満月の日の約束

むーちゃん

第1話

「ねぇ、ねぇってば」

「え、何?」

「さっきからぼーっとしちゃってどうしたの?」

「いや、ちょっと考え事をね」

「まさか他の女の人のこと考えているんじゃないよね」

「さぁそれはどうかな?」

「え…」

「ごめん、うそうそ。冗談だって」

「ひどい、最低!!」


25歳の冬、会社員の俺は毎日おなじことを繰り返して一日が終わることに飽き飽きとしていた。何か新しいことが起きないかと願っていたものの、その願いも空しく変わらない日々を過ごしていた。そんな俺が体験した不思議な物語。



午前の就業時間が終わった。

「お昼行ってきます」

「桜井くんはお昼になるといつも嬉しそうだね。いってらっしゃい」

今日はお稲荷さんが売っていてついている日だ。いつ食べてもお稲荷さんは美味しい。思わず2パックも買ってしまった。お稲荷さん食べればなんとか午後は乗り切れそうだ。

「戻りました」

オフィスには誰もいない。いつもなら五十嵐さんや近藤さんがいるはずなのに珍しいこともあるんだな。誰もいない代わりに午前中は無かったはずの全真教が置いてあった。買い物に出ている間に誰かが持ってきたのかもしれない。まあいい、一人でのんびりとお稲荷さんを味わうとするか。

「いただきます」

(ん!!この匂いは!!わらわの大好物のお稲荷さんではないか。どうしてこんなところでこの匂いが…なんと、あやつが食べておったか。ちょっとそこの旦那!旦那!!聞こえておるか?だめだ、鏡から話しかけても声がこもってあやつの元まで届かない。よし、こうなったらちょっぴり危険だが、お稲荷さんに出逢えるチャンスはそうそうにないからのう…それ!!)

「バタッ」

大きな音がした。音のした方に目を向けると先ほどの鏡が倒れていた。勝手に倒れることに違和感があったがそのままにしておくのは気が引けて鏡を起こすことにした。

「ふー。やっと気がついてくれたわい」

「え?」

「ここじゃよ、ここ」

「ん?」

「だからここだって言っとるではないか」

「まさか鏡が喋ってる?」

「ああ、そうじゃ。信じられないかもしれんが鏡の中から喋っておる。そなたが食べているのはもしかしてお稲荷さんではないか」

「そうだけど」

「よければわらわに一つ恵んではくれないかのう。昔から大のお稲荷好きだったのだが訳あって久しく食べていなくてな」

「お稲荷さん?別にいいけど」

「モノは試しと思ってお願いしてみたもののまさか貰えるなんて。お前さんの大事なお稲荷さんを本当に貰ってもよいのか?」

「本当はいつも1パックしか買わないのについついもう1パック買っちゃったから。あげるのはいいけど、どうやって食べるつもり?」

「おお、そうであった。すっかり忘れておったわい。申し訳ないがお稲荷さんをもっと鏡に近づけてもらえるかね」

「これでいい?」

「そうそう、は~この香り。たまらん。よし、これならなんとか出られるはずじゃ」

「出られる?」

俺がそう言うのと同時に鏡から眩しい光が放たれた。

「う~ん。久しぶりの外の空気は気持ちいいな。狭いところにいたから体が凝ってしまったわ」

「鏡から人間が、いや狐がでてきた?」

「わらわは女狐じゃ。ある時、鏡に閉じ込められたきり出られなくなって困っていたのじゃよ。お主、名はなんという?」

「“桜井直人(さくらいなおと)”」

「直人か、そなたのおかげで鏡から出ることができた。礼を言うぞ」

「ど、どうも」

「ではさっそくお稲荷さんを食べるとするかのう」

鏡からでてきた狐と一緒にお稲荷さんを食べているなんて絶対にありえない。きっとこれは夢。間違いない。お昼が終われば目を覚ますだろう。どうせならこの状況を楽しんでしまえばいい。久しぶりに俺の心がワクワクしているのが分かる。

