ヒトゴミさん

Gacy

ヒトゴミさん

 何時いつごろからか毎年8月の新宿駅東口は,地方から家出をしてきた少年少女がうろつく場所として知られるようになっていた。


 当然,警察も巡回を増やして子供達の保護をしていたが,歌舞伎町一番街の派手な赤い電飾のアーチをくぐり抜けて闇に消えていく子供達のほうが圧倒的に多かった。


 子供達は好奇心と大人の世界に憧れて軽い気持ちで新宿を訪れるのだろうが,彼らを喰い物にする大人達で溢れかえった歌舞伎町の裏の顔は,一度入ったら二度と出ては来れない伏魔殿のような世界でもあった。


 新宿駅東口を出ても派手な電飾のアーチを前にして,恐怖に耐えられなくなり自ら派出所に向かう子供もいれば,何時間もアルタ前広場で大人に保護されることを望んで座り込む子供もいた。


 アーチの向こう側は,そんな少年少女を薬物中毒にして,違法風俗店で働かせる大人が当たり前のようにいる場所だった。それでもその程度なら,まだ表の世界に戻って来れる可能性もあり,実際にそこから這い上がって有名キャバ嬢やホストになった者もいた。


 歌舞伎町の有名ホストクラブのオーナーであるケンも,そんな世界から這い上がってきた一人で,幸せな家庭に産まれ育ち,軽い気持ちで小遣い稼ぎにやってくる学生ホストやキャバ嬢を死ぬほど嫌っていた。


 しかし伏魔殿のさらに奥底には,歌舞伎町に出入りする大人達も,ケンでさえ脚を踏み入れることを躊躇する世界があった。そこに引きずり込まれた子供達は,二度と陽の光を見るどころか歌舞伎町に来たことを後悔しながら底なしの闇へと沈んでいった。


 そんな伏魔殿の最下層とも呼べる,雑居ビルの一室に一人の男が住んでいた。


 男は30歳を過ぎたころから自分の年齢を数えるのを止めた。雑踏を嫌い,人前に出ることを避け,常に一人で過ごしていた。


 唯一の話し相手であり,お互いの顔が見える場所で話ができるのはケンだけだった。ケンとは初めて歌舞伎町に足を踏み入れたときから一緒だった。当時,男はシンと呼ばれていたが,それが本名でないのはケンも知っていた。


 あれから随分と経つが,いまでもシンと呼ぶのはケンだけで,他の者達は男を「ヒトゴミさん」と呼んだ。


 本名や年齢はお互いに知らなかったが,ここではそんなことはどうでもよかった。シンが初めて歌舞伎町にやってきたのは,中学2年生の夏休みだった。地元でやんちゃばかりしていたシンは、純粋に本物のヤクザを見てみたいといった好奇心を満たすためだけに一人で街にやってきた。


 いまはもうない新宿コマ劇場裏を歩いていたときに,鏡のような光沢のある真っ黒な高級車の前に立つ男達が目についた。シンは緊張しながら,その車から視線を外せずに男達に見られていることも忘れ立ち止まって眺めていた。


 そんな田舎の中学生が歌舞伎町にいる意味を男達は十分すぎるほど理解していた。男達はシンに優しく声を掛けると,そのまま雑居ビルの一室へと連れて行った。


 部屋の中には,シンと同年代の子供達が何人かいた。そのうちの一人がケンだった。子供達は拒否することも許されないまま,当然のように住み込みで組事務所の掃除や洗車の手伝いをやらされるようになった。


 住み込みでこき使われるようになると,一緒にいた子供達が一人また一人と姿を消していった。それもある日突然,誰にも見られることなく姿を消す子供達は,自分の意思でいなくなっているとしか考えられなかった。


