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「で? なんでそんなに離れてんの? いつも呆れるぐらいにベタベタしてるだろ?」
「ベ……ベタベタって……!」
ひやかすようにかけられた声に反論しようとしたのに、言葉が上手く出てこない。
全員で音楽室に集まっての合奏前。
パートごとの部分練習は、楽器ごとにそれぞれ別の場所でおこなうことになっている。
私とハルが所属するサックスパートは一、ニ、三年生がそれぞれ二人ずつの六人。
いつも隣に座って一つの楽譜を二人でのぞきこんでいる私たちが、部屋の端と端に離れているのだから、不思議に思われるのは当然だ。
でもパートリーダーの理枝先輩の言い方では、まるで私とハルが恋人同士か何かのように聞こえる。
「そんなことないです……」
失礼にならない程度に静かに否定すると、先輩方も一年生たちも、勝手にいろんなことを言い始めた。
「なんだ? ……夫婦喧嘩か? もう別れんのか?」
「ええっ! だったら本田先輩! 桜井先輩を私に下さい!」
「いや! 私! 私!」
ハルのあまりの人気ぶりにがっくりと肩が落ちる。
圧倒的に女子のほうが多い吹奏楽部。
いくら今年の新入部員の半数以上が部員勧誘の舞台でハルの笑顔に魅せられた女の子たちだとはいえ、私にとってはハルは、あくまでも親友なのに――。
全然そうは見てもらえないのだから悲しくなる。
「夫婦じゃないです……別れる以前に、つきあってもないです……」
いつもなら大声で反論するところを、力なく呟いたら、不審な目を向けられた。
「そんなことはもちろんわかってるけど……本田? どうした?」
「そんなんじゃないです! って……今日は怒鳴らないんですか?」
どうやらみんなは私をからかって、反応を見て楽しんでいるだけなんだとわかって、なおさら脱力した。
「いいです、もう……」
あきらめ気味に視線を足元に落としたら、同時に気持ちまで下向きになる。
朝からずっと、本当は私の心の大部分を占めていたはずの悲しい感情を思い出して、ため息が出た。
(そうだった……)
少しの間だけ、心から消えていた胸に痛い事実を再確認した瞬間、隣に座る一年生が廊下を通り過ぎる友人に声をかけた。
「穂乃香! おーい……フルートパートはどこで練習?」
間の悪いことに、こちらをふり返った彼女とバッチリ目があってしまう。
私を見て一瞬瞳を見開いた小柄で笑顔の可愛い一年生は、私が慌てて目を逸らすよりも先に、真顔でこちらに向かって深々と頭を下げた。
瞬間、また涙腺が緩みそうになって困る。
(わかってた……穂乃香ちゃんはいい子……思いやりがあって、気遣いのできる優しい子……だから畑野が彼女を好きになったのも無理はない……)
サックスを握る手にギュッと必要以上の力がこもってしまった瞬間、部屋の反対端から、ふいによく通る声が私に向かって飛んでくる。
「真奈。俺にしとけよ」
浮かびかけていた涙も吹き飛ぶ勢いで、私はそちらに顔を向けた。
「は?」
「うおっ! 桜井! なんだ? ついに愛の告白か?」
「唐突な奴だな……」
「いやああ! 晴斗先輩!」
先輩方の興味津々の声と、一年生たちの叫び声で、さながら阿鼻叫喚の様子を呈してきた教室の隅で、私は怒りに震えながら立ち上がった。
「何言ってんのよ、馬鹿ハル!」
「馬鹿ハルって……」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるみんなの声をものともせず、ハルの静かな――それでいて少しの笑いを含んだ呟きは、かなり離れた場所にいる私の耳までしっかりと届く。
「だって馬鹿じゃない! ……馬鹿あっ!」
首から下げたままのアルトサックスを両手で握りしめて、私は教室を飛び出した。
「おい……本田?」
「よし! 桜井、頑張れ!」
「いやぁぁぁ! 真奈せんぱーい! 晴斗せんぱーい!!」」
背後に遠くなるみんなの叫びを聞いている限り、ハルが私を追いかけてきていることはまちがいない。
「来るなっ! 馬鹿ハル!」
