溺れるよう程の毒のような恋をしたい

天野最中

きっかけは突然に

 暑い夏の日差しがウザったらしい七月のある日の放課後。

 誰も居なくなった教室で、僕は窓の外を見ていた。

 窓の外には、五十メートルプールが見え、そこで今日も水泳部が大会に向けて練習をしている。

 何処の学校にでもありふれていそうな光景を、僕は意味もなくただずっと眺めていた。

 ……いや、意味がないわけではないか。

 僕がどうしてここでプールをずっと見つめているか、その理由は実に単純なものだ。

 水泳に憧れているだとか、知り合いが所属しているかとかじゃない。

 気になっている女性がいる。

 ただそれだけの、思春期の男ならばごく普通な理由だ。

 これが恋なのか、それとも一人間としての憧れなのかはまだ僕には分からないが、それほどその女性は僕という存在に大きな影響を与えた人間なのだ。

 そんな彼女、菊池環に出会ったのは今から三か月前の入学式のこと。

 彼女はその入学式で、在校生代表として僕らの前でスピーチをしていた。

 内容はこれまた何処の学校でもやっているつまらない内容のものだった。

 僕はまだ続くのであろう退屈な学校生活の始まりに嫌気が指し、話を聞き流していた。

 しかし、彼女は話が後半に差し掛かったであろう瞬間、スピーチを途中で止め、手に持っていた台本を演台の上に置いた。

 教師達にも彼女の行動は予想外だったようで、体育館中にどよめきが走る。

そんな空気を彼女は物ともせず、不覚を息を吸ってから、再び口を開いた。


「貴方達新入生は小中といったかなり狭く、そしてよく似た世界の人達とばかり触れ合ってきました。

 ですが、高校ではより広く、そしてかなり異なった世界の人と出会い、友人が出来る。その過程で貴方達の心の中に持つ世界は、様々な色や形に変化していくでしょう。

 部活、勉強、趣味、資格等、多くの青春という要素があなた達を変えていく。その経験から出来会ったがあなた達の世界は、決してどれも同じ色や形にはなっていないでしょう。それが『個性』というものなのだから。

