ばいばい、パパ
文月八千代
前編
「今夜は家にいるんだろ? だから、さ……」
僕は言った。ソファにどっかりと腰掛け、隣の部屋に視線を注ぐ妻の肩を抱きながら。目的はもちろん、今夜の誘いをするためだ。
「ちょっと、よしてよ。そんな気分になれないことくらい、あなただって知ってるでしょう?」
不機嫌さを前面に出しながら妻が言った。肩に回された手を振り払い、機嫌悪そうに。それを聞いた僕は、口からチッと小さな破裂音を鳴らす。
「だってお前が夜、家にいるのなんて久しぶりだろ? したいじゃないか、仲良く」
「だから……、そういう気分になれないって言ってるの!」
勢いよくソファから立ち上がった妻は足音を立てず、けれど怒りを見せる足取りで、隣の部屋に繋がるドアのほうへ歩きだした。
ドアはぽっかりと開いていて、こちらからでもなかの様子がよくわかる。たくさんのぬいぐるみに、壁に貼られたキャラクターのポスター。壁にくっつけるように置かれた一台のベッド。そこに静かに横たわる、僕らの息子。
「一時退院してるからって、油断はできないんだから。あなただって、わかってるくせに」
ピタリとドアの前で足を止めた妻が、こちらに向きを変えてボソリと呟いた。たぶん息子には聞こえない。僕にだけ聞こえるような、特別な声で。
息子は生まれながらの難病だった。小難しい漢字が連続して並ぶ、聞き慣れない名前の。治療法は現代の医学でも解明されておらず、手探りの治療が何年も続いていた。
その甲斐あって……というのだろうか。息子は良くなったり悪くなったりを繰り返しながらも、このあいだ5歳の誕生日を迎えることができた。主治医はこれを「奇跡」と言った。
息子が生きていてくれることは嬉しい。これからも生きていてほしい。しかしそのいっぽうで、葛藤もあった。
闘病生活のなか、息子は辛い治療を何度も繰り返してきた。大人でも辛いと思えるような治療をしては、耐えた。そのたび「がまんすれば、ぼく、げんきになれるんだよね」と笑顔を浮かべるのだ。
僕も妻も、それを見るのが辛かった。
ほかにも日常生活は息子中心に回っていた。仕事がある僕にかわって妻は病院に付き添うことが多く、病状が悪いときは泊りがけ。「私がいればあの子が安心するから」が口癖だったけど、その表情には「こうすれば私が安心できるから」という気持ちが隠されているのがよくわかった。
けど僕は、ひとりで夜を過ごすのが嫌だった。仕方がないこととわかっていても、寂しくて。
このあいだ主治医から「病状が安定しているので、在宅医療に切り替えましょう」と言われたとき、僕らはそろって安堵した。住み慣れた家に家族が揃うのだ。息子も妻も嬉しいだろうし、僕も嬉しい……はずだった。
「チッ……。たまにはいいじゃんか、セックスくらい」
思い出して腹が立った。苛立ちを我慢できそうになかった僕は、ベランダに出てスマホでSNSアプリのアイコンをタップする。すぐに表示された画面には、友人たちの画像つきの投稿がズラリと並んでいた。
――今日は娘とお風呂に入りました
――少し遅くなったけど、妻と二人で結婚記念日のお祝いです
――この笑顔、めっちゃ可愛い!
ひととおりそんな投稿を眺めたあと、僕はスマホの画面を消した。いいねやコメントなど一切せず、ただ見ただけで。
「いいよな、みんなは……」
同じ年齢で子どもの歳も近い友人たちは、楽しそうな家庭を築いていた。もちろんその背後には陰がある……というのはわかっている。でもこうやって投稿できるところに、僕は羨ましさを覚えた。
「難病で苦しむ息子と、看病疲れの妻……人様に見せるなんてできない、よなぁ」
そんな自分が疎ましく思えて、マンション十階のベランダから夜空に向かってさらに呟く。
「もうずっとセックスレスだし、たまにはこう……」
なにもない空中に両腕を伸ばし、交差させて自分の体を抱きしめてみる。
「ぎゅーっ! ぎゅぎゅっと! ……バカみたいだな」
ツッコミを入れながらも全身をクネクネとよじらせ、擬似的なハグを楽しむ。これはこれで悪くない。
「いや、バカそのものだな……」
急に冷静になった僕は、もうしばらく夜風に吹かれてから室内に戻った。
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