みなものそら
相沢
Northern Lights
体がかすかに揺れを感じる。カナダ人ガイドのルカが俺のふとももを軽く叩いている。
ああ、もう着いたのか。
隣で俺と一緒に座っているリュックサックを背負い、車を降りる。びちゃっ、という音と共に地面に足をつける。目の前に広がるは、広大な湖。しばらく周りを見渡した後に、俺は自分の口が半開きになっていたことに気付いた。
「……おい!」
ルカが車から荷物を下ろすのを手伝えと言っている。
「ああ、すまない」
「重いぞ、ふんばれ」
「んんっっ!」
「よし、あとは俺がやるよ」
「わかった」
車の荷台から降ろした食料品をヨットの甲板に投げ込み、俺はルカの後ろをついて歩く。
ルビウス・ハグリッドをひとふた回り小さくしたような(それでも百九十㎝はあるだろうが)カナダ人ガイドは、息ひとつあげずにヨットが乗ったトレーラーを押し続け、「ここでいいか」とヨットを湖のほとりに浮かべる。
「忘れ物は?」
「心配ない」
「そうか、何かあったらすぐ呼べよ」
「ん、ああ」
「じゃあな、〝ダイスキ〟!」
そう言ったルカはいかついピックアップトラックに乗り込み、そのまま行ってしまった。
「〝大輔〟だっつーの……」
軽くため息をついてそう呟く。彼が乗っていった車は、もう見えない。
「やるしかないんだよな……」
一歩目が重い。二歩目はもっと重い。今背負っているリュックの中身は空っぽ同然だというのに。オーロラを撮影するという目的さえも忘れてしまいそうになる。
そうだ、本当なら、カメラも、食料も、全部このリュックの中に入っていたはずなんだ。
海外での荷物の取り違えはよくあるものだとは聞いていたが、まさか自分がそれに遭うとは思いもしなかった。カメラマンを始めてからの夢であったオーロラのタイムラプス撮影の予算がつき、奮発して買ったビデオカメラもその他の撮影機材も全て、恐らく今はスーツケースに入って行く先も分からず世界旅行中だ。自分の手元に戻ってこなくても、優しい人の手に渡ってくれたらせめてもの救いというものだ。
そんなことを考えている間にも足は進む。俺は舟に一人乗り込んで湖の真ん中へ向かう。エンジンを止めると、先ほどまでうるさかった音が、水と、周りの森に吸収されていく。甲板から身を乗り出すと、水底の倒木がはっきり見えた。透明度が高いのがよく分かる。
* * *
あたりが暗くなってきた。月明かりが水面を照らしている。使える撮影器材がルカから借りたタブレットと自撮り棒しかないが、落ちこんでいる暇はない。オーロラの発生する瞬間を撮影できなければ意味がない、良いカメラが無くても、とにかく撮影しなければ意味がない、と俺は思う。
撮影が何時間続くかわからないので、必要最低限のアプリ以外はアンインストールさせてもらった。
タブレットを自撮り棒にはめ込み、ヨットのマストをよじ登る。頂上まで登ると、自撮り棒の持ち手を柱の先に粘着テープで取り付ける。カメラを起動してレンズを空に向け、「タイムラプス」を選択する。赤い撮影ボタンをちょん、と押すと、ポンと機械的な音がして赤い丸が四角に変わる。頭上には無数の星が浮かんでいるが、目を落すと周りには灯りなど一つもない。真っ暗だ。
マストを降りてからもう一度空を見上げる。
「これで、いいんだよな……?」とつぶやくが、誰も、いや何も反応はしない。鳥や魚の一匹や二匹くらい、何かしら返してくれてもいいだろうに、と思って周りを見渡す。水面に緑色のもやがかかっている。空には同じ色の筋がうっすらと通っている。うっすらとだがよく見える。オーロラの発生だ。
「おお……」
思わず声が漏れる。
とりあえずは安心だ。高感度のカメラにはない味のある映像は、それはそれでいいかもしれない。
きっと大丈夫だ、と自分を納得させる。甲板に寝転ぶと、猛烈な睡魔に襲われる。最後に見たのは、緑色のオーロラの一部が激しく動き出し、赤、青、紫、そしてうっすらとした桃色に変化していく様子で、その光景は、空が引き裂かれていくようにも見えた。
* * *
優しい光が肌を刺し目が覚める。空は夜とはうってかわって真っ青だ。撮れた映像を確認しなくては、と思いマストの先を見上げる。
……? ……!
「な……」
昨日の夜には上を向いていたはずのレンズが下を向いているじゃないか。
「おいおい……まじかよ……はは」
マストに登ってテープをはがし、自撮り棒ごとタブレットを回収する。録画はずっと続いていたようだが、途中でタブレットが下に傾いてしまったようだ。確認すると、角度を固定するためのジョイントがゆるゆるだった。
六時間の映像はタイムラプスにすれば三十分程度にしかならない。急いで映像を確認する。
動画の最初にはオーロラがよく写っていた。が、動画が始まって二分ほどのところで画面ががくん、と動いた。時間からして、俺が眠りについてすぐのことだった。
「ああ、クソ……」
舌打ちをし、顔を手で覆う。なんでこうも悪い事続きなんだと思いながら、覆っていた手を放してもう一度タブレットの画面を見る。
真っ暗な画面に緑と赤色の筋がすっと通っている。
「オーロラが、写ってる?」
確かに画面には緑色や赤紫色が揺らめいているのがわかる。間違いなく、あのオーロラだった。
「なんで……」
しかし、何か違和感がある。オーロラだけでなく、真っ暗な背景もいっしょに動いているような、そんな不思議な感じがした。
……水だ
そうだ、これは空じゃない。オーロラが湖に反射しているんだ。空以外からの光が全くなかったから、水面が空のように見えたんだ。
画面には空なんて一切写っていない。だが、水面に反射したオーロラは空に浮かんでいたものよりも色同士の境目が曖昧で、その薄桃色の先端がだんだんと広がっていく光景は、誰にも見せたくない、独り占めしてしまいたいと思えるほどに、幻想的で美しい眺めだった。
残りの二十八分はあっという間に過ぎた。疲れているわけではないが、俺は無意識に帰ろう、と思い、ルカに電話をかける。
「よお」
「ん、随分と早いな。迎えは明日だが、何かあったか?」
「ああ、もういいんだ。迎えに来てほしい」
「良いオーロラが撮れたようだな。こっちからも見えたが、ありゃ初めてだ。あれほど綺麗なのは、俺でも初めて見たよ」
思わず笑みがこぼれる。
「なかなかのものが撮れたよ」
「そういえば、その撮れた動画、どこかに投稿でもするのか?」
電話を耳から離し、少し考える。
「さあ……どうしようかな」
どうしようかとは言ったが、どこかに投稿するつもりなんてない。頼まれない限りほかのだれかに見せる気もない。この映像は、オーロラを見るためではなく、この日の、これを初めてみたときのあの感情を、そして昨日の夜から今日の朝のまでの記憶を思い出すために見ようと、そう思った。
みなものそら 相沢 @AisawaRokuto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
短編エッセイ集/小川初録
★3 エッセイ・ノンフィクション 連載中 8話
『旅』/苺香
★3 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます