茨の城の一般人

神崎閼果利

茨の城の一般人

 白い壁に囲まれた四畳半の城を覗き見る。床に散乱しているのは、畳まれなかった洋服、捨てられなかった薬のゴミ、読まれなかった本。扉に掛かっているのは、中途半端な長さの延長コード。時計が十三時を指していても、シャッターが閉まっていて薄暗く、生暖かい。

 そんな部屋の端っこで、一人の少女が苦悶の表情で眠っている。足元の布団は乱れて、ベッドからはみ出ている。近づいてみれば、頭の先から脂っぽい臭いが漂ってくる。

 時計の針は回る、回る。城の外は青から紺碧へと変わっていく。それでも少女は、何度も寝返りを打って布団をめちゃくちゃにしながら、ついにベッドから起き上がることは無かった。

 少女の隣にあるスマートフォンの画面がぱっと部屋を照らす。たくさんの通知がひしめき合って、必死に通知音を鳴らしている。しかしそれは、少女の眠りを覚ますアラームにはならなかったのだった。


 ◆


 並んでいるのは、肌色と黒、つまりは人の頭。とにもかくにも鼻が曲がりそうなくらいに臭い。人の臭いでむせ返る。バスケットゴールが二つ、門番のような面をして上から見下ろしている。後ろには本物の門番たちが壁に寄りかかってたくさんの目でこちらを見ている。一番前で偉そうな大人が意味不明な外国語を喋っていて、それを聞いている人たちは聞き取れない言語でヒソヒソと何かを話している。

 僕は一番後ろで体育座りをして丸くなっている。両膝に必死に顔を埋めて、前髪の下から前を見ている。ちゃんと聞いてはいるのだ。それでも何を言っているかは分からない。いや、分かっているのだけれど、言葉の一つ一つがあまりにも無意味で、無価値で、聞くに値しないのだ。

 ギシ、ギシ、フローリングを踏む足音が近づいてきて、僕はびくっと震えた。自分の後ろからゆっくりと迫ってくるのだ。まるで処刑人を待っている罪人のようだ。

 説教が続いていく。周りの酸素が薄くなっていったみたいに、次第に息が吸えなくなっていく。絶えず聞こえてくる軋むような音とざわつく声に、頭を掻きむしりたくなる。体中に蛆虫が這い上がってくるみたいに、背筋が冷たくなる。

 心臓の鼓動が大きくなって、早鐘を打って、足先が震えだして、何かが心の中で弾けそうになったとき、僕はばっ、と立ち上がり、出口へと音も無く逃げ出した。あ、と誰かが何かを言って止めた気がしたが、僕はその声に振り向く余裕なんて無い。

 背中に人々の視線が刺さる。痛くても振り向くことはできなくて、足を必死に動かして廊下をパタパタ駆けていく。どきどき、胸が痛くなって、目元が熱くなる。誰もいない部屋を見つけて、ようやく動悸が収まって、僕は自分の席に着くのだった。

 スカートをぎゅっと握れば、シワがぐちゃりと出来る。汚れた上履きの先が震えている。

 嗚呼、なんて恐ろしいんだろう。秩序だらけで無秩序な人の群れなんて、いるだけで息が詰まってしまう。顔も知らない人間がたくさん蠢いていて、わけの分からない話を続けていて、動いたり喋ったりすればすぐに怒られてしまう。まるで喉元に鎌を当てられているみたいだ。そんな緊張感が気持ち悪くて仕方無くて、いつも逃げ出してしまう。

 嗚呼、どうして座っていられないのだろう。ただ周りがそうするみたいに、のっぺらぼうで無個性な人間でいれば良いだけだ。たった数十分擬態を続けているだけだ。たった数十分じっとしているだけだ。どうしてもそれが、できない。頑張っても、できない。熱くなっていた目からは一つ、また一つと雫が溢れ始めた。

 ただおとなしいお姫様を演じているだけで良い。座って舞踏会を眺めていれば良い。それだけで僕は普通でいられるのに、そんなことすら僕にはできない。

 何もかもが嫌になって、荷物を纏めて誰もいない部屋を飛び出した。ここだって、あと数十分で人間が集まってくる。臭くて煩くて気味の悪い怪物が僕の他に三十九人もいるし、それらを纏めるとびっきり不細工な親玉だっている。そうなったらまた耐えられなくなるだろう。

 外に飛び出してみれば、ずきん、と頭が痛む。見上げた空は鉛色で、僕と一緒に泣き出そうとしていた。重たい荷物を背負ってよろよろと歩く。コンクリートの垂直抗力にも負けながら、鉄の馬車を目指した。