 事務所から逃げ出したのか,それとも別の場所に連れて行かれたのかは誰にもわからなかった。ただ,一度でも姿を消した子供とは二度と会うことはなかった。


 しばらくしてケンが姿を消した。シンは裏切られた気持ちになりながらも,逃げ出すことなく与えられた仕事を黙々とこなした。


 そしてある日,シンが事務所の普段入ることを許されない商談などに使っている部屋に呼び出されると,先生と呼ばれる中年男性に挨拶をさせられた。


 その場で全裸にされ,身体の隅々まで確認されると,そのまま先生について近くの雑居ビルの一室へと移動した。


 部屋の奥にあるカーテンをくぐると,そこはまるで病院の一室のようになっていて,小さなロッカールームのような場所はX線撮影室になっていた。


 薬の臭いが充満した部屋で血液検査から画像検査と,健康診断のような流れでシンを検査をしてから,そのまま古いベッドに横になって先生を待った。


 最後に目にしたのは,顔の半分近くを覆う透明なマスクをさせられ,チューブの付いた針を腕に刺され,輸液バッグの中からゆっくりと落ちる透明な液体だった。


 ゆっくりと数を数えられながら,静かに意識が薄れていくのがわかった。



「なんだろ……なんで,俺はここにいるんだろう……」



 そんなことを思っているうちに,視界が狭くなり意識が完全になくなった。


 目を覚ますと,汚物のような臭いのする汚らしい部屋に寝かされていた。どれくらいこの真っ暗な部屋にいたのかわからないが,起き上がろうとしても身体が動かなかった。


 全身に激痛が走り,声にならない悲鳴をあげた。痛みに耐えられず,何度も悲鳴をあげたが誰も助けに来てはくれなかった。ほんの少し身体の向きを変えただけでも痛みでまったく身体を動かせず,目を開けても真っ暗でなにも見えなかった。


 汚物の臭さだけでなく,生ゴミの腐敗臭や嗅いだことのない臭さで嘔吐した。吐瀉物が身体を汚したが,なにもできずそのまま横になっているしかなかった。


 どれくらい時間が経ったかわからなかったが,人の気配を感じたと思った瞬間,耳元で囁かれた。



「お前は運がいい。それと,お前のそのしぶとさに感謝しろ」



 そう言われると,シンのボロボロになった身体は軽々と持ち上げられ,汚物や腐敗物にまみれた部屋から解放された。


 真っ暗な駐車場の片隅でホースで全身を洗われると,筋肉のなくなったガリガリの身体を初めて自分の目で見て驚いた。全身傷だらけで,お腹の一部が不自然に凹んでいた。顔を触ると,片目が異様にくぼんでいて眼球がなくなっているのがわかった。



「色々抜き取られてんだ,気持ち悪りぃだろ。大抵のガキは身体の中を空っぽにされて死ぬが,お前は生き残った。これからお前は俺の下で働け。あと,丈夫に産んでくれた親に感謝しろ」



 男はそう言うと,継ぎ接ぎだらけのミイラのようなシンを再び担いで濡れることも気にせず地下室へと運んでいった。


 なにもない部屋には湿った万年床が敷かれ,男はシンをその布団に寝かせると背を向けたまま黙って煙草に火をつけた。


「俺の仕事は人には言えないゴミ処理係ってやつだ。まぁ,この歌舞伎町じゃ,なくちゃならない仕事だな。いつの時代も俺やお前みたいな生き残りがこの仕事を引き継いできた」



 男の声が微かに聴こえていたが,なにを言っているのか理解できなかった。湿ったカビ臭い布団がありがたく,このままいつまでも横になっていたかった。



「取り敢えずお前は俺のアシスタントだ。お前が動けるまでは,無理はさせねぇから安心しろ。せっかく下のやつができたのに,死んじまったら意味がねぇからな」



 シンは自分の片目がないことと,身体から抜かれた臓器がなんだったのかを考えながら,他の子供達が消えていったことを納得した。


 そして目の前にいる男が言った「ゴミ処理係」がなにを処理しているのかも漠然と想像がついた。微かに動く指先で何度も顔を触り,目の他になくなってるものがないかを確認した。


 それを見ていた男は,煙草の煙を大きく吐きながら空き缶に煙草を放り込んだ。



「お前が生き残れたのはな,たまたまドナーとして適合する相手がいなかったからだ。角膜に腎臓くらいだろ,抜かれたのは。俺は腎臓一個だけだ。お互いに命拾いした者同士ってやつだ」



 角膜と腎臓と聞いて,不思議と納得した。それと同時にケンは全身空っぽにされたのか,それとも同じように生き残ったのか知りたかった。



「で,うちらが処理をするのはゴミと言っても仏さんだ。ほとんどが空っぽになった,びっくりするくらい軽い子供の仏さんだ。まぁ、仏さんって言っても業界じゃヒトゴミって言われてる。ヒトがゴミなのか,ヒトのゴミなのか,そこら辺は曖昧だが,隠語ってやつだ」



 シンは自分もヒトゴミになっていたのかもしれないと思いながら,歌舞伎町の裏世界に堕ちていく恐怖を肌で感じていた。


 それから数年,シンは男に付いて仕事を習いながら歌舞伎町の裏世界で静かに生きていた。周りからは,男もシンも「ヒトゴミさん」と呼ばれ,誰も二人の名前を知ろうともしなかった。


