に、しらじらしいったらないわ」


「……まぁ、今日の侍女はマシな方ではあったがな」


 籠から頭をもたげたシロが、侍女の出て行った戸を見つめながらそう評する。火恋はその発言に噛みついた。


「全然そんなことないわよっ! だって今の侍女、私の髪を嫌そうに見ていたもの‼」


 癖だらけでちっとも纏まらない髪を掴んで、叫んでやる。……何だか余計にむかっ腹が立ってきた。


「侍女なんだったら、ちょっとは眉間の皺を抑えなさいよっ、本当に感じ悪いっ」


「……朝からそういきり立つな」


「シロは悔しくないのっ⁉ あの侍女、あなたのことも監視するように見ていたじゃない!」


「今更その程度、どうということもない」


 むきになる火恋とは裏腹にシロは冷静だ。


「俺を見て悲鳴を上げて洗面器をひっくり返して失神した侍女に比べれば遥かにマシだったと思うぞ」


「それは……、そうだけど」


 あの時は大変だった。やれ『呪詛の姫君』がとうとう侍女に呪詛をかけただの、不吉な獣が侍女の魂を喰らっただのと、好き勝手に騒がれて。


 それでも今の侍女のことを許すみたいになるのは癪で、まだぐじぐじとしていると、シロが大きめのため息を吐いた。


「……それより、天虎に会う用意を早めに済ませておいた方がいいんじゃないか」


「っ、そうだったっ‼」


 あんな侍女のことを気にしている場合ではなかった。火恋は今度こそ寝台から飛び降り、支度をするべくまずは顔を洗うのだった。






 国境の視察に行って、しばらくやしきを留守にしていた兄にようやく会える。火恋はお気に入りの紅色の衣に袖を通し、自室を出た。金の簪には珊瑚の飾りがぶら下がっており、火恋が歩くのに合わせて楽しげに揺れているのが分かる。


 裳をふわふわとそよがせ、浮足立った足取りの火恋の斜め後ろには、つかず離れずシロがついてきている。ちょこちょこと歩く様が愛らしい。


 離れである湖翠楼こすいろうの自室を出た火恋は、天虎の執務室へと向かう為久々に正房を訪れていた。邸内には各所に見事な庭園があり、初夏のこの季節には目にも涼しい工夫が施されている。正房を訪れること自体は好きでない火恋だが、草花が豊かで風雅に富んだ庭園はいつ見ても見事だと思っている。庭園が見渡せる廻廊を歩き、初夏の風を浴びながら進んで行く。


 ……それに、と火恋は斜め後ろを歩くシロをちらりと見下ろした。


 シロは、火恋に付き合ってへや籠りに付き合ってくれている。野生の性を持つ彼にとっては、物足りない毎日なんじゃないだろうかと火恋は心配していた。


 しかしもっと外に遊びに行ってもいいのよと言っても、「この程度で勘が鈍るほどヤワではない」ときっぱり返されてしまう。時々夜中に、湖翠楼の周囲を走り回るくらいだ。


(……そんなシロに、もっと強く言えない私も私だわ)


 火恋はそっとため息を吐いた。


 火恋にとって、毎日の話し相手になってくれるのはこのシロしかいない。兄である天虎もかわいがってはくれるのだが、やはり公務が忙しく会うことさえ難しくなっているのが現状だ。


 だからどうしても、このシロから離れがたく思ってしまう。滅多にそのやわらかな毛を触らせてくれないし、ちっとも情緒というものを分かってくれないが、それでも、火恋が話せば不愛想ながらもずっと話を聞いていてくれる。言い合いができるのだって楽しい。


 そんなシロが、ほんの少しの間外にいなくなってしまうだけでも、本当は心細くてたまらない。もっと外に遊びに行ってもいいというのを拒否された時、内心、ほっとしてしまっていたのだ。


 だからこうして外の空気にできるだけ触れさせるのは、火恋なりの気遣いでもあった。


(……それに、私もシロも、何もやましいことなんてないんだから)