 鉄の馬車の中は、ゴーッ、と音を立てて燃えていた。過剰なくらい暖房がついていて、中には人間がたくさん入っている。ゆっくりと、ガタンゴトンと揺れ始めれば、人間たちが一斉に口を開いた。

 オギャアオギャアと喚く赤子、それを宥めるグロテスクに腹が膨れ上がった女、隣で気持ち悪い笑顔を浮かべて話しかけるぐしゃぐしゃの老婆たち。声が頭に響いて割れそうだ。僕は慌ててヘッドフォンの音量を上げた。辺りの音がすっ、と消えて、ガシャンドカンと煩いロックが塗り潰していく。

 いつだってこのヘッドフォンをしていたい。お勉強会だって、舞踏会だって、馬車の中だって。ノイズが消えていって、静かな世界が待っている。静かな世界の先にあるのは──眠りだ。目を閉じれば、頭がそちらへと持っていかれる。暗い暗い闇の中へと、意識が落ちていく。その瞬間はいつも体と心が軽くなって、多幸感に満たされているのだった。

 眠りに落ちる最中、小気味良い音を立てて通知が表示される。されど、それに答える元気は無かった。



 どうしようもなく不細工で、どうしようもなく出来損ないで、どうしようもなく不適合な自分を忘れられるのは、眠っているときだけだった。

 煩い執事の怒号も、喧しい村人の騒音も、眠ってしまえば聞こえなくなる。もやもやした思考をシャットアウトできる。世界と自分が、自分と自分が、眠りという壁で隔絶される。

 それを知ってしまってからは、次第に眠る時間が増えていった。家に帰ってくればすぐに眠りに就き、夜ご飯を食べて、また眠る。机の上には、手のつけられていないワークが溜まっていく。

 焦燥感は確かにあるのだ。机を前にすると、汗が背中を伝って、動悸が止まらなくなる。それでも手を伸ばす気にはならない。それよりも先に眠気が僕を捕らえるからだ。そうしてベッドの中へと引きずり込む。その中は温かくて、柔らかくて、微睡むだけで何もかもがぐちゃぐちゃに溶かされていく。

 そんなふうに眠り続けるものだから、世界はゆっくり鈍くなっていって、僕という存在も重苦しくなっていった。朝と夜との区別がつかなくなっていって、どろどろに溶け合って、それを知らせてくれるはずの食欲までもが無くなっていった。家政婦が作る料理でさえも、何を食べても残飯の味がした。味がしない吐瀉物とも言えるかもしれない。人間は普通、空腹のときに飯を食って幸福感を得るのだろうけど、僕にはそんなことも上手くできなかった。

 規則も常識も、眠りの前ではどろどろに溶かされて液状化していく。いつの間にか目覚まし時計すら鳴らさなくなって、起きれば十時半。画面には三時間前に連絡をくれた、覚醒の世界からの使者が示されている。この人は仕事をする前に僕に連絡をしてくれたのだろう。だが、それに答えることはできなかった。

 スワイプして他の人の通知を見る。みんな僕のことを心配したり、奇妙に思ったりして連絡を寄越してくれるようだ。

──最近学校来てないけど、大丈夫?

 たった一文、友人からの伝書鳩。嗚呼、その気遣いが心に刺さって血溜まりを作っていく。鈍く痛んで、鈍く熱くなる。

──ちゃんと起きないと、学校に行けないよ。

 この一文から続く長文、両親からの伝書鳩。嗚呼、その心配がさらに言葉のナイフを奥へと突き刺して、もう心臓が止まってしまいそうだ。

 目覚めては泣き腫らして、疲れ果ててまた眠る。それを繰り返す。こんな時間に寝て起きて、何もできずにベッドに横になっているだけの自分に憎悪すら湧いてくる。だとしても、部屋の外に出ることはできなかった。そうしようとすると、机の上に置かれた未達成のタスクがこちらを白い目で見てくるのだ。もう、それだけで体が凍りついてしまう。

 どうにかして部屋から出て、行くべきところへ辿り着いたとしても、そこは僕にとっては生き地獄だ。黒と白の目がこちらを奇異な目で見てくる。理解できない言語が部屋を満たしている。頭が回って目が回って、倒れてしまいそうになる。時計が鳴れば、一つの机に縛り付けられて、あまりに簡単で無価値な説教を聞かされる。まるで拷問だ、そんなの。少なくとも、僕という社会適合能力の無いお姫様には無理だ。