 そんなある日,ホストに大金を貢いで借金地獄に陥り,ずっと風俗嬢として生きてきた女がオーバードースで死んでいるのが見つかった。家具のない古いマンションの一室には,かつて大好きだったホストの写真が壁一面に貼られているだけだった。


 歌舞伎町を仕切る組が所有するマンションだったこともあり,女の死は表に出ることなくヒトゴミにゴミ処理として依頼がきた。


 普段は仕事相手と顔を合わせることはないのだが,今回の仕事では原因となったホストクラブのオーナーが確認役として現場の立会いをすることになった。まれにこうやって立会いを必要とする依頼主もいた。


 女の単独死は簡単な処理仕事だったので,シンが一人で行うことになった。まだ人で溢れる午後9時の歌舞伎町を小さなスーツケースを持ってマンションへ向かった。


 途中,何人かの呼び込みに声を掛けらけたが,これも自分が歌舞伎町のヒトゴミであることを隠しきれているかの確認になっていた。


 現場ではお互いに顔を合わせず淡々と仕事をしていた。1時間ほどして,遺体を綺麗に処理してマンションに人が死んでいた痕跡をまったく残さないシンの仕事振りを見ていた男が突然声を掛けてきた。



「あの……ヒトゴミさん……すみません……あの,もしかして……えっと……」



 普段仕事中に声を掛けられることなどないため,シンが驚いて顔を上げると,目の前にケンが立っていた。真っ黒なタイトスーツ姿で長い茶髪はシンの記憶にあるケンの姿とはかけ離れていたが,面影が残っていた。



「えっ……?」



 久しぶりに呼ばれる名前に驚いて立ちすくんでいると,ケンが泣きそうな顔で近づいてきた。二人の間には微妙な空気があったが,それ以上に変わり果てはシンの容姿にケンが驚いていた。



「シン……お前……どうやって生き残ったんだ……? 抜かれたやつらは,みんな死ぬんだろ……? それなのに,お前がヒトゴミさんになってるなんて……」



「お前こそ……生きてたのか。それにしても,なんで,そんな格好してんだ……?」



 ケンは歪んだ笑顔でシンをチラリと見ると,煙草を取り出して申し訳なさそうに火をつけた。



「俺は京都の会長さんに買われた……」



「え……?」



「17の時だ。突然,事務所の奥の部屋に呼び出されて,そこにいた80過ぎのジィさんに買われた……」



 煙草の煙が二人の間をゆっくりと流れた。シンの足元には遺体が入ったスーツケースが置かれていたが,もはや部屋に女がいた形跡は完全になくなっていた。



「19まで会長さんの玩具として扱われたんだが,新しい玩具が手に入った途端に放り出された。帰る場所もないし,歌舞伎町に戻ってきた。それからホストやって,色んな女を風俗に堕としてきた。いまじゃ,ホストクラブの雇われオーナーだ。まぁ,バックに組がいる,金と女を調達するのが本来の仕事だ……」



 シンの目に怒りにも似た得体の知れない異様な光がさしていた。自分が歌舞伎町のもっとも深い闇に堕とされていたときに,ケンは京都で飼われていたことを知って,眼球と腎臓を抜かれ汚物だらけの部屋から這い上がってきた自分と比較していた。



「ケン……俺からすれば,お前はまだまだ表の世界にいる。ここで俺と会ったことは忘れろ。ヒトゴミとかかわるな」



 ケンは驚いて,一歩シンに近づいた。



「シン,てめぇ……ふざけてんのか? お前だけが地獄を見てきたと思うんじゃねえよ」



 詰め寄ってきたケンを残された目で睨み返した。そして足元に置かれたスーツケースをそっと指差すと,驚くほど静かにそれでいて口を挟ませない不快な迫力のある言葉がシンの口から出た。



「ヒトゴミは,こいつを喰って生きている。この狭い歌舞伎町,裏の人間が使える焼却施設なんかねぇ。地下の調理場で肉を削ぎ,骨を叩き,食材にして店におろす。使い物にならない部分が俺らヒトゴミの胃袋に入る」



 ケンの表情があきらかに変化した。目の前にいるのは,子供の頃に好奇心を満たしたいだけのために夏休みを利用して歌舞伎町にきたシンでしかなかった。お互いに組事務所に連れて行かれ,なにも判断できないままお互いに深い闇に堕とされた。


 自業自得といえばそれまでだが,ケンはシンを無視することはできなかった。



「お前がヒトゴミだろうがなんだろうが,お前はシンだ。俺を見縊みくびってんじゃねえよ」



 シンの表情は驚くほど冷たく,目の前のケンの態度が酷く子供じみていて,本当の闇を知らないことを察した。



「そこまで言うなら,この後付き合え。4時になったら風林会館の裏にあるMっていう看板のある店に来い。そこに一人で来れたらお前の話を聞いてやる。ただし,Mのことは誰にも言うな」



