第14話
ユウビのいなくなった翌日、私は部屋の洋服箪笥や机の引き出しを開けユウビがなにも持たずに身体一つで出て行ったことを知った。
父はユウビが「家出」したことを聞いても気のない返事をするだけで何も言わなかった。その態度はまるでユウビなど初めからいなかったようで、私は自分が双子であることを一瞬忘れそうになるほどだった。
岡田さんだけがうろうろと父の居室と自分の主な持ち場である食堂を行ったり来たりして、父にとりなしの言葉を述べたり、寛大な処置を願ったり、ユウビの捜索を頼んだりしていた。
捜索。私はこの大袈裟な言葉に苦く笑った。探さなくともユウビの居場所なら知っている。ユウビは男のところにいる。
あの腫れた顔で男のところへ行くなんて、あの顔を男に見せるなんて、ずいぶん自信があるんだな。ユウビはいつの間に身につけたのだろう。やぶれかぶれの強さみたいなものを。私にはないものを。
家の中は今まで以上にがらんとしている。それは彼岸を思わせる霧のかかった世界だ。目を閉じれば映画の一場面のように映像が浮かぶ。この世の果てのように荒涼とした世界がこの家に再現されているのだ。
父の描き続けてきた夢の生活は木っ端微塵に壊れてしまった。正確には私が壊したのだけれど。しかし、幼い頃から何度も願ったこの世界の崩壊も、いざ壊れてみると途方にくれるばかりだった。
岡田さんは真剣な面持ちで「警察に届けた方が……」と言ったけれど、これは父に断固として反対されたらしく、がっくりと肩を落としていた。
ユウビの家出から一週間。とうとう岡田さんは私に言った。
「ソウさんはユウさんがどこにいるか知っているのでしょう」
岡田さんはすっかり憔悴した様子だった。
父の留守を見計らった午後。外はまだ寒かったけれどその日は風が奇妙にぬるく、この寒さも残りわずかだと思えた。春がそこまできているのだ、と。
庭の梅の木は今が盛りで辺り一面にその香りを撒き散らしている。枝は優雅に空へ手を伸ばし、清らかな姿が見る者の心を打つ。春は希望に満ちている。私はぼんやりとそんなことを考えていた。
岡田さんは私にお茶とお菓子を給仕してくれながら続けた。
「ユウさんを連れ戻せるのはソウさんだけです」
「そんなことないわ」
「先生も行き過ぎだったと後悔してますよ」
「……お父さんがそう言ったの?」
「いいえ、それは……。でも、きっとそうです。ただ、男の人ですし、昔のタイプの人だから謝るとかできないんですよ」
「ああ、そうね。それはそうかもね。でもお父さんは自分が悪いとは思ってないはずよ。だいたい、ユウビが夜中に外出してたのは事実なわけだしね」
「……ソウさんは知っていたんでしょう」
岡田さんは俄かに声色を変え、まるで私を責めるように黙った。私は一瞬むっとして、飲みかけた湯呑みから手を離した。
「知っていたら、なんだというの」
「私も知っていました」
「えっ」
私はせっかくユウビのように挑戦的に返したのに、思わず言葉を詰まらせた。
岡田さんは父とユウビの間に割って入った時よりもよく光る目で、力強い空気を体から溢れさせ目の前に立っていた。
机の上には梅や桜を象った最中が菓子鉢に入れられていて、小さな春を表している。こんなところにも春はあるのに、この家はずっと冬なのだろうか。私達に希望があったことなど一度もない。それぞれの憎悪によって家の温度は一年中冷えている。
「夜中に家を抜け出して遊びに行っていたのは知ってました」
「……いつから」
「最初から」
「どうして分かったの」
この時私の顔は青ざめていたかもしれない。岡田さんは静かな調子で言葉を繋ぐが、私にカマをかけているとか、そんな姑息な手口から言っているのではなく、私のしたことも含めて真実すべてを知っているという自信が仄見えていた。
「どうして分からないと思ったんです?」
岡田さんはくすりと笑った。
「私がこの家に来て何年になると思うんですか」
「……」
「洗濯物、ですよ」
「え?」