 簪の飾りを揺らしながら、火恋は意識して胸を張った。


 そろそろ昼になろうかというこの時刻、邸には人の出入りが多い。


「ひぇっ」


「……!」


「おい、あれ……」


 すれ違う度誰もが、廻廊を堂々と歩く火恋とシロの姿に露骨に悲鳴を上げたり眉をひそめたりする。いつもは自室に引きこもりがちの姫が白昼堂々邸内を闊歩しているのだから、そうなるのは予想通りであった。


 ここは、碧陵国へきりょうこく志泉しせん州領主の邸。父はこの邸の主であり、志泉州の領主である。つまり、一応は火恋も、この志泉州公主と言えた。


 しかし、敬われているかといえば、話はまったく違う。人々は、火恋を――正確には、火恋の髪を見て囁き合う。


「……見て、『呪詛の姫君』よ」


「こんな昼間から、不吉な……」


「あの赤い髪。何て穢らわしいの」


「血のように真っ赤じゃないか」


「地獄の業火かもしれないぞ」


 そんな声が、聞こえてくる。


 ……そう。火恋の髪は、遠目に見ても分かるほどに真っ赤だった。そしてそんな髪色の人間はこの邸内に、いや、国中どこを探しても火恋しかいないだろう。


 生まれつきこの色であったなら、こんな風に囁かれる状況に文句を言えていたかもしれない。しかし、こうして忌避の眼差しを注がれ、忌々しげに囁かれるのには明確な理由があった。


 火恋のこの髪は、生まれつき赤かったわけではない。ある時を境に、真っ赤に染まってしまったものだ。そして、そうなったきっかけは……、


「――火恋」


 ふと湧いた声に、火恋はいつの間にか下がりかけていた顔を上げた。落ち着いたを通り越して、いっそ冷淡にすら響く声。そこには、数名の官人と護衛を連れた若い男が立っていた。


 決して華美ではないが、上質な藍染めの絹の衣を身に付けている。美しく流れる黒髪は長く、色白の肌に吸い込まれそうな翡翠色の瞳。火恋を見下ろすその眼差しは、氷のように冷たい。


龍仁りゅうじん兄様……」


 火恋は思わず、茫然とつぶやいていた。この時間帯であれば出仕中で顔を合わせることもないだろうと思っていたのに。


(それに、いつもなら鉢合わせても目すら合わせない筈)


 次兄はそれほどまでに、妹である自分に興味を抱いていない。


「龍仁様、先を急がれた方が良いのでは」


 火恋の真正面で完全に足を止めている龍仁に、隣にいる官人が慌てたように小声で促した。こちらを一瞬ちらと恐れをなした目で見たのを、火恋は見逃さなかった。


(……本当に)


 心が翳るのを感じるものの、それで龍仁が立ち去ってくれることを期待してしまう。龍仁とは、同じ空間にいるだけでも心の臓が早鐘を打ってどうしようもない。今だって、足が竦んで動けないでいるようなものなのだ。


