第15話
合格発表をわざわざ見に行かなくてもいいというのは、いくら遠くの受験生への簡便さの為とはいえ結局は臆病者の為にあるような気がしていた。渡されたパスワードでアクセスすれば自分の合否を知ることができるということは、わざわざ出向いて目の前であの白い模造紙を貼り付けた掲示板に傷つけられることを拒むことができるという配慮でもあるのではないだろうか。
なににせよ、私はその日すぐに自分が合格したことを父と岡田さんに伝えた。
「ああ、よかった! おめでとうございます」
岡田さんは心底ほっとしたように言った。
「でも首席じゃなかったわ」
言いながらちらりと父を見やる。父は若い頃にイギリスから持ち帰ったという繊細で凝った模様の描かれたカップで紅茶を飲んでいて、「ふむ」と小さく唸った。決して実用的ではない美しいだけのカップは私たち双子のようなものだ。
岡田さんが嬉しげに、
「今晩はなにをお作りしましょうか、先生?」
と父に尋ねた。
私は岡田さんの喜びようをまるで本当の母親のようだと思った。そして目の前にいる実の父親ときたら、どうだろう。
父はしかつめらしい顔で、
「受かって当然だろう」
「……」
「首席じゃないのは残念だったな。まあ、でもいいさ。卒業の時に一番になればいい」
「……そうね」
「ソウメイ、今日は好きな物を食べなさい」
受かって当然、か。私はその言葉を口の中で反芻する。いつもそうだ。私が何をしても、どんな結果を残してもすべて当たり前なのだ。父は努力というものを馬鹿にしている。そういう人なのだ。
誰も知らない。私がもうずっと長いこと「一番」であるためにどれだけ苦労してきたか。子供の頃から怯えるように勉強してきたことを。血の出るような努力を。すべては父の望みを叶えるために。そうしなければ私には存在すること自体が許されなかった。
優秀であること、聡明であることが「当たり前」で、評価するようなことではない。それがどれほど私を傷つけてきたか、誰も知らない。
「お寿司が食べたい」
「あら、じゃあ……」
岡田さんが父を見やる。父は頷くと、
「注文しておきなさい」
と言った。
「では七時にお願いしておきます」
岡田さんは一瞬困惑したような視線を私に投げた。私はその視線の意味を瞬時に理解することができた。岡田さんは、お鮨を何人前注文すればよいのかを迷っているのだろう。ユウビがいれば四人だが、いなければ三人。でもユウビが戻ってきたらやっぱり四人。
私は静かに目を伏せて、頭を振った。岡田さんもそのジェスチュアを察したのだろう。ゆっくりと、無言で頷き返した。
午後から私は合格の報告をする為、制服を着て学校へ出向いた。
自分が絶対に何をしても褒められないことを考えると、どうしてもユウビのことを思わずにはおけない。初めての発表会で褒めそやされ、父に愛撫されたユウビ。コンクールで賞をとる度に賞賛されるユウビ。七五三での着物がよく似合うと言われ、お呼ばれの席に出るときのよそゆきが、ドレスが美しいと言われていたこと。それから、扉の開け閉めから、靴の脱ぎ履きまで事細かに注意され、笑い方、話し方を父の気に入るように仕向けられてきた私の片割れ。
ユウビが羨ましかったわけではない。いつも不思議でたまらなかったのは、私とユウビの何が違うのかということだ。
ユウビが男と逢引きしていた事実は父のプライドを引き裂いたのだろう。父はもうユウビなどこの世に存在しないかのような態度だ。
先生や登校していた幾人かの生徒におめでとうを言われ、私はようやく心を軽くし微笑んだ。外の世界では誰も「当然だ」などとは言わない。私に向けられるのは賞賛のみだ。世間というものは俗に厳しいと言われるが、私にとっては真逆だ。世界は、私にひどく優しい。驚異的なまでに。
「どうしたの、あまり嬉しそうじゃないわね」
「えっ?」
急に職員室で水を向けられて、私は我に返った。
「疲れてるのかしら」
「あ、いえ、なんだかほっとして……」
私は慌てて笑い返したが、言われてみてなるほど確かに私は自身の合格を、あれほど願ったこの結果をさして喜んでいない自分に気付いた。
「燃え尽きたのかな」
そう言っておどけてみせたが、それは事実だったかもしれない。今、私の中でなにかが決定的に終わってしまった。
用事がすむと私は街をぶらつき、スターバックスでコーヒーを飲んだりして時間をつぶし、六時過ぎになって帰宅した。
