おまけ

インキュバスに関する覚え書き

 インキュバスはプロテスタントの信徒だった両親の間に生まれた。両親は地元出身の一般的な日本人だったらしい。黒髪に、焦げ茶色の瞳を持つ、ごく一般的なカラーリングの日本人。


 ところが、生まれた子供は生まれつき金髪に近い髪色をしていた。目はほとんど青色に見えた。


 とても、二人の間から生まれた子供には見えなかったのだ。


 長じるにつれ、髪と目の色は徐々に暗い色に変わっていった。しかし、それでも周りの子供と比べれば、その異質さは一目瞭然だ。インキュバスはそれを理由に仲間外れに合い、やがてこう罵られるようになった。「インキュバスの子」と。お前の母親はインキュバスに孕まされたのだと。だからそんな見た目に生まれたのだと。 


 周りの多くは信徒の子供だった。恐らくは大人たちが家でそのようにインキュバスを評したのだろう。もちろん皮肉だ。誰もインキュバスなんて信じているわけがない。いじめっ子たちだって最初はろくに意味がわかっていないようだった。インキュバスの子というフレーズだけが一人歩きし、やがて単にインキュバスと呼ばれるようになった。


 現実的に考えれば、インキュバスの母が外国人の男と関係を持ったのだろう。それが合意のものだったのか、そうでなかったのかはわからない。この件に関して両親がどういう見解を持っているのか、インキュバスにはわからなかった。そもそも会話が少ない家庭だったのだ。それはあるいは自分の髪と目の色のせいかもしれない、とインキュバスは述べた。


 一方、サキュバスはインキュバスとは対照的に、尊敬すべき牧師の娘として一種の畏敬を集めていた。白い髪と青い瞳は神の恩寵、選ばれた人間の証であり、インキュバスのそれとは逆の意味を持った。


 色素欠乏症はあくまで突然変異的な遺伝子疾患だ。両親が典型的な日本人のカラーリングでも、色素欠乏症の子は生まれうる。だから、インキュバスとは違った。彼女はインキュバスの子などという噂は立たなかった。


「恩寵」。彼女の見た目を指してそう表現する者もいたという。


 プロテスタント特有の思想、予定説によれば、人間はあらかじめ救われる者とそうでない者が決まっているという。見た目にも奇異な遺伝子疾患は良くも悪くも何らかの徴として注目を集める定めだった。


 もちろん、プロテスタントの教義がそうした疾患と予定説を関連付けて説いているわけではない。


 しかし、信徒と言えど住民たちはみな人間であり、当たり前に、そして無自覚に偏見を持つ。そして、教義をその補強に利用することもあるということだ。


 彼女の見た目を根拠に、救われない者のレッテルを貼ろうとする者がいてもおかしくなかった。あるいは実際にいたかもしれない。しかし、それを態度に表す者はいなかった。いれば、逆にそれこそ救いがたい資質として軽蔑の目を向けられていただろう。


 そんなサキュバスが、インキュバスには羨ましかった。妬みもした。体育の時間、日陰で見学している彼女を遠目で眺めながら、どうして自分だけ蔑まれるのだろうと嘆いた。


 サキュバスがインキュバスに優しく接するのも、気に食わなかった。それは持てる者の余裕だと思った。逆に馬鹿にされている気がした。サキュバスがいじめっ子たちを諫める度、インキュバスに満面の笑みでおはようと挨拶を投げかけてくる度、インキュバスのプライドは傷つけられた。


 なんでだよ、とある日、彼はサキュバスに突っかかった。なんで、俺にかまうんだよと。牧師の娘が俺なんかに声をかけるんだよと。


 サキュバスは目を丸め、なんで、とおうむ返しのように呟いた。まるでその疑問の意味がわからない、とでも言うように。


 夏の公園だった。一人でブランコを漕いでいると、友達の家に向かうところだった彼女が通りかかり、声をかけてきたのだった。


 こんにちは、という、いつもとは少し違う挨拶。それがなぜか癪に障った。それまで溜め込んでいたものを吐き出さずにはいられなくなった。


 インキュバスはありったけの感情を彼女にぶつけた。彼女に対して抱いてきた妬み、羨望。それらをすべて言葉にしてぶつけた。いつも通り、日傘を差す彼女に。夏にふさわしくない、長袖のブラウスとロングスカート姿の彼女に。