「あのさ、失礼だけどあんたって悪い狐?」

「悪い狐だと?人聞きが悪い!なんでそう思うのだ」

「いや、なんか“悪さをした狐が石に閉じ込められた”っていう逸話があったのを思い出して」

「直人は物知りじゃのう。確かにあれは悪い狐で、尻尾が九つもあったんじゃ。強力な力を持っていたから“殺生石(せっしょうせき)”という頑丈な石に閉じ込められたのじゃ。わらわは見ての通り尻尾が一つしかないゆえ相手の力が弱くても、石以外の物にでも閉じ込められてしまう。閉じ込められる時たまたま近くにあったのが鏡だったってわけなのじゃ」

「なるほど。悪い狐でもないのに閉じ込められたというわけか」

「鏡に閉じ込められる前は人間に化けて生活をしていたが殺しはおろか窃盗などの悪行はせず人間に迷惑をかけないように過ごしてきたつもりじゃ。だからなぜ閉じ込められたのか今でも理由が分からんのじゃ。そうだ、せっかく鏡から出られたのだ、直人、なぜ閉じ込められたのか、その謎を一緒に解明してはくれぬかのう?」

無茶苦茶な話しだと感じたが俺の直感がこの人、いやこの狐の話すことは信用できると思った。

「俺が?力になれるか分からないけれどそれでもいいなら」

「直人はいい人間だな。助けてもらった相手が直人でよかった」

「最近楽しいこともなかったし、むしろありがたいというか…。ちなみにその姿だと周りからコスプレしていると思われて怪しまれるし、会社でその姿はさすがに言い訳できないし雇ってもらえないな」

「“コスプレ”とは一体なんなのだ?」

コスプレの意味を知らないとなると最近閉じ込められたわけではなさそうだな。

「まあ簡単に説明すると化けることかな」

「な、なんと。人間も化ける力をもっているというのか?」

「言われてみればそうかもしれないな。だからできれば狐の姿ではなく人間の姿の方がなにかと都合がいいってわけ」

「なるほど…久しぶりに人間に化けるからのう。ちとパワーが。だが、もう一口お稲荷を食べれば大丈夫なはずじゃ。その前に直人よ、今の女子(おなご)はどんな身形をしておるのか教えてほしい」

「そうか。(うーん、タイプは色々あるけど、まあせっかく化けてもらうなら俺好みの可愛くて元気な女の子にしておくか)こんな感じかな」

「どれどれ…おい、直人!お主見損なったぞ!!」

「え、急になに?」

「こんな小さい場所に女子が閉じ込められているというのに平気な顔をしておって。早く助けてあげないと可哀想ではないか。直人は優しい人間だと信じとったのに。この人でなしめ!!」

