鬼から逃げたら

@miraran

鬼から逃げたら 全話


プロローグ


瞬時に、僕は拳銃を発射した。そして、目の前の男性に銃口を向けた。

ズキューン

周囲の白い壁に赤銅色の血が飛び散る。血の匂いがたちこめている。

僕は返り血を浴びないように瞬時に後ずさりした。目の前で、後ろの白い壁に、崩れ落ちた男。壁に深紅の血の筋が走る。

今、対面したばかりの他人を射殺した。僕の潜在意識の中のモチベーションに従って、やるべき仕事として引き金を引いた。明らかに殺人だ。だけど、この行為は罪なき人々を大量に殺す計画を企てている悪人を葬る行為だ。

神の指令のもと、僕は目の前の黒いビジネススーツを着たこの男性を撃った。

男は白い壁に崩れ落ち、深紅の血の海のなか瞳孔を開いて、ズズーッと崩れ落ちた。


第一章 逃走

 子供の頃、ドラえもんが好きだった。

特にそのポケットから出す道具の中でも『どこでもドア』が僕の憧れの的だっだ。アニメの中では時空をこえて、ドアを開けた先にはユートピアが待ち受けている。そんな架空の世界に生きているのび太がうらやましかった。

幼少期の記憶に思いを馳せていた。ふと、目の前の売り出し中の大画面テレビの画面。自分の顔のアップ画像にのけ反りそうになった。

中年のベテランのおじさんアナウンサーが呼び捨てで僕の名前を告げた。殺人罪の指名手配犯として。ドラえもんよ、僕をどこかに移動させてくれないかな。

だけど、もしかしたらその必要はないのかな。 今ここにいる僕の姿は、周りの誰にも見えていないようだから。家電量販店大画面型テレビの前に、大写しにされているのとまったく同じ顔の若い男が、その画面の真ん前に立っていたら、誰でも釘付けになるはず。警察に電話したり、人殺しと叫んだりするだろう、普通の人は。

だけど、まわりに並んだ大型テレビを物色している人々はだれも僕に気づいていない。つまり、僕は今透明人間っていうことなのかな・・・。でもいったい、なぜ?

僕は、そのままエレベーターに乗って一階に降りた。 そして、外に出た。

空ゆく雲がみるみるうちに翳りはじめ、小雨が降り出した。雨粒が一気に大きくなり、大粒の雨にかわっていく。アスファルトの歩道を歩く人々は足早になり、行き過ぎる車が水たまりをまき散らすのを避けるように、店に入り、傘を広げる。

でも、僕だけは濡れない。まったく雨の冷たさも感じない。まるで、幽霊みたいに。

もしかして、僕はすでに、死んでいるのかな? 東京の中心部の家電量販店の近くの大通りを入った路地裏。ここはまるで流刑地みたい。

キャンキャン

足もとで犬の鳴き声。僕は、膝を折ってうつむいた。 すると可愛いグレイの犬は、「ついてこい」というように、尻尾をふりふり、丸い黒々とした目で見上げている。

そして、クルッとおしりを僕に向けると、走り始めた。僕は、その茶色い尻尾についていった。そして、路地裏に導かれた。

その暗がりの小道を、進んでいく。奥に茶色い大きな木のドアがあった。そのドアのノブを飛びあがって犬が開けた。僕は導かれるように、ドアのむこうの世界へと向かった。


 ドアを開けた先は、西洋風のホテルの一室。窓の反対側の奥には簡易ベッドがかなりのスペースを占めている。その手前の紺色のソファーの上に座る。窓の外をぐるっと見渡す。

街一体が、見渡せる、爽快な見晴らしだ。彼方には秋空の下、サグラダファミリアのトウモロコシのような尖塔が見えている。

ここは、バルセロナ?

空港も経由せず、飛行機にも乗らずに・・・、僕はヨーロッパにいる?

いったい、どういうことだろう。ドラえもんの力も借りていないのに。


ふいに、僕を呼ぶ声がした。空の上のほうからだ。僕は、窓の引き戸を力を入れて開ける。

そこには、先のとんがったオフホワイトの司祭帽をかぶった金髪の男性。ぷかぷかと空中に浮いている。間違いなく、司祭だろう。なぜって、金襴の司祭服の上に赤いマント姿だから。そして彼の足まわりを、白い鳩が四羽クルクルと旋回して、まるで白い波のようだ。

「大量殺人を計画していた悪人を葬ってくれてありがとう。君の行為は正義だ。謝礼といってはなんだが、君が今いるのはバルセロナのとあるホテルだ。飛行機にも乗らず、移動の軌跡を一切残さずにね。そして宿泊料金を払う必要もない。少しの間必要なユーロも用意しておいたよ。ハハハ。」

確かにそういったと思う。胸元にはなぜか、僕をここに導いたのと瓜二つの、ミニチュアシュナウザーの写真のバッチをつけている。

その時、司祭と僕の方に、昼下がりの鋭い太陽の光が斜めに伸びてきた。僕は、眩しくて反射的に目をふせた。 次の瞬間、僕が顔をあげると、司祭の姿はどこにもなかった。そして、白い鳩の姿も。


 ぼくはそのあと、きっとベッドに倒れ込んで寝込んでしまったみたいだと思う。

窓から差し込む夕空の紅色と、頬をなでる風に目を覚ました時には、すでに夕方の六時を過ぎていた。夕焼けに黄昏ながら、孤独感でいたたまれくなくなった。

その後、こらえきれなくなり、しばらく大きな枕に顔を押しつけて泣き続けていた。

三十分近く涙が止まらなかったと思う。だけど、急にお腹が空いてきたので僕はタオルで顔をこするようにふいた。そして、泣き疲れたのもあったのか、自分でもびっくりするぐらい勢いよく立ち上がった。

ソファーとは反対側のベッドの横の、壁沿いの机の上に、ふっと目をやった。用意されていたユーロ札、数枚をポケットにつっこんだ。あえて枚数は数えなかったが、十枚ぐらいはありそうだ。ホテルの部屋の鍵を閉める。カウンターの金髪で目の大きな若いスペイン人の女性の視線に、微笑みを返す。

司祭の言葉を信じるしかない、現にお金まで用意してくれていたんだし。不安でドギマギしながらも、ヨーロッパ風の洒落た螺旋階段を下りて、重い漆黒の扉を開けて、外に出た。

視線の遥か彼方に、本物のサグラダファミリアの尖塔。

ドキドキがさらに高まる。好奇心に突き動かされて、僕はサグラダファミリアの方向とは反対の通りに向かって歩きはじめていた。自分のひねくれた性格に、呆れながら。

目的の場所に行くのに、なぜかまわり道をして、一番時間のかかる道を選んでしまう子どもだった僕。持って生まれた性質はかえられないらしい。 スペイン人のかっこいいカップルや、老夫婦や、親子連れの間を、後ろめたさと孤独感を抱えて突き進む。スペイン語の波の中を。

『パン屋さんとか、どこかにないかな・・。』

空腹を抱えながら、芸術的な街並みの建築物を物色する。まるで海底洞窟みたいな模様の、カサバトリョが眼前に迫る。

ガウディ特有の遊び心に溢れた曲線の建築芸術。背景には薔薇色に燃える夕焼け。

それから、金襴の司祭服のへんてこ司祭の姿が脳裏に浮かんだ。

『僕は、悪行を企てていた人間を事前に抹殺した。だから僕の行為は正義だ。』

いくらそう言い聞かせようとしても、罪悪感がこみあげてくる。

ただ、バルセロナの開放的な空気感が、日本にいた時の束縛感から僕を少しだけ解き放ってくれる。

『僕は、これからどうすればいいんだろう。』

夕暮れが落ちてくる。どんどん夜が近づいてくる。

僕は帰り道の途中で、ホテルのそばに市場があるのを見つけた。でも、夜が暗闇を従える空の下で、異国の治安への危機感を感じて、市場に入らずに、そのままホテルに向かった。

ふと、ホテルの近くの道沿いで、小さなパン屋さんを見つけた。 誘われるように中に入ると、フルーツのペストリーを買った。右肩に抱きかかえた紙袋から甘い香りが漂っている。早くホテルに帰ろう。僕は、暗くなっていく街並みを再びホテルに戻った。

六月、初夏を迎える前のバルセロナで、僕は朝のまどろみの日差しが窓を通して差し込んでくる中、目を覚ました。罪悪感が胸の奥に残照を描いている。そして体中が、冷や汗で濡れている。


でも、それは空腹と好奇心をとどめる力にはならなかった。昨日の夜通り過ぎた市場が頭にクローズアップされる。


僕は、昨日の夜、壁椅子にたてかけたジーンズに両足を放り込んだ。そして、ポケットの中に、お札の感触を確かめる。よし、ちゃんとお金は持ってる。さあホテルを出るんだ。外は、お昼の明るい日差しに満ちている。

あらかじめプログラムされていたかのように、市場に向けて歩き出した。そして、ためらわずに大きなテントの中に、人ごみをかき分けて入っていく。

そこには、オレンジやチェリーやマンゴスチン、色とりどりのフルーツ。まるで築地の市場とかみたいに、南国特有の明るい色彩の新鮮なフルーツの山。そして生フルーツジュースの露天に人だかりができている。僕は、その中にチョコレートを量り売りするお店を見つけた。声を張り上げていた若奥さん風の女性から、小さな籠を受け取る。ゴディバのチョコみたいに高級そうな小さなチョコレートのキューブを何個か選んで、差し出した。

販売員の女性は、ブイサインをするように指をたてたので、僕は二ユーロを払った。

お金が足りてるのかとヒヤヒヤしていた僕に向かって、彼女は満面の笑顔を返してくれた。大丈夫らしいや。僕は、ホッとして市場を抜けて人込みの中を青空の下へ歩いて行った。

グングンと鼻先に潮のかおりが漂う。きっとその方向に進めば、海にたどり着けそうだ。予感に導かれて、サグラダファミリアとは逆の通りへとどんどん歩いて行った。口の中でチョコレートの甘さを転がしながら。道の途中には、トレーナーが絵の具まみれの絵描きさんたちが、自分の作品を路上にギャラリーのように並べて、道行く人の流れを見ながら座っていた。僕は、並んでいる絵を物色しながらも、ぶらぶらと海の方に向かっていった。

三十分ほど歩くと、視界のはるか彼方に紺碧の海が見えてきた。

そっちを目指して通りをずんずん歩いていく。すると、大航海時代を彷彿とさせるような高い塔が、海を護衛するようにそびえたっていた。

八角形の塔の中心から僕を見下ろしているのは王冠をかぶって右手を掲げた白亜色の女王様の像。その左右の上の方には、精悍な獅子の頭のエンブレムが飾られている。僕は女王様に一礼すると、そのままインフォメーションセンターを抜けて歩いた。どんどん潮の香りが強くなっていくのが、心地いい。そして吹き抜けていく潮風も、罪悪感を洗い流してくれるみたいだ。

赤いヨーロッパ風のバスが通り過ぎていく。海岸沿いのバスの停留所と、船着き場の向こうに、海に突き出た岬のような通路があった。僕は、海と秋の青空を見比べながら通路を歩いて行った。 遊覧船乗り場。その彼方に豪華客船風の巨大なショッピングセンターが、海の上に浮かぶようにあった。

波間から吹き上る風と、太陽光線の間。眩しさに目をそらして、また視線をあげた瞬間、海に落ちそうなぐらい視線を下げて、ベンチに腰かけている青年のあまりの美しさに息が止まりそうになった。髪は金髪だけど、東洋風な・・漆黒に近いセピア色のまなざし・・、日本人とフランス人のハーフ?

「アル」

ショッピングセンターの入り口から、ぺネロペ・クルス風の美女が大声で叫びながら、両手を大きく振っている。

「ペネロペ」

『そっちに行くよ』 という様に、彼女に向かって大きく手を振って見せた。

でも、美女がいるのとは反対方向の海沿いの通路にいる僕の方に、波の音と歩調を合わせるように歩いてきた。上半身をくねらせながら軽やかな歩みで。ふと、僕の前で歩みを止める。長い手足、小さい頭を斜めに下げて、間違いなく日本語で彼は僕に言った。

「ありがとう。神からの指令を遂行してくれて。」

波の音と一緒に、彼は美女の方に向かって走っていった。あっけにとられている僕に背を向けて。


 太陽が一番高いところに来ているようだ、たぶん今は、お昼ぐらいだろう。穏やかな風が吹いていて夏とは思えないぐらい涼しい。空気に湿気があまりまじってなくて、汗ばむじめじめ感がほとんどない。だけど、それにしても・・。僕は目の前にまったく解けないパズルのピースがひろげられているような途方もない、切なさというかやりきれなさを感じていた。

『彼とあそこで会ったのは、いったいどういうことだったんだろう』

なんとなく、運命がらみの出会いのように思えてならなかった。昨日、空から僕に声をかけて、すぐ姿を消したへんてこな司祭。あの人の策略なんじゃないか。

ついさっき見た青年の姿が僕の頭のスクリーンに焼き付いている。美しい静止画。

どこかで見たことがある気がする。透明で儚い美しさ。もしかすると俳優さんとか、モデルさんかな・・・。

そんなことを思いめぐらしながら、プラタナスの道を歩いていく。

洋服やバックとか、化粧品とか、僕はよく知らない高級ブランド品のお店が並んでいる通りを、若いカップルを、横目に身ながらすりぬけて行く。

僕は一抹の孤独感を抱えつつも、ヨーロッパ人に負けない大股で、ずんずんと歩いて行った。でも日本にいた時より、なぜか気楽なんだ。異国の情緒にまみれて、観光客気分のワクワク感も芽生えてきているのかもしれない。

だけど、さっきの青年のことは、わだかまりのように、常に心のど真ん中を陣取っている。

グーグー

お腹が大きな音をたてた。ポケットに手をつっこんで、まだひとつだけ、ティッシュにくるんだチョコレートが残っているのを確認した。人差し指と親指でそれをつまむ。そして、口の中に放り込む。

そのうち、通りの街並みが変わっていくのがわかった。路上にテントが並び、最初に目に入ったのは、お花を売るお店。その先を歩いていくと絵描きの人たちが、自分のスペースいっぱいに、それぞれの絵を並べていた。

通行人をスケッチしながら、絵を描いている人。立ち止まった観光客に、絵を売り込むように大きな声を張り上げている女性。ふと見上げると人だかりができているスペースがあった。

トレーナーのあちこちに、絵の具を飛び散らせて、描き続けているパーマがかった白髪に、おちょぼひげが愛嬌のある、七十は過ぎているように見える体格のいいおじいさん。彼のパフォーマンスに人だかりができているんだ。

僕はその中に混じって、生気あふれる強い目線でパフォーマンスをしているおじさんを見つめた。僕よりずっと若々しくてエネルギーにあふれている。

彼の後ろには、惑星がピラミットに向けて流れ落ちてくる赤を基調にした絵と、同じ情景を青を基調に描いた絵、そして黄色を基調に描いた絵。その三枚の絵が三角形にキャンバスに立てかけられている。

そして、現在進行形で製作中なのは、紫を基調にした絵だった。 絵の上空には大きな丸い惑星。そして、地平線は青色がかっているがライトパープルって感じかな。

黒いエプロンに様々な色の絵の具が飛び散って宇宙模様のようだ。

全身から芸術家のオーラとエネルギーがみなぎっている。だから、見る者をとらえるんだろう。彼に比べると、僕はまるでゾンビみたい。やるせない憤り、うしろめたさと劣等感でできているような存在。陰鬱な心で、虹のような七色の色彩を放つ彼の絵の具が描き出す作品を見つめていた。そのうち、罪悪感でいたたまれなくなり、また通りを抜けて、裏通りに入る。迷いながらも、盲目的に石畳の道をジグザグにやみくもに進んだ。

すると、アクセサリーや、ドールハウスが並んだ、テントの露店が並ぶ道にたどり着いた。そして、見上げた先には、荘厳なゴシック様式のカテドラル・・。僕は、導かれるように聖人や天使の彫刻が細かく施された釣鐘型の正面玄関をくぐった。

『神様、この罪深い僕の身をどうか、隠してください。』

薄暗い。ステンドグラスの窓からシアン、モスグリーン、陽光のサンイエローが混じった色彩の筋を頼りに進む。彼方に六角形の天上から釣り下がるライト。

そして上空を囲む薔薇窓と祭壇の周りを取り囲むステンドグラス。その下に十字架にかけられたキリスト像が見える。キリスト像の上下左右をペアの天使像が、護衛するように囲んでいる。僕はその方向に歩き始めた。

左側廊の中央にある、平行な鉄格子の向こうに人形劇の一場面のような祭壇。ふと、足を止める。そこには小型のキリストやマリア、そして聖人たちの中に、司祭の像もあった。金襴の司祭服、そして白い三角錐の司祭帽・・。昨日会った司祭にそっくり・・思う間もなく司祭像が瞬きした・・・?僕は恐怖で後ずさりした。

『アルに会ったね』

僕の頭の中に、司祭の声が再びこだました。恐怖心から再びキリスト像に向かって、その場から逃げるように速足で歩いた。しかし内陣の聖歌隊席には入れないことにすぐ気づいた。

光の影で影絵のようなシルエットのキリスト像と天使像を、彼方から手を合わせて見上げた。目の前を隔てて並ぶ巨大な大理石のレリーフは、まるでエジプト文明の古代遺跡のようだ。ゴルゴダの丘で磔にされたキリストの残酷なレリーフが並んでいる。奈落の底にいるような罪悪感が僕の心を取り巻いてゆく。胸が痛む。その時僕の背中を誰かが叩いた。おそるおそる、振り向く。

「ブエノスタルデス。すでにアルに会ったようだね。」

さっき僕の頭の中に響いたのと同じセリフ、昨日窓のそばで宙に浮いていた司祭の言葉だった。僕は後ずさりして、左側廊の中央の金の祭壇の方を見た。そこには変わらず司祭像はある。

だけど、僕の目の前にも、像と瓜二つの生きた司祭の姿。まるでクローンみたいだ。子供位の背丈だが、モスグレイの顎髭には威圧感がある。僕は神聖な空間で、彼の呪縛に封じ込められるように、黙って肯いた。

「彼もまた、神の指令で動く存在なのだよ。私と同様にな。」

その割に、似ても似つかぬ風貌・・と思いながら、社交辞令で軽く肯いた。すると彼の手もとに魔法のように、ミニチュアの宮殿の模型が現れた。しかしその宮殿は、破壊しつくされて、地震のように列柱や、土台の煉瓦も含めて、崩壊の限りを尽くしている。

「君の母国をこうしてはいけない。だから、君の犯した殺人は罪ではなく正義なのだよ。」

司祭は、その言葉を残して、右側廊の小部屋の木のドアの方へ、中央の装飾列柱を通り抜けていった。


 僕は、初夏を迎え受けるように輝く街並みを、カテドラルを背にして、再び大通りに向けて歩いた。まるで海底洞窟みたいな模様の、カサバトリョが眼前に迫る。

ガウディ特有の遊び心に溢れた曲線の建築芸術。僕は曲線のオフホワイトの窓や柱に、スプレー・グリーンやゼファ・ブルーが入り混じった海中にいるようなガウディ建築の周囲を、くるりと一周した。

それは、まるで空気の中に芸術を混ぜて放出しているような存在感だ。

ふと、建物の周りを歩いていた美女が目の前にたちふさがった。さっき海岸で会った青年と同じ日本人とフランス人のハーフだ、きっと。

その美しさに見とれていた僕を、彼女は見据えるように凝視していた。 そして、「ムチョグスト。」とにっこりと笑った。その笑顔もまた、アルにそっくりだった。

「君は今、日本の警察から逃亡して来ているのよね。大丈夫よ。私は、アルに頼まれて、ここに来たの。妹のミランダっていいます、よろしく。君の身柄を、私たちが護衛しないといけない。ただ、そ例外には、君のこと何にも知らされていないわ。」

流暢な日本語に驚くよりも、強烈に僕は恐怖心を感じた。

彼女の言う通り僕は今、日本の警察から逃げている・・。そりゃそうだよな、人を撃ち殺したのだから。でも、何が大丈夫なんだろう? はかない祈りは、秋風と一緒に、僕の心から吹き飛ばされた。

「明日、朝九時に、君の泊っているホテルへ迎えに行くわ。」


 翌朝、僕がホテルをチェックアウトしようと、フロントの笑顔の可愛い女性の元に向かった。ユーロ札を何枚か右手でトランプのように揺らしてみせる。

「支払いをしたい」という仕草だ。すると、女性は「支払い済み」と言うように首を振ると、領収書を渡してくれた。そして、お金を受け取らずに、笑顔で手を振って送り出してくれた。僕は領収書を、昨日チョコを詰め込んだポケットにつっこんだ。

誰が払ってくれたんだろう・・・、もしかして昨日の?

黒い螺旋階段を下りて、重い扉を開く。その向こうに、約束通り赤いスポーツカーの前でサングラスをかけて朝焼けの空を背に颯爽と立っているのは、昨日知り合ったばかりのアルの妹のミランダ。彼女が支払いを済ませてくれたのか。

「一時間ぐらい辛抱してね。」

左側の運転席にブロンドの髪をなびかせて乗り込むミランダに促されて、助手席に乗り込む。

「大丈夫、車酔いはしないたちだから。」

僕がそう告げてシートベルトをはめると、ハンドルを握り、エンジンを駆けながら、ミランダはすまし顔でつぶやいた。

「違うわよ。私みたいな美女とふたりきりで、襲い掛かりたい衝動を覚えると思うけど、危ないから辛抱してねってこと。」

僕の返事を待たずに、ミランダはバルセロナの芸術的な街並みに車を走らせた。そして、スペイン語のポップな曲が大音響で、轟音と風と一緒に流れていく。バルセロナのきらびやかな街並みを抜けて、木々がつらなる郊外へ。

僕は、昨日いろんな不安と焦燥で一睡もできなかったからだろう、そのうち眠りについてしまったらしかった。

「起きて。着いたわよ。もし眠り足りなければまた、部屋でお昼寝すればいいわ、かなり大きな音でラジオをかけてあげたのに、すやすや眠れるほど、眠いみたいだから。」

「確かに、ここしばらくきちんと眠れてなかったんだ。ただ、一時的に記憶喪失に陥ってたみたいに、よくおぼえてないんだけどね。 それから、ぼくには優馬っていう名前がちゃんとあるんだけどな。」

嘲笑うような微笑みと一緒に開け放たれた赤いドアの向こうには、アルハンブラ宮殿のような豪邸。 正面の柱もアラベスク風の幾何学模様の装飾が施されている。そこを郊外の翳った秋風が吹き抜けていく。そして、宮殿の周囲には、秋枯れの緑の匂いがたちこめている。

僕はミランダの長い足が昇る玄関前の石段を、後ろからついて昇っていった。そして、左右の装飾柱を抜けて、黄土色のドアをミランダが開け放った。

観葉植物や、薔薇が飾る玄関先で、水をやっていた背の高いグレイのロングドレスを着た女性は腰まで長い黒髪のスペイン人だ。情熱的な視線の美女だが、年齢はたぶんミランダより五つぐらい上の感じだ。

「お母さま、彼の名はユーマよ。私とアルの友人なの。」

そう言いながら、スリムジーンズと赤いシャツのミランダは、グレイのロングドレスの女性とハグした。僕の方を曖昧な微笑みで見つめた女性は、一瞬、怪訝そうに目を伏せた。

僕は、彼女の前を立ち去りたい衝動に駆られて、ミランダが向かった奥の大部屋の方に、小走りに直進した。大部屋に入ると、その八角形の天上の装飾に僕は目を奪われた。薔薇の花のように緻密で装飾的だ。

そこから吊り下げられたシャンデリアはシャルピンクの淡い光を、部屋中に放っている。それから漆黒のテーブルの中央にも紫や赤や黄色の薔薇の花が飾られていた。

「パンを召し上がれ。」

食卓の上に、ナイフで切り分けられたフランスパンが、貝殻の形の薄いピンクのお皿にならんでいる。立ったままで、その一切れを親指と人差し指の間にはさむと、口に含んだミランダを僕は後ろから見ていた。

「ミランダ、何ですかお行儀が悪い。座って食事しなさい。」

ドアの向こうからクリスタルのような声が飛んできた。

日本語でそう言ったのは、きっと僕にも言い聞かせたい言葉だったからだろう。グレイのドレスの美女は、ドアを閉めてまた玄関口の観葉植物の方に戻って行った。

「君とアルは半分は日本人だから、日本語がペラペラなんだろうけど、お母さんも日本語が話せるんだね。」

僕の驚きが意外だったのか、ミランダは声を上げて笑い出した。

「あの人は、パパの三番目の奥さま。私のママと違って、知性と教養が高いのをひけらかしたいのよ。ただ嫌味なだけ。」

僕は、噛み応えのある豊潤なフランスパンを味わって飲み込んだ。

「血のつながりのない母娘だってことだね。ふーん、するとあんな若くて美しい奥様をバルセロナ郊外の豪邸に囲えるほど、君とアルのお父さんは大富豪だってこと?」

ミランダは大理石の天使の彫像の隣にあるマシーン前におしりを少し突き出して、立っている。大音響をたててカプチーノをコップに注ぎ入れていた。その作業を、二回繰り返す。それから両手にコーヒーカップをもって、僕の方に差し出した。 口に含んでみる。カプチーノってこんなに美味なんだ。

「そうね、それは正しいわ。そしてパパは、愛し合った日本人の娼婦が自殺した後、私たちを探し出して育ててくれるぐらいの優しい男性よ。」

僕は、『自殺』という言葉に絶句して、言葉がでなかった。つまり、母親に限っては、僕と同じ境遇だってことになるな。表面的にはまるで貴族階級のような雰囲気の兄妹だけど。 彼女も、カプチーノを神妙なまなざしで口に含んだ。

「異国で殺人を犯して逃亡してきている君を、かくまってあげる以上、守ってほしいルールを伝えておくわ。君が外に出られるのは、私かアル同伴の車でのみ。自分の足では、この宮殿の門をくぐって外に出ることは厳禁よ。もしそれを破ったら、命は無いと思っておいてね。」

ミランダが膝をついて、天使の彫像の頭の輪にゆっくりともたれかかった。まるで、天使と合意を得るかのように。その瞬間、僕は全身の血が凍り付いたように、表情を失った。

それを見据えて、彼女はコーヒーマシーンの隣にある葡萄酒のボトルを手に取って、グラスになみなみと注いだ。そして、カプチーノのコップと並べて置いた。僕は、葡萄酒のグラスの方を選んで、瞬時に飲み干した。無性に酔いたい心持だったのあもしれない。

「ひよっこ少年に酒をふるまった罪で、私も罪人ね。」

そう言って、フフッと、笑った後、すっと立ち上がった。腕を組んで僕を見下ろしている。

「じゃあ、二階のあなたの部屋を案内するわ。よかったらお昼寝の続きでもどうぞ。」

再び扉を開け放ったミランダの肩越しに、ミニチュアシュナウザーを抱いて微笑んでいるグレイのドレスの女性の姿が見える。温和な微笑みは、さっきの冷酷な僕らへの目線とは別人のようだ。

彼女の胸元で安らいでいる愛犬が、東京の路地裏の『どこでもドア』から、僕をこの地に導いたあの犬に、そっくりなことに戸惑っていた。

『同じミニチュアシュナウザーだから、似ているのは当たり前だよな』

自分を安心させるため、心の中でつぶやく。そして、大理石の階段を上がっていくミランダに、ついていった。

ふと、手すりの下を盗み見るように覗きおろすと、いびつな表情の母親の横顔が目に入って、苦痛の針がちくりと僕の心を刺した。

「ここは、あなたの個室よ。好きに使って。」

その一言を残して、ミランダがドアをあけた。僕は一気に飲み干したワインの酔いがまわってきて、立ち眩みがした。そして、ミランダのそばをすり抜けてベッドに倒れ込んだ。 そのまま、深い眠りに、僕は落ちていった。 夢の世界に落ちてゆく。時間の流れの後ろ側で。

太陽が二つ、僕の眠りの中に膨れて広がる。異国の地、隠れ家で、僕は病人のように眠りに耽る。 僕の中の悪、そして正義。脱皮するように、双子の太陽のもと、自分の皮を剥ぐ僕。

再生?

