第13話

 その日、試験に集中することは困難ではなかった。むしろユウビや父のことを頭から排斥すると恐ろしいほど感覚は研ぎ澄まされ、すべての問題は明晰に解かれた。


 私は試験会場でこのまま永遠に答案を埋め続けられたらと思った。ここに閉じ込められひたすら数学や英語に取り組み続けなければならないとしたら、それは私にとってあの家に戻ることより遥かに幸福なことだった。


 が、現実は常に思い通りになるわけもなく、試験はあっけないほど予定通りに終わってしまった。


 私はこのまままっすぐ家に帰ることが怖くてたまらなかった。帰ればそこにあるのはユウビの死体ではないかと思うと吐き気すらこみあげてくる。


 この事態を招いたのは、いや、引き金を引いたのは自分であるのは分かっている。が、父がまさかあそこまでするとは夢にも思わなかった。


 私は父に対して様々な疑問を抱きながらも、これまでの教育を心のどこかで、その絶対性を、精神性を信頼していたのかもしれない。


 父は神になろうとしていたのだ。今ならそれが分かる。父にとって私達双子は実験材料であるのと同時に、自分の創造物なのだ。神は創造物を自在にする。育て、導き、意に染まなければ滅ぼす。


 それでも父がユウビを殴るという可能性について考えもしなかったのだから、私は自分を素直に浅はかであったと認める気持ちになった。


 帰宅すると家の中はいつも以上に暗く、廃墟のような空気を醸し出していた。なにもかもが死滅した荒れ果てた家だ。


 私はひたひたと廊下を歩き、灯りのついた食堂のガラス戸を開けた。父とユウビが割ってしまった箇所には新聞紙が貼られていて、その痕跡を生々しく見せていた。


 台所には岡田さんが立っており、振り向くと、

「おかえりなさい」

 と静かに言った。


「……ユウビは?」

「お部屋にいます」

「お父さんは?」

「お部屋に」


 私は思わず床に目をやった。が、無論ユウビの血は跡形もなく拭き取られていて、割れてしまった茶道具が新しいものに取り替えられてテーブルに乗っていた。


 しかし、どんなに拭っても私には分かる。私の視線が、記憶が、ルミノール反応の如くユウビの血痕を浮かび上がらせ、私が犯した罪の証拠として突きつける。


 私はそっと目を逸らした。


 岡田さんは私の暗い眼差しに気付き、濡れた手をエプロンで拭いながら言った。


「ソウさんが実力を発揮できなくても、それはソウさんのせいじゃありませんよ」

「……」

「先生もお叱りにはなりません」

「試験なら、できたわ」

「……」


 私は気遣ってくれる岡田さんをはねつけるように、ぴしゃりと言い返した。


「できないわけないじゃない。私にできないことなんてない」


 なんの説明もいらないのは気が楽で、私は自分の不機嫌が許されるような気がして岡田さんに子供じみたやつあたりをしていた。


「でも、お父さんの期待を裏切らない為に頑張ったんじゃないわ。私は、私の為にやってるのよ」


「……ユウさんが落ち込んでますから、顔を見せてあげてください」


 ガス台にかけられた鍋からはユウビの好きなシチューの匂いがしていた。セロリとマッシュルームをたくさんいれたシチューだ。付け合せにじゃがいもをマッシュしたのを添えるのが岡田さんのやり方だ。


 朝の惨事を目の当たりにしておきながらも、こうやって食事を整えている岡田さんに私は有難い反面、冷徹なまでに引かれた境界線を感じていた。所詮、この家の揉め事など関係ないのだという顔。いや、それは彼女の仕事から考えると正しい姿勢だ。でも、ユウビをかばった時のあの情熱的な動きは職務を超えるものだった。


「岡田さん」

「なんですか」


 岡田さんはすでに私に背を向け、フルーツサラダにする林檎を剥いている。今夜はユウビの好物ばかりがテーブルに並ぶのだろう。


「ごめんなさい」


 私はなぜか小さくそう言った。


 岡田さんが驚いて手を止めたが、もう彼女を見ていることが辛くて私は足早に食堂を離れた。


 二階へ上がる前に父の居室をノックした。父の姿を見るのは怖くもあり、反面、楽しみでもあった。どんなに憔悴していることか、どんなに戸惑いを浮かべているか。


 そっと部屋を除くと、父は背中をまるめ熱心に書き物をしており、室内はよく温められて薄いコーヒーの匂いが充満していた。


 恐らく一日中ここにいたのだろう。ひたすらすべてを無視するように研究に没頭し、そのくせ空虚さを満たすべくコーヒーを飲み、時々煙草を吸ったのだろう。ざまあみろ。


 父は机に向かったまま、言った。


「試験はどうだった」

「出来たと思う」

「そうか」


 私はしばしその場に立って父がユウビについて何か言うのを待った。


 覚悟はできていた。問われれば男のことも、これまでに重ねてきた夜間の外出も洗いざらいぶちまけるつもりだった。男の氏素性だって喋ってもよかった。そうして何もかもが完膚なきまでに叩きのめされていけばいい。私はそれを望んでいたし、恐らくユウビも同じであろうと思った。


「試験も終わったことだし、またヴァイオリンに行けばいい。お前も練習次第ではなかなかの腕になるだろう」


「……どうしたの、急に。ヴァイオリンはほどほどにしろって言ってたじゃないの……」


「……。発表がすんだら、春休みの間イギリスに行くか」


「イギリス?」


 私はあまりに唐突な申し出に頓狂な声を出した。


 父は大きな椅子をくるりと回してこちらに向き直った。その表情はひどく疲れ、髪も乱れていたし、なにより生気が失われていた。私は父の手元を見ずにはおけなかった。父の拳にユウビを殴った痕跡があるのでは、と。


