大雨と、死にたい私と、先生と。

夕凪霧子

クライマー


 特に大きな理由もないのに死にたいと思い続けながら生きるのって、なんて苦しいことなんだろう。

 高校生の頃の私は、常にそんなことを考えていた。そういうことを考えないと生きていけなかった。


「とりあえず、それを続ければいい」

 私にとって最高に残酷で、でも、何故か心に深く突き刺さる言葉を吐いたのは、私が通っていた高校の先生だった。学校の先生という人間は、とりあえず死ぬなとか、生きてたらいい事あるかもよとか、そんな曖昧な綺麗事を並べるのが普通だと思っていた。何が普通で何が常識かなんて今でもよく分からないけど、当時の私は少なくともその先生は先生らしくない先生だと思った。

 その先生のことを紹介しながら話を進めていこうと思う。


 先生は一年生の時から隣の隣の、更に隣のクラス(私の通っていた学校は珍しくクラス替えがない)の担任をしていて、顔を見て頑張って名前を出せる、くらいのレベルで話したことは一度もなかった。一度、廊下で先生が私の友達と他愛のない話をしていて……、というかチョコ菓子について語っていて、それを聞いて変な先生だという印象がついたのは、何故か今でも鮮明に覚えている。

 二年生になって初めて、先生が私のクラスに授業しに来ることになった。それでも特に私の中での先生の印象は変わらず、“隣の隣の隣のクラスの担任をしている変な先生”だった。

 しかし何回か先生の授業を受けるうちに、先生は変な人じゃなくて話すのがとても上手くて面白い人だということと(もしかしたら変な人かもしれないとはたまに思ってたけどまぁ気にしないことにして)、その性格からか結構人気があるということがよく分かった。そして、生徒を大切にしているということがよく伝わってきた。私がその先生を気に入ってるとか、好きだ嫌いだとかは置いといて、とても好印象だった。

 一番前の席で話を聞いているうちに、いつも誰かと喋ってて面白い先生と、友達も少なく人前で話すのも苦手な冴えない私の、唯一の共通点を見つけた。

 それは、生きるのに積極的じゃないという事。

 先生は「いつ死んでもいい」人間だった。だから、私はこの先生にちょっとした悩みを話してみようと思えた。妙に幸せオーラが出てる人や、個人的に気に入っててよく話す人には、接し方が変わるのが怖くて相談したくなかった。


 私の悩みは少し恥ずかしいので割愛するが、とりあえず家庭環境に関わることだった。先生は話し上手だと前に記したが、聞き上手でもあった。恥ずかしいことながら、私はちょっぴり……いや、ちょっぴりの限度を超えるくらい、泣いた。そして自分で思ってるよりも遥かに話し下手だった。悩みを相談するということ自体が初めてで、とても怖かったというのもあったんだろう。でも、上手く話せなくてもしっかり聞いてくれた。それから、「自分は別のクラスの担任だから、貴方の担任にも知ってもらいたいんだけどいい?」と言われ、断っても迷惑だろうと思い担任にも話すことになってしまった。

 担任は、“幸せそう”で、私が個人的に“気に入ってる人”という人だった。無理、話せない。話したくない。そんなことばかりが頭の中をぐるぐる回っていて、泣くことしかできなかった。そんな私の姿を見て、いつも笑顔の私しか知らない担任は驚き戸惑ったことだろう。今でも恥ずかしくて消し去ってしまいたい思い出だ。そんな中、話せないことを察してくれたのか、先生は最初の触りだけ担任に説明してくれた。何も知らなかった担任は、少し事情を知ってる担任になって。それだけでも、すごく話しやすくなっていた。

 私は言葉に詰まりながらも少しずつ話し、先生はたまにフォローをしてくれた。担任は学校が閉まる時間なのに、しっかり聞いていてくれていた。話し終え、なんだか最悪な気分だった私に、先生は空気をガラリと変えるような笑わせることを言った。

「うわ、真っ暗。……学校で肝試しって絶対楽しいですよね、今度やりましょうよ」

「先生と俺で?嫌ですよ」

「いや、三人で。先生絶対怖がるし俺一人で対処できない……」

 そんなことを、先生と担任は話していた。この重い空気が少しでも消えるように気をつかってくれているんだ、と感じ取れた。学校を出たのは、普段学校が閉まる時間の30分くらい後の20:30頃だった。


