後編

「ちょっとお願いがあるんだけど……」

 リビングに戻っていた妻が、しずしずと尋ねる。

「どうした?」

 僕が言うと、妻は「んんっ」と小さく喉を鳴らした。妙にセクシーに聞こえてドキッとする。けれど妻はなにごともないように口を開いた。


「さっき実家から連絡があって、母が骨折したんですって。明日、様子を見に行きたいんだけど……あの子のこと、見ていてもらえないかな? 仕事、お休みでしょう?」

「明日? 僕が? ふたりで?」

「あなた以外誰がいるのよ……。すぐ帰ってくるから、よろしくね」

 まだ返事などしていない。しかし妻は頷いて当然というような態度で、僕の肩をトントンと二度叩いた。


「マジか……」

 突然の展開に呆然としながら、僕は息子の寝ている部屋に視線を送った。考えてみると発病してからはいつも妻が息子に寄り添っていて、僕とふたりきりになったことなど、ない。そもそも息子がなにを好きかも、たいして理解できていないのだ。いったいどんな顔をして、どんな話をすればいいんだろう。

「困ったな……」

 ボソリと呟いた僕は、息子のいる部屋から目をそらす。そしてもういちどベランダに出て空を見た。夜空は暗く、星もない。まるで僕の心を表しているかのようだった。



「よ、よう。調子はどうだ?」

 妻が出かけて部屋にひとり残された息子に声をかける。一対一の会話は久しぶりだから、なにから話していいかわからない。

「パパ。ちょうしは、いいよ」

 ニコリと笑った息子は静かに答え、アニメの映るテレビからこちらに顔を向ける。

「そ、そうか」

「うん、げんき」

 次にかける言葉が見つからない。どうしようか悩んだけど、テレビに視線を移す。人妻がうさぎのぬいぐるみを殴っているシーンだった。しばらくそうしていると息子も僕を真似、テレビを見ていた。


 そんなふうに過ごして、どれくらい経っただろう。急にやってきた眠気と戦っていると、息子の声が聞こえてきた。

「パパ。むかしのことっておぼえてる?」

「ん? 昔? そうだなぁ……お前くらいのときのことは、なんとなく覚えてるかな」

 確か保育園のとき、同じ組のマキちゃんに初恋をした。それが僕のなかに残るいちばん古い記憶である。


「ぼくね、ちっちゃいときのこと、おぼえてるんだ」

 その息子の顔は、初めて見るくらい神妙だった。

「ハハッ、いまだってちっちゃいだろ?」

 息子の髪をくしゃっと撫でた。可愛いことを言うやつだ、と笑いながら。

「ううん、もっとちっちゃいとき。ぼくね、おそらにいたんだ」

「空?」

「おそらからなかよしなパパとママをみてね、『いいな』っておもってね? 『ここのうちのこになりたいです』ってかみさまにいったの」


 なにかで読んだことがある。小さい子どものなかには、生まれる前の記憶を持っている子もいると。もしかしたら息子が話すのは、そういう類のものなのかもしれない。あるいは、アニメで流れた内容を、自分の記憶のように思っているか……。おそらく後者だと思う。貴重な話題だ、いまは付き合うことにしよう。


「パパとママ、そんなに仲良しだったか?」

「うん。てをつないだり、ちゅーしてた」

 たしかに、息子が生まれる前はイチャつくことも多かった。それだけじゃなく、セックスも、だ。

「そうだぞ。パパとママは仲良しだからな。いまもラブラブだぞ?」

 嘘だ。僕は昨夜、妻に夜の誘いを断られて腹を立てた。おまけに息子の存在を疎ましくも思った。息子の前では見せないようにしているけど、僕ら夫婦には口論も多い。


 そんな思考を巡らせていることも知らない息子は、ひときわ小さな声で言った。

「ごめんね、パパ。ママのこと、とっちゃって」

「え……?」

「でも、だいじょぶ。ママのこと、ちゃんとパパにかえすから。だから、もうちょっとママをぼくにかしてね」

 か細い声で、言っていることがよくわからない。もういちど、ちゃんと言ってほしいと思う。

 でも息子はぎゅっと目を閉じ、静かに寝息を立て始めた。



 あの日からしばらく経って、息子は息を引き取った。急変を見つけたのはつきっきりだった妻。いまにも動き出しそうに眠る姿は、難病と戦っていたことを忘れさせるくらい穏やかだった。

 妻はわんわん泣いている。痛いくらいの鳴き声が刺さってくる。でも、僕は泣けなかった。僕は息子の寝顔を見ながら、あの日――ふたりきりになったときのことを思っていた。


――ぼくね、おそらにいたんだ


――『ここのうちのこになりたいです』ってかみさまにいったの


――ママのこと、ちゃんとパパにかえすから


「……っ! ……ぁ!」

 声にならない声が喉から漏れる。そして心からは、多くの後悔。瞳からは急に、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。


 どうしてもっと息子と一緒にいてやらなかったんだ。


 どうして息子とふたりの時間を作らなかったんだ。


 どうしてもっと名前を呼んでやらなかったんだ。


 どうして……どうして……。


「どうして」という自問は、台風の風のように心のなかをかき乱す。



「お前のなかの古い記憶、教えてくれてありがとうな……。パパ、嬉しくて……でも、悲しくて……」

 ひたすらに溢れる涙をぬぐって、続ける。

「本当はもっと構ってやりたかったよ。でもママに構ってもらえないあてつけで、お前を……」

 息子は、僕よりずっと大人だった。あの記憶がなくても、ずっと、ずっと。


「タクト! タクト……っ!」

 この三文字を発音するのは、いつぶりだろう。僕はベッドに横たわる息子の名前を、何度も何度も繰り返した。

 熱い涙が止まらない。この熱量をもって、息子を呼び戻してほしいと思った。けど、「パパ」と呼んだり、笑いかけてくれる息子はもういない。

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ばいばい、パパ 文月八千代 @yumeiro_candy

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