秋田藩天塩番屋手控帳より

 秋田藩天塩番屋手控帳より


 寛政五年九月廿六日。晴れ。寒し。本日、北海屋ほっかいや丁稚でっち竹吉たけきちの道案内により天塩番屋に到着至候。


 

 秋田藩藩士、早坂和右衛門はやさかかずうえもんは、天塩村の東に存在する秋田藩の天塩番屋の前に立った。

 番屋は思ったほどは傷んでいなかった。

 こころから助かったと思った。

 それより日が暮れるのが早く恐ろしく寒い。北西の海の方角から吹き付ける風は刃のようだった。

 寒さは内地とは比べ物にならない。

  

「それじゃあ、あっしはこれで」


 猫背の貧相な竹蔵はそう言うと踵を返し、雪沓をかっぽかっぽ言わせ西の海岸の方に向かって歩いていった。

 海沿いには小さな集落があった。

 ここで別れて竹蔵の顔を見ずに済むだけで早坂はほっとした。

 北海屋の船内でも北海屋の他の丁稚や人足とずーっと花札の賭け事に深酒。

 そしてアイヌの女性を犯したときの話し。


 早坂は番屋の戸板を締めるや上がり込み急いで囲炉裏に火を焚べた


****************


 秋田藩天塩番屋手控帳より


 寛政五年九月廿八日。曇天小雪散らつく。寒さ増す。番屋の周囲を探索いたし候。

 天塩川より水を汲む。思いのほか水うまし。本日唯一の喜びなり



 早坂和右衛門はやさかかずうえもんは冬野菜用に畑を開梱していた。この蝦夷地で冬野菜が育つのかすら怪しかった。

 藩では右筆をつとめていた身である、すぐ手には豆ができ腰が痛くなった。

 寒風、すき荒ぶ中畑のへりで腰をおろしているといきなり背中から声がかけらてた。


「今頃から耕してもこの天塩なら大根一つ育ちませんぜ」


 竹蔵だった。背中には背負子にいっぱいの野菜を背負っている。


「重いったらありゃしねえ」

 

 竹蔵は既に痛みしなび始めてる野菜をぞんざいにおいた。


「ほんと、お役人さんはいい身分ですね」


 痛みだしている野菜でも早坂にはありがたかった。

 早坂が野菜に目の色を変えて飛びついた。竹蔵のことを嫌い悪く思っていても結局竹蔵に頼らざるをえない自分が情けなかった。


「根類は天日で干して、葉物は瓶の中で塩漬けにでもなさいませ。あっ忘れてただけど、軒下で野菜を干すのは最低限の時間に。熊が寄ってきますから」


 早坂の顔色が変わった。


「蝦夷の熊は内地の熊とデカさが比べ物になりませんから。それよりマキの方をもっと貯めたほうがいいと思いますよ。じゃああっしは太一のやつから昨晩の負けた分を取り返さないといけないもんで」


 竹蔵は猫背のまま海岸の方に去っていった。

 野菜を持ってきてくれたせいかもしれなかったが、そんなに悪いやつではないかもしれないと竹蔵の背中を見ながら早坂は思った。

 竹蔵の背中を見ていると腰ほどもある熊笹とその藪の影に立った女が居たような気がした。

 装束からいってアイヌの女か?。

 まばたきをしてもう一度見直すと女の姿などなかった。


***************


 秋田藩天塩番屋手控帳より


 寛政五年十月二日。晴天なれど雪が積もる。積雪。寒ささらに増す。薪を得んがため東の山中に分け入り候。但し熊笹藪に阻まれあまり進め


 昨晩は死ぬほど寒かった。囲炉裏は夜中も火を焚べたままである。湿気ていた薪があったようで煙が番屋を充満し一度雨戸を開けざるを得なかったのも失敗だった。

 雨戸をあけたときに早坂は地面が白いことに気づいた。雪である。

 それと同時に閉ざされたと言う気持ちが湧き上がり絶望的な気持ちにもなった。

 秋田ももちろん雪の質は氷に近く降り積もって溶けず地吹雪が起こるほどの豪雪遅滞である。

 この蝦夷では降って積もっている雪の質が違った。

 雨戸を閉め直そうと思ったときだった。

 番屋の周囲の低い雪の積もった柵の向こうに鈍い半月の雪あかりの中に白い人影を早坂見た。

 それも、大きな白い人影だった。

 人か?。

 アイヌ人か?。

 もしくは、竹蔵か?。

 こんな極寒の夜更けにありえない。

 早坂は気も止めず雨戸をぴっちり締め布団を被り寝た。

 下がった体温がそれを求めてもいた。


********************


 秋田藩天塩番屋手控帳より


 寛政五年十月十日。曇天。いとど寒し。竹蔵いりこを持参し来たる。


 どんどん、生活の質が下がっていく。

 寒いのでどんどん余計なことをするのが面倒なのである。

 これをしたら、これくらい寒く感じる。

 あれをやったらこれぐらい体温を確実に奪われる。

 これは今日はやめよう、こんな具合である。

 番屋の手控帳への記述もどんどん減っていく。

 手控帳はれっきとした秋田藩の公式記録である。おろそかにはできない。

 あんなに重ぃ思いをして運んだ文具四宝の文箱ですら開ける気がしない。

 これでも早坂は元右筆である、信じられない。

 海参いりこと干した大根と米しか食べていないからかもしれない。

 昼過ぎ、寒空の下未だに慣れない薪割りをしている途中に竹蔵がぶらりと現れた。

 

「秋田藩から北海屋にまとまった金子きんすが支払われたらしいですよ」


 と言い、大きなとっくりの酒瓶を持ち出した。

 酒瓶を早坂に渡す折り、もう竹蔵の口からは酒の匂いがした。

 持ってくる駄賃としてかなり先に飲んだらしい。

 酔えばその晩は寒い思いをしなくて済む。そう思うとありがたかった。

 竹蔵とともに番屋で酒宴となった。

 酒の肴はわびしい海参いりこだったが、顔がほてるほど暖かった。そしてしこたま酔って上機嫌だった。

 嫌な竹蔵とも話がはずんだ。


「熊は冬眠するのではないのか」


 早坂は蝦夷地に来ても役人口調が抜けなかった。


「冬眠しない熊も居るんですよ。丁稚から番頭、頭目、北海屋の誰もが見てまさぁ」


 酔っていれば怖くなかった。


「アイヌ人は夜陰に乗じて和人を襲わないのか?」

「へへへ、襲いませんね。そのあと松前藩からこの北海屋までで手ひどく仕置きをしますから」


 それは心強い。


「それより、この西蝦夷の北でみなが恐れてるのは白い熊ですよ」


 竹蔵がぼそっと言った。竹蔵は続けた。


「蝦夷の熊は本州のツキノワグマよりひとまわりデカイでしょ、白い熊は蝦夷の熊よりさらにもうひとまわりいやふたまわりデカイんですよ」


 早坂の酌が止まった。


「東蝦夷の北にでっかい島か大陸があるらしいんで、そこから海を泳いでや流氷伝いにこの蝦夷にやってくるらしいんで」


 早坂が酒の入った茶碗をおいた。


「ご心配なく、噂ですよ。泳ぐ熊なんて見たことない」


 と言うや竹蔵は大声で笑い出した。

 どうやら早坂はいっぱい担がれたらしい。竹蔵は酔いつぶれてその晩は番屋で止まっていった。早坂は一番粗末なむしろをかけてやった。

 あの白い人影が熊だったのか?。

 まさか白い熊なんて居ない。おとぎ話ですら聞いたことがない。



  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

秋田藩天塩番屋手控帳 美作為朝 @qww

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