 だから、布団から聞こえてくる誘惑の声に負けてしまう。優しくて蠱惑的で、どこまでも罪悪に満ちていて──

──ねぇ、ほら、毒針に指を刺してしまいなさい。そうしたらあなたは、一生眠っていられる。

 その声に耐えようとしていた。耐えようとはしていたんだ。だって毒を体に入れれば、二度と元の道へは戻れなくなる。僕は眠り姫になってしまう。ちゃんと勉強をして、立派なお姫様になって、社会へと飛び出して──そんな簡単なことが、できなくなる。

 部屋の床が畳んでいない服で満たされて、机の上がこなしていない課題で埋め尽くされて、ゴミ箱が捨てられていないゴミで溢れ返った、梅雨のある日、僕は毒針に指を刺した。

 体にゆっくりと毒が回っていく。重くて、怠くて、甘くて、苦くて、冷たくて、温かい感覚がした。こんなにも悪くて背徳的で最低なことなのに、そんな毒は苦しいはずなのに、僕の心はとても安らかだった。

 嗚呼、やっと解放される。

 僕は扉を閉めきって、シャッターを閉めて、通知を切って、分厚い掛け布団に自分の身を入れた。昼間なのに暗い、雨の日のことだった。



 四畳半の城の中には、朝も夜も存在しなかった。シャッターは閉まりっぱなしで日光も月光も入ってこない。僕はただ眠り続けた。まだ溶け残っていた常識や罪悪感が溶けていくまで、ずっと。何度も起きては何度も眠りに就いた。一時間、一時間と睡眠を繋いでいった。

 空腹になれば部屋から出て、ご飯を食べる。それまでは部屋から出ない。排泄がしたくなったら部屋から出る。それまでは部屋から出ない。喉が乾いたら水筒から水を飲む。水筒が空になったら部屋を出る。それまでは部屋を出ない。

 誰が言ったか、ヒュプノフィリア。睡眠愛好を指す言葉だ。自分のような、眠りに魅入られた人間にぴったりな言葉だと思う。眠り病にかかったお姫様はさぞかし美しくて、健やかに眠っていて、安らかに夢を見るのだろう。眠りの神に抱かれて、幸せに現実から逃げるのだろう──

 そうだったら良かった。そうだったら良かったのだ。毒を体に入れて、何もかもから解放されれば良かったのだ。

 眠りを繰り返すたび、甘く布団に呼ばれるたび、嫌な夢を見る。母親に刃物を持って追いかけられる夢。起きたくても体が鉛のように重くて動けない夢。かと思えば、自分が幸せに生きている夢。どの夢にしても、夢を見ているうちは本当だと思い込むのだ。怖い思いをして、寝ている間に苦しむか、幸せな思いをして、起きてから苦しむか。起きたとき、たいてい体が変に火照っていて、怠くて、頭が痛くて、寝ても寝ても良い思いはしない。しかしながら、眠気だけはあって、まぶたを開けることができずに、また暗闇に引きずり込まれていく。

 一日一日の境界が無くなって、転がるように過ぎていく。いくら眠っても終わりは無い。毒に侵された心が治まることは無い。どんな薬も効きやしない。

 助けを求めようとしたって、巻き付いた茨が許してくれない。きっとその茨というのは、まだこびり付いている醜いプライドだったり、眠りへの欲望だったりするのだろう。

 ましてや、僕は自ら望んで眠りを選んだ。覚醒の世界に生きる人間たちは思うだろう──お前が愛しているのだから、と。お前が愛してそれを選んだのだから、と。

 いや、何を言っても無駄なのだろう。結局は僕が塔の中で育てた愚かしい茨が、僕が助けを求めるのを止めているだけなのだから。

 部屋には捨てられなかったゴミ袋が溜まっていく。もう部屋の中を裸足で歩くことはできなくなった。寝間着と下着は擦れて伸び切った。でっぷり太った体からは人間臭い臭いがする。鏡を見る醜い顔はかさかさでぶつぶつだ。僕を掠れた声で呼ぶ通知も、もう少なくなってしまった。

 ただ、堕落に満ちた毎日が無為にすぎていく。僕の時計が止まっていても、部屋の時計は進んでいく。眠っているだけで人生が消費されていく。小癪にもそんな人生の意味などを求め始めて、傲慢に首を吊ることもあった。首が絞まって、視界が白くなって、何も考えられなくなって──延長コードがドアノブから外れて、目が覚める。結局死ねない出来損ないのまま、また眠りに落ちる。

 眠り姫はしょせん眠り姫なのだ。それ以上の意味は無い。眠ることを使命としている。だから、毎日毎日何かに急かされて、自己嫌悪に身を焦がして、その苦しさを忘れるように眠って、起きてえづいて吐き気に見舞われて、また眠るだけだ。助けも無く、孤独に。それが永遠に続くだけ。永遠に。永遠に。永遠に。



──こんばんは。そろそろ電話しても良いかな?