 しかし官人の忠言にも、龍仁は表情を変えなかった。


「ここで何をしている」


 こちらには何の情もないという冷ややかな眼差しと声で、龍仁が問うた。数月ぶりに聞いた冷徹な声に、火恋は肩をすくませる。そんな火恋の様子に、龍仁が重ねて尋ねた。


「ここで何をしていると訊いている」


 ――あぁ、これはさっさと答えろと命じられている。こちらはお前と違って忙しいのだと言わんばかりの冷ややかさに、火恋は浅い息のまま口を開いた。


「……天虎兄様と、お会いする約束がありまして」


「兄上と?」


 龍仁が、そこで初めて眉間に皺を寄せた。後ろにいる官人達も、「天虎様が」と不審げに顔を見合わせている。龍仁が後ろに軽く視線を流すと、官人達は押し黙った。


「……それはいい。くれぐれも次期領主の手を煩わせるな」


 現当主は父であるが、数年ののちに天虎が領主の地位を受け継ぐことは、既に公になっていた。次兄の命令に、火恋はわずかに首を垂れる。


「……はい」


「――だが凶獣きょうじゅうを引き連れているのはどういうことだ」


「……え……」


 龍仁の眼差しが、ずっと黙って火恋に寄りそっていたシロへと注がれた。そこには、わずかながらもけだものへの嫌悪が感じ取れた。


「お前は領主の娘だ。邸内をうろつくのは構わない。兄上からお許しが出たのであれば兄上に会うのもよかろう。だが、それをうろつかせていい理由にはならない」


 再び火恋を見下ろす瞳は、厳しく冷たい。


「お前の軽率な行いが、志泉領主家の品位を下げているのが何故分からぬ」


「……」


 火恋はすっかり青ざめて、立ち尽くしてしまった。


「兄上はお前に甘い。そのような凶獣を飼うことをお許しになられているが、それを他の者たちが受け入れているなどとは努々思うな」


 鋭く、釘を刺された。火恋は決死の思いで、そんな兄を見上げた。


「し、しかし、天虎兄様が、シロにも会いたいから連れて来いと……!」


「……あの人はどこまで甘いんだ」


 龍仁がほんのりとうんざりした様子を見せて独り言ちた。しかし、すぐにまた何の感情も浮かんでいない顔で火恋を見下ろした。


「兄上に命じられていようと、その凶獣はへやから出すな。邸の者が皆怯えている」


「で、ですが、シロは凶獣などでは」


「その馬鹿げた呼び名もやめろ」


 公主がけだものに名をやるなど。そうつぶやく龍仁の目にはありありと軽蔑が浮かんでいた。初めて火恋自身に向けてくる感情に怯みそうになるが、シロに関することは譲りたくなかった。しかし再び言い募ろうとした火恋を遮ったのは、室を出てから1度も口を開かなかったシロであった。


「……火恋、俺は室に戻ろう」


 そっと告げられた言葉は火恋だけに向けたものだというのに、龍仁を取り巻いている官人達が「ひぃっ」と露骨に悲鳴を上げる。遠巻きに様子を窺っていた者達までもが「喋ったぞ」「化け物だ」と口々に好き勝手なことを言う。火恋は反射的に、そちらをきっと睨みつけた。


「――火恋」


 またしても命じるかのような声音に、火恋は肩をびくりとさせた。


「今言ったこと、忘れるな」


 そう告げるともう火恋には見向きもせずに、次兄は妹の脇をすり抜けてしまった。








「俺だけで戻れるというのに」


「いいの。龍仁兄様を説得できなかったのは私だし」


 火恋の腕の中でぼやいたシロに、火恋は澄まし顔でそう言ってみせた。


 龍仁が官人や護衛と共に邸の奥に消えた後、火恋はシロを抱き上げ、1度自室に戻ることにした。いつもはちっとも触らせてくれないシロも、この時ばかりは大人しく抱き上げられている。


 周囲に人がいなくなってから、火恋はそっとこぼす。


「……ごめんなさい。シロも、天虎兄様に会いたかったわよね」


「俺はまったくそんなことはないが」


 そう言う声は本気のようで、火恋は思わず吹き出してしまった。長兄である天虎は、火恋に負けず劣らず獣好きだ。シロを撫でまわしたいあまりに何度も飛びかかっていたのを思い出す。


「天虎兄様は、きっとものすごーく残念がると思うわ。私の室に押しかけてくるかも」


「やめろ」


 きりっとした声が珍しく疲弊した響きを持ったので、また声を上げて笑っていると。


「っ!」


「きゃっ」


「ぶっ」


 廊の角を曲がろうとした火恋は、正面から思い切り誰かとぶつかった。火恋の腕の中にいたシロも、鼻面をぶつけてしまったらしい。


「! シロ、大丈夫⁉」


「あぁ……、それよりも、」


 腕の中を覗き込むと、シロが前脚で鼻を押さえながら視線を上へと促した。正確には、火恋の真正面。その視線のままに顔を上げた火恋は、目をぱちくりさせた。


礼狼れいろう


 そこにいたのは、中性的な顔立ちをした火恋とそう年の変わらない少年であった。武官と作りのよく似た衣を着ているが、それにしては上質な生地だとひと目で分かるし、わずかばかりだが優れた逸品だと見て取れる飾りをつけている。


