「地獄? 天国の間違いじゃないですか?」

やなぎ怜

「地獄? 天国の間違いじゃないですか?」

 いぬいホオズキは囲われ者である。


 長く艶やかで繊細な黒い髪。青黒い血管が透けている、抜けるように白い肌。小ぶりな唇に、つんと形のいい鼻。大きな瞳は丸くて愛らしい。


 乾ホオズキの年齢を茂田しげたは知らない。しかし二〇歳には満たないだろうと思っている。彼女の背は茂田よりずっと低くて、恐らく一五〇センチメートルに届くか届かないかといったくらいなのだ。


 なにより、あどけなさを残した顔立ち。いつも憂い顔であるから、いたいけな印象は薄く、大人びて見える。


 そんな風に実年齢に見合った顔ができないのは、彼女の身の上が関係しているのだろう。


 乾ホオズキはある日突然、茂田のボスである犬飼いぬかいが連れてきた。どこから連れてきたのかは、下っ端である茂田が知る由もない。けれども犬飼が強引に連れてきたのだろうと思わせるだけのことはあった。


 乾ホオズキはとても犬飼が持つ力――純粋な腕力や権力のことだ――に抗えるとは思えなかったからだ。


 憂いに揺れる黒い瞳に光が射すことはほとんどなく、乾ホオズキはずっと犬飼にされるがままであった。


 けれども甘ったるく愛を囁く犬飼に、乾ホオズキの心が動かされているようには見えない。


 深淵を思わせる大きな黒い瞳は、いつだって犬飼の姿を突き抜けて、虚空に視線を漂わせているようだった。


 そして乾ホオズキは正しく「囲われ者」であった。このタワーマンションから外出することを許されるのは稀で、それでも外に出られるときは常に犬飼がついている。彼女に自由はない。


「囲われ者」と言うからには、当然のように乾ホオズキと犬飼は肉体関係にあった。


 茂田は、乾ホオズキの首筋に無数の鬱血痕があるのを見て、初めて心を痛めた。乾ホオズキの境遇を、痛ましいと感じた。


 自分より年上の男に強引に連れてこられて、自由を許されず、ごとその肉体を求められる。そんな地獄へ引き込まれてしまった少女を、茂田は哀れに思った。


 乾ホオズキは今までに出会った犬飼の情婦の中では、もっともまっとうな人間だ。


 下っ端である茂田にだって乾ホオズキは腰が低く、丁寧な言葉を使う。茂田のことをミソッカスとでも言いたげな目で、傲慢なふるまいをしてきたこれまでの情婦たちとは、乾ホオズキはなにもかもが違った。


 乾ホオズキの目は、あきらめた者の目だ。光が射さないほどに黒く暗い瞳。茂田はその目に――光を灯してやりたい、と思った。


 明らかに力のない手足をした乾ホオズキが、自力でこの鳥カゴの中から出るのは難しいだろう。


 けれども――手引きする者が、いれば。


 そう、たとえば――茂田とか。


「でも、そんなことをすれば茂田さんは殺されてしまいます」


 だから、そんな恐ろしいことは言ってくれるな――。そう言いたげに乾ホオズキは戸惑いの目を向けて、儚く笑んだ。


 茂田は、乾ホオズキの説得は難しいだろうと思った。虐待され続けた人間が、反抗する気力を失うように、乾ホオズキはすべてをあきらめて受け入れているように見えた。


 けれども茂田には勝算があった。なにもすべて博打をうつつもりでいたわけではない。乾ホオズキを解放する、その算段がついていたから、その計画を彼女に打ち明けたのだ。


「大丈夫ですよ、ホオズキさん。オレにすべて任せて――」

「でも、そんな。私はこのままで……」

「そんな風にあきらめないでください! 必ず、オレがホオズキさんを自由にしてみせますから……」



 *



 乾ホオズキは囲われ者である。ほかでもない、犬飼が大切に厳重に、囲っている。なぜなら乾ホオズキの代わりになる存在は、この世のどこにも存在していないからだ。少なくとも犬飼は、そう思っている。