 軽快な通知音で目を覚ます。二十一時のことだ。ちょうどご飯を食べて一睡していた。これは、毎日のこと。闇に包まれた塔の中に届く、たった一匹の伝書鳩。覚醒の世界からの使者だ。

 朝も夜も存在しなかった、というのは、半分誇張だ。僕が人間らしい生活をできるのは、この夜の時間だけ。僕がちゃんと睡眠時間をとる前の時間、相手にとっては仕事が終わってから寝るまでの時間だ。

 まだ僕が外に出られた頃からずっと続いている、たった一つの関係。今では外の世界と繋がる一つの架け橋だ。大した関係ではない、ただ趣味を話し合ったり、相談を聞いたりしたりするだけの関係だ。

 ヘッドセットを付けて、ノートパソコンの前に座る。暗い部屋に、白い液晶だけが浮いている。皮肉にも、こんなに不健康な光が、僕を照らす唯一の光でもある。

「今日もお仕事お疲れ様です。仕事はどうでした?」

「今日は忙しかったですね。同僚が休みで……」

「とっても大変でしたね、よく頑張りました」

「ありがとうございます」

 同僚。会社。仕事。そんな堅い言葉が、彼女の口から発せられる。そのたび、ちくりと心の傷が痛む。なにも、彼女が僕のことを馬鹿にしているわけでも、責めているわけでもない。ただ、彼女が真っ当に人間として生きていて、社会に適合しているというだけだ。

「そちらはどうですか?」

「あはは、何も無いですよ。いつものことです」

「今日も生きていて良かった」

 また、あはは、と笑って軽く流そうとして、言葉に詰まる。確かに、彼女は僕が死のうとしていることを知っている。だからこんな言葉が出てくるのだろうと分かっていても、包み込むような温かさに戸惑ってしまう。

 生きていて良かったなんて、思ったことが無い。いつだって死ぬべきだと考えていた。何かを成しているならまだしも、僕は虎になった詩人と一緒だ。自分には何かができると言いながらしないまま腐っている。そんな人間に、生きている価値なんて無い。

 開きかけた心の扉を強く閉めて、その向こう側で体育座りをしている。体を密着させて、前髪の下から前を見て。それでも笑っている。醜くても、笑っていないよりずっとマシだと思いながら。

 すると彼女が不意に、こんなことを言った。小池に軽く石を投げるように、小さな波紋を作るように。

「毎日毎日私と話してくれてありがとうございます。こうやって話すことで元気が出ます」

「そんな、僕のほうこそ……こんな何も無い社会不適合者と話して、楽しいですか?」

「何を言うんですか」

 彼女は、僕が浅く笑った言葉を払い除ける。きっと液晶の向こうでは眉を下げて困った顔をしているのだろう。相手を困らせるだなんて、良くないことだ。すみません、と謝れば、彼女は芯のある声で続けた。

「私も自分のこと、普通に生きていくことが難しいと思いながら働いてます。大変なことがあっても我慢できるのは、こうやって私の話を聞いてくれたり、私と話してくれるあなたがいるからですよ」

 それを聞いて、自分が思ったことを後悔する。そうだ、僕は勝手に彼女を、社会適合者であり、普通の人間だと思っていた。そうではないのは、僕にだって分かっていたはずだ。

 会社に行く前に連絡をくれて、休み時間になっても連絡をくれて、帰ってきてからもこうして連絡をくれる。それは僕のことを気遣ってのことだったと同時に、自分も逃げ場を探してのことだったはずだ。

 それなら、彼女だって苦しんでいるのに、僕は一人で眠って逃げてばっかりなのだ──

 苛まれるような、首を絞められるような苦しさに、反射的に涙が込み上げてくる。黒々とした罪悪感が食道を上っていく。苦い味が舌を滑る。頭は熱いのに体の芯は冷たい。

 僕は喉から絞り出した声で答えた。同時に口から黒々しい吐瀉物を吐き出すように。

「僕みたいに何もできないクズ人間を好きになってくれるなんて、申し訳無いです」

 口から嗚咽が漏れる。背を叩かれているかのように、肺が潰されて咳が出るかのように泣き声が溢れる。

 だって、だって、僕はこんな駄目人間な自分が嫌いなのだ。課されたタスクもこなせない、人混みでじっとしていることすらできない、何もかもから逃げて逃げて逃げて、逃げた先でも苦痛を嘆いている、そんな自分が。