 腕を組み、不機嫌を隠そうともしない様は少年特有の生意気さが窺えるが、それだけではない品位と矜持が滲み出ていた。


「ご、ごめんなさい。私の不注意だわ」


 火恋は慌てて頭を下げた。


 実際、思い返してみると向こうはぶつかる寸前にこちらに気付いて半歩引きかけていた。そこに火恋が突っ込んでいったようなものだ。


 不愉快そうにこちらを見下ろした少年が、口を開いた。


「俺への詫びよりけだものへの配慮が先か」


 甘い顔立ちに似合わぬ、高圧的な物言いだ。どう答えようかと迷っている内に、少年が自分の背後をふり返った。


星秋せいしゅう、何故教えない」


 見ると、彼のすぐ後ろには1人の男が控えていた。年は二十代後半ぐらいか。蜂蜜色の長い髪を素っ気なく後ろでひとつに結んでいる。黒い目は細く、あまり表情豊かとは言えない男だ。少年同様に腰に剣を差している。


「失礼ながら、やって来るのが姉君であると分かりましたので」


 思ってもみない言葉に、火恋は瞬いた。火恋はこの「星秋」と呼ばれた男と、あまり言葉を交わしたことがない。どころか、まともに顔を見ることも普段滅多にない。まったく表情を変えずにそんなことを宣うなどと、誰が思おうか。


 案の定、少年――礼狼の機嫌がますます悪くなる。


「こんな女が姉君なものか」


 卑しい呪いだぞ。礼狼が小声で吐き捨てた言葉に、知らず肩がびくりと震えた。


 火恋には、兄弟が3人いる。長兄の天虎、次兄の龍仁。……そしてこの、弟の礼狼。


 兄弟の中で1番、ひとつ下の弟であるこの礼狼と容姿が似ていると、よく言われていた。


 今目の前にいる弟の髪は緩く波打つ亜麻色で、黒い飾り紐で結われている。火恋の髪ほどに癖はひどくなく、上品で甘い印象を与える。瞳は火恋同様に青。しかし、こちらも火恋の瞳がくっきりと濃い青色なのに対し、もっと淡く、冬の朝方を思わせる繊細な色彩だ。


 まったくそっくりとは言い難かったが、それでも、兄2人よりは似通っていた。


 長兄の天虎は獅子を思わせる金茶色の髪を、それこそ鬣のように無造作に跳ねさせていた。少年の輝きを失わない朱色の瞳は明るくそして雄々しい。次兄の龍仁はそれとは正反対。天虎が「動」であれば、龍仁は「静」。どちらも極端に傾いていて、火恋と同じ色彩も印象も持ち合わせない。


 だからか、弟とは1番、姉弟らしい触れ合いをしてきた。年が近いこともあるだろう。一緒に遊び、時には同じ布団で寝て、毎日のように喧嘩もして。


 まともに話すこともほとんどなかった龍仁に冷たくあしらわれるより、礼狼に蔑まれる方が余程堪える。


「確かにそう仰る方もいますが」


 特に怯んだ様子もなく、星秋がただ事実を述べただけというように淡々と答える。


「ならいいだろう」


「しかし天虎様も龍仁様も、火恋様を妹姫として扱っております」


 感情的な様子を見せず、星秋はあくまで理路整然と返す。


(……意外だわ)


 火恋は胸が痛むのを一瞬忘れ、そんな星秋を思わずじっと窺った。彼はずっと昔から、礼狼に仕えている従者だ。いつも礼狼の斜め後ろに無言で控えている印象が強く、このように礼狼に意見するとまでは思っていなかった。


「……そんなもの知ったことか」


 兄2人の名前に幾分怯んだものの、礼狼は居丈高な態度を立て直した。


「そもそも、この女が邸内をうろついているのが悪いだろう」


 この女、と吐き捨てるように言う様には、露骨に侮蔑が表れていた。視線は己の従者に向けたままだが、火恋に当てこするように述べているのが分かる。火恋は思わず、シロを抱きしめる力をぎゅっと強めた。