 シンがスーツケースを持ったままその場を去ると,ケンは何もなくなったマンションの部屋を見渡たして不安になった。ここまで完璧な仕事をするシンのヒトゴミとしての経験は,想像を絶するものでもあった。



「やべぇな,あいつの仕事……」



 マンションを後にすると,ヒトゴミの仕事の報告をするために事務所に行かなくてはならなかったが,シンのことは黙っておくことにした。


 一度は一緒に飯を喰った相手とこういった形で再会するとは思っていなかったが,ケンも自分は泥水を啜って生きてきた自負があった。これからMでシンと何を話すのか想像ができなかったが,シンに自分を認めさせたいと考えていた。


 事務所では,女の管理がなっていないだの,ホストクラブの売り上げが落ちているだのと,散々嫌味を言われ,もっと女と薬をさばいて組に入れる金を増やすように言われた。


 いつか組をぶっ潰してやると心に誓いながら,黙って従うしかない自分が情けなかった。ようやく解放されて外に出ると,呑み屋や風俗店のネオンを見ながら,大きく深呼吸して自分の身体の中にたっぷりと歌舞伎町の空気を入れた。



「さて……シンに会いに行くか……」



 指定されたMという店は風林会館の裏にあると言われたが,実際に行ってみると看板などどこにも見当たらずしばらくビルの合間をウロウロと歩き回った。


 そして雑居ビルの裏手に地下へと続く階段を見つけ,降りてみるとようやくそこに小さな会員制クラブと書かれたMを見つけた。古い錆の目立つ重そうなドアに手を掛けると,背筋に冷たいものが走った。


 手書きで書かれた「貸切」の貼り紙を見ながら,恐る恐るドアを開けるとカウンターだけの店内にシンが座っていた。



「よう……シン。待ったか?」



 シンは黙ったまま,そっと隣の席を指差した。店内にはアルコールは一切置いていないようで,奥に小さな厨房があるのが目に入った。


 ケンが席に着くと,奥から年老いた小柄な男が出てきて目の前にグラスと小鉢を置いた。小鉢には,酢の物が入っていて見慣れない料理に躊躇した。


 無言で料理を摘むシンを横目に,ケンも料理を口にした。思った以上に味がよく,気が付けば小鉢を完食していた。


 それからも次々と料理が運ばれてきたが,相変わらずシンは何も言わずに箸を進めていたので,ケンもそれに従った。


 一通り料理が出終わり,最後のメインになったとき,ようやくシンが重い口を開いた。



「お前がどんな環境にいたのかは知らねぇし,知りたいとも思わない。だがな,女を喰い物にして生きているなら,最後まで,骨の髄まで女を喰いつくせ」



 シンの目に異様な光が射していた。ケンは箸を置くと,シンを見て恐怖にも似た不安に飲み込まれそうになっていた。


 肉が焼ける匂いとともに厨房からメインの料理が運ばれてくると,綺麗に処理された女の頭が大皿に乗せられていた。


 シンは何も言わずに丸く切られた女の頭部を器用に外すと,大きな白子のような湯気の立つ脳みそに大きなスプーンを突き刺して,自分の皿によそった。


 その光景を見ていたケンは,その大皿に向かって激しく嘔吐した。椅子から落ちて涙を流しながら嘔吐を繰り返したが,シンは黙ったまま吐瀉物にまみれた女の脳みそを食べ続けた。



「これが俺とお前の住む世界の違いだ。ケン,お前の見た地獄と俺の住む地獄,どうだ? 女を喰い物にしてるお前なら,こっちの世界で最後まで女を喰い尽くせよ。ヒトゴミがなにか,女を喰ったいまのお前なら,わかるんじゃねぇのか?」



 ケンは激しく嘔吐しながら,自分が死へと追い込んだ女の一部が自分の身体に入ったことで,自身もヒトゴミになったことを認めざるを得なかった。


 その日からケンは人が変わったかのように残忍になり,かかわる人間を次から次へと借金地獄へ堕とし,女は風俗店で働かせ,男は臓器を先生のところで取り出して金に換えた。


 歌舞伎町の奥底に蠢く闇の中は,毎年多くの子供達が消えてゆき,その中にはこうやってヒトゴミになる者がいる。


 ヒトゴミは常に渇いた心を満たそうと,不安定な精神こころをもった子供を引きずり込もうと,真っ赤な電飾のアーチの向こう側でそのけがれた爪を砥ぎながら静かに獲物を待ち構えている。

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