 嫌い、嫌い、嫌い──心の扉の中は凍てついて痛くて暗い。その扉が、ゆっくりと開けられようとしている。茨で出来た城という檻の中に、人が入ってくる。

「私は、何かができるあなた、何かができないあなたではなく、あなたという人を好いているんですよ」

 扉が開く。冷たく凍えた死体のような僕を、彼女が抱きしめる。

 熱い。頭だけじゃない、体も熱い。何より、心が熱い。僕という存在そのものが、この言葉に呑み込まれていく。包み込まれていく。波紋が広がっていく。

 歪んで醜くて曲がっていて壊れていてどうしようもない僕が、その歪さのまま愛されていく。

 そんな事実に、僕は、重たかった茨が解け朽ちていくのを感じた。僕を呼んでいた睡眠の甘い歌も聞こえなくなっていた。

 結局、堕落は僕を守ってはくれなかった。自堕落な生活の中で、さらに不適合さを極め、暗く孤独に生きることを強いられた。睡眠というものは、僕に現実逃避という甘くも苦い絶望を与えることでしか愛してくれなかったのだ。

「……ありがとうございます、元気出ました」

「それなら嬉しいです。これからも私と話してくれると嬉しいです」

「もちろんです。これからも、僕を支えてください」

 僕はただただ、子供らしく泣き続けた。嬉しくて泣いたのは何ヶ月ぶりだろう。視界が潤んで、液晶に映る文字がよく見えない。泣けば泣くほど、心に燻っていた黒が白へと変わっていって、霧が晴れていって──嗚呼、なんて明るいんだろう!

 泣き止んで鼻を啜っていて、暗闇の中で見えたのは、液晶画面に照らされた机の上だった。ゴミだらけで、物の山だらけで、ノートパソコンを置くのがやっとだ。

「……まずは部屋の片付けから始めてみようかな」

「頑張ってください、応援してますね!」

 僕は大きく溜め息を吐くと、マイクをミュートにした。ゴミ袋を取ろうと、部屋から出ようとする。

 机の上に重なった未完成のタスクが僕をじっと見つめている。外からは親の話し声が聞こえてくる。それでも、外したヘッドセットから、大丈夫ですよ、という温かい声が返ってくると、不思議と勇気を出して進むことができた。

 廊下に出れば、足先が凍えて固くなる。エアコンの点いていない城の外は、もう真冬になっていた。



 深い深い眠りの闇を引き裂くようにして、黄色いアラームの音が耳に入ってくる。朝の六時半。重たく浅く被ったまぶたをこじ開けて、体を起こす。シャッターを開けて、入ってくる日差しで一度目を覚ます。白い光が、物の置かれていないカーペットの上に降り注ぐ。それだけで、静かで冷たい氷のような味がする。

 スマートフォンを開く。城に届いた伝書鳩は、電子の王子様からの手紙を咥えている。内容は本当に他愛無い。おはよう、の代わりに好きな話をするだけだ。僕はすぐに返信をする。そうすると、相手もすぐに返信をくれるから、長く話していられるのだ。話している間は、ドレスを着て、朝ご飯を食べている。きっと相手もそうなのだろう。まるで一緒に生活しているみたいだ。

 これが、今の僕の日課だ。

 相手から返信が来なくなる頃、僕も家を出る。マフラーをぐるぐる巻いて鼻を塞いで、ヘッドフォンを付けて耳を塞いで、鉄の馬車へと足を進める。空は雲一つ無い、白から青へのグラデーションだった。

 人々は熱く燃え滾る馬車の中、ぎゅうぎゅう詰めになってざわついている。僕は扉の近くで寄りかかって、それを遠巻きに眺めている。あんなに詰めたら、ドレスが汚れてしまうだろう。ヘッドフォンを外せば、人の息遣いや話し声で気が狂いそうになるだろう。

 結局、これは変わらない。僕はお勉強会も受けてられないで逃げ出すだろうし、舞踏会なんて出ることもできないだろう。もしくは、必死に我慢して受けることはできるかもしれないが、それに苦痛を伴うのには変わらないだろう。僕は普通にはなれないのだ。僕は適合なんてできないのだ。

 偽物の眠り姫に、美しい王子様のキスは要らない。ただ、愛さえあれば、それで良い。

 毒は回ったままだ。体は冷たいし、新しい靴はぎゅっと閉まっているし、白い息を切らしているし、足元は踊っているみたいに覚束無い。それでも、一人で歩いていく。鉛のように重くなった体を動かして、硬く冷たいコンクリートを踏みしめて、暗く怠い眠気の茨を引きずって。

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