第12話
いよいよ入試前夜となった日、さすがに私は男のところへ行くことはせず最後の仕上げとして参考書を捲っていた。
父は忘れ物をしないようにと注意をくれ、落ち着いてやればできるのだと言った。
ユウビは夕食の後、お茶を飲みながら、
「別にそんなに神経質にならなくてもソウメイなら大丈夫よ」
と言った。
私はユウビを見つめ、なんて能天気なんだろうかと薄ら寒い気持ちになった。口では殊勝なことを言うけれど、ユウビが今夜男と会うのに浮かれているのを私はちゃんと知っていた。
「ソウメイは一番で合格すると思うわ」
「一番?」
「そ。首席ってこと」
「そんなわけないでしょ」
「とか言って、自信あるくせに」
ユウビの口調は明るく、あけすけだった。繊細さの欠片もなく、どこか意地悪な響きさえあって私は急にナーバスになった。
ユウビが笑うほど、私の心は冷え固まっていく。なんだかひどくイライラする。ユウビはそんなことにはまるで気付かず、試験がすんだら卒業旅行に行きたいなどと喋り捲っている。
そして父にまで甘えるように、
「ねえ、いいでしょ? ソウメイと温泉なんか行きたいな」
「温泉?」
「ソウメイもご馳走食べてゆっくりしたいよね」
私は黙って彼らの様子を見守る。
「お父さんは忙しいから行けないでしょ」
「ユウビ、お前は温泉が嫌いだったじゃないか」
「嫌いじゃないわ。厳密には大浴場が嫌いだったのよ。でも、今は平気。ソウメイがいれば周りの視線なんて気にならないもの」
「……まあ、考えておこう」
「近くでいいの。ほんと、すぐ近くで。行ったっていうことが大事なんだから。気分だけでも味わえればいいのよ。ね、ソウメイ?」
「……」
ユウビは大きな目をくるくると動かしながら、得意のポーズで父におねだりをしていた。
子供の頃からそうだ。ユウビは甘えやわがままを通す為の術にたけている。むしろ、自分の思い通りにならないことが許せない性質なのだから、ますます技術は巧妙になっていく。今も身を乗り出して父の顔を覗き込んでいる。
……ユウビは男にもこんな風に媚るのだろうか……。不意に私はそんなことを考え、考えたことを後悔し顔を背けた。
私は立ち上がると、今夜は早く寝て明日に備えると宣言し自室へ引き上げた。
なにが温泉。なにがご馳走。あんなことを言ってもどうせ私をダシにして男と一泊したいのだ。そうに決まっている。では、私はその間どこへ潜めばいいのだろう。いや、そもそもなぜ私がこそこそしなくてはいけないのか。馬鹿馬鹿しい。
父も父だ。何も言わずに微笑んでいるとはどういう了見なんだろう。いよいよボケが始まったとでもいうんだろうか。
自室へ入ると私は窓辺から庭を眺めた。カナリアの墓場となった桜の木が寒々しく、しんとした佇まいでそこに風に晒されている。
私は鞄の中身を検分し終わると、目覚まし時計の針を動かした。起きる時間は岡田さんにちゃんと伝えてある。制服もブラシをかけ、ハンガーにかけてある。
私はカーテンをきっちりと閉めると寝る支度をし、さっさと電気を消した。ユウビがなぜ私を信頼しているのか私には到底理解できなかった。
暗闇に目をこらすと、自分の心の暗闇を知る。見つめるほどに浮かび上がってくるのは、私の中に潜む魔物のような感情。
明け方、私は目覚ましが鳴るより早く目を覚ました。
そっと起き出してユウビの部屋を覗きに行く。いない。確かに、ユウビはいない。
時計を確かめる。ユウビの戻って来る時間。父の起床時間。私は緊張に息を詰めてしばし逡巡した。ユウビの帰宅時刻。父の規則正しい生活。ユウビが夜中に出かけて戻って来る時間。父が起き出してきて朝のニュースを見始める時間。
私は自分のしていることを充分理解していた。これは衝動的な行動ではないし、単なる思い付きでもなければ、悪戯でもない。
私は携帯電話を取り出して電話をかけた。ぷつぷつと電波が世界を巡る音がする。外は暗く、静寂の中で眠っている。
電話が繋がった。その瞬間、階下にある我が家の古い電話機がけたたましくその呼び出し音を叫び出した。
それはヒステリックな女の悲鳴にも似て家中を震撼させる音で、まだ明けぬ空気を引き裂き、心臓が止まりそうなほどの衝撃で鳴り……。切れた。
いや、切れたのではない。自室で寝ていた父が受話器をとったのだ。
「もしもし」