時空を超えた新天地で新たな自分を見出すことへの苦痛と快感。


ロバートさんとの初対面は、七月に入った、涼しい曇り空の日だった。

長身で、青い高級そうなスーツをカッコよく着こなすスレンダーなフランス人紳士。少しだけ伸びた髪と同じ色のブラウンゴールドの顎髭と眉もその精悍な顔立ちを引き立てていた。

「やあ、遅い帰宅ですまない。バルセロナ空港からタクシーで、最速に戻ったつもりだったがね・・・。マリンの手作りの美味しい夕食を食べるためにね。すでにみんなの夕食の時間を過ぎてしまったようだね。」

マリンさんは、いつもより頬が赤くて、嬉しそう。赤い口紅がより一層映えて見えた。 カリスマ的な輝きを放って、食卓の向こうに現れた紳士。あまりの格好良さに、僕は口に含んでいたワインをぐっと飲み干した。

正面の壁に飾られたゴールドの額縁。アルに『ゴヤの宮廷画』と教わった絵画だ。

全身赤い衣装に、斜めに紋章をかけた王子様としばらく目をあわせていた。王子様は、絵画の真ん中に描かれたキラキラしたドレス姿の威厳のある王妃と手をつないでいる。王妃の左側には、きらびやかなドレスを着たお姫様。王妃に守られるように肩を抱かれている。ふっくらとした赤い頬が愛らしい。

マリンさんが立ち上がって、紳士の紺色の高級そうなジャケットを後ろから脱がせて、窓際の漆黒の壺の近くのワイヤーに引っ掛けに行った。その間に、僕の視線の正面の絵画の前の椅子に、紳士は腰かけた。そこは彼の定位置のようだった。左隣にはミランダ。遅れて、マリンさんが右側に。

鳥の丸焼きの香ばしい芳香や、パエリアの並んだ食卓を挟んだ向こう側のミランダは、僕が緊張でカチコチになっているのを、面白そうに眺めていた。そして、口元をひねらせながら、ククッと笑い声をたてるのをこらえるように、息を殺しているのがわかった。

「じゃあ、両親の甘い時間を邪魔しないよう、私たちは二階に退散するわ。」

アルは、同じ大学の恋人のマンションに外泊中だった。 パエリアを食べ終わると、ミランダは立ち上がった。僕は慌てて彼女を追って、一緒に階段を上がっていった。

そう、その時はまだ、知らなかったのだ。リチャードさんの裏の仕事も、アルの真意も。なぜなら寄る辺ない殺人犯のこの身を守ためだけに、目の前に現れる庇護者に、身をゆだねて生き延びるしかない運命なのだから。

キャイン、キャイーン

「まあ、いつもなんて可愛いの!」

歌うように呟きながら、ムスタフを抱き上げて、自分の部屋の扉に招き入れるミランダ。僕の方には、投げキッスをおくりながら。

次の日、朝早くからミランダは出かけた。大学とモデルの仕事でバルセロナに毎日通っているんだ、アルと同じように。何もすることのない囚人同然の僕から見ると、うらやましいご身分だ。

僕はお腹がすいて、一階の食卓におりていった。そこには、誰もいなかった。天使の像のそばで友達に寄り添うように、尻尾をふっているムスタフを除いては。孤独を癒すように、ムスタフのもとに寄り添った。すると、ムスタフは僕の方に、体を投げかけてきた。大きなぬいぐるみみたいだ。モフモフふわふわしている。とっても愛らしいや。気づくと、僕はムスタフをハグしていた。

幾何学模様のカーテンの向こうの大きな窓に、青のスポーツカーが停車した。

アルだ。僕は、ムスタフの体を、不安を抑えるように強く抱いた。その内部のしなやかな筋肉も同時に感じながら。

「ユーマ、ごめんよ、一人にして。両親はバルセロナでデート中らしいな。」

玄関口から響くアルの声。コツコツと小刻みな靴音。二週間ぶりぐらいに、僕の前に姿を現したアル。表情が柔らかくて、ブロンドの髪はサラサラ。整髪料もつけていない。シャワーを浴びたばかりのように少し湿っている。恋人と甘い時間を過ごしていたのが一目瞭然だ。

空腹の極みだけど、許可も得ずに、他人の家の食料品に手をつけるのをためらっていた僕にとっては・・。ナイスなタイミングではあったけど。

「なんか食べていいかな・・。」

ムスタフの体にしなだれかかっている僕を見据えるように、クックッと小刻みに笑う。長い足を持て余すように交差に闊歩し、あどけない顔で微笑む。そして、アルは、装飾タイルの壁の向こうに消えた。オレンジの大きなお皿に、カットしたフランスパンを盛って、再び姿を現した。

「ごめんよ。パパはあいかわらずだね。客人への配慮が欠けていてごめんよ。母と甘いムードでそのままドライブに行っちゃったんだね。」

あきれ顔で、僕の方を申し訳なさそうに見る。 ブラウンの瞳は、いつもより優しい。僕はムスタフから体を離して、硬くてもっちりしたパンを口に一杯ふくんだ。真向かいの椅子に腰かけて、淡いパープルのテーブルクロスの上に頬杖をついて僕を面白そうに眺めていたアルが、ふっと口を開いた。

「好きなだけ食べていいよ。そのあと、僕の部屋へ一緒に来て。大事な話があるんだ。」

僕から離れて足元にもたれこんできたムスタフの頭を、細い指で優しくなでるアル。

アルの部屋には、幾何学模様のカーテンの向こうから昼下がりの日差しが差し込む。

象牙細工の漆黒のヘアドレッサー。天井付きの貴族のようなフカフカのベッド。まるでスイートルームみたい。

アルに促されてふかふかのソファーの彼の隣に腰掛ける。唐突に、アルは、声をあげて愉快そうに笑い出した。ムスタフの体を抱きくるめるように、まるで子どもみたいに戯れはじめた。

ムスタフと転げまわっているアルを、僕は立ち上がって見下ろした。

「あの人本当に、よくわからないや。」

「そんなこと言っちゃいけないよ。彼は、神と直結した高貴な存在だからね。」

アルはムスタフを抱いたまま涼しげな流し目を僕に向けた。

「ところで、君のお父さんの仕事って何なんだい。」

司祭から話題を逸らしたくて、話の矛先を変えたくなった。 斜めに僕を見据えるアルは、鼻先に手をやりながら、金髪の前髪をかきあげた。

「父の仕事は美術品や骨董品の商人さ。今は日本の大企業の社長っていうか、社長夫人と商談中だよ。またきっと、すぐに日本に行くだろう。きっと、武器商人の仕事も兼ねてね。」

僕は、日本という単語に反応して、冷汗が全身に噴き出した。日本、そこでは僕は殺人犯だ。そして、同時に『武器商人』という言葉にも、一瞬怯えて、戸惑った。

動揺を隠すために、しばらく黙っていた。

アルは、壁に上半身をかけて、長い足を持て余すように交差しながら、ソファーに座る僕を見下ろしている。

「明日君は僕とバルセロナに行って最初の使命を果たすんだ。神からの司令の有り難い仲介人様を悪く言っちゃいけないよ。なんせ君がスペインに来てからの初仕事だからね。」

僕の質問に、ムスタフの顔に、自分の頬をくっつけながら、アルは答えた。


第二章 再会

 ヨーロッパの湿気の少ない、穏やかな日差しの夏の日々にすっかりなじんでいたある日のことだった。

「ユーマ、もう少しましな格好に着替えてもらえるかな。僕のTシャツを貸すからさ。いまから、バルセロナにいくからね。」

アルが、突然僕の部屋のドアをあけ放った。ついでに薄紫色で幾何学模様がちりばめられたおしゃれなTシャツを投げてきた。ソファーに寝そべって窓から吹き込む風に身をゆだねていた僕は、反射的にTシャツをキャッチした。

そして、腕組みして顎をしゃくっているアルの強い視線に促されて、安物のシャツを脱いで、受け取ったTシャツに着替えた。 肌触りが心地いい、きっとブランド物だろうな。高級ものはやっぱり素材が違うんだな。安い洋服しか知らない僕の体は、その肌触りの良さに敏感にちょっぴり感動した。

「出かける前に、君の顔をメイクアップさせてもらうよ。」

そういって、アルは掲げ持ったシルバーの立体式のバッグから柔らかそうな筆ペンとファンデーションをとり出した。そして、ひざまずくと、僕の方に顔をちかづけてきた。 ぼくは、ドキッとした。

「目を閉じて。」

頬のラインにアルの細い指先、そして目元には筆先を気持ちよく感じた。

「日本で犯罪者としてメディアに放出されている顔と同じじゃあ、外出はNGだからね。」

僕は、塗りこまれるファンデーションやアイライナーを気持ちよく感じた。さすがファッションモデル。他人の顔のメイクも上手なんだなと関心しながら。

ブランドが立ち並ぶ大通りを、路地裏に入っていく。

バルセロナっ子のカップルや家族ずれが、細い道の両脇をすり抜けていく。アルは、自分の庭のように軽快に歩いていく。僕は、次第に異国の疎外感や人見知りをするようないたたまれなさが乾燥した夏風と一緒に、吹き飛んでいくのを感じていた。だって、僕とアルは、誰から見ても友達同士に見えるはず。それって、僕みたいな目立たない普通の子路線を走ってきた人間にとっては、やっぱり快感だ。超美青年の友人なんだよって感覚で。

「カタルーニャ音楽堂だよ。」

路地の向こうには、赤茶色の煉瓦に囲まれたガラス張りの建物が視界をふさぐ。アルについて、その周囲を見物するように歩く。まるで、貴族の宮殿のような白い彫刻と花々がちりばめられた可愛いステンドグラス。

一瞬、劇場に入れるのかと思ったが、甘かった。アルは、そこを抜けてさらに路地に入っていった。そして、路地裏の迷路に迷い込んだように、石畳の上をジグザグと足で覚えているかのように進んでいくアル。僕は、不安な気持ちと一緒に、

「アルを見失っちゃいけない。」と必死の速足でついていく。コンパスの差が激しすぎて、悲しくなる。

たどりついた先は、バルセロナっだけが知っているような路地裏の通向けのファッションストリートだった。革鞄や、エスニック風デザインの奇をてらったようなデザインの洋服がショーウィンドウのディスプレイに並ぶブティック。それからおしゃれな帽子が並んだお店。

その奥の一角に、カラフルで大きな食器屋さんがあった。

「やっとついた。」

そういいながら、吸い込まれるようにアルが入っていったお店に、僕も追いかけるように入った。最初に迎えてくれたのはガラス陶器の猫や犬や熊の置物だった。 ピンクやブラウンの帽子をかぶってなかなかチャーミングだ。

アルは、中央に時計の針が回る壁掛けのお皿や、黄色やオレンジ、黄緑、ブルーの色彩が印象派の絵画のように塗りこまれたお皿の数々が並んだ一角を通り過ぎて、二階に通じる階段を昇っていく。僕も、若い店員さんとアルが笑顔を交わすのを横目に見ながら、アルの背中についていった。

ギシギシと音をたてる階段を昇った先には、アクセサリーや、化粧品、絵画なども含めてお皿の備品が床にも棚にも敷き詰められた狭い部屋。その中央の花柄のテーブルクロスの上に、宝石・・、パワーストーンが並ぶ。

「アメジスト、ガーネット、アクアマリン・・。」

笑顔でアルに声をかけながら、石の名前を歌うようにつぶやいている若い女性は・・、ルイじゃないか?

彼女は僕にとって、特別な存在だ。いわゆる、初恋の女の子ってやつ。アルの後ろから、執拗に自分を見つめていた僕を、ルイは見て見ぬふりで、アルに黙って赤い布袋を手渡した。

「ルイ。」

アルの方に、体を傾けながら、コクッコクッとうなずきながら嬉しそうに話を聞いているルイ。僕はその幼い日の面影が残った可愛さに目が釘付けになった。

「サンキュー、ルイ。」

アルが、自分のファンの女の子に接するように、ウィンクしながら、その赤い袋を大事そうに両手で包み込む。そしてそのまま再び、階段を降りていこうとしていた。

僕はそれに従った。幼い日の思い出で心をいっぱいにして。 しばし、白昼夢に陥るかのように幼少期の記憶のフィルムの中に紛れ込んでしまった。

家庭のある男性と風俗業の母親との間に生を受けた僕には、幼少期に父親との記憶は一切ない。ただ、母親は僕を溺愛した。

「私はこんなだけど、あなたの血を分けた父親はとても優秀な人なのよ。」

と、子守歌と一緒にささやきながら。

そして、母が自ら命を絶った時、僕は五歳だった。それは春の暖かい桜色の景色とリンクした記憶になっている。大量に睡眠薬を飲み、青白い顔で、一緒に寝ていたベッドの中で母は動かなくなっていた。ある意味、きれいな最期だったと思う。 たったひとり取り残された僕は、見ず知らずの男性―それは母のお兄さんだったと後から知ったーに連れられて、奈良県にある古風なお寺に近い孤児院に連れていかれた。

そして、そこで僕は、同じ時期にやってきたルイと出会ったのだった。

「ユーマ、これを自分のバッグに入れて。」

僕の様子を伺うように視線を宙に泳がせていたアル。僕は夢からさめるように、我にかえった。

その時だった、奥の続きの部屋から、重低音だが、しっかりした声が響いてきた。

「ルイ、お客様かい。」

そういって、長身のほっそりした姿勢のいいおじいさんが姿を現した。白髪にしゃれたチェックの帽子をかぶっている。グレイの髭をなでながら、厚底の鼈甲のメガネの向こうの大きな目で、アルを見上げる。

「リンゼイ爺さん、久しぶり。」

たぶんそういったと思う。学校で習っている分英語は少しだけなら、僕にもわかる。

「元気だったか、アル?」

まるで久しぶりに会った孫のように愛しそうにアルを見た。そして、二人はハグした。二人は流暢な英語でしばらく語り合っていた。

「ユーマ、僕はリンゼイと少し話したいんだ。悪いけど、登ってきたのとは反対の階段を降りると、骨董品店なんだ。そこでしばらく、待っててもらえるかな? 」

有無を言わせぬアルの切れ長の長いまつ毛からの視線にたじろいだ。

アルはリンゼイ爺さんの歩みにあわせながら、奥の部屋へ。そこは、壁四方にぎっしりと栗色の本棚が並んでいる。たぶん百冊以上の、辞典のように分厚い本、本、本。書籍でできた森のようだ。

「僕はここでリンゼイと話したいことがある。君は、先にあっちの階段を降りて、リンゼイ骨董品店で、待っていてくれないかい?」

「わかった。」

と肯く。本の森と、孫とおじいさん風の二人に背中を向ける。 そして、仕切りの薄い木のドアを開けて、再びルイの部屋に再び。今度は一人で足を踏み入れた。心なしか、忍び足で。

ルイの左脇を、壁づたいに歩く。彼女が座っている位置からは一メートルぐらい離れたところを。当然普通の人なら、気づいて見あげるだろうと思う。だけど、彼女は気づかない。

『そういえば、孤児院でいたころから、漫画を読んでいる時とか集中してまわりに一切気づかないところがあったよな。』

しばらく彼女を見つめて立ち止まっていた。声をかけようかどうか?だけど、石が並んだ大きな机で、まるで経理担当のように、タンタンタンッと小刻みなリズムで、電卓を叩いているルイ。 仕方なく、そのまま左脇の階段をミシミシと降りていった。少しだけ振り返ると、ルイと目があった。階段の音で、やっと気付いてくれたらしい。少しだけ振り返ると、ルイと目があった。階段の音で、やっと気付いてくれたらしい。話しかける勇気が出せずに、階段の足もとに視線をすぐに落とすと、急いで下に降りていった。

『リンゼイ爺さんの店…』

ビートルズの明るい歌声が流れる店内には、壁掛けの鳩時計がカチカチと音をたてていた。そして、宇宙空間を描いたような神秘的な絵が飾ってある。

「どこかで見たことがある・・」

僕は腕組みをして記憶をたどった。 確か、スペインに来たばかりの頃。海を背景にしたアルのモデル立ちする姿。 そうだ、そのあと歩いた路上パフォーマーのおじいさん。

「彼の絵に間違いない。」

腰ぐらいの高さの台の上には、小さなマンドリンめいた弁柄色の楽器。それから、メリーゴーランドのように木馬がまわる装飾を冠のように掲げた深緑色の円時計・・。

チーチー チュルルー

すぐそばに、鳥かごがあった。その中で、二匹のインコが合唱するように鳴いている。黄色と緑の羽を時々ばたつかせながら。少し模様は違うけど、両方とも頬のあたりが赤くて、かわいらしい。店内の芸術的な空間に圧倒されてしまった。

僕は、鳥かごの方に向かい、しばらく二匹のさえずりを目を閉じて聞いていた。

この空間、リンゼイさんの宝箱みたいだ。そして、目をあけた。 二人が降りてこないのをいいことに、僕は店内骨董品をひとつひとつ手に取って観賞した。 ふと、カウンターのそばにあるセピア色の古い写真を見つけた。

ロンドンの国会議事堂の前の門だろうか。すぐ手前にロンドン名物の背の高い深紺色の帽子の正面に威厳のエンブレムをつけた兵隊さん。その横で、議事堂を見上げているのは、もしかすると若き日のリンゼイさんと、アルだろうか。

ミシミシと音がして、アルが二冊の宗教書のような分厚い本を抱えて降りてきた。その後ろからゆっくり降りてきたリンゼイさんと、目が合った。

「アジアンボーイ、その写真を見ていたんだね。目ざといもんだ。

それは、若いころ私が、ロンドン警察と連携して探偵業をしていた時期の写真だ。観光に来たアルと撮った記念の一枚だよ。」

僕の存在を気遣うように、リンゼイさんは尋ねてもいないのに説明しながら、僕の方に近づいてきた。

「へえ、その探偵みたいな帽子といい、物腰もイギリス紳士っぽいなって思ってたんです。カッコいいですね。探偵業やってたんですか、シャーロックホームズみたいだあ。それからね、僕名前は、ユーマって言います。」

僕の挨拶に、リンゼイさんはフォッフォッと笑いながら、カウンターの後ろの椅子にゆっくりと腰かけた。アルはその背後で、二冊の古い色違いの書物を大事そうにプラダの鞄に入れている。

「それから、あの壁にある宇宙空間のような絵。」

僕が、そう言うと、リンゼイさんだけが反応した。

「あれは、わしの親友のルドルフが描いた絵だよ。」

絵の方に近づく。その間、アルは自分は話に関係ないというオーラを発しながら、革鞄の中にいったん入れた革表紙の本をもう一度取り出して、ペラペラとめくっている。

「ルドルフさんて、石畳の通りの路上に、絵を並べて、パフォーマンスしてる人・・。」

「その通りだよ。街歩きは楽しんでいるようだな。彼は有名な画家だが、いまだに路上でたくさんの人に囲まれて、大道芸人みたいに描くスタイルを変えられないらしいな。君の目にもふれたってことか。」

僕は、たぶんすごい目を輝かせていたんだと思う。

「そう、あのおじいさんのエネルギーには圧倒されました。人だかりの中で、無心に絵の具をほとばしらせて、宇宙空間の絵を描き上げたんです。僕も両手が痛くなるくらい拍手してました。」

リンゼイさんは、ふふんと顎髭に手をやった。

「でもな、ルドルフは両親を学生時代に亡くしてな。親戚中をたらいまわしにされて、荒くれた思春期をすごしているんだよ。三十代前半ぐらいまでバックパッカーっていうのかな、ヨーロッパ大陸中を流浪の旅によく出ていたんじゃよ。学生時代に大親友になったわしと、今の奥さん、当時の恋人だけには、滞在中の国の絵ハガキを『元気です』とかなんとか、一言だけそえて送ってきてはくれたがね。」

ぼくは、ルドルフさんの生き方に、ものすごい興味がわいてしまった。 アルは、挨拶をしながら、リンゼイさんのもとに駆け寄って、ハグをした。

僕はその短い時間に、再び店内をぐるりと見回した。本当に大事な物だけに満ちたリンゼイさんワールドだ思いながら。

そして、店を出る時には、ウィンドーの前で、しばし立ち止まった。まるでオルゴールみたいな装飾のシルバーの古い時計。それから、知恵の輪のように無数の輪が連なって、その中で星と月が揺れている円時計もあった。どれも間違いなく一点ものだ。

ノスタルジックに時を奏でる時計の針が指ししめす時刻は、すでに夜の八時を過ぎていた。

「なんでこんなに明るいんだろう。」

まだ夕方を迎える前みたい。

「ヨーロッパの夏は日暮れが遅いんだ。地球上の位置の関係でね。君は日本から出るのは初めてなんだね。こんな当たり前のことに驚きを感じられてある意味うらやましいよ。」

皮肉ともとれる言葉のあと、アルはウィンクしてまた長い足をスルスルと闊歩させて細い道を音楽堂の方に向けて歩いて行った。僕は懐中時計や鳩時計の並んだショーウィンドーをしばし楽しみたい思いに駆られつつも、急いでそのあとをおいかけていった。 しばらく歩いて、音楽堂が見えてきたところで、アルは急に足を止めた。

目元にはいつの間にか、シャネルのマークが小さくきらめく、サングラスをかけている。

「やっぱ、二冊は重いな。いいや、どうせ守り石といっしょに司祭のもとに行くんだからな、今渡しておこう、ユーマ。」

アルは肩を軽くしならせてプラダをひざ元にずらすと、チャックを開けてそこから、深い緋色の書物を取り出した。そして、僕の方にいきなり近づいてきて、僕の耳元に唇を近づけると、

「これも一緒にね、司祭に渡して。」

とつぶやいて、するっと僕の右手のアルのお古の焦げ茶色の革鞄の中に入れ込んだ。

再び、僕に背を向けて黄昏の小道を音楽堂に向けて、スルスルとスマートに歩いていく。すれ違いざまに、アルの美しさを目で追う彼氏連れの美人たちに目もくれずに。

「今日は、何のコンサートかな・・・。またペネロペと観劇にでも来ようかな・・・」

僕に聞こえるようなつぶやきと、それから口笛を吹きながら。


バルセロナでルイと再会してから、一週間近くたっていた。それは、豪邸の裏庭の木々も枯れ葉を落とし始めた、秋の訪れをしらせるような爽やかな風が吹く日だった。

「今から、私の車でバルセロナに行くわよ。お兄ちゃんからの頼みって、断れないのよね、私。」

そう言って、ウィンクしながら、僕の部屋をノックもせずにあけたミランダ。穴あきのスリムジーンズ。両手を組んで高飛車に立ったまま、僕を見下ろしている。立ち姿がアルそっくりだ。 その時僕は、マリンさんから借りたサグラダファミリアの大きな写真集をペラペラとめくりながら、ソファーに腰かけていた。サッカーの中継のテレビをつけたままで。

トレーナーとブルージーンズ姿の僕を目に入れると、ミランダは僕の両手を強い力でひっぱった。

「その格好なら、まあ問題はないわ。持ち物は、守り石と深緋色の書物。それだけだって。そういえばユーマにはわかるって。さあ、用意して。すぐ出発よ。」

僕は、象牙色の鏡台の右上の引き出しから、小さな赤い革袋を取り出した。

それから、黒ずんだ金色の鍵がかかった金襴にまわりを縁どられたずしっと重い書物。インテリア骨董品としてしばらく、洋服用の棚の上に、たてかけておいたのだが、お別れだな・・・。中央にキリスト像が精巧に彫り込まれた部分を両手で大事に持ち、 一緒に革鞄につっこんだ。

屋敷の正門を出て、森林の中の同じ景色が続く道を、猛スピードでかけぬけるミランダの赤のオープンカー。

『ミランダのスピード狂!急に森の鹿とか小動物が飛び出して来たら、きっと衝突してみんなで一緒にお陀仏だろうな』

恐怖心で、顔にあたる強い風だけを感じながら、目を閉じた。僕が育った奈良では、鹿と車の衝突事故とか、よくある話だったから、自然とそれを想像してしまったのだった。

『もしそうなったとしても囚人の僕より、モデルで美人女子大生のミランダにとっての方が、薔薇色の未来が奪われるって意味でははるかに大きな損害だよな。』

そう自分に言い聞かせて、無事に目的地に着くことを祈り続けた。そのうちに一時間近く経過していたらしい。 次第に、バルセロナの都会的で芸術的な建築物を横切っているのに気づいた。じわじわと、ミランダもスピードを緩めていく。

「さあ、着いたわ。ユーマ、あなただけここで降りて。大聖堂の中へどうぞ。兄からの頼まれごとは、ここまでよ。」

そう言って、スピードを一気に緩めて停車した。豆粒のように見えていた小さなテント。そしてその向こうには石段に腰掛けてくつろぐバルセロナの人々。

空へ突き刺さるような三角円錐の屋根。ネオゴシック様式のファザード。僕は観光客向けの土産物が並んだテントのまばらな人ごみを抜けて石畳の道を歩いて行った。振り返ると、もうミランダのオープンカーは走り去っていた。

僕の存在意義って何?心の奥ではわかっている、僕は殺人犯人なんだ。いくらそれが神の指令に基づいた正当な行為だとしても。

「悪人を葬る正当な行為」だって・・・。その言葉を放った司祭と再び会えるんだ。

心の黒ずんだ霧をどうにかしたかった。スポーツカーがバルセロナに近づいていく。

『司祭に会いたい』

モチベーションが僕の中でピークに達して、スペイン人のカップルや親子ずれがたむろする、聖堂前の広場と階段を、意気揚々と上がっていった。

正面扉を開ける。暗がりの中に、右左に伸びた側廊に沿って並ぶステンドグラスの虹のような光の筋。紋章や聖人が絵画のように規則的に並んでいる。

「よっ、久しぶりユーマ。」

耳元に届いた声。アーチ状に規則的に組まれたアーケードから伸びる円柱。そして漆黒の幾何学模様の鉄柵の向こうに放射状に伸びるシルバーの太陽を象った祭壇の下側。ひょっこりと立つ司祭の姿があった。

「約束の品をまず渡してもらおうか。」

僕はその言葉に従って、まずは赤い巾着を手渡した。司祭の金襴装飾の白い帽子と、赤いマントに威圧感を感じながら。司祭が僕から巾着を受け取った。そして、彼の右の手のひらには、アメジスト、ガーネット、アクアマリン・・・それぞれの特有の色彩が並んだ。

すっと腕をのばして手のひらの石をステンドグラスの方に向ける。すると、より一層キラキラと豊かな色彩で輝く石。まるで宝石のようだ。

しばらく光のシャワーを堪能した後、司祭は体の向きを、祭壇のシルバーの天使像の下のキリストの方に向けた。そのまま両手を握りしめて胸元にもっていった。神に祈りをささげるように。僕はその姿を横目で見ながら、ずっとステンドグラスと、外からの太陽の光が作り出す立体的な色彩の競演に見とれていた。しかし、その後の司祭の言葉に僕は色を失った。

「初恋の女性に再会した、感想をまず聞こうか?」


司祭の言葉に、僕は顔が真っ赤になるのを感じた。左上から鋭角に、ステンドグラスを経過した外の光が、足元に色彩を奏でている。僕は、思いっきり下を向いて答えた。

「確かに嬉しかった・・・。けど、なんでそれを知ってるんだ・・・。」

僕は、自分の過去のすべてをこの司祭に握られているような恐怖心を感じた。

「すまないな、なんせ過去のヒストリーを含めて、この任務にふさわしい人間を探し当てる必要があったもんでな。候補者すべての過去を、神に授かった力で検証したうえで、君を適任者としてわしが選んだんだよ。」

フォッフォッフォッ

司祭の笑い声と一緒に、その金襴が縁どられた司祭服が、足元で揺れているを見つめていた。そのうちに、司祭はビリジアンとクロムイエローの司祭服の胸元に石を包み込んだ手をつっこみ、裏のポケットにおさめた。

「あと深緋色の魔術書もな。」

司祭の言葉に応じて、僕は右肩のバックをずっしりと重くしていた書物を、両手で神妙に司祭に手渡した。両手を思いっきり伸ばして。

司祭はそれを、まるで経典でも抱くように、胸元に抱きかかえた。

「ユーマ、次の指令だ。再び正当な殺人を遂行してもらう。」

僕は、目を丸くして全身ががくがく震えだすのを感じた。 別の感情で顔が真っ赤になって、体中に燃えるような炎を感じた。

「いやだ。僕はもう、人殺しなんかしたくない。」

首をできる限り大きくブンブンと振った。

そんな黒い迷い羊を見下ろすがごとく、視線のずっと向こう側に、天使に囲まれたキリスト像。天井近くの薔薇窓から差し込む光に照らされている。

「それは無理な相談だな。なぜなら私からの指令を果たすことが、君が生かされている理由。つまり、君の唯一の存在価値だからだよ。」

僕は、無性に腹が立って、同時に涙がこみあげてきた。全身が震えるのをおさえるように首を下に向けた。

「それに殺人とはいっても、良心的な行為だよ、ユーマ。生まれ変わって、現世とは違う幸福な人生を、来世で享受したいという依頼人の願いを叶えるためなのだから。」

僕は、司祭の方をグッと見据えた。

「その人物は、実の父親を殺さなければならない運命を背負っている。生まれながらにして、悪人の憎き父親をね。そして、君の使命は、彼の幸福な来世を導くこと、そのための殺人だ。しかしな、それはまだだいぶ先の話だ。今回は、指令予告みたいなものだな。それまでは、のんびりスペインを堪能するといい。」

『囚人の身で、どうやって堪能する?』

僕はその思いを込めて、司祭を全身の力を集めて睨みつけた。すぐそばの側廊の上方にはめ込まれた荘厳なパイプオルガンとマスコットのように舞い飛ぶ天使たちの像横目に流し見しながら。


 僕は、市場で袋いっぱいのフルーツやチーズ、そして葡萄酒を買い込んだミランダの車を、夕方の大聖堂の前に再びみつけた。そして、車中ずっと、うとうとと現実と夢の中をさまよっていた。

「ついたわよ。荷物を持って、ちょうだい。」

運転席から、茶色いマーケットの袋を乱暴に僕の方に押し付けてきた。僕は仕方なく、その場で星が瞬き始めた空を見上げながら、家の鍵を持つミランダが車のエンジンを切る音がするのを待っていた。

「僕、食欲ないから、今日はこのまま寝させてもらうよ。」

食卓に、彼女のディナーがつまった袋をドンッと置くと、僕はそのまま二階に駆けあがった。階段の横に、ムスタフが横たわっている。眠っているみたいだな。

僕は、階段の螺旋から、斜めに一階の方を見下ろした。ミランダは一人でフルーツディナーに興じているようだ。僕は、そのまま自分の部屋ではなく、アルの部屋に直行した。

探りたいことがあったからだ、どうしても。そして、まるで女性の部屋のように所狭しと、高級そうなブランドの瓶の化粧品や、メイクアップ道具がならんだ鏡台の下の、ファッション雑誌が無造作にたてかけられた小型のブックレットの奥に、見つけたのだった。萌黄色の表紙に金襴の縁取りの装丁の分厚い書物を。隅が薄茶色に変色した羊皮紙の古い紙を一枚ずつパラパラと開く。

「これ、本じゃない・・・・。」

最初の数ページには、エジプトの古代絵文字のような文字が描かれているが、中央の大部分はえぐるように切り抜かれている。

そして、その部分にぴっちりとはめこまれていたのは、漆黒の拳銃だった。そのとき、扉の外にムスタフの足音がした。

「もしかして、ミランダが上がってくるかも。」

僕は急いで本を元に戻した。そして、忍び足でドアを出て、ムスタフを精神安定剤のごとく、抱きしめた。そしてすぐに自分の部屋に戻った。ドキドキと心臓の音。心臓が口から飛び出そうなぐらいに、高鳴るのを感じながら。

僕はその夜、夢を見た。両手に拳銃を握って射し伸ばした両手。そして、指先で引き金を引く感触。すると、目の前のメガネをかけたスーツの男性が血を流して倒れた。ズキューン。あたりが見る見るうちに血の海になっていく。水たまりのようにひろがっていく深紅。

血の匂い。死の色。僕の犯した罪。

深夜にうなされて、目をさました。全身が汗びっしょり。そしてその朝から、人間の道を外れてしまったという瀕死の心の傷がズキズキと疼き始めた。まるで記憶喪失に陥っていた人が、急に記憶が戻ったように。自分自身への憎悪と、骨の髄までの倦怠感。

『再び正当な殺人を遂行してもらう』

司祭の言葉が頭の中をリフレインする。急に全身が震えだして、毛布にくるまってベッドの上で丸くなった。そして、震えたまま、しばらく泣いた。

一時間ぐらい泣いていただろうか。次第に、心が落ち着いて行った。憎悪の残照を涙と一緒に流して、僕はいつしか深い眠りについていた。


 次の日の朝から、ミランダが運転する赤のスポーツカーで、大きなトランクと一緒にロバートさんとマリンさんはビジネスのため旅立った。日本へと。

朝方の、バルセロナ空港への出発のための一階の喧騒。それを尻目に、耳元に枕を押し付けて、ベッドでまどろんでいた僕。

キャイーン、キュルーン。

ベッドの脇でのムスタフの元気な鳴き声。ムスタフが、短パンの下のむき出しになった僕のふくろはぎを、ペロペロとなめる。その感触に、僕は仕方なく上半身を起こして、ムスタフの頭を撫でた。

昨日飲んだ葡萄酒のせいでお昼過ぎてもまだ、頭がガンガンしている。だけどそんなのお構いなしに、ムスタフは僕の体を一階に導くように、フワフワの体を押し付けてくる。ムスタフに導かれるように階段を降りて、玄関の扉から外に出た。

天使像に支えられた噴水の前。アルが噴水に体をもたれかけて、まどろんでいた。水音が、バックグラウンドミュージックのように響く。駆け寄った僕に向かってアルが声をかけてきた。

「父さんはまた、日本人の社長夫人や令嬢たちに宝石や絵画を売りさばいて稼いでくるんだろう。」

中庭の周りをオフホワイトの列柱が囲む。アルは、噴水が四方に螺旋を描く上から、音符をなぞるように指先を水面に泳がせている。僕の幼少期の記憶。追憶の輪のように、水面に広がる輪の連鎖。

「そのおかげで、君たちはこんな貴族みたいな暮らしができるんじゃないのかい。しかもこんな宮殿のような豪邸で。」

アルは、僕の言葉に返事をしなかった。豪邸暮らしのおこぼれを授かって生きている身だ。彼が話したがらない話題を続けるのには、危機感をおぼえた。

黙って、八体のライオンの像に支えられた円形の噴水の中央から、水が湧き上がっては水面に落ちて、円形の波を無数にたてる様を見つめていた。

「久しぶりに、リンゼイに会えてよかった。僕にとっては親友であり、父親のような人だからね。」

二人の親し気な姿を思い出した。そして、心に浮かんだのは、アルに特上の笑顔を向けていたルイの姿だった。その眼中に僕の存在はなかった。

「僕は、ルイのこと知ってるんだ。」

アルに対して探りを入れるように、つぶやいた。午後の斜めからの日差しが水面に差し込んで、キラキラと輝いている。

「それは、司祭から聞いてるよ。だからこそ、君とルイを引き合わせるのが、今回の僕の仕事のひとつだったのだから。」

僕は、どの程度まで僕とルイのことを、アルが聞かされているのか探っておきたかった。

「僕は、幼少期の一時期を、ルイと一緒の奈良の孤児院で過ごした。君は、そのことを知っているのかい?」

僕は、モチベーションに駆り立てられていた。

「知っていたら、なんだい?何か変わるのかい?」

アルは、まるでムスタフへのささやきのように、天使像と同じ高さに身を縮めたまま、僕の方を見ずにささやいた。

「もしそうなら、君は奈良の孤児院のこと知っているってことになるから・・。」

アルは、ムスタフを抱きかかえて、立ち上がった。ななめから僕を見下ろしながら。

「そうだな、確かに知っているよ。けど、それで変わることなんて何もないよ。君は君だよ、ユーマ。そして、僕は僕だ。」

アルは、噴水の手すりに右腰だけをもたれかけたまま続けた。

「それに、僕だって同じ孤児院で幼少期を過ごしてるんだからね。」

僕はその言葉に驚いて、よろめいた。中庭を取り囲む列柱の上部の繊細な幾何学模様の彫刻をぐるりと眺めまわすように。よろけて天使像の足元に倒れ込んだ。

「もっとも、君が父親の親族のもとに引き取られてから数か月後に、僕とミランダはあの孤児院に入った。だから、一秒たりとも君とは幼少期を共にはできなかったけど・・・残念ながら。」

「じゃあ、君とルイは孤児院で知り合ったのかい?そして、僕がルイを好きだったことも君は知ったうえで、彼女と引きあわせたのかい?」

僕は、混乱状態に陥っていた気がする。だから、そんな言葉を口走っちまった。アルは、クックと目を細めて冷笑した。

「それは、今初めて知ったよ。どうしてルイの前で告白しなかったんだい?せっかく初恋の人に会えたのにさ。」

アルは、斜めから差し込んできた午後三時ぐらいの太陽の光の筋に、目を細めた。そして、左の肩にムスタフの体を持っていくと、シルバーの指輪が輝く右の薬指をピシュッと水面につけた。

「それからね、ユーマ。君を連れてバルセロナにいったのは、指令に従って君を導いただけのことだ。それ以上でも、それ以下でもないよ。あんまり邪推しないほうがいいな。」

アルは、右指を水面から話す瞬時のタイミングで、僕の額のところに数滴ピシャッと水をかけた。


 噴水の前で会話した日から一週間以上も、アルは、恋人のマンションに外泊したままだ。僕の中には、アルの美しい外見だけではなく、内面の何かもやもやとした混沌とした領域を強く感じ始めていた。

とらえどころがなくて、いつも誰に対しても、警戒心を抱いているアル。そんな神秘的な存在感が僕の心に大きな動揺をあたえる。アルといると、自分の存在がどこかに行ってしまいそうな不安を感じる。彼にとっても僕にとっても、僕はどうでもいい存在なんじゃないか。