 父は革張りの椅子を揺らしながら、


「春休み中にちょっと資料や文献を集めておこうと思って、前から考えていたんだ。ちょうどいいからお前も連れて行ってやろう」

 と言った。


 一瞬、悪寒が走った。なんだろう、この狂ったような声の抑揚は。喋っている内容の不自然さは。父はユウビのことは一言も言わない。それどころかイギリスだろうがフランスだろうがどうでもいいが、まるでユウビなど存在しないかのように話すことの不自然さはどうだ。


 こうなるとこちらからユウビのことを問い質すのも怖くて、私は返事もそこそこに急いで二階に上った。そしてノックもせずにユウビの部屋のドアを開けた。


「ユウビ」


 私は持っていた鞄を投げ出してベッドに駆け寄った。而してユウビは無残に腫れて痣だらけになった顔でベッドにいた。


「ユウビ、大丈夫?」


 ユウビは一番ひどく殴られた左頬を冷やしていて、私を見ると起き上がり両手を延べた。私はその手にシンクロするように両腕をひろげ、二人、しっかりと抱き合った。


 ユウビの身体は温かく、私の身体に絶妙に馴染んだ。双子だから当然というよりも、形のないもの同士が溶けて混じり合うかのようだった。このまま一人になれたなら。元はそうだったのだから。それならすべては解決するのに。


「ユウビが死んでるんじゃないかと思って心配でたまらなかったわ……」


 私は喘ぐように囁いた。


「死ぬかと思ったわ……」


 ユウビも耳元で熱い息を吐きながら、言う。


「……鏡を見るのが怖いわ」


「大丈夫よ。腫れがひけば元通りになる」


 私はユウビの頬を両手でそっと包み込んだ。


「痛い?」


「うん、まだじんじんする」


「ユウビ、とりあえず謝った方がいいわ」


「謝る?」


 途端にユウビの目が燻っていた炎が再燃するようにぎらぎらと光り始めた。


「謝ることなんてないわ。ソウメイ、分かったでしょ? あれがお父さんの本性なのよ」


「……」


「所詮、私達のことなんて人間と思ってないのよ」


「夜中に抜け出してるのがバレたら、どこの親でも手ぐらいあげるわよ」


「ソウメイ、あまいよ。親だからって何をしてもいいの? それよりも考えたことない? どうして私達はお父さんの言いなりにならなくちゃいけないのよ」


「……」


「昔からそうだったわ。私が自分で決めたことなんてなにもない。私が選んだものも、なにもない。全部、与えられ、決め付けられてきた。そりゃあ私は頭が悪くて、ピアノを弾いて笑ってるしか脳がないかもしれないけど、でも、生きてる。私にだって意志も感情もあるのよ。それをこんなにも無視されて、このままここで生きていくなんて絶対にできない」


 そこまで言うとユウビの目がふわりと微笑し、私を強く抱きしめた。ユウビの手が私の髪を掴み、指にからめるのを感じる。あの男がくちづけの最中によくするように。


「ソウメイ、私、出て行くわ」


 ユウビはそう言うと私を腕から解き、にこりと笑った。


「なに言ってるの。出て行くって、一体どこへ行くのよ」


「さあ。でも、どうとでもなるわよ」


「男の所へ行くつもりなのね」


「まあ、最初はね」


「やめてよ。なに考えてるの、出て行くなんて。学校はどうするつもりなの。ピアノは? 大学は? 出て行ってどうやって生活するのよ。馬鹿言わないでよ」


「ソウメイ、私、考えたのよ」


「なにを」


「私がここにいる理由、ない」


 ユウビはぼろぼろだったけれど、生まれた時から私が知る限りのすべての中でこんなにも凛とした決意を見せたのは初めてだった。


 父はまるでユウビを抹殺したかのようなことを言い、そうして本当にユウビがいなくなってしまったら私はどうしたらいいというのだ。父と二人取り残されて、ますます重荷を背負わされなければならないのか。こんなはずじゃなかった。こんなつもりではなかったのに。


 私ははっとした。では、これまで私達は一つの巨大な荷役を二人で分け合っていたのか。父に課せられたものはいつもそれぞれを苦しめたけれど、実はそれも二人の器に入れ分けることで分担していたとでもいうのか。


 私はユウビにすがるように、パジャマの袖を掴んだ。


「どうしてそんなこと言うの。それじゃあ、私は? 私はどうなるのよ? ここに残って生きていけっていうの?」


「馬鹿ね、ソウメイも出て行けばいいのよ。いつまでもいい子ちゃんでいることないわ。自由にやればいいのよ。自分の好きなように、思ったままにやればいいのよ」


「もうちょっと考え直してよ。すぐにほとぼりが冷めるんだから」


「ソウメイ」


「……」


「あんたはそうやって一生お父さんの言いなりになって生きていくつもりなの」


 一生なはずない。父だっていずれは死ぬ。それがいつかは知らないけれど。ならば、いずれこんな暮らしも終わる。少なくとも私の当初の予定では大学を出て父から離れるつもりだった。


 私は男のことを思い出していて、返す言葉が見当たらなかった。


「連絡するから。ね? 心配いらないわ」


 一体なんだってこんなにも大きく予測を外れたんだろう。父がユウビを殴ることも、ユウビが謝罪しないことも、岡田さんが止めに入ったことも、こんなにも強い決意を顔に載せているユウビも、私はそこまで考えていなかった。


 人間を思い通りにすることはできない。ユウビはそう言ったけれど私は心のどこかでそれを否定する気持ちがあったのかもしれない。なぜなら私自身が思い通りにされてきたから。


 父はユウビを完全に無視し、私は幼い頃に憧れた一人っ子の状態を泣きたい気持ちで味わっていた。その夜のうちにユウビはいなくなっていた。

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