私は耳に押し当てた携帯電話から父の不機嫌な声を確かめると、無言のうちにぶちりと電話を切った。
それからゆっくりと部屋を出て階段を下り、叩き起こされて食堂に集まった父と岡田さんに、
「今の電話、なに?」
と尋ねた。
二人とも当然寝巻きのままで、怪訝とも不機嫌ともつかぬ顔で電話の前に立っていた。
「間違い電話じゃないでしょうか。それかイタズラ」
岡田さんが寝起きのかすれた声で言った。
「うむ……。たぶんそうだと思うが……、事故かなにかの連絡かもしれん。またかかってくるかもしれんな」
「事故って?」
「深夜・早朝の電話は緊急の用件だろう」
「……」
岡田さんは黙ったまま薬缶を火にかけ、ストーブをつけた。
「ソウさん、裸足じゃないですか。スリッパを穿かないと」
「うん……」
「ソウメイ、まだ時間があるからもう少し休みなさい」
「そうね……」
私は壁にかかった時計を見上げた。
父はストーブの前に座り電話を眺めていた。髪には寝癖がつき、しきりに顔を掌で擦っている。まだ寝ぼけたような目が眼鏡の奥で繰り返し瞬いていた。
「時間になったら起こしますから」
岡田さんが私を促した。私は頷くとそのまま自室へ引き上げようとした。
その時だった。一同が揃った食堂の、台所脇の勝手口が開きユウビが入ってきた。
この瞬間の父とユウビの驚いた顔をなんと表現していいのか分からない。が、私ははっきりと世界が音を立てて崩れるのを見たような気がした。
ユウビは青く染まる空気を背中に唖然として立ち尽くし、父もまた阿呆のようにぽかんと口を開けてユウビを見つめていた。ユウビは明らかに外出していたという格好で、言い逃れができないほど煙草の匂いを漂わせていた。
薬缶が蒸気を吹き上げ、お湯の沸く音が空気を震わせる。どのぐらい全員が黙っていただろうか。ほんの一分のことが永遠のように長く感じられ、背筋がぞくぞくと寒くなった。
最初に口をきったのは父だった。父はあの、私達に訓戒をする時のように冷徹な調子で、
「ソウメイ、二階へ行きなさい」
と言った。
父の視線はユウビの顔の上からまったく動かず、ユウビは視線を逸らすことができず父を見つめ返していた。
岡田さんは火を止めると、事態を無視してまるで「なかったこと」にしてしまうかのようにお茶をいれた始めた。岡田さんの白髪とそそけた横顔が震えているように見えた。伏し目がちに急須や湯飲みに視線を落とす睫毛が驚くほど長いのに、私は初めて気がついた。
「ユウビ、そこでなにをしている。こんな時間にどこへ行っていた」
ユウビの唇が緊張のせいか、恐怖のせいか震えているのが分かった。
「こっちへ来て答えなさい」
「お父さん、ユウビは……」
「ソウメイ、お前は二階へ行きなさい」
「散歩してたのよね? ユウビ?」
私が同意を求めると、父がいきなり机を叩いて怒鳴った。
「嘘をつくな!!」
私は驚いて思わず後退った。父が怒鳴るのを見たのは、それこそ生まれて初めてだった。
父は立ち上がり固く拳を握りしめており、体中から青い炎が立ち上っているようで私は言葉を失った。見るとすでにユウビの目は涙でふくれあがり、今にも溢れそうになっていた。
「どこでなにをしていたのか、言ってみろ」
言えるわけがない。私は心の中で呟く。
気分転換に散歩してたのよ、と。ファミレスでお茶飲んでたのよ、と。今までこんなことはしたことないの、と。だから、今回は許してほしい、と。ユウビの為に他ならぬ私が懇願してやろう。そして思い知ればいい。私でなければならないことを。他の誰も必要ではなく、私がいるからこその「自分自身」なのだということを。かつて私の友達を追い出して言い放ったことを、その肉に刻めばいい。
しかし現実はそうではなかった。ユウビは目に涙をいっぱい溜めたまま零れてしまわぬように、顎先を上に向けるあの高飛車なポーズで言い放った。
「彼氏と会ってきたのよ」
衝撃に言葉を失うのは、今度は父の番だった。
「夜中にしか会えないんだから仕方ないじゃない。誰にも迷惑かけてないわ」
空が白み始めていた。空気に少しずつ太陽の色が加わり部屋を明るく染めだしている。ユウビの目が父を挑戦的に睨み、口元は狂ったような微笑を浮かべていた。
これはユウビ。私の顔ではなく、ユウビの顔だ。完璧な双子であるはずのユウビが完全に他人に見え私は戦慄した。
靴を脱ぎ、部屋にあがったユウビは父の前に立つと付け加えた。
