後半

 また会う約束をして茉奈と別れた後、自宅の最寄り駅である調布駅まで電車で揺られ到着したが、けれどそのまま帰る気にもなれなかった。何も考えずに夜風に吹かれながら長いこと歩いていると、深大寺に辿り着く。夜の深大寺は少しの薄気味悪さを感じさせ、けれど私は何かに引き寄せられるかのように深大寺の境内に入る。


 かれこれ2年ほど彼氏がいない私は、懐かしい深大寺を見て過去の恋愛を思い出していた。元彼と出会った四年前、私たちはデートで深大寺に来たことがあった。元彼を一目見た時から恋の予感を味わっていた私は、そのデートに心を躍らせ楽しんだ記憶がある。


 甘酸っぱい沈黙や、必死に何かを話そうと意気込む元彼を可愛いと思っていたあの頃の自分と今の自分があまりにもかけ離れすぎていて、まるで他人の恋愛を覗き込んでいるような感覚に陥った。


 境内を目的なく歩いていると「おみくじ所」と書かれた看板が視界に入り、引いたおみくじが大吉だった、と私に報告した元彼の屈託のない笑顔をふと思い出し、私の瞳からは自然と涙が零れ落ちた。そして同時に思い出す、彼を失ったら生きていけないという茉奈の言葉。


 それはいつか自分も抱いていた幻想であり、願望でもあった。元彼無しでは生きていけないと信じていた三年前は、まるで元彼が私の足であるかのような錯覚を持っていて、元彼の世界から自分が居なくなることがたまらなく恐ろしかった。


 不安や恐怖は好きという感情と一心同体で、宇宙より膨大で私の視界を霞ませる。さらに恋は私に目隠しをし、私の耳元で元彼との思い出を音として垂れ流し、私に幸せなのだと思い込ませた。マイナスの感情ですら、元彼が生きてくれているから抱けるものなのだと私は思い、大事にした。


 二人の波長が合う日、確かに私たちは幸せでやはり私は元彼に愛されているんだと思えた。日常に散りばめられた不幸の合間に訪れる少数の幸福は、多数の不幸に勝るほど美しくかけがえのないものであった。


 麻痺した感覚は麻痺したことすら教えてくれず、歯車を狂わせ私の身も心もボロボロにする。私は自分を守る鎧をわざと捨てて、元彼に傷つけられる道を選択した。結果元彼は体には傷を負わず、心に傷を負ってしまった。


 夜風が私を包み込み、懐かしい桜の匂いを私に届ける。幸福が多数だった四年前、私は未来にもっと多大な幸福が待っていると思っていた。不幸が多数だった三年前、私は未来に多大な幸福が待っていると思っていた。いつでも私は未来が幸福だと思い込んでいたのに、今の私はちっとも幸福ではない。


 ごめんなさい、それが口癖だったあの時。鈍痛が体中に走り、意識が朦朧としていた私はそれでも元彼を愛していた。怒らせたのは私、悪いのは私、殴られるようなことをしてしまったのは私。そう思わなければ元彼と一緒に居る権利が剥奪されてしまう、そう必死に自分に言い聞かせていた。


 私にだけ見せる元彼の笑顔を守りたい、いつまでも元彼の彼女でいたい、それが私にとってこれ以上のない幸福であったはずだ、そう自分に言い聞かせていたのに、心も体も痛くて堪らなかった。


 今も昔も私は元彼を大好きで愛おしくてたまらない、その愛情は芽生えた時から変わることはない。私を殴った後に見せる元彼の背中が孤独な子供の様で、私は母性を抱きいつも優しく抱き締めていた。


 そんな私を抱きしめ返して私の頬にキスをする元彼は、決まって何度もごめんねと呟く。悔悟の念を抱き自暴自棄になる元彼に、私はちゃんと微笑みを向けることが出来ていたのだろうか。床に落とされた寂しげな影ばかりを見て、私は元彼の存在を直視することが出来ていなかったかもしれない。


 私が元彼に暴力を振るわれていることがばれて、両親が私を連れ去った二年前、両親は元彼が私を探し回ると思い込んでいた。けれど元彼はあれから一度も私の前に姿を見せない。ホッとする両親に隠れて、私は不透明な希死念慮を抱いた。鏡を見る度、痣のない自分の身体が気に入らなくて自傷行為をしたこともあった。今はもう、そんな気力すら湧かない。


 時たま元彼が苛立ち私を殴ろうと近づいて来る時のような感覚が、私の中に現れる。どこからか私の名前が呼ばれているような気がしていた。




 私たちが育てた植物は私の身体に寄生して、私の頭のてっぺんに大木を成らせていた。今でも私の脳に根を張って生えた立派な大木を引きずり、歩いている元彼。その感覚はどこか心地良くて、大事にされているように私を錯覚させる。それは俗に言う美化というものだと最近気が付いたけれど、それでも私は元彼と育てた植物を未だに捨てられずに成長させていた。


 いつか私の元に訪れる誰かがこの植物を根こそぎ引っこ抜いて、新しい脳みそをくれるまで、このままでいたいと思っている。


 静寂を与える厳格な趣を持つ深大寺。甘い思い出を鮮明に蘇らせてくれたけれど、恋愛成就を掲げるのはいかがなものかと私は小生意気に苦笑した。

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