インキュバスの純愛
戸松秋茄子
本編
たまに淫夢を見る。
出演者はいつも同じだった。インキュバスとサキュバスだ。ハーフと思しき美少年と、
わたしはサキュバスの顔を知らない。数年前の冬、家の前で行き倒れていたインキュバスの世話をしてやったとき、おおよその印象を伝え聞いただけだ。
――俺は思わず言ったよ。馬鹿、野良猫じゃないんだぞってな。子供なんて三人もいれば十分だ。そうだろ? カラスに食われちまうわけでもあるまいし。まったく、十一人だぜ? サッカーチームじゃあるまいし、そんな大人数作ってどうするんだよ。誰がそれだけの人数を養える? 面倒を見きれる?
わたしは二人の情事を、ベビーベッドの柵越しに観察する。
整った顔立ちに、若く健康的で肉付きのいい二つの肢体。
ショービズ界で引く手数多だろうカップルが激しく求め合うのを、わたしという視点はただただ傍観する。
夢を見ているときは、状況の奇怪さに気づかない。中年女のわたしがベビーベッドに収まるような大きさになっていることにも。
――あれは――何歳くらいだったかな。九歳、十歳くらいか。もうそれなりに分別がつく年だ。十一人もの子供を育てる大変さがわからない年じゃないだろ? なのに、あいつ嬉しそうに言うんだ。子供がいっぱいほしい。幸せな家庭の幸せなお母さんになりたいって。
その部屋はいつも同じ場所のようにも思えるし、まったく違う場所のようにも思える。広い部屋の気もするし、狭い部屋の気もする。床はフローリングの気もするし、リノリウムの気もする。
彼に貸した部屋に似ていると思うこともあった。夫が使っていた、六畳半の和室だ。棚という棚にぎっしりと映画のDVDが詰まった部屋。夫が失踪して以来、誰も寝起きすることがなかった部屋。彼が数日の間、寝起きし、簡単な別れのメッセージを残して去った部屋。いまはまた人の気配が消えた部屋。
――馬鹿なのは俺も同じだけどな。三人で十分だって思ってたのに、あいつがじゃあ十人、九人なんて値引きでもするみたいに言うもんだから、じゃあ七人までならって、そう答えちまった。
その場所がどこであれ、体位は決まっていた。正常位だ。ポルノビデオと違って、インキュバスがサキュバスに覆い被さるようにしていることが多い。俗に言う宣教師スタイルだ。
二人は何度も抱き合い、手をつなぎ、互いの頬を撫で、キスをする。たまにインキュバスが体を起こすと、首元で十字架のネックレスが激しく揺れるのが見える。サキュバスの首元にも、同じネックレスがかかっているのが見える。
数年前、彼がそのようなアクセサリーをしていたかどうかの記憶はない。彼らの地元にプロテスタントの教会があることや、住民の多くがその信徒であること、サキュバスが牧師の娘であることから、そうしたイメージが形成されているだけかもしれない。
――もちろん、子供の口約束だ。そんなの何の意味もない。だけど、あいつはずっと覚えてたんだ。七児の父になるって約束したじゃないって。嘘ついたら針千本だって。もう高校生だってのにさ。おかしいだろ。子供を作るってのがどういうことかわからないわけでもないのに。
サキュバスの父はきっと彼らの関係を許さないだろう。インキュバスは地元でも悪名高いプレイボーイだった。淫魔。インキュバス。そう呼ばれるほどに節操がなく、しかし後腐れのないセックスの作法に通じていた。
彼はわたしをも口説こうとした。捨てられた子犬のような哀愁を漂わせながら自分の身の上を話し、さりげなく肩に手を置いたり、意味深に微笑んでみたりした。
それはきっと本能のようなもので、彼の基本的なコミュニケーションであり、処世術なのだろう。彼は若く、そして美しかった。だから、そういうことができた。
東京ではずっとヒモのような生活をしていたというが、それは彼にとって容易いことだったのだろう。雨風をしのげる屋根の下に潜り込むためなら、自分の母親のような年齢の女とも平気で関係を持つのだろう。
誰でもよかったのだ。彼が愛した唯一の女、サキュバス以外なら誰でも。
――俺はあいつを汚したくなかった。守りたかったんだ。俺の汚い欲望から。あいつにはいつまでも、七児の母になる将来を夢想して笑っててほしかった。だから俺はインキュバスになった。本物の淫魔に。欲望のはけ口が必要だったんだ。あいつ以外の。サキュバス以外の。俺にとってはどうでもいい、人間の女たちの。