「私に彼氏ができちゃおかしい? いけないとでも言うの? なによ、みんなして雁首揃えて。私だって恋愛する権利あるわよ」
「……」
私は父の顔を見ていることが怖くて、忙しなく視線を彷徨わせた。父はひどく青ざめ、見開かれた眼球が血走っていた。口元はしっかり結ばれている分だけ鼻息が荒く、このまま卒倒してしまうのではないかと思うほどだった。
が、ユウビはそんなことおかまいなしに、
「所詮、人間を思い通りにすることなんてできないのよ」
と吐き捨てるように言った。
室内はストーブの熱で温まり始めていたが、私達はまるでその熱を感じることができず吹雪の只中に放り出されているように身動きがとれなかった。
ユウビの目が父そっくりの冷酷さを湛えている。
「心配しなくても避妊してるから大丈夫よ」
そう言うとやけくそに笑ってそのまま食堂を出ようとした。が、それは叶わなかった。
父はいきなりユウビの横っ面を大きな手でぶっ飛ばし、ユウビはその衝撃で茶箪笥に激突して床に倒れこんだ。
私は自分の目の前で起きたことが信じられなかった。岡田さんが叫びそうになるのをどうにかこらえて口元を掌で覆い、息を呑んだ。
父がユウビを殴った……! あの父が、ユウビを。いつも冷静で決して激昂しない父がいきなり手をあげるなんて……!
ユウビの頬はみるみるうちに赤く腫れ、怒りに燃える目で父を睨みつけ大声で叫んだ。
「なんで殴るのよ?!」
父はこの時正気を失っていた。奥歯をきつく噛み締め、逆上するユウビにのみ視線を注ぎ、他のなにも見えず、聞こえてはいなかった。
「何にそんなに怒るのよ。夜中に出かけてたこと? 男と付き合ってること? 違うわよね。私を心配して怒ってるとかじゃないでしょう。私が自分の思い通りにならないことに腹が立つんでしょう?おあいにくさま! 私はオモチャじゃないのよ、人間なの。お父さんの思い通りになんてなるもんか!!」
皆まで聞くと、父はユウビの髪をひっつかみ、抵抗することもできないほど物凄い勢いでユウビを殴りつけ始めた。
家中のガラスが割れるかと思うほど強烈な悲鳴が鼓膜を突き抜ける。
泣き叫びながら這い蹲り、もがき、暴れ、父の手から逃れようとしたが到底力でかなうはずもなく、あっという間にユウビの顔は鼻血で真っ赤に染まり、唇は切れて床に鮮血がぱたぱたと音を立てて飛び散った。
それは凄まじい光景だった。父は狂ったようにユウビを叩きのめし、その合間にも噛み締めた歯の間から売女だのあばずれだのと呻くように漏らした。
二人がもみ合う様はモノクロのサイレント映画のようだった。こんなにも激しいのに、ひどく遠い。恐ろしい悲鳴も泣き声も私には届かない。頭の芯では電話の呼び出し音が今も鳴り続け、暴れ回る二人がテーブルにぶつかった拍子に茶道具が床に落ちるのも、ガラスの引き戸の一枚が割れるのもスローモーションのように見えて、夢でも見ているかのようだった。
頭の隅では止めなければと、ユウビを助けなくてはと警鐘が鳴っていたけれど、手足は棒のように固まり、私は阿呆のようにただ立っているだけだった。
目の前が涙で歪む。熱いものが頬を流れ落ちていく。後悔はしていなかった。ユウビの死までにはあとどのぐらいかかるだろうか。どれほどの力で、どれだけ続ければ終わるだろう。止めなければいけないと思う裏側でユウビの死を夢想している自分がいる。
「やめてください!」
気が付くと岡田さんが父を突き飛ばし、ユウビに覆い被さるようにして叫んでいた。
「やめてください! ユウさんが死んでしまうわ!」
父は血で汚れた拳を握ったまま荒い呼吸に肩を上下させ、跪いて訴える岡田さんを見下ろしていた。
岡田さんは普段の無表情からは想像もつかないほど真剣でな顔で、頬を紅潮させ、興奮のあまりうわずった声で、
「こんなに打たなくても、ユウさんだって話せば分かります」
「……」
「年頃なんですから、羽目を外したい時もあるんですよ。許してあげてください」
岡田さんがこんな行動に出るとは想像を絶していて、たぶん、それは私だけでなくユウビも父も同じ事を考えていただろう。おかげで誰もが初めて正気に戻り、脱力したように互いの間を視線を彷徨わせた。