「いやいや、誤解だって。これは携帯電話。連絡を取ることができたり、目に映るものをそっくりそのままこの中に残すことができるいわば文明の利器…みたいな?」

「つまりその“ケータイデンワ”とやらで女子の姿をそっくりそのまま映し出しているというのか?」

「そういうこと。ね、俺が悪い奴じゃないってわかってもらえた?」

「あぁ。悪かった。つい興奮してしまって。それにしても世は変わったものだ」

「よかった。じゃあさっそくこの人のような感じに化けてみて」

「任せておれ」

またしても眩しい光が射してきた。

「これでどう?」

俺の目の前にいるのは正真正銘、人間の女の子だった。

「すごい。ちゃんと人間の姿になっている」

「私の化ける力を舐めてもらっちゃ困るわ」

「言葉遣いまで人間らしくなってる」

「すごいでしょ。私の化ける力は健在ってことね」

「あとは名前だな。そうだな…“クミ”っていう名前はどう?」

「なんでクミなの?」

「九尾の狐のことを“クミホ”って呼んでいたドラマを昔に観たことがあって現代らしい名前にちかいならクミかなと思って」

「クミ…うん、気に入った!今日から私の名前はクミ。よろしくね、直人」

「う、うん」

ぎこちない返事になってしまった。笑った彼女はとても素敵で、心がドクンと跳ねてしまう、そんな感じだった。



「ねえねえ、今日から新しい人が入社するみたいだよ!」

「どんな人が来るのかな~楽しみ!」

「みんな注目。今日から新しいメンバーが増えたぞ。クミさんだ」

「左から順に桜井くん、近藤くん、青山くん、望月さん、三宅さん、俺がこの部署のリーダーの五十嵐ね」

「みなさん、始めましてクミと言います。本日からよろしくお願いします」

「「よろしくお願いします」」


午前中、クミのことが気になって様子をみていたけど特におかしな様子もなく周りも疑っていないようだった。どうやらクミの化ける力は本物らしい。

「クミ、お昼はどうする?」

「この辺りできつねうどんが食べられる場所ってあるかな?」

「きつねうどんね、案内してやるよ」

「ありがとう」

「そういえば人間に化けているけど生活面はどうなの?お金とか」

「生活は問題ないよ。ちょっとだけお金を見せてもらってもいい?」

「見せるだけでいいの?」

「うん」

「はい」

「どれどれ…ずいぶんおしゃれなデザインになったな~。この硬貨に書いてあるのは元号なの?」

「令和って読むんだ」

「令和…」

「ちなみにクミが鏡に閉じ込められる前にいた時の元号はなんだったの?」

「私がいたのは寛永という時代で、当時は寛永通宝という貨幣が出まわっていたの」

「寛永通宝!?」

「そんなにびっくりする?」

「そりゃあね、今となっては貴重な貨幣だよ。約500年前の硬貨だからね」

「500年!?私はその間ずっと鏡の中にいたってことよね。変わっているのは当然ね。よし、イメージ完了!」

「ジャリン」

「すごい、お金がでてきた」

「化けるだけではなくて見たモノをそっくりそのまま映すこともできるの」

「その力は狐ならだれでも使えるものなの?」

「どうなんだろう~。あまり他の狐との関わりはなかったから。そういえばみんなどうしてるのかな?」


「いや~昨日は大負けしちゃったよ」

「青山さんまたパチンコですか?最近調子悪いですね」

「最近負け続きで嫌になるよ」

「え、青山さんがパチンコ!?」

「あれ?言ってなかったっけ?」

「はい。初耳です」

「じゃあさ、今度一緒に行く?」

「いや、遠慮しておきます」

「ま、気が向いたら声かけてよ」

「あの、三宅さん、青山さんってパチンコなんかするキャラでしたっけ?」

「キャラも何もいつもパチンコの話ししてるよ」

おかしい。一緒にいるけどそんなこと一度も聞いたことない。




「あー!!」

「五十嵐さん、どうしたんですか?」

「桜井くん。みてよこれ、こんな大量に印刷しちゃって。自然をなんだと思ってんだ」

「え、これ近藤さんが印刷したんですか?何かの間違いじゃ…」

「こんなミスをするのはあいつしかいないよ。もう常習犯で困ってるよ。近藤~また紙を大量に印刷してるぞ」

「え?100部ちゃんと印刷しましたよ」

「俺がお願いしたのは10部!なにをどうしたらそんな間違いになるのか…」

「ごめんなさい」

「まったく。次は気を付けろよ」

「は~い」

「あれ資料がない!」

「資料はここにあるだろう」

「あ、本当だ」

「大丈夫か?」

青山さんと同じで周りの人はこの光景を疑うことなく受け入れているようだった。どう考えてもおかしいはずなのに…一体何が起きているんだ?


「クミちゃん今日もかわうぃーね」

「あ、ありがとうございます」

「どう?仕事終わりにデートでも行かない?」

「行きませんよ~」

「キミを手に入れるまで諦めないからね、愛しのクミちゃん」

「もう三宅さんたら調子いいんだから~!」

三宅さん面倒くさすぎる。だけどクミは返しがやけにこなれている。男の扱いが上手なのも人間に化けているからなのか?なんだかちょっとイライラする。


「あ~。この世の終わりだ」

今度は五十嵐さんか…。なんだかこの不思議な現象も驚かなくなってしまった。

「部長に誤字アリのメールを送ってしまった。もうおしまいだ。俺はクビだ。みんな今までありがとう。多分もってあと一週間だからそれまでのあいだに出来る限り仕事を終わらせてから去るよ」

