かにかまチーズ

山下若菜

かにかまチーズ



僕は自分が産まれる前のことを覚えている。



まっしろふかふか雲の上、

まっしろふかふかおひげのおじいさんが僕に言った。


「お前はこれからある女の子のところに行く。言葉は通じない。あの子はとても優しい子だが、優しいがゆえに傷ついている。そしてそれを隠している。お前があの子の支えになっておあげ」


おじいさんの言葉は難しくて、その時はよくわからなかった。

そんな僕の気持ちに気づいてか、おじいさんは僕の頭を撫でてこうも言った。


「お前はその生涯一度だけ、あの子と言葉を交わすことができる。けれどたったの一度だ、よーく考えるんだよ」


僕はおじいさんの優しい声と大きな手がとても気持ちよくって、眠くなりながら頷いたんだ。



それから、たくさんの時が流れた。

だからかな?

僕は最近よくあのおじいさんの言葉を思い出すんだ。



「ごめんねシロ、私今日も遅くなる!ご飯は梅おばあちゃんに頼んであるからね!」


律子はいつもやかましい。

どたばたと音を立てながら身支度をする。

そんな律子をぼんやり眺めながら僕も顔を洗う。

毎朝繰り返す日常。

律子はいくつになっても朝が弱いんだ。


「それじゃ行ってきます!」


僕のおでこに軽くキスをして律子は玄関を飛び出していった。

古びた鉄の階段をカンカンと駆け降りる音が聞こえてくる。

まったくいつになったら大人の女性になるのかと、僕はぼんやり逡巡する。

まぁ子供っぽさの抜けきらないところが律子のいいところでもあるか、

僕はふっと鼻を鳴らした。


とりあえずのどが渇いたので台所へ行き水を少し飲み、それから窓際に置かれたお気に入りのソファでもうひと眠りする体勢に入った。

ソファと言っても律子と僕が座ったら定員いっぱいの小さなもの。

だから律子がいるときは譲ってあげてるが、律子が出かけりゃ僕のもの。

体をめいっぱいのばしてころがってみた。窓から日の光が差し込んでくる。だがまだ暖かくなる季節にはほんの少し間があるので、僕は背中を丸めて小さくなって眠った。



眠るとよく夢を見る。夢の種類は様々だ。

美味しかった食べ物のこと、律子のお気に入りの洋服にちょっぴりいたずらしてみたらものすごく怒られたこと。

怒られたのが悲しくて誰にも見つからないところに隠れたけど、律子が必死に探しに来てくれた時の事。


そしてたまには、あのふかふかおひげのおじいさんの夢も見た。


「お前はこれから言葉の通じない人間の元に行く」


まぁ確かに僕と律子は言葉が通じない。

けれど付き合いが長くなってくれば律子の言いたいことはなんとなくわかるようになるし、言葉なんかなくたって律子がどんな気持ちなのかを察することは出来るようになる。


律子はいつも元気で誰に対しても明るいやつだが、時折すごく落ち込んだ様子で帰ってくることだってある。

律子は自分の弱みを誰かに話したりはしない。

そういうやつなんだ。

でもそんなときは決まって僕の傍で泣く。

僕は特に何にもできやしないけど、律子のそばにいることでほんの少し悲しみを吸い取ってやることができるんじゃないかって思ってる。


だって人前では泣けない律子が僕の前だけでは泣いてくれるって、きっとそういうことだろう?