途中、交通量の多い国道を通ると私は白い花を咲かせる木を目にして足を止めた。
すでに陽は落ちていたが、まだ空は薄墨を流したような色をしており最後の光りを湛えていた。
なんの花かとよくよく見上げると、それはなんと桜だった。幹は細いけれど、丈は高く、貧弱に伸ばした枝には細かい白い花が満開で私は驚きのあまり、しばしその場で桜を見上げていた。
今頃桜が咲いているなんて俄かには信じがたかった。が、周囲を見ると国道を走る車の猛烈な排気で汚れているものの、どこかしら空気はぬるく、夜が忍び寄ってくる中はっと気付くと桜のそばには外灯が立っており、白いぴかぴかとした無機質な灯りを桜に浴びせかけていた。そのせいで桜が狂い咲きしているらしかった。
知らぬうちに涙が零れ落ちた。……私とユウビもまた、世界から遮断され、どこか頓珍漢で滑稽で、哀れな花を咲かせようとしているのだ……。
こんな世界は燃え尽きてしまえばいいのに。私はぐいと涙を拭うと急いで家で向かって歩き出した。
家では岡田さんが吸い物を用意しており、
「おかえりなさい」
といつものように迎えてくれた。
もしも不合格だったらどうなっていたんだろう。父は逆上して私を殴っただろうか。
「お父さんは?」
「お部屋にいらっしゃいます」
「ずっと家にいたの?」
「いえ、お昼からお出かけで、今戻られたんですよ」
「ふうん」
考えてもしょうがないことだけれど、不合格で父から殴られたほうがまだましだった。それはユウビのようにここから出て行くきっかけになっただろうから。
父の部屋の扉を叩くと、私はいつものように声をかけた。
「ただいま」
「おかえり」
私は父の顔を見たくなくて、そそくさと扉を閉めようとした。すると、父が、
「ああ、ソウメイ、ちょっと待ちなさい」
と私を呼び止めた。
「こっちへ来なさい」
今度はどんな訓戒を垂れるのだろう。私はげんなりしながらも、部屋に足を踏み入れた。
「なに?」
「これを」
父は手にはなにか四角い包みを持っていた。差し出されるままに受け取ると、
「合格祝いだ」
「あ……ありがとう」
「開けてみなさい」
「うん」
箱は華麗な地模様の刷り込まれたアイボリーの紙包みに焦げ茶色のサテンのリボンがかかっていた。私は丹念に包装をはがし箱を開けてみると、そこには銀色の光りを放つ上品な、いかにも高価そうな腕時計が入っていた。
私は驚いて父を見た。バングル型で美しい模様が彫刻され、文字盤には小さいけれど確かな煌きを持つ石がはめ込まれていた。
「高そう……」
正直な感想をぼそっと呟くと、父は軽く声をあげて笑った。
「お前らしい感想だな」
「ごめんなさい、でも、そう思ったから。ありがとう、すごく綺麗だわ」
実際、それは綺麗だった。それ自体が精巧な芸術品のように上品で、モダンで素晴らしかった。しかし不思議なのは、およそ父らしくない選択だということだった。
父は私にこのような装飾品の類いを与えることを良しとしていなかった。この品はむしろユウビにこそ似つかわしいものだった。
「お父さんが選んだの?」
「他に誰がいるんだ」
「岡田さんとか」
「ああ……」
時計を箱に戻していると、父は小さく息をついた。
「そのことだが」
「うん」
「岡田さんが今月いっぱいで辞職したいと言っているんだが……」
「ええっ」
私はびっくりして危うく箱を手から落とすところだった。
「辞めたいって?」
「確かに年齢を考えるといつまでも働くことはできないだろうが……。ソウメイ、お前はどう思う?」
「どうって……」
どうもこうもない。岡田さんがいないとこの家は存続していけないではないか。いや、でも、確かにこれは来るべき日であった。私だってそれを考えていた。いつまでも彼女をここに留めることはできないと。けれど、こんな急な申し出があるとは予想外だった。
「引き止めることはできないわ……」
私は呟いた。やはりユウビのことがあるからだろうか。彼女はもう私達を見捨てたいのだ。父のあんな暴力を見てしまってはもう父を「先生」と呼んで従うことはできないのだろう。父もそう思うのか黙っていた。
「仕方ないわ。そうでしょう」
「……来月から違う人を手配する必要があるな」
「……そうね」