 その日犬飼は、自殺をしようとしていた。繁華街の端に取り残された古ぼけたビルの屋上へ不法侵入を果たし、身を投げようとしていた。


 そこへ不意に現れたのが乾ホオズキだった。


 犬飼はなんとも思わなかった。めんどくさいとすら考えず、むしろ目撃者がいれば確実に自殺とわかるだろうと思ったくらいだ。


 すべて――その目を見るまでの話だった。


 暗く深く、夜よりも暗く、海よりも深い――まるでそんな場所を切り取ったかのような、黒い瞳。


 その目を見た瞬間、犬飼は彼女も「同じ」なのだと気づいた。つまり――彼女も自らの人生に終止符を打つためにこの場にやってきたのだとわかったのだ。


「……同じですね」


 そして彼女もまた、犬飼が己と「同じ」なのだとわかったようだった。


 犬飼はなぜかホッとした。この世界に独りぼっちでいるような気持ちを、ずっと抱いて生きてきた。


 だれかに共感することもなく、同属意識を持つこともなく、ずっと生きてきた。


 呼吸のままならない水中で、ずっと手足をバタつかせているような感覚。


 しかし犬飼は乾ホオズキに出会って、初めて楽に呼吸ができた。彼女は己と――「同じ」だったから。


 乾ホオズキはそのまま犬飼のそばまで歩み寄った。犬飼はその手を取って、そのまま彼女を己のマンションに連れ帰った。


「乾ホオズキ」という名前を知ったのは、マンションの一フロアに閉じ込めてからだ。そしてその身の上を知ったのも。


 乾ホオズキは天涯孤独の身で、幼い頃から児童養護施設で過ごし、中学を卒業後からずっとフリーターをしていた。


 ――「……同じですね」。乾ホオズキのその言葉の重みを、犬飼は考えた。きっと彼女もだれとも繋がれないような孤独感を抱えて生きていたのだろう。そう思うと、乾ホオズキの存在が途端に愛おしく思えてきた。


 犬飼は、乾ホオズキのために生きると決めた。彼女のためならば喜んでなんだってする。彼女の欲しいものはすべて手に入れて、献上する。そうやってこれからの人生すべてを使うと決めた。


 ……けれども、そんな犬飼の決意に余計な水をさす輩がいるようで。



 *



 乾ホオズキは囲われ者である。


 これまでの犬飼の情婦に比べれば、立場はわきまえているほうだが、綾部あやべは乾ホオズキのことが気に入らなかった。儚げに微笑むその美しい顔も、やけに腰が低いところも――。要するに、綾部は犬飼に近づく女すべてが憎いのだった。


 乾ホオズキに暗に身を引けと言っても、彼女は困ったように微笑むばかりだ。まるで、こちらが聞きわけのない子供になったような気がして、綾部はイラ立った。


 文句のひとつも言わず、だれに対しても腰の低い乾ホオズキは、世話係の下っ端からの好感度は高い。そんな姿勢を抜きにしても、乾ホオズキの美貌は確かなもので、それだけで骨抜きになる輩もいる始末。それもまた、綾部は気に入らなかった。


 男社会を女だてらに生き抜いて、今では幹部候補とまで言われる位置にまでやってきた。綾部はそれで満足はしない。もっともっと上へ。そして――犬飼のそばへ。そう思ってこれまでも頑張ってきた。


 ときには汚い手を使って犬飼の情婦を排除してきた。犬飼は情婦を作るわりに彼女らにはさほど興味を向けなかったので、綾部の行いはまったく露見していないようだった。


 綾部がそういうタイミングをうかがい、好機を逃さなかったこともある。犬飼の興味が薄れたころ見計らって、金なり暴力なりで彼の情婦に言うことを聞かせる。綾部はそうやって、今までは上手くやってきていた。


 しかし犬飼の、乾ホオズキへの興味は今のところ、まったく失せることがない。いつもと毛色の違う女だからということもあるだろう。乾ホオズキは可憐で清楚な、男好きのする容姿をしている。そのことがまた、綾部をイラ立たせた。