 その頃から私は、自身で肌に傷を作ったりしてしまっていた。いわゆる自傷というやつだ。その傷が治りかけると、もう一度同じところに傷を作った。それは卒業しても続いて、本格的にやめられたのは20歳になった頃だった。その時は分からないのに続けることしかできなくて、負のループだった。先生も自傷のことは知っていたが、特に何も言ってくることはなかった(たまにやりすぎな時は止められた)。

 行為そのものを非難することは絶対になくて、毎回「頑張ったね」と傷を撫でてくれた。私は毎回見せてと言ってくるので渋々見せていたが、その言葉を貰えると心が暖かくなって、傷を作る頻度が少なくなった。

 自傷をし始めた頃から少し経ったら私は完全な不登校になってしまい、学校を辞める瀬戸際までいった。正直、当時はやめてもいいと思ったし、先生にも「本当に辛くてしんどいなら、やめてもいいと思う。それに学校はやめても死にはしないからね」と言われていた。それにこんなに休んで、今更戻れないと思った。けど、不登校になる前に担任に「一緒に卒業しよう、約束」と言われたことがどうしても忘れられず、出席日数をまだどうにかできる頃に5ヶ月ほど行っていなかった学校に行った。

 理由を聞かれたらどうしようというのが大半を占めていて、とても怖かったのを覚えている。しかしさすが高校生、そんなズケズケと聞いてくるクラスメイトもおらず、優しく迎え入れてくれた。あまり勉強が難しい学校でもなかったため、勉強もすぐ追いつけた。


 ただやっぱり死にたいのは変わりなくて、どうしてだろうとよく思い悩んだ。家庭環境の件はほとんど解決したに近いし、学校は行ったら別に嫌いじゃない。じゃあなんで死にたい?私は何が嫌で、こんなにも死にたいという感情が強いんだろう?自分が分からなかった。理由もないのに死にたい感情だけがあって、自分が生きてる意味がよく分からなくて。最終的に自殺もしようとしたりして。こんなに疲れる人生、生きてて無駄だと思った。私はその考えを先生に呟いたことがある。

「なんで生きてるんだろう、私」

「今死んでないからだよ」

「理由ないけど、とにかく死にたい」

「今までそれを続けてきたんだよね、とりあえず継続継続。でもどうしようもなくて、死ぬしかないって思ったら教えてね」

 理由なく死にたい私にどんな言葉をかけたらいいのか、困っただろうな、と今では思う。気を紛らわすことが一番だと思ったのかもしれない。

 でもそのおかげで、ずっと死にたかった私は、そろそろ21歳になる。先生とはたまに遊びに行っていて、関係が途切れていない。これからも私みたいな人を救ってほしいな、と陰ながら応援している。そんなことを本人に言うと、「他の人を応援できるって、随分元気になったね」と笑うんだろうな。



 私が自殺しようと思った時は、超大型の台風が接近している時だった。学校のベランダの柵に手をかけたところで、部活終わりの先生に偶然見つかった。

「落ちる前に見つけられて良かった。ごめんなさい、わがまま言います。お願いだから生きてほしいです。死なれたら俺が一番気にかけていたのに、って一生悔やむし、とても悲しい。卒業しても、学校やめてもいいから、いつか一緒にご飯食べに行きましょう」

 そう言った先生は雨で濡れていてよく分からないけど、泣いているように見えた。私は自殺する気がなくなって、雨に当たりながらも教室に戻った。そんなことをよく覚えているし、その時に私は自分で死ぬことはできない、と悟った。


 未だに私はたまに、死にたいな、とぼんやり考えながらも生きている。でももう、それでいいやと思っている。少なくとも私は、自分で死ぬことはできないから。


 たくさんのことを経験してきて、私が皆に伝えたいのは、死にたいと思うことを継続しながらも生きていくという選択肢もあるんじゃないかな、ということ。なにか本当に辛いことがあったら、冷静になって周りをよく見て、頼れそうな人を探すといい。でも、もし本当にいないなと思ったら、最後には逃げてしまうのもアリだと思う。

 そうやってたくさんたくさん考えたあとに、そういう道を選ぶなら、私はそれを肯定したいし、「頑張ったね」と言ってあげたい。


 __そう、全国の死にたい人に送りたい。

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大雨と、死にたい私と、先生と。 夕凪霧子 @kiriko_yunagi

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