だけど、それでいて時々、アルと僕は何か共通した心の傷があるような気もするのだ。本当に、混沌とした感覚だけど・・・・。

ここ数日間は、リチャードさん夫婦は日本滞在中で不在。当然、ディナーは僕とミランダの二人きりだ。しかもミランダは、スリムな体系を維持するため、果物ディナー主義者。大学と仕事を終えた帰りに、バルセロナの市場で袋いっぱいの買い物。それをお気に入りのピンクの大皿に、嬉しそうに並べる。葡萄、マンゴー、西洋梨、そしてチェリーや、イチジクの甘い芳香をダイニング中に広げながら。

「フルーツ以外が食べたいなら、冷蔵庫や、冷凍の食材を使って、ご自由に調理してね。口うるさい継母がいない間は、お互い好きなものだけを食べて、楽しいディナーを過ごしましょっ。」

立ち上がってシルバーの縁取りのワイングラスを二つ並べて、ルビー色の葡萄酒を並々と注ぐ。そしてその一方を僕の手前に置くと、立ったまま豪快に自分のグラスを飲み干す。

そして、満面の笑みを浮かべて、頬をお皿と同じピンクに染めながら、紫の葡萄の粒を口元に放り込む。

几帳面なマリンさんが不在だと、まるで酒場にいるみたいだ。

僕は、スペイン料理の本が並んだ壁際の棚から手前の一冊を取った。スペイン語は読めないから写真だけを目で追って、一連の流れを頭にたたきこむ。そして、向日葵模様の壁の向こう側のキッチンへ向かう。

マリンさんのキッチンに初めて足を踏み入れる。そして背伸びして冷凍庫の扉を開ける。ひんやりとした冷気の中に頭をつっこむ。ひとつひとつラップされた冷凍食品や、整然と並ぶ保存パックを手で探る。数分間の格闘後、僕はオイスターと冷凍ご飯を探り当てた。

システムキッチンの端に一列に並んだ調味料と、トマトケチャップをフライパンで混ぜて『パエリアもどき』を完成させる。そして、火を止めた。深くマリンさんの不在を嘆きながら。

『まあ、いいや。自分の空腹を満たすためだから。味は二の次。』

僕は重たいフライパンからパエリアもどきを皿に移し替えて、そのままテーブルに向かった。

「ユーマ、よく頑張ったわね。まあお世辞にも美味しそうとは言えないけど。いいわよね、自分で食べるんだから。さあ、座って。一緒に飲みましょう。」

白い肌を真っ赤に染めて、明らかに酔いが回った言い回しだ。僕はミランダの向かい側にケチャップ色のディナーを置くと、スプーンですくって食べ始めた。

「さあ、ユーマも飲んで、飲んで。」

マリンさんの作ってくれるいつものディナーと比べると悲しいくらい味が落ちるのをごまかすように、葡萄酒を流し込んだ。体中に酔いが回る。ふと、ミランダに向けて無意識に言葉を放っていた。

「君も、僕が孤児院時代にルイを好きだったことを知っているの・・・。」


ミランダは右足を隣の椅子に投げ出して、ついさっきまでフルーツが山盛りになっていた皿をよけるように、テーブルにつっぷしたまま、身体を震わせて笑い出した。

「そこまで、私が知るわけないわ。ユーマは馬鹿正直ね。ただルイとは、孤児院でいつも一緒に遊んでいたわよ。明るくて優しくて本当の姉妹みたいに感じていたわね。でもアルは違っていたわ。なんだかルイを毛嫌いしているみたいだった。ルイと別れる時には違ったけどね。今でも、よくおぼえているの。父が、私たちの日本人の母親の自殺を知って、私たちを探し当ててくれた後だった。父が私たちを、引き取りに孤児院に来た日だったわ。 矢野のおばちゃんから、その事実を告げられたのはほんの数日前だった。 そしてその夜、ルイと抱き合って泣いていた私と折り重なって、激しく泣きじゃくっていたのはむしろアルの方だったわ。」


 残暑・・、といっても乾燥した空気のおかげで、気だるさや重さのない気候、でも連日曇天が続き雲の色はグレイだが、それさえもまとわりつくような湿度をなくしてくれているように感じる。

僕の体にはヨーロッパの気候は合っているのかも。そんな思いを交えながらバルセロナのサッカーの試合をボーっと見ていたある昼下がり。

突然、窓の外に轟音が響いた。見慣れない白い車。

僕は、少しだけ冷気を帯びてきた風を頬に感じながらも、窓を開けて正門の方を覗き込んだ。

すると、車から姿を現したのはルイだった。運転席の方に、茶色い髪と髭をはやして丸眼鏡をかけた男性。ルイは一緒に降りようとした背の高い朗らかそうなスペイン人男を制しながら、

「一人で行くわ」

という風に、きっぱりと彼にささやきかけた。そのまま、玄関の方に向かいベルを鳴らした。

僕は反射的に、自室のドアを開けて、対峙を避けるため玄関から死角になる位置を選んで、階段の手すりに身を横たえながら、下を眺めおろした。

「よく来てくださったわね、ルイ。」

旧知の仲のように見たこともないような穏やかな笑顔で、マリンさんは彼女をダイニングに招き入れた。

ロバートさんに同行して二週間の日本滞在。それを終えて、三日前に帰国した彼女。ロバートさんはその足でバルセロナでの仕事に入った。マリンさんはゆったりと、体の疲れを休めるように過ごしていた。

繰り広げられている光景に遠目で目を凝らす。それから、音をたてないようにゆっくりと階段を降りていった。

ありがたいことに、ムスタフは庭にいるようだ。僕はそのまま、スリッパもはかないでソロリソロリとダイニングの装飾扉の方に近づいた。ドアの間が数ミリ開いており、話し声は聞き取れそうだ。

コポコポとお湯を沸かす音。そして、扉の隙間からアールグレイの芳香がただよってきた。

「この間は、ルイのおかげで本当に助かったわ。日本の宝石ジャラジャラの社長夫人にルビーや水晶の高級なパワーストーンを購入してもらえたし。主人に変わってお礼を言うわ。」

ルイが紅茶のカップをスプーンでかきまぜるカチカチという音が聞こえた。そして続けてルイの声。

「そうね・・。確かに私にとってもありがたい商談だったわ。お礼を言いたいのは私の方。 だけどね、マリン。言い方が悪いかもしれないけど、今後私は、ロバートの商談に同行するのは遠慮したいと思っているの。」

その後、ルイが続けた言葉は、僕の位置からは聞き取れなかった。 僕は悔しくて、扉に顔をさらに近づけ、耳の穴を両手でかっぽじった。

「それって、主人が違法なことをしてるってこと?日本の暴力団の組織に爆薬や拳銃を闇商売してるってことなの?」

僕は、あまりの驚きに、膝ががくっとなり、もう少しで床に崩れ落ちそうになった。ルイが、思いのほか声を荒げたので、二人には気づかれずにすんだみたいだ。

「そうよ、しかも私が盗み聞いたところでは、かなり前から非人道的な違法取引を繰り返しているのよ。だから・・・。」

その後、マリンさんはルイを諭すように小声で心情を吐露しているようだった。実際、僕の位置から数ミリの隙で見えるマリンさんの顔には涙が浮かんでいたから。ただ、内容までは聞き取れなかったし、その涙が目に入った時点で、これ以上盗み聞きをすることに対して強い罪悪感が僕の中に芽生えていた。

背中に可愛いピンクのクマの絵柄をつけたルイが、椅子の右側に置いたバックを持ち上げて、何かを取り出すのがわかった。

「これは、あなたへのプレゼントよ。マラカイト。痛みや心の苦しみを吸収してくれる力があるパワーストーンよ。」

そう言いながら、ルイは立ち上がり、背中からマリンさんを抱きしめた。そして、その細い指先に緑色の丸い石をにぎらせた。

「リチャードとは、今後パワーストーンの流通経路になる以外はいっさい関わらないって了承をもらってあるわ。裏方人間だから、表仕事はお手上げだって言ったら、豪快に笑ってすぐわかってくれたから。」

マリンさんは、薔薇のハンカチで自分の涙をぬぐっていた。その華奢な肩をルイがぎゅっと抱きしめた。そして数秒後に、体を離し、庭の方にゆっくりと歩を進めながら、きっぱりと言い放った。

「彼は、闇取引に足を踏み入れ、その泥沼にズボズボと足をうずめてしまったのね。もう、そこから抜け出せないぐらいに深くまでね。まるで金に狂った魔物のよう。あなたにはこんなこと言いたくないけど。でもそれは悲しいけれど、私にとっては・・・真実なの。」

マリンさんは、その後、中庭の方に向かっていった。それからしばらく、ルイの方を振り返ろうとはしなかった。細い背中が小刻みに震えていて、涙をこらえているようだった。僕は、その姿が不憫でしかたなくなって、そのまま、足音を立てないように、そろりそろりと二階に続く階段をのぼっていった。そして、自分の部屋に戻ったのだった。

窓の外をふと、見下ろした。さっきのブラウンのソバージュヘアと口ひげをたくわえた、丸眼鏡の男性が正門のドラゴン像や、天使の彫刻が施された装飾柱、プラタナスの木々をゆっくりと観賞しながらぶらぶらとしている。ルイの旦那さんだ。


 その日も、日課になっていた三時過ぎの庭の散歩をしていた。 天使の像に支えられた噴水の水が輪を作り、僕の顔をジグザグに映す。心の中にも追憶の輪が過去に向かって、無意識の水面を揺らす。

ルイ・・・。昨日盗み聞いた会話。彼女の正義感の強さも相変わらずだ。そういえば孤児院時代も、ひきこもりがちの僕に向かって、まるでドラえもんのジャイアンみたいに偉そうに接してくる太った大きな男の子ー名前は忘れちゃったけどーに、「弱いものいじめはやめなさいよ。」と真っ向から対峙して、僕を守ってくれたっけ。

幼少期の記憶がリフレインする。孤児院の生活になじめず、一人で遊戯室の壁の本棚に並んでいた藤子不二雄や手塚治虫の漫画本を読みふけったり、テレビゲームをしていることが多かった僕。

「なにやっているの?」

のぞきこんでくる目がくりくりした、三つ編みの可愛い女の子がルイだった。ピンクのワンピースがよく似合っていた。次第に、僕は彼女に対してほのかな恋心が芽生えていた。

ルイは僕が、ドラえもんや、鉄腕アトムの絵をノートに真似して描いたりしていた時も、隣で大きな目をさらに見開いて、興味深そうに見ていてくれたのだった。それから、漫画を描いて遊んだり。

「手塚治虫先生ぐらい壮大なストーリーを私が考えるわ。その世界をユーマが描いてちょうだい。それで、藤子不二雄先みたいな二人三脚の漫画家に将来なりましょう。」

ルイは、片手にオレンジジュース、そしてお好みの漫画本をもう片方の手に掲げ持って、子供特有のビッグな夢を語っていたっけ。一匹狼の僕と違って、施設のほかの子たちとも仲良く、滑り台や、ジャングルジムや、鉄棒で遊んでいた。だけど、その途中で、プレイリングルームにこもって、古い木の机と椅子に座っている僕のところに、息を弾ませてやってくるのだった。

「ユーマ、漫画ばっかり読んでないで!」

本棚の隅の棚から、スケッチブックとクレヨンを僕の前に置くのだった。

「さっき思いついたのよ。お話の続き!いい、主人公が・・・・・。」

そのルイのイマジネーションの世界を、僕は必死で、僕なりの解釈で絵にしていく。クレヨンをこきこきと必死で滑らせて。

「いいわ、この絵よ!」

ルイが褒めてくれると僕は、満足だった。なぜなら、八十パーセントぐらいの割合で、ダメ出しが出るからだった。

「違うわよ。この絵じゃないわ。描きなおし!ヒロインはね・・・。」

その言葉を合図に、目の前に描いたクレヨンの落書きを破いて、机の下のごみ入れに、放り投げることを繰り返す。

そんなある奈良の厳冬の日の出来事だった。

「君を迎えに来たんだ。」

みんなのお母さん代わりの、どっぷりとした体格に、誰をも包み込むような満面の笑顔をいつも浮かべている佐藤さんと一緒に、僕の目の前に現れた男性。ビジネススーツを着込んだ見知らぬおじさん。僕は、矢野さんに手伝ってもらって、リュックに衣類など、身の回りの物をつめこんだ。その様子を、孤児院の子供たちは襖の裏に隠れて見守っていた。その中で、僕と目の合う位置で、涙を浮かべて立っていたのはルイだった。

僕はそのおじさん、いや実の父親と一緒に、孤児院に手を振って、門を出た。そして、その日を最後にルイとは会うことはなかった。

ヒューヒュー キュンキュン

気づくと、僕の足元にムスタフがいた。ムスタフの頭をなでながら身をかがませる。不意に、脳裏のルイの背中が、司祭の顔に変化した。ルイから受け取ったパワーストーン。

僕は、考え事をしながらムスタフをつれて、アーケード状の円柱の方に向かった。

それから、細い赤煉瓦の小道の上を、建物に沿って裏庭に抜けていった。 裏庭では、三メートルぐらい四方の池の水鏡が太陽光線と一緒に豪邸を映している。囲い込む外塀にそって並び立つプルーン、オレンジ、アカシアの木々の甘い芳香が立ち込める。そして、左右の花壇には、薔薇の花が咲き誇っている。いつものように、マリンさんのピアノの音が、鳴り響いていた。

たぶん、ショパン・・。クラッシックの名曲だ。僕はクラッシックのことはよく知らないけど、マリンさんはピアノの名手でもあることは、そんな僕でも確信した。そして、僕は絵画に見入るように、深呼吸しながら池の周りを歩き回っていた。ピアノの音に合わせて。ムスタフもこの場所がお気に入りのようで、裏庭をキャイーンキャイーンと上機嫌で走り回っている。

ふと、急に、ピアノの音がなりやんだ。

そして数秒後、再び音楽が始まった。しかし、曲調が大きく変わっていた。教会に流れる讃美歌のような旋律に。聴きながら、僕は白昼夢を見るように、目の前がくらっとした。太陽の光がまぶしくて、薔薇園の日陰の方に向かう。目を閉じた。すると、潜在的な記憶の世界に落ちていくような浮遊感を感じた。その記憶の先。アルとよく似た青年。長い手足。だけど髪の色はブラウンだ。そして、彼が細い指を宙に走らせてサングラスをとった。

瞳はアイビーグリーン。そして、顔立ちは美しいがアルとは違う。だけど、僕は記憶の中でわかっていた。それは、前世のアルの姿。そして、僕は前世でもアルとは関わって生きていた。

デジャヴの中にいるのを打ち破るように、ガラス窓が開く音がした。

屋敷の方に振りかえると、マリンさんが窓から顔を出した。

「ユーマさん、良ければ一緒にコーヒーでもいかが。」

その誘いの言葉に、僕は笑顔で肯いた。ムスタフが、マリンさんの声の方に尻尾を振ってかけ寄っていく。

ミランダの豪快なカプチーノマシーンの扱いとは違って、繊細な手つきでマリンさんは薄い黄色のカップを差し入れた。ウイーンという豪快な音も、少し優雅に響いてくる気がする。

マリンさんは、先に僕の手前に薄紫のワンピースの裾を揺らしながらカップを置いてくれた。

ウィーンという機械音が再びダイニングに響き渡る。マリンさんが自分の分を作っている間、僕は鼻先の芳香を楽しんでいた。真向かいに同じカップをおいて、マリンさんが座った。

僕はそれを見届けてカップを口元に流し込んだ。

「滑らかな味がする。」

僕は、さっきのピアノの旋律が頭の中で鳴り響いているのを感じながら、カップを口に運ぶマリンさんに微笑んだ。

「マリンさんは、ピアノも上手なんですね。音楽には縁がなくて、クラッシック音痴だけど、美しい音色は心に響きます。」

僕は本心を正直に告げた。すると、マリンさんは、半分ぐらい飲み干したカップを置いて、立ち上がった。

「よかったら、ピアノを弾いてみない?ユーマみたいな心ある人に弾いてもらったら、ピアノも喜ぶと思うわ。」

そう言うと、マリンさんは背中の大きく開いたワンピースの後ろ姿を僕の方に向けながら、優雅にドアの方に向かっていった。そして、躊躇している僕を、軽やかな微笑みで手招きした。

僕は、恐る恐る、しかし心のときめきを隠せずに、ダイニングの扉を出て、今まで向かったことのない左の奥の部屋に向かった。マリンさんの背中を追って。

草花の彫刻が四方を飾る焦げ茶色のドアの向こう側、そこはマリンさんだけの空間だった。

化粧品やメイク道具が並ぶ黄金色の化粧台。その反対側の壁に沿った本棚の右側には、ふくよかな売り子風の少女の絵が飾られている。僕は、その絵の穏やかな少女の眼差しに見入っていた。

「この絵はね、『ボルドーのミルク売りの少女』っていうゴヤの作品なのよ。」

マリンさんはそう言いながらも、奥の窓の手前にあるグランドピアノの方に向かっていった。

「ダイニングにある宮廷画とは、正反対な印象ですね。でも同じゴヤなんだ・・。」

僕はそう言いながら、風が撫でて楽譜をペラペラめくるのを手で抑えながらもピアノの前に座った。そして、僕が座れるように右隣に空間を作ってくれて、僕を手招きした。 その後は、僕の両手をピアノの上に広げて、上からベースになるポジションを教えてくれた。

そして、僕の手の上に白い指先を重ねると、聞き覚えのあるカノンの旋律を僕の指先がかなでるように導いてくれた。まるで、ピアノの先生のように。

僕は不思議な気分になった。こんな美しい女性と手を重ねているのに恥ずかしい感覚とか、いたたまれない感覚を一切抱かなかった。それよりも、僕に音楽を教えてくれようとする、真の愛好家としてのマリンさんの純粋な心が伝わってきた。

だから、僕は本当の生徒のように、気持ちよくゆっくりとつたないピアノの旋律に身をゆだねることができた。三十分ぐらいそうしていただろうか。急にマリンさんが、今まで聞いたことのないような豪快な笑い声をたてた。

「私達ってなんだか、似ているわよね。」

マリンさんの言葉に僕は驚いた。

「だって、ここに閉じ込められて、逃げ出すこともできない。まるで囚人みたい。だからその分、いつも忙しく動き回ってるお三方とは違って、純粋に音楽の楽しさや美しさが共有できるのかもしれないわね。」

僕は、純粋にその言葉が嬉しかった。だけど、それは絶対に真実ではない気がした。

「でも、つい三日前までは、はるばる日本に外遊して、仕事とプライベートを兼ねて満喫して帰ってきたんだって、ミランダが言ってましたよ。マリンさんは日本がとっても好きなんだって。それに、ピアニストみたいにピアノの演奏が上手だし。本を読んだり、語学の勉強をしたり、まるで中世のヨーロッパ貴族のように、優雅に日々を過ごしているじゃないですか。無学で無教養な僕なんかと違って。それに、アルが言っていました。八か国の言語を操れるマリンさんは、リチャードさんの仕事の大事なパートナーだって。」

僕は、なるべく卑屈には聞こえないように、ミランダやアルから聞きかじった話題も含めつつ自分の素直な気持ちを口走っていた。

「そうね、仕事のパートナーではあるわね。年に数回は、外国に一緒に飛ぶわね。でもね、私は、主人の仕事のためにうまく利用されているだけ。日本の社長夫人や、令嬢と交渉するのにも都合のよい秘書みたいにね。ご存知の通り、主人とバルセロナに私用でかけることもあるわ。でもそれ以外の時間は、ここに閉じ込められている。逃げ場なんてないのよ。どこにもね。」

「いやあ、囚人っていうのは、そういう人のことは言わないですよ。僕なんかバルセロナに行ったことはあるけど、サグラダファミリアすら見たことないです。」

マリンさんは、驚いた表情を見せた。僕は、恥ずかしくなった。

「まあ、そうなの。それなら確かに私の方が、ユーマ君よりは待遇はいいのかもね。」

そう言いながら、マリンさんは、哀愁を帯びた瞳で、窓の外の、午後の日差しにきらめく噴水の方を見やっていた。

「だけど、私だって心は、囚人よ。そして、ただの女中みたいな扱いを受けてるって思う時もあるわ。ミランダからは特にね。でも、アルは別よ。」

マリンさんの言葉に僕は驚いて、しばらく口を閉ざした。そして、ふと気づいたのだった。

「ムスタフがいない。」

すると、マリンさんは、ピアノの鍵盤から『ボルドーのミルク売りの少女』の方に、僕を促すように視線をすべらした。

「ムスタフ・・・。」

僕は絶句しながら呟いた。そう、ムスタフは絵の一部になってそこにいたのだ。少女の視線の先の右の隅に。そこにはムスタフの姿・・・・、いや絵が。

「ムスタフも、特殊能力のある犬なのよ。」

そういいながら、マリンさんは立ち上がった。そして、ムスタフの絵の方に向かって優雅にゆったりと歩いて行った。マリンさんが、『絵のムスタフ』の方に、両手をのばす。

キャイーン、キャイーン

二次元だったムスタフの画像。それが、再び僕らの前に姿を現した。マリンさんにくるむように、抱かれている。

「わかってもらえたかしら?私たちは、ワンセットで何か特殊能力を持っているようなの。」

僕は唖然としながらも、無意識のうちに大きくうなづいていた。そして、それならもしかすると昨日僕が、ルイとの会話を盗み聞きしていたこともしっているんじゃないかと罪悪感が芽生えた。そして、その衝動で僕は、口走った。悪いことをしたのは僕自身が誰よりもわかっている。だから、こっちから懺悔してしまおうって。

「実は昨日、ルイとマリンさんの会話を盗み聞きしちゃったんです。」

少女の絵の前に、ムスタフを抱いてあやしながら立っているマリンさんの微笑みをたたえた 顔。それは、母親のようなぬくもりに満ちた笑顔だった。

「そうなの・・。それは知らなかった・・・。だけどね聞かれてたとしても、構わないわ。だって、あれは演技だったんだもの。本当は、出会ってすぐにロバートが日本の暴力団とか闇の組織の人間とつながりがあるのは、気づいていたわ。そして、私がお相手をさせていただくお金持ちのご婦人の中にも、そういう組織の奥方様が含まれていることもね。」

マリンさんは、窓の外に向かっていった。僕は、さっきまで彼女と両手をかさねていた、目の前の白と黒の鍵盤を凝視していた。混乱する心を落ち着けようとしていたんだろうと思う。

マリンさんは、窓の外に向かっていった。僕は、さっきまで彼女と両手をかさねていた、目の前の白と黒の鍵盤を凝視していた。混乱する心を落ち着けようとしていたんだろうと思う。

「それがわかっていて、ロバートさんの仕事を手伝っているんですか。」

非難するつもりは全くなかった。むしろ心境は逆だった。なぜなら、僕が生かされている唯一の理由は『神の指令に従って、正当な殺人を犯すこと』だ。外見上は社長夫人兼通訳だけど心根に深い罪悪感を持っている。それって、実は僕と同じなんじゃないか。

「そうね、ロバートを愛しているから。ただそれだけの理由でね。」

胸の中で眠りについてしまったムスタフを、赤ん坊を抱くように、しっかりと抱きしめた。そして薔薇園の方を、ボーっと見やっていた。

「きっと、子供のころから愛に飢えていたのよね。親の愛を感じられなかったし。自分のこといっつも消してやりたいっていう衝動を打ち消すために、勉学にとりこんでピアノを弾いて、そうやって生きてきたから。だから、ロバートと出会って純粋に愛しあったことで、私は救われたのよ。でも、今はどうなのかしら・・。彼は私を愛してくれているのかしら?」

僕は、マリンさんの細くて滑らかなラインの背中を見つめていた。姿勢がよくてきりっとしている。

「僕にはマリンさんを愛しているようにしかみえないですけど。でも、そういう複雑な思いがあるからルイには嘘をついた・・、いや演技してみせたってことなんですかね。」

自分でも気づかないうちに、尋問するような口調になっていたんだと思う。

「そこは難しいわね。私の心の傷か、ロバートへの愛か。もしかしたら、表面だけのはったりだったのかもしれない。」

マリンさんは、僕の方を振り返らなかった。だけど、これ以上僕から質問されるのはもう限界・・・っていうのは、なんとなく声色から分かった。それに、僕には、高級な女性を尋問する資格なんてない。そんな気持ちがとぐろのように渦巻いて、混乱状態に陥ってしまったからだと思う。無意識のうちに僕は、懺悔するように、ピアノの鍵盤に顔をさらに近づけて、上半身を大きく落としていた。

「すいません。僕、実は高校三年生の時に、自分を痛めつけたい衝動に駆られる時期があって、自宅で手首を切ってしまったことがあって。育ててくれていたおじいちゃんとおばあちゃんも多分、僕のことが恐ろしかったんだと思う。だから、その数日後に『保護者の判断』と、『本人の錯乱した精神状態』が原因てことで精神病院の閉鎖病棟に二か月ぐらい入院したんです。精神病院って、『閉鎖病棟』と『解放病棟』っていうのがあって、僕みたいにかなりやばい人は、『閉鎖病棟』に入るんだけど。

最初は個室だったから、窓は鉄格子で、硬いベットと、そのすぐそばに汚いトイレだけがある、まるで刑務所みたいな狭くて臭い部屋でした。三度の食事の時だけ鍵を開けて看護婦さんが食事を運んできてくれて。そして、大量の錠剤の薬を飲まされて、毎回食事の後に。

薬を飲むと、頭がボーっとして何もする気がおきないから、ベットに横になって、いつも視界の隅にトイレが入ってくるのにもなれっこになって、ボーっと天井を見てベットに横になって。だけどおばあちゃんは心配して、週に1回は面会に来てくれた。いつも一生懸命相槌を打ちながら、話を聞いてくれました。「心の病気がよくなったら、自宅療養してこれからやりたいことを探せばいいんだよ。」って。きっと自分の息子が僕にした仕打ちに対して『償いたい』って気持ちをいつも持っていてくれたんだと思います。おばあちゃんは、おじいちゃんの畑仕事を手伝いながら、よく興福寺とか東大寺とか薬師寺とか、『ユーマの病気が早く治るように、お祈りに行ってるよ』って言ってくれてました。 僕は精神病院に入るまでは、おばあちゃんに対してもずっと心を閉ざしてて愛情も何も感じていなかったんです。だけどその時はさすがにおばあちゃんの愛情を感じました。それが大きかったんだと思うけど、たまに面接してくれる僕の担当の眼鏡をかけたすごく冷たい目をした、髪をひっつめたおばさんの精神科医の先生の判断で一週間で個室を出て、大部屋に映れたんですけど。まわりは、おじいさんと、中年のおじさんばっかりでした。その中に十代ぐらいの男の子も一人いたんですけど、口を貝のように閉ざして、いつもスポーツ新聞か、漫画ばっかり読んであとは寝てるみたいな感じで。僕はいっつも手塚治虫とか藤子不二雄の僕が愛読していた古い漫画や、あと少年ジャンプの流行り系のやつも含めて、面接のときに、二三冊ずつ、僕の部屋から持ってきてもらったり、買ってきてもらったりしてました。そして、それを毎日何回も繰り返しよんで、絵を描いたりもしてたかな・・・。他には何にもやることがなかったから。そして数か月後に、おばあちゃんが僕の生活を責任を持って保護管理することを条件に、精神科医の先生と話し合いをしてくれました。

「おばあちゃん、頑張るね。絶対に、ここからユーマを出したるけーね。」って。

そして、数週間後に僕を、外の世界に出してくれたんです。なんか、僕が署名したりの手続きはいろいろとあったんですけど。 一度は狂気に陥った僕を、まるごと引き受けてくれました。普通は、『閉鎖病棟』から『解放病棟』にうつる人が多いみたいなんですけど。僕の場合は、受け入れてくれる保護者が熱心なのと、若いから回復が早いってみなしで医者のオーケーが出たんだっておばあちゃんが教えてくれました。その時はやっぱりおばあちゃんを愛してると思ったし、こんな愚かな僕を愛してくれるたった一人のおばあちゃんのためにも、これから更生していけるように全力でがんばろうって思いました。心から。精神病院を退院する日は、おばあちゃんの後ろを、ゆっくり歩きながら、春の陽気と、空のあまりの青さに涙が出てとまらなかった。そして、おばあちゃんありがとうって感謝の気持ちでいっぱいでした。」

僕はその時心の傷をすべて吐き出した充足感を感じていた。知らないうちに涙があふれていた。そしてなぜか、口元には笑いがこみあげてきた。僕は涙をぬぐうために、シャツに体を押し付けた。

その瞬間だった。マリンさんが、寝ているムスタフをいつしかソファーに横たえて、空いた両手で僕の頭と体を包むように抱きしめてくれた。僕のまわりをジャスミンの花のような香しい香水の香りが包んでいる。

そうやって数分僕は頭が停止した状態で、母に抱かれているような心地よさの中に漂っていた。

キュルーン キュルーン

ムスタフが起きた。そして、『僕のママをとるな』というかのように恨みがましく、切ない鳴き声をあげた。マリンさんは、僕から離れてムスタフの方に向かった。僕はそのタイミングで自分の心が整理できたので、それを伝えておきたくて声をあげた。


「ずっと愛に飢えて生きてきて、ようやく僕に対する『愛』ってやつに触れた時に、全力でそれに尽くそうとかそういう気持ちって、僕もわかります。恋愛じゃなくって残念だけど。」

僕の言葉に、マリンさんはムスタフを抱いてベルベットのソファーに身を深く沈むように腰かけながら、僕の方を仰ぎ見た。

「そうね、確かに恋愛じゃないわね。でもそれが愛だわ、間違いなく。でも、親子の愛とちがって、恋愛の場合はそれが冷めてしまうと・・。」

僕はそれ以上、悲しい方向にベクトルを進めるような会話は断ち切りたかった。マリンさんのために。

「おばあちゃんは天国で僕を見守ってくれまてます。おじいちゃんが畑仕事の後、急な心臓発作で先に天に召されてしまって。その後、おじちゃんから引き継いだ畑で野菜を育てながら、写経や僕の無事を祈ってお寺通いを続けていたんですけど。おじいちゃんを追って、三月の末に、春を待たずに還らぬ人になってしまいました。病院に運ばれて、ベットに寝そべったおばあちゃんの最期は、まるで仏様みたいに満ち足りた安らかな微笑を浮かべていました。僕は東京から奈良にかえったその足で病院に向かったんだけど。その後もずっと、僕の心におばあちゃんへの愛は生きてます。」

僕は、本当に恋愛とか夫婦愛がわからない。だから、それしか締めくくる言葉が見つからなかった。

そして、自分の涙で濡れたシャツと、マリンさんにもらったぬくもりで暖まった心を抱えて、ピアノの前をたちあがり、深く頭を下げて扉の向こうに足を踏み出した。

カチャっとドアを後ろ手に閉めた瞬間、また涙があふれだしてきた。


「ユーマ、げんきにしてるかい 。」

美味しいパエリアを、たっぷりいただいたあと、僕はしばらくマリンさんと談笑してから二階にあがった。そして、ソファーに寝転んで、ラジオでバルセロナでヒット中の音楽を流し聞きしながら、目を閉じてまどろんでいた。

いきなり扉が開いて、アルが、赤のジャケットと黒い革ズボン姿で、颯爽と入ってきて目の前に立っていた。半分眠っていたから、車の音に気が付かなかったんだ。

「明日の夕飯は、君はこの宮殿で一人きりだよ。僕とペネロペと両親で、バルセロナでディナーするんでね。ちなみにミランダは彼氏のいるマドリードにしばらく外泊だしね。まあ、せっかくの豪邸暮らしなんだから、一人時間を楽しんでねってカンジかな。」

僕は、ふふんと肯いた。すると、アルがソファの隣にいきなり、パフッと座り込んだ。

「ただ、僕は憂鬱でしょうがないんだけどね。これも神からの指令だから仕方なくやる仕事でしかないからね。」

なんで、憂鬱?なんで、仕事なんだ?僕にはアルが発した言葉の意味が分からなかった。ただふと、すぐそばにある彫が深い鼻と口元、そして長いまつ毛と愁いを帯びた瞳に少しドキッとした。

「だって、父さんは明らかに僕らに隠れて、人として誤った道を大手を振って進んで、金儲けしている・・・。正真正銘の悪人なわけだよ。そしてその血が僕の中に流れている。全身をね。遺伝子・・、DNAレベルでも、僕には同じ性質が埋め込まれている。僕は、そんな生まれつき罪深い人間なんだよ。生きることが苦しくなるのも当たり前だと思わないかい。」

独り言のように、アルが頭を抱え込んで、悲しい目をして、つぶやいた。まるで、ドラマの中の主人公のセリフのようだった。そこに嘆きのスポットがあたっているかのような。

「時々、どうしようもない衝動に駆られるんだ。汚れた血の流るる我が身を、わが手で葬り去ってやりたい。生きているのが、苦しくて仕方がない。この身が、憎くて憎くてどうしようもない。」

僕には、アルの痛みが想像すらつかなかった。なぜって、彼は芸術作品レベルの美しいルックス。そして、モデルの仕事をしながら大学生活を送っている。しかも花のバルセロナで。そんな人間が吐くセリフとは思えない。眼前の光景がとても現実とは思えなかった。

僕は、まどろんだまま、夢の世界にいるんじゃないか・・・。

すぐそばから、フーッとため息が、僕の頬のラインをなでた。その方向に視線を走らせると、 アルは眉間にしわを寄せて、遠い目をしている。 ふいに立ち上がると、僕に背中を向け身を翻して、部屋を出ていった。

取り残された僕の取り残され感。不協和音の前触れを髣髴とさせるような、ドラマの中にいるみたいだ。

その夜、僕は眠れなかった。眠気とまどろみに襲われると、今度はどういうわけかあの悲しいアルの独白が、頭の中をリフレインする。同時に、僕自身の汚点である、精神病院時代の過去がまるで二重構造のように、その背景を白黒映画のように流れている。

それは、精神病院を退院してから半年後ぐらいの、僕の哀れな姿だ。 週に一回は抗うつ薬をもらいに通院していた。また、病院で味わった閉塞感が大きく作用し、他人が怖くなり、外出することの出来ない引きこもりの時期が、一年ほど続いた。いつも、部屋にこもってネットでアニメを見るか漫画ばかり読んでいた。おばあちゃんは、僕が退院後も、お写経を始め、畑仕事の合間に、お寺に通っていた。そして、少ない稼ぎと年金暮らしにも関わらず、僕がおねだりした漫画本を、古本屋で買ってきてくれたのだ。そして、厳しい冬の去り際の、桜が芽吹く時期に僕はおばあちゃんに告げた。

「知り合いに遭遇しない東京に出て、アニメーションとデザインの勉強がしたい」

その時のおばあちゃんの反応が僕にとっては人生最大の救いだった。

「よかった。やっとやりたいことがみつかったんだねえ。しっかりと目標に向かってがんばりなさい。」

おばあちゃんのその笑顔がなかったら、手首を切って自殺する試みを実行していたかもしれない。どん底に陥ったこの僕を救う仏の笑顔だった。

だから、僕はとても素直にその後のおばあちゃんの助言通り、しばらくおじいちゃんの仕事を手伝った。大っ嫌いな畑仕事に、黙って精を出した。そして、その毎日を一か月近く続けた、秋の暮れのある日におじいちゃんのこの言葉を勝ち取ったのだ。

「出世払いっってことで、東京のなんかの学校に行くお金を出してやるわ。」

おじいちゃんは、ビニールハウスで野菜の世話をしていた中腰の僕の泥臭い背中にそう言い放つと、すぐにハウスを出ていった。そして、僕がハウスの外に出ると、耕運機に乗って、お日様の光をサンサンと浴びながら、田んぼ仕事に黙々といそしんでいたのだった。 僕はとめどなく涙が流れて止まらなかった。

今もはっきりと覚えている。その夜、顔を枕に押し付けたままでしばらく、静止していた。そしてそれが気持ち悪くなって、枕を部屋の壁に投げた。そのうちに、丑三つ時の眠りについたのだった。夢の中には、おばあちゃんが一緒に出てきた気がする・・・。


 プラタナスの木々も冬枯れのオリーブブラウン。秋空とかさかさと積もった枯葉が音をたてる庭の散歩道。 階段を降りていくと、紫のベルベッドのドレス姿のマリンさんに出くわした。

「ユーマさん、お留守番お願いしますね。」

胸元の大きく開いたドレス。玄関そばの観葉植物に水をやりながら、マリンさんは少しかがんでいた。僕は、目のやり場に困って赤面してしまった。

九月いっぱいを商談の仕事の手伝いで、リチャードさんと日本で過ごしていた。そして月末に帰国したマリンさん。それ以降は、一緒に帰国したものの多忙で、不在がちの夫を待ちながら、観葉植物とムスタフの世話を優雅に淡々とこなしているように見えた。毎日書斎にこもり、クラッシックピアノを奏でたり、語学の勉強や読書に費やしていた。とびっきり美味のスペイン料理を、彩り鮮やかに食卓に生み出す仕事を日々こなしながら。

ひさしぶりの外出で、お洒落を楽しみたい心境なんだろうな。

その思いと同時に昨日の夜、アルに告げられた言葉が僕の耳元にリフレインした。僕は胸のどきどきを悟られないように、平静を保ちながら答えた。

「アルに聞いています。バルセロナでディナーですよね。」

そして、昨日の夜、急に僕の部屋にやってきたアルの姿が、心のスクリーンに大写しになった。 外見上は、誰の目から見ても、世界で一番幸せな人間のうちの一人にしか見えない。なのに、心の中にはまるで蜘蛛の巣が張り巡らされているかのような複雑な、劣等感・・・。いやそうでは、ないかもしれない。あんなに美しい人間の中に劣等感なんて存在するわけないもんな。 だとしたら、嫌悪感?憎悪?それも自分の父親に対する・・・。そして、自分という存在に対する・・。

もしかすると、アルは今夜何かを父親から探ろうとしている?