私はあきれてため息をついた。ひとつひとつ、ヒビ割れから壁がくずれていくようだと思った。ユウビがいなくなり、岡田さんがいなくなるなんてこの家もおしまいだ。パワーバランスが崩れ去り、ベルリンの壁の如く私達家族を堅牢に取り囲んでいたのが、端から壊れて行く。
岡田さんが高齢になっているのは事実だし、いつまでも働くのは大変なのも分かっている。けれど、もう十八年もこのうちに起き臥ししてきた従順な使用人であった彼女が、今になってどこへ行くのかは想像もつかなかった。
父の部屋を出て着替えをし、食堂へ行くとちょうど岡田さんが鮨桶をテーブルに置いているところで、ほどなく父を呼びに行き手毬麩の入った吸い物をつけた。
これではまるで最後の晩餐だ。私は父がこんなタイミングで岡田さんの辞職願いを私に打ち明けたことに、その配慮のなさに、自分勝手さに眩暈がするようだった。
「私までいいんでしょうか」
岡田さんは恐縮して父に言ったが、父は紳士的に座るよう促した。
「あ、ビールを……」
岡田さんは冷蔵庫からビールを出してきて、父のグラスに注いだ。
すると父は、
「ソウメイ、お前も飲むか」
と言った。
「祝いの席だし、少しぐらいならかまわんよ。岡田さんも一杯やってください」
それはまるで独り言のようだった。整えられた食卓が薄ら寒く、ユウビの不在を色濃くする。
岡田さんがグラスを用意しそれぞれにビールを注いでくれた。彼女もまたこの茶番劇をひしひしと感じているに違いなかった。
「ソウメイ、合格おめでとう」
グラスを揚げながら父が言った。
「おめでとうございます、ソウさん」
岡田さんも言う。
「ありがとう……」
私は答える。さっきまで空腹を感じていたのに、今はもう何も感じない。特上と思しき寿司はつやつやしく新鮮に輝いていたけれど、私の目には時代遅れの店の古びた蝋細工に見えた。
私は自分を鼓舞して醤油注しから小皿に醤油をだし、箸をとりあげた。
その時、玄関で物音がしたかと思うとひたひたと廊下を足音がすべってきて、がらりと食堂の引き戸が開けられユウビが現れた。
私は思わず「あっ」と声をあげた。
「ただいま」
「ユウビ!」
投げ出すように箸を置くと、私も岡田さんも立ち上がった。
ユウビは一同を見渡すと、
「やっぱり受かったのね。そうだと思ったわ」
と嫣然と微笑んだ。
「ユウさん、まあ、よかった。ちょうどこれからお祝いするところだったんですよ」
岡田さんは涙ぐみながら、ユウビに駆け寄っていつものユウビの席へ座らせようとした。父だけが無言で、身じろぎひとつせず鮨桶を睨んでいた。
ユウビはこの十日あまりの空白など物ともせず座ると、朗らかな笑顔を向け、
「さすがソウメイだわ」
「ユウビ……」
「おめでとう、本当によかったわ」
「……ありがとう……」
ユウビは私の手元のビールに手を伸ばすと、まるで水でも飲むかのようにぐいぐいと一息に煽った。
「先生、ユウさんもお帰りになったことですし、私はこれで……」
岡田さんがユウビの前に自分の皿と箸を置いてやりながら、席を立とうとした。
「ユウさん、これ、まだ手をつけてませんから」
「えー、どうして? 岡田さんも一緒に食べればいいじゃない」
ユウビはなにも頓着しないで、みんなの上に渦巻く困惑を無視して実に明るく言った。
「いえ、三人前なんですよ。これ。だから、私は結構ですから」
「大丈夫よ、そんなの。半分こしよう」
岡田さんは私や父の方へ視線を彷徨わせ、観念したかのように「じゃあ、少しだけ……」と再び座った。
ユウビは新しく皿や箸をとってくると、
「さあ、食べよう」
と全員を促した。
なんだというのだろう。この朗らかさは。この無知蒙昧は。空気が読めないとかいうレベルではない。ユウビはすべてを無視しようとしている。いや、この家のすべてを全身で嘲笑っているではないか。父が作りだす世界がいかに愚かで、馬鹿げているかを証明するかのように。
私はこらえきれなくなり、ついに笑いだしてしまった。
それは弾ける様な、爆発的な大笑いだった。一体、私達の十八年はなんだったのだろう。私達が生きてきたことの意味はどこにあったのだろう。こんな風に何もかを否定してしまわなければ、もはや自己を確立することもできないなんて。
私はのけぞってげらげら笑った。狂ったように、笑った。