「部長は寛大な方なのでそれくらいで怒ったりしませんよ」

「そうですよ。誤字の一つくらいでクビになんてなりませんよ。だから元気だして下さい」

「うう…。ありがとうみんな。俺はこのチームにいられて幸せ者だ」


「なあクミ」

「どうしたの?」

「最近みんなの様子が変なんだ。まるで別人になってしまったかのような感じで…今まではこんなことなかったのに。もしかしてクミ、お前がみんなに何かしたのか?」

「え、私なんにもしてないよ。ただ普通に過ごしているだけだよ」

確かにクミの様子を見ていても入社してから不審な点はなかった。ただこの不思議な現象はクミが入社したのと同時に現れるようになった。

「鏡に閉じ込められた時のこと、些細なことでもいいから何か思い出せないか?そこに今回の謎のヒントが隠されているような気がする」

「あの時、鏡に閉じ込められた日…。そうだ!確か、『あんたのせいでうちはめちゃくちゃになったのよ。この盗人』って複数の女の人が私を急に怒鳴りつけてきたの。でも私なんのことなのかさっぱり分からなくて…。それで私が化け狐に違いない、だから封印しようって言い始めて…気がついたら鏡の中に閉じ込められてた」

「なるほど…。もしかしたらクミには無意識に人を惑わせる力があるのかもしれない」

「人を惑わせる力?」

「そう、“狂惑(きょうわく)の力”」

「狂惑の力…」

「クミが無意識にその力を使っているのなら今回のことも説明がつくし鏡に閉じ込めた女の人たちが言っていることも辻褄があう」

いや、待てよ。何かが引っかかる。なんとも言えない違和感。もしかして!!


「クミ、ごめん!ちょっと行ってくる」

「え、直人!?急にどうしたの?」

「あとで説明する」

クミの狂惑の力にかかってみんな様子がおかしくなった。ただ俺はクミのことを知っているから狂惑の力にかかっていない。クミが狂惑の力を使っているはずなのに平気でいる人が俺以外にもいる。クミが狂惑の力を使わなかったのか。いや、クミ自身があの力をコントールできているわけがない。まさかあの人には通用しない?それともクミの正体に気がついている?クソっ。なんで今まで気がつかなかったんだ。

「ハアハアハア。望月さん、ちょっといいですか」

「そんなに急いでどうしたの?桜井くん」

「あの、お話しがあります」

「ヤダな。怖い顔して」

「クミのことで聞きたいことがあります」

「ぼくがどうしてクミが狐だと知っているということかい?それともクミの持つ力、狂惑の力にかからないかってことかい?」

「やっぱり。いつから知っていたんですか?」

「そんなの初めて会った時からだよ。久しぶりに狐に会えて嬉しかったよ」

「望月さんも…」

だからクミの力が効かなかったのか。

「僕の正体を話したのは桜井君が初めてだよ」

「あの、狂惑の力をおさえるのはどうしたらいいのか知っていますか?」

「狂惑の力はいずれ消える」

「それっていつくらいに消えますか?」

「29.5日だよ」

「29.5日?」

「これはあくまでも目安だけど、満月になる月の周期を表している。基本的に狐は一度閉じ込められるとそこで一生を終える。だからクミのような狐は特別な存在だ」

「望月さんもクミと同じ特別な狐ということですか?」

「どうだろうか。僕は自力で外に出た。ただ何千年もの歳月を経てやっとだ。クミが閉じ込められていた期間より相当長い月日を一人で耐えて、耐えて、耐え続けてやっと外に出られた。そして見た目は人間だが私はまだ狐の身である。人間の姿に化けて何年も何百年も生き続けている。正直、狐に戻ることも人間として生涯を終えることもできず疲れてしまった。クミには僕と同じ道を歩んで欲しくないと思っている。桜井君がクミを狐として受け入れ、どうにかしようとしてくれているのを知って嬉しかった。どうか僕が狐だということはクミには黙っていてくれ。混乱させたくない」

「分かりました。望月さんのことクミには秘密にしておきます」

「ありがとう。それで本題だけど、クミは満月までにどちらかの道を選ばなければならない」

「どちらかの道とはなんですか?」

「化ける力を失った野狐として生きていくか、転生する保証はないが人間として生きるか。転生がうまくいかなければ死ぬという最悪の事態が訪れる。あと数日で判断しなければならない。桜井君、クミが後悔しないよう見守ってあげて欲しい」