でも、僕の視線の先の美女はそんなことは微塵も感じていない穏やかな微笑みを浮かべている。 細いウエストの下に、ドレスをひらめかせながら、食卓の左隣の洗面所に向かっていった。


僕はその後、一人ぼっちの寂しさにさいなまれた。 部屋の一角の棚の中に置いて置いた、前にミランダに何気なくもらった葡萄酒のワインボトルを、空けてラッパのみしてしまったのだ。そして、あっけなくそのままベットに崩れ落ちて、深い眠りについてしまった。

深夜の暗闇の中。窓からライトの明かりが見えた。そして、車が止まる音がした。

運転席から身を乗り出したのはマリンさんだった。僕はドアを開けて、階段の下を覗き込んだ。ひどく泥酔したアル。自力では動けないみたいだ。マリンさんがなんとか車から玄関まで引きずるように運んでいた。しかし、玄関先で、アルはそのまま絨毯の上に、寝転んでしまった。

「奈良が好きだって言ったのが、主人の気持ちを荒立ててしまったのよね。ごめんなさいね、アル。本当にごめんなさい。」

マリンさんは、目に涙をためていた。そして、グラスいっぱいの水を、玄関先でうずくまっているアルの口元に運んでいた。 うつ伏せになったアルは、小刻みに震えていた。二階から遠目に覗くと、泣いているようにも見える。

「お母さんのせいじゃない。パパがいきなり怒り出すのがおかしいんだよ。しかも、唐突にあんな大声で、日本の商売相手の話を豪語しはじめて。正気の沙汰じゃなかったよ。悪酔いしていたとしか、思えない。本当に悪いのはパパの方さ。 きっと、あまりの母さんの奈良への清らかな思いに、良心の呵責を感じて、逆切れしたんだよ。それで、激怒したようにしか見えなかったよ。」

アルは、右手でコップを握りしめた。そして、上半身を少しずつもちあげる。マリンさんは、それを手伝うように、アルを抱きかかえた。

「私も、まさかあんな裏社会の非道な組織と結びついているなんて微塵にも思わなかった。だって、私が相手をするのはいつでも上流階級のご婦人や令嬢ばかりだから。」

そこに、尻尾を振りながらムスタフが近づく。二人の間に、ムスタフがもぐりこんでいった。愛犬の特権だな。

「パパが、ペネロペに手を出さないか心配だな。」

アルは、皮肉な笑みを浮かべた。

「でも、あの状況じゃ仕方なかったわ。ロバートが彼女の車を運転して送ることになったのも。彼女もあなたと一緒のピッチかなり飲んでいたもの。それに、彼女はあなたにぞっこんよ。きっと他の男性には、見向きもしないはず。」

「ペネロペのことは信じているよ。だけど、パパのことは・・・。美女には目がないからな。」

アルは、マリンさんの気持ちなどお構いなく皮肉を並べ立てていた。


10

 アルの車のエンジン音が窓の外から響いて、僕は目を覚ました。まだ夜と朝が入れ替わる途中の薄墨の時間帯。窓の外を覗き込む。アルのスポーツカーが門を出ていく。

『きっと、恋人のマンションに行くんだな。』

結局、アルの父親は戻ってこなかった。きっと、ぺネロぺさんのことが心配で、いてもたってもいられなかったんだろう。僕はそんな思いと一緒に、目がさえてしまったので、下に降りて行った。水が飲みたくなったからだった。

ダイニングルームで、ミネラルウォーターのサーバーから、グラス一杯の水を出す。ごくりと飲み込んだ時だった。視線の向こうに、ミランダの姿があった。

「アルったら、パパが自分の彼女に手を出さないか心配でしょうがないのね。そりゃそうよね、パパの場合自分の妻に対して愛情を全く感じられなくなっているのが、私たちにも手に取るようにわかるもの。そして、パパのルックスは美人女子大生から見ても、十分魅力的だしね。」

腕を組んで、ドアのそばに斜めに身を横たえているミランダ。その瞳はグレージュ色に冷酷で、赤い唇は皮肉に歪んでいた。

「いっそのこと、あんな女と、早く別れればいいのよ。でも、パパがどんなに別れたくっても、それは法的には無理なのかもしれないわね。あの女、こんな居心地のいい立場で、貴婦人を気取っていられるんだもの。どんな手を使ってでも離婚なんてしてくれないわよね。狡猾なエリートさんですもの。」

僕は、思わず怒りで体が震えた。

「そんなこと言うものじゃないよ。ミランダ。マリンさんは昨日だって酔いつぶれたアルをずっと介抱していたんだ。そして、酔いつぶれたアルの恋人を送っていったロバートさんのことも、かばっていたよ。」

「男はすぐ騙されるのよね。あの猫かぶりの二重人格に。見た目品があって、きれいなおばさんにね。」

僕は、グラスを握りしめたまま、ミランダをにらみつけた。 ミランダは、鋭い視線で僕を見つめ返すと、そのまま二階にあがっていった。

そして、その数時間後、ミランダは豪邸から姿を消した。

「しばらく、またマドリットの彼のところで暮らすわ。」

という言葉を残して。


第三章 疑惑

 その日は朝から曇りがちで、昼過ぎからは雨がゴーゴーと土砂降りの雨がふり始めた。

僕は、マリンさんに借りた写真とちょっぴりのスペイン語で構成されたカラフルな料理の本をめくっていた。アルにすすめられたスペインのポップスの音楽をかけながら。 窓の外の雨の音はますます強くなっていった。

ガラガラピシャーン

雷が鳴り始めた。僕は恐怖心で少し身を震わせた。それは雷だけのせいではなかった。

昨日の昼ぐらいに、往復で二時間ぐらいかけて、愛車を飛ばして戻ってきたアル。二階から階段の手すりに身を横たえて、玄関を覗いた。すると、昨日とは違ってしっかりとした足取りのアルは、肩に父親を抱えていた。

当のリチャードさんは誰が見てもはっきりとわかるぐらい泥酔している。アルは、彼を玄関口に座らせると、細い腕を組んで、雷のように鋭く斜視で睨みつけていた。

「まったく、父さんには呆れるよ。ペネロペのマンションに上がり込んで、一緒に夜通し酒盛りしていたんだって。僕は、彼女のもとに行くよ。あとは任せた。」

尻尾を振ったムスタフが先にアルのもとに駆け寄った。その後ろから、駆け寄ってきたマリンさん。コップ一杯の水を、夫の口元に運びつつ、抱きかかるようにして跪づいた。

アルは、マリンさんに向けては、微笑んで見せた。それから上半身を落としてムスタフをなでた。しかし、父親を軽蔑しているのは、明らかだった。 腕組みして、斜めに身を横たえた。再び嘲るような目線を父親に投げつけると、瞬時に背中を向けて、玄関を出ていった。

雷の音は、その時のアルの視線と重なって僕の体の芯まで打ち付けてくる。僕は、ふと一人でいるのが怖くなって、マリンさんのいる一階のダイニングに向かった。 おもむろに、キッチンのそばの棚からグラスを取り出した。そして、ウォーターサーバーにグラスをつっこんで水をつぎ、一気に飲み干した。

いつもの定位置に座り、頬杖をついたまま、ボーっと窓の外を見ているマリンさん。

「家族なのに、どうしてなのかしら。ロバートもアルもミランダも、みんな騙しあいみたいに、自分の心を明かさない。いつも探り合いのスパイみたい。私は妻で、母っていう肩書は名ばかりで。なんだか仮面をかぶって生きているみたい。夫や子どもたちの望む仮面をその時その時で被って生きてる。そんな悲しい存在でしかない。」

マリンさんは、食卓に置かれたガレット風のパンを一つ、僕の方に差し出した。僕は、微笑んで受け取った。そして、それを右手に持ったまま、水の入ったグラスをマリンさんの向かいの席に置いた。そして、ゆっくり椅子を引いてそこに座った。

「私はね、心から大事な家族のために、潤滑油になりたいといつも願っているの。できれば今月中には、アルと婚約中のペネロペを招いて、この家でディナーの宴をもうけようと思っているわ。ねえ、いい考えだと思わない?」

僕は、ガレットに大口でぱくついた。ほどよい甘さで、上品なバターの香り、やっぱり高級品だ。目の前で同じように、指先を流れるように折り込みながら、上品なおちょぼ口で、パリッと少しだけガレットをほおばる、マリンさんのきれいな食べ方にみとれながら。そして同時に、相談相手として僕をみなしてくれたことに、深い喜びを感じた。

「それいいですね!マリンさんの料理は高級レストランの一級品と変わらないですから。」

僕はわざと声を大きくして、ぶんぶんと肯きながら大げさに呟いた。 窓の外から、午後の三時を知らせる噴水の流水音が響いてきた。

「昨日は、恥ずかしいところを見せてしまったわね。心苦しいわ。ロバートは、確かに時々おかしいのよ。昨日も、急に日本の裏組織とのつながりを、さらけだすような暴言を連発していたの。お酒の勢いを借りてね。私はなんとか、彼をおさえようと必死だった。でもその光景を眺めていたアルのナイフのような冷たい目。それでも、ペネロペは陽気で明るい根っからのスペイン人気質だから。そこに救われたのよ。」


ディナーのあと、僕は最近の日課のスペインリーグのサッカーの試合をテレビの前で一人観戦していた。時々歓声を上げながら、かなり白熱して。

すると、扉がいきなり開いた。

目の前に、シャワーを浴びてすぐの濡れた髪と、バスタオルを羽織っただけの上半身を艶かしく翻して、アルが腕組みして、斜め上から、長いまつ毛と、鋭い目線で見下ろしてくる。

「ママに飛んだ入れ知恵をしてくれたね。君の目論見通り、計画は実行に移されることになったようだよ、パパも二つ返事でね。思い通りに、僕らの家族を動かせて満足だろう?」

僕は、翳りと鋭さが入り混じったアルの視線に、困惑した。そして、三日前のマリンさんとの会話を思い出していた。

「この家に、ペネロペさんを招いて晩餐会を開くってやつかい?あれは、僕の入れ知恵なんかじゃないよ。マリンさんの発案なんだ。僕は、それに同意しただけだよ。」

僕は、アルと目を合わせるのが嫌で、そのまま画面の華麗なボールさばきを見つめながら、答えた。

「でも、君の圧力で、面倒な方向にベクトルを向けてくれたね。まあ、もう決まったことだから、君に何を言っても仕方がない。」

アルはそう言いながら身をひるがえし、僕に長い首と、滑らかな背中のラインを見せながら扉の向こうに消えた。

そして、数分後にものすごい速さで、階段を誰かが駆け下りていく音が、ソファーでうなだれていた僕の耳に響いてきた。

ブロー キュルキュル

門の方から響く車の音。僕は反射的に三日月が輝く窓のから、顔を出した。そして、アルのスポーツカーが、闇の中を走り去っていくのを見届けた。

『なんだ、帰ってきてシャワーを浴びて、僕に探りを入れるためだけに帰ってきたのか。』

きっと、またペネロペさんのマンションに向かったのだろう。僕は、そのまま虚ろな気持ちで、三日月をぼんやりとしばらく見上げていた。


その日も、朝から雨が降っていたのは、あのディナーの忌まわしい夜と同じだった。昼過ぎには、豪雨に変わった。数秒刻みで、ラバラと雨粒がガラス窓を荒々しく叩く。

そんな天候でも、計画は実行されるらしかった。なぜなら、雨音の間に、正門の方からロバートさんの車と、アルのSUVが止まる轟音が聞こえたからだ。

そして、僕が丸い粒が無数に描かれた窓の外を見ると、そこには、アルと茶色いソバージュの長い髪と、赤い体にぴったりとしたドレスをまとった彼女のペネロペさんがいた。 そのすぐそばを、ロバートさん。そして、対照的な紫の清楚なシルクのロングドレス姿の、まるでピアニストのような透明感のオーラを漂わせたマリンさん。

そう、この天候でも、やはりマリンさんの計画は、決行されるのだ。

とびきり甘美な芳香と色彩を放っていたのは、ピンチョス風ディッシュだった。マリンさんお気に入りのオレンジ色の淵に、チューリップの赤、青、黄色の花がちりばめられた大皿。そこには、少しだけ焦げ色がつく程度に焼かれたバケットが、チューリプの花の合間に十個ぐらい並んでいる。しかも一つ一つのせられた具が違っている。生ハムの上にグリーンのオリーブ、煮詰められて引き締まったミニトマトとその上にローズマリーの葉。他にも、カッテージチーズが微妙なバランスでパンのうえに可愛くちょこんとのっけられていたり。まるで高級ケーキ屋さんのプチケーキみたいな盛り付けが、マリンさんの芸術性を物語るように、食卓の真ん中を占めていた。薔薇の花の隣に。

シフォンケーキのように丸く焼かれたスペインオムレツを、マリンさんはナイフで優雅に六等分に切り分けている。

「すごいわね。この間モデルの仕事でご一緒したときにミランダにも聞いていたんです。六か国語を操るバイリンガルで、しかも高級料理店のシェフのごとくお料理が上手だって。」

ペネロペの言葉に、マリンさんは少しだけ微笑んだ。

「まあ、ミランダがそんなことを。嬉しいわ。私にはそんなこと言ってくれないもの。」

マリンさんは、さっきグラス音を響かせたワイングラスをすでに空にしていた、右隣のロバートさんに目配せした。そのまま、天使の彫像の脇を抜けて、キッチンに行ったあと、すぐに戻って再びロバートさんの隣に座った。その瞬間を見計らって、ロバートさんの言葉が続いた。

「ミランダはああ見えて、実は照れ屋なところがあってね。僕にも、マリンのことは同じように褒めているんだけどね。 」

僕は、ロバートさんの言葉に嫌みが含まれていないのを感じていた。だけど、僕にはミランダは、マリンさんのことをボロクソに言うんだけどな。 僕はその思いを、ぐっと胸の奥に追いやるように、ワインをグッと飲み込んだ。のど越しの甘さと、芳香に超高級品であることを悟った。

この食卓一帯を、俯瞰するようにぐるっと見渡した。そして、次の瞬間視線を上げて、ゴヤの宮廷画を見上げた。赤い衣装に青い縁取りのたぺすりーの、端正な中にも可愛さが垣間見えるまだ少年の王子様。その王子様がアルぐらいまで成長して、隣に美人の彼女を連れて王族の親族に、紹介している姿。そんな絵画を頭の中で、一部目の前のゴヤの絵を改造して作り上げた。僕の頭の中のその絵画と、目の前の現実の光景が重なってクローズアップされる。

ペネロペは、ナイフとフォークを上品に使って、マリンさんが手前に置いたスペインオムレツを優雅に口元に運んだ。

「美味しい、まるで一流レストランの味だわ。」

そう言って、満面の笑みを浮かべて食卓のみんなを、見渡した。そのなまめかしい視線。 そして、グラマラスな胸元を、床に置かれたヴィトンのバックの方に滑らせるように落とした。僕は瞬間、ドキッとして自分の顔が赤くなるのがわかった。それを、流し目でアルは鋭くとらえている。僕は、赤い顔をかくすようにあわてて、ルビー色のワインの残りを一気に飲み干した。

目を上げると、ペネロペがロバートさんとマリンさんの間に向かって、セピア色の大きな紙バッグを抱え持って、モデル歩きで歩いていく姿。僕は目で追わないようにしながらも、その魅力にはやはりドキドキが止まらなかった。

「これは、今日のこの最高なハッピーな時間を作ってくださった二人へのお礼の品です。」

多分、そんなようなことを言っていたんだと思う。スペイン語だったけど、空気感でわかった。 袋を受け取ったのは、ロバートさんだった。そして、彼女の方に紳士的な笑顔を向けると、すぐに袋からプレゼントを取り出した。

それは、紫水晶玉だった。

『司祭が、あの日大聖堂で見せてくれたのとまったく同じものじゃないか。もちろん新品だから、パワーストーンはくっついていないけど。だけど、全く同じサイズの同じ色だよな』

ロバートさんが明らかにペネロペの美しさにうっとりとしているのを、僕とアルと同じく察していたのだろう、マリンさんは少しツンとした。ぷいっと視線をゴヤの絵の方に向けていた。しかし、瞬時にロバートさんが両手に掲げた紫水晶に向かって、びっくりしたような 「まあ」という叫びをあげた。 目を大きく見開いて、ペネロペの方にむかって優しく言葉を放った。

ペネロペは、口元に大きな笑顔を浮かべて、とても嬉しそうに、抑揚をつけてハスキーなスペイン語を響かせた。 その後、通訳みたいにマリンさんは、僕の方をちらりと見ると、日本語で話した。

「これは、ルイから購入したパワーストーンの紫水晶なんだそうよ。アルとデートの時に、たまにルイのカラフルな食器店に寄るんだって。だからルイとはとても親しい友人なんだそうよ。」

そのマリンさんの言葉が、僕にとっては序曲だったのだ。なぜなら、その後僕とルイをつなぐ役割を、まるでその使命を背負っていたかのように果たしてくれるのが、他でもない彼女、ペネロペなのだから。

そして、掲げ持っていた紫水晶を、ロバートさんは、惜しげもなくマリンさんの膝にゆっくりと置いた。そして、マリンさんを優しく抱きしめた。

「この豪華な晩餐の用意をありがとう。ペネロペとアルからのプレゼントは、君への賛辞と感謝の品だよ」

その時、急に玄関に猛スピードで車が止まる爆音が響いた。 そして、カツカツとハイヒールを床にたたきつけてディナーの場面に躍り出たのは、黄色い膝だけのワンピースに耳元には大きな輪っかのシルバーのピアスを揺らした、黒い細長いロングブーツで膝上まで覆ったミランダの姿だった。

「ずいぶん、ひどい仕打ちじゃないの。この宴の席に、家族の私だけのけ者なんて。」

ミランダは、声色はかなり激高していた。だけど、顔にはうっすらと冷笑を浮かべていた。

アルの椅子の膝あたりに、急にペネロペが走り寄って、謝るように彼のひざ元に顔を押し付けた。そして、かなり狼狽した表情でアルの怪訝そうな瞳に顔をくっつけて、謝っているように見えた。

『ミランダの彼氏に今夜のことを何となくしゃべってしまったの、ごめんなさい。』とかなんとか、僕の推測の域を出ないけれど。 そして、アルはペネロペを優しくハグすると、彼女のミスを穴埋めするように、立ち上がった。ペネロペは、アルの両手に導かれて、彼の隣の椅子に、足を組んで、少し涙目になっている顔を覆うように頬杖をついて座った。

アルは、そのままゴヤの宮廷画のすぐそばで、腕組みをして立っているミランダの方に向かった。

「悪気はなかったんだよ、ミランダ。別に僕らと、両親の気楽な晩餐の席だと考えていたから。なにも、彼氏とアツアツの君をわざわざ、招く必要性はないってね。それはあまりにも、申し訳ないなって。」

アルはそう言いながら、ミランダを自分の座っていた席に、エスコートするように、導いて座らせた。それから、つかつかと天使像のそばのマホガニーの食器棚に向かうと、そこからグラスを持ってまた戻ってきた。食卓の中央の薔薇の花の花瓶の斜め前に置かれたワイングラスを、長い右手で持ち上げると、ミランダの手前においたグラスにトクトクと、濃い紫の液体をついだ。

「わざわざ、彼氏のマンションから車を飛ばして戻ってきてくれてありがとう、ミランダ。僕からのお礼だよ。受け取って。」

アルがそう言うと、ミランダは渋く陰っていた表情を満面の笑顔に変えた。そして、ワインを一気に飲み干して、アルにお礼を言うようにめくばせすると、隣に座っているペネロペの方に手をかけて、笑いかけた。

その光景を、ひやひやしながら見守っていたのは、僕だけではなく、ロバートさんとマリンさんも同じだった。その後、アルの振る舞いに心から安心したのもきっと、一緒だったに違いない。

「アルの言う通りだよ。なぜならペネロペと顔を合わせるのは、僕もマリンも今回が二回目だ。まだまだ打ち解けきれていないからね。わが子息アルの大切な唯一の女性であるにも関わらずね。もしこれが正式な契約の宴なら僕が一番最初に招くのはほかでもないお前だよ。」

ロバートさんは、ペネロペの気づかいで、ワインがナミナミと揺れているグラスに、手を伸ばした。そしてミランダのグラスとくっつけた。ロバートさん流儀の紳士的な行動だった。しかし、宴の席から水晶玉を持って、しばらく姿を消していたマリンさんを隠すための行動のように、僕には思えた。

あんなたいそうなプレゼントを受け取った状態で、ミランダと対峙するのが心もとなかったんだろう。そのマリンさんの心を気遣った行動のように、僕には受け取れたのだ。

実際、カッコいい兄と父親の優しさを独り占めしてワインを飲み干したミランダは、マリンさんが一瞬姿を消して戻ってきたことを、あまり気に留めていないようだった。 そして、さりげなく席に戻ったマリンさんは、夫と息子に便乗して、ミランダの手前に、残っていたスペインオムレツをのせたオレンジのかわいいお皿と、ナイフとフォークを優雅に運んだ。夫と息子に便乗してミランダのご機嫌をとるかの如く。

ふと肘をついた姿勢で、ブルーチーズがのったピンチョスを、煙草をくわえるようにカッコよく口に含んでいる真ん前のアルと目が合った。お互いに一瞬冷笑して、目をそらした。そして、アルの目線は、僕の後ろの宮廷画の方に注がれているのがわかった。

僕は、目を泳がせたが、高飛車なミランダのふくよかな胸元に目を向けるのに、恥じらいを感じた。そして、そのまま天井のシャンデリアの方を、見上げていた。

八角形の鍾乳石のレプリカの複雑な幾何学模様のシャンデリアが白色の光を放つ。まるで宮廷画の別場面のような情景が繰り広げられている宴の席。その中で、僕だけ場違いな存在だ。自分のことをこの場面から消し去りたいような衝動。しかし、この場面で席を離れたらみんなきっと気を悪くするだろう。とくに気にもとめないかもしれないけど・・。そんな思案を心に蜘蛛の巣のように張り巡らせて、悶々としていた。でも、やっぱり立ち上がる勇気はない。

その時、僕の思いを察したかのように、アルが立ち上がった。

「ちょっと酔いがまわってきちゃったみたいだ。先にシャワーを浴びるよ。頃合いを見て、ペネロペは僕の部屋においで。」

そう言って、恋人に向かってウィンクすると、颯爽とアルは姿を消した。その動きに便乗して、僕も 「酔っちゃいました」的な微笑を浮かべると、隣のマリンさんの方を見た。マリンさんは、僕の心情を察してくれたらしい。

「ユーマもすっかり酔っぱらってしまったようね。顔が真っ赤だもの。部屋のベットで休んだほうがいいわ。」

僕の方に向かってそう言うと、ロバートさんの耳元でなにか、くすくす笑いながらささやきかけていた。 僕はそれを合図に、アルの後を追って、宴の席から姿を消した。


「あれ、何か物音がする」

階段を上がろうと、足を持ち上げた時、不審に思った。そして少しだけ空いた一階の左奥のマリンさんの部屋の方向に、向きを変えて歩いて行った。  

マリンさんは、今日は確か、ロバートさんとバルセロナのはず。不審に思いながら、半開きになったマリンさんの部屋を覗き込んだ。

ワンワンキャイン

ムスタフ?

僕は忍び足で入っていった。

ソファーと、壁のピアノの間の幾何学模様のクロスが敷かれた机の上。そこには紫水晶が真ん中に飾られている。そして、ムスタフがソファーの下にうつぶせになっている。紫水晶の前で、しきりに声色を変えて吠えている。まるで誰かと話しているみたいに。

僕は、おずおずと、ムスタフの後ろから水晶玉の方を覗き込んだ。

そこには、司祭の顔・・・・?