 それは嵐のようなものだった。幼いインキュバスにはどうすることもできなかった。口を閉じることも、その場から立ち去ることも、また、そうした選択肢を想起することすらもできなかった。ただただ感情の赴くまま言葉を吐き出し続け、そして気づけば頬を熱いものが伝っていた。


 そのことに気づいて、ようやく我に返った。なんて情けないのだろうと、子供心に思う。相手はひ弱な女の子だ。それに八つ当たりするみたいにして。涙まで流して。全部なかったことにしたかった。その場で消えてなくなりたかった。


 インキュバスはむき出しの腕で目をごしごしと拭い、何事もなかったかのように去ろうとした。相手の顔は、恥ずかしくてまともに見ることができなかった。


 背を向けたそのとき、腕を掴まれる。何かが落ちる音がして、振り向くとサキュバスに抱き締められていた。


 サキュバスは彼の頭を抱えるようにした。頭を優しく撫でた。


 こんなことは両腕を使わなければできない。そして、彼は地面に日傘が落ちていることに気づく。


 彼は不意にアニメに出てくる吸血鬼を連想した。日の光を浴びて灰になる様を。


 彼女は吸血鬼ではない。サキュバスでもない。しかし、色素欠乏症だ。太陽の光に弱いという知識はあった。彼女が直接太陽の光を浴びているところを見たこともなかった。もしそうしたらどうなるか、わからなかった。灰になることはなくても、何か取り返しのつかないことになるのではないかと恐怖した。慌てて、彼女の体を突き放した。力を入れすぎたのだろう。彼女は地面に尻餅をついた。


 目が合う。青い瞳が彼を見上げる。悲しげな瞳。痛みに耐えるような瞳。


 彼は顔が熱くなるのを感じながら、目をそらした。Tシャツの袖を掴んで立たせる。日傘を拾って持たせる。


 ありがとう、優しいんだね、と彼女は言った。


 優しくない、と彼は言った。


 優しいよ、と彼女は言った。


 優しくない、俺はインキュバスだぞ、と彼は言った。


 インキュバス、と彼女は繰り返した。それってなんなの。誰も教えてくれない。


 当時の彼にはうまく説明できなかった。しどろもどろになりながら、自分の髪や目の色について話した。両親とは違う色の髪と目について。


 それならわたしはサキュバスだね、と彼女は言った。


 サキュバス、と今度は彼がおうむ返しに呟いた。


 そう、インキュバスの女の子はサキュバスって言うんだって。君がインキュバスならわたしはサキュバスだよ。だって、こんな変な色なんだもん。


 彼女は、サキュバスはそう言って毛先を掴んだ。


 馬鹿みてえ、と彼は言った。サキュバスが何かも知らねえくせに。


 いいじゃん、と彼女は砕けた口調で言った。わたしが勝手に名乗るだけ。ちょっと、かわいい名前だし。ね、いいでしょ。


 彼女はにかっと笑った。


 なんで俺に聞くんだよ、と彼は顔をそらした。もう本当になんなんだよ。早く行けって。


 うん、またね。


 そんな風に声をかけられるのははじめてだった。誰かに再会を願われた記憶なんてなかった。


 ああ、また、と彼はぎこちなく言った。学校で、と付け足す。


 彼はそれを最後に駆け出した。さっきからずっと顔が熱かった。きっと赤くなっている。これ以上、無様な様を見られたくなかった。


 なぜだろう。なぜ顔が熱くなるのだろう。だけど、さっきとは何かが違う。


 それが恋心だと理解するには、少し時間がかかった。

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インキュバスの純愛 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick

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