それは夜の帳が下りた祈りの町

唯月湊

それは夜の帳が下りた祈りの町

 冴え冴えと蒼月の照るその街には、新芽の芽吹く春が来ない。いつでも街を吹き抜ける風は肌を刺すように凍てついており、湖には薄い氷が張る始末。息を吐けば白く漂い、髪にも隠せず外へ出た耳はそのままにしていれば縁からキンと痛みだす。

 そして、春が来ないだけではなく。この街には陽光降り注ぐ昼がない。

 この街は夜の帳に包まれ、凍える冬が支配していた。


 これがいつの頃からなのか、知るものは誰もいない。

 古い古い書物には、この森の奥の閉ざされた街にも静かな月が沈み草木の目覚める朝が、まばゆい陽光の降り注ぐ昼が、夜と昼の混じり合う夕暮れがあったらしい。

 けれど、その書物が書かれた時に生きていたものはとうに冥界へと旅立っていた。


 これは、まだ空を飛龍が駆け、森には妖精が棲み、人々の隣には魔法が存在していた、遙か昔の話。


「一度、昼の世界がみてみたい」「移ろう季節を焦がれている」

 そう人々が思うのは当然のこと。そうしてこの街を出て森へ入った彼らは、二度と戻っては来なかった。外の世界で楽しくやっているのかもしれないし、お伽噺の狩人や勇者に退治されてしまったのかもしれない。

 所詮、我らは「人間」から狩られる獣人ライカンスロープ。人でなく獣でない。その狭間で生きることに誇りと矜持を持つ種族。この町は、獣人たちの生きる場所だった。

 例に漏れず、少年――ラルガもそのひとり。けれど彼の耳は他のものとは違ってぺたりと頭に沿うように寝ているぺた耳だった。ピンと立った耳に憧れていろいろ試してみたけれど、効果はなく今では諦めている。ぺた耳の獣人はラルガひとりで、ちょっとさみしい気がしていたのも昔の話だ。


 ラルガはいつものように町を周り、街灯の火を確認する。

 この町は夜の町だ。街灯の火は時間も関係なく焚かれている。その灯火の番をするのが、ラルガの仕事だ。弱まっている所があれば火を入れ直し、強くなりすぎれば少し火を鎮める。近くに草屋根の家があれば、火から光の星屑に変えるのも忘れない。そう広くもない町だから、ラルガひとりで面倒を見ることが出来る。

 森との境の町外れ。けれどラルガの家からは一番近いその灯火へ近づいたそのときだった。

 尖った街灯の上に、羽の生えた靴があった。当然、そんなものはいつもならあるはずがない。忘れ物をするには、少々位置が高すぎる。ラルガはぱちくり目を瞬かせ、視線を上へとあげていく。

 羽の生えた靴にポケットがたくさんついたパンツ、丈の短い外套をまとった少年が、街灯の上に立っていた。そして、こちらの視線に気づいたらしい。

 ばっちりと、目が合った。

 見たことはない少年だった。なんと声をかけて良いのか、お互いに測りかねた。

「……いい晩だね?」

「……いつもと変わらない、けど?」

 トンッと踏み切ればパタパタと羽根靴が羽ばたき、地面へ足をつく頃には畳まれ羽は小さくおさまっている。同じ目線に立ってみれば、背格好はラルガと同じほどだった。彼が自分の髪をくるくると指でいじれば、ひょっこり現れたのはラルガと同じぺた耳だ。

 思わずマジマジと見つめてしまったが、不思議そうに彼はこちらを見ている。

 そのうち、彼は「はじめまして」と笑った。

「僕はファウラ。きみ達「冬の夜に眠る街」の住人へ、春を告げにやってきた」

 ふさふさのぺた耳に薄青色の髪をした彼は、にやりと笑ってそう告げた。自信に満ちたその言葉へ、ラルガはただ、まじまじと彼を見つめることしかできなかった。


 トントン、とドアノブを叩けば鍵が開く。誰もいない家の中はすっかり冷え込んでいた。白い息を吐きながら居間へと向かい、くるくると指を回してパチンと指を鳴らせば暖炉に炎が入った。ゆっくりと部屋を温めていく。