僕は、思わずのけぞってすぐに部屋を出た。そして、玄関口の観葉植物と、天使像の彫刻が施された傘立ての間で大きく息をついた。

『ムスタフが、水晶玉を通して司祭となにか話しているみたいにみえたんだけどな‥』

何かいけないものを見てしまったような後ろめたいどきどきと一緒に、マリンさんの言葉を思い出していた。

「私だけじゃないのよ。ムスタフも特殊能力を持っているの。」


 その夜は、僕は葡萄酒を飲んでも寝付けないで、ベットの中で悶々としていた。そしてふと幼少期に布団の隣から聞こえてきたおばあちゃんの言葉が浮かんできた。

「眠れない時にはね、ユーマ。星空を見上げてごらん。星の数を数えているうちに眠気がさしてくるから。」

それは奈良の田舎だからだったかもしれない。大阪や神戸みたいな都会と違って宗教的な保護建築物が多く、近隣に高いビルもなかった。だから、平地だったけど星々が結構綺麗に見える地域だった。

僕は、棚の斜め上の時計が夜中の二時を過ぎているのを確認した。それから、窓の方に向かい、幾何学模様の彫刻の窓枠に手をかけると、大きく窓ガラスを外に開いた。

「わあ、こぐま座の北極星と、おおぐま座の北斗七星がきれいに見える」

僕は、その事実に少し驚いた。前にも、夜星空を見上げたことはあった気がする。むろんここに来てから。だけど、こんなきれいに星は見えなかった気がするんだけど。時間帯がちょうど夜空が漆黒に染まっているからなのかな。

だけど、日本だったら季節がら、アンドロメダ座、カシオペヤ座、そして秋の四辺形が空を飾る時期だけど・・。 そう思いながら、夜空を探したが秋の星座はみつけることができなかった。地理上の理由かな、それとも・・。

そんなことを、考えながら、静まり返った夜空をじっと見上げていた。 ふと、扉の外から誰かの足音が響くのに気づいた。

『こんな時間に誰だろう。たしかアルは彼女のマンションだよな』

足跡の主は推測がついた。きっとミランダだ。ただ、トイレとかだったら、階下に向かうはずだよな。

そんなことを思いめぐらしながら、北斗七星を何度も何度も、目でなぞっていた。あまりにきれいでずっと見ていても飽きない。 そのうちに、再び扉がバタンと閉められる音がした。そして、コツコツとまた足音が、二階の部屋と平行に伸びた廊下に鳴り響きどんどん大きくなってくる。

僕は、思わず扉の外に顔を出した。すると思った通り、ピンクのガウンと、白い毛皮がフワフワしたサンダル姿のミランダが足を止めた。彼女とちょうど目があって、なんと言っていいか考えあぐねていた。しかし、両手で抱え持った萌黄色に金襴の縁取りの書物に目を止めた。

「ユーマ、ごめんなさい。起こしちゃったみたいね。実は化粧水を切らしてしまってね。アルの部屋の高級化粧水を失敬して、使わせてもらったの。そしたらなんか宗教書みたいな重厚な本を見つけてしまってね。ちょっとだけ借りちゃった。私こう見えても、結構読書家なのよね。私の芸術審美眼が大いに刺激されちゃって、ちょっとだけ借りちゃったわ。あとですぐ返しておくんだけどね。」

僕は、わざとらしいとは思いながらも、眠くて仕方がないと見せかけるため、肘で両目をこすりながら、微笑んで見せた。

「そうなんだ。僕も急にトイレに行きたくなってね。別に君のせいで起きたわけじゃないから。ただ、その書物の中身なんだけど・・・。」

『芸術的な装飾性は高いけど』その中身は『拳銃』なんだよ、その言葉を飲み込んだ。ミランダの嘘を承知のうえで、今後の動向を様子見したほうが、賢明なんじゃないかって。 動揺を隠すように、微笑んでいるミランダに向かって、おどけ口調で言葉を継ぐ。

「そうなんだ、君が読書家だっていうのは、初めて知ったよ。」

ミランダは、一瞬たじろぐように視線を泳がせた。しかし、僕がさっき『トイレ』と行先を告げたのを配慮するように、二三歩後ススッとつま先を後ろに躍らせた。 それから『どうぞ』というように、目線を階段の方に、走らせた。僕は、少しお辞儀をしてから、階段を降りていった。

言葉通り、ダイニングの前の焦げ茶色の重厚な扉を通り越してトイレとバスルームの方向に向かった。マリンさんとロバートさんの部屋と寝室とは逆方向に。

トイレのそばには、またなぜかのムスタフ。僕を待つように待機していた。普段は、夫婦の寝室の前に身を伏せているのにな。 ムスタフに向けて、腰を折ってハグした。さっきの自分の行動に動揺と迷いを覚えていたから、その不安感をムスタフの体のフワフワ感で払拭したかったのかもしれない。

そして、ムスタフのおでこに自分のおでこをつけようとした。その瞬間だった。なぜかいつもの穏やかなまん丸い瞳とは違う鋭い赤光の光がムスタフの目の中を走った。僕はびくっとして、思わず体をのけぞらせた。

『ミランダから、マリンを守るんだ。僕らの手で、必ず。まあ、メインでは僕の仕事だから。お前は、ヘルプをよろしくな。』

ムスタフのキャンキャンという鳴き声と一緒に。同時通訳の言葉が僕の脳内に流れた。かなり生意気な発言だな。

ムスタフは、その厳しい視線のまま、白いあごひげを神妙にぴくぴくさせた。司祭みたいだ。その後ゆっくりと僕のもとを離れ、夫婦んホ寝室の方に向かっていった。 番犬のように、その扉の前に伏せて、動かなくなり、眠りについているように見えた。

『ミランダの手には今頃、拳銃が握られているかもしれない。よからぬ計略を巡らせながら…』

もしかすると、このモフモフくんは、それに感づいているのだろうか・・。


 十月末の、秋枯れからヨーロッパの冬に風景がかわる時期の昼下がり。

僕は自分の部屋にカプチーノとクロワッサンを持ち込んで、マリンさんにもらった初心者向けのスペイン語会話の本をめくりながら、はやりのファミリードラマを見ていた。映像と役者さんの動きとかいつもハッピーエンドにまとまるストーリーもわかりやすかったからだ。 もうカプチーノが飲みたくなり、グラス片手に、階段を降りていった。テレビの音の合間合間に、冬の色に彩りを変え始めた窓から、マリンさんのピアノの音色が響いているのには気づいていた。

あと一二段残したところまで降りてきたところだった。ピアノの音がやんだ。そして、マリンさんの部屋に、ムスタフが入っていくのが見えた。マリンさんは、ムスタフのために開けたドアをそのままにしてあったのかな。

ムスタフの鳴き声が耳に届いてきたのだが、それと一緒に、同時通訳のムスタフの発言も脳内に流れてきたのだった。

『ミランダが、アルの部屋から魔術書と、中のコルトバイソンを持ち出した。きっとママの美しさと聡明さをひがんで殺意を抱いているんだ。ママが危ない。どうか司祭様指令の言葉を!』

ムスタフの鳴き声のリズムにあわせて、僕は空になったコップをいったん、ダイニングのテーブルに置くと、そのままマリンさんの部屋の方に突進した。

扉に体を添わせて中を伺う。

「彼女は私が彼女の孤児院時代の過去に探りを入れていると勘違いしているのかも。それで身の危険を感じているのではないかしら。いくら否定しようにも、猜疑心に蝕まれた人の心を変えることはできない。しょせん私たちの間には母娘の愛や親しみはいっさい存在していないから。そういう会話を投げかける隙間もないような、冷え切った関係しか築けていない・・・・。私の母親としての力量不足がそのままにじみ出ていて、お恥ずかしい限りです・・・。」

マリンさんの言葉に、僕は胸をうたれて、一瞬躊躇した。

『水晶玉を通して、司祭とマリンさんと、ムスタフが三者通話をしているんだ』

その確信に突き動かされた衝動の方が、勝ってしまった。そしてマリンさんの部屋に、ズカズカと足を踏み入れた。

「僕も、マリンさんを守ります。ムスタフと力を合わせて。」

僕の急な登場に、驚いて振り返ったマリンさんの愁いを帯びたピンク色の唇の向こう側。水晶玉には、白とゴールドの縞模様の三角の司祭帽とおちょぼ髭の司祭の顔があった。

「そうだな、ユーマも一緒にな。ムスタフ君から聞いたよ。ユーマもミランダが拳銃を持ち出したのを目撃したんだと。ちょうどユーマともその件で話したいとおもっていたんだ。グッドタイミングだな。」

僕の突然の出現に、驚きを一切見せずに、フォッフォッといつもの笑い声が水晶玉から響く。さらに、顎髭をなでる司祭の仕草が水晶玉いっぱいに映し出されている。

キャンキャンキャンキャン

『こいつが大して役に立つとは思えないけど。ほかにヘルパーはいないから仕方ない。指令を遂行するためのヘルパーとして、こいつを使わせてもらいます。』

度重なる、生意気発言に大して、ソファーに寝そべって水晶玉を見据えているムスタフの耳の間にぐっと手を押し付けながら、上から睨みおろした。

マリンさんはフフッと明るく笑った。

「きっと、ミランダは誰かと共謀して動くと思うんです。可能性としては主人のロバートか、カメラマンの恋人ロマン。私の動きようによっては、しばらくロバートとミランダを切り離せるんじゃないかしら。私がロバートを監視したうえで。 司祭様、少し時間をいただけないでしょうか。私に考えがあります。」

マリンさんは、きっぱりと言い切った。そして、水晶玉の手前のソファー席を僕に譲ると、神妙な表情を浮かべてピアノを弾き始めた。曲名は誰でも知っている・・。ベートーベンの『運命』だ・・・・・。


「明日から、ロバートとパリに行ことに決めたわ。一週間ぐらいのビジネスツアーだけど。その間きっとアルは恋人のマンションに外泊よ。だから、ユーマ、よかったら私の部屋のピアノを自由に弾いて練習していいわよ。あとキッチンやダイニングももちろんご自由にね。その代わり、ミランダの監視をお願いしてもいいかしら?」

窓の外には、中庭周辺の木々、桑茶色と山吹色の枯葉がカサつく。

二週間ぶりぐらいの、マリンさんのピアノレッスン後のカプチーノとクロワッサンとお手製の色とりどりのサラダでの昼食タイム。

「ありがとうございます。ピアノの練習させてもらいます。あとミランダの監視は任せてください。僕には他に大してやることもないし。ムスタフだって、少しは役に立ってくれると思うし。」

マリンさんは水晶玉の前で誓った言葉通り、聡明な判断でロバートさんに歩み寄っていたのだ。 フフッと赤い口元をほころばせると、マリンさんは、コーヒーカップをカタッと音を立てて、受け皿に置きながら独り言のようにつぶやいた。

「彼はソルボンヌ大学のパリジェンヌと付き合っているのよ。私がそれをクールに問いただしたら、神妙な微笑みで否定した。そして私を抱きしめてくれた。だけど彼への不信感でいっぱいのサインを前面に押し出してやったわ。それでパリへの同行を約束させたの。身を守るためには、夫の不倫だって利用させてもらうわ。そうすれば、ロバートのそばを片時も離れずに監視できるし。同時にミランダから自分の身を守ることもできるしね。」

瞳を細めながら、なまめかしく指先をクロワッサンの方に向かわせた。そして、大きくため息をついた。僕は、なんと言い返してよいかわからなかった。

ただ、しばらく呆然と彼女の引き締まった細い顎のラインと、聡明に輝く瞳に見とれていた。

「僕はいつでもマリンさんの味方だ」

心に広がった確信はそれだけだった。


ただ、そう言うかわりに、同じようにクロワッサンに手を伸ばして、ゆっくりとぱくついた。エレガントに、口に含んだマリンさんに同調するかのように。

「マリンさんは、結構強いですね。っていうか見た目はか弱いけど、知性の高さで自分の身を守れるみたいな強さ。ゼロゼロセブンの美人スパイみたいだ・・・。」

まるでため息のように、ピンクの唇からフッと息を吐き出す。それが外から入る冷たい空気の中に溶け込んでいくようだ。

「確かにその通りだわ。案外強い人間なのかもしれない。でも、パリジェンヌの女子大生にはかなわない・・・、悔しいけどそんな恐れも持ち合わせてる小心者なのよ。でも、ユーマの言う通り、スパイのごとくクールに彼に同行するわ、秋枯れの美しいパリの風景に、心地よく出会うためにね。」

ふと、テクテクと足もとにじゃれついてきたムスタフを身を沈めて可愛がる、マリンさん。

そして、僕の方を大きな瞳をきっと釣り上げて、軽く睨んだ。きっと、さっきの僕らの会話をすべて理解しているんだろうな。

「両親を空港に送って、そのまま私は愛車でマドリッドに直行するわ。」

翌朝、八時ぐらいだっただろうか。ウィンクを残して、右手を振り、颯爽と格子扉の玄関をあけ放って、車の方に向かったミランダ。スポーツカーの轟音とともに、僕はだだっ広い屋敷に一人きりになった。

孤独感で、なんとなく無性にピアノの鍵盤をたたきたくなった。 この間マリンさんに終わりのフレーズまで習い終えたばかりの『カノン』の音階。

讃美歌の美しいメロディー。指の運びは単純だから指が、流れを覚えかかっている。それが楽しくて僕は、昼下がりの一人時間を、窓ガラスの両脇のモスグリーンのレースのカーテンを通して入ってくる太陽の光の波に、時々目を細めながら一時間以上ピアノに向かっていた。

そして、少し休憩と思って、斜めから見下ろした紫水晶のそばに、茶封筒を見つけた。何となく胸騒ぎがした。だけど、良心の呵責よりも好奇心が勝ってしまった。僕は、そのままピアノのそばを離れて、マホガニーのソファーに手をつくと、立ったままで茶封筒を開けた。 そこには、知的でチャーミングな金髪の美人。そして肩を組んで彼女の頬に顔を近づけて微笑む、ロバートさん。 瞬時に昨日のマリンさんのため息が耳元に響いた。そしてそのデジャブのような感覚が僕に、羞恥心を引き起こした。そのまま僕はその写真を茶封筒にしまった。

急にいたたまれなくなり、僕はガーネット色の長いフェルトを鍵盤の上にかぶせると、上にカバーをガタッと、ゆっくりおろした。

「なんだか体をきれいにしたい。」

そう思った僕は、大理石の豪華バスルームへと一目散に向かった。

早鐘をうつ心臓を落ちつけながら、僕はバスタブをお湯で満たした。柔らかいタオルで、手足をこすりながら。こんなバスタイムを過ごす境遇に身を置くなんて、考えてもいなかったよな。 なんせ、日本にいた時は、マッハでクイックな烏の行水のお風呂時間だったからな。

そう思いながらも、僕はマリンさんの心持ちが忍びなかった。ロバートさんの裏切りもすべて知ったうえで、仕事のパートナーとして、正妻として立ち振る舞まえる才女。 だけど、心にはぽっかりと穴が空いているような虚無感をいつも抱えているんじゃないか。あの翳りのある美しさがそれを物語っているよな。それから、心の不安を時々僕には打ち明けてくれる・・。きっと、他に誰にも明かせないマリンさんの真意なんだろうな。それからもう一つ。胸に翳りを生んでいるのが、ミランダの行動だ。無性に彼女のことが恐ろしい・・・・・・。

ピチャンピチャン

僕は、胸にめぐる思いと一緒に、鉄砲玉を飛ばすかのように、大理石の洗い場の向こうの、ステンレスの透明の扉の方にお湯を飛ばした。 優雅なバスタイムを終えると、僕はそのままバスタオルを体に巻いて、自分の部屋に向かった。夕刻またお腹が空いたら、ダイニングで美味しいパンでもかじろう。付け合わせに何か、調理してもいいや。

そう考えながら、僕は葉を落として焦げ茶色の枝を伸ばしている中庭の木々に目をやった。 ムスタフは、気持ちよさそうに、木枯らしに吹かれて、庭散歩にいそしんでいる。 僕は、それをしばらく目で追いながらも、無性に部屋にこもりたくなり、螺旋階段をあがった。 もしかすると、ミランダが戻ったら監視する役目に重責感を持ちすぎてるのかな。しばらくは、ゆっくりと豪邸での一人時間を満喫しておきたかった。 アルやミランダのおさがりのファッション雑誌や、サッカー雑誌が山積みになった本立ての横のソファーにパフッと身を落とし込む。机の脇の濃い紫の液体が揺れるワインの瓶の誘惑。紫の液体をラッパ飲みすると、ソファーに体を倒れ込ませるように、身を投げた。

たった一人の、僕。誰にもとがめられないけど、きっとおばあちゃんが見たらお説教されそうな振る舞いばかりしているね。この身が押しつぶされそうだ・・。責任とか責務を背負わされると逃げ出したくなる衝動に駆られてしまう小心者だ。

『でも、密会の証拠写真もあるパリジェンヌの美人大学生にはかなわない・・・、悔しいけどそんな恐れも同時に感じている小心者なのよ』

マリンさんの言葉に、一人で首を振る。そんなことない。そんな受け入れがたい現実とも向き合って立ち向かっていく彼女は、本当に強い女性だ。僕とは種類が違う、高貴な人・・・。

目が覚めた時には窓の外は、暗闇だった。ただ、さっき多分、玄関のほうに車の音が響いていたと思う。それで目をさましたものの、僕は二度寝してしまったんだろう。だってその時は、まだ外は夕刻の赤い光を僕の部屋に届けてくれていた気がするから。

グーグーグー

目を覚ましたのは、自分の腹時計の音で、だった。

「晩御飯、いただこうかな」

僕は、目をこすりながら、ふらつく足もとでゆっくりと階段を降りた。

一階のマリンさんとロバートさんの寝室の前には、忠犬のごとくムスタフが身を伏せていた。ちらっとムスタフと目があった。

キャン、キャイーン。

「小心者の酔っぱらい。本当に役立たずなやつだ。」

ムスタフ・・・?

それから、ダイニングの扉を開けようとした時だった。ミランダの声が聞こえてきた。誰かと話している?

「大丈夫よ、ムスタフの鳴き声だから。それにしてもパパの心の痛みは、娘の私が誰よりもわかってるわ。だって、この前奈良に同行したときだって、あの女、私の過去の汚点を探って帰ってきたのよ。それだけじゃない。パパの話だと、仕事やプライべートの楽しみを邪魔だてするようなことも、あの女なら平気なのよ。だって、名門大学出の、高等なバイリンガル。飛び切り嫌みで、自分の身分を守ることしか考えていないエリートだものね。」

その声には、はっきりと憎しみがこもっていた。そして、語尾に向かうにつれて怒りで声がどんどん大きくなっていく。僕はドキドキした。半開きの扉の後ろに身を隠しながら。

「これ以上あの女が、私たち家族の弱みを握ってスパイのようなことを続けようとするなら、その時は、私が彼女を消すわ。だから、ロマン、私を助けてね。一生のお願いよ。つい最近だけど、拳銃も手に入れたのよ。極上の骨董品みたいなコルトバイソンをね。」

しばらく彼の話を聞いていたのだろう、ミランダのフフッという笑い声だけがリズミカルに耳に定期的に届いてくる。そして最後のとどめの一言が僕を一時的な記憶喪失に陥れた。

「それから、パパはね、一年ぐらい前から日本の暴力団組織と裏で結びついた企業相手に、拳銃や麻薬を売る仕事に手を染めているらしいわ。本当の悪人よね。まあ、私にはいつも紳士だからそれでいいけどね。ただ、法の裁きに触れるのも時間の問題かもね。その時は、あなたと結婚して父のもとを離れるから、私の人生には影響はないと信じたいけどね。」

僕の脳内のスクリーンは、『僕が放った銃弾を胸のみぞおちに受けて、ビジネススーツと白いシャツがどす黒い紅に染まった中年のサラリーマンの姿』がドアップになった。そして同時に思った。

『今この状況で、自分が犯した殺人』を再び思い起こすのはヘビーすぎる。僕の心も体もパンクして、粉々になってしまう。そのまま、吐き気に襲われてなんとか口元を抑えながら、千鳥足で部屋に戻り、無感覚な空洞の心持なのに、涙があふれて止まらなかった。翌朝、昨夜の記憶が一部抜け落ちていたのは、多分自分を守るために『殺人』を記憶から一時的に消去してしまっていたからだろう。


 日を追うごとに、風が冷気を帯び肌をピシャリとたたくようだ。アルに借りた厚手のセーターを着込んでも、窓を開けると、震えがくる。その一方で僕の心の中は、常に激しい風と嵐が交互に訪れていた。

『マリンさんを消す』という、ミランダの言葉が、その原因だった。それから頭に猛烈な痛みが走る・・。何か大事なことを忘れてしまっているような喪失感と一緒に。

それから、一週間ほど経過したある夜のことだった。ディナーの後、マリンさんやミランダとワイン片手に談笑するリチャードさんの紳士的で、豪快な笑い声が響き渡るダイニングルームでのことだ。

僕は、しばらくその笑い声に付き合って、 スペイン語の飛び交う食卓で、運ばれてきたフルーツを数切れ食べ終えた。そして、ひっそりと二階へ姿を消していた。家族の楽しい会話とはいえ、何を話しているかもわからない場所に長くいるのは苦痛だったからだ。

「ユーマ、二人で飲みましょう。」

その日もここ最近のルーティーン通りの過ごし方。部屋にこもってスペイン語会話の入門書を片手に、画面だけでストーリーを追いながら、ファミリー向けドラマを見ていた。 突然、部屋のドアが乱暴に開いた。そして、右手に葡萄酒を抱えたミランダが入ってきた。

「パパは常に、自分が主人公の人だから。可哀そうな思いをさせてしまっているわよね。ごめんなさいね。」

そう言って、パフッと僕の右隣に座った。そしてグラスに葡萄酒を注ぐ。僕の右手にそのグラスを握らせると、瞬時に滑らかな手を上から重ねて微笑む。そのあと、すっと立ち上がり、いつものようにワインのボトルに口をつけて、豪快にラッパ飲みした。僕はつられて、握りしめていたグラスを一気に飲み干してしまった。

一時間ぐらいの間、次第に濃いピンク色に頬を染めながら、酔った勢いで、機関銃のようにミランダは話し続けた。

「パパは、ここ数日間いつも同じことばかり。ペネロペのことよ。美しいだけでなく、家柄も、品格も素晴らしいってほめちぎっているのよ。」

ミランダは、少し僕にしなだれかかりながら、ソファーに寝そべった。そして、豪快な笑い声をたてた。

「それにしても、アルは二週間近く帰らないね。」

僕は、泥酔した父親を置いていった翡翠色の瞳、アルの冷笑を思い出していた。アルは今、どういう気持ちでいるのだろう。彼女と過ごすうちに、父親に対する感情が変わっていればいいのにと、祈るような気持ちになった。それくらい、あの時のアルは怒りを全身に滲ませていたから。

「私には、メールをしょっちゅうくれるんだけど。彼女とはまた愛情が深まったって感じの文面だけどね。」

「君だって、マドリッドのカメラマンの彼氏とラブラブじゃないか。」

「そうね、確かに。彼とは結婚しようと思ってるもの。本当に私だけを心から愛してくれる。今まで、巡り合ったことのないような大事な人よ。」

ミランダの言葉に僕は安心した。そして、騒音に感じたテレビを消して、ミランダの話をしばらく聞いていた。 その間、自分が口をつけたワインボトルから、僕のグラスに葡萄酒をついでくれていた。それも、グラスがカラになるたびに。僕は、調子にのって、一気に飲み干していた。

一緒の酒盛りだって、ミランダ監視任務のひとつだよな。 そんな言い訳を心でつぶやきながら。それにしても独り身で、彼女もいない僕にとっては、酔いつぶれたくなるぐらいの、のろけ話ばっかり、よくもまあ続けられるもんだよな・・・・・聞き流すしかないな、こりゃあ。じゃないと身がもたないや、独りぼっちの悲しみで。

だけど、その中のふとした彼女の発言が、しばらく僕の中に残り続けた。ほかの部分は、アルコールと一緒に、空気に解けて消えていったけど。

「アルは、彼女のことを本当に愛しているとは思えないわ。誰かの指令で、必要に迫られてペネロペを愛しているように見せかけているみたい。ただ、ペネロペの方は、アルにぞっこんだけどね。」

僕は、初めてアルに出会ったときの、海岸沿いでの彼の行動が記憶によみがえった。

あの時ペネロペの呼びかけを無視して、自分の義務を果たすために僕の方に近づいてきたアル。水面に揺れる細くて長い手足のシルエット。それはミランダの今の発言と通じるような行動だったと思えてしかたがなかった。

しかしながら、僕の体中には完全にアルコールがまわってしまったらしい。一時間後ぐらいには、泥酔してソファーに深く身を横たえて動けなくなっていた。

「待って、水を持ってきてあげるわ。」

ミランダは、細い足を絡ませるように、千鳥足で歩いて、ドアに向かっていった。

しばらくすると、別のグラスをもってミランダが再び姿を見せた。

「どうぞ。酔っぱらいのお兄さん。」

差し出された水を僕は、飲み干した。だけど、何か細粒の薬が混じっているような違和感を感じた。

『これ、ただの水じゃあない・・・?』

数秒後には、僕はそのまま眠りにふけってしまった。ミランダがクスッと笑い声をたてたのは、耳に届いてはいたけど。

翌日、僕が目を覚ましたのは、マリンさんとミランダのすさまじい口論の大声でだった。ただ、身体を起こそうとしても、いうことを聞いてくれない。

窓の外の太陽の光の角度と射光からだと、午後の二時か、三時ぐらいだったと思う。

次第に、僕は二日酔いだけではなく、筋肉が弛緩していっさい動けなくなっていた。なんだか、手術の前に全身麻酔をしたみたいな感じだ。昨日の夜飲んだ水に混じっていた細粒のせいだっていう確信が走った。間違いなくミランダの計略通りってこと・・・。

ソファーの上を離れることもできず、午後の日差しのまぶしさで、目を細めることしかできなかった。そして、ダイニングを舞台にした劇の場面を、思い描いていた。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

しばらくすると、声の主がすり替わった。マリンさんと、リチャードさんの声。夫婦喧嘩に、場面が変わったようだ。そして、窓の向こうから、ミランダの大きな声がした。なぜだ、まさかロバートさんとマリンさんは、パリに行っていない?きっとミランダと、ほかならぬマリンさんの夫のロバートさんの計略で・・・。

「パパ、アルがもうすぐ、帰ってくるわ。メールが来ていた。」

その声の後、すぐにスポーツカーのエンジン音と発車音が響いた。そしてミランダは、そのまま家を離れていったようだった。 続けて僕の耳に届いた轟音は、銃声だった。

「マリンさんが、撃たれた?」

身体のしびれと、恐怖からくる痙攣で、僕はベッドの中で震えていた。しかし僕をさらに震撼させたのは、コツコツと重い音をたてるリチャードさんの靴音だった。階段を上がってくる。そして、ぼくの部屋のドアを・・・、開ける。

『僕も、殺される・・・?』


そう思って、ブランケットから少しだけ顔を出した。すると、目の前に飛び込んできたのは、リチャードさんではなく、ムスタフだった。

ムスタフのフワフワの身体が、ベッドの中に入ってきた。しびれる体を、恐怖でふるわせている腹ばいの僕をのパジャマの上着に嚙みついて、すごい力で、ベットの外に引っ張り出した。

「逃げるんだ。さっき水晶玉から司祭の指令がきていた。このすぐ近くまで、司祭が迎えに来ている。」

脳内に響くムスタフからのアドバイス。そして、ムスタフは僕の背中におぶさった。

「窓から、飛ぶんだ。」

僕は、別の意味の恐怖心で躊躇した。しかし、ムスタフは、

「僕が、タケコプターになるから大丈夫、信じて」

という重低音の暗号を、続けざまに僕の頭に送ってきた。

『信じよう。僕を東京の荒れ野からこの地に導いてくれたムスタフを』


無条件にそう思った。きっとあれも、ムスタフだったに違いないと。そして、窓の外に両手を広げて、水泳の飛び込みのように、外に飛び降りた。そして、その背中のムスタフがタケコプターの役割を果たしてくれたおかげで、ゆっくりと僕は中庭の天使像の噴水の前に、すとんと着地した。まるでスローモーションの動画みたいに。

「門を走り出るんだ。行先は僕が誘導する。」

ぷかぷかと地面から二メートルぐらいの高さの位置を上下しつつ、飛び浮かぶムスタフに、頭の上の髪の毛の一部をひっぱられて競歩のように歩く滑稽な僕。林の中、車が通行するために舗装された道を夕焼けの赤銅色の明かりを頼りに、しばらく歩いた。

そして、カーブした坂道の下に見つけたのだ。アルのスポーツカーを。

「後ろに、乗ってユーマ。」

助手席に、顎髭をなでてフォッフォッと笑う司祭を載せて、運転席の方からアルの声が聞こえた。


 僕は、疲れて車の中で眠ってしまった。ムスタフのフワフワの体を枕にして。

夜更けに、ムスタフの鳴き声と、司祭に体を揺らされて、僕は目を覚ました。

「ここはバルセロナだよ。」

暗闇の中に響く、僕を小ばかにしたような皮肉がこもった司祭の言葉。眠気眼の僕の耳元に届いたそのしわがれた声。そして、いつもの金縁の丈高の司祭帽ではなく、黄色い毛糸の三角帽のおちょぼ髭の向こう側。

そこには、白い壁と螺旋階段に歪曲したベランダの格子が並んだ五階建ての可愛いマンションがあった。

「あの豪邸内での君の様子は、マリンの部屋の紫水晶玉を通して観察していたよ。そして、クレバーなムスタフにも色々と報告を受けていた。なんといっても、ムスタフ君は、聖犬だからね。見事に僕と君たちとの潤滑油になってくれたんだ。そして、君を救い出す役割を果たしてくれた。さすがは、キングオブミニチュワシュナウザーだ!それから他でもない、我こそは、教育係として育て上げたうえで、アルの豪邸に愛犬を遣わした身だ。すなわち『ミニチュワシュナウザートレーナー司祭様』ってとこだな。この顎ヒゲの愛らしさが、ムスタフ君とそっくりだろう、フォッフォッフォッ。」

僕は、司祭のおどけ文句を軽く受け流しながら、考えていた。つまり、マリンさんの部屋の紫水晶を通して、ムスタフと交信をとり、僕らの様子を司祭は垣間見て立ってことなのか・・・・・。

「でも、あの水晶玉はアルの彼女のペネロペが、晩餐会のお礼のプレゼントで持ってきてくれたものなんだけど・・・。」

司祭は、ホホーッと、白髭を撫でる動作を繰り返している。

「どうやら、最近少しおつむの働きがましになってきたようだな。ペネロペとアルは確かに愛し合っているだろう。だが、ペネロペとて、神の指令で動く存在だ。彼女のすべての行動は、神の声に従ってなされている。」

つまり、ペネロペは、『指令に従って』マリンさんに、あの紫水晶玉を届けたってことなのか。

その時、扉が開く音がした。そして、入ってきたのは白いシャツに、ジージャンを羽織った、アルだった。

「このマンションのオーナーは僕だよ。この部屋をしばらくは、君に貸してあげるよ、隠れ家として無償でね。自由に使うといい。」

アルは、そう言うと、天使の彫刻が施されたオリーブブラウンの椅子の上に腰かけて、足を組んだ。

「安心していい。パパには、君のことは説明しておいた。君は銃声を聞いてすぐ、おっかなくって窓から外に逃げた。そして血相を変えて山道を猛ダッシュで走っているところを、僕が車で拾ったってね。」

僕は、びっくりして、アルが目をやった窓際の鳥かごの方を見た。

窓際につるされた鳥かごには、水色と黄緑まらだもようのチー。

チュルチュルー チッチ


「でも、リチャードさんは一緒にパリに行くと奥さんに嘘をついて、ミランダの策略に同調して、マリンさんを撃った。僕はそれを知っている以上、リチャードさんに命を狙われるんじゃないか?」

僕は、オリーブグリーンのクッションから、ずり落ちそうになりながら、訴えた。


アルは、立ち上がった。そして、釣り鐘型のガラス窓を開けた。


「いや。パパは、ママを殺してなんかいないよ。ミランダにそう見せかけようと、殺人を偽造しただけ。すべてお芝居だよ。そして、たぶんパパは、君に真実を説明しようとして、君の部屋に向かった。だけど、君は姿を消していた。なぜって、ミランダの動きが心配だったから、ムスタフに指令を組み込んでおいたのさ。なんせ、僕の部屋から無断で魔術書に隠した拳銃を盗み出すぐらいだからね、ミランダは僕らにとっても危険人物さ。でもね、パパとミランダには、きちんと話をつけておいたから。かなり作り話も交えたけどね。だから、君のことはパパとミランダの眼中にもない。安心して冬のバルセロナを満喫するといい。」

僕は、ホッとして再びクッションの上に座りなおした。もともと、リチャードさんの眼中には僕は入っていなかったから、変わりなしってこと・・・。

でも、気がかりはミランダだ。ミランダは、心の底にいつも憎しみの炎を燃やしているようなところがある・・・。

うまく説明できないけど、常にそれを感じてた・・・。

それから、今の話だと、アルは拳銃を盗まれたのを知ったうえで、あえてミランダを自由に泳がせておいたってことなんだよな。それって、もしかしたらアルの思惑通りにミランダが動いたから放置してたってことなのかな・・・、僕はアルに不信感を抱いた。

その時、窓際のアルの横顔を神々しい夕方の光が、照らした。そして、近くの教会の鐘の音が鳴り響いた。

「ミランダは母に、殺意を抱いていたからね。パパもああするしかなかったのだと思う。だって、奈良の孤児院時代の過去は、大富豪の令嬢として、しかも大学生モデルのセレブ生活を送っているミランダにとっては、地雷みたいなものだからね。それを探る人間のことは、自分を脅かす存在としか思えなかったんだろう。まるで病原体に取りつかれたようにね。」


 その夜、八時から九時の間ぐらいだっただろうか。

月の輝きに魅了されて、僕は窓を開けた。凍てつく風が、僕の頬を切るように流れる。空を見上げると、冬の大三角の一角、オリオン座のベテルギウスだ。そして、その少し上を、ふたご座のカストルとポルックスが輝いている。それはもしかしたら、僕の思い違いかもしれないけど。だって、おばあちゃんと一緒に見上げる、ガラス窓の上空。奈良のクリスマス前の星空はいつもそうだったから。

冬の大三角、おおいぬ座のシリウスや、オリオン座のベテルギウスの近くに、ふたご座が輝いていたからだ。そう、まだ幼い頃。おばあちゃんと一緒に十二月の半ばぐらいに見た『ふたご座流星群』。無数に細かくまき散らされるような星の粒の映像が脳裏に浮かんだ。そんな幼い日の思い出。それがもしかしたら、僕の幻想の星空を描き出しているのかもしれない・・・。おばあちゃんへの思慕に酔いしれて孤独な冬の星空に見ふけっていた時、その僕時間を切り裂くように、ドアをノックする音がした。

「どうも、お久しぶり。」

司祭の隣には、ホワイトジーンズと真っ赤な肩の開いたお腹のラインまでのセーターを着たグラマラスな美女。上半身を揺らすと細いウエストとおへそがちらっと見える。ペネロペだった。

「大事なお客様をおもてなししてほしい。これは僕からの指令だ。」

そう言い残すと、司祭は、背を向けて、グリーンの階段の方に姿を消した。

「これは、私からのクリスマスプレゼントよ。かなり早めだけどね。」

そう言って、彼女がプラダの黒いリュックから取り出したもの・・・、それは絵だった。 そうあの宇宙空間の絵、ルドルフさんの。

路上で即興でオーラのみなぎった大道芸人、もとい芸術家。宇宙空間を描き上げる姿が頭に浮かんだ。ダークブルーの宇宙空間。そこに漂う惑星。

「ありがとう。嬉しいよ。」

僕の視線は絵に釘付けだった。絵を両手に抱えて、少しおしりを振るような歩き方で、ペネロペは、『着衣のマハ』の隣に、二十センチぐらい感覚を開けて、上下が『マハ』の絵とそろうようにピンパネルを壁について飾った。

「せっかくなら、『裸のマハ』の絵を飾ればいいのに。まだまだ純情なお年頃ってところかしら?」

ペネロペの言葉に肯くでもなく、椅子から腰を浮かせて、えいっと立ち上がった。月光が揺らめいている。その光は、吸い寄せられるように宇宙の新しい絵の方に向かって伸びる。

「仕方ないよ。このマンションのオーナー様は、君の婚約者のアル様だから。彼l好みの『着衣のマハ』の絵が最初っから飾られていたんだからね。」

僕は、そう言いながら、冷蔵庫からワインを取り出して、「お礼だよ」とでも言うように、机の上に置いた。そして、マホガニーの食器棚からグラスを二つ取り出す。

「そうね、アルは確かにストイックなところがあるわね。裸よりもむしろ着衣の美女を好むような。シャワーを浴びた後、ネグリジェのままで愛し合うこともあるわ。彼がそれを望むから。彼って、根本的に冷たい人間、すごくクールな男性なんだって心底痛感するのよね。真の愛を体感したいと私は思っているのに。アルは、そうじゃないのかもね。まるで氷のように冷酷な性分なのかもしれないわ。」

ペネロペの発言に僕は、少し動揺した。

「でも、絶対のアルは君を愛しているよ。だって、両親も認めたフィアンセなんだから。」

絵画を飾り終えると、おしりをつんと突き出して、少し上半身を下げた姿勢で、じっくりと観賞しているペネロペのセクシーな背中を見つめていた。その間、黙って別のグラスを紫色の波で満たしておいて置いた。

