最終話 真実は、闇の中

 幸村を討った男となった西尾は、家康から尋ねられた。


 「それで、幸村の最期はどうだったか」

 「誰とは存じませんでしたが、人間業とは思えない奮戦ぶりで戦う男を見つけたので、あれやこれやと、なんとかして最後にどうにか討ち取れたので御座います」

 「有りの侭を語るが良い、もう良い、大儀じゃった、下がれ」


 家康は、叱責しつつも西尾をとにかく褒めて退出させた。西尾の姿が見えなくなると、家康は笑ってみせた。


 「…まあ…幸村ほどの男があやつごときと戦って、あれやこれやで討ち取られただと、そのようなことはあるまいな。武道に通じぬ者の申し様じゃわ」


 家康は、西尾の話を全く信じていなかった。


 細川忠興などは、戦後に国元に送った書状の中で「古今にこれなき大手柄」としつつも「負傷し、草むらに伏していたところを討ち取ったわけだから、手柄でもあるまい」と、残している。更に、幸村に関してもこう残してる。「徳川家の旗本は逃げない奴のほうが少なかった。その中で幸村の戦いぶりは見事だった」と書くなど、徳川軍についていながら、幸村を賞賛した。


 後日談として、幸村の命に従って大坂城に戻った長男・大助は父の安否が気になり、城名に逃げ込んだ人々に聞いて回った所、天王寺で徳川方と戦って討死したことを知る。涙を流して父の死を悲しんだ。豊臣方の敗北により秀頼の自害を見届けた後、大助は、肌身離さず持っていた、故郷にいる母から貰った真珠の数珠を取り出し、自身も西の方角を向いて念仏を唱えて16歳で腹を切った。

 大助が自害する2日前、大助は大坂城からの脱出を勧められたが、拒否。ひたすら念仏を唱えて返答すらせず、静かにその時を待ち、最期は鎧を脱ぎ捨てて切腹し果てた。その勇ましい姿を見た周囲の人々は「さすがに武士の子」と真田家の男子として立派な最期に賛辞を贈った。


 戦国武将には影武者の存在は、当たり前。

 事実、家康を追い込んだ時も複数の幸村の影武者が存在した。

 しかし、体格、顔立ちまでが瓜二つの影武者がいたのかは定かではない。

 安居天神で幸村が絶命する前に向井佐平次が数発の銃弾を受けて絶命した時のことだ。その後、幸村は僅かであっても姿を消す。銃声は、付近で休息する真田衆に聞こえないはずがない。銃声のする方向に馳せ参じて入れば、幾ら鉄砲隊と言えども山の中。接近戦となれば、真田隊の勝ち目が濃厚。仮に真田幸村の命を救えなかったとしても、その亡骸を人目につかないように葬るのは戦国の世では必定。幸村の死を誰もが疑った。

 話を聞けば聞くほど、合点のいかない事実が浮かんでくる。弱りきった幸村を鉄砲隊が討つのは有り得る。しかし、付近に真田衆がいる限り、容易く幸村の首を持ち帰るのは難しいのではないか。それを容易く持ち帰らせた。それは、影武者の首であったから、西尾仁左衛門らに追手を掛からなかったのではないのか。


 最早、真実は、闇の中にあった。


 貧しい山奥での暮らし、白髪が増え、背も曲がり、歯も抜け落ち、加えて、激戦の最中での変貌、幸村への思いが真田信尹の判断を鈍らせていたのではなかろうか。


 大坂の陣には不参加していなかった島津家当主・島津家久は、大坂夏の陣での幸村の神がかり的な戦いぶりを聞き及びこう記している。


 真田は日本一の兵(ひのもといちのつわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか女も童もその名を聞きて、その美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいると思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄。と。

 

 戦場での武勇伝は、参加しなかった武将たちの関心を引き、噂が噂を煽り、語られることは珍しくはないが、その中でも幸村という存在は、大きなものだったに違いない。


 「真田幸村は、生きている」


 そんな噂は面白可笑しく、密かに広まった。

 西尾仁左衛門(西尾宗次)が主張する幸村の首を家康に届けた。その際、誇張報告をした西尾に家康は、叱咤した。家康にしてみれば、自分を死の淵に追い込んだ相手がこんなにも容易く、討ち取られるなど、信じがたいことだった。

 名だたる武将には、それに相応しい死に様と言うものがある。それがこのような結末を迎えること事態、家康は、認めたくもなく許せないものだった。幸村を討ち取った喜び、安堵感よりも、その不甲斐なさを自分のことのように思い馳せらせ、落胆していた。

 家康の怒り、苛立ちは、幸村死す、の事実を突きつけてきた西尾仁左衛門に向けられた。漁夫の利で得たような功績を、家康は無視しようと思った。その思いは適わない事態にまたもや心を痛めた。

 直前に、同じ越前松平隊所属の野本右近が、首を持参し、それに褒美を与えていたため、建前上、仕方なく、公正を期するため、同様の褒美を与える羽目になった。下級武士の名誉など正直取るに足らず。しかし、それを家臣に持つ大名への配慮は別だった。


 「真田の小倅は、不運な最後を遂げよったわ」


 戦場で逃げ惑う名前だけの武将も少なからず存在した。不甲斐ない者の中で窮地にも立たされた。勇敢な武将を家康は身をもって知り、敬意を払っていた。

 幾度も手を変え品を変え、幸村を傘下に収めようとした。手に入れたくても、入らない。兎角この世は思うようにいかぬもの。その歯痒さゆえに、その思いは過度に募っていた。

 敵ながら、戦略も、その勇敢さ、家臣の優秀さを認める幸村の最後の不憫さを家康は、隠せないでいた。


 西尾仁左衛門は、徳川家康及び秀忠からは褒美を、松平忠直からは刀などを賜り、700石から1,800石に加増された。


 さて、真田幸村の件は、これにて一件落着…とはいかないのが歴史の奥深さ。幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』。

 しかし、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には、幸村の兜首が3つも出てきたと記されている。その中で、西尾仁左衛門(久作)のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされた。

 しかし、『真武内伝追加』によると、実は西尾のものも影武者・望月宇右衛門の首であったとのこと。西尾の主人・松平忠直は、将軍秀忠の兄・秀康の嫡男であり、その忠直が、幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかった、と記している。

 豊臣秀頼の薩摩落ちを伝える『採要録』は、秀頼とともに真田幸村や木村重成も落ち延びたと記し、幸村は山伏姿に身をやつして、頴娃えい郡の浄門ケ嶽の麓に住んでいたと言われている。

 幸村の兄・信之の子孫である信濃国松代藩主の真田幸貫は、この異説についての調査を行った。その結果報告を見た肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山は、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。

 鹿児島県南九州市頴娃町には幸村の墓と伝える古い石塔があり、その地名「雪丸ゆんまい」は「幸村」の名に由来するという後日談もある。


 この幸村が大坂城落城の際、豊臣秀頼を背に負い、助け出し、九州に逃げ延びたとの話も…。歴史はそれぞれの思いが折り重なり、深くて面白い。


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赤き流星・真田幸村列伝《大坂夏の陣》最終章 龍玄 @amuro117ryugen

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