 ファウラは鞄の中から楕円のランプを取り出した。彼が何事かをぽそぽそ呟きそっとなぞれば星屑のような光が灯る。「好きなんだよ、ランプ」と彼は楽しげにその星屑を眺めていた。

 この家に照明は置いていない。夜目が利く獣人にとって、ランプは必要ないからだ。この町でランプを見るのは、それこそ嗜好品や観賞用だ。

 そんなに大したものは出せないよ、とラルガは言ったが、おかまいなく、とファウラはニコニコ笑っている。なんだかなぁ、と思いながら、鍋を火にかける。パンを数枚切り分けて、炙るために串に挿して暖炉にひっかけた。

 床下の収納からいくらか野菜と肉を取り出して、野菜は水でさらして木の器の上へ。くるくると再び指を回し、パチンと指を鳴らせば取り出した肉は炎に包まれ、それが消え失せる頃にはこんがりと焼きあがる。適当に切って先程の野菜の上へ盛り付けた。

 最後に、あぶったパンを引き上げてバターを落とした。みるみるうちにじんわりと溶けていく。そこへ蜂蜜をたらせば、染み込んだバターの海に黄金色の満月が浮かんだ。

 食材は数日分まとめて持ち帰っているから、少しくらいの余裕があるのは幸いだった。

 わくわくと目に見えて期待している彼の前へ盛り付けた皿を出して、ラルガは席について手を合わせた。彼もそれに倣うように両手を合わせて今日の命へ感謝を述べた。

 けれど、それが終わればガラリと態度が変わる。ばくばくとすごい勢いでパンにかぶりつき案の定喉をつまらせ、流し込むようにスープを飲み干せばファウラはようやくホッと息をついた。

「いやあ、温かい食事なんて久々だ。ありがとう」

 そう快活に笑う彼を、不思議な目でラルガは見つめるより他になかった。その視線に気づいたのか、ごそごそとポシェットから取り出したのはビスケットのような長方形の塊。

 食べてみるかい、美味しくないよ、と渋い顔をする彼の手から、その塊を貰い受ける。この町では見たことがないものだった。恐る恐る口に運べば、がり、と砂を噛んでいるような食感に、甘くもなく苦くもない、なんとも言えない味が広がった。

 思わず顔に出ていたらしい。ケラケラと彼は笑った。携帯食料だよ、と彼は言う。

「きみは、どこから来たの?」

 この街はそこまで広くもなく、人口もそこまで多いわけではない。街の七割くらいは顔見知り、と言っても過言ではないのだ。そしてファウラの格好もここでは見慣れないものだった。袖のない前で留める、丈が短いマントは旅人の象徴だ。

「森の向こう、ずっと遠いところから。無事にたどり着けてよかったよ」

 案内人は誰もいなかったからね、とラルガの淹れたお茶を飲みながら彼は続けた。なかなかに長旅だったようだ。

 僕からも聞かせてよ、と彼は好奇心に満ちた笑みを見せた。

「この町の人たちは、みんなラルガみたいに魔法が使えるのかい?」

 ファウラのいた町では、魔法が使える者と使えない者はおおよそ半分ずつだったらしい。しかも、魔法を使うには呪文を書いた札を用意するとか、呪文を長々口ずさむとか、そうした準備が必要で、先程ラルガが行ったように、ものを叩くだけとか指を鳴らすだけで思う魔法が使える人間はほとんどいなかったそうだ。

 ラルガの住むこの町では逆に、そうした準備をして魔法を使う者の方が珍しかった。それこそ呼吸をするように、何かしらの魔法は使えていた。言葉を話せるようになったくらいには、必ず。

 それを告げれば、ファウラは「ふぅん」と少し視線を宙に放り、そのうちふぁあ、と大きなあくびをした。お腹がいっぱいになったら眠くなってきた、とファウラは笑う。

 その日から、ファウラはラルガの家に居候をするようになった。めったにいない来訪者のための宿は、この町にそう多くない。そちらに行けと追い払っても良かったけれど、別に誰かがこの家に帰って来るわけでもなければファウラを嫌っているわけでもない。結果として、ファウラの言う「春告げの日」までの共同生活が始まった。