「ちょっと直人、さっき突然走って行くからびっくりしたよ」

「ごめん。クミ、今から俺の言うこと落ち着いて聞いて欲しい」

「どうしたの?具合でも悪いの?顔色が悪いよ?」

「29.5日」

「29.5日…なんなのそれは?」

「クミが今の状態でいられる日数だ」

「今の状態ってどういうこと?もう少し分かるように説明して」

「29.5日というのは満月になるまでの日数を表している。それまでにクミは進むべき道を決めなければいけない」

「進むべき道?」

「野性の狐をして生きるか人間として生きるか」

「それが進むべき道ということね」

「ああ。狐の道を選べば化ける能力はなくなり、人間の道を選んだ場合、必ずしも人間として戻ってこられるか分からない。そのまま命を落としてしまうこともある」

「そんな、死ぬなんて…」

「どちらにしてもクミにとっては過酷な選択だと思う。だから残された時間どうするかゆっくり考えて…」

「それならもう答えは決まっているわ」

「え?」

「私は人間になる道を選ぶ」

「おい、さっきの話し聞いてたか?命を落とす可能性だってあるんだぞ」

「私にとって化けられない狐として生きていくことは死とおなじようなものなの。だから人間になって生きてみせるわ」

「クミ、本当にそれでいいのか?」

「うん。そもそも鏡から出られたこと自体が奇跡だったんだもの。贅沢は言わないわ」

「せっかく人間になるなら女の子がいいな」

「女の子?」

「それでまた俺の前に姿を現してほしい」

きみにより 思ひならひぬ 世に中の 人はこれをや 恋といふらむ

(きみによって気づかされた。この気持ちを世間では恋と言うのだろうか)

「信じてもらえるか分からないけどクミと一緒にいるうちにどんどんクミに惹かれていることに気がついた。好きだよ、クミ」

「私も…直人のことが好き。だから人間になって直人の側にいたい」

俺の想いがクミに届いた。そしてクミも俺と同じ気持ちだった。嬉しくて幸せでクミを思いっきり抱きしめた。

「ちょっと直人、苦しいよ」

「今はこのままクミの温もりを感じていたい」

「うん。私も直人を感じていたい」

「なあ、クミ。残された時間で何かしたいことはある?」

「やりたいこと…そうね、人間の女の子らしいことを思う存分楽しみたい」

「これからできるのに?」

「万が一の話し、死んでしまったら後悔して幽霊になって直人の周辺をうろついてしまいそうだもの」

「幽霊は勘弁して欲しいな」

満月の日までクミがやりたいこと、食べたいもの、行きたい場所、できる限りたくさん叶えた。短い時間でクミとの思い出が増えていった。思い出が増えていく分だけクミを愛おしいと想う気持ちが強まり別れの悲しみも強まっていった。


そしてあっという間に満月の日を迎えた。


「突然だけど一身上の都合でクミさんは退職されることになった」

「短い間でしたがみなさん優しくしてくださってありがとうございました」

「またいつでも遊びに来ていいからね」

「近藤さん、ありがとうございます」

「クミちゃん、いつでも俺のところに帰ってきていいからね♪」

クミの力が弱まったのかみんないつも通りになっているはずなのに、なぜか三宅さんはずっとこの調子だった。クミの狂惑の力をきっかけに化けの皮が一枚剥がれた感じだ。だとすれば三宅さんも不思議な人だ。


「なんでわざわざ仕事辞めるって伝えたの?」

「辞めるときに挨拶するのは人間のルールでしょ?」

「真面目な狐だな。偉い、偉い」

「ちょっと子どもじゃないんだから撫でないでよ」

「あれ?耳が?」

「そろそろ化ける力が弱まってきているみたい」

「最後は狐の姿でお別れってことか…」

「短い間だったけどありがとう。直人に出逢えて助けてもらえて本当によかった」

「俺もクミに出逢えてよかった」

「じゃあそろそろ行くね」

「ちょっと待って、最後に少しだけ」

「そんなに強く抱きしめられたら潰れちゃうよ?それに転生もできないよ?」

「嫌だ。離さない」

「そんなこと言ったって私そろそろ消えちゃうんだよ?」

「その間だけこうしていたい。クミのことを忘れないように」

「本当にありがとう。転生しても直人のことは忘れない、絶対に忘れない」

「俺も絶対忘れない」

「他の人を好きになったら許さないからね」

「クミに夢中でそんな余裕ないよ」

「もう、返しが上手いんだから」

「返しが下手よりかはいいだろう?」

「そうだけど…」

「じゃあ俺のことを忘れない“おまじない”をしよう」

「おまじない?んっ…」

最後に別れではなく、再会の願いを込めたキスをした。俺が一度唇を離したあと、クミからキスをしてくれた。きっと同じ気持ちだったと思う。そして消える間際、クミも“おまじない”を残していった。