私達にとって岡田さんは「使用人」であり「空気」のようなもので、尚且つ自分の意思を持たない「人形」のようなものだったのだ。それは彼女が本来そうであるということではなく、父がそのように求めたのだ。岡田さんは痩せギスな手首に血管を浮き立たせながら家を磨き、整理整頓をし、食事の支度をする。その彼女のルーティンな職業の中にどんな魅力があるのか分からないけれど、岡田さんはずっと私達に仕えてくれた。
独身で自分の子供のない岡田さんは、小さかった私達にどんな気持ちで接していたのだろう。感謝することも知らない傲慢な子供たちを、どんな目で見ていたのか。
ユウビは嗚咽を漏らすまいと唇を閉じようとするが、震えて歯の根が鳴るほど興奮していたし、父も髪は乱れ、目は充血し、立っているだけなのに足元が揺れていた。
岡田さんはユウビの背中を撫でさすり、さらに訴えた。
「女の子なのにこんなに打つなんてあんまりです。先生は暴力はふるわない主義だと仰ってたじゃないですか」
父はそれには答えなかった。ただ、悲しみとも憎しみともつかない目で岡田さんの言葉を聞き、ユウビを見つめていた。あれほど慈しんで磨き上げたユウビを。そして今、自らの手でめちゃくちゃに殴った傷だらけのユウビを。
私は父に自分のしたことを後悔して欲しくないと切実に願った。ユウビに手を挙げたことを、感情的になり我を失ったことを後悔するぐらいなら、もっと以前から後悔するべきなのだ。私達双子に与えた教育について。誰も信じず、愛さず、かといって自分自身の存在さえも疑い続けるように仕向けたことについて父は後悔するべきなのだ。そして思い知ればいい。自分の仕掛けた「実験」が失敗だったということを。
父はテーブルに片手をつき身体を支えていたが、そのまま崩れ落ちるように椅子に腰を下ろした。
そこで父の口にした言葉は意外なものだった。
「ソウメイ」
「えっ……」
「支度をしなさい」
「……なんの……」
「今日は入試だろう」
父の声には生気がなかった。
「お前は期待を裏切らない。そうだろう」
父が誰に同意を求めているのか分からなかった。父の言葉は溜まり水の底にある青みどろのように、ぷかりぷかりと浮かび上がっては、いかにこの家が腐っているかを知らせるようだった。
私が無言で台所に顔を向けていると、ユウビが奇妙なうめき声を漏らした。かと思うと、それは呼吸困難によるひきつりのように咽喉を震わせ、鼻血を手の甲で横殴りに拭い、げらげら笑い出した。私はユウビが発狂したと思った。
ユウビはふらつく足で立ち上がり、それを支えようとする岡田さんをはねのけて、
「そうよね。私はもういらないのよね。男を作って遊び歩くような娘はいらないのよね。いいわ、私、出て行くわ。期待ならせいぜいソウメイに叶えてもらえばいい。お父さんのお気に入りの、いい子ちゃんのソウメイに!」
と喚いた。
岡田さんはまたしても二人の間に立ちはだかり、
「ユウさん、お部屋へ行きましょう。先生、ユウさんは今興奮してるんです。許してあげてください」
「……」
「ソウさんもお部屋へ」
岡田さんはすでにユウビを抱えるようにして食堂から連れ出そうとしていた。
ユウビは引き摺られるようにして食堂を出る時、今一度振り向き、父に向かって怒鳴った。
「くたばっちまえ!!」
二人が二階へあがると私は父と取り残されたことに猛烈な恐怖を感じ、無意識に心臓を押えた。
世界の果てへ来てしまったような静けさが満ちて、言葉はすべて砂にかえるようだった。世界の終わりがきたら、きっとこんな風に殺伐としていて静かなのだろうと漠然と思う。
私はいたたまれなくて、のろのろと床に落ちた急須や湯のみの欠片を拾おうとかがみこんだ。すると、父が、
「放っておきなさい。早く着替えて支度をしなさい」
と言った。
「……はい」
私は小さく返事を返した。
返事をするより他にどうしたらいいのか、もう分からなかった。父はため息をつき食堂を後にした。
私はすぐには立ち上がることができず、そっと床を染めているユウビの血を指でなぞった。ユウビの血でありながら、私のものでもある血を。
二階の私の部屋で、目覚まし時計が鳴っているのが微かに聞こえる。終末のラッパが鳴っている。鳴らしたのは、私。
血のついた手を固く握りしめ、立ち上がる。あれほど願ったこの世界の終幕がこんなにも簡単に訪れるなんて。私は二階へ行き目ましを止めて仕度を始め、静かに家を出て行った。
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