 ファウラがこの町にやってきて、三月が経っていた。

 彼は旅の合間に買い付けた宝石を売る鉱石商をしていて、音を覚える「海鳴石」や水を清める「星嶺石」など、噂話にしか聞いたことのない鉱石をたくさん持っていた。

 そんな彼が、とうとう。「そろそろ終わりにしようか」と、ラルガを森へ誘った。

 日が昇らぬこの町の者達に、実りをもたらす豊穣の森。何一つ不自由はない。けれどこれは外と隔絶するために広がる森だという。外へ向けてはどれだけ歩けど人を惑わす魔法がかけてある。それが分かるのは、この町ではよそ者のファウラだけだった。

 そんな森を、まるで目的地が見えているかのようにファウラは歩いて行く。ラルガはそれについていくだけだ。

 そうして歩き続けた森の奥。今まで歩いてきた森がその視界の先にも続いていたけれど、ファウラはそこで足を止めた。すっと手を前に差し出して、何事かをぶつぶつと呟いた。足元に光が走り大きな陣が描かれる。揺らめくように光が舞い、ふわと纏う外套が風をはらんだ。パリンパリンと玻璃を割るような音がする。森の色が少しずつ、周囲と変わっていく。

 宙を掴み、ファウラはその手を引いた。薄いヴェールを引き取るように、ふたりの眼前の景色が切り替わる。

 そこに現れたのは、大きな洞窟の入口だ。どうやら、地下に降りるようにつながっているらしい。ファウラはいつも鞄の中に入れているランプに星屑の光を詰め灯りとし、下へとふたりで降り始めた。


 洞窟の最奥は、一面ピンクの花に染まっていた。息も詰まるほどの魔力の渦が、素養のないラルガにもわかったほどだ。魔力に根ざして成長し、花を開いて霊石を実として落とすその花は、ラルガ達の腰ほどまで成長していた。なるべく手折ることがないように、ゆっくりだがどこか急くように草原の内側へ入り込んでいく。

 そうして、ちょうどこの草原の中央あたりにたどり着いた。

 そこにいたのは、否、あったのは、かつて人であったことがまだかろうじて分かる躯。どろりとその身体はとろけ骨まで見えているような有様だったが、抱え込んでいたらしい大きな霊石とひとつになって絶命していた。

 不思議なくらいに、美しかった。

 隣に立つファウラは、静かにその両目を閉じた。

「これはね、彼女の祈りの結果、なんだよ」

 古い古い話だよ、と彼は昔語りを始めた。


 天地を動かせるほどの魔力を持った、稀代の魔女――ルクシエール。その魔力は死を遠ざけ永久に近い命を彼女に与えた。

 その力を使えば少なく見積もっても世界の半分は軽く支配も出来ただろうし、魔法の神秘を書き記すことも知見を広めることも、知識を共有はできずとも享受することは出来ただろう。けれど彼女はそれをいずれもやらなかった。彼女には魔術師らしい野望がなかったのだった。

 ただ人としてこの世界に生きて、ただ死んでいきたかった。

 あまりにも、彼女は「平凡な少女」に過ぎなかった。

 ひどくゆっくりとしか歳を取らぬ彼女が、ようやく年の頃と呼ばれる程度の見た目になった頃。手負いの獣ならぬ、手負いの獣人と出会った。

 ルクシエールがその時とどまっていた街は、生粋の人間であることを良しとしたある種の排他的な街だった。今でこそそんな街はあまりなくなったが、かつてはそう珍しいことでもなかった。

 ルクシエールは学ぶことが好きだった。異種族であれども会話が出来る程度の語学力は持ち合わせていた。

 その獣人は、獣人の中でも少し力の劣る者だった。獣人とは満月の夜だけ人の姿へ変身できず、獣の姿に戻るとされている。けれど、その獣人は毎夜ごとに、獣の姿に戻る。

 ルクシエールとこの獣人が出会ったのもそんな夜。本当なら昼のうちにこの町を抜けてしまうつもりだったのが、迂闊にもその正体がバレて、追われた先の街角だった。

 死地に半分足を踏み入るほどのケガをしていたその獣人を、家へ担ぎ込んでから数日。獣人の居場所を隠し匿って、傷を癒やすには十分だった。

 始めのうちは、警戒心も顕にルクシエールの運ぶ食事も一切を受け付けず、呪うように恨むように、唸り声を上げ彼女を睨んでいた。けれどその獣人に対する彼女の感情は、一切変わることがなかった。

