「えっと……結局一緒に帰るんだったら、別に私がいなくても……?」


 何も言わずに私たちのうしろからついてくるハルをチラチラと見ながら、香織が口を開く。


 私はすかさずその先の言葉を妨害した。


「だめ! 私は香織と帰ってるの! ……関係ない奴は無視!」


「でも……」


 香織のとまどいはよくわかる。

 家が同じ方向な以上、私たち二人と微妙な距離をとったままのハルは、このままずっとうしろをついてくるのだ。


 圧倒的に足の長さが違うのだから、さっさと先に帰ればいいのに、ピタリと私たちと歩く速度をあわせているところになんとも腹が立つ。


「ハル……あんたねえ……!」


 とうとう腹に据えかねて、ふり向きざまに罵ってやろうとしたら、ちょっと意地悪そうな微笑と共に、人差し指を鼻先に突きつけられた。


「関係ない奴は無視じゃなかったの? ……真奈」


「…………!」


 私は真っ赤になって香織の手をむんずと掴み、歩く速度を上げた。


「聞き耳立ててんじゃないわよ!」


「立ててないよ。真奈の声が大き過ぎるだけだろ……」


「うるさい! 馬鹿ハル!」


「だから、馬鹿ハルって……」


 いくら早く歩いたって、クスクス笑いは全然遠くならない。


「結局普通に会話してるじゃない……真奈ちゃん、もう意地張るのやめなよ……」


「うるさい! うるさい! うるさーい!」


 ハルの笑い声も香織の呟きも、全部自分の大声でかき消しながら、大股でずんずん歩いていた私の足がピタリと止まった。


 一つ向こうの交差点、信号待ちをしている男の子と女の子。

 楽しそうに会話しているあの二人は――。


 握りしめていた香織の手を呆然と離してしまった私の腕を、その時、誰かが強引に引いた。


「行くよ、真奈。ごめんね高橋さん、じゃあまた明日」


 勝手に私の手を引き、家とは違う方向に歩き出したハルが、さらに勝手に香織に別れを告げている。


「うん。また明日」


 笑顔で手を振った香織は、どこかホッとしたような表情で、私たちが本来帰るべき方向へ向かって歩き出した。


「ちょ、ちょっとハル……」


 香織が行っちゃうじゃないのよと、叫んでふり払えるはずの手がふり解けない。

 私の全身は笑っちゃうくらいに震えている。


 全然そんなつもりはなかったのに、あっという間に目に涙が溜まりだして、私は自分がどんなに傷ついているのかをあらためて自覚した。


「真奈……やっぱり俺にしとけば?」


 手を引きながら歩き続けるハルが、顔だけ私をふり返って、さすがにもう聞き飽きたセリフをくり返した時、ピンときた。


 からかっているような表情の中に、さっき非常階段で見た優しい笑顔が混じっていると気づいて、ようやく納得した。


「ハル……ひょっとしてわざと私を怒らせてる? 少しの間だけでも、失恋したことを忘れていられるように……?」


「えっ……?」


 ハルはほんの少し目を見開いただけで、柔和な笑顔を崩しはしなかったけれど、私にはそれだけでじゅうぶんだった。

 長いこと『親友』をやっている私には、ハルの真意がよくわかった。


「そう……」


 納得したはずなのに。

 ハルの突然の告白にも、いきなりのキスにも全部説明がついて、ようやくあたふたと焦る必要もなくなったのに。


 何故だろう。

 さっき畑野と穂乃香ちゃんの仲良さそうな姿を見かけた時よりも胸が痛い。

 涙がポロポロと零れ落ちる。


「……そんな慰めかた……いらないわよ! 馬鹿ハル!」


 力任せにハルの手をふり解いて、隣から逃げ出そうとした。


 でもそれはできなかった。


 さほど抵抗することもなく私の腕から手を離したハルは、駆けだそうとした私をすかさず腕の中に閉じこめた。

 息もできないくらいに抱きしめられて、ますます涙が零れる。


「放せ! 馬鹿っ!」


