第16話

 おびただしい血が流れた。父の瞼はぴくりとも動かず、眼球が虚空へ見開かれている。口がだらしなく半開きになっていて呼吸音が絶えたかと思うと、唇の端からよだれが一筋垂れていた。そうして私達は三人で父が事切れるのを見守っていた。


 最初に口をきったのはユウビだった。私の身体を優しく撫でさすりながら、


「大丈夫よ、心配いらないわ」


 と耳元で囁いた。


「ユウビ……」


「私がついてるから、なにも心配しなくていいのよ」


 まだ手のひらには渾身の力をこめて父に刃を突き立てた感触が残っている。包丁が皮膚を破り、肉を貫く固い手ごたえだ。


 信じられなかった。こんなにも簡単なことだったなんて。なんてあっけなかったのだろう。そして、なぜもっと早くにこうしておかなかったのか……。


「岡田さん、物置にシャベルがあったわね」


「え、ええ……」


「ソウメイ、足持って」


「えっ?」


「早く」


 ユウビがあんまり事務的にてきぱき指示するので、私はいくぶん正気を取り戻しつつあった。気がつくともうユウビは父の両脇に腕をさしこもうとしているところで、私は弾かれるように父の両膝を両腕に抱え込んだ。


 父の身体はとんでもなく重く、私達はほとんど引き摺るように廊下をまたぎ、座敷を抜け、庭へ父を運び出した。


 縁側を降り、庭の土の上に投げ出すように父を転がした時点で二人とも汗びっしょりだった。


 ユウビははあはあと荒い息を吐きながら、

「なんでこんなに重いのよ」

 と呟き、忌々しげに父を蹴った。


 それから必死で父を引き摺りながら桜の下までくると、ちょうど辿った跡に血痕が一直線にひかれていた。


 私がそれに視線を注いでいるのに気付くと、ユウビは事も無げに、


「雨が降ればこんなもんすぐ消えるわ」


「そうね……」


「シャベル取ってくる」


 庭を風が渡っていく。月が低く出ており、銀色の光りを放っている。庭の椿の花が首ごとぼたりと落ちるのに私はどきりとした。


 戻ってきたユウビは、


「こんなのもあったわ」


 と言って、シャベルのほかに鍬を手にしていた。


「深く、うんと深く掘らなくちゃね」


 私は頷いた。


 ユウビはシャベルを私は鍬を手に桜の根方を掘り始めると、辺り一面に湿った土の匂いが充満していった。


 ユウビは力強くシャベルを使い、ざくざくと掘り進み、


「ソウメイ、包丁を抜いてよ」


 と指示をした。


「……うん」


 私は言われるままにしゃがみこみ、父に刺さったままの包丁を掴んだ。簡単に抜けるのかと思ったが意外と締め付けるような力がかかっていて、えいやと引き抜くとぱっと血が噴出し、私の頬を濡らした。


 穴を掘るのにどのぐらいかかっただろうか。最後は穴から出るのに互いの手を借りなければ出られないほどで、掌の皮はやぶれ血が滲み、二人とも全身泥だらけ。その上、私は返り血まで浴びていて、戦争映画にでも出てきそうな状態だったが、かなり深い穴ができあがった。


 真っ暗で、吸い込まれそうな冷たい穴だった。この世の果てに繋がっていそうな、まさに地獄とか魔界を思わせる穴。悪寒が走るのは夜の空気のせいだけではないと思った。


 私達は父の身体をその穴に落としこむと、今度は穴を埋め戻しにかかった。


 ユウビは父に容赦なく土をかけていく。私もその上から土を落とす。身体の上に、顔の上に黒い土が次々と落とされ、父を覆い尽くしていく。もう何も恐れることはないのだ。私は自分に言いきかせる。


