第33話

 家のどこかにいるはずの祖母に向かって、明里は大声で叫んだ。印刷の終わった往復葉書をとんとんと揃え、輪ゴムで留める。プリンタの電源を落とすと、明里は腰を上げた。


 仏間を出てすぐの居間には誰もいなかった。振り子時計がゆったりとしたリズムで時を刻んでいる。テレビでは高校野球の試合が流れていて、ちょうど鋭い打球をキャッチした内野手にスタンドから歓声が上がったところだった。青春という言葉がぴったり合う。


「もう終わったの? ご苦労様でした」


 突然の声に驚いた明里が顔を向けると、いつの間にか台所に続くドアから祖母が顔を覗かせていた。急に声をかけたことに文句を言う明里をよそに、祖母は肘でドアを押し開けると居間に入ってきた。両手にはガラスの器が乗っている。中身はおそらく白玉団子だろう。ここでのおやつは大体これだった。


 祖母は明里を通り越し、居間のテーブルの上に器を置いた。深海のような青いガラス皿を上から覗きこむと、やはり小ぶりな白玉が七個ばかり入っている。


「仕事が早いでしょ」


「いつもありがとうねえ。大変、助かっております」


 祖母は恭しく深々と頭を下げた。その様子に明里は思わず笑ってしまう。あの家を訪れる客人を長年もてなしているためか、祖母は日常的に人を和ませるような言動をする。悪質なクレーマー老人の話を耳にする度、自分の祖母が正反対の性格であることに明里は安堵することもあった。


 居間の座布団に腰を下ろした明里は、目の前の白玉団子に祖母が用意してくれた砂糖やきな粉を適当にかけると、一つ口に含んだ。懐かしい味がする。程々の弾力があって甘い、幼い頃から知っている味。暑さで火照った身体の管を、ひんやりとした白玉が通過していくのが分かる。


「沙織は元気?」


 座椅子に座った祖母が言った。

 沙織というのは、明里の姉の名前だ。姉は高校を卒業すると関東の大学に進学し、そのまま向こうで就職した。田舎の生活が嫌だ、といつの頃からかぼやくことが多くなった姉は、念願の都会で楽しくやっているようだった。それを裏付けるように、地元に帰って来ることはほとんどない。


「あんまり連絡取らないけど、SNSに飲み会とか遊園地とかの写真ばっかり上げてるから元気なんだと思うよ」


 祖母はSNSという言葉を聞いて、ふうん、とよく分かってなさそうな返事をした。以前、SNSについて説明したはずだったが、もう忘れてしまったのかもしれない。


「明里は勉強どう?」


「うーん、ぼちぼちかなあ。覚えることも多いし、自分で調べなきゃいけないことも多いし……。でも、面白いよ」


 祖母は顔をほころばせて、うんうんと頷いた。若い頃の祖父の姿を明里に重ねているのだろうか。


 二つ目の白玉を口に運びながら、明里はぼんやりと祖父が何を学んでいたのか考えていたが、いつの間にか思考はかすみの家の神へと移っていた。


――かすみの家に住む神様は不幸を幸せに変えてくれる。


 祖母の言葉が脳裏に浮かぶ。

 不幸を幸せに変える、というのが明里にはピンと来なかった。願掛けすれば幸せになれる、という話なら理解できる。自分は今こんなに不幸だから願いを叶えて幸せにしてください。そうやって神に願えばいいのなら、何も難しく考えることはない。


 不幸を幸せに変えるという言い方は、それらを物理的な物として捉えているように感じられる。不幸を供物として神に捧げることで、ご利益として幸せを受け取ることができるということではないか。供物の代表格と言えば米や酒だろう。かすみの家のように供え物として不幸が求められる例は他にあるのだろうか。そもそも、何故神が不幸を求めるのか、明里にはさっぱり分からない。