「ありがとう、美味しそうな色のワインね、遠慮なくいただくわ。」

ペネロペはそう言って、振り返ると僕と向かい合って、木の椅子に座った。そして、以心伝心でグラスを合わせる。

キーン キーン

グラスのぶつかる音が、月の光がたゆたう室内に響く。

「私とアルは、たぶん結婚はしないわ。」

ペネロペの言葉に、目の前で揺れる残ったワインの紫色と、彼女の赤い細身のセーターの色を見比べていた。

「そうなの。あの晩餐会は婚約パーティーだとばっかり思い込んでいた。」

ペネロペは、ピンクの頬の色と、赤いくっきりとした唇を僕の方に近づけた。

「確かに彼氏としては最高。誰もがうらやむ美しさと、聡明さ。リンゼイみたいな紳士だし。だけど、結婚はしたくないわ。もし結婚するとしたら、ルドルフみたいに優しくて、寛容で、海のように広い心を持った芸術家がいいわ。」

そう言いながら、ペネロペは金髪の髪を揺らして、後ろの宇宙の絵を振り返った。

「昨日の夜は、ルドルフの即興の絵描き芸を最前列で堪能した後、彼と一緒に飲み明かしたの。若いころバックパッカーでヨーロッパを一人旅したときの、武勇伝とか、面白話とか。彼といると楽しくて楽しくて、心の底から笑えるの。だけど、アルと一緒にいて、心の底から笑ったことなんて一度もないわ。そう思うと、私は彼との結婚はありえない。だって、私の理想はね、笑いに溢れた楽しい結婚生活だもの。アルとは無理よ。」

そう言って、ペネロペは、赤いマニュキュアの塗られた右手の指先をグラスにはわせながら、色っぽくワインを飲み干した。 僕は、その真意は読めなかったけど、その吐き出された言葉は心に波紋を広げた。まるで天使の口から噴き出した噴水の水が、波紋を広げるかのように。

その時、それまで眠っているかのように動かなかったチーが、ふいに鳴きだした。

チュルー チー

「僕には、男女のことはよくわからない。でも、アルが時々垣間見せる冷酷さは、確かに感じるね。例えば、チーのことでも。本当は二匹一緒にしておいてあげるほうが、この子にとっては絶対幸せに決まってるのに。なぜか、理由のわからない優しさで僕のところに連れてきてくれたんだけど。でもそれって、アルの冷たさが引き金の行動なんじゃないかって、へんな邪推かもしれないけど。」

「ユーマがそう思うなら、アルに相談して、リンゼイ骨董店に返しに行けば?確かに寂しそうに鳴いているようにも思えるわね。」

ペネロペはそうつぶやくと、酔いが回ったかのように、頬をバラ色に染めたまま、立ち上がって、窓辺に向かった。そして、ワイングラスを右手に、左手をチーの鳥かごの中に、器用に入れて、くちばしをつんつんとついた。まるで、彼女の細い指先とチーがキスしてるみたいに。

「アルの深淵にある冷たさに、涙してるのは私だけじゃないみたいね。」

そうつぶやきながら。

「それからね、ミランダは絶対に信用しちゃダメ。あの子はナイフとピストルを心に隠し持っているかもしれない。下手したら、アルよりずっと危険な・・・。」

『心にだけじゃないかも…。』僕は、喉元まで出た言葉を、ワインと一緒に飲み込んだ。


10

 プラタナスの街路樹を抜けて、行き交う人が、革ジャンや、コートで冬色にめかしこんだ通りを歩く。 アルから教わった眉毛や口元のメイク。革の黒いキャップを目深にかぶり、ブカブカの厚手の革ジャンを羽織ったら、変装完了だ。

「ユーマは、依然として日本の警察に追われている身なんだからね。」

その忠告と一緒に、限られた範囲での、バルセロナの街歩きが許された。

窓から見下ろすと、すぐ近くのカタルーニャ広場。そして、ラブランス通りを歩いていくと色とりどりのバルセロナ特産品がならぶ市場だ。僕は太陽が夕焼けにバトンタッチする黄昏の光の秋風の中を散歩するのが大好きになっていた。

だって、僕は日本の古都、奈良育ちだ。だから、ちょうどこの時間帯の山吹色の空気の色の中を、興福寺の近くにある猿沢池や、三条通のゆるやかな坂を抜けて、放課後の孤独な時間帯を、商店街をぶらついて過ごしてきた。 その思春期のセピア色の記憶がよみがえる。

「食事は、すべて自分で調達だよ。」

生活費としてユーロ札を何十枚かアルから受け取った。まるで、お小遣いみたいなかんじだった。

その日も僕は、市場に向かった。若いカップルたちが戯れるバルを横目にみながら。仲間なんていない僕には、縁のない場所だから。 僕の場合は、生フルーツのジュースや、デニッシュのパン、チーズを買い込む。もちろん、大好物のチョコレートも一緒に。時には、葡萄酒。それから、この地で覚えた美味、オリーブも。

いつもの通りを歩いて、鍵を差し込む・・・。 あれ、開いてる・・、確かに鍵をかけたはずだぞ・・。 びっくりして、部屋に飛びいると、そこにはアルがいた。

「久しぶり、ユーマ。いや、二週間ぶりぐらいかな。」

食器棚の上の『着衣のマハ』のそばに、腕と足を交差させて、モデル立ちだ。絵と向き合うように、壁に体を横たえている。アルも絵の中の人物のようにも見えて、話しかけていいものか、一瞬とまどった。まるで絵画と一体化した美青年が動くように細かく眼差しを上下させた。その後、宇宙空間の絵に視線を移す。興味深そうに眺めながら、顎に右人差し指を滑らせた。

「これは、ペネロペからのクリスマスプレゼントだね。ルドルフの絵。名画が並んでて素敵なインテリアじゃないか。それにしてもお腹が空いてきたな、そろそろ七時近いな。ディナーの時間だね。僕も一緒にいいかい?」

僕は、市場で買ってきたタコのアビージョや、エビのフリットや、トマトやチーズ、オリーブ。そして、色とりどりのフルーツを丸い食卓に置いた。

「ユーロを恵んでもらっている立場上、断れないな。」

アルは、立ったままエビのフリットをひとつつまんだ。

「なんだ、これ美味しいじゃないか。」

ごちそうばかり食べなれている割には、嫌みのない言い方だった。

「おいしだろう。僕の常食だよ。なんせキッチンなしで、調理ができないからね。」

僕はそう言いながら、右わきの食器棚から、何枚かお皿を取り出した。 そして、その上に、チーズやオリーブを並べた。

『キッチンがあったら、どんなに便利だろう』という僕の願いを無視するかのように、アルは、チーの方を見上げて、斜め目線でほんのりと笑顔を浮かべた。

そして、食器棚の上の葡萄酒を目ざとく見つけたアルは、自分でグラスを二つ取り出した。一瞬後には、ソムリエ風にワイングラスを満たしている。

「いやあ、こんな機会でもなかったら、市場で売っている庶民の食べ物なんて味わうことはなかったね。なかなか美味しいね。ありがとう、ユーマ。僕の知らなかったバルセロナの味を教えてくれて。」

鋭い切れ長の視線。優雅なオーラがみなぎっている。肘をついて、ブロンドの髪をかきかげながら葡萄酒を飲み干す。続けて、雑談からいきなり本題に入るかのように、真剣な顔つきで、ブラウンの睫毛とこめかみに手をやりながら、話し始めた。

「ミランダが、今どうしているか知りたいかい?僕もびっくりしたよ。あの後、ミランダはパパが、母さんを本当に殺したと思い込んじゃったらしくてね。 パパは遺体もうまく始末した、完全犯罪だとか雄弁に言い放っていたからね。ディナーで同席していた時は僕はいつも、笑いをこらえて、神妙な顔を作るのに必死だったよ。 しばらくしてミランダがさ、『ママの霊が見える』とかなんとか、急に怯えだしてね。あのあと、一週間ぐらいで、マドリットの彼氏のところに逃げるように行ったきり戻ってきていないみたいだよ。この間電話で話した時には、『彼と結婚しようと思う』とか言ってきていたかね。」

アルの言葉には、はっきりとミランダに呆れかえっているのが見て取れた。自分よりも次元の低い人間を、コケにするような言い方だった。

でも僕は、かえって、そのミランダの幼稚さに少し安心した。それなら、リチャードさんにもミランダにも怯える必要は全くないってことだよな。

アルは、しばらく暮れなずんでゆく窓の外と、木の鳥かごの中の鳥を見つめていた。

「ミランダは、きっと風俗業の母親に似て、単純なつくりなんだよな。」

アルの目には、軽蔑の色がにじんでいた。その単語に僕は本能的にムッとした。

「それだったら、僕も一緒だよ。アル。」

僕は、それ以上言葉がつながらなかった。そして、うつむいてしばらく幾何学模様の絨毯を見据えて、黙っていた。

「ユーマ、気を悪くしたなら謝るよ。ただ、君は優秀な父親の遺伝子を引き継いでいる。知能が高く家柄の良い父親の遺伝子をね。だからこそ、神に選ばれているのだからね。

ユーマ。僕は、きっと本能的に人間っていう生き物が嫌いなんだよ。なんせ、僕自身のことも大嫌いだからね。あの父親の子供だと思うと、自分っていう存在に反吐が出そうなくらい嫌気がさすんだよ。」

アルの言葉に、僕は顔を上げた。窓からの冬の昼下がりの日差しがまぶしい。目がくらむくらい、キラキラしている。

「君みたいな、極上の美しさを備えた優秀な人間がそんなこと言ったって、他人にはたわ言にしか聞こえないよ。」

僕の言葉に、アルは、眉間にしわを寄せた。そして、右手で広いおでこに手をやると、足を組みかえて、少しだけ前のめりになった。

「人間なんか、滅びればいいと思うよ。人間よりも、動物の方がずっと美しいと思うからね。例えば、鳥とかムスタフとか。愛らしい汚れなき動物たちの方が、ずっとずっと好きだよ。」

その時の、アルの瞳の美しさは天使のようだった。同時に、その言葉は、悪魔のささやきのように、午後のバルセロナの明るい日差しの差し込む窓辺に向けて響いた。

「いや、今の失言だったね。撤回するよ。滅びればいいと思うほど憎いのは、僕の一族だけだ。」

僕は返す言葉もなく、ただその妖艶な手つきと、哀愁を帯びた表情に見とれていた。そして、言いようのない恐れを感じていた。しかし、その恐怖心をさとられたくなかった。だから、僕はおもむろに立ち上がって、少しアルを非難するように目線に力を入れながら、対抗するように言葉を投げかけた。

「その割に、チーに冷たいじゃないか。友だちのリーと引き離したりして。」

僕は、少し斜めに構えて、ささやいた 。

「二羽を一緒にしてあげようよ。人間嫌いの動物愛護家さん。」

実際、毎朝目覚ましのようなチーの鳴き声は僕には相棒のいない寂しさを訴えているようにしか聞こえなかった。

「君と違って、四六時中一緒に過ごしていると、わかるんだ。チーの悲しみがね。」

アルは興味深そうに、ワインの前に再び座って、足を組んだ。そして、頬杖をつきながら、目線を空中に漂わせた。

「君がそこまで言うなら、チーをリンゼイの元へ帰しに行こうか?君が独りぼっちで寂しいんじゃないかっていう僕の配慮が冷酷だっていうのならね。」

アルは、素早く立ち上がり、アイフォンを耳に掲げながら、素早く外に出た。

一人残された僕は、急に名残惜しくなってチーのいる鳥かごを抱きすくめながら、窓の外を見た。子どもたちが、路地裏でサッカーボールで、リフティングをしながら、三人で輪を作っている。うまいもんだ、三人とも真上にボールを膝でけり上げて、

輪が大きく乱れることはない。 僕は幼少期にもサッカーボールで遊んだ記憶は一切ない。なんだか羨ましい気持ちになった。

そのうちに、アルは再び部屋の中に戻っていた。

それに気づくのとアルが僕の耳元でささやくのは同時だった。

「即断決行だ。今からリンゼイのところに行こう。君はその鳥籠を持ってね。 」

アルは、スリムジーンズのポケットにつっこんっだ手を、目の前にかざすと、僕に向かってウィンクした。


11

 黄昏前の並木道の通りを、遠目にカタルーニャ音楽堂を視界に映しながら、アルについて歩く。 道行くカップルや家族ずれが鳥かごを持つ僕を、少し興味深そうにチラ見してくる人もいる。きっと、僕はファッションモデルの付き人とでも思われているんだろう。

僕は秋風にまぎれて、不安そうに鳴くチーを抱えて、急ぎ足で歩いた。 再び、あの一品物の古い時計や、オルゴールが店頭を静かに飾る店へ。路地裏に紛れ込み、ジグザグに歩を進めていった。 そしてたどり着いた、リンゼイさんの宝箱の中に。

ノスタルジックな感覚に陥りながらも、僕はアルとリンゼイさんが交わす挨拶を耳元に聞きながら、手持無沙汰な鳥かごの中のチーに、別れの挨拶を心の中で呟いていた。

「君は、優しいんだな。そこに鳥かごを置いていいよ。一羽だけで寂しさを感じていたのはうちの子も同じだったからな。」

僕は、宇宙空間の壁絵に身をもたれていたアルの前を通って、カウンターに鳥かごを置いた。そして、その拍子にアルとリンゼイの白黒のロンドン時代の写真をフレームごとパタンと倒してしまった。そして、そのすぐ後ろ側にあった、別の白黒写真のフレームが一緒に倒れたことに気づいた。

後ろ側の写真には、幼い日のルイの姿があった。僕は、倒してしまった二体のフレームを起こした。そして、ルイが映っている方の写真をまじまじとみつめてしまった。

まだ若いが、イギリス紳士的な端正な顔立ちと、ブラウンの濃い眉毛のリンゼイさん。チェック柄のジャケットに、洒落た臙脂色のネクタイがとても似合っている。

しかし僕の意表をついたのは二人の背景だった。 そこは僕にとってはなじみの、東大寺南大門の前だったからだ。

僕が、その写真を右手につかんだまま、モノクロームな黄昏に入り込んでいる間に、リンゼイは、僕がバルセロナの町中を苦労して抱え持ってきた木枠の鳥かごからチーを出して、 相方と同じ籠に入れていた。

チーチー。ジージー。

二匹が、仲良く合唱を奏でる。 その後、僕の異変に気づいたアルが、独り言のように呟いた。

「僕が、リンゼイに奈良の孤児院時代の話をしたすぐあとだったよな。リンゼイが、孤児院に連絡をとって、一番聡明で、可愛い女の子をひきとって育てることに決めたと連絡をくれたのは。」

僕は、含み笑いを浮かべながら、二羽の睦みあう姿をカウンターに座ったまま見つめていたリンゼイさんが口を開くのを待った。

「そうだな、病弱で子どものできない体の妻のたっての願いでもあったからな。ルイは思春期は色んな葛藤もあったようだが、勉学熱心な子でな。妻の願い通り資格をとって自立した女性に育ってくれたからな。妻が天国に召された時も、泣き叫ぶルイとは対照的な、穏やかで充足した天使のような笑顔で旅立っていったのを、今でも時々、夢にみるんじゃよ。」

アルは、僕が倒したままで放置していたアルとリンゼイの方の写真を、おもむろに両足を交差した姿勢のまま右手を伸ばして、自分の鼻先に、まるでタバコでもくわえるように、カッコよくかざした。

「ロンドンは、高校時代の僕にとっては、逃避場だったんだよ。父さんとの軋轢や、思春期のジレンマに苦しんでいた僕にとってはね。なのに、奥さんが天に召された後、ロンドン市警御用達の探偵業と、カムデンマーケットの一角で営んでいた骨董品の店を両方とも店じまいして、バルセロナに移り住んでしまったときには、あまりの決断力と、行動力にまたびっくりさせられたよ。」

リンゼイさんは、遠い目をしながらも、いたずらっ子のような笑みをうかべて、アルを見上げた。

「そういわれてもな、わしとルイをバルセロナに導いたのは、お前なんだよ。

なんせ、お前の招きでルイと一緒に観光で訪れたバルセロナのサグラダファミリアで、わしは神の暗示を受けてしまったんだからな。 バルセロナに向かう飛行機で、ルイも全く同じ気持ちだってことが確認できたからね。 それからは、バルセロナに店を持つことが親子共通の願いになってしまったもんでな。 キングスロードの親の代から受け継いだ大きな家を売りに出すのも、前からの神様との約束だったみたいに、暗黙の了解でな。 何の抵抗もなかったんじゃよ。

八十年代以降、ヨーロッパでも新華僑が、各地に中華街を形成し始めた時期に、わしらも便乗して、大陸に渡ったからなあ。しかも海がすぐ近くにあるバルセロナにな。この近くの小さなスーパーマーケットも、中国人の経営じゃしな。」

起業家気質のルイの熱意が高じて、アルを通じて、リチャードさんの仕事に接近したようだった。僕は、何となくその話の流れを追いながら、骨董品時計たちが空間の中で時を刻んでいるのを、時間の中をさまようように、ボーっと見ていた。

「ルイからも、数か月前に相談を受けたよ。リチャードの悪行に気づいたらしいな。

わしは、リチャードとは、金輪際距離を置くようにアドバイスしたがな。でも、あの子はまだ若いから野心が強い。ぼんくらのスペイン人の旦那と違ってな。そうはいっても、悪行には関わらずに、今後もリチャードとは関りは持っていくつもりらしいな。ルイに聞くつもりもないがね。なぜなら彼女だって、すでに自立した人間だからな。わしの考えで操ることなど到底できないからね。」

夕方、帰り道で颯爽とマンションへと歩いていくアルの背中。ちらほらと、すれ違うカップルや夫婦の人並。男性はカジュアルなジャケットだが、女性はドレス風の着こなしだ。

向こうには、カタルーニャ音楽堂。 どこかアールヌーボーの絵画のようだ。きっと、今日演奏会とかがあるんだろうな。 僕は、そんな思いと一緒に、競歩のような歩みで、懸命に夕焼けに照らされながら、アルを追いかけた。

両手に鳥かごがなくなった寂しさを感じながら。

遊んでいる子どもたちの笑い声が響くマンションの通り。 螺旋階段を上がって、懸命に足を走らせて、先に部屋に入っていたアルの向かいの椅子に腰かけた。

おもむろに頬杖をついて、窓の外に視線を走らせているアルの余裕の表情を見守りながら。

「そうだ、司祭からユーマへの伝言を忘れるところだった。」

アルは小さな紙きれを机の上にポンと置いた。

「そこに書かれた住所と、絵図を頼りに行ってもらいたい場所がある。なるべく三日以内にね。」

命令口調でそう言い残して、後ろ手に右指と中指を立てて、頭をこつんと叩くと同時に、アルは身を翻して、ドアを出て行ってしまった。


ハァハァと、まだ息があがったままの僕を一人きりで取り残して。


12

 ランブラス通りを海の方に向かって歩いていく。

前にも見た、ストリートパフォーマンス画家や、有名人の似顔絵を並べて、通り過ぎる人を観察する若い画家。そして、楽しそうに歩いていくカップルや、家族ずれ。僕は、アルに言われた通り、地下鉄の駅のそばの通りを入っていった。

ブルーや、レモンイエローのかわいい建物が並ぶ。どれも丸みを帯びた湾曲を描いている。きっと画一的な日本とはおおもとの建築基準が違うんだろうなあ。

その中に、ベランダに干された洗濯物が無数に風にはためく、マンション風の建物があった。 三階に、幾何学模様の深緑と臙脂色の混じったペルシャ絨毯が干されたベランダを見つけた。

『あそこだ、間違いない。』

僕は、そのマンションの階段を上がる。子供とお母さんの笑い声。開いている窓から、家族のにおいがする。 僕は、三階までのぼった。そして、漆黒の重い扉を開ける。幾何学模様の絨毯の上を歩いていく。奥に祭壇が見える。そしてその上方には、キリストの像。

「ユーマ、ようこそここへ、待っていたよ。」

祭壇の前には、水色や黄色の洋菓子。その両脇には、白い百合の花。僕に背を向けて、司祭は祭壇のキリスト像に向けて、祈りを捧げている。

讃美歌を口ずさみながら、白いワンピースを揺らして、ゆっくりとつま先で十字を描きながら、踊り子のように舞っている女性。マリンさんにそっくりだ。ただ、髪型がベリーショートだから、印象が全く違う。だけど、たぶん間違いない・・・。アルの言った通り、マリンさんは生きていたんだ。

僕は、彼女をジッと見つめていた。そして、いつの間にか無意識のうちに、同じ旋律を口ずさんでいた。どこかで聞いたことのある歌。どのくらいそうしていたのかはわからない。ふいに、彼女が動きを止めた。そして、司祭の方に向かっていき、左隣に並んだ。次に、跪いて十字架にかかったキリスト像の下の祭壇の前で祈り始めた。

後ろ姿の肩のライン。そして、ピアニストみたいな細い指を組み合わせて目をとじている横顔。呪文のようなささやき声は、ハスキーだが滑らか。僕は彼女がマリンさんだと確信した。血糊に膨れたキリスト像に両手を合わせている彼女。

瞬時に司祭が僕の方に振り向いた。司祭はいびつな冷笑を浮かべていた。あっけにとられた僕に背を向けて、再びキリスト像の方に向き直った。そして、一礼したあと、立ち上がった。司祭は、僕の方に温和なまなざしを向けた。そして、司祭服をひきずりながら、僕の横を通り過ぎた。ドアが閉まる。司祭は別の部屋に姿を消したのだ。気を遣ってくれたんだ、きっと。

僕は、空いたマリンさんの右側に進んで、跪いた。しばらく祈っていた。すぐ頭の上のキリストの血糊にまみれた手。はかなくて、恍惚とした悲しい表情。僕は頭を上げると、しばらくキリストを見つめていた。そして、ふいに言葉が口をついて出た。

「マリンさん、僕もアルやミランダと同じ奈良の孤児院で幼少期を過ごしたんです。」

マリンさんは、驚いた目で、僕の方を見つめた。両手は組んだままで。

「じゃあ、孤児院で二人と出会ったの?ずいぶん古くからの知り合いなのね。」

マリンさんの言葉に、僕は首を振った。

「いえ、孤児院で一緒に過ごした期間はなかったです。二人が来る前に、僕の父親が、孤児院にやってきたんです。その時初めて会った見知らぬ男性でしたけどね。それから、僕は奈良に住むその祖父と祖母のもとに引き取られました。アルとミランダが孤児院に来たのは、すぐその後だったらしいけど。」

僕はそれ以上、身の上の話をしたくないのをわかってもらいたくて、また、キリストの方に向き直って、黙って見上げた。

「風俗業の女との間にできた子ども、つまり僕を認知しないで孤児院に放置していることを、父は会社の内部のライバルにかぎつけられたらしいです。社会的な制裁を受けて、体裁を保つため、そして自分の家庭を守るために僕を認知して、祖父母のもとに引き取らせたんですよ。それが祖父母から知らされた、僕の父親の実態なんです。でも僕は、父と会ったのは孤児院に引き取りに来た一回こっきり。ロクな話は出来なかった。それ以後は一度も連絡がなかったから、父親のこと何にも知らない。そんな生まれつき愛に飢えた人間なんです。」

僕の言葉に、マリンさんは透明な声で答えた。

「ユーマ、私とあなたは似たもの同士よ。前にも言ったけどね。私だって愛に飢えた孤独な人間だもの。」


13

 その後、僕はマリンさんの招きで、彼女の部屋に入った。その隣の部屋では、お香のように煙った格式のある芳香と、司祭の声が聞こえてきた。まるで、お坊さんが念仏を唱えるかのような。

窓ガラスの両脇のベルベットのカーテンが真っ先に目に入った。外から、子供の遊ぶ声。

「そこに座って。」

マリンさんに促された、シンプルな木目の茶色い椅子。斜め前の小棚の横にはコンロがあった。その奥にはオブジェのように赤青黄色のコップと皿が並んでいる。

そして、濃紺のソファーの上には、ムスタフが寝ていた。フワフワの毛を横たえてスースーと寝息をたてている。

「久しぶりだ、ムスタフ」

僕は、起こさないように、そっとムスタフをくるむように抱いて、ゆっくりと撫でた。

マリンさんは、古びたレモンイエローの斜めになった棚に、楽譜のように開いて置かれた絵文字や古い記号のような文字がリズミカルに並ぶ本の前。楽譜を見る歌い手のように立った。それから、彼女がその書物を両手に掲げ持った時に、僕は気づいたのだった。表紙の黒ずんだ金のキリストの彫像。僕の手元にあったときは金襴の縁取りがまん中で食い込んだところに鍵がかかっていた・・・・リンゼイさん、そしてアルの手から僕に渡された深緋色の書物。司祭にわたしたはずのあの魔術書。それが鍵があけられて今はマリンさんのもとにある。

「それは・・・」

僕は、無意識のうちに身を乗り出して、マリンさんに向かって、言葉を投げていた。

「司祭がくださったの。眺めていると落ち着くの。天使の絵や、星の絵挿絵がちりばめられている。たぶん占星術とか天使学の書物かしら。あと、ルーン文字かな・・・ところどころに混じってる。それに、聖人の装飾画も美しいわ。」

以心伝心ではないが、この書物の封印を、鍵をあけてマリンさんにあずけた司祭の真意が見える気がした。だれよりもこの書物を保有するのにふさわしい女性。

聖なる女性・・・。

マリンさんは、近くで見れば見るほど、前よりも痩せているのがわかった。顔のほりがさらに深くなり、瞳の哀愁の影が濃くなった。

だけど、僕は心のつっかえをとるために、彼女にとっては嫌な質問をしなければならない。ゆっくりとつぶやくように、表面のキリスト像を見下ろしながら、言葉を投げかけた。どうしても彼女の口から真実を聞きたい。それは悪意からではないんだ。本当のことを教えてくれるのは、彼女しかいないからなんだ。

「マリンさんとリチャードさんの口げんかの罵声が聞こえてきて、そのあと銃声が鳴り響いたあの日の真実について、僕にわかるように説明してもらえますか。」

僕は、単刀直入にマリンさんに告げた。

マリンさんはしばらくの間、魔術書の黒ずんだ金のキリストを指先でなぞっていた。まるで、僕に真実を語っていいかどうかの判断を、その書物にゆだねているかのように。やがて、ゆっくりと話しはじめた。

「そうね、まず空港で、彼はミランダの企てを私に明かした。そして私の命を守るためと銘打って、ミランダの前では演技をするように指示されたわ。あまりの彼の眼力の強さに私は黙って肯くしかなかった。ただ、その時に多分、私がしばらく姿を消すための何らかの手続きを、空港でしているようにも見えたけど、そこについては私にはまったく明かしてくれなかった。そして、空港近くのホテルのレストランで食事中も、それからその夜タクシーの中でも巧妙な段取りを私に植え付けたうえで、ミランダの思惑通り、屋敷に戻った。

私が、ミランダと口論したあと、彼女が胸元から拳銃を取り出した。その時、主人が書斎からダイニングに姿を現したわ。そして、ミランダから、拳銃を奪い取った。

『夫である私が、彼女を始末をする。』と告げてね。

そのあと、ミランダは納得したように、玄関を出ていったわ。そして、ミランダに私を殺したと見せかけるため、主人は、拳銃を発射した。天井に向かってね。

その後、私は『殺された』身である以上、屋敷内に姿を見せるわけにはいかなかったわ。だから、主人の書斎から古い梯子の階段で通じている地下室にしばらくかくまわれていたの。」

まるで、舞台女優の独白のようだった。そして、優美な視線を魔術書の後ろ側に置かれたマリア像に向けた。

「そっか、それで納得がいきました。あの時は僕も、マリンさんは撃たれて死んでしまったと錯覚していたから。」

僕は、真実がわかったことで、ホッと胸をなでおろした。そして、話題を変えるようにつぶやいた。

「そのマリア像は、大聖堂の祭壇の柵の向こうに置かれているのとそっくりですね。」

マリンさんは、不思議そうに僕を振り返った。

「これも、司祭からいただいたものだから・・。レプリカだと思うわ、きっと。」

マリア像のすぐ隣には、紫水晶玉。その影が神聖な空間に趣を与えている。

僕は、マリア像の胸元に緑色と黒のまだらな輝きを放つ石を見つめていた。 マリンさんは、その僕の視線に気づいたのか、言葉を継いだ。

「胸元のマラカイトは、ルイからもらったものよ。私が後からくっつけたの。私をここまで守ってくれた石よ。マリア様によく似合っているでしょ。

そういえば、リチャードはルイから高額で大型のパワーストーンの原石をいつも買い入れていたの。そして、こういう小型の本当の守り石のことを、安物とバカにしていた。だけど、主人が日本の成金のご婦人や令嬢に売りさばいていた宝石や、美術品は、私の目には、けばけばしいまがい物としか映らなかったわ。」


急にルイの話が出て、僕は戸惑った。


だけどすぐに、心の中のヒストリーを、静止画を描くように話しはじめていた。


「実は、僕は孤児院でルイと一緒に過ごした時期はあったんです。殻にこもっていつも一人でいた僕にも、ルイは明るくて優しかった。」


マリンさんは、穏やかに微笑んだ。


「そうだったの。確かにルイは誰からも好かれる素敵な女性よね。」


「はい、当時は、僕もルイのことが好きだった。初恋の人だったんです。」


僕は、マリア像に魅入られたまま、告白した。とてもナチュラルな感情で。そしてお姉さんに秘密を打ち明けたような気持ちになった。


マリンさんは、ゆっくりと窓際のキッチンスペースに向かった。そして、籠から西洋ナシを取り出し、ナイフで皮をむきはじめた。それから、飾りのように並べられたお皿のひとつを机に置いて、一切れずつのせていった。

「どうぞ、召し上がれ。」

僕は、マリンさんと一緒に、美味しい洋ナシを味わった。

「ちょうどいい熟れ具合でしょ。」

笑顔をほころばせて、うなずいた。

「マリンさんは、まるでマリア様みたいです。僕は施しを受ける孤児かな・・・。」

マリンさんは、女神像と深緋色の魔術書の中央のキリストの彫込彫刻に、視線を斜めに走らせた。そしてため息をついた。

「ユーマ、私はある有名な政治家と娼婦の間にできた子供なの。だから、確かに高等な教育は受けられたわ。劣等感と負けん気の強さで必死で勉強したしね。だけど、私だって罪を背負った人間よ。マリア様なんてとんでもないわ。」

マリンさんの瞳はラピスラズリのように輝いていた。そして透明な笑顔だった。

「でもね、生まれ持った罪を清めることはできると思うの。自分の生き方次第で。」

マリンさんの言葉に、僕は釘付けになったように強張った。

『僕にもできるだろうか・・』

「私ね、罪をつぐなうために、クリスマス前に、あなたたちが一時期身を寄せた孤児院に行ってくるの。」

どうして孤児院にいくことが償いになるのかは、僕にはわからなかった。

マリア像と、深緋色の魔術書と、紫水晶。そしてマリンさんの存在。それは、罪人の僕にとっては、懺悔ができる神聖な空間だった。すべて話そう。膝を抱えてたたずむ小さな僕はずっと閉ざしていた心を開く決意をしたようだった。そして、心の奥に封じ込めていた暗黒の記憶も。

「僕の奈良での子供時代は陰鬱でした。祖父母のもとに引き取られて、はれ物にさわるように育てられた。仏教系の学校に通いだしてからは、いじめられることはなかったけど、友達もあまりできなかった。週に何回か、仏教の授業があって、般若心経を唱和するような学校でした。真面目な子供が多かった。そして、そういう学校だったから、耐えられない屈辱を感じる必要なかった。ただ、淡々と毎日が過ぎていきました。だけど、僕の心にはいつも、誰よりも自分が劣った人間だっていう劣等感が蜘蛛の巣のようにはびこっていた。すごく息苦しかった。そして、ここから逃げたいとばかり考えていました。だから、なんでも僕の望みをきいてくれる従順な祖父母に甘えて、専門学校に進学するのを口実に東京に出してもらいました。だけど、あまり学校にも顔を出さずに、バイトやゲーム機器を集めるのに夢中だった。そして、ある日僕は、一生ぬぐうことのできない罪を犯したんです・・・・・」


14

 僕の過去の『殺人』告白に対して、マリンさんは小刻みに肯きながら、時々、思慮するようにマリア像と目を合わせつつも、再び僕の方をまっすぐ見つめるという動作を繰り返しながら、真摯に聞いてくれた。

一通り話し終えると、僕は放心してボーっとなった。そして、しばらく天井を仰ぎ見ていた。四角形の木枠と星型の木造彫刻が規則的に並んで天井を装飾している。

マリンさんは、何も言わずに朗らかに、慈悲深い笑みを浮かべていた。だが、言葉はなくても僕の罪の告白を、寛容に受け入れてくれているのがはっきりとわかった。

窓の外から子どもとお母さんの大きな話し声と笑い声が聞こえてきた。一緒に昼下がりから少しずつ夕暮れに映る微妙な角度の太陽光線が、目にしみた。

「私、そろそろ、市場に買出しに行かないといけないの。お世話になっている代わりに、お食事の準備や清掃を、司祭からおおせつかっているから。よかったら、この後ユーマも司祭と少しお話してはいかが?」

