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 消毒液の匂いのする部屋で、俺はぼんやり白い天井を眺めて溜息を吐いた。

 ハルは荷物を置くと、仕事に戻っていった。「気になるなら、会いに行ってくれば?」という言葉を残して。

 俺がじっとしているとは思っていない辺り、さすがは相棒。けど、今会いに行っても、あいつはそれどころではないだろう。それに俺自身、どんな顔をして会えばいいのかわからない。

「……くそ」

 今日、もう何度口にしたかわからない呟きが漏れる。


 あの時。

 友香から初めて兄の話を聞いた時、もう二度と、知らないことを理由に彼女を傷つけまいと思った。なのに結局、俺は同じ過ちを繰り返している。彼女がどれだけ努力し、どれだけ苦しんで公安長の座を手に入れたか、俺は誰より知っているのに。俺の不用意な発言は、きっと彼女の立場を危うくし、それ以上に彼女を苦しめているだろう。

「何やってんだ、俺……」

「――何だ、随分萎れてるな」

 俺が溜息を吐くとほぼ同時に、気配も前触れもなく扉を開けて現れた彼は、ベッドの上の俺を眺めて眉を上げた。

「そんなに痛むか?」

「……あんた、何でここにいるんすか」

 ずれた問いは、おそらくわざとだ。それを敢えて無視し、質問を返した俺に、彼――指揮官アレク・ランブルは飄々と答えた。

「一通り対応が済んだんでな。負傷した部下を見舞ってやろうかと」

「そりゃ、どーも」

 上官を立たせたままにしておくのもどうかと、椅子を勧めると、指揮官は腰を下ろして俺を眺めた。

「で、具合は」

「骨がくっつくまでは安静、だそうです」

 俺の言葉に、指揮官は「そうか」と短く頷く。

「そっちこそ、どうなんです。俺なんか見舞ってる暇、あるんすか」

「さっきも言っただろ。一通りの対策は済ませたさ」

 見舞いだと持ってきた果物をひとつ取り、ナイフで皮を剥きながら、指揮官は答える。スルスルと、一定の薄さで赤い皮が連なっていく。

「上手いっすね」

「料理は割と好きでな」

「そういや昔、友香に弁当作ってやってたっしょ。やたらデカイ奴」

 初めて彼に会った時、友香が抱えていた弁当のことを思い出してそう言うと、指揮官は軽く中空に視線を飛ばした。

「ああ――あったな、そんなこと」

「あれ、美味かったっすよ。量は異常でしたけど」

「そういや、おまえらも食ってたんだっけな」

「友香が分けてくれたんで。つーかあんな量、あいつ一人で食えるわけないっしょ」

「……若気の至りってやつだな」

 苦笑しながら、さっと切り分けた果物を皿に並べる。ナイフといい、皿といい、マメな人だ。

 ――つーか、この人とこんな風にのんびり世間話をしてるってのも、変な気分だな

 そう思いながら、俺は、ふたつ目の果物を剥きだした指揮官をぼんやりと眺める。


 対策が一通り済んだというのは本当だろう。

 だがおそらく、司令部は今、かなりの大騒ぎになっている。本来なら、今のこの人に、俺の見舞いに来る余裕なんてあるはずがない。それなのに敢えて姿を見せたのは、何か意図があるからなのだろう。

