第1章③
「なんだ、これは」
七尾は『若葉』誌の誌面を見つめながらそうつぶやく。
作品の内容はなんでもないホラー小説だ。せいぜいが一万文字にも満たない短編小説。実生活ではさして太い人間関係を築けていないのだろうか、三島、澁澤、森という三人の会話は人間的な厚みや会話の精細さを欠き、また余分な形容詞が配された読みづらい文章に加えて歯切れの悪い描写が素人目にも目立った。
しかし、『人体全書』から腕が伸び、それが語り手である澁澤を殺そうとする一連の場面は、選評の通りリアリティがあり、発想力と描写力が光っているようにも見えた。
問題はその作品名と、登場する書物のタイトルだ。
『人体全書』、そして著者である殺人鬼R・Kなる人物。
この著者が同名の著書の持ち主である祖父から材を得てこの小説を書いたというのならばまだ理解はできる。しかし祖父のメモを見るに、この作品が書かれたときには、作者の狼谷と祖父の間には面識がないように思われた。何より極めつけはこの小説の中で書かれた文言だ。
「密室になっていた私室内で何者かに、 鋭利な刃物でめった刺しにされて亡くなったそうだ。 犯人の侵入経路は不明。」
「その次の持ち主は、 厳重に施錠した金庫の中にこれをしまっていたそうだが」
これらの文章は、祖父の死の状況と異様に合致しているように思われた。鋭利な刃物によって滅多刺しにされ死んだ祖父。そして祖父の部屋からは書物が忽然と姿を消している。
これは果たして偶然なのか。あるいは何らかの仕組まれたものなのだろうか。
『若葉』の奥付には「2022年2月発行」の文字と、「受賞者一覧」に五人の名前が記載されていた。合わせて受賞者が学長らしき初老の男性と撮影した写真がある。つまりは事件が起こる二年半前にはこの作品は存在している。真っ先に考えられることとしては、狼谷なる人物が作品の価値を上げるために作中の事件を実際に引き起こし、評判を得るために行った犯行であるという説である。
だがすぐにそんな考えを七尾は否定した。仮に狼谷なる人物が犯行を引き起こしたとして、一大学の機関誌に掲載した作品を宣伝するために殺人という最も重い犯罪を犯すだろうか。第一、宣伝したところで稿料もなければ印税といったもない。それどころか警察にこの作品の存在が知られれば、真っ先に容疑者に挙げられうる危険極まりない行為である。
第二に、この作品を読んだ何者かが影響を受け、更に同名の著作を所持する祖父を殺害。『人体全書』を持ち去ったという強盗殺人の線だ。
こちらも有り得まい。そこまで優れた作品というわけでもなし、狼谷の作品を読んだとて、そこから祖父につながる動線は何一つないのだ。
どうあっても狼谷なる人物やその周辺の人物が犯人という線は薄いように思える。しかし、同時にこの狼谷と、祖父は確実に何らかのつながりを有している。そして『人体全書』なる書物が実在しており、それを所持している可能性が極めて高い。
『若葉』の巻末を再び見遣る。受賞者が五人いるはずなのに、写真には若者は四人しか写ってない。この写真の中に狼谷は居るのだろうか。この雑誌によれば、二年前の段階で狼谷は四回生のようで、すでにО大学には在籍してはいないだろう。しかし、狼谷を知る教授なり後輩なりは居るはずだ。
調べなければならない。七尾は四枚のメモを『若葉』誌に挟み込み、次いで『若葉』誌を丸めてポケットに入れる。
人を殺すという本『人体全書』、それを著したR・Kなる殺人鬼。未だ犯人のわからない祖父の死。
すぐに答えがわかるとは到底思えない。だがこの漠然とした状況を打開するには、奇妙なる、正体の定かならざる狼谷龍彦を頼るほかはないだろう。
一旦それらの情報を頭の片隅に追いやり、七尾は荷の整理を再開する。不思議と、暗雲の如き不安に覆われていたココロに、か細い光が一条差したような気がした。
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