マリンさんはそう言うと、僕の返事を待たずに竹籠のようなユニークなポシェットにお財布を入れて、僕にぺこりと頭を下げると、ドアを出ていった。

僕はその背中の後ろからドアを出た。玄関がバタンと閉まる。そして、僕は念仏のようなつぶやきが聞こえてこなくなった、司祭の部屋のバーシアン・レッドのドアをノックしてあけた。

「マリンさんと、話ができて、よかった。いろんなことが明確になったし。あの豪邸にいた時にはできなかった話がたくさんできた。」

司祭は僕が入ってくるのを予測していたかのように、キリスト像を見上げながらも、祭壇の前から立ち上がりつつ、微笑んだ。

「世に生み出される『マリア様の生まれ変わり』の女性。いつ、どこの国に、何人生み出されるかは、私にもわからない。ただ、出会ったときに、この人が『マリアの権化』だってことはわかるからな。そして、マリンさんは、まさにその人だってことだよ、ユーマ。」

司祭がマリンさんを、敬うように扱っている理由がわかった気がした。

「あの人には、われらの大聖堂よりも、サグラダファミリアの方がよく似合うな。あの彫刻のような美しさにはな。」

僕は、よくわからないというように、頭をかいて、うつむいた。

「僕サグラダファミリアに入ったことないから、よくわからないや。」

僕のぼやきに、司祭はすぐさま反応した。

「それはいかんな。あの場所で身を清めたことがないなんて。」

ぶつぶつと再び歌うように呪文をつぶやきながら、司祭は顎髭をなでていた。


第四章 告白

 窓際の鳥かごで、チーが急に鳴きだした。ガラスの向こうに、意中の人を見つけたかのように。そして、その後すぐドアが開いた。

「ユーマ、元気?」

ペネロペの声だ。彼女は長い首を後ろに少し傾けた。そして、ドアを誰かのために開くように、長い手を後ろ側に滑らせた。

「ユーマ、お久しぶり。」

そう言って、その手の下をくぐるように入ってきたのは、ルイだった。 ペネロペは、腕組みをして、足を交差させたまま、ルイの後ろ側で、豊満な胸元に腕組みして斜めに立っていた。

「前にうちの店の二階であった時には、あなただってことに気が付かなかったのよ。だって、少年だった頃の面影しか私の中にはなかったから。だからアルにあの時期のことを詳しく聞いて、びっくりしたわ。」

そういって、すまなそうにルイは僕に頭を下げた。一緒にニット帽の先のボンボンも、一緒に揺らしながら。

「立ち話もなんだから、座りましょう、ルイ。」

そう言って、ペネロペはしなやかな足どりで、円を描くようにルイの横をすり抜けた。そして、普段はチーのいる鳥かごの下に置いてある木の丸太状の椅子を二つ、一人がけの深緑のソファーに座っていた僕の斜め前に置いた。木彫りの天使像の飾りのすぐ手前に。

ルイをエスコートして座らせたあと、自分も窓に近いほうの椅子に腰かけた。長い足を組んで太ももの上に肘をついて小さい顎を、赤いマニュキュアの指先にのせながら。

「お土産よ。」

ルイは、手元の袋から取り出した幾何学模様の萌黄色のテーブルクロスを、絵巻物を飾るように広げた。

その動きとシンクロして、ペネロペは高級ワインをその中央に置いた。

「さすが、ルイ。芸術的なデザインね。」

ペネロペが、ピンク色の唇に、赤い指先をこすりながら微笑んだ。

「午前中に主人と一緒に、グラシア通りの裏通りを散策して、みつけたのよ。お気に入りのアンティークショップがまた増えてうれしいわ。」

ルイの言葉にペネロぺは、両手を指揮者のように降り下ろして、立ち上がった。

「ワインオープナーとグラスは、そっちだよね。」

流れるような青い視線を走らせながら棚の方に向かった。

「主人と別れた後、ペネロペと落ち合って、ついさっきまでマリンに会っていたの・・・。」

ルイは目を輝かせて、孤児院時代と変わらないあどけない笑顔を浮かべた。

「マリンと三日後に、奈良に行くのよ。どうしても行かなければならないんだって。私は、プライベートの付き添い旅よ。一緒に石舞台古墳とか東大寺にも行くつもり。それから、孤児院にもね。でもクリスマスには戻るわ。バルセロナで主人と父と一緒に過ごしたいから。」

その時、ペネロペが、グラスを並べると、赤銅色のワインを注いだ。まるでソムリエのような風格で。

奈良旅行のことはすでに知っていた。でも、わざと驚いた表情を作って見せた。ペネロペが、僕とルイの前に、グラスを置く。そして、乾杯というようなジェスチャーをしたので、僕らもグラスをカチッと合わせた。そして、芳香を楽しむようにゆっくりと口に含むルイの横顔を見ながら、僕も一口ワインをのどに流し込んだ。重厚な葡萄の香りと品のいいのど越し。

「久しぶりにマリンと、ムスタフにあえてよかったわ。」

そう言ってペネロペは、ワインを上品に飲み干した。 そのすぐ後だった、急にペネロペの足元のバッグからスマホの着信音がした。

「失礼。」

僕は、酒のつまみと思って、冷蔵庫のドアを開けて、チョコレートや、フルーツを机に並べようとしていた。

「ごめんなさい、急にアルからの呼び出しだわ。この後は、二人でゆっくり過ごすといいわ。なんせ、ルイはユーマの初恋の女性なんだから。」

ウィンクしながら彼女は立ち上がった。瞬時に僕は真っ赤になったが、ワインのせいにしたかった。それでグラスに残っていたワインを一気飲みした。

「ユーマ、ルイで、いつも歩いているのとは逆方向の、グラシア通りや、カサ・バトリョ、カサ・ミラの方を散歩してもいいって、アルからメールが来てるわ。今日だけは特別なデートってことでお許しが出るそうよ。秋の黄昏のバルセロナを楽しんで。」

そう言い残すと、ペネロペは足先すべらせて左右の足を交差させながら、窓際に駆け寄った。そしてチーにあいさつするように、細い首を、コクッコクッと回した。そして、数秒後にはドアを出て行ってしまった。

目の前には、ルイだけ。二人きりだ。

「主人も今友人と一緒にバルセロナ観光中よ。主人との待ち合わせ時間は、二時間後ぐらいかな。」

ルイは、屈託なく微笑んだ。さっきのペネロペの『ユーマの初恋の人』発言は、聞いていなかったかのように。

「夫婦仲が良くってうらやましいよ。僕はいまだに一人。孤児院時代と同じ孤独な魂のままで漂うように生きている。」

僕はアルコールが回り、自分でも無意識のうちに、本音をつぶやいていた。ルイは、また屈託のない笑顔を浮かべた。

「私も、思春期は孤独で死んでしまいたいと思うことが何回もあったわよ。実際、リンゼイ夫婦にひきとられて、最初は英語も全く分からなかったから。ユーマと同じ境遇だったわ。いつも劣等感の塊で、孤独な少女だったわ。」

ルイは、その後一気に葡萄酒を飲み干した。そして、飛び石をぴょんぴょんと飛ぶように、彼女自身の今までの人生の片鱗が滲むようなストーリーを語り続けた。

「ちょうど思春期のハイスクール時代だったかな、精神的にすごくしんどい時期があってね。

心配した両親の勧めで心理カウンセリングを受けていたの。ユング派で穏やかな四十代の女性だった。黒縁の厚い眼鏡が知的で、白髪の混じった金髪を束ねた博識なカウンセラーだったわ。私の話を聞きながら肯きながら、話を聞いてくれる、包容力に溢れていた。そして、話の区切りで、ゆっくりと言葉をはさむんだけど、それがいつも、ストライクで直球のアドバイスだった。その女性の勧めで、私パワーストーンの道を選んだの。もし、彼女との出会いがなかったら、思春期の精神的クライシスが原因で自殺してたかもしれない。そして、天国の育ての母が望んでくれていた今の生き方もできなかったと思うわ。」

僕は、ためらいがちに微笑みながらも、肯いた。

「僕も、高校時代は精神的なクライシスの連続だった。いつでも、死にたかったよ。僕は生まれつき罪を背負った人間だって思って生きていたよ。まるで疎外感と劣等感の塊のような思春期だった。」

僕のその言葉に、ルイは大きく首をふって、酔いで染まり始めていた頬をさらにピンク色にしながら僕の肩をつかんで言った。

「そうね、きっとお互いそうよね。だけどね、ユーマ、死んで償える罪なんかないわ。絶対にね。仮に、死んだとしても、罪はついてくるもの。まるで輪廻の輪のように。生きて償うしかないのよ。それが、生を受けて今ここで生きていることの本当の理由かもしれない。現世で罪をつぐなう生き方ができたら、来世では本当の幸せを手に入れることができるかもしれないって。」

僕は、急に感極まって、肩に置かれた彼女の手が暖かくて、涙が出そうになった。

「それからね、孤児院時代の話に戻っちゃうけど、ユーマの気持ちには何となく気づいていた。私も友達としてはあなたのこと好きだったわよ。恋愛感情ではなかったけどね。

それからね、ユーマ。失恋っ子は、私もなのよ。だって、あの後、孤児院にやってきたアルに私は本気で恋してしまったから。一目ぼれでね。だけど、ものの見事にハートブレイク。『君はここの孤児院での大切な友達だよ』って、クールに言い放たれて、突き放されたわ。あの冷たい輝くような視線でね。」

そう言うと、ウサギのようにぴょんと飛んで、僕から身体を離した。

「いけない、もうそろそろ、待ち合わせの時間だわ。」

そして、急いで、足もとのエスニック風のピンクのバッグから小さな何かを取り出した。

「これ、オクナイトっていうの。」

小さな石の内部には雪綿のように白い割れ目。

その周りは漆黒のでこぼこの石だった。

「これはヒーリング効果がある石なの。過去の心の傷から立ち直って成長するパワーを与えてくれるはず。再会のプレゼントよ。」

その言葉と一緒に、僕の右手を包み込むように石を握らせた。そして、次の瞬間にはルイは、バックをしょって、僕を振り返りながら、「レッツゴー」

というように右手を鳴らすと、ドアの方にむかって飛んでいった。僕も、急いでその背中に続いて、扉を一目散で出た。

冬が近づく午後の日差しは冷たいが穏やかだ。ルイと一緒に小走りで、グラシア通りをつっきる。湾曲したカサ・ミラの手前。ルイのご主人が、ガウディの遊び心のあふれた装飾を堪能するかのようにしつつ、口笛を吹きながら、うねうねした漆喰の白い壁を見上げている。そして、その隣にいたのは、いつもとは違うカジュアルな服装の・・司祭だった。

黄色い帽子に、緑色のマフラー。そして、赤いセーターに黒いズボン。あの短足は間違いない・・。

「!」

ルイは、僕の手を握って微笑むと、すぐに彼の方に向かって走っていった。三つ編みと一緒にボンボンのついた赤い毛糸の帽子を揺らしながら。その後ろ姿は、孤児院で僕が好きになった時の少女時代のルイと同じで、とてもはかなげでかわいらしかった。

「よっ、ユーマ」

司祭は、大きな写真集ぐらいの大きさのショッピングバックを抱えている。地下に彫り込まれるようにのびた、漆喰の白い階段の下のフロアで何かを購入したのだろう。

僕に向かって、歯を出してニッと笑った。

「君のご主人の友人って・・。」

ルイは、司祭に向けてキュートな笑顔を向けながら答えた。

「司祭様よ。私、英国宝石学協会の宝石鑑定士の資格を持っているのよ。だから、司祭様は私を認めてくれていて、高級な水晶玉を買ってくれたり。それ以外にもいろんな石をね。大事なお得意様なのよ。それから、営業担当の主人とは、大の仲良しなのよ。」

カサ・パドリョの象牙色が波打つような壁の前。

その後別れ際にルイは、ポーカーフェイスで変化球を僕の胸に投げ込んだ。

「そういえば、孤児院で一緒に描いてた漫画!絵はユーマ担当だったけど。原画の画用紙今でも、大事にしてるの。今度は、それを持ってまた会いに来るわね。よかったらマリンにも見せにいきましょうよ。クリスマス前のイベントね、楽しみ。マリンもきっと喜んでくれるわ。」

僕はドキッとした。おぼえててくれたんだ。純粋に嬉しい。僕を夢心地だった。バルコニーの唐草模様の装飾と壁の色彩を背景に、胸の高鳴りが止まらなくなった。

「二つ目の指令が下りる日が近づいている。それまではバルセロナを存分に堪能するといい。」

司祭は下から、低い声でそう言い放った。そして、夢から冷めた僕にフォッフォッと笑いかけながら、背を向けると、二人の背中を追いかけて去って行った。


 その日はなぜか、朝からそわそわしていた。マーケットの片隅の古本売りのおじいさんから買った、小学生向けの挿絵の混じったスペイン語のテキストを片手に、CDで何度も同じ会話文を聞きながら、窓際からボーっと外を眺めていた。

色とりどりのダッフルコートやジャンパーを羽織ったままで、子供たちが道の脇で輪になってサッカーボールで遊んでいるいつもの光景。それはずっと見ていても見飽きない、僕の大好きな風景の一つになっていた。

だから、その子供の前を、大きなグリーンと赤のクリスマス風の鞄を抱えて、赤いコート姿でルイが、子供たちに手を振ってあいさつしながら横切ってマンションに近づいてくるのも見逃さなかったのだ。

僕は、急いでCDを止めた。そして、階段を駆け上がってくるカンカンという音に耳を澄ませた。

来るぞ、来るぞ。

僕の心臓の高鳴りと強調するようにドアのチャイムが鳴った。僕は深呼吸しながらドアを開けた。 ルイが微笑んでちょこんと立っている。

「近くまで、主人に車で乗せてきてもらったの。一時間ぐらいお邪魔していいかしら?」

僕は肯くと同時に、ドアを大きくスイングさせた。すると、僕のだぶっとした大きなセーターの脇を抜けてルイが部屋に入った。 そして、数秒もたたないうちに、木の机の上に、古い画用紙をまるでトランプを並べるように、縦横に並べ始めた。

「なんか、恥ずかしいや。これ間違いなく、僕が孤児院時代に描いた絵だね。」


僕は、まごついて、十二月の寒さを追い越すような冷や汗で、全身が熱くなっていた。本当に幼稚な絵。

「ストーリー覚えてる?孤児院のみんなで一緒に東大寺に行った時のリアルストーリーが前半。私とユーマが一緒に魅了されて立ち尽くしてみとれちゃった日光月光菩薩像の絵。それから帰りに矢野さんに連れて行ってもらったあんみつ屋さん。子供いっぱいで席を占領して、みんなであんみつを食べてる絵。それから、後半が空想物語。夜、日光月光菩薩像様が、私とユーマの枕元に立って、それぞれを背中に乗せて、天国への短い旅にいざなってくれるの。そこで私もユーマも死んだお母さんに会って、抱き合って涙するっていう話。ラストが、朝目覚めて私とユーマが『同じ夢を見てたんだ』って、話し合ってるところ。」

僕は、感心してホーッと軽くうなった。立ったまま、大きく目を見開いて子供みたいに足を軽く躍らせているルイに、座るように促した。彼女がコホンと一息入れて、優雅に座るのを確認しながら、僕も隣に座った。そして、頬杖をついて、クレヨン画をまじまじと見まわした。

「ストーリー担当は君だったからね。でも絵を見ると、その通りに僕は仕上げたみたいだね。だけど、どうしてだろう、孤児院のみんなで東大寺に行ったことはおぼえてるんだ。だけど、あんみつ屋さんに行った記憶が残ってない・・。」

僕がそういって、古い記憶を集めるように頭を抱えた。

「そうね、たしかユーマは甘いものが嫌いだったからじゃない?あの時も、あなただけは一口二口だけ口をつけたあと、添えられてた抹茶をゆっくりすすってた。それから空想の世界にひたっているように、一人だけあまり話さずにボーっとしてたわ。まあ、いつもあなたはあんまりしゃべらないほうだったけどね。」

僕は合点がいって、手をたたいた。

「そうだね、確かに僕は子供のころから甘いものが嫌いだった。そっか、だからだな。だけど、日光月光菩薩像の清涼感の漂う清逸な美しさに魅了されたことは深く記憶に刻まれているよ。」

僕らは、しばらくカフェラテを片手に、孤児院時代の思い出話に花を咲かせた。二人の間の垣根は完全になくなっていた。

「ねえ、これを持ってマリンのところに行きましょうよ。適当なクリスマスプレゼントじゃない?」

僕の返事を待たずにルイは、スマホを取り出して、旦那さんに電話していた。そして流ちょうなスペイン語で二言三言話し終わると、スマホをまた足元のバッグにつっこんだ。

「オーケーよ。早速行きましょう、マリンのところへ。」

僕の返事を待たずに、即決すると動き出してしまうところも、ルイは昔とまったく変わっていない。


 ビュービューと冷ややかな風が吹き過ぎる。葉を落としたプラタナスの並木道のストリートを、赤い帽子のボンボンを左右に揺らしながら、白いブーツでひょこひょこと、人込みをすり抜けていくルイ。 いつもは一人歩きの通りを、今日は特別・・・に彼女と連れだってクリスマス前の色めき立つ人々の間をぬって僕も歩いていく。

「どんどん海に向かってあるいていけばいいのよ。ブランド通りを抜けて、石畳のお花や球根を売る露店のアーケードの前で、右に曲がるの。」

ルイは楽しそうだ。『僕らの作品』が入った大きなピンク色のバッグが肩からずり落ちそうになると、持ち上げる動作を繰り返しながら、僕の歩調を気遣って、時々笑顔を投げかけてくれる。

ルイをがっかりさせたくなくて、僕はこの間アルからの指令ですでにマリンさんの隠れ家に行ったことがあるのを黙っていた。ルイは人を導くのが好きだから、そうしていると思わせてあげたかった。

「あのマンションよ。お洒落よね。」

駆け足で白い漆喰の螺旋階段をのぼっていくルイを、僕は追いかけた。 ベランダに観葉植物と、萌黄色と深緋色のペルシャ絨毯が干されているあの部屋に向かって。

ドアベルを押すと、迎えてくれたのは司祭だった。

「お久しぶりです。司祭様。寒くなりましたねえ。」

ルイは挨拶と同時に、ボンボンをひっぱって帽子を脱いで頭を下げた。その拍子に後ろにいた僕と司祭の目がばっちりあった。紺色の網目の深いセーターと、茶色いコーディロイのズボン姿。とてもフランクな服装だ。もちろん顎髭に威厳は漂って入るけれど。

「セーターとてもにあってますね。」

僕が、挨拶で言おうとした言葉を、ルイにとられてしまった。すると、司祭は

「これはマリンが編んでくれたお気に入りじゃよ。まるで娘のように尽くしてくれるんじゃよ。」

ルイは、その言葉に首をふりふり同調していた。

「今日は、マリンに見せたいものがあって来たんです。彼女はいますか?」

僕は一言も発することなく、その場の流れで、キリストの祭壇の部屋を右手に見て、木の網目タイルの廊下を渡っていく。赤い扉を司祭がノックする。

「マリン、お客さんだよ。」

マリンさんは、窓のそばに腰かけて読書をしていた。薄い青色のガラスを通して差し込む午後の光が、その横顔をブルーライトのように照らす。

「前話した、私とユーマが一緒に画用紙に描いた漫画、持ってきたのよ。」

そう言いながら、ルイはそそくさと右手に抱えた大きな鞄から、束ねた画用紙を取り出した。

「まあ、素敵ね。よければ是非拝見したいわ。」

マリンさんは、本を閉じて、椅子に置くと立ち上がった。そして、部屋の中央にあった木のテーブルの足を折って、壁にたてかけた。するとそこにはベランダの外に干されているのと同じ柄の幾何学模様のペルシャ絨毯。

「このあたりに、並べられる?」

マリンさんの言葉を待たずに、ルイが、これから七並べのトランプ遊びをするかのように、楽しそうに、ストーリー順に画用紙を床に並べる。

その間、いそいそと赤と緑と白の色違いのフカフカのクッションっぽい座布団を、回りの三か所に置いた。そして、いそいそとマリア像や水晶玉の奥に作り付けになっているキッチンスペースに向かうと、ポットにお茶をかけた。そのしなやかな後ろ姿が、上の棚を開けてアロマっぽい紅茶を取り出したからだろう。部屋全体に甘い香りが漂う。

それにしても、僕はしっかりした女性陣のおかげで、ムスタフ同様、部屋の柱の前に体を横たえていた。まるで男性コンビのように。

絵の準備と、紅茶の準備は万端。僕はリセさんに指先で促された白いクッションの上に座った。そして、ルイが赤のクッションに座る。リセさんは、それぞれの右隣にチューリップの形の皿に紅茶の入った虹色のカップを置いて色どりを添える。

リセさんがようやく緑のクッションの上に軽やかに腰かけて長い足を後ろに伸ばす。

それを合図に、ルイが僕にさっき話してくれた『漫画』のストーリーを、ぴょんぴょん飛ぶような楽しそうな口どりで話始める。それを楽しそうに、紅茶の香りを鼻先でくゆらせながら聞くマリンさん。僕はその姿に正直、毅然とした美しさというよりも、角のとれた優美な美しさを感じて、どんどん気持ちがなごんでいった。

「そうすると、これがユーマの描いた日光月光菩薩像ね。クレヨン画なのに、慈悲深い目元とか、衣のひだの波立つ感じとかよく描けてるわね。素晴らしいわ。」

僕は、照れくさくて頭をかいた。さっきまで僕のそばにいたムスタフはちゃっかりマリンさんの隣に移動して、のどを鳴らしている。

「実物を見た時、マリンさんのいう通り宗教的な目線と、衣の襞の規則的な歪曲感にすごい美しさを感じたんだったと思います。だから、そこをすごく丁寧に描いたおぼえがあるんです。僕は孤独な子供だったので、ひとりでずっと作業室にこもって何時間もかけて描いたんじゃないかな。」

僕は、素直に明るくていつも仲間と、体操室で体を動かしたり、外の遊技場で遊んでいたルイとは違っていたことを口に出せたことで、なぜが気が楽になった。

「これは、私とユーマからのクリスマス前プレゼントです。マリンなら喜んでくれると思って。」

ルイの言葉は、僕の心から出たつぶやきと同じだった。

マリンさんは、穏やかにマリア様像と見分けがつかないぐらいの優しい笑顔を浮かべた。

「ありがとう。二人の思いでのつまった絵画作品を頂いて。」

そして、ふとたちあがると、木製の台に斜めに立てかけていつも読めるように置いてある深緋色の魔術書の方に向かって、すり足で歩いて行った。緑色のロングドレスが床をなでる。

深緋色の魔術書両手に抱えて持ち運び、絨毯の上に並んだ画用紙の頂点に当たる位置に、僕とルイを両脇にはさんで置いた。そして、書物の色褪せたページをしばらくめくる動作を繰り返していた。そして、ふと明るく瞳を見開いて、あるページを開いて、ページが動かないように書の上の方に右手の指先を添えていた。

「見て、ここにも日光月光菩薩像。」

そのページには、アラビアっぽい絵文字、そしてクジャクに乗った神様の子供が描いたようなクレヨン画。すみにはユニコーンに乗った神様の絵も。そして、その中央には僕の描いた菩薩像と多分モデルは同じだろうと思えるような二体の・・・、日光月光菩薩像っぽい絵もあった。

僕ら三人はそのまま十分以上も無言で、書と画用紙をしばらく見比べていた。

キュンキュン

ムスタフの鳴き声を合図に、ルイが呟いた。

「ユーマも私も、そして多分マリンも宗教的な芸術作品に畏敬の念を強く感じる子供だったのね。そして、それは今でも。私たち三人の共通点。そして強い絆になるものかもしれないわね。」

「さすが、パワーストーンの専門家らしい解釈ね。私も同じ気持ちでいるわ。」

僕は、何も言わなかったけど、以心伝心で二人に伝わったと思う。僕の存在にとってもそれは無意識の世界に刻まれた強い思いだ。おばあちゃんとも共有できた心の宝物。

部屋全体に広がるような暖かい結束感。外の寒さと反比例するような作用。

「そういえば、ケーキがあるんだったわ。」

マリンさんはそう言って立ち上がると、再びマリア像の前を横切って奥にはいっていった。

冷蔵庫がバタバタ音を立てる。そして、漆塗りのお盆の上を両手に抱え持って再びマリンさんが僕らの方へ。それぞれの紅茶のそばに洋ナシのタルトのケーキを置いてくれた。

「どうぞ召し上がれ。クリスマス前だから、軽めのタルトにしておいたのよ。」

マリンさんは、にっこり微笑んだ。ストレートロングの金髪ではなくて、顔回り張り付くベリーショートに変わって、笑顔がより輝いて見えた。端正で知的な顔立ちが隠れずに。


「少しだけ、ユーマを借りるよ。」

若草色の柱の横に、金襴の施された司祭服を脱いだ白い衣姿の司祭の姿。足もとのムスタフを、片手で睦むようになでている。

僕はその言葉に、呪文にかかったように立ち上がって司祭の方に向かった。僕は心のどこかでわかっていた気がする。そろそろ最後の指令がおりる日が近づいていることを。

キリスト像の祭壇の前。司祭はおもむろに告げた。

「二週間後のクリスマスの前日。お昼過ぎの一時ぐらい。海岸の女王様の彫刻の高い塔の前で、リンゼイが待っている。彼からあるものを、受け取ってほしい。君だけの宝になるものだ。そして、一緒に大聖堂においで。彼は時間にきちんとしたイギリス紳士だからね。くれぐれも遅れないようにな。」

僕は、黙って肯いた。そして、そのまま陰鬱な気持ちを抑えるように、司祭の部屋をあとにした。

「マリンさんとルイのもとに戻ってもいいですか?」

僕に向かって、司祭はムスタフのようにあご髭をぴくつかせると、満面の笑みで手を振った。そして、すぐに向き直ってキリスト像に向けて念仏のような呪文を唱え始めた。

僕は、マリンさんの部屋に戻ると、何の隠し事もなく、最後の指令が下ったことを二人に打ち明けたのだった。

「よければ、私と一緒に同じ日の午前中サグラダファミリアに行かない?早速ネットで事前予約しておくから。そのあと午後からコロンブスの塔でリンゼイさんと待ち合わせて聖堂へ向かうっていうのは、いかが?バルセロナを満喫できるクリスマス前の素敵な一日が過ごせるわよ。」

僕の返事を待たずに、マリンさんは、奥の部屋に向かうと、パソコンの素早いタイピング恩を響かせた。そして、すぐに僕の目の前に歩いてきて、サグラダファミリアの予約日時が記載された紙を僕に手渡した。

「サグラダファミリアの中で、待ち合わせましょう。その方が、クリスマスっぽくってドラマチックでしょ。」

司祭には私からきちんと話をつけておくわを言い添えて、マリンさんはいたずらっ子のように可愛い笑顔を浮かべた。


 寒さがいよいよ深まった、グラシア通りを白い息をはきながら歩く。

まだ朝早い。多分九時前後。だから視界には、通りを歩くラブラブモードの恋人たちではなくて、散歩がてらの老夫婦とか、子供とお母さんとか。クリスマスマーケットもまだ開いておらず、これから人々が詰めかけるのを待ち構えてるように並んでいる。 

寒さに震えながらも、ふとわき道に入って歩いてみた。目に入った小さな画廊の前には、大きな男性のサンタクロース風のポスター、しかもなま絵の具の即席っぽい一点物の人物画だ。僕は、子供のように胸が高鳴るのを感じていた。

それにしても、コートの重さに反して、僕の心は軽かった。僕が幼少期に描いた幼い絵を、喜んでくれたマリンさん。今頃ルイ同伴の奈良旅行で、大切な何かを、バルセロナへのクリスマスプレゼントに持ち帰っている途中かもしれない。

それから、もう一つはこの地で芽生え始めた新しい僕の感覚。

地球上で、僕は一人だけの存在。そして、それだからこそ、今この時が唯一無二の僕自身の人生だ。人は、みんなそれぞれの人生を生きている。人と比べることなく、自分の人生絵画をキャンパスに描いている。だから、他人に劣等感を持つ必要なんてないんだ。

そのおかげで、日本にいた時のように、孤児院育ちの自分と周りの子供を比べていた心の重さを感じないですむ。

いつしか、目の前には粘土細工で作られたような白壁の建物。カサ・ミラだ。見上げると装飾の柱と、ウェーブするような窓枠とガラス窓。カサ・バトリョに似た湾曲感がスタイリッシュだ。

近くでアジア系の観光客が集まって、記念写真をとっている。ぼくはそこをぐるりと回りこむように、カサ・ミラの前を通り過ぎた。

少し先いくと、建物の天井にコミカルなフクロウの巨大な看板。立ち並ぶ街路樹よりも少し高い位置から街を見下ろしているみたい。夏の太陽の方に目線を上げる。

ついに、見えてきた。バルセロナの中心部では、一番高い建物なんじゃないかな。サグラダファミリア。そう、聖家族教会だ。

僕は、嬉しくて、思わず信号待ちをしていた隣のおばあちゃんに笑いかけていた。おばあちゃんは、僕と同じようにサグラダファミリアを見上げて、笑うと、僕に手をふって、青信号を渡っていった。

「ブエノス・タルデス」と言葉を残して。慌てて、僕も信号を渡った。

おばあちゃんは、道の脇のパン屋さんに入っていった。僕はその背中を見送りつつ、サグラダファミリアに向けて歩を進める。

しばらく行くと、向こうに天空を指すトウモロコシのような尖塔が見えてきた。サグラダファミリアだ。僕は、目の前が一気に明るくなった。ようやく牢獄から出られたような爽快感だった。

面前に広がるのは、宇宙空間にもつながっているかのような、限りなく自然の造形物に近い聖域。その反面、まるで千手観音のようにすべての人を救う術を兼ね備えた人工的な救済の造形にも思えた。

聖域を取り囲む空間に、テントの露店が並んでいる。ミニチュアのクリスマスツリーや、子供たちが遊んでいるドールハウス。なんといっても、クリスマスを一週間後に控えているからな。

一つ一つ、微妙にインテリアや、色が違う。それから牛やロバのミニチュアと家畜小屋、そして小指の第一関節分ぐらいのサイズの飼い葉桶と産まれたばかりのキリスト。ほかにも、ミニチュアの白い柵と、家畜小屋。

他にも、まるでお祭りの出店のようなテントの露店で、お花や、手作りの詩集のバッグとか、アクセサリーを売っている。

ポインセチアのクリスマス用ブーケを並べた店をきりもりしている、老夫婦。手作りのネックレスやイヤリングを売る、若い女性たち。そして、ヨーロッパ風の甘そうで大きな焼き菓子を手作りで露店販売しているおじさんたち。

ここの人たちは、皆サグラダファミリアを見ながら、毎日を生きていられるんだな。クリスマスシーズンだけではなく。

僕は、心からそういう人生を羨ましいと思った。金銭的には貧しいかもしれない。だけど限りなく心豊かな人生だなって。それを証明するかのような微笑みを携えて、誰もが満ち足りた晴れやかな表情をしている。


永遠のような空間。白い壁。敬虔さに溢れていく心。

壁を飾るステンドグラスの装飾は、円形や花びらの形に、鋭角のガラスがパズルのピースのようにはめ込まれている。

入り乱れる色彩の光に、全身を包まれていく安心感。

奥の祭壇に目を向ける。

昨日、今日、明日。 多くの時間を過ごしてきた。

ここバルセロナで。まるで囚われて、閉じ込められたような状態で。

そして今、見上げた先には、六角形のパラシュートのような天蓋の下で、十字架に磔にされて宙を舞っているオフホワイトのキリスト像。

「マリンさん。」

その下の木製の机に座っているのは、間違いなく・・・。

僕の声があまりにも大きかったのだろう。不審そうに、近くでステンドグラスに見とれていた観光客の何人かが僕の方を一斉に見た。

そして、一緒に、マリンさんも振り向いて立ち上がった。その隣には、ブラウンの髪を三つ編みにした少女。

僕は待ち合わせをしていたように、磁力で二人の方に、吸い寄せられていった。

僕の存在に気づいたマリンさんが、女の子を促して、立ち上がり、白い歪曲した柱の間を僕の方に向かってくる。赤、青、黄色、黄緑のステンドグラスからの光のシャワーを浴びながら。

「ユーマ。」

そういって、少しだけ僕の方に頭をさげたマリンさん。女の子も真似してひょこっと頭を下げる。

まるで鎮魂歌を奏でるように、マリンさんは語り始めた。

「この間奈良に旅行に行ったの。私の目的は、あなたやアルやミランダが育った孤児院から、この子を引き取ることだった。」

そう言いながら、マリンさんは、四歳か五歳ぐらいの栗色の瞳の愛らしい少女の小さな手を強く握り締めた。アルやエテルと同じ、日本人とフランス人のハーフ。蒼い深い瞳。薄いブラウンのおさげ。そして、彫りの深い鼻と、薄いピンクの唇。彼女の天使の微笑みは幸福感に輝いていた。