大声で叫びながら廊下を全力疾走する私の足は、自分でも意識しないままに自然とその場所に向かっていた。
――この高校に入学してから一年半もの間、テニス部の畑野の練習風景をこっそりと見るために、私が愛用していた非常階段の踊り場。
バアンと大きな音を立てて鉄製のドアを思いっきり閉めたのに、座りこんだ私が膝の上のサックスに顔を伏せた途端、ギイッと再び、背後で扉が開く音がする。
「ついてこないでよ! 私の秘密の場所なのに!」
涙混じりの叫びに、クスリと小さな笑みが返ってくる。
「個人練習だって嘘ついて、部活中に畑野の姿をのぞき見るのに、今までさんざんつきあわせたくせに? ……今さら?」
「だから、もうつきあわなくっていいわよ! 失恋したんだもん! 私のことは、もう放っといて!」
「それは無理だな」
あっさりと拒否される。
「泣いてる真奈を一人にはできないよ。慰めるのが『親友』である俺の役目だから」
ほんの数時間前までは確かに一番の親友だと思っていた人のちょっと傲慢な言葉に、実に腹が立ったけれど、心も震えた。
「なによ……半分はハルのせいでしょう! こんな時に変なこと言い出して!」
「別に変なことじゃないと思うんだけど……半分? ……そんなもんなの?」
問いかけられてドキリと胸が鳴った。
――なんだろう。
「もちろんそんなもんよ!」と強気な姿勢を崩したくないのに、言葉が上手く口から出てこない。
ずっと伏せていた視線を不安のあまりに上げてみたら、すぐ目の前にハルがしゃがみこんでいた。
正直焦った。
「真奈……俺が嫌い?」
目の高さを同じにした琥珀色の瞳に真摯に問いかけられて、思わず吸いこまれそうになる。
自分の心の奥深くから、決して嘘ではない言葉がすんなりと出てくる。
「き、嫌いなわけ……ないでしょ……!」
瞬間。
三階下のテニスコートから、大きな声が響いた。
「おーい! 畑野ー!」
誰かが畑野を呼ぶ声にビクッとして、首を竦めた私の両耳を、ハルの大きな手が塞ぐ。
ガヤガヤと賑やかだったいろんな声や音が、私の周りからどんどん消えていく。
「じゃあ真奈。ちゃんと俺を見て」
両手で耳を塞がれたたまま、軽く顔を上向けられて、ハルの綺麗な顔とあまりにも近くで向きあって、なんだか焦る。
ドキドキと壊れてしまいそうなくらいに胸が鳴る。
「俺にしときなよ」
妙な色香さえ感じさせる微笑に、魅せられるように目を閉じてしまいそうになった時、遠くからかすかな声が聞こえた。
「だから……何言ってんだよ、ハハッ」
(畑野!)
楽しそうな笑い声にドキリと胸が跳ねて、思わずハルの腕の中から身を引こうとした私の両耳を、大きな手がいよいよ強く塞いだ。
「俺だけを見て」
そのまますっと頬に寄せられる唇に大慌てする。
「ちょ……ちょっとハル! なにすんっ……の……!」
頬からこめかみ。
まぶた。
額。
次々と落とされていくたくさんのキスにパニックになりそうだ。
頭に血が上る。
バクバクと鳴り続ける心臓が今にも口から飛びだしてきそう。
「やめっ……やめてよ……」
私のささやかな抵抗になんてまるで耳も貸さないで、顔じゅうにキスの雨を降らせていたハルがふいにそれを止めた。
自分の声以外は何も聞こえないくらいに強く塞がれていた耳も解放されて、いろんな音が私の周りに甦ってくる。
どうやらテニス部の練習は終わったみたいで、畑野たちの声はもうテニスコートからは聞こえない。
あんなに胸に痛かった声がもう聞こえない。
ハルの大きな手から解放された途端、体中に入れていた力がいっきに抜けて、その場に崩れ落ちながら私は腹立ち紛れに叫んだ。
「馬鹿……ハルの馬鹿っ!」
ハルは私に背を向けながら立ち上がって、階段の手すりのほうへと歩いていく。
鉄製の柵に背中で寄りかかりながら、私をふり返って笑った。
「別にいいよ、馬鹿でも……」
深い愛情に満ちているように見えなくもない笑顔に、不覚にも涙が浮かんだ。
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