「お前があの子の支えになっておあげ」


おひげのおじいさんの言葉通り、

ほんのちょっとくらいは律子の役に立ってるって、僕はそう思ってるんだ。




ガチャガチャっと玄関扉の開く音がして、僕はふっと目を覚ました。

律子かな?と思ったけど扉を開けて入ってきたのは梅おばあちゃんだった。


「はいなシロちゃんこんばんわ」


梅おばあちゃんは下の階に住んでるこのアパートの大家さんだ。


「おばあちゃんがな、おいしいご飯持ってきたけん、たべりぃ」


梅おばあちゃんは律子がくれるごはんとは全然違うご飯をくれる。

律子のご飯がカリカリの歯ごたえが魅力とするならば、梅おばあちゃんのはふにゃふにゃのやわやわだ。どっちのご飯も僕は同じくらい好きだ。


「今日はいいとこの鰹節ばつこうたけん、よけいに美味しかろう」


僕が梅おばあちゃんのご飯をバクバク食べるのを見て、おばあちゃんはよく笑うし、よくしゃべる。


「そうねそうね、美味しかったね。よかったばい」


梅おばあちゃんの優しい声も僕は好きだ。


「シロちゃんは食べたら体に悪かもんもいっぱいあるみたいやけん、律子ちゃんに聞いてよかったら、今度かにかまチーズば持ってきちゃろうね」


僕は聞き慣れない食べ物の名前に、ピッと耳を傾けた。そんな僕に気付いてか梅おばあちゃんは


「そうねそうね、かにかまチーズ、楽しみね?」


と笑った。



僕はとても幸せだった。

律子と楽しく毎日を過ごし、律子が忙しい時は梅おばあちゃんと遊んだし、窓の外の景色が日々少しずつ移り変わっていくのを眺めるのも楽しかった。


そうやって過ごしていくうち、僕はあのおひげのおじいさんの言葉を強く思い出すようになっていった。


「お前はその生涯一度だけ、あの子と言葉を交わすことができる。けれどたったの一度だ、よーく考えるんだよ」


僕はたったの一度だけ、律子と言葉を交わすことができる。

なんで一度だけなのか、どうしてずっとじゃないのか、そう考えたこともあったけど、あのおひげのおじいさんが優しかったことを思うと、僕と律子にとっては言葉を交わすことだけが全てではないんだろうと思えた。


それでもたったの一度だけ話ができるということは、きっとあのおじいさんからのプレゼントみたいなものなんだろう。


僕はずっと考えていた。

律子と話ができるのなら、それはどんな時に、どんな言葉を交わすのがいいんだろう。

そう考えているうちに、季節は巡り、年月は巡った。


律子は相変わらず毎朝バタバタと出かけて行っては夜遅く帰ってきて、たまの休みには溜まった洗濯物を片づけたり、街に買い物に行ったり、お花やお料理を趣味にしようとしては失敗したりしていた。

僕はそんな律子を見守り、夜は一緒に眠り、片づけた洗濯物に乗っかってみたり、お料理を失敗する律子を鼻で笑ったりしながら、たまに律子が泣くのを傍で支えた。


律子が泣いているのを見るたび、言葉をかけてあげるのなら今かな?と思うことがあった。けれど僕の傍で声を殺して泣く律子にかけてあげられる言葉が見つからなくて、僕はずっと黙っていた。

僕は律子の笑顔の源でいたかった。だから律子がひとしきり泣いた後、必ずご飯をねだった。すると律子は


「そうだね。ご飯にしようね」


と少し笑うんだ。

言葉が話せなくても、僕にはそれで十分だった。



ある晴れた春の日、僕には予感があった。

そして僕はその日、律子と言葉を交わした。



「…お疲れ様。地上の世界はどうだった?」


まっしろふかふかな雲の上、ふかふかおひげのおじいさんが僕に聞いた。

僕はまっしろふかふかな胸を張った。


「まあ、おじいさんの言いつけは果たせたんじゃないかと思うよ」


おじいさんは笑った。


「そうだね。お前は本当に賢くて優しい子だよ」


そして、おじいさんは僕の頭を優しくなでた。


「少しばかりお眠り。そうしてぐっすり眠ったらまた地上の世界へお行きね。お前を待っている人はとてもたくさんいるからね」


僕はその声を聞いたか聞かないかのうちにゆっくり眠ってしまったんだ。




「律子ちゃん、その、あんた大丈夫ね?」


梅おばあちゃんは空をぼんやりと見上げる律子に声をかけた。


「ええ、心配かけてごめんねおばあちゃん」

「いんやそんなことはよかとよ。律子ちゃんが元気やったらそれで…」


律子は梅おばあちゃんに視線を合わせて言った。


「おばあちゃん、聞いてくれます?シロってば天国に行く前に私に話しかけてきたんですよ」

「え?…ああ、猫ちゃんって神様から力をもらって生まれてくるらしいけんね」

「力?」

「一生に一度、この人だって決めた人とおしゃべりができる力。神様からそんな力をもらって生まれてくるらしいんよ。やっぱりシロちゃん、律子ちゃんとお喋りしたかったんやね…」


梅おばあちゃんは切なそうに下を向いたが、律子はふっと笑った。


「そんなたいそうな力なのに、シロってば」


律子はくすくすと笑っていた。


「シロちゃんなんて言ったと?」


梅おばあちゃんの問いに律子は答えた。


「かにかまチーズ」

「…え?」

「梅おばあちゃんにもらったのが相当美味しかったんでしょうね。シロの最初で最期の言葉は、かにかまチーズです。」

「本当ね?」

「はい」


梅おばあちゃんはたまらずぷーっと噴き出した。


「あらまぁそうね、そりゃぁシロちゃんらしか!」

「そうですよね。食いしん坊のあの子らしくって…」


二人はずっと笑っていた。

笑ってシロの思い出話をした。

季節は夏へと移り変わろうとしていて、大きな真っ白い雲が空にぽっかり浮かんでいた。



「僕は君の、笑顔の源でいたいんだ。」


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かにかまチーズ 山下若菜 @sonnawakana

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