第1章④

 O大学は南河内の高台にあった。

 二十以上及ぶ巨大な棟で構成され、三方の入口はいずれも急な坂道になっている。パンフレットによれば、教育学部や文学部、社会学部、薬学部がアリの巣穴にように枝分かれした学科をそれぞれに抱えているらしい。この威容に、七尾は巌山に築かれた山城のような印象を持った。

 この異形の城に、狼谷龍彦がかつて居たのだ。

 七尾は何百年も前の武将の如き男を、未だ目にしたこともない狼谷という男に重ねた。奇怪な発想と筆法で己を表現する怪人はきらびやかな兜や鎧に身を包んで、その顔や手に持った刀を返り血で汚し、恍惚とする一個の怪物のような豪傑へと七尾の頭の中で虚像を取った。

 七尾は早速、教育学部の共同研究室に向かうことにした。『若葉』紙によれば、狼谷は教育学部の出身らしい。当時の狼谷を知る教授を介して、狼谷の連絡先を知ることができれば良し。不可能でも、入学希望者だと偽り、図書館で狼谷の読んでいた可能性の高い本を見つけて『辿れ』ばいい。

 考えるほどに気が遠くなりそうだった。しかし、他に手立てはない。そもそも自分が容疑者の第一候補なのに、警察のように捜査したり、ましてや本家に顔を出して事件のことを嗅ぎ回るなど、事態を余計に悪化させるだけだろう。

 七尾の持つ「切り札」と「狼谷龍彦なる人物の情報」。これだけが警察や親族たちよりも明確に優位になる手札だ。

 やるしかない。

 共同研究室に赴いた七尾は、中にいた女性の助手に名乗った。

「電話でお伺いした、七尾と申す者です」

 七尾はそういうと、電話口で話したのと同じように、狼谷龍彦を学生時代に教えていた教授に会うために来たこと、可能であれば狼谷に連絡する方法を教えてほしいことを告げた。

 助手は席から立ち上がると、席にかけるように促す。そして「笹山をお呼びしますね」というと、部屋を出ていった。

 大学の研究室らしく、部屋の長机の上には冊子や講義のためのものと思しきプリント、そして書籍が山と積まれていた。

 典型的な内装だろう、と七尾はさして室内の様子には興味を持つことができなかった。ただ早く何かしら事態を好転させてくれる何かが欲しかった。

 さほど時間もかからぬうちに、助手が初老の男性を連れて部屋へと戻ってきた。柔和そうな表情を浮かべた白髪の男だった。

「はじめまして、七尾です」

「よくいらしてくださいました、笹山と申します」

 互いに尋常な挨拶を済ませる。笹山は七尾の正面の席に腰掛け、手に持った冊子を机の上に置いた。

「こちらの写真について、お聞きしたいことがあるとのことでしたね」

 助手が机の上に置いたコーヒーカップを右手で手繰り寄せつつ、笹山は冊子―― 七尾のものと同じ表紙の『若葉』紙――を左手で開く。

「はい。どうしてもこちらに写っている狼谷さんにお聞きしたいことがありまして」

「彼の作品の読者の方でしょうか」

「いいえ。読んだのはこちらに掲載された『人体全書』だけで、読者というほどでは……」

「そうでしたか。てっきりファンの方がお見えになられたのかと」

「今までもそういった方が?」

「問い合わせが一度ありましてね。実際にいらした方はありませんでしたが、可能性として」

 笹山はコーヒーを一口飲むと、言葉を継いだ。

「残念ですが、この写真の中にくだんの人物はいないのです」

「いない?」

「ご事情があったようで、授賞式の撮影には来れなかったようです」

「そうでしたか」

 どうやら、この不鮮明な授賞式の写真すらも用をなさなくなってしまったようだ。となると何としても眼の前の老教授を口説き落とし、狼谷龍彦の連絡先を教えてもらうか、できるなら会うための渡りを付けてもらうほかない。

「なんとか狼谷さんと連絡を取りたいのですが」

「残念ですが」

 笹山は目を伏せながら、しかしはっきりと言った。

「卒業生とはいえ、生徒の個人情報を勝手にお教えするわけには行きません。ましてや、彼は文筆家ですから」

「……そうですか」

 当然である。卒業生とはいえ、学生の個人情報を会ったばかりの人間に教えられるわけが無いではないか。ましてや、卒業生である怪奇作家と連絡を取って、何を相談するつもりなのか。眼の前の老教授には無想だにできないだろう。

「ただ」

 笹山は片目をつむりながら、言を続けた。

「本校の生徒である神谷龍彦くんが、あなたにお会いしたいと申しています」

「どういうことです?」

「作家・狼谷龍彦くんの本名です」

 漢字ではこう書きます、と机の上のコピー用紙に「神谷龍彦」と笹山は書いた。そして天井を指差すと、七尾にこう告げた。

「神谷くんにあなたのお名前を伝えたところ、『ぜひお会いしたい。私の本名も伝えていただいても構わない』とのことです」

「神谷さんは卒業なさったのでは?」

「卒業後、本校の大学院生として入学しました。もっとも教育学部ではなく、文学部の方ですが」

「……そうでしたか」

 勿体付けている。七尾は内心で歯噛みした。

 眼の前の老教授の勿体つけた物言いも、いまだ正体を見せない狼谷龍彦――否、神谷龍彦か。どちらでもいい――にも、首尾よく面会できるにも関わらずいらだちを覚えはじめた。

「神谷くんは、この棟の三階にいます」

「この上ですか」

「気をつけてくださいね」

「気をつける?」

「生真面目で温厚な子ですが、複雑な部分もあります。七尾さんのお名前を出したところ目を見開いて、驚いていました。どういったことをお聞きするかは存じ上げませんが、ああいった反応を見たのは初めてです」

「荒れることはないかと思います」

 荒れませんよ、と七尾は断定はできなかった。あの祖父と何らかの関わりを持ち、事件に関わりの濃厚な『人体全書』について深く知悉している人物である。

 ひょっとしたら、この事態の原因や、そうでなくてもなんらかの情報を知っている。そういうことも考えられた。

 もしそうならば、何が何でも神谷から『人体全書』のことを聞き出すだろう。――吐かないならば、多少力付くででも。

 笹山に挨拶を済ませると、七尾は三階への階段に足を運ぶ。人の出入りが少ないのか、階段の両端は薄っすら埃や紙屑の欠片が落ちていた。

 三階は人の出入りが極端に少ないためか、電気もつけていない。七尾は歩みを進めながら各部屋のプレートを見遣る。

 「社会学部大学院生室」「広報企画室」といった無機質な文字列と、人の気配のしない部屋の扉が重苦しい雰囲気を醸し出し、七尾は否が応にも神谷への警戒心が高まっていく。

 三階にたどり着いておよそ三十二歩。「文学部大学院生室」と書かれた部屋の前に着いた。扉のガラス部分は曇りガラスになっており、中の様子は一切わからない。しかしドアの最下部の隙間からは明かりが漏れており、中に何者かが――間違いなく神谷が――いるのを感じ取った。

 意を決してドアの前に指を遣り、ノックをしようとする。すると機先を制するかのように中から声がした。

「開いてるよ。入り給え」

 予想していたよりも掠れた声だった。それでいて威圧感をかけ得るような声の張り方ではない。七尾はドアノブに手をかけると、ゆっくり扉を押す。ギィィ、と軋むような音を立てて扉が開いた。

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人体全書 佐々木 藍青 @purelove

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