「しかし」


「黙れ」


 礼狼が、深い苛立ちの声でぴしゃりと言った。


「こいつは卑賎な呪い女だ。2度も言わせるな」


「……」


 星秋は黙りはしたものの、表情はやはりまったく変えなかった。怯んでいるようにも見えなければ、主の発言に不快そうにするでもない。


 つまり、火恋に同情して言っているのでもなさそうということであった。それでも、邸内のほとんどの人間が火恋を忌避し、眉をひそめる中で、星秋がそれをしなかったというのも、火恋にとってはまぎれもない事実だ。


「あぁ、何だお前、そういうことか」


 ふと、礼狼が何かに思い至ったように、酷薄な笑みを浮かべた。かと思うと、その笑みを顔立ちに似合う優し気なものに変え、何と火恋に顔を向けた。


「姉上」


 何年ぶりか分からない呼び方をされ、火恋は礼狼の顔をぱっと見上げていた。


 いつも弟を前にする度に感じるのは、後ろめたさや罪悪感だ。だが今、それら以外の感情がどうしようもなくこみ上げてくる。


 何故「姉上」と呼んでくれたのだろう。不安を感じるべきところなのだと頭では分かっているのに、問いかけたくて仕方がない。


 しかし火恋の中でせめぎ合う思いを、礼狼は難なく踏みにじった。


「俺の従者があなたを情人に望んでいるみたいですよ」


 途端、腕の中でシロの毛がぶわっと逆立ったのを感じた。頭が真っ白になりかけた火恋は、はっと我に返る。


(……だめ、シロ!)


 獣の気を昂らせようとしている小さな体を、必死に抱きしめる。自分が蔑まれるだけならまだいい。だが、シロが元の姿に戻っては、後で処分しろという声が上がりかねない。邸に住まうことを許してくれた天虎にも迷惑が及ぶ。


「……礼狼様」


 星秋が、多少窘める調子でそっと言う。


「何だ」


「私は火恋様を情人に望んでこのように申したのではありません」


「どうだかな」


 礼狼がふんと、鼻で笑う。


「お前も良家の子息だ、女を無理矢理閨に連れ込むよりは円滑な方法を取ると思ったんだがな」


「領主家の公主様に、そのような真似は致しません」


「ならもっと速やかに呪い女を寝取ると?」


 その言葉に、火恋は思わず口を挟んでいた。


「礼狼」


 窘めるような声音になっていた。シロの両耳を組んだ腕でぎゅっと押さえたので、こちらは心配ない。だがゆらりとこちらを向いた礼狼が、目に見えて冷ややかな空気を纏うのが分かった。


 心臓がぐっと押さえつけられるのを感じながら、火恋はどうにか言葉を押し出した。


「い、……今の発言は、星秋に失礼だわ」


「何を仰っているんですか」


 目が合わせられなくなって視線を下げた火恋に、感情を排した声が落ちる。龍仁に冷然と見下ろされた時よりも、先程までの皮肉気な様子よりもずっと全身が強張っていく。声が喉で詰まるのを感じながら、必死に勇気をかき集めた。


「星秋は、信頼できる、人だわ。……そんな人に、そんなことを言うのは、良くないわ」


 星秋という護衛は、常に冷静に状況を見極め、襲撃者にも表情ひとつ変えずに事に当たる。無暗な殺生はせず、余程のことがない限りは生け捕りにする。邸では、そのように評判の男だ。だから、弟を任せるに足る男だと火恋は思っている。


 忠義を尽くすとは、主をただひとえに妄信すればいいというものではない。従者によっては、主への思いの強さ故に主に害をなした者、害をなそうとした者を問答無用で殺す苛烈な者だって珍しくない。もしくは自分の強さを誇示する為に、無暗な殺生を行う者も。そんな人が護衛になって、礼狼がそちらの考えに引っ張られないかと、火恋は心配していたのだ。