 乾ホオズキは頭の悪い女ではない。遠回しな綾部の嫌味にもしっかりと気づいている。なのにわからなかったフリをして、微笑む。


 乾ホオズキが邪魔で邪魔で仕方がない――。


 けれども綾部は魔法使いではないから、一瞬にして彼女を消すなどといったことはできない。結局、現実的な手段を考えて、行使するしかないのだ。


 忌々しい乾ホオズキを犬飼から引き剝がすべく綾部が選んだのが、乾ホオズキの世話係を任されているひとりである茂田だった。


 茂田は明らかに乾ホオズキに下心を持っており、また彼女の境遇に勝手に心を痛めているのがありありとわかった。だから綾部は茂田を利用することにした。


 逃亡のためのお膳立てをして、茂田を焚きつけて乾ホオズキを連れ出す。


 それで憎らしい乾ホオズキが己の前から姿を消してくれるとは、さすがに綾部も思ってはいない。


 ただ乾ホオズキが犬飼の意に反した。その事実を作れば、犬飼も、もしかしたら目を覚ますかもしれない。


 成功する可能性は低くとも、乾ホオズキの肩身を狭くしてやりたい一心で、綾部は茂田を使って逃亡劇を作り上げたのだった。


 仮に茂田が綾部の名前を出したとしても、綾部は知らぬ存ぜぬで押し通せると思った。下っ端の茂田と、幹部候補でこれまで組織に貢献してきた綾部。どちらの証言が信用されるかなど、火を見るよりも明らかだ。


 綾部は、そう思っていた。


 なのに――



 *



 アラサーに突入して数年を過ごした乾ホオズキは囲われ者である。それはそれは――色々な意味で――お高いタワーマンションの一室で暮らしている。世話係と言う名の監視の目を置かれてはいるが、乾ホオズキからすればそれは些細なことであった。


 乾ホオズキには昔から夢があった。働かずに暮らしたいという夢である。つまりニートになりたいということであった。


 しかし乾ホオズキは物心ついたころから天涯孤独の身。親兄弟に死ぬまで寄生するという生き方は望めない。仕方なく中学を卒業後はひとまずフリーターとして生きていくことにした。高校に進学をしなかったのは勉強をするのが面倒くさかったからだ。


 乾ホオズキという人間は、どこまでも怠惰なのである。


 フリーターとして職を転々としながら乾ホオズキは色々考えた。男でも女でもいいから、だれかに養ってもらう方法はないかと。


 まず考えたのは結婚だが、乾ホオズキに主婦という仕事が務まるとは思えなかったし、そもそも昨今の情勢では共働きと言う選択肢がない己に貰い手が現れるとは思えなかった。


 じゃあヒモのようになるかと思ったが、ヒモはヒモで努力が必要らしいということがわかる。要はマメさである。マメさのない人間にはヒモの才能がないらしい。怠惰である自覚のある乾ホオズキはあきらめた。


 同時に、体を売って暮らすことを考えたものの、そっちもどうやらサービス精神みたいなやつは必要らしく、やっぱり己には無理そうだと乾ホオズキはあきらめた。


 乾ホオズキは怠惰なので、チャレンジもせずにすぐあきらめる。そういう人間なのだ。


 そのうちに働くのが面倒くさくなってきた。乾ホオズキの夢はニートなのだ。根本的に、勤労が向いていないわけである。


 そうなると、生きているのも面倒くさくなってきた。生きていると喉は渇くし腹は減るし、寒いのにも暑いのにも弱い。生きているというのは、ものすごく面倒くさいことだと乾ホオズキは気づいた。


 だから、死ぬことにした。来世はニートになりたい。そう思いながら廃墟になりかけているビルの屋上を目指した。屋上へ続く扉には、なぜか鍵がかかっていなかったのだが、乾ホオズキはなにも考えずにドアノブをひねった。


 扉を開けた先には、男が立っていた。二〇代も中盤頃の、明らかに年下に見える男だ。黒いスウェットの上下を着て、サンダルを履いている。乾ホオズキはヤンキーだと思った。が、乾ホオズキにとってはどうでもよかった。


 不意に、ヤンキーが振り返った。時間は夕暮れ時だったので、顔はよく見えなかった。ただ、その黒々とした目に生気が宿っていないことだけは、わかった。実際の死体の目よりは――生きているので――瑞々しいが、「死んだ魚のような」という形容が似合う目だった。


 その目を見て、乾ホオズキはわかった。ヤンキーは己と「同じ」自殺志願者であると。


「……同じですね」


 そう言って乾ホオズキはヤンキーに歩み寄った。己がことをなすのは彼が飛び降りる前か後か――。乾ホオズキはどちらでもよかったのだが、まあ挨拶くらいはしておこうと思ったのだ。ここで邪魔をされてはかなわないと思ったからだ。