 そしてそれはおそらく、友香に関連したことだ。妙に砕けた口調が、それを仄めかしている。

「――あいつ……どうしてます?」

 訊くにはかなりの勇気が必要だった。気負いで、声が硬くなる。

 指揮官はちらりと目だけを俺に向けた。

「今、警備長の聴取を受けてる」

「……そうっすか」

 返答は、俺の危惧が現実のものになっていることを示していた。聞かなければ良かった、と後悔が一瞬、脳裏を過ぎる。

「心配なら、電話でもしてやってくれ」

 何気なく――本当に何気なく、指揮官はそう言った。

「多分、あいつは自分からは見舞いに来られないだろうからな」

「ああ……」


 そういうことか。


 指揮官が忙しい合間を縫ってまで、ここに来た理由にようやく合点がいく。

 俺を負傷させたのが自分の兄かもしれないと知ったら、それを自分の責任のように感じてしまうのが友香だ。

「――ほんとは、合わす顔がないのは俺の方、なんすけどね……」

 あの男が本当に友香の兄だったとしても、彼が俺に怪我を負わせた責任は、彼女にはない。だが、「シズキ」の名を口にしたせいで、友香を傷つけ、彼女の立場を危うくしたのは、間違いなく俺だ。

 溜息を吐いた俺を、指揮官はちらりと眺めた。

「ひとつ、訊くが」

「……何すか」

「もし静生の名を知っていたら、お前はどうした?」

「……」

 静かだが、逃げることを許さない問いが、まっすぐに俺を射る。それでいて、問いを発した本人は、俺の答えになんか興味ないとでもいうように、ただ静かに果物を切り分けていた。

「ほんっと――やなこと訊きますね、あんた」


 もし知っていたら、と、この数時間、どれだけ考えただろう。

 あの名前さえ言わなければ、と。

 けれど、答えは。


「言う……ん、でしょうね。きっと」

 言葉が途切れがちになるのは、そんな自分がもどかしいからだ。


 友香のことは大切だ。あいつがこれまで必死になって築いてきたものを崩したくなんかない。

 けれど、もしも俺があいつのために、「ランブル」にとって必要な情報を隠したとして。それを知ったら、あの馬鹿正直な娘はきっと、今より一層悲しみ、後悔するだろう。自分の存在が、俺に誤った選択をさせたと自分を責めるだろう。

 だからきっと――きっと俺は、同じように証言して、同じように後悔するんだと思う。


 俺の答えに、指揮官はようやくこちらに顔を向け、穏やかに笑った。

「それでいい。お前は、間違ったことをしたわけじゃない。だから気にするな」

 ――……ったく、この人は

 友香の心配をして来たのかと思いきや、俺の方まで心配してくれていたらしい。

 全く、どれだけ懐が深いんだか。まあ、それ位でなけりゃ、この大きな組織の長なんて務まらないんだろうけれど。

 そんな風に思ったら何だか不意に、笑いがこみ上げてきた。

「んっとに、あんたって……」

 唐突に笑い出した俺を、指揮官は呆れたように眺めた。

 少し憮然として見えるのは、おそらく照れているんだろう。そんなところに、俺と同じ年の普通の男の素顔も見えて、それがまた笑いを誘う。

「あんまり笑ってると、また骨やるぞ」

「そうっすよね……あー、いてえ」

 ぴきぴきと軋む肋骨を押さえながら、それでも笑いのおさまらない俺に嘆息して、指揮官はするりと立ち上がった。

「そろそろ戻る。安静にしとけよ」

 さっき、友香に電話掛けろとか言ってたのはどの口っすか。

 ツッコミを入れたいが、まだ腹筋がひくひくと痙攣していて、言葉が出ない。代わりに、了解の意を示すため軽く手を挙げた俺に頷いて、指揮官は踵を返す。

「――指揮官」

 扉を開けたその背中が廊下に消える直前、ようやく声を出せるようになった俺は、軽く上官を呼ぶ。何だ、と言いたげに振り返った彼に、俺は告げた。

「ありがとうございました。おかげで、ちょっとラクになりました」

 その言葉に、指揮官はほんの僅かに瞠目し、

「――ばぁか」

 少し照れたように微笑むと、そんな一言を残して立ち去った。

 俺はと言えば。不意に素に戻った上官の思いがけない表情に、おさまったはずの笑いが再びこみ上げてくる。

 何つーか、ああいうところが狡いよな、あの人。憎めないっつーか。

 そんなことを思いながら、俺は、何と言って友香に電話を掛けようか、考え始めていた。


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僕らの道 きょお @Deep_Blue-plus-

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