「ソウさんも意外と迂闊でしたね。コートや上着についた匂いは消せても下着やシャツはそのまま洗濯籠に入れていたでしょう。煙草や油の匂いはよく分かるんですよ」
「……」
「それに、ユウさんのお部屋のゴミ箱に煙草の空き箱や避妊具の箱が捨ててありましたから」
私はユウビの馬鹿さ加減に亜然とした。
確かに岡田さんの言う通りだ。この人は庭の桜と同じで、この家のなにもかもを知っているのだ。今までずっとそうだった。
私は父に見つからなければそれでいいと思っていた。言うなれば岡田さんを見くびっていたのだ。この従順で厳格なまでに自分に与えられた役割を果たす家政婦は、私達に干渉することはないと高を括っていた。
父がユウビを殴った時も岡田さんがユウビを庇うなんて予想しなかったし、今もこうしてユウビの罪を雪ごうとすることも、父に意見することも、私の罪を暴こうとすることさえ考えたこともなかった。
自分の無知がきりきりと内臓を軋ませる。いっそ強く責められたなら楽になれるのに。でも、彼女が決してそうはしないのも分かっていた。なぜなら、岡田さんが言うように「知っている」のだから。
父のように見たくないものから目を逸らすような上っ面の人間観察ではなく、もっと生身の私達を知っている。即ち、何が今有効な手段かを知っているということだ。
私は奥歯をきつく噛み締め、膝に置いた手を固く握った。苛立ちとも悲しみともつかないものが胸を塞ぎ、ごつごつした塊りとなって嘔吐してしましいそうだった。
「ユウさんを迎えに行って上げてください」
「行っても戻りたがらないわ」
「ユウさんが今どれほど傷ついているか、分からないんですか」
「ユウビが彼氏といたいならそうさせてあげればいいじゃない。水を差したくない」
「ユウさんに必要なのは彼氏じゃなくてソウさんですよ。小さい頃からそうでした。ユウさんはソウさんがいないと駄目なんです」
「そんなことは……」
私が否定しかけたのを岡田さんはぴしゃりとはねつけた。
「いいえ、そうです」
岡田さんは私の湯飲みに新しいお茶を注ぎ足しながら、
「小さい頃からユウさんはいつもソウさんの後をくっついてまわって、やっぱり姉妹なんだなって思ったものです。ユウさんはなんでもソウさんと一緒じゃなくちゃイヤだってよく駄々をこねて泣きました。ソウさんだって分かるでしょう? ユウさんが心を許し、あまえるのはソウさんにだけ……」
「ちがうわ」
今度は私が岡田さんをさえぎった。
「もう私じゃないのよ。ユウビには彼氏がいるんだから、私じゃなくてもいいの」
「その人は、他人です」
他人だって? ああ、そうだとも。男は他人に決まってる。だからといって血の繋がりが必ずしも信頼を勝ち取るかというとそうではない。だって現にユウビは父を信じてなどいないではないか。
「いいわ。じゃあ、ユウビに会うわ。でも、あの子がここへ戻って本当に幸せだと思うの? それが本当にあの子の為だと保証してくれるの?」
「私は、ユウさんはソウさんといるのが一番だと言っているんです。この家にいることだとは言っていません」
「……」
岡田さんが自分の言葉で自分の意見を言うのは初めてだった。私は気圧されるように、岡田さんの一挙手一投足に目を見張り、しまいには黙って俯いてテーブルの木目を眺めるだけだった。
ユウビが出て行く前に、二人、すがるように抱き合ったことが思い出されてた。同じ顔、同じ身体つきの私達は抱きしめればそれはそのまま自分を抱いているのと同じで、虚しさの中に安心感がある。
幼い頃から我儘で自分勝手だったユウビ。けれど、岡田さんが言うように私の後ろをいつもついてまわっていたのは本当で、だから私は姉妹という位置づけをされずに育ったにも関わらず姉のような気持ちでユウビを見ていた時があった。ユウビは、自分がいないと駄目なのだと思わせるほどに。
しかし、もう、違う。ユウビはそれほどまでにはもう私を必要としていない。岡田さんになんと言われようとも、私にはそれが事実だと思っていた。