 これから始まる三年の間に、貴方達が成長し、変わっていった世界の形が、胸を張って誇れるものになってくれることを願います」


 その言葉はどうせつまらない、代わり映えのしないテンプレート通りだろうと思って聞き流そうとしていた僕の耳を、意識をがっしりと掴みとった。

 ハッとして顔を上げると、壇上で自信満々にスピーチを締めようとしていた彼女の姿に、僕の目は奪われた。

 少し焼けているものの、美しい白さの残る肌。

 美しい桜色の髪色は、外で咲き誇る桜を容易く想像できるほどに綺麗だった。

 開けている窓から入る風で髪がなびくと、もはやそれは桜の花が風に運ばれているようにしか見えない。

 そんな印象的な出来事があり、僕の心は彼女という存在を胸に焼き付けてしまったのだ。

 それからというものの、僕は何かと彼女の事を考えてしまう。

 恐らく、これが俗に言う一目惚れというものなのだろう。

 僕の世界が徐々に桜色に染まってきているのが分かる。

 でも、僕は無意識のうちに今にでも暴れだしそうな心を頭のどこかで否定し、抑えつけた。

 結局今日も僕は、ただただ水泳部が練習を終えるまで眺めていただけだった。

 気が付けば時計の針は五時を過ぎており、そろそろ僕も帰らないといけない時間だ。

 鞄を持ち上げてから、何気なく再びプールに目をやると、先程まであった桜色は何処にも無かった。

 帰ったのだろうか。

 それとも更衣室に入ったのだろうか。

 その答えが何であれ、もう今日の僕には関係が無いことだ。

 これからまた無色に戻る世界を憂鬱に過ごすことに悲しみを覚えながら、帰路につくのだから。

 さっさと帰ろうと空き教室から出る為に扉を開けようと手を伸ばすも、扉は誰かの手により先に開けられた。

 僕は何時もなら有り得ない事態に少し恐怖するが、次の瞬間には恐怖は驚きへと変わっていた。

 何故なら、扉の先にここまで走ってやってきたせいか息切れをしている、水着姿の桜色の彼女が居たのだから。

 しかも、僕がこの教室から何時も練習を盗み見ていたのがバレていた。


「はぁ、はぁ、はぁ……。ねぇ、君。何時……ふぅ。何時もこの教室からプールを見てるけど、もしかして水泳に興味ある?」

「いえ。興味ないです」


 僕は動揺を隠しながら彼女の隣を通り過ぎようとした時、手首を握られた。

 僕を握る柔らかい彼女の手は、女性らしいか弱い力ではあるが、運動をしている分少し強かった。

 僕はすぐにでもこの場を逃げ出したいから無理に引き剥がすのも考えたのだが彼女が怪我をするかもしれないので断念した。


「何ですか? 僕はもう帰るので離して貰えると助かるんですが」

「まぁまぁ、ちょっと待ってよ。君、一年生でしょう?」

「はぁ……確かに僕は一年生ですが、それがどうかしました?」

「なら、私が入学式でスピーチした内容覚えてる?」

「……中々興味深い内容でしたので覚えてますが。それとこれになんの関係が?」

「あの話には続きがあってね。っていうか今私が考えたんだけど。世界を色んな色や形にする為にはきっかけが必要なの。その為なら私は何をしてもいいと思ってるの」

「つまり、何が言いたいんですか?」

「後輩くん。君の名前は?」

「泉武蔵です」

「泉くんね、覚えたよ。私の名前は覚えてるだろうけど、もう一度自己紹介するね。菊地環、水泳部部長兼図書委員長よ!」


 何故ここで図書委員長であることを明言しているのだろうか。

 入学式の時と同じく、何を考えているのか全く分からない人だ。


「それでね泉くん!」

「何です?」

「今から少し泳いでみましょう!」

「……はぁ?」


 急に憧れの彼女が話しかけてきたかと思うと、もう日が落ちて寒くなる夕方に、僕を水泳に誘ってきた。

 気になってはいるが、いきなり踏み込む勇気がなかった僕はあの手この手で断ろうとした。

 しかし、努力の結果は虚しく、結局断ることが出来ずにずるずると引きづられるように彼女の後をついて行き、プールについた。

 プールには既に彼女以外の水泳部員は居らず、顧問であろう教師の姿さえ無かった。


「さっ、泳ぎましょう!」


 彼女は軽く準備運動をすると、未だ更衣室にも行かずにただ立ちほうけている僕に目を丸くしていた。


「泳がないの? 泉くん」

「先輩が勝手に僕をここに連れてきただけです。僕は最初から泳ぐとは言ってませんし、水着も持ってないです」

「水着持ってないの? あんなに泳ぎたそうにしてたのに」

「してないですから」


 彼女は「そうなんだ」と一言言うと、再びプールの中に入った。