 彼女自身も、かつては人との違いに迫害を受けた経験があった。その獣人の気持ちは、ある程度の理解が出来ていた。

 その獣人の傷がすっかり癒える頃には、二人の関係はただのけが人と介護人というつながりを超えていた。単純と言われるかもしれないが、つながりなどそんなものだ。

 ルクシエールは彼と共に旅に出た。獣人の寿命もふつうの人間よりは随分と長いものだ。連れ合いがいれば様々な目も隠せる。夜ごとにルクシエールが魔法をかけて、獣人であることを隠しながら、そして己は稀代の魔女であることを隠しながらの旅だ。時折困りごとを気まぐれに解決し、代わりに便宜を図ってもらい滞在して、と各地を流れた時間は、長い長いものだった。

 そうして、獣人がその天寿を全うしたその時に。ルクシエールの腹には新しい命が宿っていた。大事に大事に、その生命を育んだ。

 産まれたのはふたり。ただそれは少しだけ偏っていた。ひとりは、夜になるとうまく変身が出来ない獣人の子、ひとりは強大な魔力を受け継いだ人の子。親と同じような、一対の双子だった。

 ふたりをつれて、これまでのようにまた流れることも出来たであろう。けれど、彼女はそれを選ばなかった。子ども達のために、出来得る限りの「優しい町」を作ろうとした。

 姿を偽らずとも済むように、夜の時間を長くした。これまで出会った獣人達へ、魔術師達へ、そんな町を作った、と密かに伝える手紙を書いた。生きづらさを感じる人々は多くいて、彼女の魔法を頼って集まった。そうして村が町になり、密やかな共同生活が始まった。

 ふたりの子どもの片方、獣人の血を濃く受けた片割れは、ルクシエールとともにこの町に生きた。魔力を受け継いだ片割れは、この町が切り取られるその前に、ひとりこの町を去ったという。

 周囲の世界とその町は時間が徐々にずれていく。つじつまを合わせることも出来たけれど、ルクシエールはこの町を箱庭のように結界で切り取った。この町が、好奇心だけの人の目に触れたくなかったということもある。

 いくら強大な魔力を持っていたと言っても、町ひとつを永遠に囲い時間を操るなど人知を超えた話であった。それは彼女の生命を代償に成し遂げられた奇跡。彼女自身、それは十分に納得済みの話であった。

 切り取られたこの町にはルクシエールの魔力がこもった。この町の人間が皆呼吸するように魔法が使えるのも、彼女がこの町だけを切り取ったせいだった。大気に満ちた潤沢な魔力がこの町の人々に力を与えた。

 囲われている中に、獣人以外の何者かがいると気づくためのかけらはいくつかあった。ラルガが毎日面倒を見ている町の火もそのひとつだ。本当に獣人だけの町ならば、街灯などいらない。

「この町の外では、今いろんな動きがあってね。みんな目の色を変えて、ルクシエールの『遺産』を探してる。彼女がかつて使った「意志宿る道具」の数々とか、彼女の子ども達とか。僕は、それにこの町を巻き込みたくなかったんだよ」

 彼女には、安らかに眠ってもらいたいからね。そう、ファウラは呟いた。他の人間に見つかれば、きっと戦に引きずり込まれることになっただろうから、と。

「……ファウラ。きみは、この町を、どうするの?」

 彼は始めにこう言った。この町が冬に閉ざされた理由は、月しか昇らぬ夜のせい。世界から切り取られた箱庭のこの町が朝を迎えれば、自ずと春はやってくると。

「この草原を、水に沈める。きれいな池になると思うよ。魔力もそれで漏れ出さない。――もう、この町が夜じゃないといけない理由はないからね」

 そろそろ、終わりにしてもいいだろうとファウラは言った。


 先にラルガを歩かせて、あとからゆっくりとファウラがついていく。彼が歩くそのたびに、ぱしゃりぱしゃりと水音がし始めた。草原は沼となり、水が溜まって池となり、みるみるうちにその草原は水の底へ沈んでいく。霊石となった、ルクシエールの遺体と共に。