室内にはぺちぺちという間の抜けた音が響く。そこに彼らの喘ぎ声がアクセントを添え、やがて、他の音をかき消すほど大きくなる。絶頂へ向けて、どんどんどんどん大きくなる。
――汚してって、あいつは言った。わたしを汚してって。一緒に汚れようって。俺は――できなかった。つまり、やろうと思えばできたし、体は準備が整ってたんだ。だけど、できなかった。頭の中を、あの夢がよぎるんだ。ガキの頃に見た夢。あいつに覆い被さる夢を。最高に気持ちよくて、満たされて、だけど最悪の気分になる夢を。あいつを汚しちまった罪悪感で死にたくなる夢を。
わたしはその瞬間を待つ。二人が絶頂に達する瞬間を待つ。しかし、インキュバスは永遠に腰を降り続け、喘ぎ声は際限なく激しくなっていく。
――俺はやっぱりいじめっ子たちの言う通りの奴だったんだ。親父にもお袋にも似てない子供。明らかにハーフの子供。インキュバスが孕ませた子供。インキュバスの子。本物のインキュバス。だから、あいつとは違うんだ。
ベッドが揺れ、軋み、部屋全体が揺れはじめる。まるで地震のように部屋全体を揺らす。近くで火山が爆発したような大きな声で喘ぐ。
――あなたがインキュバスならわたしはサキュバスだねって、あいつは言った。自分も人と見た目が違うからって。両親とは違う「色」の子供だからって。もちろん、色素欠乏症ってのは突然変異みたいなもので、普通の両親からだって生まれうる。明らかに海外の血が入ってる俺とは話が違う。どこかの外人がお袋に孕ませただろう俺とは。そのくらいのこと、あいつも俺もわかってた。だけど、それでも、あいつは俺を救うためにそう言ってくれた。サキュバスなんてろくに意味もわかってなかったくせに。
それははたしてどのようなものなのだろう。
激しさを増す情事を眺めながらそんなことを思う。
わたしは傍から見ているだけだ。自分が直接それを経験できるわけではない。それでも、二人の声や仕草、表情から、それがどのようなものであるかわかるかもしれない。ポルノビデオの演技とは違う、本当の愛とエクスタシーがどんなものであるかわかるかもしれない。
そんな期待があった。
――あいつは俺の天使で聖母だった。だから汚せなかった。汚したくなかった。
インキュバスと出会い別れた数年後、彼から年賀状が届いた。知らない住所と知らない名前。怪訝に思いながら裏返すと、そこには赤ん坊の写真がプリントされていた。少し髪の色素が薄い赤ん坊の写真だ。両親の姿はない。
しかし、説明は必要なかった。彼が写真に添えたメッセージに気づくより早く、わたしはその赤ん坊の両親が誰であるかを悟った。
インキュバスとサキュバス。
彼らはつがったのだ。そうでなければ、赤ん坊の存在に説明がつかない。彼らの精子と卵子が出会わずして、この子は生まれ得ない。
その事実に、わたしは震えた。いったい何十年ぶりだろう、涙が溢れた。
子供がほしいと思ったことはない。閉経したいまとなっては望んだところでどうしようもないし、そのことを後悔もしていない。夫が失踪し、義母が死んだいまでも、五匹の飼い猫に囲まれてわたしは幸せだ。夫の実家は一人で住むには広すぎるが、孤独を感じることはない。
何かが欠けていたわけではない。しかし、なぜだろう。彼らの子供を見たわたしはどこか切ないまでの喜びを覚え、それを話す相手がいないことを少し残念に思った。可能ならば、彼らの年賀状を手に世界中を旅し、彼らが結ばれたことを触れ回りたい気分だった。
そして、その日から淫夢を見るようになった。ベビーベッドからこっそり彼らの情事を盗み見るようになった。
――泊めてくれて、ありがとう。ご飯おいしかったです。あなたに話して少しすっきりしました。一度故郷に戻って、あいつともう一度話してみます。インキュバスより。
柵の向こうで、インキュバスとサキュバスはますます激しく求め合う。
わたしはその瞬間を待ち続ける。二匹の美しい獣が、愛の幸福に打ち震えるその瞬間を。
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