私は頭の中でぐるぐると巡る思考をぎゅっと一つに束ねる。男に会わなければ。会って、ユウビのことを聞かなくては。ユウビはもう一週間もピアノを弾いていない。それがユウビを不安にしているか、それとも自由にしているのか見当もつかない。
岡田さんは再び自分の仕事に没頭している。台所で包丁を握る横顔はさっきまで話していた岡田さんとはまるきり違う厳しいものだった。
「岡田さん」
「なんですか」
「私達って、岡田さんにとってなんなの」
「えっ……」
岡田さんは驚いて手を止め、こちらを振り返った。
髪を後ろで小さくまとめた姿が、その背中が小さい。物心ついた時から、ここにいた人。私達と同じ年月を生きてきた人。
横目でカレンダーに黒々と書き込まれた父のスケジュールを確認する。今や父は私達に友達を作らせることを敬遠させたのと同様に、「ユウビはソウメイに相応しくない」と決めているだろう。
「岡田さん……?」
あまり長く考えこんでいるようなので、私は声をかけてみた。すると岡田さんは驚いたことに涙目になっていて、
「私がお二人をお育てしたんですから……」
と切れ切れに答えた。
「……」
「先生は確かにお二人を教育したかもしれませんけど、育てたのは私です」
「そうね……」
「ソウさん、私ね、後悔してるんです」
「なぜ」
「こんな風になるなんて思ってもみなかった」
「……私はこうなると思っていたわ」
岡田さんは指先で膨れ上がる涙の玉をはらいのける。その仕草は普段の彼女よりもずっと若く、繊細に見えた。
世界が滅びることは自明の理だ。それはなにも父だけのことではない。私もユウビもこのままではいられないのを知っていた。こんな風になるとは思わなかったと言うけれど、他のものにはなれなかったのも事実だ。すべては成るべくして成ったのであり、結局は成るようにしかならなかったということだ。初めから私達にはなんの希望も可能性もなかった。
「今晩、出かけるわ」
「……」
「ユウビに帰ってくるよう言ってみる」
ユウビが私を巻き込んだように、私は岡田さんを引き入れたかった。しかし共犯を求めたのではない。ただ、この重みを一人で背負うのは苦しすぎる。
共犯を作ること。それは裏切ることを自分にも相手にも許さないことだと思った。ユウビはそれを知らなかったのだ。
岡田さんはユウビを連れ戻すように言ったけれど、私にはそんなこと出来るとは到底思わなかった。とはいえ、生まれた時から一緒なのだ。ユウビがいないということに奇妙な違和感を覚えるのも事実だった。
私は男に電話をかけた。ユウビは男が電話にでないとこぼしていたけれど、5度のコールで男はすんなりと電話に出て、
「ああ、お前か」
と疲れたような声で少し笑った。
「なんか用か」
「用件は分かってると思うけど?」
「……ああ」
「話しがあるの」
側にユウビがいるのだろうか。男は言葉少なに無愛想な受け答えするだけで、自分からはユウビのことには触れなかった。
「会える?」
「ああ」
「じゃあ……、今夜。初めて会った店、あのバーで」
「わかった」
「それじゃあ」
電話を切ると私は肩の上にどっと重いものが圧し掛かるような重圧を感じた。ただこれだけの会話が、電波の向こうの重い空気が漂わせる。私は男がひどく困惑しているのを感じ取っていた。
その晩、私は父が寝てしまうと裏口から家を出た。
凍てついた空気が肌を切りつける。吐く息は白く、静けさと相まって心までしんとさせる。ふと見上げる空には氷の粒のような星があり、私は世界が滅び去った後にただ一人取り残されているようなそんな気持ちになった。孤独というよりは、絶望に近い。そんな気持ち。
通りに出てタクシーを拾うと、車窓から車のライトの流れを見つめる。このままどこか遠くへ行けたらと、切実に願う。しかし私はなにからも逃げられないのを知っていた。
而して辿りついた店内には客が数人いるだけで、気だるい時間が流れていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中に立っていた店員がすぐに声をかけた。