 頬に押し当てられた広い胸を両腕で押しやって、なんとか脱出しようとするのにビクともしない。


 ハルってば、痩せてるくせに無駄に上背があるからか、かなり力が強い。


「放して! ハル!」


 じたばたと暴れる私をいよいよ強く抱きしめながら、ハルが呟く。


「慰めてるわけじゃない……」


 いつもの声とはかなり違う、低くて頭の芯に響くような声に、ドキリとしながら顔を上げた私にハルが唇を寄せた。

 頬を伝う涙に、濡れた睫毛に、くり返されるキスに息が止まりそうになる。


「ハル……やめっ……!」


 耳元に唇を寄せたハルが、いつものため息よりもはるかに甘い吐息混じりに囁く。


「確かにこれは友だちのキスだけど……泣いてる真奈を慰めるキスだけど……じゃあ、そうじゃないキスしてもいい?」


「…………!」


 それはどういうことだろう。

 息が詰まるのと一緒に思考も停止する。


 でもハルに対する負けん気だけは、こんな時でも私の中では決して失われなかった。

 眦をあげてキリッとハルの顔を見上げ、挑むように口を開く。


「さんざん人にキスしまくったくせによく言うわ! 『友だちのキス』? ……そんな親友どこにもいないわよ!」


 ハルがクスリとそれはそれは魅惑的に笑った。


「だろうね……でも俺は真奈にそうしたいから……」


 不覚にも胸が高鳴る。


 そんな誰でも蕩けてしまいそうな綺麗な顔で、有り得ないようなことを平然と言わないでほしい。


 ハルは違うと言ったけれど、笑顔の裏にやっぱり彼の優しさが見え隠れしていて、度を過ぎた友情に激怒しているはずなのに、ついついそれすら許してしまいそうになる。


「馬鹿……」


「だから馬鹿でもいいって……」


 ハルを相手に泣いたり怒ったりしている間は、もっと違う心の痛みが遠くなっていることは確かだった。


 一世一代の大失恋をしたのに、今日の私はハルのせいで、ゆっくりとその痛手に浸っている暇もなかった。


 だから――


「馬鹿でもいいから……キスしていい?」


 悪戯っぽく問いかけられて、渋面を作りながらも頷いてしまう。


(こんなの絶対におかしいと思うんだけど……『友だちのキス』だってハルが言いはるんなら……それは別に……だってやっぱりハルが、一番私のことをよくわかってくれている親友だと思うし……)


 心の中でせいいっぱいの言い訳をくり返す私をよそに、ハルは私の腰に腕を回して、これまでとは全然違う強引さで、私の体を自分のほうへ引き寄せた。


「じゃあこれは……友だちじゃないキス」


(しまった! そこを許したわけじゃないのに!)


 私が心の中で失意の叫びを上げるよりも早く、ハルの唇が私の唇に重なってくる。

 圧倒されるような激しさと強さで口づけられて、ヘナヘナと全身から力が抜けた。


(ちょ……ちょっと! ……ハル! ……ハルッ!!)


 心の叫びとは裏腹に、ハルのキスにすっかり腰が砕けて、崩れ落ちそうになる私をしっかりと抱きしめたまま、ハルはなかなか唇を放してくれなかった。


「どう? ……やっぱり俺にすれば?」


 長いキスに、体の自由も文句を言う元気もすっかり奪われて、顔を真っ赤にしたまま涙目で恨めしそうに自分を見上げる私に向かって、ハルは悪びれもせずにくり返す。


「しないわよ! 馬鹿ハルッ!」


 怒って歩きだした私の手を、すぐに追いついたハルがすかさず掴む。


「馬鹿でもいいよ……」


 何度もくり返される同じセリフに、呆れた私はもう返事をしなかった。

 でも握られた手をふり払う気持ちだって、不思議ともう沸かなかった。


 ひょっとして、失恋のタイミングにハルに上手くつけこまれた?

 ――なんてことだけは、絶対に認めたくないけど。


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