「この子は、ロバートと日本人の風俗の女性・・・。その間にできた子供。」

僕は、頭のなかにぼんやりとできあがっていた空想の地図を急にびりっと破られたような衝撃をおぼえた。

「私はこの子をひきとって育てることと引き換えに、リチャードに命を救われた。

つまり、一度死んだも同然の身よ。そして、ミヨの母親という新たな役割を頂いて、生まれ変わったの。」

急に目隠しを外されたように、視界に光が見えた。彼女はエレガントに、微笑んだ。僕らの周りに流れる音楽がはっきりと、協和音にかわっていく、聖家族教会でのある初冬の日。

ミヨちゃんと、マリンさん。二人きりだけど紛れもない家族。マリンさんは、六角形のシャンデリアとその下の中央の白いキリスト像の方に向き直ると、両手を合わせた。ミヨちゃんもその動きをまねて、小さな手のひらを合わせる。その胸元にはラピスラズリのペンダントをかけていた。

「なんだかここは、神様のお腹の中にいるみたい。」

ミヨちゃんのつぶやき。僕は周りを見渡した。

確かに祭壇席の周りを囲むオフホワイトの高い柱は、神聖なる者の骨格みたいだ。そして、ステンドグラスから差し込むプリズムのような色彩は、そこに取り込まれる生きるためのエネルギーのようだ。翡翠色や、瑠璃色、茜色。そこにオフホワイトが混じるから、色彩がさらに柔らかく空間に広がる。二人はまぎれもなく家族だった。そして、三人で、そのまま天国のような空間を渡って、恍惚とした表情の観光客の多様な人種の間を抜けて、出口に向かって歩いた。

外に出ると、裏門の方は正門とは少し風情の違う、キリストやマリア、聖人たちのシンプルな彫刻が施されていた。ただ、磔にされたキリストは、その分眼下に迫ってくるようだった。罪深い人間の代わりに、罪を、十字架を背負ったキリストの像が僕らを見下ろす。僕がキリスト像の下に立ちすくんでいると、マリンさんは僕とミヨちゃんに教えるように口を開いた。

「正門の『生誕の門』とはうって変わって、出口は『受難の門』と呼ばれているのよ。跪いているのがマグラダのマリア。キリストの足もとの頭蓋骨は『死』の象徴としておかれているんだって。」

裏通りにも、表と似たようなマーケットが並んでいる。

「マリン、ミヨ。」

マーケットの人込みの中から響く声。日本人の男性の声みたいだ。

ヨーロッパの人々が、流れを作りながら賑わせているマーケットの一角に、お坊さん風の顔かたちで、黒いジャケットと、ジーパン姿。声の発信源は彼だった。

しっかりとした柔道家のような足取りでちかづいてくる。彼がマリンさんや僕に向かって、すっと両手を合わせて、きりっとした濃い眉の下の細い目に寛容な深い視線を放った時にはっきりとわかった。

間違いなくこの人は僧侶だ。

僕は仏教系の学校に通っていたから、お坊さん先生にも指導を受けていたもの。だから、わかるんだ、この風格は間違いない。


「この方は良心さん。日本での生活で色々とお世話になる方。いろんな手続きや、今後の生活すべてにおいて導いてくれる、大事な方よ。」

マリンさんが、頼もしそうに彼を見上げると、濃い眉毛の厳格な顔がほころぶ。

「私は来年から奈良の孤児院で、ミヨや他の子供たちの世話役と教育係として働くことに決まったの。司祭様のはからいでね。今は、その準備と手続きの最中なのよ、ユーマ。」

ミヨちゃんと手をつなぎ、人込みの中をマリンさんは良心さんと並んで立っている。家族の肖像画写真のように。サグラダファミリアを背景に。

「私はきっと、巡礼者なのよ。数年間かけて聖職者になるための修業をしてくるわ。この子と一緒にね。」

そういいながら、三人はそろって僕に手を振ってグラシア通りの人込みの中に消えていった。その姿を呆然と僕は見送った。良心さんの背中に描かれた曼荼羅のような絵柄が遠くなっていくのを。

僕はクリスマスの市場の喧騒をぬけて、サグラダファミリアと市場を抜けて、信号を渡り反対側の歩道に向かった。プラタナスの街路樹にそって、歩く。

どの建物も、カサ・ミラやカサ・パドリョほどではないけど、外壁がバルセロナ的におしゃれだ。

そして、指令通り、海岸に向かって、潮の香りの方に向かって歩いて行った。

『司祭の言う通り、マリンさんは本当にマリア様の生まれ変わりなんだ。』

熱い胸の中は、その思いでいっぱいになっていた。


第四章 最期の指令

1

憂鬱な気持ちを抱えながら、昼下がりの冬空の下をぶらぶら歩きで眺めながら、ゴシック地区に迷い込んでいった。

司祭と再びまみえる予定の、いつものカテドラルとは別の方向へ。まだリンゼイさんとの約束の時間には、だいぶ時間があるから。そこは今まで歩いてきたバルセロナの中でも、タイムスリップしたような地区だ。まるで古代ローマ時代のような空気をたたえた建物に囲まれた荘厳な広場。

まばらに、ヨーロッパ系の様々な人種の人波。そして、壁の近くでは、若い男性が一人でバイオリンを弾きながら、陶酔して歌を歌っていた。

僕はそこに立っているお母さんや、女の子、あと数人の観客と並んで彼の音楽を聴いていた。

みなりは灰色のトレーナーとジーパン姿だったけど、演奏している姿は崇高に見えた。そして、僕はその音色に聞き入りながら、彼の手前に置かれたバイオリンケースにコインを入れた女の子。それをまねするように、僕も同じようにユーロのコインをそこに入れた。

彼は、僕と女の子のように少し頭を下げた。そして、聞いているすべての観衆を見渡すと、今度はさっきのクラッシック調の曲とはうって変わったポップな音色を響かせ始めた。とても楽しそうに体を躍らせながら演奏している姿に僕は、救われるような心持になった。

でも、僕はいったい何だろう。

広場を囲む、黒ずんだ歴史の重みを感じされるパール・グレイ調の王宮や礼拝堂をゆっくりと通り過ぎる。

僕は中世の香りが漂う中を、自分自身の過去を振り返っていた。

高校を卒業後、グラフィックデザインや古都の色彩に興味があったから祖父母を説得して、東京の専門学校に通わせてもらっていた。だけど、本当は自分に才能があるとは思ってなんかいなかった。両親に望まれず生まれてきた僕。

中学や高校でも机を並べる同級生たちとは、異質な劣等感をいつも抱えていた。

『愛されない可哀そうな少年』が、僕の心の奥にはいつもひとりぼっちで膝を抱えていた。きっと、あのまま東京で生きていたとしても将来への希望なんてあったのかな。

『私の指令を成し遂げることが、君の生かされている理由。つまり、君の唯一の存在価値なのだよ。』

『君は優秀な父親の遺伝子を引き継いでいるよね。地位と権力を備えた男性の遺伝子をね。だからこそ、神に任務を任されているんだからね。』

司祭やアルの言葉がキャンバスにそのまま絵の具を塗りつけた乱暴な絵画のように、僕の体と心を支配する。僕はそのために選ばれた人間・・・。だったら、それでいいんじゃないか。その使命を果たして、あとはこのバルセロナの地で、僕の命は尽きて眠りにつきたい。それで、僕は満たされて死ねるんじゃないか・・。


 冬の昼下がり。海からたちのぼる冷たい風が頬をなでる。海の前の広場の中央にある女王様の高い塔。そのふもとにいたのは、マリンさんとの約束通りリンゼイ爺さんだった。

挨拶しながら、右手を上げる。海からあおらてくる真冬の冷気が混じった潮風にあおられながら。

「やあ、ユーマ。元気そうだな。」

背景には午後の淡い太陽と、水平線が見える。爺さんの言葉に、僕は安心した。しかし同時に、心に冷たい風が吹き込んできたように感じた。

「女王様の彫刻の高い塔の前でリンゼイさんと待ち合わせて、一緒に大聖堂に来るようにって・・。」

茶色いチョッキとズボンに、白いシャツ。そして、シャーロックホームズ風の帽子で、イギリス紳士の空気がにじみ出ている彼に向けて、頭を下げる。

「あと、アルからのたっての願いで、萌黄色の魔術書を君に授けろと。まあ、それは後でな。」

そうなんだ、僕にも魔術書・・・。嬉しいと同時に、なぜか胸が高鳴る。そして不安を感じる。僕にそんな高等なものを授けられる価値があるんだろうかって。

「リンゼイさんって、いったいどういう立ち位置なんですか。いまいち僕にはよくわからない。アルにとっては、父親以上に大事な存在みたいだけど。司祭とはどういう結びつきがあるんのかって・・。」

僕は複雑な心模様から、そんな言葉が思わず躍り出てしまった。身を凍らせるような冷たい潮風がマフラーとコートの隙間から肌を撫でる。 リンゼイさんを凝視することができずに、真後ろの威厳のあるグラマラスな女王様の像とにらめっこした。

「そうさな、もとはロンドン生まれのロンドン育ちだからな。今は異国で余生を過ごしているが。ただ、若い時はロバートの仕事を手伝っていたこともあるなあ。」

はぐらかすようにリンゼイさんは、寒そうに身をすくめてチェックの大柄な分厚いコートのポケットに、革の手袋ごと両手を突っ込んだ。どんな仕草も、イギリス紳士風できまっている。


「アルの父親と仕事していたんですか?それって、闇の商売に手を染めていたってことですよね。僕は、そういう仕事の人を手伝いたいと思わない・・・。」

爺さんは、高らかに笑った。

「アルの父親だって、根っからの悪人じゃあないよ。景気の良かった時代は、真っ当に芸術品や、骨とう品を商っていたのさ。若い時にはね。わしが一緒にやっていたのは、その時期だけさ。日本の裏社会の成金たちとリチャードが交渉を始めてからは、彼とは一切かかわっていない。教育を受けて、探偵業をロンドンで長く営んでいたからな。やつとは逆の道をいったさ。なんせ私は、根っからの正義感の塊だからね。だから、安心してわしに従っていい。 それにしても、コロンブスの塔に来ても、君はグラマラスな女王像にしか目がいかないらしいな。」

呆れ顔の爺さんに、僕はプウッと口を膨らませた。半分監禁状態で、ろくにバルセロナ観光もできていないのだから。 過去の経緯も含めて説明しなきゃいけなくなるのがおっくうで、それは言わずにいた。

「カスティーリャ女王しか見ていない盲目の少年よ。新大陸のパイプを左に、右手で地中海の方を指しているのがコロンブス像だよ。」

爺さんが腕組みして見据えた像を、ちらっとだけ見やった。それにあんまり関心を示すのも、悔しかった。僕は、台座の側面の大航海時代の冒険ストーリーが刻まれたような彫刻を、ぐるっとまわって、凝視した。

「確かに、コロンブスの塔って感じだね。だけど、威風堂々のグラマラスな女王様が、僕には一番魅力的だな。」

博識な爺さんとは、僕は違う。無学な少年だって思われて構わない。

「久しぶりに、海がみたいな。」

リンゼイ爺さんに促されて、女王像を横切って、巨大な遊覧船の方に向かう。カモメの鳴き声がする。広々として開放的な海岸線。海の向こうには昼下がりの水平線。人工的な舗装路の上を歩く。潮風が気持ちいい。

「君は、カスティーリャ女王風のグラマラスで威厳に満ちた美女タイプが好みなのかな。」

僕は、首を大きく振った。

「僕は、マリア様みたいな女性が好きだ。たとえば、マリンさんみたいな。」

さっきまで、夢のような気持ちで、マリンさんとミヨちゃんとの時間を過ごしていた。だから、自然に口をついて言葉が出た。司祭の横入りがなければ、あのまま一緒にいたかった・・。海に映るブライト・ゴールドの太陽。波と一緒にグラグラと揺らめく反射光。

「マリンさんか・・、ああ、アルの義理の母親だった・・・。確かに類まれな美しさだ。アルも、彼女のことを悪く言ったのは聞いたことがないな。あの魔術書を読み解けるぐらいの語学力だと褒めていたな。」

僕はふと、アルとロバートさんの間の確執について、リンゼイさんなら何か知っているのではないかという思いが押し寄せて、彼に問いかけた。

「マリンさんのことは、確かにアルは本当の母親のように、大事にしているけど・・。なんで、実の父親のリチャードさんには、憎しみに近い感情を持っているのだろうって、時々怖くなる時があった・・・。」

「そうだな、確かに、アルは父親のしている裏の仕事を知った後に、ロンドンまではるばるワシを突然訪ねてきた。子どものころから、実の父親よりも私の方が、ずっと尊敬できて、信頼できる存在だと思っていたと伝えに来てくれた。これからも、ロバートには内緒で私とは親交を育んでいきたいともね。」

話し終えると、おもむろにリンゼイさんは、

「さてさて、司祭との約束の書物を君にも授けねばならんな。」

そうつぶやいた。

「君へ授ける宝は、萌黄色の書。子どもたちのための星の神々の呪文書だ。」

僕は、手渡された重い本を少しだけひらいて見た。重厚表紙の中央には金襴で少し黒ずんだキリストの像。

パラパラと見開く。絵と大きな古代文字、確かマリンさんがリーン文字って言ってたっけ。鍵のような形の文字だ。

「子供向けって・・・。」

僕は少し気分を損ねながらも、それ以上は何も言わなかった。確かに僕は子どものように無知で無学だ。

「深緋色の魔術書の文字は心に聖域を持つ者だけに助言を与えてくれる。つまり神のみ言葉だ。その心で読み解いたと通りに行動すれば、その者に幸運をもたらす。だから、聖女のマリンは、それを読み解いて行動しているんだろうな。」

「じゃあ、瑠璃紺の書は?」

僕は、疑惑の眼差しで尋ねた。あれは、拳銃の入れ物でしかない。本なんかじゃない、その真実を知っていながらあえて、尋ねてみる。

「ああ、あれは聖剣の書だ。」

アルの部屋に内緒で入って、ベット再度の臙脂色の上品な机に置かれていた萌黄色の分厚い書物のページを開いた瞬間の記憶がよみがえった。

リンゼイさんはまるで、僕があの中身を知っていることをわかっているかのように、それ以上は何も言わなかった。

リンゼイさんの威厳に満ちた表情には、有無を言わせぬ説得力があった。


 大聖堂の門の前の、石段で立っていたスラッとした人影はアルだった。

「リンゼイ爺さん、久しぶり。ようこそバルセロナへ。」

アルは、そう言って石段を上がる僕を無視して、リンゼイさんとハグした。

使い古されたビスタ色の革鞄を、アルはリンゼイさんの体に両手を回して、自分の左肩にヒョイと背負った。

『気がきかない僕との違いを見せつけてくるな』

僕は苦笑いしつつも、冬枯れの木々から流れてくる風に身をまかせて二人の後方に少し下がって、ついていった。 

「ようこそ、リンゼイ。そしてアル。ユーマ。」

大聖堂の重い扉を開いて、出てきたのは司祭だった。僕らは、その導きに従って、聖人装飾の彫像やトレサリーの下をくぐった。

「もうすぐ、午後の儀式が始まりますぞ。」

そういいながら、司祭がリンゼイさんの手を取る。アルは、老人たちの動きに合わせるように、スローモーションのごとく、足を滑らせて歩いていく。

コツコツと、スウェードの革靴の音がカッコよく暗い聖堂の中に響く。

僕は、ステンドグラスの虹のような色彩と、高窓から落ちてくる太陽の光が交差する左身廊の下で、一人立ちどまった。

「ユーマは、このあたりで、ステンドグラスやレリーフでも観賞しているといい。」

僕だけ内陣には僕は入れないことを示唆するように、アルは皮肉な笑みを浮かべた。

そう、目の前の巨大な大理石のレリーフの向こう側には僕は入れないのだ。同行のメンバーの中では、唯一僕だけが。

「ちぇっだ。」

異教徒は入れない聖域ってわけだ。

遠目にローマ法王のような風格の大司祭様が見えた。彼らは前の方の椅子に座り、司祭はオルガンの後ろ側に姿を消した。

上から差し込む天の光。そのすぐ下側の、祭壇の上の天使に四方を囲まれたキリスト像。僕のところからは遥か遠い。彼らは、そのすぐ下に座っているんだと思うと、なんだかちょっぴり羨ましい。実際クリスチャンじゃないから、仕方ないんだけどな。

そのうちに、かすれるような美しい低音のスペイン語の説教が漏れ聞こえ始めた。僕は音楽を聴くように、体を揺らして、カテドラルでの清逸な時間と空間を漂っていた。

讃美歌を奏でるオルガンの音色。僕はそのリズムに合わせるように、すぐそばのアーチの上を見上げた。古びたココア色の木枠の装飾の中に細いパイプが何本も縦に並ぶ。その合間にシルバーの天使像が歌い踊って、ふちを飾ってる。楽しそうだ。僕は音楽に合わせて天使像を一体ずつ笑顔で見上げていた。

そして、遠くの司祭の説教をかすかに聞きながら、目を閉じて、バルセロナに来てから遭遇した出来事を、まるで映画のように頭の中で反芻していた。

一時間近くたっただろうか、儀式の区切りのような時間となり、リンゼイさんは席を離れて、僕の方に近づいてきた。

「今日の目的は果たした。あとは、アルから謝礼を受け取るのみだ。」

リンゼイさんはとても満足そうに、僕のそばでそうつぶやいた。

そして数秒後には、アルが僕のそばまで歩いてきた。 そして、キリスト像に向かって深々と頭を下げた。まるで敬礼する兵士のように。 リンゼイさんのピンと伸びた背中を追って、僕もファザードの方に向かう。

正門の扉をあけると、再び外気と、鈍い午後の日差しに目を細めた。階段の近くで、アルとリンゼイさんは楽しそうに話し込んでいる。そして、急にアルが走り出したかと思うと、愛車に向かっていった。後部席の足もとからアルが抱き上げたのは、ムスタフだった。首の鎖を外して、愛犬とポーズをとるように、愛車に体を立てかけて、足を組んで待っている。

僕と、リンゼイさんは、大聖堂の前の大通りを横切って、アルの方に向かった。

「こんな嬉しい謝礼はいままで受け取ったことがないよ、アル。」

う言って、リンゼイ爺さんは、手綱と一緒にムスタフをアルから受け取った。そして、孫を抱くように抱きくるめた。ルドルフは、リンゼイを真似するように、上からムスタフを抱きくるめた。

「マリンにはムスタフの百パーセントの幸福を約束して引き取ったんだ。リンゼイのこれからの人生に、プレゼントするよ。ムスタフをね。」

ヒュンヒュンと鼻を鳴らすムスタフの首から伸びる手綱を、なるべくその体に添わせるように注意しながら、ムスタフの足をゆっくりと地面につけた。

「本当にありがとう。老後の人生のパートナーだ。」

リンゼイさんは愛車の方に導こうとしたアルの右手を優しく制した。

「ムスタフと一緒に、冬枯れのバルセロナ散歩を、楽しみたいもんでな。すまない、アル。また、うちの店に遊びにおいで。ユーマも一緒にな。」

そう言い残すと、ジェントルマン的に知的な笑みを浮かべた。そして、通りの人込みの中に消えていった。ムスタフが時々こちらをチラチラと振り返りながらも、ともにタッタと歩いていく。アルの思いをくんでいるかのように。

「ユーマは、僕と一緒に帰ろう。」

アルは見えなくなるまでリンゼイさんとムスタフを見送ってから、僕に右手を差し出した。僕は素直に、アルの車の助手席に乗った。

「これは君へのプレゼントだ。庶民の味もたまにはいいもんだね。運転手だから僕は、飲めないけどね。」

ブルーのポップなパッケージのボトルを僕に軽く投げてよこす。 車が発車する。背後にカテドラルがどんどん遠くなっていく。

僕は、夕暮れを迎える黄昏色の空を見上げた。言葉にできない妙な感動があった。リンゼイさんの立ち振る舞いに対して。そして、ボトルに口をつけてその庶民の味とやらを一気に飲みほした。

『思った通り、アルコールだな。だけど、ワインじゃない・・。』

後から振り返ると、そこまでの記憶は確かにある。しかし、その後僕はまるで異世界に落ちたかのように、深い眠りについてしまった。


 白黒の追憶の時間が流れる。大聖堂の上から落下してきたシャンデリア。見上げた先の二階のテラスにアルの顔が見えた。

漆喰の白壁に、倒れていく僕の影法師が映っているのは目の端でとらえていた。

そう、落下してきたシャンデリアをよけて身をくねらせて、肘をついた瞬間だった。ガッシャーン。すぐそばでシャンデリアが粉々に砕けた。ガラスの破片が飛び散るのをよけるように、反射的に身を転がらせたはずなんだ。

天使の像が舞い飛ぶ金の像と、シルバーのパイプオルガンの下の方まで。そこで、誰かに手をつかまれた気がした。ちくっと鋭い痛みが手から、全身に伝わる。体がマヒしていった。きっと、僕は今夢を見ている・・・・。

気が付いた時には、あの豪邸の地下室に連れ込まれていた。きっと、数日間眠っていたのだろう、この木の古いベッドの上のフカフカのマットに倒れ込んで。

「ユーマ、食事だ。」

天井の上の四角い枠が開く。アルだ。古い木の梯子をのぼって、お盆を受け取る。僕がそれを受け取る。すると、すぐに枠が閉まる。そしてアルは姿を消す。地下室だから、窓もなく、光もない。今は何時か。朝?昼?夜?それすらわからない。ただ、定期的に無言のアルが食事を渡してくれる。それだけの日々。まるで監獄に収監されている囚人みたい。苦痛な時間が、ダラダラと流れていくだけ。

枕元に聖書のように置かれた魔術書。リンゼイ爺さんにもらった萌黄色の書が、監獄のような地下室で、輝く。

そして、ベッドの上方の漆喰の壁には、マリンさんの部屋に飾ってあった『ボルドーのミルク売りの少女』の絵。可憐で清らかなまなざし。ダイニングに飾られていたはずの絵が、今はここに飾られていた。

眠っている以外の時間は、絵本を眺めるようにその本を眺めて過ごしていた。時々、孤独を感じないように、ミルク売りの少女の絵を見上げるとき以外は、廃人になったかのように。

ただそんな僕の廃れた精神状態を、少女の絵が放つ清らかさが救ってくれていた。

そんなある日、アルが、いつもの通り、パスタやパンがのったお盆を僕に手渡した。そして、いつもとは違う動きをとった。そのまま、梯子をゆっくり降りていく僕のペースに合わせて、アルも地下室に降りてきたのだ。

「この地下室には、君が運ばれる前は、しばらくマリンが隠れていたんだ。」

僕は、生気を失ったうつろな瞳でアルを見返した。

『それで、この絵がここにあったってことか・・・。』

「憔悴しているね。無理もないよね。この状況じゃあね。いろいろと、すまなかった。心からお詫びするよ。」

アルは、悲しげに瞳を曇らせて、両手を合わせた。そして、少しだけ頭をさげて見せた。 僕は、必死でアルを睨みつけようとしたが、そのエネルギーは、残っていなかった。

「実は、この天井の上は父の書斎だ。父はミランダには、母さんを殺したように見せかけた。そして、しばらくここにかくまっていた。」

僕は少しずつ停止していた思考回路を、懸命に働かせようとした。

「命は救ったとはいえ、ここでの生活は母さんにとって監獄であることには変わりない。だから、僕は司祭に頼んで、母さんを彼のもとに運んだ。そして自由の身にしてあげたんだ。」

僕は、廃人のようにただアルの告白をぼーッと聞いていた。

「父にとっては、親族だって、都合のいい手持ちの駒でしかないんだよ、ユーマ。最近、芸能プロダクションの社長と美術商のビジネスがらみで親しくなったらしいや。それで、頭の弱い愛娘を早速、商売道具に担ぎあげたらしいよ。国際派女優を育てるって名目だけど、裏では世界的なヌードモデルを大勢輩出して、大儲けしているかなりのやり手の実業家らしいよ。見た目は薄汚い豚みたいな、全身ブランド尽くめの成金おやじのね。僕とペネロペも誘われたけど、父には二つ返事でノーセンキューと返しておいた。でも、ミランダは喜び勇んで、『女優になるわ』ってはしゃいでたよ。頭が空っぽだと、おめでたくて幸せでいいね。」

そんなに、自分の父親や妹のことを正面切って悪く言うのはやめてくれよ。

僕は言葉にならないごった煮の思いを抱えながらも、それを口に出すエネルギーすら出なかった。


 子供の頃の僕が、今の僕を見上げてささやいている。過去の少年の僕との対話。

「 さっきまでずっと萌黄色の絵本を読んでいたんだよ」

まだあどけない僕が、今の僕に向かって呟く。

まるで、小学校で暗唱させられた般若心経みたいな感覚。意味は分からないけど、無意識の奥底に残る感覚がある・・・。

そんな思いを深めていた最中だった、事態が急変したのは。

バキューン  ガッシャン

拳銃の音。そして、ほぼ同時に大部屋のシャンデリアが床に落ちる音。粉々に砕けたガラス音。

地下室にも振動と一緒に響きわたってきた。

何があった?

床板の一部からの光の筋が伸びてきた。僕の視界に飛び込む。上のリチャードさんの部屋からだ。普段ならぴっちりと閉められて絶対にあけられない、地下室からロバートさん部屋に通じる古い階段。その頭上の床板。今日に限って数センチずれていて、隙間がある。ここから、ロバートさんの部屋にあがっていけるんだ・・・。

地下牢獄から出られるチャンスという高鳴る思いと、その先で繰り広げられている惨事への恐怖心で、メトロノームのように左右に横揺れする臆病な僕の心。梯子の最上段で金縛りにあったかのように、身をすくめて隙間の方に恐る恐る首だけを伸ばす。

目線の上をアルの長い脚が遮っていくのがチラリと見えた。右手に握られていたのは拳銃だろうか?

「上がって来いよ、ユーマ。殺人現場の目撃者になってくれるよな。」

アルの計略通りってわけだ。僕の行動なんて彼の手のひらの上で転がされているってわけか。

僕は、観念してそのまま天井板を両手でずらして、梯子に身を這わせながらギシギシと音をたてて、上にあがった。

ちらりと、窓の方が見えた。ずっと闇の中で生きていたから知らなかった。窓の外には粉雪が舞い散っている。そしてたくさんの本が並べられた本棚。 話し声が聞こえる。

臙脂色のおしゃれな革靴の足もと、その持ち主はアル。コーディロイの同系色の細いズボンと、肩のラインにそった柔らかそうな隅にシャネルのマークのついた漆黒のセーター。

まさに父親に向けて両手をのばしている瞬間だった。そして、銃口を父親の方に向ける・・・。

鋭いサファイヤブルーの眼光に僕の目は釘付けになった。モザイク状にはめ込まれた白と紺のタイルの壁に両手を這わせながら、ボクシングのゴングの周りを移動するように僕は、シックなストーブがたかれた書斎めいた部屋の周囲を移動して、窓の方に向かっていった。

ぴっちりと閉まっているはずの窓枠から凍てつく風に全身を震わせる。でも、ここから逃げたいという衝動で、無意識のうちにこの位置に足を進めたんだと思う。

「自分のしていることが、わかっているのか、息子よ。」

哀願するようなかすれた低いテノールの声。リチャードさんの声が、聞こえる。

すると、アルが声を荒げて叫んだ。

「パパは、大量殺人を企てる人間に、殺人用の武器を売った、武器商人なんだよ。それがどういうことか、わかっているの、パパ。」

アルは泣いているのかも知れないと思った。ただ、アルの首から上は、梯子の最上階に足をかけ、ソファの陰に隠れて、抜き足差し足で、ゆっくりと地下から上がっていく僕の視界には入らなかった。ただ、僕の思考回路の中で明らかな事実が浮かんできた。

『つまり、僕が殺したのは、アルのパパが爆薬を売った相手なんだ・・』

東京の名の知れた市民マラソン。そのゴール地点に爆薬を仕掛けるテロ計画。

「僕は、神の名のもとに、パパを殺す。正義のためにね。」

「I'll kill you because I have to kill you. But I love you, good bye.」

そう言葉を続けた。

そして、アルはコルトパイソンを強く握りしめた。そして、繊細な手つきで引き金を引いた。ズキューン。 僕は、駆け登り、リチャードさんを突き飛ばした。瞬間的に、全身に痛みが走った。そして、血生臭い匂い。

飛び散る血が、見えた。そして意識が遠のいていく。

拳銃を放り投げて、悲痛の眼差しで僕を抱きしめる、アルの温もりが、僕を感じる。意識が少しずつ遠のく・・。けどまだ生きているかな・・・。


『これで、罪を償って、幸福な転生ができるのな。』

無意識の底から、ルイの笑顔が浮かんで、目の前のスクリーン画面にアップになる。

最期の力を振り絞ってつっこんだジーパンのポケットの中。ルイにもらった僕の守り石のギザギザ感。今の僕の生を手のひらで実感する。

しかし、その瞬間だった。

「ユーマ、どうして君が悪人の身代わりになる?」

アルの嘆きに満ちたハスキーな嘆きの声が耳元に届く。そして、血まみれの僕を抱きくるめる。

ズキューン

頭上で再び銃声。

朦朧とする意識で見上げた入り口のドア。そこには体に這いつくようなベルベットの黒いドレスに身を包んだ・・、ミランダが立っていた。

彼女は不敵なまなざしでまっすぐに両手を伸ばしている。その指先はコルトバイソンの引き金にかかっている。そこから飛び出た銃口の行先。そこには真っ赤な血で、白いタイルの壁を染めて、立ち崩れるロバートさんの姿があった。

武器商人は、その娘の手で彼は射殺されたのだ。

「お兄ちゃん以上に、父さんを憎んでいたのは、私だった。いつも何も考えていない綺麗なだけのお人形さんみたいに扱われて。本当の愛なんてくれたことは一度もなかった・・。」

ミランダの瞳には涙と一緒に憎悪の色が色濃く浮かんでいた。

「パパは立派な悪人よ。だって日本の暴力組織に武器と麻薬を販売して大金を稼いでいたんだもの。それも法の裁きを受けないように、マスコミに賄賂を積んで、身の安全の確保も万全みたいよね。でも、安心して。その取引の振込口座のスイスの銀行の名義は、私に変更手続き完了済よ。だから、安心して地獄に行くといいわ、お父様。」

遠のいていく意識とともに、アルのぬくもりを感じていた。それにしてもミランダって、真の悪魔だったんだ。実の父親を殺したうえで自分の将来の安泰も視野に置いて行動していたなんて。

心が凍り付く思いと一緒に、眠りにつく寸前のフィルムでは映画のような殺人現場の映像がモヤモヤの視界に霞ながら流れている。

僕は全身に鋭い痛みが走った。そのほんの数秒後に、激しい痙攣に襲われて意識を失う寸前。

アルの僕を抱きかかえる右手がふっと離れた。そして、その右手に握りしめられていた銃がアル自身の頭を撃ち貫いた・・・・。

惨劇の冬の場面。部屋の一角には『悲哀』の影が立ちすくんでいる。そしてその影が屋敷全体を覆いつくす、霧のように広がっていく僕の中の最期のイメージ。

僕は、死ぬ、アルと一緒に。

僕は自分の生を精一杯全うしたという安心感と一緒に気を失った。そして、永遠の眠りについた、ユーマという肉体は。

マリンさんや、ミヨちゃん。そしてルイの笑顔が脳裏をよぎる。

まるで僕の人生を走り抜ける列車のように。


エピローグ

「もうすぐ産まれますよ。座ってお待ちください。」

ガラス越しで妻の出産を、拳を握りしめて見守っていた男性。まるで、サッカーグラウンドで渾身の力でボールを追う選手を見守る観客のように。

『戦っているのは、彼女だ。僕は何の力添えもできない。』

愛する妻のもがき苦しむ姿に耐えられず、ドアを開けて一般の待合室に向かう。しかし、落ち着いていられず一時間近く右往左往、廊下を歩き回っていた。

この数週間、毎日欠かさず仕事帰りに虚弱体質のお腹の大きな妻のベットを見舞う彼の姿を見ていた看護婦が、うろつく彼を見かねて声をかけたのだった。

「すいません。ご迷惑でしたよね。」

彼の言葉に微笑んで、看護婦はドアの向こうに去っていった。空いていたテレビの前のソファーに彼は腰掛けた。

『今回の捜索で・・・・射殺された乾氏は、東京国際マラソンのゴール地点付近に隠れて、武装して待ち構え、大量殺人を計画・・・。・・・の麻薬密売組織の一員だったことが判明‥‥。』

テレビの無機質な中年アナウンサーの報道にふと耳を傾けて、テレビを見上げた。その瞬間テレビに映し出されたまだ年若きの青年の顔。

「・・・・優馬は、現在逃走中・・・事件から四か月経過した現時点でも・・・、行方不明・・・警察の捜査では・・・。』

画面でアップになった十七歳ぐらいの少年の顔から目を離そうとした瞬間だった。耳元にノスタルジックな鐘の音が響いた気がした。

彼は、驚いてあたりを見渡した。すると、ドアが開いて顔なじみの産婦人科医の百合子先生が顔を出した。

「矢吹さん、おめでとうございます。とても綺麗で元気な双子の男の子ですよ。」





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