 と、不意にユウビは手を止めると、

「ソウメイ、岡田さんをどうする?」

 と尋ねた。


「どうって……」


 私は家の方を省みた。ユウビが何を言わんとしているのか即座に理解すると、私は慌てて首を振った。


「だめよ。岡田さんは、だめ」


「でも……」


「大丈夫、あの人は裏切らないわ」


「……」


「絶対に」


「なんで分かるのよ」


「私には分かるのよ」


「だから、なんで」


「あの人が私達を育てたからよ」


「……」


「お父さんじゃなくて、私達に必要だったのは岡田さんだけだった。そうでしょう? あんたをかばってくれたのも、岡田さんだったじゃない。あの人だけが私達の味方なのよ」


 ユウビは微かに不服そうな顔をしたが、


「そうね……」


 と頷いた。私は急いで穴をまた埋め始めた。


「でも岡田さんはこれからどうするつもりなのかしらね」


「分からないわ」


「ソウメイの言ってることは分かるけど、ねえ、考えてもみてよ」


「なによ」


「あの人って、一体何者なの?」


「……」


 ユウビはこれまでについぞしたことのない疑問を、それも実に根本的な疑問を口にした。


「……聞いてみればいいわ」


「ソウメイ、分かってると思うけど……。もしあの人が裏切るようなことがあったら……」


「分かってるわ」


「庭中が死体だらけになるわよ」


 私とユウビのどちらが残虐だろうか。どちらが劣悪だろうか。頭の芯がまだ痺れている。


 確かにユウビの言うことも分かる。このまま岡田さんを生き残らせるのはそのまま私達の破滅を意味する。それでも私は岡田さんまで埋めるような真似はしたくなかった。むしろ、岡田さんを生き延びさせることによって私達のしたことが露見するならば、それでいいのだと思った。それこそが本当の意味での、この世界の終焉となる。私が心の底で願うのは、結局はそういうことなのだ。


 岡田さんの素性が気にならないといえば嘘になる。ユウビの言う通り、この無口な人の生い立ちや、父の下でこんなにも長く仕えてくれたことにはなにか事情があるに違いない。殺すとしたら、それを聞いてからでも遅くはない。


 元通りとはいかないまでもとにかく穴を埋め、父の埋まった土を踏み固めると、私はふらふらと地面に腰を下ろした。ユウビもそれに倣って隣りに座った。


 ユウビはポケットから煙草とライターを取り出すと、大きなため息をついて煙草を咥えた。


「……お父さんもまさかソウメイに殺されるとは思わなかったでしょうね」


 ユウビはそう言って、ひっそりと笑った。


「あんなにお気に入りだったのに」


「お気に入りはユウビでしょ」


「なに言ってるの? お父さんはいつもソウメイばかり贔屓してたじゃない。ソウメイは頭がいいとか、気が利くとか、さ。それに比べて私なんて、馬鹿だの間抜けだ

のさんざんだった。美しくて頭の悪い女は娼婦になるしかないとか、ひどかったわ」


「嘘よ。お父さんはユウビの方が可愛いとか綺麗だとか、才能があるって言ってたじゃないの。私のことなんて無愛想で情緒がないとか、繊細さの欠片もないとか言ってたわ。せいぜい一人で生きていく力を身に付けろって」


「……」


「……」


 私は土の上に身体を倒すと、死んだように目を閉じた。


「終わったわね……」


 そう呟くとユウビが小さく頷いた。


 終わりというのがこの孤独な葬列なのか、この世界の終焉なのかは我ながら量りかねたが、口にするとその言葉の重みととてつもない開放感だけが体中に染み渡るほど感じられた。


 疲労困憊して家に戻ると縁側に岡田さんが立っていて、バケツにお湯を入れ雑巾とタオルを用意していた。


 私達はそれで手足を洗い、部屋に上った。私がめちゃくちゃに粉砕した食器やガラスは片付けられ、鍋やボールも棚に戻されていた。血痕も拭われてはいたが、まだ完全に綺麗には拭けておらず赤黒いシミをあちこちにつけていた。


「二人ともお風呂に……」


「ええ、そうね。ありがとう」


 不思議なことに、あの惨事の最中にあってやっぱり鮨桶が無傷でテーブルに鎮座しているのがなんだかおかしかった。私は急に空腹を感じた。無性に食べたくて仕方ない。食べて食べて、食べ尽くしてしまいたい。それは父に向けた瞬間的な殺意よりも強い衝動だった。