「くぅー、流石に冷たいなぁ。泉くんもほら! 入らないでもいいからこっち来て」

「分かりました」


 僕は先輩に誘われるままに何の警戒も無く近づいた。

 だけど、それがダメだったのだろう。

 彼女は僕がギリギリにまで近づいてしゃがむと、僕の手を掴み、勢い良く引っ張った。

 お陰様で僕は制服を着たまま、冷たいプールの中に落ちてしまったのだ。


「プハッ。何するんですか先輩?!」

「ふふっ、ごめんごめん。やっぱり泳いだ方が楽しいかと思って」

「制服がビチョビチョなんですが。どうしてくれるんですか?!」

「後で乾かせばいいじゃん。それより、少し泳ごうよ。もう制服も濡れてしまって水の中にいるだから」

「先輩、最初からそれが狙いでしたね? …三t年はぁ。まぁいいでしょう。もう諦めました。最後まで付き合います」

「ありがとうね。それじゃあ━━」


 ━━それから三十分近くだろうか。

 制服を着たままであることを忘れ、彼女と共に太陽がどんどん沈んでいく中泳ぎ続けた。

 ルールを破った先に広がっていた非日常に、僕は久しぶりに童心に変えることが出来た気がした。


「ふぅ……先輩もう十分でしょう。もう上がりましょう」

「そう? まぁ時間も時間だしね。でも最後に……はい」


 彼女は僕に、水泳ゴーグルを投げてきた。

 何とかそれを手に取り見てみるとどうやらこれは彼女の物のようだ。


「最後はね。泳ぐんじゃなくてね潜るの。息が続く限り潜る」

「なんで潜るんですか。というか僕は水の中で目を開けれるん大丈夫です」

「あっ、そう? じゃあプールサイドに投げといて。私もいらないから」


 僕は首を縦に振って、勢いよくゴーグルを投げた。

 彼女が「ナイスボール!」とか言った気がしたが、恐らく気の所為だろう。

 これ以上、下手に相手をしたら体力が持たない。


「それじゃあ行くよ。苦しくなったら上がっていいからね。重要なことはたったひとつだから」

「何ですかそれは」

「水の中の世界を見ることよ」


 彼女はそう言い切ると、先に潜ってしまった。

 僕もそれを追うように大きく息を吸い込み、水の中に潜った。

 そして入る時に閉めていた目をゆっくりと開けて、彼女の方を見ると、そこには驚くべき世界が広がっていた。

 水の中でさえ綺麗な桜色の髪は先程までくくっていたゴムを外しているせいか、彼女の回りを取り囲むかのように広がっていたのだ。

 その姿を見たと同時に、僕の世界と心は動き出だした。

 世界は先輩の髪色と同じ桜色が染め上げられ、頭のどこかで抑えていた気持ちが溢れ出したのを感じた。

 そうか、ようやく分かった。

 僕は彼女に恋をしているということを。

 いいや、元から分かってはいたのだ。

 それを肯定することを初恋だからか分からないが、何かがそれを否定した。

 でも、それも今日までだ。

 僕は既に自覚して、さらに世界が桜色になったのにも気づいた。

 だからこそ僕は気持ちを伝えずに居られなかった。

 「好きだ」、と。

 しかしここは水の中の世界。

 好きだと言っても、彼女の下には届かない。

 彼女も「何だって?」と聞き返すかのように耳に手を当てていた。

 その姿もどこか愛おしくてたまらなかった。

 そんな彼女に見惚れている内に、僕は呼吸をすることさえ忘れてしまい、気を失ってしまった。

 彼女の美しさという毒に侵され、溺れてしまったのだ。

 幸いなことに、その場にいた彼女に助けられ、僕は死なずに済んだ。

 その後、偶然騒ぎを聞きつけた教師に見つかり、時間外に勝手にプールを使用していたことを彼女と一緒に怒られた。

 その間も何故か僕は、心が満たされており、楽しく感じていたのだ。

 これが『青春』というものなのだろう。

 そんな桜色の出来事が起きた日は、終始楽しいままで終わったのだった。



 翌日。

 放課後になった僕は、何時ものように教室に残らずに、新しい僕の居場所であるプールへと向かう。

 そう、あれから僕は直ぐに水泳部に入部したのだ。

 彼女と共にいれる時間を増やすために。

 プールへ着くと、そこには誰よりも早く来て義替えを終え、綺麗な桜色の髪を纏めた彼女の姿があった。

 その姿が見えた瞬間から、また僕の世界は桜色に染まっていく。

 恐らく、これからも僕はずっと、彼女に溺れる程の毒のような恋をし続けるのだろう。

 それがこの退屈な学生生活で見つけた、僕の世界を変える『きっかけ』なのだから。

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