ユウビのこの傍若無人さはどうだろう。無神経で我儘で勝手で、そのくせ天真爛漫な輝かしい笑顔は一体なんなのだ。そして、それに対して無言で、目をあわせることもできない父はどうだ。
あんまりおかしくてお腹がよじれそうになり、目尻には涙が滲んだ。笑いが止まらなくて私は机をばしばし叩き、それから叫んだ。
「なんで黙ってるのよ!!」
ユウビも岡田さんも目を見張っていた。それもそのはずで、私がこんなに感情的になったことなど一度もないのだ。ずっと父の「いい子ちゃん」だったのだから。でも、私はもう見てしまった。あの狂い咲きした桜を。劣悪な環境で無理に咲くより他なかった、あの薄汚い、みすぼらしい花を。
「もううんざりだわ! 自分の気に入らないことから目をそむけるのはやめて! これが現実なのよ? お父さんが自分の幻想の中に生きるのは勝手だけど、私達を巻き込むのはやめて!」
「黙りなさい」
「一体、人をなんだと思っているの? 私達には自分の意志がないと思ってるの?」
「黙れと言ってるだろう」
「命令しないで! 私に命令しないでよ!」
私は目の前にあった吸い物の椀を壁に投げつけた。そしてそのまま立ち上がると、茶箪笥に並ぶ茶碗や小鉢を次々に叩き壊し始めた。
「比べないでよ! 私とユウビを比べないで!」
ユウビと岡田さんは避難するように部屋の隅で固唾を呑んで私の蛮行を見守り、父も食卓を離れ、引き戸の前で皿小鉢の飛び散る破片を避けるように背を丸めていた。
「やめなさい、ソウメイ」
やめろと言われてももう自分で自分を制御することは不可能だった。頭に血がのぼり、頬が熱かった。
あらかたの食器を破壊すると、今度は台所の流しにあった鍋やボールを父に向かって投げ始めた。投げたといっても興奮のあまりコントロールが定まらず、壁やテーブルにぶち当たり、引き戸のガラスが次々と割れた。
「いい加減にしなさい、ソウメイ。お前がそんなに馬鹿だとは思わなかった。自分がなにをしているか分かっているのか。だからお前は駄目なんだ。すべてを人のせいにするのは楽だろう。でもお前には一片の責任もないというのか」
私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっており、心臓が爆発寸前の鼓動を打っていた。部屋中はこれ以上ないというほど荒れ狂っていたが、どういうわけかテーブルに鎮座した鮨桶だけは無害で、灯りの下、未だに箸をつけられるのを待っていた。
「お前がその名の通り本当に聡明なら分かるはずだ。私がお前にしてやったことのすべてがどれだけお前に必要だったか。お前が今いるのは誰のおかげだと思ってるんだ」
「本気で言ってるの?」
父は答えなかった。答えない代わりにこれまでのどんな時よりも冷たく、軽蔑しきった目で私を見ていた。いや、軽蔑ならまだましだ。父の視線は汚いものを、または畜生を見る目だった。
頭の芯が痺れてまともに物を考えることができない。だが、父の言葉が脳天を貫き細胞を破壊していくのははっきりと分かる。
誰のおかげかって? では、父が毎回「当然」といったのはあれは自分への言葉だったのか。自分のすることに間違いはないということなのか。
足元がふらつき、流し台に背中がぶつかった。私はシンクにつかまるように身体を支え、
「それじゃあ私はお父さんがいないと何もできないってことなの?」
「……」
「お父さんがいないと私にはなんの価値もない、何も出来ない馬鹿だってこと?」
「……」
「答えて」
「……そうだ」
指が流し台にあった包丁に触れた。触れた途端、指先から電流が流れたように痺れた。
あっという間の出来事だった。私は包丁を手にするとしっかり握り締め、猛然と父に突撃した。
包丁は信じられない正確さで父の胸に深々と突き刺さり、握りから手を離すと同時にガラスの破片の上に父の身体はばったりと倒れた。
「ソウメイ!」
ユウビが歓声とも悲鳴ともつかない叫びをあげ、駆け寄ってきて私を抱きしめた。
父は目を開けたまま動かず、わずかに空気の漏れるような音が口から発せられていた。父のシャツの胸がすでに真っ赤で、まるで薔薇を胸に挿しているようにも見える。
誰も何も言わず、立ち尽くしていた。ユウビは震える私をしっかり抱きしめ、岡田さんは両手で口を覆い壁に身体を預けていた。
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