 もしかしたら、その神の名前に糸口があるのではないかと考えて、明里ははっとした。


 明里は、かすみの家に住む神の名を知らなかった。『かすみの家の神様』と幼い頃から呼んでいたために、名前があるかどうか疑問に思ったことすらなかったのだ。


 かすみの家、そこに住む神のことを知ってから十年以上経っている。その間に何度も祖母からそれにまつわる話を聞かせてもらったし、ホームページを作る時にもその細部を確認した。しかし、神の存在については掲載しないで欲しいと言われていたから、名前を訊ねる機会もなかった。


 自分がホームページまで作った場所に住む神の名を今の今まで知らなかったことに、明里は驚くと同時に胸が高鳴るのを感じた。自分の知らない領域がまだある。それを知ることができるかもしれない。好奇心と興奮で明里は高揚した。


「ねえ、おばあちゃん」


 湯呑でお茶を啜っていた祖母が顔を上げた。明里がこうして祖母を呼ぶ時は、いつもあの家のことを聞く。明里の声を聞いて、また何か聞かれるのだろうと祖母も察したようだった。


 相変わらずテレビでは高校野球の様子が映っていて、実況の声やブラスバンドの応援が流れ続けている。それにかき消されないように、明里は少し大きめの声で聞いた。


「かすみの家の神様ってさ、名前あるの?」


 明里の声と対照的な、呟きにも溜め息にも近い、ああ、という声を祖母は出した。その顔は珍しく曇っている。明里はどきりとした。ひょっとすると触れてはいけない話題だったのだろうかと心配になる。


「神様のお名前ねえ……。教えるのは構わないんだけど、ただねえ」


 祖母は困っているようだった。かすみの家の神には名前がないということではないらしい。人に話すのを禁じられているわけでもない。しかし、祖母は言いよどんでいる。


 明里は祖母の顔をじっと見つめ、言葉が発せられるのを待った。心臓は未だ落ち着きを取り戻す気配はない。テレビや振り子時計の音が少し耳障りに感じる。


「明里には聞き取れないかもしれないね」


「え?」


 想定外の言葉に明里は驚いた。すぐに口から疑問が放たれる。


「聞き取れないってどういうこと? 昔の発音ってこと?」


 平安時代に話されていた言葉の発音は、現代のものとはかなり異なると聞いたことがある。真っ先に明里はそれを思い出した。


「そういうことじゃないのよねえ」


 そう言うと祖母は背筋を伸ばして、明里に向き直った。


「……明里、今からおばあちゃんが神様のお名前を教えます。よく耳を澄ませて聞いていて」


 ごくり、と明里は生唾を呑み込んだ。僅かに緊張感が身体を支配する。ふいに、テレビが大人しくなった。番組の切り替えに伴って無音になったようだ。時計の振り子もやけに遅く感じる。一瞬、静寂が辺りを包んだ。


 突然、不思議な音が祖母の口から流れた。日本語でも英語でもない。耳にしたことのない発音、アクセントの言語。八音節ほどしかない言葉だったのに、何とか聞き取れたのは最後の部分だけ。しかし、それも正確に聞けたのかは分からなかった。


「……イヴァン?」


 戸惑いながらも明里は、発音できそうな箇所を口にした。最後の部分は、明里にはそう聞こえたのだ。正誤が知りたくて祖母に目線を送ると、微笑みながらゆっくりと首を縦に振ってくれた。


「そう。日本語ではないからちゃんと聞き取ることはできないけど、何となく最後はそんなふうに聞こえるねえ」


 いつの間にかテレビからは午後のニュースを読み上げる音声が流れていた。振り子時計もいつも通りに動いている。


「正しい発音は難しいから、言いやすい部分が訛っていって、というお名前で簡単にお呼びするようになった。それから、普段はこの世とは別の場所に居られるから、『現世とは異なる原からやって来る』という意味で異原という字を当てられることもあったの」


 神聖な名前なんだから軽々しく何度も呼んではいけないよ、と祖母は付け加えた。

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かすみの家 北上マサラ @Masara555

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