 岡田さんはひっそりと微笑むと、子供の頃そうしていたように私達を風呂場へ追い立てた。


「さ、早くお風呂に入ってください。洗濯物もそのまま籠にいれていいですから」


「……岡田さん……」


 私は何か言おうとして言葉を探した。何を言えば、どんな言葉で。その戸惑いを岡田さんはそっと静かに頷いて封じた。そして言った。


「心配はいりません。私はこれからもここでお二人のお世話を続けるだけですから……」


「……どうして……」


「それが亡くなった奥様の遺言だったからです」


 私とユウビは咄嗟に顔を見合わせた。奥様というのがこの場合私たちの母親を指していることは明白であり、そして私たちは初めて聞く言葉でもあったから。


「あなたは、一体、どうして……」


 ユウビが動揺しながらも警戒心を露わにした強い瞳で岡田さんを睨みつけた。


 しかし岡田さんはそんなことまったく意に介さず「さあ、お風呂へ」と私たちを促し、


「……長らく口止めされてきましたけど……。私も双子なんですよ」


「……」


「奥様と私は、双子の姉妹だったんです」


「嘘よ!」


 ユウビは悲鳴のように叫んだ。


「そんなこと、嘘よ! どうして、そんな、そんな……」


「似てないから信じられない?」


 岡田さんはふと笑った。唇の端をちょっと歪めて見せるようなシニカルな微笑みで、私は岡田さんがこんな表情を見せることの方に驚いていた。


 いつも献身的で控えめで、無口で従順であった岡田さんからは想像もできない冷たい微笑だった。


「いくら双子でも違う環境で育てばそう似るもんでもないんですよ。それに、あなた達お二人は気づいてないかもしれませんけどね、あなた達だってちっとも似てないじゃないですか。その理由は分かっているはずですよ」


「……」


 そうだ。私たちは同じ環境下に置かれながらも異なった教育、異なった人格形成をされてきた。私とユウビはお互いの顔を見る。


 ユウビは奥歯を噛みしめるように唸るように、呟いた。


「私は信じないわ……」


 ユウビがそう言うのも無理はなかった。私たちにとって母親というのは天使のような、妖精のような遠く儚く、美しいだけの存在だったから。それが急に「片割れ」が生まれた時から密やかに傍にいたなんて信じたくはない。


「姉が亡くなる前に私に頼んだのです。あなた達二人を守るように。ですから、私はその約束を果たす為にここにいたのです」


「じゃあどうして辞めようとしていたの」


「……あなた達にもう私は必要ないかと思ったので」


「……」


「外の世界に出て行こうとしているんでしょう?」


「……」


「……でも、やっぱりあなた達はここから出ることはできないのかもしれないわね……」


 岡田さんの目から涙が一粒零れた。


 悪天候のグラウンドで野球をしてもここまで汚れまいというほど、私達は泥まみれになっていた。ユウビは一緒に風呂に入りながら、爪の中にまで入りこんだ泥を落としながら言った。


「死体が腐って骨だけになるのにどのぐらいかかるのかしらね」


「……一年ぐらいじゃないの」


 浴槽の中で手足をゆったり伸ばすユウビの裸はやはり私と寸分違わぬ同じもので、運命とかいうものがあるならばこれがそうなのだと思った。


「ユウビ、あの男はどうするつもりなの」


「どうもしないわ。私達これから自由なのよ。ねえ、ソウメイ、そうでしょう? もう誰にも何も言わせない」


 そう言って笑うユウビをよそ眼に私は髪を洗い始めた。自由だって? そんなわけあるものか。そんなもの、この世には存在しない。何かの影響を受けないわけにはいかないし、また、受けた影響から逃れることも難しいだろう。私達は結局永久に父の影に脅かされ続けなければいけない。


 もし本当に自由になりたいのなら……死ぬしかないだろう。それを望むならば私がこの手でユウビを殺し、埋めてやらなければ。ユウビはそれでも自由を望むだろうか。


 髪を濯ぎながら私は心の中で、そういえばあの桜の下にカナリアを埋めたはずなのに、どこにもそんなものはなかったな……と考えていた。


 了

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桜の木の下には 三村小稲 @maki-novel

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