 しかしヤンキーはどういうことか乾ホオズキの手を取り、ゆっくりと屋上の出入り口へと戻って行ってしまう。


 乾ホオズキは「こいつ、私の自殺を邪魔する気か」と気色ばんだが、次の瞬間には腹が「グーッ」と間抜けな音を出した。


 乾ホオズキの貯金はとっくに底をついており、自殺をする前だからと言って豪勢な食事をすることすら叶わなかった。今日も朝から水道水しか口にしていなかった。それも公園の。


 乾ホオズキは極度の空腹からヤンキーへのイラ立ちを募らせたが、ヤンキーはなぜか乾ホオズキを見て微笑んだ。「なにがおかしいんじゃい」と乾ホオズキは思ったが、そう言う前にヤンキーが口を開いた。


「お腹空いてるの? じゃあなにか食べないとね。なにがいい?」


 乾ホオズキはヤンキーがどうやら食事を奢ってくれるらしい判断して、「ハンバーガー」と答えた。ヤンキーは低く笑ったあと、「じゃあだれかに買ってこさせる」と言った。


 こういうときだけは頭の回転が速い乾ホオズキは、ヤンキーがどうも人を使える立場の人間のようだと察知した。同時に、ヤンキーから単なるヤンキーではない、もっとアウトローの気配を感じ取ったが、乾ホオズキにとってはどうでもよかった。


 このヤンキーは乾ホオズキに食事を奢ってくれる。乾ホオズキにとってはいいヤンキーなのだ。そのほかのことは、どうでもよかった。


 死ぬにしても腹を満たしてからがいい。乾ホオズキはそう考えて、大人しくヤンキーに連れて行かれた。着いた先がタワーマンションだったのにはおどろいた。そしてタワーマンションの一室に連れて行かれて、以来乾ホオズキはずっとここで暮らしている。


 世話係と言う名の監視の目を置かれてはいるが、乾ホオズキからすればそれは些細なことであった。乾ホオズキは念願叶って悠々自適のニート生活を送れているのだ。文句はない。


 ヤンキー……ではなく、犬飼は乾ホオズキの肉体を求める以外に、多くのことを要求しない。外に出て働けとか、家のことをしろなどとは一切言わない。ただこのマンションにいてくれるだけでいいと言ってくれる。


 最高だった。


 幼い頃からの夢が叶ったのだ。


 最高だった。


 ……しかし、そんな乾ホオズキの夢の生活に余計な水をさす輩はいる。


 たとえば犬飼の部下であるナントカという女。見た目はキツそうな美人で、中身も想像通りにキツい。彼女は乾ホオズキが気に入らないことは明らかで、このマンションから追い出したいと思っていることもたしかだ。


 乾ホオズキからすれば、ナントカという女は、乾ホオズキに夢の生活を手放せと迫る悪魔の手先であった。


 なので、乾ホオズキはナントカという女の言葉は大体スルーすることにした。


 犬飼は変わらず――乾ホオズキには理解不能な――甘ったるい言葉をささやいて、甘やかしてくれるのだから、遠回しに出て行けと言うこの女の言葉は一顧だにしないと考えたのだ。


 おおむね聞いているフリをして女の言葉は無視した。一応、たまに曖昧に微笑んでみたりした。これは、「あなたの言葉は聞いていますよアピール」であった。そうしないとたまに怒り出す輩がいるのだ。乾ホオズキの処世術であった。


 幸いと言うべきか、女は乾ホオズキに遠回りな嫌味を言うのが関の山で、直接的な手には打って出てはこなかった。なので、乾ホオズキは未だに女の名前を憶えていないのであった。


 乾ホオズキにとって問題なのは、この女よりも世話係の茂田という男であった。接する機会が多いので、さすがに根が怠惰な乾ホオズキも名前を憶えた。


 この男、最近はことあるごとに乾ホオズキにこの夢の生活を手放せと迫ってくる。それがうっとうしくて仕方がないのであったが、茂田から犬飼に「態度が悪い」などと報告されてはたまったものではないので、フリーター時代に培った低い姿勢で臨んでいた。


 なにせこの夢の生活を握っているのは犬飼なのだ。彼に悪印象を抱かれたくない、と思うのはごく自然な流れであった。


 しかしこれが諸刃の剣であるという自覚は、乾ホオズキにはあった。フリーター時代にも接客をしていて妙な勘違いをする輩がポツポツいたので、さすがの乾ホオズキも自覚はあった。