私は男の姿を認めると一直線にカウンターの真ん中あたりに座っている男へ歩み寄った。
「トモヤ」
「ああ、ソウメイか……」
男は顔をあげ私を見たが、目がいかにも眠たげにどろりとしていて、口をきくのも面倒そうだった。
「酔ってるの?」
「酔ってるよ」
私は隣りの席に腰かけると、ジントニックを注文した。
男は目の前のグラスに入った氷を指先でくるくる回しながら、暗く俯いていた。あたかもひどく絶望しているような、とてつもなく傷ついているような横顔だった。
「ユウビは?」
「さあ? 俺はお前らの親父と違ってユウビを監視してるわけじゃないから」
「そんなこと言ってるんじゃないわ。あんたのところにいるのかって聞いてるの」
「いるよ」
男は呂律が回りにくくなっているのか、喋りにくそうだった。
「お前ら、一体なにやってんの?」
「なにって……」
「家の揉め事に俺を巻き込むなよ」
「ずいぶんな言い方ね」
「ガキみたいなことして……、俺には関係ないことだろ」
私はその言葉に幾分むっとした。
確かに男にはなんの関係もないことだ。私達のことも、父のことも。でも、この男がいなければ私は引き金を引かなかった。
私は沸々と胸の中で煮えてくる苛立ちに舌打ちをしながらも、低くかすれる声ともつれる舌にこの男と幾度も交わした能動的な口付けを連想させられ、そういう自分こそが忌々しくますます苛立ちを募らせた。
髪をかきあげ、煙草を吸う仕草。すべてを私は覚えている。男の手がどんな風に私の上を通過していったか。その度に自分を踏みにじることの快感。
しかし、今はそれよりも、ユウビだ。
私はグラスに口をつけると、ため息と共に言葉を継いだ。
「それで、ユウビはなんて言ってるの?」
「しばらく泊めてくれって頼まれてる」
「しばらく?」
「そりゃあ、ずっとってわけないだろ」
男はグラスの中身をあおった。氷がからんと固い音を立てる。男は投げやりな態度でむっつりと眉間に皺を寄せている。
「……ユウビに帰ってくるように伝えてほしいのよ」
「なんで?」
「なんでって……。このまま放っておくことはできないわ。お金も持ってないだろうし、まだ学校だって卒業式がある。それに大学。大学はどうするつもりなの。だいたい、あんたには関係ないんでしょう?」
言ってから私は自分がひどく滑稽に思えて、そっと視線をはずし顔を横向けた。自分の行為が、言葉が突然恥ずかしくなり男をまともに見れなかった。
学校が、お金がなんだというのだ。そんなことはどうだっていい。実際、私はそんなことは気にも留めていないし、心配さえしていない。ユウビにとって大学なんて本当は必要ないのだ。あれは父を満足させる為だけにあり、ユウビの意思ではない。お金がなければ困るかもしれないが、なくてどうにもならないというならそのままのたれ死ねばいいのだ。それが一体なにほどのことだというのだろう。結局、私も含めて自分の力で生きたこともないのに、父の元を飛び出したところで動物園のライオン同様に狩りもできず、生きる手立てもないのだ。そうしたらのたれ死ぬのは自然の摂理ではないのだろうか。それに抗うつもりがあるなら、それこそ私の知ったことではない。自分の力でどうにかすればいい。
そもそも私は岡田さんの手前、連れ戻すとは言ったものの、自分が本当にユウビを連れ戻したいかどうかもあやしいところだった。
「そういえば、ソウメイは大学どうなった」
不意に男が言った。
「試験だっただろ」
「そんなすぐに発表なわけないでしょ」
「まあ、でも、これで一安心だな」
「まだ受かったわけじゃないわよ」
「いや、お前は受かるよ。ユウビもそう言ってた」
男は煙草に火をつけると噛み締めるように深く吸い込み、長々と煙を吐き出した。男の目が急にきつくなっていた。
「ユウビはお前のことばっかり喋ってる」
「……」
「お前のこと好きなんだな」
「……」