 かつてルクシエールが目くらましに封じた、そのとおりに入口を塞ぎ直す。外は、ちょうど月の沈んだところ。しばらくすれば、また月が上り静かな夜がやってくる。いつもなら。

 ラルガは誘われて屋根へと上がった。森の向こうは見渡せないが、それでもいつも月の昇るところは屋根の上から見られたから。

「ほら、ラルガ。長い永い、夜が明けるよ」

 いつの間にか、眠り込んでしまっていたらしい。ファウラに揺り起こされる。

 森の向こうの空が白み始めていた。いつもは、満月の昇る空。こんなことは初めてで、この町に生きる皆が、ざわざわと興味と不安を胸に抱き、その空を眺めていた。

 温かく爽やかな、春の風が吹き抜ける。噂に聞いた太陽は思っていたよりもひどく眩しく、直接その目で見ることは出来なかった。「太陽は直接目をやるものじゃあ無いよ」と、ファウラが隣で笑っていた。月ほど静かに輝くものではないからね、と。


 朝日がのぼったことで現れたこの町の「本当の姿」は、ラルガの思っていたよりも少し変わった場所だった。

 ある人は、己の身体が保てなくなって薄く消え去っていった。とうに寿命は過ぎていて、時間が止まっていたからとどまっていた、夜しか存在のできない霊体だったらしい。けれどまだ冥界へ旅立ちたくはないから、夜になったら戻ってくるってさ、とファウラがラルガに聴けぬ言葉を通訳した。なんでも、ファウラの特技のひとつらしい。「死者の声を聞く」こと。ここへ来たのも、きっかけは死者の声を聞いたからだったそうだ。

 またある人は、耳が引っ込み本当の人間と変わらぬ姿に成り代わった。「満月の夜」にのみ獣の姿が現れる獣人らしい変化だった。ラルガも同じだ。耳はすっかり隠れてしまった。生まれてこの方、初めてのことで少し落ち着かない。ひとまず、ちゃんと音が聞こえるので安心した。

 けれど、ファウラの耳は変わらなかった。何となく、その理由は分かっていた。

 夜目が利くはずなのに暗い場所へはランプや灯火を必ず持ち込み、この町のしくみを知り尽くし、稀代の魔女とうたわれたルクシエールと同じように場所を閉ざすことが出来る人物。果たして彼が、何者なのか。

 きみも気づいているだろ、と、ファウラは己の毛先をくるくるとその指でもてあそんだ。すると、ようやく彼の頭にあったぺた耳は姿を消した。

 旅人だからただでさえ目立つのに、ただの人間だと知られればどうなるかも分からない。だから、町に入って初めて出会った獣人の耳を参考に、その身を変えていたのだという。

 まさか、初めて会った相手が特殊耳だとは思わなかった、と彼は笑った。獣人の資料はたくさん残っているし、はるか昔に共に暮らしたこともある。けれど実際に自分の頭に生やそうと思ったら、きちんと見てイメージしないと無理だった、とファウラは言った。彼曰く、魔法はイメージで作り上げるもの、なんだとか。

 太陽がのぼったこともさることながら、周囲の人々の姿形も変わってしまったその事態に、町は騒ぎになり始めていた。

 さて、そろそろ行こうかな、と彼はふわりと屋根から降りた。この町は、もう春を待つだけでいい。だから僕はそろそろ行くよ、と。

「次は、どこにいくの?」

 問いかけに答える代わりに、「ないしょ」と人差し指を口元に立てて、彼は笑う。

 そのどこか得意げな、からかうような笑顔を残して、光に包まれ彼はこの街を去った。


 この町に陽の光がやってきてひと月経った、とある夜。ファウラと初めて合った、あの日を思わせる冴え冴えとした月の輝く夜だった。

 ラルガは一通りの荷物をまとめたリュックを背負った。本当なら朝のほうが良かったのかもしれないけれど、やはりまだ夜のほうが過ごしやすい。もう外へ出ることを咎める森もない。ラルガの興味が外の世界へ向いたのは自然なことだった。

 生まれ育った町を一度振り返り、ラルガは森の先へと歩みだした。


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