 だから礼狼には、こんな貴重な人を失ってほしくない。そう思っての、言葉だったが……、


「……呪いが」


 礼狼が、それまでの苛立ちとも蔑みとも明らかに違う低い声音で唸った。


 ――まるで牙をむき出しにした獣のようだと、火恋は思ってしまった。自分はすくみ上がり、喉元を口千切られるのを待っているだけのような。


 しかし、本質がそうではないことも骨身に沁みて分かっていた。


「そうして俺の星秋も呪い殺す気か」


 冷や水を浴びせるような言葉に、火恋は思わず縋りつこうとした。


「ち、違っ、」


「触るな‼」


 拒絶の声が降りかかる。火恋の伸ばした手をはたいた手はあまりに強かった。


 払いのけられた手が痛い。じんじんと痛む手に、心の臓もドクドクと脈打つ。頭がくらくらするほどの衝撃に、肩で息をしていた。


 のろのろと顔を上げると、深い怒りをたたえた目が、真っ向から火恋を見ていた。


「どの口が言う。……母上を殺めておいて」


 低められた声音と激しい怒気に――そして何より、それが真実であるからこそ――火恋は、足がすくんだ。そんな姉の脇を、礼狼が通り過ぎていく。


「これ以上奪わせてたまるものか」


 すれ違いざま、火恋の耳に苛烈な憎悪を落としていく。


 星秋が折り目正しく火恋に頭を下げ、さっと礼狼を追いかけていった。


 2人の足音が完全に消えても、火恋はしばらく動けなかった。








 やっとの思いで自室に戻ると、腕の中にいた狼がするりと抜け出し、軽やかに床に着地した。


「火恋」


 渋い低音は、いつも通り厳格な印象を他者に与える。しかし火恋は、シロがシロなりに自分を案じてくれているのだと分かっていた。


 戸に背を預け、うつむくばかりの火恋をそばで見上げてくる。波打つ赤髪は頬にかかってくるけれど、シロの位置からでは表情を隠しようがないのも分かっている。


「……もうちょっと、こうしてる」


 やっとの思いで、今の願いを口にする。胸が苦しくて、それ以上言葉を紡げない。


「……あぁ」


 そう言って、シロはとてとてとその場を離れていく。寝床の籠の中にするりと潜り込んだらしいのが、気配で分かった。


「俺にできることがあるなら、言え」


 彼らしい譲歩だと、火恋は引き絞られるような胸の痛みを自覚しながら思った。普段は滅多に触らせてくれないシロが、触りたければ触っていいと遠回しに言っているのだ。だが今は顔を上げて笑みを見せる余裕がない。首を動かすだけでも億劫だった。


「天虎も待ってくれるだろう」


 火恋はやっとの思いで、うんとうなずいた。






「……協議が……?」


「は、はい。緊急のもので、長くかかると……」


 やっとの思いで気持ちを立て直し、天虎の執務室へ1人で辿り着いた火恋は、そこで、天虎ではなく彼の部下と顔を合わせていた。何でも、急な協議が入ってしまい、そちらに参席しに行ったのだと。おどおどとしながら、若い武官が天虎からの言伝を伝える。


「後日また埋め合わせするとのことです。すまないと、伝えるようにと……」


 ちらちらとこちらを窺うように見ている。どうやら、言伝はこれで以上らしい。しかし、立ち去っていいのか分からずにいる。といったところか。


(……『呪詛の姫君』の機嫌を損ねているんじゃないか、気にしてるんだわ)


そう思うと、知らず皮肉げな笑みが浮かんだ。


「……そう。分かったわ」


 冷淡に、素っ気なく応え、火恋はきびすを返した。後ろで、武官がさも安心したかのように息を吐くのが聞こえる。さもそんなことなど気にしていないような足取りで、火恋は奥へと通じる薄暗い廊の角を曲がったのだった。

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呪火(しゅか) -呪詛の姫君と刃の防人- Yura。 @aoiro-hotaru

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