「なのにお前はユウビなんて本当はどうでもいいと思ってるだろ」
「そんなこと……」
「嘘つけ。お前はどう見てもユウビを好きで、心配しているようには見えない。お前の口から出る言葉はいつも、どれも正論かもしれないけど、その分だけ冷淡に感じる。本当のところ、お前はユウビをどうしたいんだ」
「私は……」
酒のせいか言葉の端々が熱を帯びたように膿み、その手が今にも私の肩を揺さぶりそうで私は思わず身体を固くした。
本当のことを言えばいくらかはすっきりするのだろうか。でも、それで一体誰が救われる? 真実は人の手によって作りあげられるものだと私はもう知っている。
「ユウビと張り合うのはよせよ。お前はお前だろ。俺と寝てもあいつに勝ったことにはならないぜ」
「そんなこと考えてないわ」
「お前、人を馬鹿にしてんだろ。俺だって女が自分に気があるかどうかぐらい分かるんだよ。お前は確かに頭がいいかもしれないけど、その頭の良さの分だけ傲慢だ。策を講じればすべて自分の思う通りに事が運ぶと思ってる。人の心までも。そういうの、お前は父親と同じだってなんで気づかない」
「……やめて」
「いいや、やめないね。お前の父親、俺たちみたいな若造を無能な虫けらだと思ってる。確かに学生なんかただの馬鹿の集まりだろうよ。でも、虫けらでも生きてる」
「……そうよ。私も、ユウビもね。なんと言われようと、あの家で、あの世界で生きてるわ。あんたなんかに何も分かりはしない」
私は財布から札を抜くとグラスの脇に置いた。
「とにかくユウビに帰ってくるよう伝えてよ。話しはそれからよ」
私は自分の手が動揺のあまり震えているのに気づいた。胸の中幾度も繰り返す。男は一瞬痛ましい顔をしたが、一言「わかったよ」と言って、再びグラスを傾けた。
「ねえ、トモヤ」
私は今一度男の名前を呼んでみた。
「ユウビを好きなの?」
「……」
「でもね、結局、私とユウビは二人で一人なのよ」
椅子から滑り降りると私はユウビのように顎先を上に向けた。そうでもしなければ、泣き出してしまいそうだった。
現時点で、男はユウビを愛してはいない。が、少なくとも私よりはユウビの方をかわいく思っている。この屈辱を、言葉にすることは到底できないだろう。
ユウビが戻ってくるかどうかは、私には分からなかった。と同時に私自身がユウビに本当に戻ってきてほしいかどうかも分からなかった。二度と戻らずともいいような気がする反面、ユウビの不在は私の肉体の欠如を思わせ心もとない気持ちにもなる。
「もう行くのか」
「あんたといても仕方ないわ」
「よく言うよ」
「なによ」
「自分から誘ってきたくせに」
私達は互いの目を見交わし、不意におかしさがこみあげてきて小さく笑った。
これが恋ならどんなにか簡単なことだったろう。私が男と寝る理由を恋だと言えれば。そしてユウビを妬む気持ちが単純な嫉妬であったなら。
私はユウビがなぜこの男に惹かれたのか、おぼろげながらその輪郭が掴めたような気がした。
男は女にとって都合がいいのだ。この男は女の単純な欲望を満たしてくれる。それも、理屈抜きにして。ただの学生だと思ったら、ずいぶんな「勉強」をしているものだ。男にとって英文学なんてただのお飾りにすぎない。学生という身分もカムフラージュのようなものだ。その実態は、女の間を渡り歩くろくでなしに過ぎない。人畜無害で面倒を嫌う、そんな男だからユウビは惹かれたのだろう。ユウビが言うところの自由な空気なんて、単なる身勝手な気配にすぎない。なぜ気付かなかったのだろう。
私は突如そうしてみたくなり、人目も憚らず男の肩に手をかけ、素早いキスをした。
男は一瞬面食らったようだったが、すぐに笑って、
「お前とユウビはやっぱり別物だよ」
と言った。
店を出る間際、もう一度男を振り向くと、男は肘をついて煙草をふかしてぼんやり虚空を眺めていた。
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