クミがいなくなってから一週間が過ぎた。毎日俺の前に現れないかと待っているけれどクミは姿を現してくれない。そして気がついたら望月さんも姿を消していた。クミと望月さんの存在は会社の人たちの記憶には残っておらず、あの不思議な体験はやはり長い眠りについている間の俺が見ていた夢なのではないかと思ってしまう。クミ…君はいまどんな姿に化けているのだろうか。とにかくクミが幸せであればそれでいい。望月さんはまたどこかに転生したのだろうか、いずれにしても苦しみから解放されて欲しい。


「なあ拗ねるなって」

「拗ねてません」

「拗ねたりするとまた狐に戻っちゃうぞ」

「狐?何を言っているの?私は正真正銘、どこからどうみても人間の女の子です」

クミは人間になってこの世に戻ってきた。だけど自分が狐だったことを忘れていた。つまり俺のことも。クミが消えてから1年後何の前触れもなくクミは俺の会社に入社してきた。

髪型もメイクも違うし名前も違うが一目みてクミだと分かった。本当に嬉しかった。だけどクミは俺の顔をみても表情一つ変えることはなかった。その時クミの記憶は消えたと理解した。運命のいたずらなのかクミは“美玖(みく)”という名前で人間の姿になった。記憶がない美玖は純粋に俺のことを好きになってくれて少しして付き合うことになった。可愛くて優しくて素敵な彼女なのに俺はどうしてもあの時の、狐だった頃のクミの姿を美玖に求めてしまい、クミと一緒にしたことを美玖ともした。それでも彼女は美玖として俺との時間を楽しんでくれた。最低だよな、俺。

「さっきから真剣に狐の石像を見ているけどここってそんなに有名な神社なの?」

「いいや。そういうわけじゃないんだけど」

「あ、そうだ!せっかくだからおみくじ引こうよ」

「そうだな」

「何が出るかな~。最初は一人でみたいから直人はあっち向いていてね」

「はいはい」

あまりおみくじや占いに興味がないからなんでもいいんだけど。どれどれ…吉か。よくも悪くもって感じだな。

「俺は吉だったけど美玖はなんだった?」

振り向き美玖を見るとおみくじの結果にひどく驚いている様子だった。

「美玖、どうした?」

「そんな…」

「もしかして大凶?くじを結んで帰れば大丈夫だよ。だから落ち込むなって。そうだ、さっき境内の中に茶屋があったからそこで団子でも食おう。抹茶もあったぞ」

おみくじでこんなにも落ち込むものなのか。可愛いな。そんなことを思っているといきなり美玖が抱き着いてきた。

「おい、いきなり抱き着くな。苦しい」

「これみて」

「なんだよ、美玖も吉じゃん」

「そうじゃなくて歌をみて!!」

「そんな必死にならなくたってみるよ。あれ?この歌って確か…」

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ

(川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた滝のように急流が2つに分かれる。しかしまた1つになるように、あなたと離れていてもまたいつか再会したいと思います)


「ごめんなさい。今まで、この歌をみるまで、直人のこと忘れてた。絶対忘れないってあの時約束したのに…。1年以上も直人のこと忘れてた。直人はずっと覚えていてくれていたのに。」

「クミ、お前、もしかして思い出したのか。記憶が戻ったのか」

「うん。この歌は私が姿を消す前に直人に残した歌」

「やっと思い出してくれた」

「ずっと待たせてごめんね。直人はちゃんと約束を守ってくれていたのに…」

「いいんだ。こうして思い出してくれたから。おかえりクミ」

「ただいま、直人」

「これからも俺の側にいてくれよな」

「うん、もちろん。もう直人の前から姿を消さないよ」

この日、俺と人間になったクミが初めて出会った日となった。


25歳の冬、会社員の俺は毎日おなじことを繰り返して一日が終わることに飽き飽きとしていた。何か新しいことが起きないかと願っていたものの、その願いも空しく変わらない日々を過ごしていた。そんな俺が体験した不思議で“愛おしい”物語。



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満月の日の約束 むーちゃん @muuchann423

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