 なので茂田がなにか勘違いをしているらしいことは乾ホオズキも気づいていた。


「でも、そんなことをすれば茂田さんは殺されてしまいます」

「大丈夫ですよ、ホオズキさん。オレにすべて任せて――」

「でも、そんな。私はこのままで……」

「そんな風にあきらめないでください! 必ず、オレがホオズキさんを自由にしてみせますから……」


 乾ホオズキは本気でこのままでいいと思っていたのだが、どうも茂田にはそんな気持ちは伝わらなかったようだ。


 ……ということを、「犬飼が外で会いたいと言っている」と茂田に騙されてマンションから連れ出されたと気づいたときに、乾ホオズキは察した。


「戻りましょう。今ならまだ……」


 乾ホオズキはあせって茂田をせっついたが、茂田は悲しそうな顔をするばかりだ。「そんな顔をしている場合じゃない」と乾ホオズキは言いたかった。このままでは夢のニート生活がパアである。


 乾ホオズキは仕方なく茂田の手を振り払い、マンションがある方角へと走り出した。


 しかし怠惰を極める乾ホオズキがずっと走っていられるはずもなく、ヨタヨタと数メートル走った――と本人は思っている――ところですぐに息切れして茂田に追いつかれた。


「ホオズキさん! どうして――」


「どうしてじゃねえよクソ野郎が」。そんな悪態をつきたかったが、乾ホオズキの口から出てくるのは、ぜいぜいという荒い呼吸だけであった。脇腹が痛くてその場にしゃがんでうずくまる。


 そのとき、ふたりのすぐ横の車道に車が停まるブレーキ音がした。続いて、ドアが開く音が複数響く。


「ああ、こんなところにいたんだね、ホオズキ……」


 頭上から降ってきたのは犬飼の声だった。その声を聞いて乾ホオズキは震え上がった。犬飼との約束を破ってしまったのだ。もし、マンションを追い出されてしまえば夢のニート生活は終わりである。己の顔から血の気が引いて行くのが乾ホオズキにもわかった。


 しかしまだチャンスは残されている。ここで上手いこと弁明すれば引き続き夢のニート生活。乾ホオズキはよろよろと立ち上がって、犬飼と向き合った。


 茂田はいつの間にか乾ホオズキのそばからいなくなっていた。犬飼のうしろにある車の中に連れ込まれていたのを、乾ホオズキもバッチリ見たが、そんなことは今はどうでもよかった。


「ごめんなさい、犬飼さん。勝手に出てしまって……」


 ここで茂田に騙されたと言い訳をするか乾ホオズキは悩んだ。謝罪をするときに言い訳をするのは、たいていの場合より相手を怒らせる悪手だと乾ホオズキはこれまでの経験から認識していた。


 しかし茂田に騙されたと言わなければ、己の意思でマンションを出たと誤解されるのではないか。乾ホオズキは悩みに悩んで、黙り込んでしまった。


「ホオズキは優しいね。あのゴミのせいにしないなんて……」


 乾ホオズキが悩んでいるあいだに、犬飼は勝手な解釈をして納得したようだ。乾ホオズキはどうやら首の皮一枚繋がったらしいことを察して、安堵から涙が自然と浮かぶ。


 犬飼はそんな乾ホオズキを見て目を丸くしたあと、いつかの屋上と同じように乾ホオズキの手を優しく引いて抱きとめる。


「ホオズキ、怖かったね?」

「はい……」


 夢のニート生活が破壊されるところだったのだ。それは乾ホオズキにとっては「恐ろしい」のひとことでは済まない。


「でも、もういいです」


 犬飼は己をあのマンションから追い出す気はないのだ。乾ホオズキにとってはそれだけで万事オーケー。茂田のことはどうでもよかった。


「……ホオズキは優しすぎるよ」


 犬飼は目を細めてそう言ったが、乾ホオズキには意味がわからなかった。意味がわからなかったが、別に彼が怒っているわけではないことはハッキリしていたので、曖昧に微笑んでおいた。


「綾部からも嫌なことを言われていたんでしょう? なのに、黙っているなんて……」

「綾部さん?」


 だれなのか本気でわからなかったため、乾ホオズキはわずかに目を見開くにとどめた。それを見て、犬飼は微笑んだ。


「ううん、そうだね……ホオズキは優しいから。わかってるよ。でも、これからはなにか嫌なことを言われたら、おれにちゃんと言うんだよ?」

「わかりました……」



 その後、乾ホオズキが茂田と綾部の姿を見ることはなかったのだが、彼女にとってはどうでもいいことであった。

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